安永三年(1774)七月・・・。
徳川将軍十代家冶の時代。老中田沼意次の時代と説明した方がわかりやすいかもしれない。
時の流れをせき止めるかのような徳川幕府のあり方に、時代そのものがストレスをため込み続けてそのはけ口をどこかに求めようとしていたそんな時代。
例年よりも暑い夏だったという・・。
「むう・・・。」
耳をつんざくような蝉時雨で目が覚めた。木々の隙間から差し込む光も容赦がない。
ぐうううぅぅ・・・。
蝉の声に負けず劣らずの腹の虫。ここまで空腹だと自分が寝ていたのかそれとも気を失っていたのか自分でもわからない。
日の暮れる前に山越えしてしまおうと思ったのだが、一晩かかっても越えられなかった上にまさか途中で腹が減って動くのが面倒になってしまうとは迂闊であった。ずっしりと重い懐のものを取り出して下草の上にその中身をぶちまける。
ざっと二十両はある。寝て食べるだけならば二年は楽に生きていける金額だ。俺は草の上に散らばった小判を見つめているうちに、何かこらえきれない思いが体の中から巻きおこりやおら抜刀する。
「くそっ!金なんかいくら持っててもこんな山の中じゃただのゴミなんだよ!」
怒りにまかせてそこらの枝を切り落としてまわる。そんな俺を冷静にさせたのは情けないことに腹の虫だった。
ぐうううぅぅっ。
「いかん、余計に腹が減ってしまう。」
どかっと地面に腰をおろして銭をかき集める。さっきの乱心の際に辺りの蝉は逃げてしまったらしく辺りは静かなものである。その代わり腹の虫が高らかにその存在を主張しだしたので台無しになったのだが・・。
「まあ、働かざるものなんとやらだ・・・。」
俺はため息混じりに呟くと、木々の間をかき分けるようにして獣道を探した。まあ、長い間旅を続けていたせいでそういう技術は身に付いている。働くのは面倒だが、この場合は背には腹はかえられん状態というやつだ。俺は自分自身を納得させるようにして呟きながら小柄(刀の鍔に差す刃渡り5寸程の細いナイフのようなもの。細工に使う)より少し小さめの小刀を両手に二本ずつ持って気配を殺し、ひたすら獲物が来るのを待った。
そうして待つこと四半刻。
がさっ。
野ウサギが二羽。通常なら一羽だけを狙うのだが腹が減っていると人間というのは途端にいやしくなる。俺の存在に気がついて左右に散った飯めがけて小刀を投じる。はじかれたように痙攣して地面に横たわる野ウサギ。もう一羽の方は走り出した勢いのまま向こうの草むらに突っ込んだようであった。少し心が痛んだが、二羽ともありがたくいただくことが一番の供養であろう。俺は草むらの中に消えた獲物を探して下草をかき分けていると、目の前にその獲物をくわえて俺の方を睨みつける小さな狼が現れた。親と死に別れでもしたのだろうか?ただ幼いとはいえ狼の誇りを体中に漲らせてこちらを牽制しようとしている。一瞬、腰のものに手をかけかけたがやめた。俺にはちゃんと自分の分が残っている。そんな俺の気配を察したのか、子供狼は獲物をくわえて向こうへと走っていった。
朗らかな気持ちでもう一羽のウサギに目をやると、そこにいたのは俺の獲物をを口にくわえた狐。視線がぶつかる。一瞬の間をおいて獲物をくわえたまま逃走を開始した狐めがけて俺は小刀の最後の一本を投じた。
ぶっぶー。
「むう・・。これが二兎を追うもの一兎も得ずということか・・・。」
俺が我を取り戻したときには辺りの草や木は全てなぎ倒されていた。
俺は刀を地面に突き刺すと子供のように地面に横たわった。相変わらず日は真上にあり、容赦なく俺を照りつけている。ふとのどの渇きを感じて竹筒を手に取る。軽い。
・・・・・・ぽとっ。
「ふうっ、太陽が一杯だ。・・などと時代をこえた冗談をかましている場合じゃないな。」
俺はせめて水だけでもと思って、沢を探してうろつき始めた。闇雲に歩くのではなく周囲の地形から考えて予想した方向に歩き始めてしばらくすると望み通りの沢に出た。
冷たい水でのどを湿らせてからゆっくりと口に含むようにして飲む。
ぐうううぅぅぅっ。
わがままな腹の虫である。それを情けなく感じて俯いた俺の目の前を銀色の鱗を光らせながら泳ぐ魚の姿が目に入った。思わず口元がゆるんでしまう。
小さな段差になった瀬で、水面から飛び出す魚を首尾良く三尾ほど捕らえると俺は意気揚々と火をおこしにかかった。小刀を使って枝を削り、ワタを取った魚の背に刺していく。その3匹を焼いている間にもう二匹程魚を捕らえておく。
ふと、向こう岸からこちらを窺うような気配を感じた。しかし、何と言っても2日ぶりの飯である。できるだけ機嫌良く飯を食いたいと思い、俺は足下の小石を拾い上げて対岸の繁みに投げいれた。
「誰だ?」
繁みからひょこっと顔を出したのは若い娘。といっても顔だけしか出さない。不思議に思って辺りを見渡してみると、対岸にその娘の着物らしきものがたたんで重ねてあるのに気がつき、やっと合点がいった。
おそらく村娘が水浴びでもしていたのであろう。あいにくこちらは飯のことで頭が一杯だったので全く気付かなかった。やはり気持ちの上でも飢えるのは良くない。
「すまぬ。俺はしばらくあちらを向いている。」
そう声をかけてから俺は娘に背を向けるようにして滝の方を眺めた。ひょっとするとあの娘が水浴びしている所に俺が現れたのかもしれないな。などと考えるとちょっと残念な気もしたが、とにかく今は飯。
がささっ。
「お武家様。もう結構でございます。」
凛とした透き通るような声音。先程見た顔立ちも美しかったような気がする。それよりもこんな人里離れた山の中になぜ娘がいるのだろうという疑問を全て押し流すように、また腹の虫が鳴いた。
川の魚は背中がおいしいという。が、今の俺にとっては何でも美味かった。とりあえず5匹の魚を食い終わりやっと一息つく。
「何か面白いものでも俺の顔についているのか?」
少し離れた場所で、俺が魚を食うのを微笑みながらみつめていた娘に声をかけた。
「いえ・・ただ、塩気も何もついていない川魚をそんなにおいしそうに食べる人をはじめてみましたもので・・。」
「2日程何も食わないでいてみろ。そうすれば俺の気持ちが分かる。」
「そんなものでございますか・・?」
「そんなものだ・・。」
ぐうううぅぅぅっ。
どうやらまだまだ腹の虫は泣きやまないらしい。確かに5匹とはいえ5寸程の小魚だと食べる部分はいくらも無い。俺は足下に転がしておいた棍を拾い上げた。
「あの、お武家様?」
「刀は差してるが単なる無宿人だ。そうかしこまることはない。」
「私、ちょうど買い物の帰りでお腹がすいてます。」
おずおずと声を出す娘にはどこか憎めないものがあった。
「塩もありますし、帰り道にみつけた茸もございます・・。」
「ふむ、それは豪勢だな。」
どちらからともなく笑みがこぼれる。俺は娘に背を向けると瀬の方に歩き出した。
魚が飛び跳ねた瞬間に、俺は棍で娘のいる場所へとえらの辺りを正確に突きあげる。娘は飛んできた魚のワタを抜き、塩をふって火にかけていく。
「この茸は何という名前だ?」
「村の人はヌメリダケとか呼んでましたが・・。母に言わせれば全部茸だそうです。」
そう言って無邪気に笑う娘はどこか浮世離れしたところがあった。わらしの様に魚の腹にかぶりつく食べ方も年頃の娘にしてはあまり褒められたものではない。
「この近くに村が?」
「一番近くの村まで2日はかかります。」
おそらく俺は訳が分からないという顔つきをしていたのだろう、慌てたように娘が言葉を継ぎ足した。
「あ、私は山に住んでますから。ここらの村の人たちにはヤマビトと呼ばれてます。」
「母親とか?」
「いえ、母が死んでから山に住むようになりました。だから1人です。」
娘1人が山で暮らす。そう言われてもぴんとこないのだがそれはおそらく大変なことなのでは無かろうか。娘は俺の顔を見ると何でもないように喋りだした。
「八分にされてたんです。母が死ぬと村にもいられなくなりまして・・。それでまあ産まれ育った村を遠く離れてこんなところにいるんですけど。」
『母が死んで村にもいられなくなった』ということは八分を受けた理由がこの娘にあったということになる。それも母親が死んだのは最近というわけでもなさそうだから子供の頃から1人で住んでいるというのだろうか。それは俺にとってにわかには信じられない事であった。
ちなみに村八分というのは盆・暮れ・正月などの行事でまわりに相手にされないことであり、その中で火事と葬式だけは情けをかけて貰える(つまり行事の八割は相手にされない)状態のことである。
とりあえず俺にわかったことは、川の魚はそのまま焼いたのよりも塩をかけて焼いた方が美味いということだった。
「ところで一番近い村はどっちの方角にあるんだ?」
「・・・貴方はどちらから来られました?」
俺が覚えていた村の名前を告げると、娘は眉根をよせて考え込み始めた。
「あの・・貴方がやってきた方向に戻ることになりますけど・・?」
「ふむ。大きな声では言えないが、できれば戻りたくないな。」
そうですよね、と娘が呟く。それならばその反対の方角ならどのぐらいかかるかと尋ねてみると娘はまたも眉根をよせて考え込んでしまった。
「険しい山を越えていくことになるので四日程かと・・。ただ、絶対に道に迷うと思います。」
「うむ、俺もそんな気がする。」
「お急ぎの用事があるのですか?」
「いや。大きな声では言えないが、ただ単に俺は逃げているだけでな。行方さえくらませれば問題ない。」
ふと娘が何か考え込むようにして黙り込んでしまった。
「俺が怖いか?」
「えっ?いや、そういうわけではないんですが・・。ただ・・誰かに追われるというのが良くわからなくて・・。」
娘の言葉通り、娘の目には俺に対する恐怖心のかけらもない。
「俺は無頼だから食うためなら何でもする。俺はお前の思うような人間ではないぞ。」
「じゃあ悪いことをしてきたのですか?」
小首を傾げるような娘の仕草にふと口元がゆるんでしまった。
「いいか悪いかはみんな人の都合にすぎんな。俺は誰かにとって都合の悪いことをして逃げている。・・・そんなところだ。」
娘は再び何かを考え込んでいる。
「あと十日すれば、私もあちらの村に行く用事がありますので道案内できますが?」
十日。微妙なところだ。追っ手に見つかっても逃げる自信はあるが面倒はごめんだ。人を斬るのは疲れる。
・・・?この娘は自分の住んでいるところで寝ろ、といっているのだろうか?
「・・・それはお前に迷惑がかかるんじゃないか?」
「この山の中には追っ手は入ってこれません。」
やけに自信たっぷりに言いきる娘の態度が少し気にかかったが、確かにそんな気分もしないではない。俺も登り始めるまではこの山がこんなにやっかいなものとは思っていなかった。それでもしかし・・・。
「お前1人で住んでいるところで俺が寝泊まりするわけにはいくまい・・。」
「何か問題でも?」
「いや、問題があるのはむしろお前の方ではないのか?」
「ご心配なく。ちゃんと貴方にも自分の食べる分ぐらいは働いて貰いますから。」
なんか説明するのが面倒になって、俺は結局娘の提案を受け入れることにした。
このぐらいは、ということで娘の荷を背負って道無き道をどんどんとためらうことなく進んでいく娘の後を追った。緑の切れ目のような狭く開けた空間にひっそりと建つ小屋。おそらく炭焼き小屋か何かに手を加えたものか?小屋に巻き付く木の蔓や覆い被さるような木の枝が廃屋さながらの雰囲気を醸し出している。
それでも中は意外と清潔な感じがした。おそらくまめに掃除されているのだろう。家の中だけならそこらの百姓の家よりも綺麗だ。家の裏手には泉があり、これはこれで住んでいるものにとっては暮らしよいのかもしれない。・・・冬が来るまでは。
夕食は昼間取った魚ののこりや山菜などですませた。娘の話しを聞けばやはりこの小屋は昔炭焼き小屋だったらしく、娘も炭を焼いたり、山菜取りや狭い畑を耕したりして生計をたてているらしい。しかし、娘1人で炭焼きとは恐れいった。あの重労働をよくこなせるものだ。・・・・・明日から俺がしなきゃいけないのだろうか?
俺は暗い気分で娘が出してくれた寝具へと身体を横たえた。疲れていたのか、久しぶりにゆっくりと安らかな睡魔に見まわれ俺は眠りに落ちた。
「・・もしもし、朝です!」
むくっ。俺は体を起こしてまわりを見る。
暗い。うむ、まだ夜だな。
「朝でございますうぅぅ・・・。」
糸を引くような娘の声に俺は仕方なく起きることにした。
一言でいうと重労働。
「お前、1人でこんな事やってたのか?」
「もう慣れました。」
あの華奢な体で俺と同じぐらいの荷を背負って涼しい顔をしている。家を空けることが多いのか、畑にはあまり手間のかからないものだけが植わっていた。それにしてもこれだけの事を1人でできるものなのかという俺の疑問を吹き飛ばすように、休むことのないその動きは実に手際がよい。
嵐のように一日が過ぎた。俺は娘のいれてくれた湯をすすりながらおそるおそる提案する。
「銭なら持ってるんだが・・・明日も働かないとだめか?」
「だめです。だって、働かないとご飯がおいしくないじゃないですか。」
にっこり笑ってそう言われると俺は頷くしかなかった。ここで娘に機嫌を損ねられると俺は間違いなく道に迷って死んでしまうに違いないだろうから・・・。
「そう言えばお前の名は何というんだ?」
「名・・・ですか?・・・・私、知らないんです。」
「何?」
「母は私のことをあんたとか、お前とか呼んでましたから。ひょっとすると名前を呼んだ事があったのかもしれませんが、おぼえてません。」
笑いながら喋る娘の言葉を聞いて俺は黙り込んでしまった。そんなことがあるのだろうか?単に自分がからかわれているのではないかなどと疑ってみても答えの出るものでもない。ひょっとすると自分の名前を名乗りたくないだけなのかもしれない。
「・・・貴方は何とおっしゃるのですか?」
「わけあって名は捨てた。・・・今は自分のことを『雲』と名乗っている。」
「雲・・・ですか?・・あのお空にぷかぷか浮かんでいる・・・。」
「風のむくままいろんなところを流れている。俺には似合いの名だと思うが・・。」
娘は口元に手をあてると何か考え込んでいるようだ。ひょっとするとこういう仕草がこの娘の癖なのかもしれない。
「じゃあ私は貴方のことをどう呼べばよいのでしょうか?『雲様』というのもなにかしっくりきませんけど、それでよろしいですか?」
「・・・様はよしてくれ。武士でもないしな・・。そうだな、『雲さん』とでも呼んでくれ・・。」
「わかりました・・。でも雲、という名はとてもお似合いですね。」
そう言った娘の顔には、自分と出会ってから初めて笑顔以外の要素が含まれていたように見えたのだが、そう意識したときにはもとの屈託のない笑顔に戻っていた。
「俺はお前のことをどう呼べばいいんだ?ずっと『お前』と呼ぶのも具合が悪い。」
「うーん。じゃあ、雲さんが私の名付け親になってくださいな。」
「名付け親ぁ?」
「可愛い名を付けてくださいね。」
そう言ってにっこり微笑む娘の顔は期待にあふれている。考えてみればおかしな話だ。最初から最後までかつがれているような気がするのだが、そう悪い気分でもない。
しばらくの間、いろんな名を考えてみたが、どうもぴんとこない。どこか浮世離れしたところのあるこの娘に対して、ありふれた名は似合わないのかもしれない。
「・・・・『くう』、ではどうかな?」
「・・・あの、私ってそんなに食べることが好きそうに見えるんですか?」
「いや、そうではない。空(そら)と書いて『くう』と読む。『雲』の俺に寝泊まりする場所を与えてくれたからな。」
我ながら上手くまとまったものだと思い、娘の方を見た。が、娘はそれが気に入ったとはとても思えない表情で黙り込んでいる。しばらくして、娘は俺の視線に気がつくと慌ててその場を取り繕うように笑顔を見せた。
「いい名ですね。」
「気に入らなかったか?」
「いえ・・本当に良い名だと思います。そう呼んでくださってかまいませんよ。」
そう言った娘の笑顔はどこか虚ろで、俺には空々しく感じられた。
刀を振るう筋肉と荷を担いだりする筋肉は別のものである。それに刀の場合、速さを求めて体を鍛えるのでこういう仕事にはあまりむいてないと思うのだが・・・。
「雲さん、大丈夫ですか?」
へたりこんでしまった俺の顔をみつめる娘は、少なくとも俺と同じくらいの力仕事をこなしている。それにもかかわらずこの余裕。俺は娘が差しだした竹筒に口をつけながら、疲れた身体にむち打って最後の荷を担ぎ上げた。
「今日はこれで終わりですから・・。」
日はまだ高い位置にある。青い空にはのんきそうな雲がぽつりと浮かんでいて俺とは大変な違いだ。
「雲さん、私は山菜を取りに行きますから家で休んでいてください。」
娘の提案はなかなか魅力的ではあったが、俺にも意地というものがある。俺はできるだけ何でもないという風を装いながら空に声をかけた。
「俺は川で魚でも捕ることにしよう・・。」
「はい、じゃあ川まで一緒に行きましょうか。」
娘は何故か楽しそうに笑うと、背負いかごを持って俺の前を歩きながらいろいろなことを尋ねてくる。その矢継ぎ早な口のきき方は好奇心というよりも、俺の質問を封じるためではないかと思われるほどに休み無く続いた。
「じゃあ、帰りに寄りますから。待っていてくださいね。」
「心配するな、道もわからん山を一人歩きするほど勇敢ではない。」
流れの速い瀬の大岩めがけて石を投げつける。脳震盪をおこして浮き上がってきた魚は俺が捕まえるより先に目を覚まして凄い勢いで逃げていく。
「むう・・。ここの魚ははしっこい(すばしっこい)な・・。」
当然つり道具など持っていない。とすると腰の刀か、手に持った棍でどうにかするしかないのだが・・・魚が飛び跳ねるような具合のいい段差は見あたらない。すねぐらいまでの浅さなら棍で突くこともできるが、あいにく腰の高さぐらいのこの流れではそれもできない。さてどうしたものかと下流の方に歩いていくうちに、おあつらえ向きの浅い流れになってきた。人の来ないところのせいか、魚影もかなり濃い。俺は半刻程で2人分としては充分な獲物をとらえることができて内心ほっとしていた。
自分が随分下流の方まで歩いてきているのに気がついて、娘と別れた辺りまで戻った頃には西の空が赤く燃え始めていた。後は娘が迎えにきてくれるのを待つだけなのだが、それも芸がないと思い、俺は水たまりのようになった所に木の葉を浮かべた。
集中、そして抜刀。
水面に浮かぶ木の葉が二つに分かれたのを確認してから、俺は刀の刃先が濡れていないのを確認する。
「雲さーん、帰りましょうか?」
対岸の繁みから娘が顔をのぞかせている。ひょっとすると今のを見られていたのかもしれない。俺は何気ない風を装って瀬の岩の上を跳ねるようにして向こう岸へとわたった。「これだけあったら足りるだろ。」
そう言って手にぶら下げていた獲物を娘に見せてやると、娘は少し意外そうな表情を見せて微笑んだ。
「随分、下流の方まで行かれたんですね?」
「・・・・わかるのか?」
「この辺りで、ハヤはいませんもの・・。」
そう言って背を向けた娘の背中からかごを掴み、俺が背負うことにした。
「・・・飯の用意は手伝わないぞ・・。」
不思議そうに俺をみつめていた空はその言葉を聞いて納得がいったようだった。足取りも軽く山道を歩いていく。ふと空を見上げてみれば一番星が瞬いていた。
一日の労働を終え、夕食もすますと静かな時間が訪れる。この数日で自分がすっかり娘の生活に馴染んでしまっているのが我ながら不思議であった。
最初は夕飯を食らうとそのまま倒れるように眠っていたのだが、今ではこうして娘と話をする余裕まである。
「しかし、こんな山の中で1人暮らしていて寂しくはないのか?」
いろりの中で薪が爆ぜる音がした。炭は普通冬になるまでは使わない。ただ、こんな山の中ではいくら火をくべてもどうにもならないような気がするが・・。
「・・・寂しいというのはいつも誰かが側にいる人が感じるものですよ・・?」
「・・・かもしれんな。・・・冬は山を下りるのか?」
「ここらの山は雪に閉ざされることはありませんから・・。」
それきり俺も空も黙り込んでしまった。
ただいろりの中でゆらめく炎を見つめ、薪が爆ぜる音に反応して時折身体を動かすぐらいである。
「・・1つ聞いてもいいですか?」
静寂を破ったのは唐突に口を開いた娘であった。
「・・・・」
俺の沈黙を肯定の返事と受け取ったのか、娘は俯きながら小さな声でぼそぼそと呟く。
「雲さんは・・・刀を持つということが怖くはないのですか?」
そんなこと考えたこともなかったせいか、俺が返答に窮して黙り込んでいると、娘がその問いを補足するように言葉を継ぎ足す。
「刀は人が殺せます・・1つ間違えれば自分が大切に思う人まで殺してしまいます。・・・それが怖くはありませんか?」
「・・・刀というのは使いようによっては誰かを守ることもできる。ただ、正直に言うと考えたこともなかったな・・。侍に言わせれば刀は己の魂らしいが俺にとっては道具にすぎないしな。」
単なる詭弁に過ぎないことはわかっていた。誰かを刀で守るということは、誰かを刀で傷つけるということになる。
「もし、人を殺すこと以外に使い道のない道具を持っていたら雲さんはどうしますか?」 2人の間に奇妙な雰囲気が流れ込んできていた。その雰囲気にあてられたわけでも無かろうが、俺は顎の辺りを指先でいじくりながら考え込んだ。
「・・・それは大事なものなのか?」
「ええ、生きるために必要なものだと思います。」
「ならば・・・捨てるわけにはいくまい。だとすればその道具は人を殺すのではなく、自分を生かすための道具ということだな・・。」
ただの禅問答とは思えなかった。この娘は、今確かに何かを伝えようとした。だが、俺の返答が娘を満足させたのかどうかはその表情から窺い知ることはできなかった。
蝉の声で目が覚めた。
いつもなら蝉が鳴き始めるより早く娘に起こされていたのだが・・・今日は一体どうしたのだろう?
小便のついでに畑の方に足を運んでみた。
「あ、お早うございます。」
娘は畑に水をまく手を止めると、俺の方に向かって微笑みかけてきた。
「手伝おうか?」
「いえ、もう終わりましたから・・。あまり水をやりすぎるとこの子達は死んでしまいますから・・。」
「・・そうなのか?」
「ええ、みんなそうですよ。与えすぎると死んでしまいます。」
娘はそう呟くとゆっくりと立ち上がる。
「今日はあまりすることもないのでお休みです。」
「担ぎ上げなければならない薪がまだいくつかあったと思うぞ・・。」
俺がそう反論すると、娘がくすりと笑った。
「雲さんは働き者ですね・・・お空に浮かんでいる雲に見習わせたいぐらいです。」
「むう・・空に浮かんでいる雲だって何か働いているのかもしれないではないか?」
「少なくともここから見る分には怠け者のようですけど・・。」
娘の言葉に俺はつい空を見上げた。今日は雲の動きが速い。空は風が強いのかもしれない。それでもやはり娘の言うように怠け者のように見える。しかし、それを認めると自分自身がバカにされたようで面白くない。我ながら子供じみているなと思いながらも、俺は娘に対して言葉を返した。
「いや、空の上から見ればきっと雲は働き者なんだ。」
「いえ、空の上から見ても怠け者ですよ。」
早朝から容赦なく照りつける夏の陽差しの様に、娘の反応にはとりつくしまもない。
「空から見ても・・・か。」
海沿いの小さな村で生まれた。
父の名は知らない。武士だったという噂だけは聞いた。何のことはない、母は手込めにされただけのどこにでもある話だ。俺を産むために母はしばらくそこに腰を落ち着けることになった。
海の碧に空の青。今はあの頃よりずっと空に近い場所にいるはずなのに、空はまだずっと遠くにあって自分を拒絶しているかのようだった。
「雲さんは・・・空が好きなんですか?」
「・・・空を求めていた・・・ということは好きなのかもしれん。」
求めていた・・・過去形にしてしまったが自分ではそれが正しくないことを知っている。自分でも何を喋っているのかわからないというのに、娘は黙って頷いてくれた。
「私が幼い頃、母が聞かせてくれた話にも空と雲が出てくるんですよ・・。母もこの話を誰かから教えて貰ったそうですが・・・。」
「ほう・・?」
娘の口が間接的とはいえ過去について語るのは初めてのことである。無理に聞くつもりは無かったが、話したいなら止める筋合いもまた無い。
「雲には行きたいところがあるんだそうです。空の向こうを目指しているのに、いつまで経ってもたどり着くことができない。なぜなら、雲は空にあってこそ雲であるから。空の向こうに行くためには雲であることをやめなければならないから。そんな雲の哀しみの涙が雨になるんだそうです・・。」
「あまり子供に聞かせる話しじゃないな、悲観的すぎる。とはいえ、俺もそんな話を母から聞いた記憶がある。」
母は確か雲のまま空の向こうにたどり着くことに意味があると言った気がする。
あの頃は何のことかわからなかったが、あの話は何か大事なことを俺に伝えようとしていたのだということが今ならわかる。
ただ、母が何を目指していたのかはわからない。まだ幼かった自分を残して消えなければならなかった理由。今その答えを知るものはいない。
恨んでいるわけではない。ただ、母がいなくなった時にもう二度と会えないような予感を覚えたにもかかわらず、涙の1つもこぼせなかった自分は人としてずれた方向に歩み始めていたのかもしれなかった。もう二度と母には会えない、それは俺の心の中で予感から確信へと姿を変えている。
「空の向こうには何があると思います?」
「・・・・空には果てがないと思っていたが?」
「空の向こうには虚(そら)だけがあるんです、きっと・・。」
そう言った娘の顔は笑っていた。
ただ、何か心の中の大事なものをなくしたような微笑みだった。
朝から強い雨が降っていた。
こんな日は家の中で手仕事をしてすごすのだろうが、あいにく俺はそんな仕事をしたことがない。せいぜいが縄をなうぐらいで、ここでは全くの役立たずな存在であった。
雨粒が勢いよく地面にはじけ、霧のように視界が白く染まっている。
聞こえるのは雨の音だけ。そんな単調な時の中で頭がよく働いていなかったのかもしれない。心の奥にしまい込んだ筈の疑問がそのまま口をついて出た様な感じであった。
「なぜ、八分をうけた?」
娘が繕い物の手を休めて顔を上げた。
「私のまわりの人が何人も死んだんです。・・・それだけのことです。」
穏やかな表情で語られる内容は俺の心をはげしく動揺させるに充分な内容であった。
「・・・よく八分ですんだな・・?」
「私が村にいると、稲の出来がいいからって。・・・ただの偶然だと思いますけど。」
俺は黙っていた。
いろんな事が頭の中で渦巻いている。昔わからなかったことが何かのきっかけでわかることがある。そんな思いを今味わっている。
「・・・ある日を境にしてだんだん身体が思うように動かなくなる。そしてそのまま衰弱して死んでいく。違うか?」
驚き、哀しみ、恐怖、悲しみ。そんな感情が一度にあふれかえるとこの娘のような顔になるのだろうか?
「・・・私は子供で・・・ただ、みんなそんな風に・・・」
娘の瞳に深い悲しみが宿っている。俺は娘が次に言う言葉がわかっていた。しかし、できることならそれを聞きたくない。答えを用意していない質問は苦手だ。まして答えが存在しない質問なら尚更のこと。
「・・・やはり、私のせい・・・なんですか?」
母は、姿を消す直前になっていろいろなことを教えてくれた。本当は俺に教えるつもりはなかったらしい。
人間1人の時間など大したことではない。ただ、その一瞬とも思える時間を気の遠くなるほどにつなぎ合わせてきた一族。そこまでして償うべきどんな罪を先祖が犯したのかは今ではもう定かではない。
地母神(ちぼしん)の娘。
その魂を受け継ぐもの。この世の輪廻に関わりのない存在がどうして輪廻の中に入り込んでしまったのか。そしてその輪廻を断ち切るためだけに時間をつないできた一族。
俺はその末裔。
「人は・・・自分の手を動かそうと思えば動かすことができる。ただこれ以上動かないものを動かそうとすれば怪我をする。」
どこかうつろな表情で娘が俺をみつめていた。それでいて、本当のことを知りたいという決意がほのかに見え隠れしている。
「お前は言ったよな・・植物は水を与えすぎると死んでしまうと。希にいるんだ・・普通の人には受け止めきれないほどの深い心を持った人間が・・。」
この娘に全てを話すつもりはなかった。人ならぬ魂を転生させた身とはいえ、この娘がそれを受け入れられるとは限らない。それ以前に俺は何の解決策も持ち合わせてはいないのだ。俺はただ単にこの娘に対して残酷な仕打ちをしているだけではないか?そんな思いが、全てを語ることに対してためらいを感じさせたのかもしれない。
ふと気がつくと、娘が真っ直ぐに俺の目をみつめていた。
俺は、娘の何かを責めるような瞳から目を逸らした。
この世の輪廻に囚われるはずのない魂。それは強い悲しみによってこの世に縛り付けられている、と母は言っていた。だとすれば気の遠くなるほどの長い時間、輪廻を繰り返す度、新たな悲しみによってこの世に縛り付けられてきた、ということなのか?
自分が思いをよせる相手は、みんなその思いを受け止めきれずに死んでいく。そんな永遠の孤独。
「・・・・私はいつまでも独りなんですね・・。」
俺が空を求めていた理由。
全てを受け止めることができそうなぐらい広い空。そこに行けば、そこにたどり着きさえすればその思いを受け止められるような気がしたから・・・。
それが手に入らないことを知ったとき、俺は名を捨てた。魂を継ぐものに出会えるかどうかわからないではないか、と自分の心に言い訳しながら無頼へと身を落とした。そんなはずは無いのである。母は言っていた・・自分たち一族は必ず彼女の魂と出会うことになると。その輪廻の断ち切られぬ限り・・・。
山を越えた向こうの村に行く日。この娘に出会ってから十日が過ぎた。
その日は朝からはげしい雨が降っていた。
「これでは、無理だな。」
「・・・そうですね。まあ、お天道様には逆らえませんよね。」
娘の変わらぬ明るさが不憫に思えた。ただ、ここ数日俺には少しひっかっかるものがあった。あの時、俺を責めるようにみつめていたのは何故なのか?
あれはまるで俺が嘘をついているのを知っていたかのような・・・。しかし、嘘をついたとしてもほんの些細なものにすぎない。
それから二日。
俺は三日前と同じように戸口から白く煙る光景を眺めていた。
「むう・・よく降るな。」
試しに軒下から手のひらを差しだしてみると、凄い勢いで雨粒がうちつけられる。俺は仕方なく腰を落ち着けると娘のいれてくれた湯をすすった。
そんな俺の様子を見て娘は穏やかに微笑むとおもむろに口を開いて話し出した。
「この雨、偶然だと思ってますか?」
娘のその言葉に心の臓をわしづかみにされたような感覚にみまわれ、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「・・・普通の人間はこんなことできないですよね?」
娘の瞳には感情ではなく強い意志だけが宿っていた。ここ数日、娘の視線を避けるようにしてきたせいで、まともに顔を見つめたのは久しぶりの様な気がする。
娘の頬の肉がそげていた。
「・・・俺の知っていることはみんな話してやる。だからもうやめろ・・。」
「良かった。・・・そろそろ限界かな、と思ってたんです。」
そう言って娘はにっこりと笑った。
「私には多分、自分のものじゃない記憶があるんです。でも、それは細切れのようなかけらばっかりで・・。」
俺の僅かばかりの知識によって、娘の記憶は少しずつ筋道が通ってくる。ただ、俺の一族についての説明はしなかった。特に意識したわけではないが、その方が何となくいいような気がしたからだ。俺は母が教えてくれなかったことを僅かながら知ることができた。長い歴史の中である部分は省略され、ある部分は間違って伝えられた一族の伝説。それのほんの一部分。
『思い』は互いの心がお互いに向かって開かれていない限り注ぎ込まれないということ。また、過去に数人その『思い』を受け止めた人がいること。それは・・・『思い』を受け止めるだけでは輪廻を断ち切るには足りないということを意味していた。
何が足りなかったのかは今の俺に知る術は無いのだが、過去に数人『思い』を受け止めるだけの人間がいたということが俺にとってはただ嬉しかった。
それでも、やはり娘にとってはにわかに信じられないことだったのかもしれない。少し浮かない表情を見せていた。現実として相変わらず娘は一人きりということが影響しているのかもしれなかった。
次の日、昨日までの雨が嘘のようにあがった。
「とりあえず、この道を真っ直ぐです。」
山のような荷物を背負い込み、娘がしっかりとした足取りで進んで行く。ここを道といいはるのはこの娘だけだろうなと思いながら俺がその後に続く。当然背中には山のような荷物がある。前日までの雨もあってか、足下が少々おぼつかない。
それでも三日目の夕方には無事に村はずれの山小屋までたどり着くことができた。持ってきた荷はこの小屋に置くらしい。代金と必要なものをいくらか買い付け、娘は言葉少なに赤く染まった空の方を見つめていた。
「何ぼうっとしてるんだ?早く帰ろうぜ。」
そう声をかけて、娘の背中の荷を俺の背中に背負った。
「えっ?」
「もうしばらくお前の所にやっかいになる。・・・・お前が迷惑じゃなければだが・・」
娘はしばらくぼんやりと立ちつくしていたが、やがて俺の言葉の意味を理解するとなんとも複雑そうな表情を浮かべた。
「気にするな・・・体の具合が変になれば出ていくさ・・。」
俺は娘を安心させるためにまた嘘をついた。
『思い』は決して距離に支配されない。どんなに遠く離れていても『思い』は空を駆けていく。一度病み始めたらもうどうにもならない・・・たった1つの方法をのぞいて。
安らかな寝息が聞こえる。
俺は娘を起こさないようにゆっくりと体を起こした。月明かりが娘の顔を白く照らしている。この娘と出会ってからはや一ヶ月が過ぎていた。
俺はゆっくりと立ち上がり家の外へ出た。
しばらく行くと目の高さにちょうどいい太さの枝がはりだしていた。
俺は重心を落とし、左手で鯉口を切った。
俺の足下にその枝は落ちてこなければいけなかった。枝の半ばに食い込んだ刀を引っ張るようにして抜き取った。
無名の刀だが良く切れる。手入れを怠っていたわけではない。
「思っていたより速かったな・・・。」
俺はそう呟きながら草の上に寝ころんだ。木々の繁みの間から星が瞬いている。
遠い空。
俺は空に手が届かなかったということだろう。前から自分でそう思っていたことを確認しただけのことだ。
ただ、俺はまだ一族の後継者を育てていない。これまで何とも思っていなかった一族の末裔としての強烈な義務感が突然俺の心を襲った。それまで俺は死ぬわけにはいかない。
俺は俯いたまま娘の待つ家へと帰り始めた。
耳を澄まして少し開けたままの戸口から中の様子を窺った。出てきたときと変わらぬ安らかな寝息が聞こえる。俺は静かに家の中へと入った。
娘はその寝息に負けず劣らずの安らかな寝顔をしていた。俺の心の中で葛藤が始まる。娘を置いてこの家を出ていき、限られた時間の中で子を作るか?それとも最後までこの娘とともにあるか・・。どちらにしてもこの娘の安らかな笑顔は失われるに違いない。
これからも果てしなく続いていくであろう時の中で、一族以外のものが輪廻を断ち切ることができるかもしれない。
心の中に浮かんだ淡い期待を俺は慌ててうち消した。もしそれが可能であるならば、一族が、いやこの俺がこの地にこうして存在するわけはないのだ。血を分けた一族のものでない限りこの輪廻を断ち切ることはできない。俺にはそんなうっすらとした確信めいた予感があった。
昨夜は綺麗な星空であった。それにも関わらず朝から雨が降っていた。夏に似合わぬ冷たい雨は細かな霧のように空からゆっくりと落ちてきていた。
「不思議ですね・・・。」
囲炉裏の炎を見つめながら娘が呟く。
「何がだ・・?」
「私・・・貴方の考えていることが少しわかるんです。」
「気のせいだろう?」
娘はゆっくりと首を横に振ると、俺の顔をじっと見つめた。
「お別れですね。」
馬鹿なことを・・・と言おうとして俺は体を起こした。だが、言えなかった。そんな俺の思いを知ってか知らずか、娘はまるでそこに屋根が無く、空が見えるかのように天井を見上げた。
「明日になれば雨が止みます・・。それまでは・・・」
肌の汗が2人の距離を限りなく近づける。娘は羞恥に息をあえがせながらぽつりと俺に告げた。
「私も・・嘘ついてたんです。私の名は、あえか。そういいます。」
その瞳が、そう呼んでくれと願っていた。
「・・・あえか。」
そう呼んでやると俺の身体にしがみついてきた。きつく、俺の背中に爪を立てるようにして。与えられた背中の痛みが俺を夢中にさせる。
幾度目かに果てた後、俺はぐったりとしたあえかの身体を抱くようにして眠りに落ちた。
浅い眠りの中で夢を見た。
俺とあえかが囲炉裏を囲んで笑っている夢だった。あえかの胸には我が子と思わしき赤ん坊がいる。3人を中心として暖かな光がまわりを包んでいた。
それが夢であることに俺は気がついていた。なぜならその光景を眺めているのもまた俺であったから。ただ、俺のまわりにその光は届かず、薄暗い闇の中でぽつんとその光景を見つめているだけである。ふと横に視線を向けると、そこには微笑みながらその光景をみつめるあえかがいた。
「あれは、夢ですね?」
「そうだな・・。でもやってやれないことじゃない。」
あえかは少し寂しそうに目を閉じた。俺はその姿にふと違和感を感じた。
「私に、少しずつ死んでいく貴方を見守れというんですか?」
「・・・俺は嘘をついていた。『思い』の前には距離をおいても関係ないんだ。それなら、ずっと一緒にいればいい。」
「残酷なほど優しい人ですね・・。」
そう呟いてあえかは光の中心部の方に顔を向けた。
「だから・・」
「ん・・?」
「だからお別れするんです。」
抱けば折れてしまいそうな儚げなあえかの雰囲気に、俺は今すぐ駆け寄ってやりたいのだがからだが思うように動かない。
「ここは私の心の中の風景なんです・・・。貴方のおかげでやっと1つだけあかりをともすことができました。これでやっと託せるんです。」
あえかは俺の方を見てにっこりと微笑んだ。
「貴方は死んじゃダメですよ。誰が悪いわけでもなくて、これがさだめなんですから。私達にはまだ時が満ちていなかっただけで・・・。」
あえかが何を言っているのか理解できない。それでも何か言わなければ、そんな思いが空回りして俺は何も口にすることができない。
「意志をつなぐことが今の私達の使命。次に会える時を楽しみにしてます。」
そういい残してあえかの姿がかき消えた。
俺が目を覚ますとそこにあるはずのあえかの姿はなく、外は目の前が見えないほどの凄い雨が降っていた。
悪い夢。
自分でも信じることのできない出来の悪い言い訳だった。俺は一睡もしないまま夜が明けるまであえかの帰りを待ち続けた。
不意に雨音がしなくなる。
戸口を出て空を見上げると、雨雲は影も形もなく東の空が白み始めていた。
あえかの姿を求めて家のまわりをうろついてみる。畑にその姿はなく、豪雨のためか作物はみなやられていた。踵を返した俺の目の前に、大人の二の腕程もある木の枝が張り出していた。
俺は重心を落として、左手で鯉口を切った。
太い枝が俺の足下に落ちたとき、俺の心の中の何かもまたどこかへ落としてきたような気がした。
俺は、手のひらで自分の顔を覆うと地面に膝をついた。
今あえかの魂は新たな悲しみを宿し、風になってこの空のどこかにいるのだろうか?
『次に会える時を楽しみにしています。』
あえかの言い残した言葉。あれはあえかの姿を借りた何者かの言葉であった気がする。もしあれが、あの声が転生した地母神の娘のものであったとすれば・・・。
意志をつなぐ。俺と彼女は・・・捨てごまだったと言うことか?
だから、俺達は出会うのだろうか?
血から血へと受け継がれていく意志と輪廻転生を繰り返す魂。何故輪廻は繰り返されたのだろう?
思いを受け止めた彼らには何が足りなかったのか?
頬に風を感じて俺は空を見上げた。あえかの心の中の風景が空っぽであったように、俺には空が何もない空っぽの器のように見えた。
『空の向こうには虚(そら)があるんですよ、きっと・・。』
俺の心にあえかの言葉がふと蘇った。
何もなかった彼女の心の中に1つだけできた夢。だから次に託せる・・・彼女は確かにそう言った。俺の心にふと疑問が浮かんだ。
悲しみによってこの世に縛り付けられたのではなく、無理にでも転生を繰り返す必要があったのではないか?と。
俺は慌ててその考えを頭から追い払おうとした。もし、そうであったならばあえかがあわれすぎる。あえかは虚(そら)を求めて旅立ったのではなく、いつかそれが現実となることを願って俺に全てを託したに違いないのだ。
俺は意志を受け継がなければならない。母から受け継いだ意志に、あえかから託された意志。
俺は小屋に戻ると、簡単に旅支度を用意した。それを背に担いで、ふと小屋の方を振り返った。
あえかと出会い、別れた夏。
これからも俺の心の中で夏はどこまでも続いていくだろう。
第一部完
時代も設定もかなり違うので偽エアです。(笑)経過はともあれ、発売日にゲームをやるというのは久しぶりだったような気がします。全ては会社を休んでまで秋葉原に出かけていった知人のおかげといえましょう。
週末を利用してごそごそとプレイしてました。感想としては〇〇シナリオとか、『森と岩の・・・』とか好きなことを2人で言ってましたが、おそらく第二部のサマーがシナリオを担当されていた人が思い描いていた世界観だったのではと推測しています。おそらくシナリオに一貫性を持たせるためにそうとう無理をしたんではないでしょうか?担当の方の苦労を思うといろんな意味で泣けるシナリオでした。知人は知人でオープニングの階段を駆け上がるシーンでプログラマーの苦労に思いを馳せる始末です。
冷静に考えると僕たちってとてもやな人間ですね。
おそらく『カノン』的なものを求めた人間にとっては少し物足りない物語だったのではないでしょうか。キャラとしては裏葉に人気が集まることでしょう。次点は晴子さんでその次は聖でしょう・・・って全部脇役かい!(笑)いや、裏葉はそうでもないか・・。
ついでに僕の趣味しか入ってないし・・。ちなみに『カノン』での僕のお気に入りは天野に香里に秋子さんです。・・・・どうやら病的なぐらい脇役にはまる質みたいです。
しかし、この話の中で登場させたあえかと雲(?)ですが・・・なんというか死んだ子の年を数える様な気分でした。やはり、途中でぽしゃったとはいえいろんな感慨があるというものです。(笑)ていうか、ちゃんと仕事探せよ俺、という感じですね。
さて、第二部は話の核心に迫るためにさらに過去(笑・・・何故笑う。)のお話しです。一応パロディの形を取っているいじょうは、少々ひっかけの部分を作らないと楽しみもないし・・。(笑)
設定こそ完成しているものの、話をどうもっていくかは3種類ぐらい考えてある中からさてどれを選ぼうかというところです。一部と違って結構な時間がかかると思います。でもまあ、手間をかけたからというわけではありませんがこの話や設定を気に入ってくれる方がいれば僕にとって幸いです。
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