書物で読んだ大陸の大河には遠く及ばないであろうが、まあそれなりにゆったりとした川の流れを見つめていると心が安らかになる。
 ………いや、安らかになるはずなのだが。
「まったく、次から次へとこのような田舎を転々と……」
「何をぶつぶつと……みやこで心荒む思いをするよりも、このようなのどかな場所で心安らかに暮らすのが一番であろう」
「希子(きし)様はそれでよいかもしれませんが、つき合わされる私の身にもなって下さい……」
 ……雲1つなく気持ちよく晴れた空の下だというのに、なんともじめじめしたやつよの……
「ふむ……そう思って女房や下仕えの大半はみやこに置いてきたではないか?」
 わらわぐらいのいわゆるやんごとなき家柄の娘であれば、女房、童、下仕えの者を含めて数十人程度の一行となるはずだというのに、苑を含めて6人……なんとも慎ましやかな一行である事よ。
「……そうですか、そう思ってはいたんですね」
「……他人にあれこれ世話を焼かれて、一人前の人間といえようか?」
「ご自分が一人前であるかのような口をきかないでくださいまし……それに、私を除けば妙に年寄りが多いのは…」
 なおも言い募ろうとする苑を手で制してから呟く。
「……多少、気が咎めての」
「……?」
「苑(その)、ひいておるぞ」
「えっ?あっ、えいっ!」
 当然あると思った手応えがなく、竿を力任せにあげた苑が見事にひっくり返った。
「……無様よの」
 それを聞いて、苑はため息をついた。
「さる高貴な姫君に仕えると決まってから、私は性にもあわぬ文や歌に励んだのでございますが……無駄でございました」
「……性に合わぬと言う割には、才女と誉れ高かったようだが」
「稟(ひん)性があったのでございましょう」
 ぬけぬけとすました顔で言い放つ苑。
 武技に優れ、顔色1つ変えずに盗賊を斬りふせるというのに……魚の餌の芋虫やらみみずを見て顔色を変えるのはどういうことなのか。
 相変わらずぶつぶつと不満を垂れ流している苑を無視して、川面に浮かぶ印を見つめた。これはわらわが考えたもので、木片の片側に色を付け、糸が引っ張られるとその木片が回転するようにしてある。
「大体……ここで本当に魚が捕れるのですか?」
 その瞬間、木片が回転した。
「ほら、この通り……お、重い。」
「……ここらでは何が捕れるのでしょう?」
 重いことは重いのだが……ひきがない。竿を痛めぬようにゆっくりと引っ張ると黒い塊がこちらのほうに近づいてきた。
「………珍しいものがかかったな……」
「私、あのように大きな魚など見たことが……?」
 その黒い塊が何か、苑にも確認できたのであろう。何やら物言いたげにわらわの顔を見つめている。
「苑、手伝え……わらわ1人では持ちあげられぬ……」
「き、希子様!……死人の様でございますが?」
「わらわが怖いのは生きた人だ……死んだ人に何ができる。それに外道とは言えこのような大物は初めてであるから一応確認……おや、……生きておるな?」
 つまらん、と興味を失って放しかけた手を、苑ががしいぃっとひっつかむ。
「希子様!……今手を放そうとしてませんでしたか?」
「苑、目でも悪くなったか?わらわがそのようななさけなき事するわけが無かろう」
 などと軽口を叩きながら、二人で男を引っ張り上げた。
 今、男は安らかな顔をして地面に横たわっている。
「……人を呼びにやった方がいいですか?」
 すうー。
「人を呼んでどうなるものとも思うが……第一顔色は悪くないし、呼吸もしっかりしておる」
 ぐうー。
「希子様……笑わないで聞いて貰えますか?」
「苑が言い出さねばわらわが言い出すところであった」
 すやすや。
「このもの……寝てるだけではありませんか?」
 不意にあたりが静かになり、遠くに感じていた蝉の鳴き声が急に近くなったような気がした。
「夏とは言え……かように暑いのはわかっておるが……」
「希子様……突っ込むところはそこではございませぬ」
「突っ込む?」
「最近都ではやり始めた言葉遊びだとか…」
「知らぬ」
 男は背が高かった。
 そのわりに細い……と言っても痩せているというのではなく、野山にすむ動物のようにしなやかな身体つきをしていた。
「武士……ではないな。少なくともこれまでわらわの見てきた武士とは体のつくりが違う……どちらかと言えば猟師か何か?」
「……希子様はそのようなことばかり詳しくなられます」
 苑がため息を吐きながら呆れたように口を挟む……いちいちうるさい。
 が、それをうるさく感じたのはわらわだけではなかったようだ。不意に男の両目が開いて、わらわと視線がぶつかった。
 再び蝉の声が遠ざかる。
 男はゆっくりと体を起こして、辺りを見回した。おかしいな?という感情が隠されもせず表情に思いっ切りでている。
 やがて、自分の服がずぶぬれになっていることと、岸辺に投げ捨ててある釣り竿に気がついたのかぽんと手を叩いた。
「すまん、驚かせたようだな……」
 男はそう呟いてゆっくりと立ち上がった。どうやら察しのよい男らしい。
 一旦立ち上がってみるとやはり背が高い。わらわの目線は、その男の胸元のあたりまでしかなかった。
「名は何という?」
 男は少し困ったような表情で顎のあたりに手をあてた。そしてゆっくりと指先で空を指し示す。
「……雲」
「嘘ですね」
 と、即座に苑……後ろに回した手が何を握っているかを聞くまでもない。
 わらわは物騒な苑を片手で制して、微笑んだ……つもりだ。
「ところでそなた、暇か?」
「は?」
 多分この男は役に立つ。
 わらわの…苑曰く、常人には理解できない鋭い勘がそう告げていた。
「まあ、名前など大した意味はないからの、これからはそう呼ばせて貰おう」
「……これから?」
 苑と男が同時に首を傾げた。
「雲、そなたはわらわが釣り上げた獲物故、わらわのものであるな」
「…………希子様。(あきれている)」
 男は器用に片方の眉だけを動かし、岸辺に転がっている釣り竿を見つめた。
「俺は釣られたのか?」
「そうだ、わらわが釣った」
「キャッチアンドリリース……」
「何かのまじないか?」
「いや、気にしないでくれ……俺は時々ワケの分からないことを言う癖があるんだ」
 何やら微妙な笑みを浮かべる男の表情を見て、わらわは確信した。
「……ついてまいれ、帰るぞ」
 わらわは二人に背を向けてさっさと歩き始めた。
 普通ならまずついてはこまい……が、わらわには何故か確信があった。この男は必ず付いてくると。
 ずかずかと歩いていくわらわの後ろで………
「……あんた、苦労してるだろ?」
「……わかりますか?」
 
「ところで……そなたは水の中で眠る癖でもあるのか?」
「……実はな、水の中で寝るのが大流行なんだ」
「まことか!」
「希子様、そんなわけ無いでしょう……」
 呆れたように呟く苑に向かって、雲は肩をすくめた。
「本当だ。昨年の飢饉のせいでだな、都の近辺では水の中で眠りにつくものが後を絶たないぐらい大流行だぞ」
「……雲殿」
 苑の顔が幾分曇る。
「ふん、それは困ったことだな……で、そなたから見て今年はどうなりそうだ?」
 興味を覚えてわらわは雲に続きを促そうとした。
 雅だの、風流だのにはつき合いきれないが政(まつりごと)にはいささか関心がある。まあ、いささかなどというには少し無理があるし、そのせいでいろいろと疎まれる結果になったのだがわらわはわらわである。こればっかりはまげられぬよの。
「……悪いな、俺の記憶よりも悪い気がする」
「……?」
 わらわが訝しげに雲の顔を見ると、慌てて手を振って笑った。
「漁師達が言っていた。今年は遅くまで烏賊が捕れたから夏は短いと……」
「……そうか」
 短い夏……それだけ聞けば後のことは聞かなくともわかる。
「烏賊が遅くまで捕れると夏が短いのですか?」
 納得できなかったのか、苑が口を挟んだ。実を言うとわらわも少しその事が聞きたかったのだがその役目はおとなしく苑に譲ることにした。
「漁師の間では、烏賊が取れたら春と言われていてだな……今年はそれが遅かったんだ。まあ、地方にもよるし絶対とは言わないが、春の来るのが遅ければ夏はその分短くなるのは道理だと思うが」
「……ふむ。わらわが前にいた場所では特にそんな感じは受けなかったし、このあたりものどかなものだが」
「冷害や飢饉といっても全てが全滅すると言うわけでもない……地形的な問題や種類によってましな地域というのはある。」
 そう語るとき男の目が少し遠くを見たような気が、わらわにはした。
「しかし、なんだな……」
 雲は器用に片方の眉だけをひくつかせて呟く。
「民にとっては、天災よりつらいことが多い世の中だが…」
 同感だの……わらわは心の中で頷く。
 それからしばらく何気ない話を続けた……が、この男が実に多くの知識を身につけていることに驚かされた。
 わらわのように書物から得たのではなく、なんというか生活に根ざした知識。
「そなた……見ればまだ若そうなのに知恵者だの?」
「……長く旅をしているといろいろと覚えることが多くてな」
「謙遜することはない。おぬしと同じ旅をしたとて、誰もがみんなおぬしのように何かを学ぶとは限るまい」
 苑が驚いたようにわらわを見つめているのがいちいち気に障る。
「苑、何か言いたいことでもあるのか?」
「あ、いえ……希子様の口からその様なまともなお言葉が聞けるとは夢にも思わなかったので。雨でも降らねば良いのですが」
「……いや、多分雨になるぞ」
 苑とわらわは口を閉じて雲の顔を見つめた。
 そんなわらわ達の視線に気がついて雲が頭をかく。
「いや、本当に雨が降ると思う」
 顔が真剣だった。
 それゆえわらわは立ち上がって、部屋の隅に置いてあった箱の中から剣を取り出す。
「希子様!」
 苑が背後からがっしりとわらわを羽交い締めにする。
「ええい、放せ。これほどまでの侮辱を受けておめおめと……」
 ぽつぽつ………。
「引き………下がれるか………?」
 ざざあー。
 どのくらい外を眺めていたのだろう、とりあえずわらわは標的を変更することにした。変更する相手はもちろん涙を流しながら笑い転げている苑に決まっている。
 だが、わらわが剣を振り下ろすよりも先に、雲がそれを奪っていった。
「こらこら、そんな物騒な」
 そう呟いて苦笑いしている雲をにらみ付けた。
「元はと言えばそなたのせいであろうが」
「それは言いがかりだ」
 雲はそう呟いてから、ふと遠い目を見せた。そして何か思いだしたように、わらわの顔をじろじろと眺め回している。
「ええい、じろじろと人の顔を眺めるでない!」
「あ、すまん。ちょっと昔の知り合いに似ていた様な気がしてな」
「そなたの知り合いは変わっておるな。そうやって顔をじろじろ見られるのが好きだったのか?」
「希子様、多分それは論点がずれてます」
 目元の涙を拭いながら、苑はいちいち口を出す。
「わらわに似ているというなら、その者は美しいに決まっている。だとすれば身分賤しからぬおなごということであろうが。わらわはあまり気にしないが、おなごというのは普段顔を見せぬのが常識であるぞ。だから変わっていると言ったのだ」
 とこれ以上ないわらわの論理展開に二人は感心するどころか、ひそひそと顔を寄せて話し合っていた。
「自分が変わり者という自覚はあるようですね」
「ああ、変わり者だからな」
「おーのーれーらー……と、もう良い」
 ふと馬鹿らしくなって腰を下ろした……しかし、雨が降ると何もすることがない。
「さて、旅の話でもして貰おうか?」
「………人生は旅のようなものらしいぞ」
「至言ですね」
 沈黙。
「話したくはないと言うことか?」
「いや、あまりにも長い話だし、話すわけにもいかないんだが」
 わらわとそう年も離れておらぬようなのに訳の分からぬ事を。
「……ひょっとして、雲殿は草の者ですか?」
「草?」
 雲とわらわは同時に苑を見た。
「いえ、忘れてください」
 しれっと目を伏せる苑。
 こやつは意識的なのか無意識になのかは知らないが、時々こういった振る舞いを見せる。別に腹がたつとかそう言うことではないが、何らかの意味を含んでいるようで少し気にってしまう。
「まあ、そなたが何者だろうと全てが話せない事ばかりでもあるまい。話せる部分だけでいいし、退屈が紛れる様な面白い話だけでいいし、楽しいのであれば作り話でも一向に構わぬ」
「……注文の多い事だ」
 雲は無精ひげを一本引き抜いて顔をしかめた。
「んじゃ、怖い話でもしてやろうか?」
 いきなり苑の表情が強ばる。
「わ、私、怖い話はちょっと……」
「大丈夫怖くないから」
「さっき自分で怖い話とおっしゃったじゃないですか!」
 ………この2人、案外気が合うのかもしれん。
 どうやら旅の話は聞けそうもないので、わらわは雨音に耳を傾けることにした。
 
「苑、あやつをどう思う?」
「一見怪しいですが……」
 苑は一旦言葉を切り、やわらかな笑みをこぼしながら言葉を続けた。
「悪い人ではございませんね……」
「……そのぐらいわらわにでもわかる」
「ならば言い直します」
 苑はすっと姿勢を正し、わらわの目を見つめながら言った。
「何か深い事情を抱えているように思えます」
「……」
「親しみを覚えるのは仕方ないかも知れませんが、あまり関わり合いにならない方が……」
「……そういえば、そなたの曾祖父は大陸の出だと聞いたことがあるな」
「蹂躙される故郷の行方を見るに忍びず、この国へと渡ってきたとか」
 そう呟きながら、苑が小さくため息をついた。
 あまりに唐突な話題の転換に、これ以上は言っても無駄だということを悟ったらしい。
「……曾祖父に希子様ほどの気概があれば、私がこのような苦労をせずにすんだものを」
 わざとらしくよよよと泣き崩れる苑を、わらわは無視する事に決めた。
 同時に、自嘲めいた気持ちが心の片隅にわき起こる。
「……わらわに、気概などあるものか」
「…?」
 何か聞きたげな苑から視線を逸らし、わらわは囁くように話す。
「疲れたのだ、わらわは……ただ、疲れたのだ」
「……」
「元は同門の縁戚同士で争うだけでも笑いモノであるというのに、ましてや血を分け合った親子で争いなどしては後世までの笑い草となろう。もう手遅れかも知れぬが、わらわは降りた……が、父上も叔父上もそうは思ってはくれぬらしい」
「私まで巻き添えにすることは…」
 恨みがましい視線と口調だが、どこかやわらかい……と言うことにしておこう。
 ひさしの下から空を見上げると、濃い雨雲が強い風に激しくながれていくのが見えた。
「雲か……人が雲のように生きるには、俗世を離れるしかないのだろうな」
「俗世を離れるということは、人とのつながりを絶つということでございます……」
 苑の目がどこか遠くを見つめ出す。
「人生が旅であるというのなら、それはきっと孤独な旅でございますよ…」
 苑の言葉を聞き、わらわは国を捨てたという苑の曾祖父に思い至った。
 おそらく、苑の祖父母や父母がそうだったように、苑もまた他に頼る術もない当時の事をいろいろと聞かされて育ってきたのであろう。
「……冗談だ、わらわが尼になどなれようか」
「ええ、絶対に無理です」
 そう言ってにこっと笑う苑。
 こやつは、最初からこうであった。
 わらわに気に入られたことが苑の不幸といえるのだろうが、頭のよい苑のことだ。本当にわらわに付いてくるのが嫌であるならば、このような態度をとるはずもない。
 遠くの空に、雲の切れ間が見え始めた。どうやら、通り雨だったようだ。
「苑、もうすぐ雨が上がるぞ…」
「では、また暑くなりますね」
「夏は暑い……当然であろ」
 苑は小さくため息をつき、そして何か含むような笑みを浮かべた。
 
 庭の方から二人の声がする。
「……ところで、あの姫さんはこんな田舎で毎日何をしてるんだ?」
「遠乗りとか魚釣りとか狩りとか……女子らしくないことなら一通りのことを。まあ、何にせよ希子様がここに来たのはつい最近ですから、物珍しさも手伝っているのでしょうが」
「ふむ、道理で館の作りが新しいと思った」
 雲は館の周りをぐるりと見回し、そして口にして良いのかどうか迷うような表情で苑の顔を見た。
 そろそろ姿を現した方が良さそうな風向きであるの…
「……どうぞ」
「やんごとなき家柄の娘が滞在する館にしては、えらく物々しいようだが」
「物騒な世の中故仕方なかろう…」
 わらわがそこにいるのを知っていたかのように苑がゆっくりと振り返る……が、雲は振り返りもしない。
「希子様、お早い目覚めでござりますね」
「ああ、一番鶏もびっくりだ」
「……べ、別に眠っていたわけではない!わらわは書を読んでいただけだ!」
「涼しい午前中に……か」
 雲はわらわを見て、小さく微笑んだ。
「ええい、童女を見るような視線はよさぬかっ!」
 苑がくすくすと笑い声をあげるのも憎たらしい。
「……で、昼からは何をして遊ぶ?」
 こやつは間違いなくわらわを子供扱いしている……そう思い、わらわは苑に声をかけた。
「苑、剣を持て…」
「生まれてくる家と性別を間違えたな……」
「雲殿もそう思われますか?」
 わらわをちらちらと横目で見つつ、聞こえよがしなひそひそ声で話す雲と苑。
 こやつら、まさか血縁ではあるまいな?
「違うぞ」「違います」
 同時に二人が首を振る。
「あやかしの術を使うでない!」
「希子様、みやこに出没する狐狸の類と同じにしないで下さいませ」
「ある意味、あやつらよりタチが悪いぞそなたら……わらわをからかいおって」
 ここに来てしばらくはわらわが苑をからかっておったのに、いつの間にか立場が元に戻っている。
「……話は変わるが、このあたりにも盗賊の類が出るのか?」
「この一帯治める国司はできた人物での、民心もわりあいに安らかだ……とは言え、中央の乱れは地方にも伝播するものだ」
「館のまわりをうろついている妙なのは、ちょっと違うだろう」
「……おや、お気づきでしたか?」
 神妙な表情で囁いた苑に、雲は小さく頷いた。
「1人で旅をしていると色々大変なんだ…」
「お察しします」
「やんごとなき家柄の娘が滞在する館だ、警護の者が居て当然であろ」
 雲はわらわの顔をじっと見つめて尋ねてきた。
「ひょっとすると、とてつもなくやんごとなき家柄なのか?」
「そう見つめるな。滲み出る高貴さに見とれたくなる気持ちは分かるが」
 そうわらわが毅然と言い放つと、雲は小さなため息をついた。
「いや、そういう意味じゃなくてだな……」
 雲は一瞬だけ視線を逸らし、再び顔を上げた。
「……俺はしばらくここに留まらねばいけないわけか?」
 数瞬の沈黙。
 苑がちらりとわらわを見、わらわが小さく頷く。
「察しのいいお方ですねえ」
「……たまに言われる」
 どことなく憐れむような表情で、苑が雲の肩をポンポンと叩いた。
 どうでもよいが苑よ、時と場合によるがおなごにそうされると男は大概落ち込むぞ。
「しかし雲よ、何故、そう思う?」
「どう思うも何も……まあ、要人の警護には2種類あるからな」
「ほう?」
「警護していることを周囲に知らせるやり方と、そうでないやり方……それが後者であるなら何らかの意図があるはずだ」
 雲は再び小さくため息をつき、肩をすくめた。
「……俺を館に連れ込んだのは、素性を疑ったからか?」
「いや、暇つぶしだ。何しろ話し相手が苑だけでは退屈での」
「……」
 苑がなんとも複雑な表情を浮かべたが、無視する。
「まあ、わらわの見立てでは夏が終わるまでに一応の方がつくと思っておる」
 わらわは今嘘をついた。
 最悪の形で片が付いたとしたら……
「夏の終わり……ね」
 その口調に微妙な何かを感じ、わらわは雲の目を見た。
「そうは見えなかったが急ぎの旅か?」
「いや……夏はどこまで続くのかと思っただけだ」
「そなたの言ではないが、おそらくわらわのいう夏は短い」
「姫さんの夏と俺の夏は違う…」
「……?」
 意味不明の呟きに、わらわと苑はお互いの顔を見合わせた。
 
 ぱくぱくもしゃもしゃがつがつ……
「雲よ……」
「ん?」
 箸を休めて怪訝そうな表情でわらわを見る。
「よく食うの」
「この時代は1日2食だからな」
「は?」
「いや、なんでもない…」
 と、再び旺盛に箸を動かし始めた雲の正面に回りこみ、わらわは既に決定したことを申し伝えるような口調で言った。
「暇だ、剣の稽古につき合え」
「これを食い終わってからな…」
「食い終わったらよいのか?」
「食い終わったら食休みだ」
「食休みはいつ終わる?」
「日が沈む頃だろうか?」
「そうか……ならば永遠に食休みさせてやろう」
「無駄だ、やめとけ」
 からかわれた様な気がして、わらわは半分本気で手に持っていた木剣を振るった……もちろんかわされることを承知で、だが。
「……」
「何故、避けぬ?」
「無茶苦茶言うな……」
 雲は顔をしかめ、額に滴る血を拭った。
「苑!苑はおらぬのか!?」
「心配ない、見ろ」
「何を落ち着いたことを…?」
 わらわは目の前の光景に息を呑んだ。
 雲がぬぐい取った血の下にあろうべき傷は既に塞がり、みるみるうちにそれさえもわからなくなっていく。
「……?」
「こっちにもいろいろと事情がある」
 平然と飯を食い始める雲を見据え、わらわは呟いた。
「……痛くはないのか?」
「いや、痛いぞ」
「ふむ、変わってるとは思ったが……相当変わり者だな、そなた」
「いや、これを見せられて平然としてる姫さんの方がすごいと思うぞ。俺自身、最初は腰を抜かしそうになったからな」
 雲は遠い目をしてそう呟き、そして困ったように頭をかいた。
「希子様、およびですか?」
 足音もなく現れた苑がわらわと雲を交互に見、そして小さくため息をついた。
「木剣稽古のお相手探しでしたら……」
「いや……」
 わらわは微かに首を振り、視線だけを動かして雲を見た。
「……好きにしろ」
「……良いのか?」
「あんまり痛くしないでくれると嬉しい」
 わらわと雲のやりとりを聞いて、苑は微かに頬を赤らめた。
「希子様、台詞が逆でございます」
「何を勘違いしておるっ!ええい、かまわぬから、小刀を貸せ」
「はい」
「……って、何でそんな物騒なもん持ち歩いてんだアンタは!」
 苑が袂から取りだした小刀を見て雲がわめいた……ふむ、どうやらこの男でも平常心を失うことがあるらしい。
「雲、腕を出せ」
「はいよ…」
 わらわはすっと雲の腕に刃先を滑らせ……ようとして苑に止められた。
「希子様、何をなさろうとなさってます?」
「いいから放せっ!」
「ああ、面倒くさい…」
 雲はわらわの手から小刀を取り上げ、自ら腕を浅く切った。
「…っ!?」
 血が止まり、みるみる塞がっていく傷を見て苑が口元を手で押さえた。
「……痛くないのですか?」
「いや、痛いぞ」
 苑はまじまじと雲の腕をみつめ、感心したように呟いた。
「初めて会ったときから変わってるとは思ったのですが、相当の……」
「ええい、わらわと同じ事を聞くでないっ!」
「いや、これを見せられて平然としているアンタの方が……」
「そなたもっ、律儀に繰り返すでないっ!」
「希子様、あまり興奮なさってはお体に触ります…」
「……っ!……っ!」
「こらこら、若い娘がはしたない…」
 着物の裾をからげて苑を蹴り倒そうとしたわらわを雲が押しとどめる。ふと、雲の身体から何かの匂いをかいだ気がした。
 
「……やはり妙だな」
「何が妙だ、また雨でも降るのか?」
 雲の背後に立ち声をかける……普通の人間なら背後を取られることに敏感になるものなのだが、何故かこの男は全く心を揺らさない。
「……そなた、不死者か?」
「人は、どうあがいても一度しか死ねんよ……そういう意味では、人はみな不死者だな」
「つまらないことを真面目に言うの」
「……」
 雲は無言で空を見上げる。
 雲一つない、ただ青いだけの空……今が夏であることを忘れさせる。
「それで、何が妙なのだ?」
「事情がわからんのでなんとも言えんのだが……」
 そう前置きしてから雲は呟いた。
「屋敷や姫さんを警護するなら、少し人員の配置がおかしいなと」
「……わらわが命令したわけではないからの」
 雲がじっとわらわの顔を見つめてきた……ふと、何かに引きこまれそうな気分に襲われる。
「もちろん、苑が命じたわけでもない……あやつらは、父の配下である故。名簿(臣従を誓う名札)を出した護衛武士……とは毛色は違うようだが」
「さらに言わせて貰えば、今日は殊更警護の様子が変だ」
「……最近耳が遠くての」
「どういう事情が……」
「それを聞けば、そなたはますます旅を続けるのが困難になるの」
「……関わり合いになるなと言うことか?」
「権勢に溺れる者は魑魅魍魎よりタチが悪いからの……わらわは数年前に、父を人ではないと思う事にした」
 雲は横っ面を殴られたような表情を浮かべ、肩をすくめながら首をコキコキとならした。
「まあ、俺もこのせいで化け物扱いされたことがあるしな……」
 先日斬りつけた腕のあたりをぺしぺしと叩きながら穏やかに呟き、じっと空を見る。
「度量の狭い事よ……傷の治りが速かろうが、腕が4本あろうが、人が人であるのは外見ではあるまいに」
「まあ、世の中姫さんみたいな人ばっかりだとごっついことになりそうだが」
「……何かけなされてるような気がするぞ?」
「いや、誉めてる……しかも手放しだ」
 そう言って両手をあげようとした雲の動きが止まった。
「どうした?」
「姫さんは、みやこが嫌いか?」
「正直言って虫酸が走るの……まあ、嫌いではない人間もいるにはいるが、大抵権勢には縁がない」
「……田舎の方が落ち着くか?」
「まあ、そうだの…」
「……そうか、あの街は」
「…?」
「一鈴のためだけに用意された街だったのか……」
「む?」
 雲は挙げかけていた手をゆっくりと下ろすと、顎の下の無精ひげをさすり始めた。
「そなた……」
 話しかけようとしたが、わらわは口を閉じた。
 今のこやつには、話し掛けるだけ無駄であろう。
「一鈴が存在しなければ……あの街が存在するはずもない」
 自嘲めいた台詞と裏腹に浮かべた屈託のない笑みがただ哀しく思え、わらわはつい口を出す。
「馬鹿かそなた?」
「ん、ああ…馬鹿だった、馬鹿だったよ俺は」
「……?」
 雲の哀しいとしか思えない微笑みが、何故かわらわを包んでくるように思えた…
 
「…希子様」
「わかっておる…」
 闇の中で、わらわはむくりと身体を起こした。
「苑の言う通り、やはり新月の今夜であったか」
「曇っていれば、なお好都合だったのでしょうけど」
 闇の中に苑が持つ剣が鈍い光を放っている……つまり、本当の闇ではない。
 月はなくとも、夜目さえきけば星明かりで充分に事が足りる。
「……これで叔父上の命運も尽きたの」
「希子様がその気になられればそうでもないでしょう…」
「わらわはおなごだ……それ故実権が持てぬ」
 わらわは一旦言葉を切り、小さなため息をついた。
「武力なしに国は語れぬ……それは、権力闘争でも同じ事」
 それに、わらわはもう降りたのだ……父上はそれを理解してくれただろうか。
「面白そうな話だな」
「…っ!?」
 わらわは慌てて声のした方を振り向いた。
「妙な奴が部屋の中に忍んできたんだか、生憎そういう趣味はなくてな…」
 ドサッと、無造作に投げ出された物体が意味不明の呻きを上げた……どうやら男らしい。
「姫さんに一応確認を取ろうと思った」
 表情は見えないが、雲の口調はいたって普通である。
「……変だの」
 と、わらわは答えを知りつつも傍らにいるであろう苑に向かってそう呟いてみた。
「……」
「苑?」
「希子様、お静かに…」
 と、にわかに表の方が騒がしくなった。
「……腑に落ちません」
 確かに陽動なら順序が逆ではある……騒ぎを起こし、その隙をついて忍び込むのが当たり前。
「……陽動とも思えません」
 視界の隅で、赤いモノが揺れた……
「おや、明るくなった」
「ふむ、火をかけられたようだの」
「……二人とも、良く落ち着いていられますね」
 苑は、床の上に横たわった男の首に膝を乗せて囁いた。
「折ります…」
 男の身体が微かに震える……脅しではないことに気付いたのか、それとも苑の事を良く知っているのか。
「……あなたはこの屋敷を警護していたように思うのですが?」
 苑には気付かれぬように、わらわは小さくため息をついた。
「…っ」
 何も喋ろうとしない男の首に、苑が体重をかけていく。
 それまで黙っていた雲が唐突に口を開いた。
「姫さんが死ねば誰が得をする?」
 こやつは……物事の本質をつく
 わらわは、渋々と答えた。
「状況にもよるが、まあ父上だな」
「そんな…」
 顔を上げた苑の体を男がはねのけた……が、その後頭部に雲の棒を突き込まれて昏倒する。
 わらわは雲の着衣の裾の汚れにちらりと視線を向けてため息をつく。
「……雲。そなたは真っ直ぐここに来たのか?」
「いや、妙なのがうろうろしてたから……な」
 妙に間延びした口調に、わらわはそっと目を閉じた。
 やはり、皆殺しか……
「ここに連れてきた者は、苑を除けばみな身寄りがない……が、それが許される理由になるとは思わぬ」
 結果として、わらわが殺した…か。
 殺されていい人間を選ぶという行為自体が、父上と同じ罪を犯している……が、それのできぬ者に政は行えぬ、というのは詭弁か。
「雲よ…」
「断る」
 わらわは閉じていた目を開いた。
「気の短い男だの……苑を守ってやってくれぬか?」
 息を呑む音。
「希子…様?」
「苑は武技に優れ、書も歌も人並み外れた才覚がある……が、人を信用しすぎるところがあっての。おそらく1人では逃げられまいし、仮に逃げ延びたとしても殺される」
 苑が、何かを納得したかのように首をカクンと俯かせた。
「そうでしたか、希子様の父君はそこまで……」
「左大臣である叔父上に罪をなすりつけ、わらわまで始末できるのだ……一挙両得であろう。実状はまったくの正反対なのであるがな」
「おいおい、そういう話は後にしないか?冬ならともかく、夏のたき火はあまり好きじゃない」
 わらわは雲の顔に視線を向けた。
「父に殺されようとしている娘など捨ておけ」
「……だから、全然事情がわからないと言うに」
 迫り来る炎に視線をやった雲の目が、ふと穏やかな色合いを深めた。
 穏やかでありながら、ぱちぱちと炎が爆ぜる音よりもずっと存在感がある声がわらわの耳にとどく。
「……誰かを信じることが無意味であるとするなら、俺の旅もまた無意味だが」
「そなたは、何を信じている?」
「秘密だ」
「……さようか」
 小さく笑うわらわに、雲は顎の先を苑の方にしゃくってみせた。
「それに、姫さんの言うとおり逃げるような性格とも思えんぞ……どのみち、無理な頼みだと思うがな」
 そう言って、雲もまた小さく笑った。
 苑を見る……見るだけ無駄だったか。
 わらわは卑怯だ……こうやって反対されることが分かっていて、それでも誰かに引き留めて欲しかったのか。
 責任をとるというのは、もっと地道な中にこそある……が、わらわはただ逃げたいだけだ。
「……俗世を離れることになるか」
 父の頭の中では、既にわらわは死人であろう……いや、生きていてはまずい存在にまでなっておるか。
 ただ、それが打算から来るモノなのか、それともわらわが父の娘だったからなのか……できれば、後者であって欲しいが。
「苑、逃げるぞ」
 その言葉を待っていたのか、苑がにこっと笑った。
 
「……さて」
 わらわは自分達が歩いてきた方を振り返った。
「あのまま焼け死んだと信じるほど間抜けかの…」
「襲ってきた方も、それほど間抜けとも思えませぬが…」
 本当に間抜けでないならば、あの屋敷を襲う様な動きは見せまい。
 その動きを見せただけで、父上はわらわを殺されたかのようにお膳立てできたからの。
 叔父上の取るべき道は、父上に気取られぬよう手練れの者1人か2人によってわらわの身柄を確保する以外に無かったはずだが……今となっては、わらわの身柄を確保してもさほど意味がない。
 既に、戦は始まっている……いや、わらわを殺そうとしたのだから始まっていなければならぬ。
「そろそろ事情を聞かせて貰いたいな…」
 右手に持った山刀を振るい、わらわ達が歩きやすいように道を切り開いていた雲が呟いた。
「わらわは藤原北家の…いわゆる統領の娘でな」
「藤原北家…?」
「わからぬならそれでも良い……とにかく、やんごとなき家柄と思え」
「了解」
「藤原北家は、同じ一門から別れた南家、式家、京家が没落していくのを後目に、皇族との婚姻で力を持った。いわゆる、里内裏としてわが藤原北家の邸を使うことも多くての…まあ、そういうわけで先の主上の従姉妹でもあったわらわは子供の頃から散々非道い目に遭わせてやって、会う度に悪態を付いておったのだが……」
「……?」
「黙って聞いておれ……ここから説明しなければ状況が飲み込めぬだろう故」
 わらわは、小さくため息をつきまた語り出す。
「……まあ、周囲に逆らう人間がいないせいなのか、主上はわらわをことのほか気に入ってしまったようだった」
「ほう…」
 雲が感心したように相づちをうつ。
「主上が幼い間はともかく……まあ、父上の存在が目障りになったのであろう、まずは自分が思うような政を行うため、外戚として力を持った北家一族に対して離間の計を仕掛け始めた」
 そこまで話してから、わらわは小さくため息をつく。
「わらわの言が国を左右する……それに気付いてから、わらわは唐土の歴史と書物を学んだ……それが、間接的とはいえ国政に携わる者の義務であると思った故」
「……」
「国としての有り様を思うと……わらわは父上を否定せざるを得なかった」
 わらわの口調がだんだんと淡泊になっていくのが自分で分かった。
「それじゃあ……」
「そうだ、わらわが主上に策を授けた。何よりもまず国が大事であると思った故」
 一見藤原北家に阿るようでいて、その実一族間の対立を煽るような巧妙な人事を繰り返しつつ、藤原北家に与せぬモノを巧みに誘導して、かつては皇族以外に就くことの無かった太政大臣の席に座る父上に対抗する勢力を築きあげた。
 そこからはゆっくりとやればいい……そう忠告したのに、主上は急ぎすぎた。
「父上がわらわを憎むのも無理はあるまい。皇族の覚えめでたきわらわを殺せば反勢力に格好の口実を与え、傍観している勢力はそちらに付く……かと言って、わらわを放り出すわけにもゆかぬ……それが、3年前のことだ」
 多分、わらわは自嘲的な笑みでも浮かべていたのであろう。苑が、わらわの肩に手を置いていた。
「姫さん…」
「気にするな、昔のことだ……」
「いや、そうじゃなくて話が長すぎる」
 ガサッ、ガササッ
 わらわに蹴られ、雲は顔面から藪の中へと突っ込んだ。
「事情が聞きたいといったのはそなただろうが!」
「いや、思ったより話が長くなりそうなのでもうどうでもいいかなと思って…」
 と、顔面擦り傷だらけになった雲が苦笑しつつ振り返る……が、その傷はすぐに消えていく。
「……確か、傷が早く治るのに自分でも腰を抜かしそうになったと言ったな」
「そうだったか?」
「いつからそうなった?」
「長くなるんだが……」
「かまわぬ」
 雲は哀しげに眉を寄せ、首を振った。
「話が長いと俺が疲れるじゃないか」
「……良い性格をしておるの」
「あの…のんびりと話をしている場合ではないと思うのですが」
 わらわの後方に控えていた苑が口を出した。
「追っ手か?」
「そりゃ、こいつで道を切り開いて逃げ道を教えているんだから、追いかけてきてくれなきゃ困る」
 雲の手にある山刀に目をやる。
「……今なんと言った?」
「追いかけてきてくれなきゃ困る…と言ったが?」
 このあたりの山は鬱蒼としてはいるが、樹木がまばらな部分もあれば獣道もある。
「……雲殿」
 苑の表情に、不穏なモノが混じる。
「いや、俺達が歩いてきた道を全員で追いかける馬鹿ならどうしようもないんだが」
 苑に向かって雲が呟いた言葉でわらわには合点がいった。
「なるほど、獣道や山道を使ってわらわ達のゆく方向に先回りしようと考えるであろうな」
「ああ、そういうことでしたか…」
 このあたりは苑も頭の回転が速い。
「これだけ樹が茂ってるとのろしは使えませんし……そろそろ追っ手同士の連絡が疎になっている頃ですね」
「そういうこと…引き返すぞ」
 雲は山刀の代わりに一本の棒を手に取った。
 農具の柄に使う樫の棒だけあって軽くて固い……ただ、このような場所に向いた武具であるとは思えないが。
「しかし…やたら手慣れているようだが、そなたの旅は逃亡の旅か?」
「……いや」
 雲は身振りでわらわと苑に藪の中に隠れるように示し、自分は大ぶりの枝につかまると梢の中に身を隠した。
 ややもして、1人の男が現れた。
 じりじりしながらそれをやり過ごすと、しばらくして二人の男が現れる……雲と苑によって即座に叩きのめされはしたが。
「ここで待ってろ」
 先に行った男の後を追う雲の背中を見送りながら、わらわは感心したように呟いた。
「……見事な手際よの」
「あの若さで…」
「……見た目通りの齢とは思わぬがな」
 困惑したような視線を苑が向けてきた。
 
 視界が青に染まった。
 吹き付ける風には独特の匂いがあり、どことなく力強さを秘めている。照りつける陽射しは高く、雲と初めて出会ったときよりも夏を思わせた。
「……これが海か」
「希子様、海を見るのは初めてですか?」
 空の青と水の青の境界が、白い雲の存在によってかろうじて判別できた。
「そうか、これが海か…」
 もう一度呟く。
 あれから僅か10日……最初の5日こそ昼夜となく襲撃を受けたが、ここ3日ばかりは静かなモノだった。
 そんなことはともかく、僅か10日歩き続けただけで、わらわは初めて海を見ている……わらわの知る世界はそれほどまでに狭いのか。
 唐突に、切ないような感情が胸を締め付けた。
 海というものを初めて見たからなのか、それとも他の何かがあるのかは理由が分からない。
 ただ、泣きそうになった……それだけのことだ。
「姫さんは、海の魚を食ったことがあるか?」
 のんびりとした雲の声を聞き、以前雲の身体から嗅いだ匂いがここの風の匂いであることに気付く。
「……ある。しかし、わらわは川の魚の方が好きだ」
「おや?」
 雲は何故か残念そうだ。
「むう、その認識を改めさせてやる…」
 ふと、雲の故郷は海の側だったのではないかと思い、それを口にする。
「……さあ、生まれてすぐに捨てられたからな」
 屈託のない……それ故に哀しい笑みが返ってきた。
「さて、何か薪になりそうなものを集めてくれるか?俺は、ちょっと素潜りで魚でも獲ってくるから…」
「雲殿、道具もなしに…」
「これがある」
 と、雲は右手に持った棒を示した……が、苑の表情が、それが無理だと語っている。
 しかし苑はすぐに思い直したのか、小さくため息をついた。
「……いえ、何も言いません」
 山の中を歩き通したこの数日間、わらわ達が口にした食べ物はそのほとんどが雲が手に入れたものだった。
 雲ができるというのなら、できるに違いないのだろう。
 わらわと苑は、雲の後を付いて岩場と岩場の間の小さな砂浜におりた。
「さてと…」
 ばさっ。
 無造作に衣を脱ぎ始めた雲を見て、苑が少しだけ顔を赤らめた。
「希子様…薪を集めにまいりましょう」
「わかった」
 しばらくしてから振り返ると、雲が棒を持ったまま器用に沖に向かって泳いでいく姿が見えた。
「……空に向かって泳いでいるみたいですね」
 枯れ枝や、はがれ落ちた樹皮などを集めながら苑がぽつりと呟いた。それに同意したい思いと同時に否定したい思いが浮かぶ。
「空は、鳥のものであろう……海が、魚のものであるように」
「……ならば、陸は」
「人のもの……とは言えまいな」
 苑は小さく笑った。
「私は、海で生きる人がいることを知っています……」
「それは、海から生きる糧を得ていると言うことであろう……つまらぬ事を申すな」
「……海が無くては生きる事のできない人がいるのと同じように、空が無くては生きることのできぬ人もまたいるやも知れません」
 わらわは苑の顔を見た。
 口元には笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
「回りくどい言い方はよさぬか」
「では申し上げます…」
 苑は小枝を抱えたままわらわの顔をじっと見据えた。
「これからどうなさるおつもりですか?」
「どうにもならぬだろうな…」
「……」
「今度の襲撃からわかるように、叔父上には策がない……おそらく、父上によって丸裸にされてから、見せしめのためにもむごく滅ぼされるであろうよ」
「……ならば」
 わらわは手をあげてその続きを遮った。
「3年前、主上を殺したのはわらわの策であるぞ」
「……希子様のせいではございますまい。希子様の言いつけを守りきれなかった主上の責任でございます」
「苑っ!」
 頭に血が上り、叫んでいた。
「希子様がどのような国体論を持っているにせよ、私は主上にではなく希子様にお仕えしております」
 射抜くような視線がどこかもの悲しい。
「おそれながら申し上げますが、希子様が主上の存在こそが絶対と思われますなら、何故今の主上に力をお貸し与えませられぬ?」
「……もう、良い」
 苑は黙って目を伏せた。
「今の主上には大勢の臣下がいて、この国には大勢の民がいる。だが、父上の娘はわらわしかおらぬ……そう割り切ったのだ」
「……娘を殺めようとする親がいますか?」
「いくらでもいる……それに、父からすれば、最初に裏切ったのはわらわであろう」
 まさに、飼い犬に手を噛まれた思いであっただろう。
 一族の後継者である兄よりも可愛がってくれていたのだから。
「1つ伺ってもよろしいですか?」
「……なんだ?」
「この国の歴史をひもとけば、希子様の父君がごとく人臣位を極め栄華を誇った人物がいないわけではありませぬ……希子様は一体何が許せなかったのでありますか?」
「人臣位を極め……か。父の望みにはその先がある」
「その先……は、1つしかございませぬが」
 わらわは小さく頷いた。
「……この国に、大陸のような皇帝は似合わぬ」
「それは……真実なのですか」
「父は言わぬ……わらわがそう感じただけで確証はない」
 苑は心持ち眉をひそめ、そして首を振った。
「もしそうだとしても……無理です」
「失敗しても、父上は主上の権威を足蹴にした悪しき前例を作る……それはいずれ、武力が権威を押し流す流れをつくる」
「……」
「結果、武力を持った者が国を治める……移ろいやすい力などを指標にすれば、国は背骨を失い、度々乱れるであろう」
 国の背骨は、不変なるモノでなければならぬ……今、この国でそれを為すのは主上の血しかない。
「ただ、この騒動で少し安心もした……」
「何故でございます?」
「父は自らの存在を脅かす存在としてではなく、娘であるわらわの反逆に怒った。それはつまり、父の中に上下の慎みが生きている証拠だ…」
 苑の瞳が、じっとわらわを見つめている。
「それでよいのですか?」
「戦で、民が苦しむよりはましであろ……父上は為政者として自分が為すべき事を良く知っている。戦より非道いことにはなるまい」
 聞きたかった事がそうではないことを知りつつそう答えると、苑は目を閉じ、そしてため息混じりに呟いた。
「では、私もそう思いこむことにして、希子様とともにあることにいたします…希子様といると退屈しませんので」
 そう言うと、苑は両手に小枝を抱えてすたすたと砂浜に向かって歩いていく。
 『わらわは死ねば自分も死ぬ』と脅迫されているようでどうもおっかなく感じるのは気のせいか?
「雲はどこだ?」
「あの、一カ所だけ白波の立っているあたりでありましょう……多分、あの下には岩礁があるでしょうから」
 苑は指さした方には、なるほど、一カ所だけ白い波がおきている。
「……詳しいの?」
「海については、祖父がよく話して聞かせてくれましたから…」
 
 海水を垂らすようにかけながら炙られる魚の表面に、あるかなきかの焦げ目がついていくのをじっと見つめていた。
「……何故、水をかける?」
「塩気のない焼き魚を食いたいのか?」
「私はごめんこうむります…」
 苑が器用に魚を切り分け、竹の皮の上に並べていた。
「わらわは何をすればいい?」
「じっとしててくれ」「じっとしててくださいませ」
 二人同時に言われ、わらわは足下の……元は魚であった残骸に視線を向けた。
 この数日でよくわかったのだが、わらわにはそういう才能が乏しいらしい……いや、ただ単に慣れてないだけと思うのだが。
「苑、わらわには才がないか?」
「希子様には希子様にしかない立派な才がございます。あれもこれもと欲張るのではなく、自分の為すことができれば十分でございましょう」
 言い方はやわらかいが、つまり『やるだけ無駄』と言われてるような気がするぞ。
「気のせいでございます」「多分、気のせいだ」
「……」
 こやつら、何故わらわの考えていることが分かる?
「雲殿、採ってきた海藻はどこにやったのです?」
「秘密だ……あ、そういえば昨日の兎の肉は?」
「はあ、それが…」
 苑の視線がわらわの頬に刺さる。
「干し肉にするつもりだったのだ……その、雲がやっているのを見て、簡単そうだったからな」
「……どうなった?」
「……」
「もしもし?」
「…真っ黒に焼け上がりました」
 雲がため息をついた。
「いぶすのと焼くのは違うんだが……可哀想に」
「……」
「真っ黒な炭になるために生き延びてきたようなもんだな」
「ええいっ、ネチネチとしつこいぞ!」
「……苑、姫さんは自分で食べ物を探すそうだ」
「まあ、さすが希子様」
 わらわは雲の手から棒を奪い取り、着物の帯を解きにかかる……が、慌てて駆け寄ってきた苑に止められた。
「……何故、止める?」
「止めたくもなります……」
「苑も知っておるだろう。わらわは岩石流泳法を…」
「そういう問題ではございませぬ!」
「……どこまでも沈んでいきそうな名前だが。と、そろそろいいか」
 魚に海水をかけるのを止め、ゆっくりと回転させて水気を完全に飛ばしているようだ。くやしいが、随分と食欲をそそる匂いがする。
 しかし、考えてみれば雲はただ魚を焼いただけだ。
 別に雲が偉いのではなく、この魚が偉いのであるな。
「さて、こっちはどうかな…」
 雲は焼いた魚を苑に預け、薪でたき火を崩してその下の砂をどけ始めた。
「砂遊びでもするつもりか?」
「……」
 いつも笑みを絶やさない男が、一瞬だけ遠い目をした。
「砂遊びね…随分と昔にやった気もするが、今はこっちが大事…」
 砂の下から現れたのは雲が採ってきた海藻……と、思ったら、どうやら海藻で魚を包んでいたようだ。
 海藻を開いた瞬間、なんというか……凄く悔しいのだが、食欲をそそる薫りがあたりに広がった。
「いい匂いですね、蒸し焼きですか?」
「子供の頃、施設のキャン……じゃなくて、漁師に教えてもらった」
 料理が並べられ、枯れ枝を削って作った箸を手渡される。
「では、いただきましょう…」
 雲と、苑がほぼ同時に魚を口にする……それに少しだけ遅れてわらわもそうした。
 口の中になんとも言えない旨味が広がる。
 それは、否応なしにわらわのせいで死んだ下仕えの者達を思い出させた。
「……今日までずっと木の実と獣肉ばかりでしたものね」
 苑の感慨深げな言葉。
「鍋でもあったら、多少はどうにかできたんだが…」
「鍋を抱えて逃亡というのも、ちょっと情緒に欠けますものね」
「情緒って…」
「希子様…?」
 二人の視線がわらわに集まるのを感じた。
「骨でも刺さったか?」
「ご飯を噛まずにまる飲みすればいいと祖父が…」
 俯いたままわらわは首を振った……と、溜まっていた涙がこぼれおちる。
「……いいのか?」
 情けないぐらい、頼りなく震える声が出た。
「姫さん?」
「わらわは、わらわは…こうしていて、美味しいと思ったり、そなたらと一緒にいて楽しいと思って良いのか?」
「希子様…」
「わらわは、主上をはじめ何人もの人間を見殺しにしたぞ!いや、それだけではなく、間接的に数え切れぬほどに人を犠牲にしてきた。そんなわらわが、こうしていて本当に良いのか!?」
 あさましいと思いながらも、口にした魚は美味だった。死人は、楽しいと思うことはもちろん腹が空くと言うことさえ感じることはないというのに。
「……ったく、頭のいいヤツはろくな事考えねえな」
 吐き捨てるように呟く雲の声。
「おい、姫さん」
「なんだ?」
「じゃあ逆に聞くが、俺はこの世に生きていて良いと思うか?」
 何を馬鹿なことを…と言いかけたわらわの目の前で、雲が腕に小刀を突き立てた。
「なっ!?」
 眉1つ動かさずに雲は小刀を引き抜いた……が、すぐに傷が塞がっていく。血の痕がなければどこに突き立てたかも分からないほどに。
「……俺は、化け物と呼ばれたがね」
 穏やかに紡がれた言葉だったが、苑が息を呑む気配が伝わってきた。
「俺の肉を食らえば不老不死になれると思ったのか、数え切れないほどの人間に追いかけ回されもした…」
 雲がちらりと棒に目をやった。
「そして、数え切れないぐらい殺した……こういうと変だが、死にたくなかったからな」
 雲は小さく笑い、焼き魚に箸を伸ばした。そして、口に運ぶ。
「俺は、生きていていいのか?」
「かまわぬ」
 その返答に躊躇いはない。
「何故?」
 じっと見つめてくる雲を見つめ返し、わらわは言った。
「そなたは生きている……それを誰も否定できまい、わらわはそう思う」
「別に否定されようがかまわんがね……姫さんよ、誰かに許しを得なければ生きていけないようなつまらん生き方をしてきたのか?」
「雲殿っ!」
 激しかけた苑の眼前に棒が突き出される。
「黙ってろ……姫さんの問題だ」
 気圧されたように苑が俯いた。
「……わらわは、生きているか?」
「喜怒哀楽、全部ひっくるめての生だ……頭がいいんだから答えを他人に求めるな」
「……そう、だな」
 誰かに許しを求めなければならぬ生など存在しない……多分、自分自身の許しさえも必要なく、人はただそこに生きている。
「ほら、余計なこと考えてないで姫さんはもっと食え、育ち盛りだからな」
「誰が育ち盛りだっ!」
 立ち上がりかけたわらわの袖を、苑が掴んでいた。
「二度と、今のようなことは仰らないでくださいませ…」
「……」
「誰がなんと言おうと、私は希子様には生きている資格があると思います……いえ、生きていて欲しいのです」
「……」
「約束してくださいませ」
「……」
「希子様…」
 切れ長の瞳から、涙が一筋流れて落ちた。
「わかった…二度と口にせぬ」
 わらわは幸せなのだろう……蒸した魚を口に運びながら、わらわはふとそう思った。
 
「……何故だ?」
 海藻の代わりに野草を使い、あの日雲がしたのと同じように土に浅く埋め、その上でたき火をしたというのに、何故か真っ黒になってしまっている。
「……希子様」
 ため息がそのまま言葉になったようだった。
「こそこそと何をしていると思ったら、また炭焼きでございますか?」
「あやつにはできて、何故わらわにはできぬ?」
「……どこから突っ込めばいいのか」
 呆れたように苑が空を見上げている。
 海沿いを2日歩き、また方角を変えて山中を行く旅になっていた……これを旅と呼ぶのなら、だが。
「なんの騒ぎだ?」
「なんでもないぞ!召し物を替えてる最中故、こっちに来るな!」
 声がした方に石を投げた。
 またネチネチと文句を言われてはかなわんからな。
「苑、何が悪かったのかそなたにはわかるか?」
「雲殿が苦労して獲ってきた大事な食料を台無しにした希子様が一番悪うございます」
「それを申すな!」
「……私は希子様ほどではありませぬが、料理は不得手です」
「だったら…」
「自分に向いていないことには手を出さない……祖父の座右の銘でございます」
 わらわはじっと苑を見つめた。
「……あやつには、あやつの旅がある。それは分かっておろうな?」
「雲殿を無理矢理巻き添えにした希子様の口からその様なお言葉が聞けるとは…」
「苑…」
「……わかっております。ですが、まだその状況ではございますまい」
 ふと、あることに気が付いた。
「そういえば、わらわ達はどこに向かっているのだ?」
「さあ…とりあえず、みやこから離れていることは確かですが」
「なるほど……それは全然分かっておらぬと言う事だの」
「おそれいります」
「おそれいってどうする?」
 わらわは少しだけ苦笑し、口元を引き締めてから苑を見た。
「……何故、わらわと共にいることを選ぶ?」
「退屈しないからでございます」
「……話したくはないと言うことか?」
「それを語れば、希子様は失望されましょう」
「わらわは以前のような暮らしはできぬ。政以外は何も知らぬわらわだ……そなたに苦労をかけることは目に見えている」
「……」
 苑は小さく息を吐いた。
「私は、孤独でした……と、これではなんの事だか分かりませんね」
 小さく微笑んだ苑の表情は、これまであまり見たことの無かったものだった。
「小さい頃、祖父が私を見て嘆いたそうです…『この子は非凡故に孤独だろう』…と」
 苑は一寸言葉を切り、ため息混じりに呟いた。
「子供の頃からいつも違和感を感じていました……同じ言葉を話しても、意味が通じ合えぬ相手ばかりだった故」
 わかる…ような気がした。
「色々なモノから目を背け、耳をふさぎ……本当の意味で会話ができたと思えたのは、希子様が初めてだったのですよ……いっそ、その楽しみさえ知らねば幸せだったのかも知れませぬが」
「無理であろう……一度知ってしまえば、それを無かったことにはできぬ」
「……さようでございます」
 苑は小さく頷く。
「……自分の才を思う存分振るえる場を与えられなかった哀しみよりも、人としての哀しみを、祖父は自分の父である曾祖父を見て知っていたのでしょう……誰よりも早く、故国の滅亡を見抜いた曾祖父もまた孤独であったのでしょうから」
 気が付くと、苑の遠い瞳がわらわを見つめていた。
「ですが、非凡故孤独なのではなく、私には才が足りぬのです……他人を理解するという才が。ですから、私は希子様のそばを離れませぬ……独りは嫌でございます」
「……わらわのどこが非凡だ?」
「非凡という言葉が希子様のお心にかないませぬならば、異質と言い換えてもよろしゅうございます。人は、己には理解できぬものを恐れるものでございます……おそらく、希子様の父君は希子様が憎いのではございますまい。希子様が恐いのです…」
 そう言って苑は目を閉じた。
「……その言葉、心に刻みつけておこう」
 わらわも目を閉じた……ふと、先日見た空と海の景色が浮かんでくる。
「おーい、そろそろ飯にするぞー」
「……あやつも、この世においては異質か」
 わらわと苑は、雲のいる方に向かって歩き出した。
「随分と時間がかかったな…」
「おなごの着替えには時間がかかる…覚えておくがいい」
「……時代を超えた真理か」
「…?」
 雲が見つめるたき火のまわりには、棒に刺さった獣肉が脂をしたたらせ、そのたびにジュウジュウと音をたてている。
「また、肉か?」
「イヤなら食うな」
「誰がイヤと言った?」
「そろそろ、鍋が欲しいですわね……希子様が妙なことを考えないように」
「……」
 裏切り者め。
 黙り込んだわらわを窺うように雲が見つめてくる。
「……炭か?」
「炭でございます」
「ええい、終わったことをガタガタ申すな!」
「ま、それはそうだ…」
 あっさりと引き下がり、雲は獣肉の1つを手に取った。
 腰にぶら下げた袋をわらわに放ってよこす。
「塩だ、二人ともなめとけ」
「……なるほど、そのために一旦海に出ましたか」
 苑の呟きを聞きながら、わらわは袋の中に指を差し込んでそれをペロリとなめた……塩を失うと、人は動けなくなる。
 旅慣れた人間は機会がある毎に塩をこうして持ち歩くことも初めて知った。
 わらわの沈黙を疑問と受け取ったのか、苑が囁きかけてきた。
「元は海の水でございます」
「いや、別に岩塩なんかも…」
 ああ、とわらわは小さく頷き、獣肉に手を伸ばした。
「姫さん…」
「はんは?(なんだ?)」
 わらわは、獣肉にかぶりついたまま雲を見た。
 最初はヌラヌラと唇にまとわりつくような脂に少し抵抗を覚えたのだが、慣れてくるとこれはこれで美味であると思えるようになった。
 焼けた部分をかじり、また火にかざす…その繰り返しである。
「希子様…お行儀が悪うございます」
「食事中に話し掛ける方が不作法であろ」
「おいおい…どの口でそんなことを」
 雲が苦笑する。
「で……なんだ?」
 口元の脂を草の葉で拭い、わらわはあらためて雲を見た。
「逃げるにしても、そろそろある程度の目安は付けておきたいんだが、どこかあてはあるのか?」
 わらわの口利きで官を得た人間は多いが、それを恩義と受け取り、また忘れぬような人物で、周囲地域に父上の息がかかった人間がいないとなると大分限られてくる。
「……そうだな」
 今こうしているように、人里離れた山奥でひっそりと……わらわには無理か。
 ふと、気が付く。
「雲、そなたにも行くところがあろう?」
「いや、気にしないでくれ」
「人を捜しておるのだろう?わらわが今更こう言うのは言語道断かも知れぬが、ゆっくりとしていては……」
「今探しても無駄だ」
 雲の言葉がわらわの口をふさがせた。
 合点はいかぬが、それが真実なのだろうと何故か納得してしまう……が、苑はそう思わなかったらしい。
「何故でございます?」
 雲はただ微妙な笑みを浮かべただけだった。
 
「随分と荒れておるの」
「手の入った田は多少ございますが……」
「多分、近年の飢饉の影響だろ…死んだか、土地を捨てたか」
「……この地の受領(ずりょう)がまともな人物ではないと言うことでもあるな」
 聞き慣れない言葉を耳にしたという表情を見せている雲に向かって、わらわは手短に説明した。
 年貢を取り立てるのは国司であり、国司と言っても守や介などのいろんな役があるが、我が藤原北家一門や皇族はこれらの国司に任じられても実際には任国に赴かず、都にいて年貢だけを受け取る。(いわゆる揺任)
 そして、その連中に代わって任国に行く国司を受領と呼ぶのだが……この受領のほとんどは農民達からしたたかに年貢を取り上げ、揺任の上役に適当な額の年貢を納め、残りは全て着服する。
 もちろん、それは飢饉であろうがお構いなしだ。
 雲に対してこのようなことも知らぬのかという疑問を抱くことも無くなった。わらわだけでなく、苑もまた薄々は気付いているだろう。
「風土記を読む限り……この国は本来もっと豊かなのだとわらわは思う」
 何故、農民が飢えに苦しむのか……小さい頃、それがわらわにはどうしても納得がいかなかった。
「国としてのあり方がどこか歪んでいるのだろう……」
「……本来、この国はもっと豊かか」
 ぽつりと呟かれた言葉に振り返ると、雲は何故か神妙な表情で手を見つめていた。
「少なくとも、そなたの責任ではあるまい」
 わらわの言葉に雲は力無く笑い、そして静かに首を振った。
「いや、俺の責任が無いとも言えないだろうな…」
「……何?」
 わらわの問いには答えず、雲は空を見上げて呟いた。
「もうすぐ雨になるな……どこか休めそうな場所を探そう」
 天気を読むということに関して、雲の言葉が外れたことはない。
「あちらの方に、社のようなモノが見えます…」
 苑が指さす方向に、なるほどそれらしき建物が見えた。
 
「計ったように降り出しましたね…」
 小さな社……と言っても、都にある寺に比べてのことだが、その軒下で肩を並べながら揃って空を見上げる。
「……これは、明日まで止まないな」
 と、雲がさっさと社の扉を開き、軽く頭を下げてから中へと入っていったのを見て、わらわと苑も同じようにして後に続いた。
「この社は、何を祀ったものであろうか?」
「元々は地母……いや、豊穣の神を祀っていたような匂いだが」
「はあ…匂い、ですか…」
 どことなく納得できないように苑が呟くのも無理はないか。
 雨のせいか肌寒ささえ感じていたのだが、社の中に入ると途端に肌寒さは消えた。
「都の近辺は仏教だらけだが、地方に来るとそうでもないのだな……」
「……この国古来の信仰で、神社の形を取ったものは幸せと言うべきなのかな」
 ぽつりと雲が呟く。
「……どういうことだ?」
「神社は仏教と習合することで保護されたからな……もちろん、習合されることを拒否した信仰は潰されたし、たとえ習合することを受け入れたとしても信仰固有の形を失っていく歴史が幸せかどうかは判断しがたいが」
 雲の顔をじっと見つめていた苑が、口を挟んだ。
「詳しいのですね」
「聞きかじりだよ…」
「人の心の中にだけある信仰ならば悪くはないのでございますが」
 しみじみと呟かれた言葉を聞き、そういえば苑を相手にそういう話をしたことがなかったことに気がついた。
「苑には……何か信じているものはあるのか?」
「祈れば救われる……そんなお手軽な生を送りたいとは思いませぬ」
「……」
 仏教をはじめとする宗教と、天地にみられる八百万の神への信仰は、全然違うと思うのだが。
「強いて言えば、希子様を信じております」
「雲、そなたは?」
「希子様、人の話を聞いておられませんね」
「真面目な顔で恥ずかしいことを申すな!」
 苑は小さく笑い、ぽつりと呟いた。
「神や仏の存在を否定するわけではございませぬが……やはり、希子様のように恥ずかしく感じたりされるのですかね?」
 ふと、大勢の人間が自分を敬い奉る光景を想像してみた。
「……す、少なくともわらわには耐えられぬな」
「そうでございましょうとも…」
 苑は小さく頷き、言葉を続けた。
「神や仏は控えめに心の中で信じていればいいのですよ……自分の身をなげうったり、ましてや他人に信仰を強要する必要がございましょうか」
「関係者が血相変えて怒鳴りつけそうな台詞だな…」
「おや、雲殿は何かご信仰を?」
「や、俺の存在が既に人外っぽいし…」
 苦笑する雲に向かって、わらわは問うた。
「雲、そういえばそなたさっき妙なことを申したな……そなたの責任がどうとか」
「ああ、そうかも知れないな…」
「話せ」
 と、苑に袖を引っ張られた。
「希子様、殿方の過去を語らせるためには情緒が必要でございます」
「またわけの分からぬ事を……」
 わらわは袖を引っ張る苑の手をぴしゃりと叩いてから、じろじろと社を観察する。
「豊穣の神というと、唐土における社(土地の神)の様なものか?」
「そういう難しい事を俺に聞くな」
 雲が苦笑するのを見て、わらわは言った。
「ならば難しい顔をするでない……話したくないことはそう申せばよい。わらわがそれを無理強いするようなはしたなき者とでも思っておるのか?」
「わかった。それについては話したくない……これでいいか?」
「それでよい、妙な気を遣うな…」
「希子様が他人に気を遣われるなど……長生きはするものです」
 これ見よがしに苑が袖口で口元を覆っている。
「からかうでない」
「からかわれたくなければ、たまには私にも気を遣ってくださいませ」
 そう言ってにこりと微笑む……何か含むところがあるのかどうか、ちょっと判断のしにくいところであるな。
 そんなわらわの心を知っているのかいないのか、苑はただ微笑んでいる。
 キィィ……
 雲、苑、わらわの視線が奥の扉に集中した。
 扉の影から、顔だけを出してこちらを見つめている少女が1人。
 雲と苑の表情からして人の気配を感じていなかったことは確かなようだが、姿をそこに現してなお気配がない事がわらわを少し驚かせる。
「旅の方ですか?……入り口には鍵がかかっていたはずなのですが」
「雲よ……1人旅をするといろいろ大変なのだな」
「そりゃ、鍵はかかっていたが……」
 雲は少女を見つめ、ぽつりと呟いた。
「この社、入り口はそこだけなんだよな?」
「はい」
「……?」
 雲と少女の会話の意味が理解できず、わらわと苑は同時に首をひねった。
「どういう意味だ?」
「いや……鍵がかかっていたのは事実だが、鍵は扉の外についていた」
 数瞬の間をおいて、わらわは少女の方を振り返る。
 閉じこめられていた……と言うことなのか?
「異国の物語で封印を解かれた魔物が封印を解いたものを食い殺すというお話があると聞いたことが…」
「物騒なことを申すでないっ!」
「魔物……ですか?」
 扉の影から、元は白かったのであろうが、今は見るも無惨なほど薄汚れた衣に全身を包まれた少女が姿を現した。
「……ほう」
 感嘆にも似たため息が漏れる。
 こうしてあらためて見ると、わらわほどではないがなかなか見目よろしき……む、なんだこの視線は?
「……苑、雲、何が言いたい?」
「いや、別に…」「別になんでもございませぬ…」
 わらわの美しさに気圧されたのか、苑と雲が同時に目をそらした。
「……変わってますね、あなた達」
 少女はぽつりと呟き、わらわ達から少し離れて腰を下ろした。
「……もしや」
 苑がふと顔を上げ、少女に向かって言った。
「あなたはこの社を管理する者ではなく、歩き巫女なのでは?」
 少女が小さく頷いた。
 なるほど、そういうことであったか。
「近辺の村人から何か依頼を受けたのであろうが……閉じこめて村人との接触を許さぬぐらいなら、最初から何も頼まなければ良かろうに」
「私がみなに何か災いをもたらすのでは……と、心配してるのですよ」
 少女はちらりとわらわに視線を向け、小さく笑った。
「あなた達の反応の方が異常です」
 それまで沈黙を守っていた雲が、顎のあたりをさすりながら呟いた。
「外法を社の中に入れた…だと?」
「村人の心が離れたのが先か、神霊がこの地を捨てたのが先かはわかりませんが……そういうことだと思います」
「そうは思えないが、ここが廃地(すたれち)だと?」
「そう思っていました……あなたがここにやってくるまでは」
 少女に見つめられ、雲はどことなく居心地悪そうに見えた。
「……手入れは行き届いているように見えますが、どういう意味でございますか?」
 きょろきょろと社の中を見回しながら呟く苑に、少女の視線が向けられた。
「社は社に過ぎませんから……ついさっきまで、この社には神域たる気配が微塵もありませんでした」
 どういう表情をすればいいのか悩んでいるような顔つきで、苑が雲を見た。
「何か良からぬ想像をしているようだが、多分違うぞ」
 苑と雲のやりとりなど耳に入らぬのか、少女は再び雲を見つめ始める。
 これまで巫女という存在を幾度か目にしたことがあるが、少女が纏う雰囲気は明らかにそれとは違っていた。
 京において巫女と言えば女と相場が決まっておるが、東(あずま)には男巫女がいるという……それをみやこの人間が異風と感じるように、少女もまたみやこの巫女とは違うのか。
 ふ、と少女が大きく息を吐いて目を閉じた。
 それがきっかけとなったのかわらわ達は言葉を失い、雨音だけがあたりを支配する。
 静寂を引き寄せたのが少女であったならば、その静寂を破ったのはまたも少女が大きく息を吐く音であった。
 少女の目がひらかれる……雲を見つめる瞳に微かな憐憫の情が浮かんでいることが妙にわらわをいらだたせた。
「……呪われておいでですね?」
 微かに、雲が嫌悪感を表情に滲ませた。
「呪われてるとは思っていないが」
「祝福も呪縛も同じ事です……それが人の手に余るならば」
 少女はほんの少しだけ語尾を震わせ、そして気を取り直すかのように深呼吸し、言葉を続けた。
「苦しむだけでございましょう」
「よさぬか」
 少女がちらりとわらわを見る……見ただけだ。
 わらわの言葉が少女の心になんら響くモノがないのは明らかだった。
 
 
             偽エア(WIND)前編 了
 
 
 むー、こりゃ真剣に文庫本ペースなんで一旦ココで切るっす。(笑)
 前回、削りに削ったもんで後半口元半笑い状態……と言うか、今回にちとしわ寄せが来ましたな。(笑)
 個人的には渾身のパロディ(笑)のつもりなんですが、パロディと認めてくれる人はどのぐらいいるのかなあ……その前に、読む人がいないか。
 しかし、考えてみたら前回から1年半以上も間が空いてますな……平安時代関係の資料とか読んでる内に、元々考えていた構想にほころびを発見して、それを繕うのに時間がかかってたんですけど。
 というか、何で高任ってば平将門の乱が1035年だと思いこんでいたんだろう?(笑)

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