「留年しませんか?」
 いきなりむせかえる祐一。
 鼻から垂れたパスタが少しお茶目かなと栞は思った。
「……祐一さん、汚いです。」
「栞が変な事言うからだ……」
 時折苦しそうに咳を繰り返す祐一の姿に、栞は昔の自分の姿を見た。
「祐一さんと机を並べて授業を聞く、ということに憧れたりするわけで……」
「相沢君…栞の馬鹿話につき合う必要はないからね。」
 初秋の陽射しに包まれた中庭で、3段重ねのお重を囲んで昼食を取る。こんな平和な日々がやってくるとは誰も思っていなかった。
「大丈夫です、祐一さん。留年なんてプロフィールです、プロフィール。(笑)」
「そりゃ、アンタは病気療養って言い訳があるけど……」
 香里はちらりと祐一を見た。
「まともに留年するような出来の悪い弟は欲しくないわね…」
「誰が弟だ、誰が…」
「えっ?」
 栞の手に持っていた箸が、ぽとりと落ちる。
「祐一さん…私のこと嫌いになったんですか?」
「性質悪いな、お前ら姉妹は…」
「私、お姉ちゃんほどじゃないです。」
「私も、栞ほど悪くはないつもりだけど…」
 祐一は箸を拾うと、静かに立ち上がった。
「栞、これ洗ってきてやる。」
「あ、祐一さん……」
 祐一の姿が校舎の中に消えた。
 香里はため息をついて、栞の方を見た。
「栞、アンタどんどん欲張りになっていくわね…」
「…いけないかな?」
「ほどほどにしときなさい。相沢君…馬鹿みたいに優しいからね。」
「うん、知ってる。」
 栞がごろんと芝生の上に寝ころんだ。
 食べても食べても一向に減る気配のない重箱を見てため息をつきながら、香里はやんわりととげを刺した。
「制服、汚れるわよ。」
「汚れたら洗えばいいんだもん……」
「…それもそうね。」
 香里は箸を置いて、栞の隣に寝ころんだ。
 そうして見上げた真っ青な空は、手が届きそうで、なんだか怖いぐらいだった。
「うおっ、何してるんだ二人とも?」
「祐一さんもどうですか?気持ちいいですよ…」
「悪いな、俺は横になると3秒で眠ってしまう体質なんだ。」
 そして重箱に手を伸ばす祐一。
「健啖家ねえ……」
「健啖家?」
「大食家ってことだ…。」
 香里が説明するよりも早く、祐一が答えた。
「嘘です…祐一さん、私のお弁当全部食べてくれませんでした。」
「栞、アンタ太った相沢君の姿見たいの?」
「……ちょっと興味あるかも。」
 香里はごくさりげないため息をつき、目を閉じた。
 こんな場所で寝ころんだら日焼けしてしまうのだが、どうでも良くなったのである。シミ・そばかすの原因になろうが知った事ではない。
 平和な日々だった。
 悲しいぐらいに平和な日々だ。
 悲しいぐらいに残酷で、かけがえのない日常はいつまで続くのだろう。
 香里は薄目を開けて、二人の様子をのぞき見た。
 栞が笑っていた。
 香里は再び目を閉じた。
 あの二人の強さが、うらやましいと思いながら。
 
「治ったわけじゃないんです……ただ、奇跡的に症状がおさまっただけで。」
「いいよ…栞がここにいるから。」
 腕の中に抱きしめた、華奢な頭蓋骨の感触が愛おしい。遠慮がちに背中にまわされた腕にきゅっと力が入った。
 一度は永遠の別離を覚悟したのである。
 それを思えば、充分だった。
 いつ再発するか分からない時限爆弾を抱えていたとしても、平和な日常はやってくる。
 中庭で、他人の視線を感じながら二人は泣いた。
 その涙の意味を理解できた生徒は、おそらく1人もいなかっただろう。それは多分、姉の香里ですらも……
「私って、結構幸せだと思うんです…」
「そうだな…」
「毎日を、懸命に生きられるって…ちょっとした奇跡ですよね。」
「そうだな…」
「祐一さん、『そうだな…』しか言ってくれないんですか?」
「そうだな…」
 栞を抱きしめる腕に、力がこもった。
「祐一さん…苦しいです。」
「ゴメン…でも…。」
「いいです…放さなくて。」
 栞の腕にも力がこもる。
「私も…放すつもりありませんから。」
「そうだな…」
 
 あれは春のこと。
 春の日溜まりがうんだ、あたたかな奇跡は今も生きていた。
 
「お姉ちゃん、もう食べないの?」
「無茶言わないでよ…」
 ぽかぽかとした心地よい感覚を無造作に脱ぎ捨て、香里は身体を起こした。
「大体、そんなに作る必要はないでしょ?」
「いろいろ食べて欲しかったし…」
「名雪と北川を呼ぶか?」
「あの二人なら、もう食堂で食べてるわよ…」
 お重の中身は、まだ半分近く残っている。
 そのほとんどは祐一が食べたものだった。
「1人頭お重1箱という考えはどこからきたの?しかも、アンタはほとんど食べないし……」
「だって太ったら祐一さんに嫌われます。」
 香里はもう一度寝ころんだ。
 そして背中を向ける。
「私、寝るから……予鈴が鳴っても起きなかったら起こして…」
「了解。」
 
「アイスクリームの美味しい季節になってきましたね…」
「多分違うぞ、それは。」
 すっかり葉が落ちて殺風景になった中庭で、祐一は栞の薄い胸に突っ込んだ。
「あっ、祐一さんのえっち。」
 ほんのりと頬を染め、恥ずかしそうに俯く栞。
 しかし、祐一はそれを気にした風もなく、空を見上げて訊いた。
「アイス好きだな、栞。」
「好きなことは好きなんですけど……多分祐一さんは誤解してます。」
「何を…?」
「祐一さんと最初に出会った頃…私、固形物がほとんど喉を通らなかったんです。」
「ああ、それでか…」
「それでなんです…。」
 栞がスプーンを口に運んだ。
「夏のアイスって…もたもたしてると溶けちゃうじゃないですか。」
「……冬なら、じっくりと味わえると言うことか?」
「だから、アイスは冬に限ります。」
 うんうんと1人頷く栞。
 ツンと肌を刺す冷気が冬の到来を告げていた。
「そっか、もうすぐ一年か…」
「一年ですね…。」
 栞はまた一口アイスをすくい、ぽつりと呟いた。
「私、奇跡って一瞬のきらめきみたいなものだと思ってました…。」
「別に再発すると決まったわけでもないんだろ。」
「検査の結果も良好なんですけどね…」
 栞は白い歯を見せて笑った。
「やっぱり一年…っていう区切りは正直なところ怖いです……怖いですよ。」
 そしてまたアイスをひとすくい。
 祐一は澄んで高い空を見上げた。
「がんばれ…」
「祐一さん、それって何か無責任です…」
「いいから、がんばれ…」
「……はい。」
 祐一は、こくんと頷いた栞の頭を撫でてやった。
「以前も言いましたが、祐一さんは優しい人ですよね…」
「自分に正直なだけだと、言っただろうが…」
「私、祐一さんに随分救われてるんですけど、祐一さんは私に救われてますか?」
「ああ、足をすくわれっぱなしだ。」
「そんなこという人、嫌いです。」
 栞は恥ずかしそうに俯き、囁くような小声で呟いた。
「…嘘です。」
「ああ、栞は嘘つきだからな…」
「祐一さんなんか、意地悪です。」
 ひとひらの雪が二人の目の前をよぎっていく。
 初雪だった。
「そう言えば…私と祐一さんって、もう結婚できる年齢なんですよね。」
 せき込む祐一。
「まだ、早いだろその発想は…」
「学生結婚ってちょっと憧れたりしませんか?」
「せめて俺が大学を卒業して、就職してからにしてくれ…」
「楽しみです…」
 屈託のない笑顔を見せ、栞は笑った。
 
 あたたかな奇跡がその日まで続くことを信じて…
 
 
                      完
 
 
 昔、知人と作るはずだった同人誌ネタ。(笑)
 ここのゲームは、一体何の病気だったのか?と言うのが多いですな。知人と相談した所では、血友病が最も可能性が高そうなことを言ってましたが。
 そういや、このゲームが出てからもう2年が経つんですね。

前のページに戻る