ぱたぱたと廊下を走る足音。
 母は慌てたように台所から顔を出して声をかけた。
「美汐。あんまり遠くまで行っちゃダメよ。」
「はーい!」
 少し遅れて玄関のドアが閉まる音。
 少女は母の非難めいた言葉を風に吹き流し、そのまま街外れに向かって一目散に駆けた。
 元気で、感受性の豊かな子供にとっての一番遊び場は、自然そのものだ。街の中に美汐の興味を引く対象はあまりない。
 風の吹き渡るような笑顔を浮かべ、美汐は人ごみをぬうようにして『ものみのおか』へ。やがて少女の視界がぱあっと明るく開けた。
 幼い少女の腰の高さぐらいまである一面の草原。
 少女の父がこの草原の名前を教えてくれた。
 『ものみのおか』…その名前は、外敵の侵入を監視するようなものものしい印象がある。しかし、この丘にはそんなイメージは無縁だった。
 ここは風の通り道。いつでも風が吹いている。
 風にあおられた草のうねりは、まるで波のようだった。両親と行った海水浴で一度だけ見た海がそこにある。それは美汐の心をがっちりを掴んで離さなかった。
 草の葉のこすれる音は波の音。
 それは遠く、近くなり、まるで子守歌のように少女を眠りへと誘う。美汐は母に抱かれるようにして草のベッドに身を横たえるのが大好きだった。
 
 …遠い記憶。
 美汐は、天井を見ながらゆっくりと上体を起こした。
 今さらどうしてこんな昔の夢を見たのか。
 敢えて口にしなくても美汐にはわかっている。昨日見た少女に違いない。校門の側で、そわそわと誰かと待つ少女。
 ……あの丘には、今もあの子たちの中間が生きているのだ。
 悲しみの連鎖は、その名の通り続いていく。
 美汐はゆっくりと目を閉じた。
 彼女は昔、あの丘で二回落とし物を拾った。たったそれだけのこと……それだけのことなのに、彼女はその代償として何かをなくした。
 その少女は、次の日も校門に現れた。
 美汐は、周りを見渡した。廊下の窓から困ったようにその少女を見ている少年がすぐ側にいた。
「あの子と…お知り合いなんでしょうか?」
 突然声をかけられ、少し驚いたように美汐を振り返った少年。少年の制服から二年生であることが分かった。
 無論当てずっぽうで声をかけたわけではない。
 理由は説明できない……が、美汐にはわかった。
 その昔、先生が美汐のことを一目でわかったように……。美汐の知識は、すべてあの先生から教えて貰った。
 定年間際の、暗い笑顔が印象的な、おとなしい先生だった。
 少年が振り返った瞬間、昔あの先生が自分に同じように話しかけてきたのを思い出して美汐は暗い気持ちになった。多分、自分もあんな表情で先生のことを見たのだろうと思う。
 美汐は、心の中で微かに身震いしたものの存在を感じ取った。
 果てしのない連鎖の中に、自分が取り込まれてしまったような感覚。
「……いい子そうですね。」
 不吉な感覚を振り払うように、美汐は微かに微笑んだ。口元だけの、控えめに過ぎる笑顔。あの日以来、それ以上に美汐は笑えない。
「ああ、ちょっと不器用だけどな。」
 少年の言葉に遠い記憶が蘇る。
 時間的に遠いわけではなく、心の距離の問題だった。
 その夜、美汐はまた昔の夢を見た。
 
 美汐は一人っ子である。
 美汐が小学生の時、母が妊娠した。大きくなった母のお腹に耳を当てるのが好きだった。病院からの帰り道、母は『美汐、あなたに弟が出来るわよ。』と聞いて喜んだ数日後、弟は流れてしまった。あの頃の美汐には、わけが分からないことだらけだった。
 ただ、母は子供を産めない身体になったと言うことだけは父が教えてくれた。
 産まれてこなかった弟の名前はもう決まっていたのに……。
 あの丘で、美汐が初めて落とし物を拾ったのはその頃だった。
 それから数年後、私はあの丘で男の子を拾った。私より年下に見えた男の子はほとんどの記憶を失っており、1つだけ覚えていたことと言えば自分の名前だけ。
 男の子の名前は天野卓美(たくみ)…。
 その時、美汐は母が涙を流したのを初めてみた。
 
『あの子…あの子は、天野さんのお知り合いですか?』
 いつも穏やかな声で話す先生の声が微かに震えていたように思う。
 あの時の先生の気持ちが少し分かる位には歳をとったと美汐は思っていた。子供だった自分は、大人なら受け止めがたいであろう事実をすんなりと受け止め、そして夢の終わりに伴う衝撃を受け止めきれなかった。
 あの時受け止めきれなかった衝撃が、今も自分の心の深い部分を苦しめ続けている。私にはこれ以上の重荷には耐えきれない。だからこう言ったのだ。
「これ以上私を巻き込まないでください!」
 昔、先生を巻き込んだ自分が、今こんな事を言ってしまうのがとても嫌だった。
「…失礼します。」
 不意に、本当に唐突な思いが美汐の心に浮かんだ。
 あの先生に会いたい。
 私が小学校を卒業すると同時に定年を迎えたはずだが、あの人は多分この街を離れることはないような気がした。
 全てを悟ったかのような穏やかな笑顔。
 それでいて、どこかくらい雰囲気を漂わせていた先生は、生徒達に慕われていたというわけでもない。ただ、不思議な雰囲気を持つ先生としてみんなに認識されていた。
 そう言えば、どことなく相沢先輩は先生に似ているかもしれないと美汐は思った。
 ものみの丘。
 あの頃、先生はその近くに住んでいた。多分今も…
 記憶を頼りに美汐は歩き出した。
 
「……大きくなりましたね、天野さん。」
 づやら、一目で美汐を思いだしたようである。穏やかな笑顔に優しい声。それでいてどことなく悲しみを含んだ呟き。
 先生…ではなく、1人の老人がそこにいた。
 しかし、何を話せばいいのか分からない。
 美汐は、ただ一言だけ呟いた。
「また、現れました…」
 老人の視線が、ものみの丘に向けられた。夢見るような、微かに微笑んだ口元から言葉が紡ぎ出される。
「……そうか、あの子達はまだこの丘に生きてるんだね…。」
 その一言が2人の間から時間の壁を取り払った。
 その後、美汐はいろんな事を教えて貰った。老人がこの街にかじりつくようにして、いろんな文献や史書から多くの知識を得てたてた仮説。間違ってるかもしれないが少なくとも何人かは信じてくれるに違いない。同じ夢を見た人達なら。
「……先生は強いですね。」
 ぽつりともらした美汐の呟きに元・先生であった老人は首を静かに振った。
「私は、弱いよ。そしてあの子達の思いを踏みにじった卑怯者でもある。」
 自嘲的な含みのある言葉と哀しげな表情。老人が笑顔以外の表情を見せるのを美汐は初めて見たように思う。
「私は、死んだ婚約者に会いたいばかりにあの子達を利用したんだ…。一回目は偶然だった……しかし、二回目は…」
 美汐はそはじかれたように顔を上げた。
 目の前の老人が何故こんなにもこの街に、いや、この丘に執着した理由の一端を知ったような気がした。
「……3度目はなかったよ。今は、あの子達…子孫と言うのかな?…それが生きているならそれでいいと思ってる……。」
 穏やかな微笑みだった。
 優しい口調だった。
 それだけに、老人の心の悲しみが尋常ではないことが美汐にはわかった。
 もちろん、初めてではなかっただろう。それでも悲しみに慣れるわけはない。美汐が昔巻き込んだのはそんな人だったのだ。
「あの子達は、打算にまみれた人間の前に姿を現したりはしません……私は、そう思います。」
 美汐の言葉に老人は目を閉じた。
「君は……優しいねえ…。」
「そんなこと……ないですよ。」
 美汐は手のひらが白くなるほどきつく握りしめ、首を振った。
 自分は優しくはない。
 私は自分のことしか考えていないのだから……。
 
「お姉ちゃんは優しいから大好きだよ……。」
 遠い言葉。
 ここ2日連続して学校を休んだ少年の家の前にやってきたとき、美汐はその声を聞いたような気がした。
 予感があった。
 やがて、ドアを開いて出てきた少年は美汐を見て驚いた様子を見せた。そして白い歯を見せてにやりと笑った。
「サボリか?お互いできが悪いな…。」
「この機会を見逃すほうが人としては、不出来でしょう……。」
 子供の頃の自分とは違って、少年は何ら取り乱すこともなく笑った。
 その穏やかな微笑みに美汐ははっとする。夢が終わる前にこの強さを手に入れることができた少年を羨ましく思った。
 美汐と少年、そして真琴の3人はゆっくりと学校へと向かった。
 冬にしては穏やかで、優しい風が吹いている。
 
 肌を刺すような冷たい風は雪と共に吹き抜けていった。
 草木の匂いを含んだやわらかな風が、丘の上を撫でるようにして通りすぎていく。
 風の止むことのない丘。
 この丘にすむ生き物は死ぬと風になるという。この風の吹いている限り、あの子達の子孫はこの丘で風に守られ走り回るに違いない。
 そんな思いに捕らわれていた美汐の足下に、じゃれつくようなつむじ風がおこった。
「卓美?」
 無意識に美汐がそう呟くと、スカートの裾を軽く浮き上がらせるようにして、名残惜しそうに美汐から離れていった。
「珍しいところで会うな…」
 声をかけられ、美汐は初めて背後の気配に気がついた。
「相沢さんと私にとってはそう珍しいところでもないでしょう。私も、6年ぐらい前までは毎日のようにここで遊んでましたから・・。」
 草を踏む足音に美汐は振り返りもせずにそう答えた。
 抜けるような青い空の所々に白い雲が浮かんでいる。
 やがて、足音は美汐の隣まで近づいて止まった。
「約束は守ってくれているようですね…。」
「どうかな……あんまり自信が無いんだが…」
 少年がそう呟くのを聞いて、美汐はそちらを振り返って軽く首を振った。
「充分ですよそれで……。」
 ざざあっ……
 急な突風に、祐一の身体が前につんのめりそうになる。必死に体のバランスを取ろうとする少年を見て、美汐は……声をあげて笑った。
「どうやら、真琴は嫉妬深い性格のようですね…。」
 状況ののみこめていない少年は、美汐の表情に驚いたように、ただ不思議そうに眺めていた。
 
 
 
 
 天野のエンディング、エピソードもないのか。(笑)
 そんな時こそ同人魂が燃え上がる……というわけでこれ。(笑)
 真琴と関わり合うことを極端に恐れた天野の豊かな知識がちと不可解だったので、それを補完するように考えたつもりですが……どうでしょう?
 主人公が関わった狐と、天野が関わった狐ってのは考えてみれば、1・2年のずれはあるでしょうけどほぼ同時期である可能性が高いですよね。ひょっとするとつがいだったのかも?(笑)
 あまりに長生きしすぎた狐たちは、寂しいと言うよりも、『死』そのものを望んで街に下りてきたのかもしれませんね?
 とか、同人誌作ろうと思っていた頃に考えていたんですが、我ながら独りよがりすぎ。(笑)
 いろんな物語(特に童話の…とか)が連想できる、いい題材だけにいろいろと書いてみたかったのですが、吹き抜ける風のような短めの文章にしておきました。

前のページに戻る