雪。
 飽きることなく舞い落ち、積もり始めていた。
 白く閉ざされた世界の中で、人は皆思い思いの夢を描き出す。
 雪が溶けるその時まで……。
 
 放課後を告げるチャイムの音と同時に、部活や遊び、帰宅といっためいめいの目的のためにみんな教室を出ていく。
 ダラダラと教室に居残るのは、何の目的もない生徒か、はたまた…
 パタパタパタ……
 ほうきと雑巾を持ったまま、名雪は祐一の後ろ姿をちらっと見た。何やら言いたいことがあるのだが、それを口に出すのをはばかっている様子が見受けられる。
 香里は小さくため息をつき、名雪に話しかけた。
「何してるの?」
「……ん、祐一はほうきと雑巾のどちらが好きかな、と思って…。」
「どっちも嫌いなんじゃないかしら…?」
「……当番だから、仕方ないんだけどね…」
 困ったように俯く名雪に、香里は適当に頷いた。
 教室の窓から、ただ雪が降るのを見つめている祐一に話しかけるのは、なるほど骨が折れることだろうと思ったからだ。
 それに、香里はそれほど無神経な友人を持った記憶はない。
「貸して…」
 名雪の手からほうきを取ると、香里は黙って教室の床を掃き始めた。
「わ、今日は香里の当番の日じゃないよ…」
 名雪が手からほうきを奪おうとしたが、香里の手がそれを遮った。
 あたふたと雑巾を持った手を振る名雪に向かって、自分でも奇妙に思えるほど感情の欠落した声で言った。
「気にしないで。多分、しばらくすると私の当番を代わって貰うことになるから。」
「……祐一に?」
「ええ、そのつもり…」
 名雪はその言葉の意味を理解できないまま、曖昧に頷いた。
 掃除が終わり、教室から人の気配が消える頃、ずっと降り続くかと思われた雪が止み、鉛色の雲の塊がひび割れた隙間から赤い光が差した。
 柔らかい赤色が、白い世界を染めていく。
 かりそめの夕焼け色に染められた教室の中で、祐一はぽつんと窓の外に視線を向けていた。ただ、その瞳に何が映っているかどうかは定かではない。
「……帰らないの?」
「あまり帰りたくはないな……。」
 力無い少年の呟きに、香里はふふっ、と自嘲的な笑みを浮かべた。
「そういうわけにはいかないでしょ?」
 祐一は、初めて香里の存在に気が付いたように振り返った。
 哀しげな美しさ。夕陽が一日の最後の光を結集して燃える陰のある華やかさが香里の顔に投影されている。祐一はしばらく言葉を失った。
 二人とも何も話さない。
 こういう状態での我慢比べでは、大概心が弱い方が先に口を開く。
 祐一は教室の床に視線を落とし、ぽそりと呟いた。
「……香里はさ、もし自分の知っている人が死ぬとわかったらどうする?」
 香里の瞳に濃く暗い陰が落ちた。
 祐一の視線は床を見つめたまま動かない。
「……避けられないの?」
「ああ、そうだな……」
 香里は、数秒の間をおいて慎重に言葉を選んだ。だが、その口調はどこか投げやりで、硬質の鎧に覆われていた
「……その人と知り合わなければいいんじゃない?」
 氷のように硬い口調。
 それでいて氷の下から伝わってくる熱量は隠しようもない。祐一は声をたてずに笑った。
「そうか、いいかもしれないな…」
 祐一は再び窓の外に視線を向けた。
 香里は無意識にその視線を追いかける。そこには、誰もいない校門があるだけだった。
「……そういえば最近、あの子…迎えにこないのね?」
 1・2度見かけたことのあるポニーテールの少女。
 しょぼんとうなだれたように校門に立ち、祐一がやってくると途端に元気になる幼い少女。
「……あの子って誰だ?」
 決められた台本を読むような平板な口調と、白くなるほどに握りしめられた祐一の手を見て、香里は胸のあたりに軽い痛みを覚えた。同時に、昔自分の妹であった少女の顔を思い出す。
「…今日掃除当番代わってあげたから……今度埋め合わせしてね。」
 香里はそう呟いて祐一に背を向けた。
 教室のドアに手をかけた瞬間、香里の耳に注意してないと聞こえないぐらいの小さな声が飛び込んできた。
「変な質問してすまん…。」
 親友である名雪にも知らせていないが、祐一は自分の妹のことを知っているのかもしれないと思った。
「別に…気にしてないわ。じゃあね。」
 おそらく、彼は自分よりも先に河を渡ってしまったのだろうと香里は思った。
 ……そして次は、自分の番。
 
 次の誕生日まで生きられない。
 誰も栞に伝えられなかったことを香里が伝えた。いよいよ危ない状態へと陥った栞が、自分に会いたいという希望を告げたときは何かの間違いだろうと思った。
 会わざるを得なかった。
 凍てつかせたはずの感情があっさりと溶け、香里は栞の手を握って泣いた。
 栞は雪のように白い手を伸ばして、香里の髪の毛を撫でながら微笑んだ。
「お姉ちゃん…私、まだ生きてるよ。…お姉ちゃんてば、嘘つきだね。」
 それが栞とかわした最後の会話であった。
 誕生日を過ぎて3日。自らに残されたエネルギーを、ただ薄くひきのばしただけのような栞の抵抗は静かに幕を閉じた。
 あのような苦い一生を笑って逝った栞。
 最後まで優しく、馬鹿で、それ故に哀しさだけが香里の胸に去来した。
 その日も雪が降っており、病院の屋上から見える景色は、白一色の世界だった。上を見上げれば空一面の鉛色。白い雪を吐き出すたびに、空はどんどんと黒く濁っていくような気がした。
 舞い落ちる雪を手のひらですくうと、すぐに溶けて液体になり、流れていった。何故か無性に腹ただしくなり、手のひらに残った水を空に向かって投げ返した。
「あの子は……何のために生まれてきたの?」
 空は何も答えず、香里の顔を白く化粧していくだけであった。
 
 この季節、雪の舞い落ちる中庭に出てくる人間はほとんどいない。
 もちろん、雪が溶けたとしてもそれを望んだ妹は帰ってはこないのだが……
 ざくざくざく…
 無遠慮に雪を踏み砕く足音が近づいてきた。
「香里、ちゃんと飯食ってるのか?」
「その言葉そのまま返すわ…。」
 香里はゆっくりと祐一の方を振り返った。
 薄く頬肉のそげた祐一が微かに笑っていた。ただ、目だけは笑うことが出来ていない。よく言えば、少し精悍さが増したようにも見えた。
「名雪と秋子さんがいるからな……香里も一度食べに来てみろよ。」
「………遠慮しとくわ。」
「知ってるだろうけど、秋子さんの料理は絶品だぞ。」
「…だったら、尚更もったいない事はしたくないもの。」
 香里は興味なさそうに呟いて、再び空を見上げた。
 名雪に無理矢理食べさせられた昼食を、中庭で吐く祐一のようにならないとも限らない。
「前に訊かれたけど…」
「ん?」
「相沢君は…自分の知ってる人がもうすぐ死ぬってわかったらどうするの?」
 今度も、ストレートに『死』という言葉を使った。
 香里の視界の隅に映る祐一の顔は穏やかで…それでいて、全てを投げ出さずに痛みを受け止め続けている様な…そんな気がした。
「そうだな、望まれる限り……いや、出来る限り一緒にいてやりたいな。」
「そう、強いのね……。」
 傷をなめあうでもなく、えぐりあうでもない奇妙な連帯感を覚えて、香里はぐっと顔を上げた。
 雪がひどくなってきている。日中だというのに気温がほとんど上がっていないせいか、香里が無意識にすくった雪は手のひらの上でその形状を維持し続けている。
「……奇跡って信じる?」
「信じてるよ…今も。」
 祐一は一旦言葉を切って、あらぬ方角に視線を向けた。
 その方角の町はずれに、小高い丘があったことを香里は思い出す。
「たとえ、悲しみを与える奇跡だとしても……何もないよりはずっとましだろ。」
「想い出に変わるまでか……らしくないこと言ってるわね。」
 やがて香里の手のひらの雪が溶けると、ゆっくりと傾けられた手のひらから名残惜しそうに半液体の雪がこぼれ落ちていった。
「相沢君は栞に会ったことがあったよね……?」
 祐一の顔に微かな納得の表情が浮かぶ。
「……やっぱり、妹か?」
 一度は否定した問いかけ。
 重苦しい沈黙の後、香里はゆっくりと頷いた。
 鼻の奥がつんとする。涙を流すときの前兆のはずだが、泣けなかった。そんな自分を自覚すると同時に、膝の力がかくんとぬけた。白い景色の中に倒れてしまいそうだった香里の身体を、祐一は軽く抱き止める。
 嫌がる素振りも見せずに、冷えた額を祐一の胸元に押しつけて香里が呟く。
「私の身体って冷たいでしょ……?」
「……今日は寒いからな…。」
 2人が再び口を開こうとした瞬間、予鈴の音が鳴った。
 
 ごとっ。ごとっ。
 名雪と北川がそれぞれ香里と祐一の机の上に重箱を積み上げた。祐一は眉1つ動かさずに、その重箱を北川に押し返す。
「悪いな……お前の気持ちは受けとれない。」
「誤解を招く表現はよせ。」
 北川に呆れたように視線を向け、香里は名雪に問いかけた。
「何これ?」
「お母さんがお弁当作ってくれたの。みんなで食べなさいって。」
「……ふーん、そうなの。」
 申し訳程度に重箱をつつく2人に対して、ただ1人旺盛な食欲をみせていた北川が言った。
「美坂、それ以上やせるつもりか?」
「ギネスに挑戦するのよ…。」
 名雪がちらりと祐一の方を見た。
「祐一は食べないの?」
「……俺は、名雪よりやせてみようかと思ってる。」
 それを聞いて、香里がちらりと横目で祐一を見た。
「相沢君、名雪の体重知ってるの?」
「名雪は寝ぼけてると何でも教えてくれるからな…。」
「祐一に教えた記憶なんてないよ!」
 少々顔を赤らめながら名雪が弁明しようとするが、祐一は北川と香里の耳元に向かってぼそぼそと聞こえよがしに呟き始めた。
「名雪の3サイズは上から…2、…8、8…なんだ。」
「わっわっ、ちょっと祐一!」
 
 放課後、香里がちょっとした用事を済ませて教室に戻ってみると、顔を赤く腫らした祐一が弁当の残りをつついていた。
「……相沢君、何してるの?」
「名雪が、『食べ終わるまで帰ってくるな』って…。」
 祐一は、赤くなった頬を指先でなぞり、顔をしかめた。
「……少し、手伝うわ。」
「悪いな。」
 祐一が差し出した箸を受け取り、香里は祐一の向かい合わせに腰掛けた。
 もくもくと食べ続ける2人。
 授業中はガンガンとうるさい暖房の止まった教室は、ただ静かだった。そんな中、ふいに香里が箸を置いて顔を上げた。
「相沢君…この街のこと好き?」
 祐一は香里の顔を見つめ、そして口の中の食べ物をのみ込んだ。
「……よく分からん。」
「それもそうね、相沢君がこの街に来てからまだ2ヶ月も経ってないし。」
 名雪の話で、祐一が子供の頃休みの度にこの街に来ていた事は知っている。それでも、旅行で来るのと実際に住むのとでは全然違うはずだった。
「でも、ここを離れると…たまらなく寂しくなるような気はする。いろんな事がありすぎたから…」
「そう…ね。」
 香里は窓の外に視線を向けた。
 この街の冬は、びっくりするほど突然終わりを告げる。昨日まで雪が降っていたのに、突然ぽかぽかと暖かい春の陽差しが訪れ、そのまま雪が降らなくなる。
 この街で長年過ごした経験から、香里は春がすぐそこまで来ていることを感じていた。
「強いのね。」
「……強がりだよ。」
 祐一がそう言いながら最後に1つ残った唐揚げを口の中に放り込んだ。
「相沢君はこの街の春は見たことないのよね…?」
「ああ…夏休みと冬休みにしか来なかったからな…」
 窓の外を向いたまま、香里は目を伏せるようにして言葉を続けた。普段ぱっちりと開かれた目を伏せると、香里の表情はどこか遠くを見るような、余人の立ち入ることの出来ない雰囲気を醸し出す。
「雪の溶け始めって本当に汚いのよ……でも、しばらくすると綺麗なものが見えてくるわ。そうしてみんなが呟くの……春が来たんだなあって。」
 祐一も香里の視線につられるようにして窓の外に目をやった。
 白い景色の上を夕焼けの赤がはしっている。夕焼けの赤はやがて深い海の色になるのだろうが、雪景色には赤い夕焼けが不思議と似合っている様に香里は思った。
 やがて二人は黙り込み、それぞれの脳裏に思い描く光景の中を歩き出す。
 香里の意識はみどりと生徒達の喧噪に包まれた中庭を、祐一の意識は7年前訪れた見渡す限りの草原の丘を。
「祐一、食べ終わったの?」
 明るい名雪の声が2人の意識を教室内へと引き戻した。
 どこかぼんやりとした表情の2人を見て、名雪は首を傾げた。しかし、空っぽになった重箱をのぞき込むと、香里と祐一の頭を交互に撫でた。
「じゃあ、一緒に帰ろうか?」
 明るい名雪の声に引っ張られるように、2人は立ち上がる。
 だが、決して不快ではない。
 
「今日も寒いねー。」
 校門に向かいながら、名雪が言わずもがなのことを口に出す。多分、気を遣っているのだろうと香里は思った。
 それでいて、祐一の手を放そうとしないのが名雪らしいと言えば名雪らしかった。
 香里は口元に笑みを浮かべ、周りを見回した。
 ゆっくりと、だが確実に雪解けは始まっているようだった。雪解けと共に、心の中に閉じこめてしまった思いを冷静に眺められるようになると再び春が来る。
 香里の前方で、名雪が祐一に対して話しかけている。
「祐一、この雪みたいに落ちてすぐに溶けちゃう雪のことは涙雪って言うんだよ。」
「雪…?」
 香里は空を見上げた。
 雲1つない空。
 どこからか風にながされてきたのだろう、申し訳程度の白い雪が舞っていた。もちろん大した雪ではなく、地面に落ちてすぐ溶けてゆく涙雪だ。
 割に大きな雪の一粒が香里の頬に落ちた。
 未練気にへばりついたそれが、温かい液体によって押し流されていく。香里は自分が涙を流したのはいつのことだったのか思い出そうとして首を振った。
 
 
 
 
 香里のエンディングがない!
 おっかしーな…?などと思った人は多いでしょう。(笑)加えて言うなら、天野のエンディング(もしくはサブストーリー)がなかったことも残念でした。佐由理さんのそれっぽいお話はあるのにね。(笑)
 しかし、嘆く事なかれ!
 同人魂のあるところ、見えないシナリオも開けて見えるってモノです。(笑)と言っても、作品そのものを無視したようなのはちょっとあれですけどね。
 知人曰く、私のお話はそういう傾向が強いとか。(笑)

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