「……」
 空の色が、変わった。
 通学途中、空を見上げた純一はそう思った。
「どうしたの、にぃに?」
「いや、空が高くなってきたなって思ってさ…」
 純一の言葉に、美也がため息をつく。
「変わってるよね、にぃにも……美也は、寒いの嫌い」
「別に、俺だって寒いのは嫌いだよ……でもなあ、やっぱり、冬の夜空は星が綺麗に見えるんだ」
「あんまり変わらないと思うけど…」
「そんなことないって。実際に見てみれば一目瞭然じゃないか?大体…」
「ああっ、うるさいうるさい、星馬鹿にぃにっ!」
 耳にたこができるほど聞かされた話を、なんで朝っぱらから……と美也が暴れ出す。
「いよう、お二人さん」
「やあ、梅原」
「……おはよう、諸悪の根元」
「……?」
 美也の言葉に、梅原が首を傾げる。
「そもそも、ウメちゃんのせいで、にぃにがおかしくなったんだからねっ!」
「そういや、もうすぐ冬か」
 なるほどねえ……頷く梅原。
 小学校からのつき合いだから、このあたりは理解が早い。
「美也ちゃんのおにいさまが、夜空の住人になる季節到来ってわけだ」
「冬だけじゃないもんっ!」
「ああ、わりぃ、わりぃ」
 と、梅原はニヤリと笑って。
「本格的に夜空の住人になる季節が到来の間違いだった」
「他人事みたいに言うなぁっ!」
 美也の猫パンチ……は、梅原の手がきっちりガード。
「いやあ、今思うと望遠鏡って子供にとってはコストパフォーマンス悪いよなあ……」
 小学校の夏休みが始まった直後、梅原の母方の祖母が可愛い孫のために……と、プレゼントしてくれた望遠鏡。
 もちろん、梅原だって最初は夢中になったのだ。
 純一と語らって、月を眺めたり、星を眺めたり……だが、それも精々一週間。(笑)
「にぃにを引きずり込んでおいて、ウメちゃんはさっさと飽きちゃって……今は今で、えっちな本を眺めながら『お宝だ〜♪』なんて叫ぶ、変な人に…」
「おいおい、美也ちゃん……それはごく正常な、男子のあり方だぜ?」
「そうかも知れないけどっ!」
 ちょっと顔を赤らめて、美也が梅原に詰め寄った。
「夏休みの間中、昼間は手製のプラネタリウム作成、夜は天体観測……どこにも遊びに連れて行ってくれないにぃになんて、にぃにじゃないもんっ!」
 高校生にもなって、1つ年上の兄に遊びに連れて行ってもらうことを願う妹もはたしてどうなのか……という言葉をギリギリでのみこんで、梅原は苦笑を浮かべつつ言った。
「最初は美也ちゃんだって…」
「にぃにがやってるからついていっただけだもんっ!」
 などと朝っぱらからブラコン宣言をかましている自分に気がついているのかいないのか。(笑)
「まあ、それはさておき……星ばっかり眺めてないで、地上の女の子にもちょっとばかり目を向けた方がいいじゃないか、親友」
 うんうんうんうん、と激しく頷く美也が考えている『地上の女の子』は、おそらく美也自身のことなのだろう。
「目を向けて……どうするんだ?」
「どうするって、そりゃあ…」
 梅原はちょっと困った表情を浮かべ。
「……どうなるんだろうな?」
「なんだ、梅原にもわからないんじゃないか」
「いやいやいや、美しいモノに惹かれるのは、人間の本能だぞ、橘」
「あ、それはわかるよ」
 と純一は微笑み。
「冬の澄み切った夜空を見上げていると、なんか心が吸い込まれそうに感じるんだよね」
「……」
 美也の肩に手を置いて、もう手遅れだという感じに梅原が首を振った。
「美也ちゃん、あきらめな…」
「う〜昔は本当に格好良かったのに〜」
 などと恨めしげに、美也が梅原を睨む。
「そうかあ?」
 と、梅原と純一が同時に首をひねった。
「ふつーだったよなあ?」
「まあ、ふつーだったな……美也ちゃんには、優しかったのは確かだけど」
 成績はまあまあ(上の下)、運動もまあまあ(中の上)……どこをどう美化して、こうなったのか?
「ふーんだ、星馬鹿にぃにっ」
 と捨てぜりふを1つくれ、美也は1人走っていく……もちろん、学校に向けてだが。
 後に残された2人はしばらくそれを見送り……気を取り直して歩き始めた。
「……梅原、剣道部に全然顔を出してないんだって?」
「憧れの先輩がいなくなっちまったからなあ」
 困ったもんだよ、と梅原。
「体育会系って、そういうの厳しいんじゃないのか?」
「昔はそうだったらしいけどな、最近はそうでもないみたいだ……幽霊部員に構う暇があったら、練習しようぜって事だろ」
「で、梅原の最近の憧れは?」
 こんな事には慣れっこだという感じに純一が水を向けると。
「うむ、森島先輩だな」
「へえ、どんな人?」
 ごんっ。
「な、殴ったな…たまにしか殴られたことがないのに…だったっけ?」
「いや、無理にネタを挟まなくていいから……どーせ、美也ちゃんが見てるから何となくつきあわされてるだけだろ?」
「まあな…っていうか、その人、そんなに有名なのか?」
「……それを知らないお前の方が心配だよ」
 と、梅原はため息をつき。
「輝日東高校男子生徒の一番人気っていうか、クリスマスのサンタ(ギャル)コンテスト知ってるだろ?2連覇だぜ、2連覇。かつて誰もなしえなかった連覇だけでもすげえってのに、今年はほぼ3連覇確実って言われてるぐらいだぜ」
 知ってるだろ……と言われても、純一にとってその手の情報源はほとんど梅原によるものなのだが。
「……要するに、美人だ、と」
「あったりめえだ、スタイル抜群で、ちょい天然というか……こう、男心をくすぐる仕草って言うか…」
 ああもう、どう説明したらいいのか……という感じに苦悩していた梅原がちょっと視線をあげた。
「まあ、百聞は一見にしかずというか……ほれ、あそこの2人連れがそうだ」
 と、梅原が指さす方に純一は視線を向けた。
「へえ、確かに綺麗な人だな…」
「そうだろうそうだろう、橘にもわかるか、あの魅力が」
 我が意を得たり……と言う感じに、梅原が頷く頷く。(笑)
 意志の強さを感じさせる唇のライン、すっきりとまとめられた後ろ髪……引き締まった体型。
「凛々しそうな人だな」
「ん、そういう意見は初めて聞いたが…」
 
「さて、と…」
 昼休み、食堂の席取りを梅原に任せて……純一は、梅原の食券を買い、あとは自分は何を食べようかと2秒ほど悩み。
「悩んだときはラーメン、と」
 安くてうまい……と評判の、ラーメンを選択。
 あながち大げさというわけでもなく、ここ輝日市の高校において、輝日東高校の食堂のレベルは本当に高い……と、いろんな高校を渡り歩いた定年間際の教師が力説していたぐらいだから、多分信憑性は高いのだろう。
「おまたせ」
「おう、悪いな」
 純一は、ランチトレイを梅原の前に置き、自分の席にどんぶりを置いた。
「ラーメンか?」
「みりゃわかるだろ……安いし」
「まあな、250円で食えるってのは、ありがたいよなあ」
 などと、梅原の寿司屋の息子らしからぬ発言。
 まあ、小さい頃から父親の仕事を見て育ち、寿司屋を継ぐ継がないはともかくとしてそれなりの修行っぽいこともさせられつつ育っているせいか……魚に関してはやたら詳しいし、味覚そのモノも優れてはいるのだが、いかんせんそれを高校生活で発揮する場が与えられることもほぼない。
「……お」
「どうした?」
「いや、いつもとスープが違う」
「まずいのか?」
「いや、逆」
「どれ…」
 と、梅原がれんげを手に取り。
「……なるほど、鰹節じゃなくて…トビウオかな、これは」
「……すごいな、わかるのか?」
「なんとなくな……つーか、ここの食堂って、ころころ味が変わるよな。まあ、飽きさせないためなんだろうけど……つーか、レシピが何種類も存在するって事か?」
 そう呟き、梅原は再び自分のランチへ……そして純一もラーメンに。
 ずー、ずっずっ。
「うん、うまい」
「……ほんと、うまそうに食うよな、橘は」
「だって、うまいし」
 グルメレポーター泣かせの台詞とは裏腹に、純一の表情は周囲の人間を引きつけてやまないのだが……梅原の味覚と同じく、特に交友関係が広いわけでもない純一が、学校生活でその威力を発揮することはやはりほとんどない。
「親父が、たまには店によれって言ってたぞ」
「まあ、あんまり好意に甘えるわけにも…」
 と、純一が苦笑する。
「寿司ってのは、もともとファーストフードみたいなもんだったんだとさ……」
「そうかも知れないけど…」
 少なくとも、今の寿司は高級だ……気軽にご馳走になるのは、いろんな意味で難しい。
「妙に食通ぶった連中より、橘みたいに、うまそうに食ってくれる相手に寿司を握るのが好きなのさ、親父は」
「わかった……また、美也と寄らせてもらうよ」
「おう」
 話を止め、二人して食事に没頭。
 ずずっ、ずっ、ずずっ。
「……ふむふむ、よきかなよきかな。食べ盛りはそうでなくちゃ」
「ん?」
 そちらを見るより早く、降ってきたそれがラーメンの中にぼちゃっと着地……いや、着水する。
 当然、跳ねたスープの一部が、純一の顔と制服に……と、そうさせた本人は気にも留めていないのか。
「おねーさんのおごり」
「はあ…どうも」
 毒気を抜かれて、純一は曖昧に頷くしかできない。
 微妙に校則違反ではないかと思わせる、くるくるっと巻かれた毛先を揺らして立ち去る女子生徒の背中を……梅原が食い入るように見つめていたり。
「しかし……わざわざ、唐揚げをスープの中に入れなくても」
 唐揚げってのは、そもそもからっとした食感を楽しむモノじゃあないのかなあ……と思いながら、既にその食感が失われているであろう、スープの中から頭だけをのぞかせている唐揚げを見つめる純一。
「……橘純一君」
「なんだよ、あらたまって?」
「その唐揚げ、くれ」
「は?いや、だって、スープを吸ってべしゃべしゃだぞ?」
「いいから、よこせっ」
 というが早いか、梅原はそれを奪って口の中に放り込み……そのお礼なのか、ほぼキャベツの千切りの野菜サラダだけが残ったランチトレイを純一の前へと押しやってから逃げ出した。
「……?」
 よくわからん……と首を振ったものの、純一はあまり細かいことを気にせずに、ラーメンの残りに箸をのばした。
「……はるかが迷惑をかけたわね」
 再び声をかけられ、純一はそちらを振り向く。
「は……と、森島先輩?」
「……?」
 純一に『森島先輩』と呼ばれ、女生徒は怪訝な表情を浮かべた。
「あれ?」
「……」
「あ、すみません……えーと、僕は2年の橘です。橘純一」
「……3年の塚原ひびき、よ」
「間違えてすみません……とすると」
 ラーメンに唐揚げを放り込んだ女子生徒が去った方向に視線を向けつつ。
「さっきの人が……森島先輩…ですか?」
「ええ、そうね…」
 ひびきは少し困惑した感じで、口を開いた。
「……なんというか、『おいしそうに食べる表情がグッド』などと言いながら、あなたのラーメンに唐揚げを…」
「はあ……まあ、その唐揚げは梅原が……ああ、なるほど」
 憧れの人の唐揚げだから、梅原がそれを奪っていたわけか……と純一が納得をする。
「……あ、困惑はしましたが、別に迷惑はかけられてませんので大丈夫です」
 まあ、ラーメンのスープをかけられたことは気にしない事にして。
「……」
「……あの?」
「あ、いえ……何故私が、はるか…じゃなくて、『森島先輩』だったのかしら?」
 そう聞かれて、純一は今朝の事を手短に説明した。
「……えっと、何故それで私が?」
「いや、凛々しくて綺麗な人だなって……人気があるって言うから、その、先輩の方かな…って」
「そ、そう…」
 微かに頬を染め…ひびきが俯いた。
「その、間違えてすみませんでした」
「……まあ、気にしないで」
 そう言うと、ひびきはちょっと早足でその場から立ち去った。
「……やっぱ、気を悪くさせたかな」
 純一はちょっとため息をついたが……気を取り直して、ラーメンの残りと、梅原が残していった野菜サラダをきちんと食べ終えた。
 
「……あれ、純一?」
「ああ、薫か」
 丘の上の公園で、夜空を見上げていた純一に声をかけてきた少女……純一や梅原の中学からの友人である。
「バイト帰りか?」
「まあね」
 と、薫は悪戯っぽく笑い。
「高校生だから、本当は夜の10時以降はダメなんだけどね……今日はドタキャンとかはいって、シフトが埋まらなかったのよ」
「おお、臨時収入か」
「正解」
 と、ポケットから取り出した封筒を、薫がひらひらと振った。
 実際の給料として手続きをすることが出来ないため、店長が自腹を切ってその分(もちろん色を付けて)をその場払いで薫に支払った……まあ、そういうことだ。
「つーか、こんな時間だから危ないぞ、家の近くまで送ろうか」
「いいわよ、デートの邪魔はしたくないし」
 と、薫はちょっと夜空を見上げ。
「純一の好きな季節だもんね。まあ、たまに見るのは、アタシも好きよ……」
「俺も、最近は冬ばっかりで…」
「嘘言わないの…夏休みに、ずっと天体観測ばっかりしてるって、美也ちゃんに散々愚痴こぼされたんだから」
「あれは、定期観測。ずっと続けなきゃ意味がないの」
「……今見てるのは、趣味、と?」
「そう」
 はあ、と大げさなため息をついて。
「ま、ほどほどにね」
 
「橘君、進路志望の提出がまだみたいだけど…」
「あ」
 純一は慌てて机の中を引っかき回し。
「ごめん、絢辻さん」
「あはは、大丈夫よ……まだ早いほうだから」
 と、純一からそれを受け取ったクラス委員である絢辻詞は、純一の差し出したプリントを見てちょっと首を傾げた。
「あれ、天体とか、そういう方に進まないの?私はてっきり…」
「あれは趣味だから」
「……ふうん、趣味で、文化祭のクラスの出し物に耐えうるほどの、プラネタリウムやら、解説やら、1人でどうにかしちゃうのね、橘君は」
「だから趣味なんだよ……人間、生きていこうと思ったら、好きな事じゃなく、得意なモノを選ぶ必要があるし」
「……お星様では生活できない、と」
「……というか、純粋に星を見るのが好きなんだ。観測とか、そういうことを考えずに、ただぼーっと、ひたすらぼーっと、星の動きを眺めていると……何か幸せな気分になれるというか」
「あはは…」
 詞が、ちょっと乾いた笑いを漏らす。
「それは、仕事にはならないわね」
「まあ、他に興味を持てることに出会うかも知れないし……ほら、人生一寸先は闇って言うから」
「そ、それはちょっと使い方を間違ってるかな…」
 再びの乾いた笑い。
「……っていうか絢辻さん、また高橋先生に仕事を押しつけられたの?」
「クラス委員を、雑用係と勘違いして……と」
 さりげない純一の仕草に気付いて詞は口をつぐみ、こほん、と1つ咳払い。
「……ストレス、溜まってる?」
「ちょっとね」
 そう答える詞の目は、いつもより少し鋭い。
 去年の冬……強烈な寒波の到来による冷え込みで誰もが家路を急いだそんな日の、手足が痺れるような寒さの夜中に、まさか人がうろついているはずもないという油断があったに違いない。
 本性を隠して優等生の仮面をかぶる詞の、ストレス発散の現場を……まあ、純一が偶然目撃したわけで。
 自分以外の誰も信じない……という詞をして、純一という人間が人畜無害のお人好しと判断せざるを得なかったのだろう。
「まあ、ほどほどに…ね」
「そうね、ありがとう」
 そう言った詞の口調と表情は、もういつも通りの皆に愛されるクラス委員長の絢辻詞のものだった。
 
「森島先輩っ」
「あら、梅原君ちょうど良かったわ…」
 などと、話し相手である純一をほっぽって2分……梅原は、純一の前にどかっと本を積み上げた。
「3年の教室まで、一緒に頼む」
「それはいいが…」
 純一がチラリと、森島先輩に視線を向けた。
「あの人は手ぶらか?」
「お前、先輩に重たい荷物を持たせようってのか?」
「……いや、何か釈然としないなって」
 などと首を傾げつつ、梅原と二人して大量の本を抱えて3年の教室へ。
「お疲れさま」
「いえ、おやすい御用っす」
 キラキラと白い歯を輝かせながら、梅原が曇りのない瞳で森島先輩を見つめる。
「……どうしたの、はるか?」
「あ、ねえねえおかーさん、この子、飼ってもいい?」
 ひびきは、ちらりと梅原の方を見てため息をつき。
「ダメです、元いた場所に返してらっしゃい」
「そんな……ごめん、ごめんね、ジョン。おかあさんが飼っちゃいけないって言うの…」
 別れの場面(子供と捨て犬)を演じる2人から離れて、純一はひびきの側へ近寄った。
「……なんですか、この小芝居は?」
「まあ、はるかは人気あるから」
 などと、再びため息をつくひびき。
「悪気が無くて忘れっぽい……危なっかしくて、ほっとけないと言うか」
「なるほど、それでおかーさんですか」
「そうね……少しばかり、相互依存の気配があるわね」
「度が過ぎなければ、相性の良さですむんじゃないですか」
「……」
 ひびきがじっと自分を見つめているのに気付いて、純一はちょっと狼狽えた。
「はい?」
「橘君は、医学とか興味ある人なの?」
「いえ、特には……なんでですか?」
「相互依存……って言葉を普通にわかってたみたいだから」
「新聞か何かで読みました……というか、塚原先輩はそっち志望ですか?」
「ええ、お陰様で…最近、推薦が決まったわ」
 と、ひびきが柔らかく微笑んだ。
「あ、そうなんですか。おめでとうございます」
 純一は純一で、穏やかな微笑みで祝福の言葉を口にした。
 純一は周囲に敵を作らない。目立たないから、というだけでなく、こうした裏を感じさせない言動がそうさせるのだろう。
 そして、それは純一の周囲にいる人間なら、百も承知なのだが。
「……」
「え…と、おめでとうございます…で、いいんですよね?」
「え、ええ…希望通りの進路だから」
 どこか繕うように、ひびきが笑った。
 良くも悪くも目立つ存在のはるかのお守りを続けるなか、純一のような存在は珍しかったと見える。
「ありがとう…橘君」
 と、純一にの雰囲気に誘われ、ひびきの微笑みは自然なモノになった。
「いやあ、いい雰囲気よね…そう思わない、梅原君?」
「そうですねえ……星にしか興味のない奴だと思ってたら…」
「……?」
 ひびきと純一が、同時にそちらを振り向く。
「いやいや、ひびきちゃんのあんな笑顔は久しぶりに…」
「橘のやつも、満更では…」
 などと、はるかと梅原が、これ見よがしのひそひそ会話を繰り広げていたりする。
「ちょっ、ちょっとはるか…」
 微かに頬を上気させたひびきが、はるかに詰め寄った。
「ひびきちゃん、おかーさんは許しませんよ」
 ぽくっ。
「いたぁーい」
「はるかが変なこと言うから」
「だってぇ…」
 ちらり、とはるかが純一を見る。
 その視線で、ひびきがはるかを心配してるように、はるかもまたひびきのことを心配しているのだなあ……と理解して、純一はちょっと笑った。
「う、なかなかのスマイル……ひびきちゃん、あの子、ひょっとしたらとんでもないプレイボーイかも」
 ぽくっ。
「いたっ、ちょっ、ちょっとひび…」
 ぽくっ。
 ぽくっ。
 ぽくっ。
「……ごめんなさい、おかーさん」
 涙目で謝るはるかを見下ろし、ひびきが頷く。
「わかればよろしい」
 そしてひびきは振り向き、どことなく気恥ずかしげな感じで頭を下げた。
「ごめんね、橘君」
「あ、いえ、面白かったですよ」
「そ、そう?」
 どう反応していいのかわからない……そんな微妙な表情をひびきは浮かべたのだった。
 
「……」
 12月に入り、本格的に空気が澄んできたようだった。
 実際は空気中のゴミ云々よりも、気温が下がることで空気中に含まれる水の量が減る事が決め手なんだそうだが……やはり、空気が澄んでいるとしか表現のしようがない。
 丘の上公園は、名前の通りに丘の上に……正確に言うと、丘の中腹を切り開いたような場所にある。
 本当は、街灯の明かりとかそういうものが邪魔なのだが……それを言い出すと、背後の山の中へ登っていくしかない。
 いや、実際に登ったことも数え切れないぐらいあるのだが、やたら時間がかかるため、ちょっと夜空を見上げる……という時には、無理な相談ともいう。
「……暇よね、橘君も」
「ああ、絢辻さん……?」
 純一の視線が、詞の顔から下へ。
「これ?」
 と、詞は右手に提げていた袋をちょっと持ち上げて見せた。
「割れたお皿とか、かけたお茶碗とか…」
「破片で、手とか切ったりしないようにね」
 その言葉に、詞は純一が気付かない程度に眉をひそめる。
「……まあ、文字通り粉々にするし」
「この公園だと、人目とかありそうだよ?」
「ここじゃやらないわよ、頭腐ってるの?」
「あはは」
 この場にクラスメイトがいたら、『い、今、絢辻さん、何か言わなかったか?』などと狼狽えたかも知れないが、純一は平然としたモノだ。
「人がいないところならいないところで、野良犬とか、変質者とか…」
 詞が、がん、と街灯の柱に蹴りを入れて。
「のほほんと、頭悪いこと言わないで。警報ベルと、スタンガン持ってるし、ストレスを発散しない方が私にとっては危ないの」
「んー、でもなあ」
「っていうか、橘君じゃ頼りにならない」
 詞の言葉に純一は頷き。
「言われてみれば確かに……絢辻さんが逃げる時間を稼ぐ事すらできるかどうか」
「……ちょっとは怒りなさいよ」
 がん、と街灯の柱にさらに一発。
 備え付けのゴミ箱と違って、まあ壊れたりするモノでもない。
 もちろん、純一は自分が詞をいらただせているのだという自覚がない。
「絢辻さんは、趣味ってある?」
「趣味ぃ?」
 詞はちょっと首をひねり。
「ないわね……何かしら自分のためになることしかしないもの、私。そういうのは趣味って言わないでしょ」
 それが何よ……という感じに、また一発。
「うん、1つだけ……でいいから、絢辻さんは趣味を持った方がいいかなって思う」
 詞はちょっと純一の顔をねめつけるような感じで見つめ。
「橘君と私は生き方が違うから」
「生き方が違うからって、何から何までねじれの関係じゃなくてもいいと思うけど」
「頭悪いくせに、時々理屈っぽくなるよね、橘君」
 毒舌と共にまた蹴りがでるか……と思ったが、でなかった。
「……訂正」
「え?」
「橘君はね、頭が悪いんじゃなくて、要領が悪いの……成績でいうなら、すぐにトップ10に持ってこれると思うけど、まあ、勉強だけじゃなくて、生き方そのものの要領が悪いとしか私には思えないわね」
「絢辻さんに誉められると、嬉しいなあ」
 詞がため息をつく。
「……誉め言葉と受け取るか」
「違うの?」
「『情けは人の為ならず』ってね、本当なのよ……誰もやらない仕事をやるのは、私も橘君も同じ。ただ、私はそれをさりげなく人に見られるように計算するけど、あなたは、本当に誰も見てないところでそれをやっちゃうのよね」
「多分、その計算は、誰にでも出来るって事じゃないと思うよ」
「……もうちょっと言葉の裏を読みなさい」
「……?」
「さっきの私の言葉を意訳するとね、『私はあなたが嫌い』って意味になるの」
「そうかな……なんか、絢辻さんには親切にされてる気がするけど」
 詞が再びため息をつく。
「……じゃあ、行くから」
「うん、風邪ひかないようにね」
 肩越しに、詞が純一を振り返る……どこか呆れた表情で、声は出さず、口パクで大きく『死ね』と言い残して、ふいっと前を向いた。
 それが読みとれなかったわけではないが、純一は苦笑を浮かべるのみ。そして詞の背中が見えなくなるまで見送り、純一は再び視線を空へと転じた。
 冬の代表的な星座の1つ、オリオン座が南の空に輝いている。
 オリオン座の左上の1等星、ベテルギウス。
 超新星爆発の兆候が観測された……と記事になったのはつい最近だ。
 星の寿命は、人間のそれを考えれば非常に長い……が、今純一が目にするその輝きは、何百年、星によっては何万年も前のモノである。
 同じ時間軸に身を置けば、すでにベテルギウスは爆発を起こしてその生を終えている可能性もあるのだ。
「……俺が死ぬとき、まだ輝いているのかな」
 人もそうだが、星だっていつ死ぬかわからない……。
 
「人生に必要なモノは、勇気だと思う……そう、ちょっとした勇気が必要だと思うんだよ、俺は」
 拳を握りしめ、ぐももーっと盛り上がっている梅原に向かって、純一はちょっと冷めた口調で言った。
「で、何の真似だよ、これは?」
「人間の手ってのは小さくてな、1人じゃ何も出来ないことばかり……でも、2人になれば、それが可能というか」
「……早い話、水泳部の練習をのぞきたいから、手伝えって事か?」
「惜しいっ」
「なんだ、違うのか…」
 と、純一はちょっとだけ安堵のため息をついた。
「今日は、森島先輩が水泳の補習を受けることになっているんだ…ああ、温水プールよありがとう、輝日東高校よ永遠なれって感じだな」
「……のぞきは犯罪だぞ、梅原」
「かもしれん」
「いや、かもしれんじゃなくて、確実に犯罪で、停学間違いなしの、退学のジャンプアップまでオプションでついてきそうな行為なんだが」
「そうかもしれん」
「いやいやいや、落ち着けよ、梅原」
 などと、純一はなんとか梅原をなだめようと試みたのだが、反対に梅原ががしっと純一の肩を掴んで言った。
「正直に言うぞ、俺は森島先輩の水着姿が見たい…ただそれだけなんだ」
「いや、だからな…」
 格好良い言い方をしたところで、そういう問題じゃないだろ……という言葉の代わりに、ため息しかでない。
 ため息?
 いや、今のため息は俺がついたわけじゃないぞ……と、純一が振り返る……と、『一部始終は見てました』という感じで、物陰からひびきが現れて。
「……未遂の内に、連れて帰ってくれる、橘君」
 と、どこか浮かない表情で言った。
「……」
「……橘君?」
「……ああ、森島先輩の補習の付き添いなんですね」
 どん。
 肘で脇腹をつつかれ、純一は梅原を見た。
「(水泳部。塚原先輩は、水泳部)」
「(そ、そうなのか……って、3年の12月だぞ?)」
 もうとっくに引退してるはずじゃ……。
「(インターハイにもでてるんだよ、塚原先輩は。それも、決勝まで残ってるんだ)」
「(そ、それって、すごいじゃないか)」
 と、純一は素直に感心し。
「塚原先輩って、水泳部だったんですね、知りませんでした」
 どん、と梅原が脇腹を小突くより早く、ひびきの表情はさらに浮かないモノとなり。
「す、すいませんでした〜塚原先輩」
 などと言い残し、梅原は純一の腕を引っ張って、脱兎の如くその場を立ち去った。
 
「……ミッション失敗です、森島先輩」
「んー、奥手と鈍感同士の恋愛って難しいなあ、ホントに」
 などと、ため息をつくはるかを、図書室の一角でみかけたとか。
 
 そしてその翌日。
「梅原君、ちょっといい?」
 などと、クラス委員の詞に梅原は肩を叩かれ。
「何をたくらんでるの?」
「え、たくらむって、別に俺は…」
「何をたくらんでるの?」
 言葉は同じでも圧力が倍。(笑)
「え、えっと…」
「お友達の橘君に対して、梅原君は何をたくらんでいるのかしら?」
 言葉が変わって、圧力はさらに倍。
 ほどなくして、梅原は詞に全てを白状させられたのだった。
 
「……多分、いっぱいに伸ばしているつもりなんでしょうけど」
 そう呟きながら、ひびきは水泳部の後輩にデジカメで撮った動画を見せる。
「……あ」
「そう……あなたの手は、こんな近くに着水してるの。近くに着水するって事は、水をかく距離が短くなるって事で…一回の推進力が弱くなるって事」
「……回転をあげようとすると、どうしても」
「焦るなと言っても無駄でしょうけど、あなたはまだ1年……3年のインターハイを目標に仕上げていきなさい」
「……塚原先輩は、大学でも水泳を続けるんですか?」
「そのつもりではあるけど」
 ひびきはちょっと微笑み。
「多分、最初の2年だけね……3年になると授業がものすごく忙しくなって、練習の時間がとれなくなるはずだから」
「そうですか…」
「おーい、ひびきちゃーん」
「……」
「ひびきちゃーんってばー」
「……塚原先輩、ペットが騒いでますけど」
「ペットって…」
「世話好きですもんね、塚原先輩は……」
 と、後輩の少女は、皮肉さを感じさせない笑みを浮かべ。
「多分、年下の、素直だけどちょっと頼りない感じの人とつき合うタイプですよ、先輩は」
「……そうかも」
「え?」
 冗談のつもりで言った言葉に反応されて反対に驚いたのか、少女がびっくりしたようにひびきを見つめる。
「え?」
「いや、先輩……今『そうかも』って」
 ひびきの頬に、さっと朱が差して。
「そ、そんなこと言った?」
「……いや、気のせいだったかも知れません」
「そ、そう…」
「ひびきちゃん、何で無視するのー?」
「あの、塚原先輩…そろそろ、行ってあげたらどうです?」
「…そうね」
 ため息をつき、はるかの元へと歩き出したひびきの背中をじっと見つめる少女……七咲逢(ななさき・あい)はぽつりと呟いた。
「……まんざらでもないって事なのかな、あの反応は」
 
「ねえ、にぃに」
「ん?」
「逢ちゃんと、いつ知り合ったの?」
「……逢ちゃん、というと?」
 とぼけてるんじゃないよね……という感じに、美也がじっと純一の顔を見つめて。
「あのね、にぃにのこと、色々聞かれたの……『なんでそんなこと聞くの?』って聞いても、曖昧にごまかすばかりで」
「……1年に知り合いなんていないけどな…」
 と、ちょっと考える純一に向かって。
「水泳部の子だよ」
「水泳部……あぁ」
 純一がちょっと頷き……首を傾げた。
「その、逢ちゃんって女の子だよな?」
「そーだよ」
「じゃあ、わかんない……いや、この前、ランニングの途中で足をくじいた水泳部の一年を保健室までおぶって運んだけど、男子だったから」
「ふーん…」
 
「……ふーん」
 クラスの人間がほったらかした後始末を黙々とする純一の後ろ姿を眺めながら、逢は呟いた。
「まあ、善良な人なのは間違いなさそう……」
 さて、と……と振り返った逢の目の前に、にこにこと微笑む綾辻詞。
「……っ、な、なんですか?」
「何をたくらんでるの?」
 後ずさった逢と同じだけ距離を詰め、変わらぬ笑顔でぽんと肩に手を置いて。
「1年B組の七咲逢さん、この前からこそこそと何をたくらんでるの?」
「え、いや、その…」
「ちょっと、こっちへ…」
 学年が上だから……というより、もう目に見えない何かに圧倒された感じで、逢はおとなしく詞の後に続き(以下略)。
 
「……という感じで、いいと思います」
「わーお、完璧」
「そうですね、いいと思います……役者に不安は残りますけど」
「まあ、それはね…」
 などと、はるかに対して……残りの2人は不安そうな表情を浮かべていたりするのだが。
「ふふふ、これならばっちり……ひびきちゃんが幸せになる日も近いわね」
 当のはるかはそれに気付くこともなく、やる気満々だったりする。
「なんだか知らないけど、2人とも協力してくれてありがとう」
 と、その場を去ったはるか……の後に残されたのは、2年の絢辻詞と、1年の七咲逢。はるかでなくても、おかしな組み合わせと感じるだろう。
「……ところで、絢辻先輩は何のために?」
「と、言うと?」
「いえ、私と違って……塚原先輩と関係があるわけでもなさそうですし。橘先輩に好意を持ってるってわけでもないですよね?」
 ふっと、詞が逢を見つめた。
「何故?」
「いえ……絢辻先輩が橘先輩を見る目というか、ふとした拍子にキツクなるというか。親切でやってるとは思えないなって」
「へえ」
 と、詞が笑う……その笑みに、逢はちょっと寒気を覚えた。
「そういう鋭さは、秘めておいた方が火傷せずにすむわよ」
「……」
「でもいいわ…教えてあげる。私、橘君が嫌いなの……理由は目障りだから」
「目障り…ですか」
 逢は、そう呟き。
「……目立たない、いい人だと思いますけど?」
「だからよ」
 そう呟いて、詞はうっすらと笑った。
 
「ひびきちゃんはね……ああ見えて、微妙に私に対するコンプレックスがあると思うの」
「はあ…」
 いきなり何の話だろう……と内心首を傾げつつ、純一は曖昧に頷く。
「例えば、去年の冬……ひびきちゃんってば、サンタコンテストに出場するつもりで、衣装まで用意してたのよ」
「……?」
「えっと、その時、ひびきちゃんは水泳部の部長で……その、当日は、水泳部も屋台の出店とかあって、忙しいのよね」
「なるほど……無理をして、そういうのに出場するようなタイプじゃなさそうですよね、確かに」
「……ああ、なるほど。そういう意味だったんだ」
「え?」
「じゃなくてっ、そう、そうなのよっ」
 と、どこか慌てた感じではるかは頷く。
「それで、塚原先輩は、出場したんですか?」
「ううん、結局忙しくてダメだったの……って」
 はるかは純一に目を向けて。
「見てないの?」
「あ、去年のクリスマスは、山に登って星を見てました……あの日は、流れ星が3つも見えましてね。なかなか印象的な星空だったんです」
 などと、純一は記憶をたどりつつ、穏やかな笑みを浮かべて語るのだ。
「……」
「……どうしました?」
「……えっとね、なんというか、今年はひびきちゃんを優勝させようと思うの」
「どうやって、ですか?」
「……?」
 はるかが首を傾げ。
「……?」
 それを受けて、純一も首を傾げる。
「ごめん、今の間違い」
 ちょっと待ってねという感じに、はるかは何かを思い出そうとするように目をつぶる。
「えっと…ひびきちゃんと私の関係って、世話を焼く人間と、世話を焼かれる人間の関係なのよね」
「……そんな感じですね」
「えっと、ひびきちゃんが世話好きなのは確かなんだけど……世話を焼かなきゃいけない相手がいることで、必要以上にその役割を演じてしまうというか…」
 ふっと、はるかは口をつぐみ。
「え、私のせいなの?」
 今初めて気がついたという感じに、はるかが純一を見た。
「は?」
「だからあ、ひびきちゃんは私の世話を焼くことで……?」
 はるかが再びフリーズ。
 そして、純一は純一になりに、与えられたピースから、なんとか全体図を把握しようと努力し……もちろん、それが詞の計算によるモノなどとは夢にも思っていないのだが。
「え、えーと、要するに……塚原先輩は、森島先輩の世話をするという役割を必要以上に演じることによって、元々の欲求というか、そういうものをスポイルしている……というか、それが、森島先輩に対するコンプレックスにつながってると言いたいわけですか?」
「うーん、確かそんな感じだったと思う…」
 
「あの、絢辻先輩……やっぱり、ダメっぽいですよ」
「そう?」
 などと、物陰で詞と逢が話しているのはむしろ当然と言えよう。
 
「えっと、それでね、さっきの、ひびきちゃんをコンテストで優勝させる……って話につながるの」
「どうやって、ですか?」
「だから、ひびきちゃんを…」
「いや、梅原から聞いたんですが、そのコンテストって森島先輩が2年連続で優勝してるんですよね。今年も、間違いないだろうとか」
「えへん」
 はるかがぐっと胸を張り、ただでさえその存在を主張している柔らかそうな胸の膨らみを強調した……といっても、別に本人はそれを狙っているわけではないのだが。
 そして、純一は純一で、照れて顔を背けたり、ガン見するでもなく。
「えっと、2年連続優勝の森島先輩を破って、塚原先輩が優勝する……それで、コンプレックスを解消させようとか、そういう話じゃないんですか?」
「そうそう」
「でも、そのコンテストって、投票ですよね?」
「むー」
 と、はるかは不満そうに唇をとがらせ。
「キミは、ひびきちゃんが可愛くないわけ?」
「可愛いというか、美人だと思います。でも、そういうのって、人それぞれですよね?森島先輩に投票した人もいれば、他の人に投票した人もいるわけで…」
「だからぁ…もうっ」
 うーん、話が通じない…とはるかははるかで不満そうなのだが、これは当然純一だって困っている。
 そのコンテストで、純一がひびきに投票する……なら、これはとても簡単だ。
 だが、はるかは……ひびきを、コンテストで優勝させたいと言っているはずなのだが、純一の1票は、あくまでも1票に過ぎない。
 つまり、ひびきを優勝させたいから、自分に協力しろ……という話ならともかく、そういう話ではないのに、そういう話を持ちかけているとしか思えないのだ。
 簡単にいうと、はるかの言ってることは筋が通ってないというか、話がおかしい。
「……もう一度聞くわね」
「はい」
「キミは、ひびきちゃんが可愛いと…えっと、美人でもいいけど、そうは思わないわけ?」
「いえ、ですから…」
 この人、論理的なモノの考えができないのかな…と疑問を覚えつつ。
「数えるほどしか話をしてませんが、素敵な人だと思います。俺の感覚で言うと…塚原先輩と、森島先輩だと、塚原先輩の方が美人だし、素敵だと思いますよ」
「む」
 はるかの表情が曇った。
 同時に、物陰でそれを見守っていた詞が口元に笑みを浮かべたことから、どうやらこの台詞を引き出したかったのだろう。
「……面と向かって言われると、ちょっとショックかも…」
「あ、すみません……森島先輩が、魅力的じゃないとかそういう意味では…」
「で、でもキミは、私より、ひびきちゃんの方が魅力的だと思ってるのよね?」
「はい」
 そう答えつつも、またなんか、話がずれてきたような…と、純一の浮かべた困惑の表情に気付いたのだろう、『むー』と、はるかが不満そうにほっぺをふくらませた。
 そんな子供っぽい仕草が妙に似合うというか、見る人によっては不思議な色気を感じたかも知れないが、生憎純一の守備範囲外だった。
「……唐揚げあげたのに」
「え?」
「唐揚げあげたのに、キミはひどいこと言う」
「あ、すみません、そういうつもりじゃ……いえ、不注意な発言でした、すみません」
 そういう問題なのかよ…とか、そもそもひびきを勝たせるってそういう意味じゃないのか…など、ツッコミどころは満載なのだが、根が善良な純一は、不用意にはるかを傷つけてしまったことに気をとらわれている。
 つーか、唐揚げは梅原が食べてしまったのだが。(笑)
 はるかは、じーっと純一を見つめ。
「……キミ、結構可愛い顔してるよね」
「え?いや、それは、初めて言われました」
 じーっ。
 純一の頬を手で押さえて、はるかが顔を寄せていく。
「あの…森島先輩?」
「ねえ……私より、ひびきちゃんの方が、本当に魅力的?」
 はて、今の先というか、先のやり取りの後で、どう答えたらよいのだろう……と、純一は悩んだ。
 
「……ひょっとして絢辻先輩、この展開を読んでました?」
「ええ、橘君、要領悪いから」
「そうですか……」
 逢は、小さく頷き…ぽつりと呟いた。
「つまり、この場に……塚原先輩も呼び出してるって事ですね」
 詞は何も答えなかった……が、軽く逢の肩を叩いてからその場を離れ、逢もまた後に続いた…。
 
「ねえ…どうなの?」
 互いの呼吸を感じ合う距離で、はるかの瞳は純一をしっかりと捕らえて放さない。
 いや、純一は動けなかったのでも、動かなかったわけでもなく、ただ悩んでいただけだった。
「すみません、俺には塚原先輩の方がやっぱり魅力的だと思えます」
 不器用、というか、要領が悪いと詞に言わしめた純一の本領発揮の台詞といえよう。
「……」
「……」
「……き、傷ついた…」
「えっと…ですから、そういうのは、人それぞれだと思うんです」
 などと、はるかに言い聞かせようとする純一の声を切り裂くように。
「何してるの、2人とも」
 鋭い声だった……が、天然には通じない。
「うわーん、ひびきちゃん」
「え、え?」
 いきなりはるかに泣きつかれ、ひびきは純一を見た。
「あのね、あの子私よりひびきちゃんの方が魅力的だって言うのぉ」
「え、え、えぇっ?」
 ひびきの頬に薄く血が上り、はるかと純一の間を、いそがしく視線を走らせた。
 ここにいたり、純一はふっと背後に視線を向けたが……既に、詞も逢も、そこから逃走している。
 詞が言ったように、純一は要領こそ悪いかも知れないが、決して頭は悪くない。
「……あの、森島先輩」
「キミ、嫌い」
「ここに来る前、誰とお話ししてました?」
「え、絢辻さんと七咲さんだけど…?」
 きょとんとした表情で、はるか。
 これだから、天然ってやつは始末に負えない。
 そして、それはひびきにも伝わり。
「はるか…ちょっとそこに座りなさい」
「え…うん」
 
「さてと…」
 捕まったのか、それとも敢えて捕まったのか。
 はるか、詞、逢の3人を前に、ひびきは大きくため息をついてから口を…。
「あ、ちょっと待ってください、塚原先輩」
「……なに?」
 首謀者と思われる詞に対して、ひびきの向ける視線は鋭い。
「橘君は、ここにいない方が良くないですか?」
「何故?」
「いえ、話を進めると…塚原先輩が困りません?私は別にかまわないですが」
 ひびきの視線がちょっと泳ぎ。
「えっと…」
「あ、俺は席を外してます…」
 と、純一が教室を後にした。
 すると、何故かこれから問いつめられるはずの、はるか、詞、逢の3人がニヤリと微笑んだ。
「正直ちょっと傷ついたけど、ひびきちゃん、ゴー。大丈夫、青信号青信号」
「……まあ、お似合いだと思いますよ、塚原先輩」
「いい人じゃないですか?この前、帰り道なのに、ランニングの途中で怪我した水泳部の1年男子を背負って学校まで戻ってくれたぐらいですし」
「な、何なの…?」
「ひびきちゃん、彼のこと好きでしょ?」
「え……」
 ひびきが、目に見えて狼狽えた。
「やっぱりね」
 はるかは、笑みを浮かべて。
「ひびきちゃん、最近あの子の事をものすごく意識してたものね」
「べ、別に……す、好きとか、嫌いとか…そんな…」
 はるかは興味津々に、逢は微笑みを浮かべて、そして詞はどこか冷めた表情でひびきを見守る。
「だいたい…橘君の気持ちも…わからないし…私、年上で…すぐ、卒業しちゃうし」
「塚原先輩、それって、『好き』って気持ちを前提にした言い訳でじゃないですか?」
「あ…ぅ…」
 はるかと逢の2人が、楽しそうにひびきに向かって切り込んでいく。
 それを冷ややかに見つめていた詞だったが、ひびきの純一への意識付けが終わったと判断すると、ぱんと手を叩き。
「塚原先輩…じゃあ、そういう方向で、私たちは協力しますから。いいですよね?」
 皆に愛される優等生の微笑み。
 なんというか、ひびきにとってこの1対3は、分が悪すぎた。
 そして詞は……『まあ……あの、男をその気にさせる方が、100倍は難しいんだけど』……などと、心の中でため息をついていた。
 
「絢辻さん」
「なに、橘君」
 ぱっちりと開かれた瞳で、純一をのぞき込むように見つめる詞。
 クラスの……というより、学校の男子連中は、そんな風に詞に見つめられると、反応を隠そうと努めることも含めて、たいていは様々な反応を示す。
 純一は目に見えるような反応はしないが……それでも急に距離を詰められたりすると、少し戸惑うことがある。
「今、大丈夫?」
「ごめんね、橘君……今ちょっと忙しいの」
「そっか、じゃあまた後にするよ」
「うん、そうして」
 
 そして、放課後。
「それで、何の話?」
 表情はともかく、口調をがらりと変化させて詞。
「んー、絢辻さんなら、見当はついてるんじゃない?」
「どうかしら…橘君は、時々私の予想を激しく裏切ってくれるから」
「あはは、ごめんね」
「……橘君と違って、私の時間は結構貴重なんだけど」
「うん、だから余計に、というか」
 純一はちょっと言葉を切って。
「絢辻さんは、なんで俺なんかにそんなに気を遣ってくれるのかな?」
「……」
「……いや、ネクタイをそんな風に引っ張られると、首が絞まっちゃうんだけど」
「橘君の頭が半分飾りなのはわかってたけど、なに?その耳はついてるだけ?」
 ふだんと違った、とげとげしい口調。
 どこがどう変わったと指摘できるわけではないが、周囲に愛想を振りまいているふだんのそれとは随分雰囲気が違う。
 ふだんのそれが春の夜空なら、今の詞はさしづめ冬の夜空か。
 冷たく冴えて、近寄りがたいかもしれないが、余計なものが少なくなった分、よく見えるような気が純一にはするのだ。
「仕方ないから、もう一回言っちゃう。あのね、橘君。私、あなたが嫌いなの。えっと、意味は通じる?日本語平気?」
「あ、うん、大丈夫」
「……」
 がん、がたたっ…ごとん。
「……ケンカ売ってる?」
「とんでもない」
 腕と首を振って否定し、純一は倒れた机を起こし、床にぶちまけた中身を元に戻した。
「だったら、何でそんな寝言が出てくるわけ?」
「寝言っていうか……絢辻さん、俺と塚原先輩を仲良くさせようとか、たくらんでない?」
「あ、良かった……その頭、飾りじゃなかったのね」
「うん、まあそのぐらいの想像はつくよ……ぉぉぉ」
 ぐいぐいぐいぐい。
「それで、どこをどう考えたらさっきみたいな寝言が…」
「え、えっと、異性の知り合いを紹介してくれるって言うか、そういうのって一般的には、親切って言うと思うんだけど?」
「あれ、星馬鹿の橘君にも、ガールフレンドが欲しいなんて気持ち、あるんだ?」
「うん、そりゃあね」
 詞は当てつけるように、はあ、とため息をつき。
「へえ、あったんだ……だとすれば、星ばっかみてるから、橘君は周囲が見えないのね、きっと」
「あはは、よく言われる」
「うわあ、ムカツク」
「あ、ごめん」
「理由もわかってないのに謝られると、さらにムカツク」
「んー」
 純一はちょっと首を傾げ。
「とりあえず、絢辻さんは親切でやってると思われたくないって事かな?」
「……橘君って、私を怒らせる天才よね」
「あー、怒らせるつもりも、怒らせたくもないんだけど」
 のほほん。
「………」
 いらいらいらいら。
「えっと、あの…美也から聞いたんだけど、駅前の喫茶店のケーキが美味しいって…」
「橘君、一回死んでみる?」
「それは遠慮したいかな」
「だったら、黙って」
「あ、いや、ひとつだけいいかな?」
「……なに?」
 純一は、詞にちょっと頭を下げて。
「俺、星馬鹿とか言われても仕方ないと思うし、世間知らずで、絢辻さんが言うように、要領が悪いんだとも思う」
「……」
「だからね、絢辻さんの親切はありがたいと思うんだけど、できれば塚原先輩のことも気をかけてあげて欲しいんだ。俺と知り合っても、塚原先輩にはただ迷惑になるんじゃないか…とか、そのあたりは、たぶん絢辻さんの方がきちんと判断できると思うから」
「……私はいいんだ?」
「あ、絢辻さんなら、自分で判断するかなって」
「……」
「……?」
「あははははは」
 突如、詞が笑い出す。
「絢辻…さん?」
 やや不健康な笑いの後、詞の口から発せられたのは、呪いの言葉だった。
「2回死んで」
「人間、命はひとつしかないんだけど……」
「そんなの知らない。いい?2回死んで、絶対に」
 そう言って、詞は純一に背を向けた。
 
「……じー」
 見られていた。
「じじー…」
 ものすごく見られていた……というか、わざわざ『じー』などと擬態語を口にするあたり、隠すつもりが無いどころか、それを知らせようとしか思えないわけで。
「え、えっと…どうしたの、美也ちゃん?」
「……逢ちゃん」
 少女の目つき、口調、視線に、逢は少し寒気を覚えながらも愛想笑いを浮かべた。
「な、なに…?」
「この前逢ちゃん、色々にぃにの事尋ねたよね」
「に、にぃに…?」
 一瞬、『何それ…?』と思ったが、すぐにそれが『お兄さん』を示す言葉なのだろうと当たりをつけた。
「あ、うん、…そうだけど」
「なんで?」
「えっと、それは…だから…」
 前回は曖昧にごまかしたけど、どうも今回はそれが無理っぽい。
「この前、水泳部の1年がね、その、ランニング中に脚を痛めちゃって、それを助けてもらったみたいなんだけど」
「皆川君だよね、もう、話聞いた」
「……」
「にぃにには感謝してたけど、だからにぃにのこと知りたいとか、調べてるなんて事は全然ないみたい」
 いきなり逃げ道をふさがれた。
「……」
「……最近、にぃにの周りがおかしいんだけど、まさか、逢ちゃんが関係してるわけじゃないよね?」
「ま、周りがおかしいって…?」
 美也はなにも答えず、ぐっと逢に顔を寄せた。
「逢ちゃん、にぃにに、興味あるの?」
「き、興味?」
 いきなり何を……と、戸惑う逢をじーっと見つめた後。
「……にぃには、美也のにぃにだから」
 それだけ言って、美也はぷいっとその場を去っていく。
 逢はそれを呆然と見送った後……首を傾げた。
 ブラコン気味なのは前からわかっていたことだけど、ついさっきの会話というか、いつもの美也にはふさわしくない周到さというか何というか……そこに、誰か他の人間の作為の臭いをかいだからだ。
「……」
 誰かに見られている……そんな気がして、さりげなく周囲に目を配ったのだが、逢は、そこに異常を感じ取ることはできなかった。
 
「はぁ……うちの学校の女生徒は本当に怖いよね……」
 少女はそう呟くと、少し遠い目をして。
「……あんまり、美也ちゃんを目立たせたくないから…あっちは…どうしよう…」
 少し考えて。
「そうだ…あの人を使おう…思いこみ激しいし、性格もよくないから…どうなってもいいよね」
 
「きゃっ」
「あ、ごめんなさい」
 わざわざぶつかっておいて、『ごめんなさい』も無いでしょうとと心の中で毒づきつつ、しかし表情には全く出さずに、詞は立ち上がった。
「大丈夫よ、黒沢さん……お互い、気をつけないとね」
「……そうね」
 少女……黒沢典子は、面白くもなさそうに吐き捨てた。
 そして、ふっと思い出したかのように、嫌味な笑みを浮かべて。
「そういえば絢辻さん、最近忙しいみたいね」
「え、うん…最近だけってわけでもないけど」
 詞が含ませた微かな棘に、典子は過敏な反応を見せた。
「そう?その割には何か、男子と仲良く話してる…なんて話も聞くけど。息抜きも大変なのね」
「あら、そんな風に言われるとちょっと恥ずかしいわ…でもそうね、仲の良い友達と話してると、心が落ち着く事ってあるわ。黒沢さんもそうでしょ?」
「……」
「それで黒沢さん、何のお話かしら?」
「べ、別に…」
「そう、わざわざ、私とお話をするために近寄ってきたのかと思ったのだけれど、気のせいだったみたいね。じゃあ、私はこれで失礼します」
「あ…」
 ぺこり、と頭を下げて去っていく詞を、典子は見送るしかできない。
 役者が違う、というより……これは、典子のレベルが低いと見るべきだろう。
 そして…。
 
「ふうん……」
 詞は呟いた。
 黒沢典子…詞の隣のクラスで、正直なところ、友人はほとんどいないはず。
 本人は気付かれていないつもりだろうが、彼女が純一に思いを寄せていることを詞は知っていた。
 例によって、お星様に夢中の王子様は彼女のことなど気付いてもいないが。
 基本的に、詞はクラスのみならず、男子も女子も、分け隔てなく接してきたが……やはり、純一に対しては少し含むところがあるだけに、見る人間が見れば、何かを感じ取ってしまうのか。
 彼女が、自分を敵視しているのはそのためだろう。
「まあ、勢いあまって告白なんかしないところを見ると、可愛いところもあるのかも知れないわね…」
 と、いままでならば笑って済ませることもできたのだが……今日の、ついさっきの接近は違う。
「……あの、お気楽星馬鹿に惚れてる女の子……それも、おそらくは黒沢の馬鹿と同じクラスかな」
 そそのかしたのではなく、本人にその自覚を与えずに操った。
 同じ教室で、『自分が純一と話していた』などと、本当のお友達とおしゃべりをすれば、それは黒沢典子の耳に入る。
「……表に出てこない分だけ、ちょぉっとやっかいかな」
 その呟きに反して、詞の表情はどこか楽しそうだった。
 
「…ぁ」
「あ、こんにちは、塚原先輩」
「こんにちは…橘君」
「ねえねえ、私もいるんだけど」
「こんにちは、森島先輩」
「うむ、よきにはからえ〜♪」
 と、はるかがひびきの身体を純一の方に突き飛ばした。
「ちょっ!?」
「…っと」
 ひびきの身体を受け止め、純一は非難を込めてはるかを見つめた。
「……」
「…え、えっと…ナイスキャッチ」
「怪我でもしたら、どうするんです」
「そ、それは…きみを、信じてたから」
「……」
「……う」
 はるかは、純一の視線に耐えかねて。
「う、うわーん、ひびきちゃん、黙ってないで助けてよ」
 そのひびきは……顔を真っ赤にして、純一に抱きしめられたまま、身体を硬直させていたりする。
 出会って1秒……は無いにしても、純一の人柄に惹かれていたところに、はるか、逢、詞のジェットストリームアタックによって、ひびきは順調に(?)純一を意識するようになっていた。
 一旦意識づけられてしまえば、純一の存在は響にとって好ましいモノであるはずという、詞の判断に狂いはなかったといえる。
「あ、あの…ひびき…ちゃん?」
「え…え、あぁっ」
 今自分がどんな体勢でいるか……それをようやくに認識したというより、周囲の目の存在に思いを至らせ、ひびきは慌てて純一の手をふりほどいた。
「ご、ごめんなさい…橘君」
「あ、いえ…」
 そうしたひびきの意識は、少なからず純一にも伝わる。
「す、すみません…その、ずっと、抱きしめてしまって」
「……い、いいの…別に」
 ひびきは、ますます顔を隠して……それでも、健気に首を振った。
「うわー、あつーい、何か知らないけど、あっついなー、今日はー」
「は、はるかっ」
 ぽくっ。
「ちょっ、。ひびきちゃん、そんなムキにならなくても…」
「む、ムキになんか…」
 ぽくっ。
 ぽくぽくぽくぽくっ。
「あ、あの、塚原先輩…そのぐらいで…」
「え…」
「うわーん、ひびきちゃん、ごめんなさいー」
 既にはるかは半泣きである。
 まあ、普段が普段だけに、どこまで真剣かよくわからないのだが。
 それはさておき、そんなやりとりを見ていたのは1人や2人ではない。
 
「やほー、純一」
「よう、薫」
「んっふふー」
「ど、どうしたんだ…変な笑い方して」
「いやあ、やるもんね純一も」
 純一は、首を傾げて。
「何が?」
「遅まきながら、春が来たってとこね」
「え、いや、冬になったばかりだろ?それも、本格的に寒くなるのは、まだ先だし」
「またとぼけたこと言ちゃって…このこの」
 と、薫は、肘で純一をつつきまくる。
「いやあ、いつの間に塚原先輩とお知り合いになったのやら…純一にしては上出来よ、誉めてつかわす」
「知り合いになったって言うか…」
「私も見ちゃった」
 などと、何食わぬ顔して、会話に加わってくる詞。
 もちろん、机の下では、純一の足を踏んづけているのだが。(笑)
 それの意味するところ…『余計なことを言うな』…が、わからない純一ではない。
「なになに、薫。夫婦げんか?」
 などと、薫の友人田中さん…田中恵子も加わってくる。
「夫婦げんかって、何言ってるのよ…」
「あ、でも、棚町さん、橘君と仲良いしね」
「そうよね、絢辻さんもそう思うでしょ」
「だから、いいかげんにしなさいよ、田中恵子」
 ぺしっ。
「だってー」
「あはは…」
 などと笑いながら、詞の目はじっと薫と恵子の2人を観察しているのだが、さすがにそれを悟らせはしない。
 
「あ、浮気者発見」
「え?」
 振り返った純一に、てててっと近寄って。
「『浮気者』で振り返った。自覚あり、有罪」
「ちょっと、香苗。や〜め〜て〜」
 と、それに遅れてやってきた少女を見て、純一は声をかけた。
「あ、梨穂子」
「さあ、梨穂子。正妻の権利として、この浮気者に…」
 ごん。
「おお、梨穂子にしては、なかなかきっつい攻撃だ」
「お、怒るよ〜、香苗〜」
「も、もう、怒ってるじゃない…」
 と、香苗は梨穂子に叩かれた頭を押さえて。
「この痛みが愛の証明」
「だから…」
「あはは、香苗さんも相変わらずだね」
「私、梨穂子をからかうことに命かけてるから」
「そんなことに、命をかけないで…」
「なに、何か面白そうな話かしら?」
 すすすっと、いつの間にか近寄ってきていた詞が、会話に混ざってくる。
 もちろん、さりげなく背後で純一の尻を指先でつねっているのだが。
「ああ、絢辻さん…あのね、橘がね、梨穂子という正妻がありながら…」
「だから、正妻とか、変なこと言わないでよぅ〜」
「あはは…」
 などと笑いながら、やはり詞は、梨穂子と香苗のふたりを、じっと観察していたりするのだった。
 
「……まずいなあ、このままじゃ、身動きとれなくなっちゃう……」
 少女は、困ったように呟いた。
 そうしてしばらく沈思し、少女は何かを決意した様に頷いた。
「根本的な解決にはならないけど……まずは、彼を守らなきゃ」
 
 気がつけば彼のことを考えている。
 無意識に彼の姿を探してしまう。
 自分が『恋する少女』であることを、否定することはできそうにない。
「……」
 ひびきは、丘の上公園から眼下に広がる街を、見るともなしに眺めていた。
 電車通学をしているひびきにとって、これは寄り道以外の何ものでもない。
 それもこれもただ、『丘の上公園で純一の姿を良くみかける』という言葉を頼りに……というか、ふらふらっと、駅とは反対方向のここにやってきてしまったのだ。
 12月半ばであり、寒くはないが風は冷たい。
 自分が卒業を控えた3年生であるのもそうだが、とにかく、どこか乗せられたような現状に対する反感がまずあった。
 もちろん、恐怖もある。
 自分の思いが報われないこと……その方が多いことをひびきは良く知っていたから。 
 暮れてゆく空。
 公園の街灯が灯り出す。
 周囲に人の気配はない。
 言ってみようか……不意に、ひびきはそう思った。
 自分の中のもやもや…いや、想いを、口に出してみようか。
「橘…純一君」
 少年の名前を口にする……それだけで、心が浮き立つ。
 自分は、はるかの保護者。
 嘘ではない……けど、すべてが本当でもない。
 保護者という言葉に、自分の想いを隠したことがある。
 かつて憧れていた先輩は、ひびきに、はるかへのラブレターを渡してくれるように頼んだ。
 たぶんそれからだろう……はるかの保護者であることを自認しつつも、はるかに憧れ、はるかを嫌悪してきた。
 純一に『森島先輩』と呼ばれたとき、自分の心の中をのぞかれたのではないという恐怖に、狼狽といえるほどに動揺した。
 人の好みは人それぞれ……頭でわかることと、実感することは違う。
 自分を、単純だとも思った。
「橘君…」
 穏やかな、笑顔。
 自分の前でいつも笑っていたわけではないけど、ひびきが思い浮かべるのはいつもそれだ。
 もし、自分が想いを口にして……その笑顔が曇ってしまったとしたら。
 ひびきは、目を閉じた。
 はるかはもてた。
 数多の少年に想いをうちあけられ、それを無造作に、というか無頓着に断った。
 その、後始末みたいなことも、ひびきはやってきた。
 はるかより、自分の方を好ましく思ってくれている…魅力的だと思ってくれている事は確かだろうが、それが『好き』に直結するかというと違う。
 はるかの保護者という立場をとっていたために、ひびきは、どこか恋愛というモノにさめていったはずだった。
 それが今、この有様だった。
「罰…なのかも知れないわね」
 はるかではなく、はるかに想いをうち明けた少年達を軽々しく扱った自分への罰。
「……ぅ」
「……っ!?」
 今、耳にしたのは…泣き声?
 ひびきは、薄暗い公園内を見渡した。
 街灯の下は明るいが、そこからはずれると極端に視界が悪くなる。
「……うぅ」
 また、聞こえた。
 それでようやく、ひびきは方角に見当をつける事ができた。
 背格好というか、身長は低い。
 子供…?
 近づいていくに連れて、それが少女であること……といっても、自分と同じ制服を着ていることからの推測だが……がわかった。
「……大丈夫?」
「え…?」
 泣いていたらしい少女が顔を上げた。
 周囲は暗く、はっきりと顔が見えなかった。
「塚原…先輩?」
 だけど、向こうは自分のことがわかったらしい。
「…泣いていたみたいだけど、大丈夫?何か、できることはあるかしら?」
「あ、ありがとうございます……う…」
 
「そう…」
 自然の流れというか、ひびきは、少女の話を聞くことになった。
 失恋、したのだという。
 ずっと好きだった男の子。
 想いを伝えることなどできなくて、遠くから見つめているだけで精一杯。
 その相手に、恋人がいた事がわかってしまった。
 何を言えば、なんと声をかけてやればよいのかわからず、ひびきはただ震える少女の肩を抱いたままでいた。
 どのぐらい、そうしていただろうか。
「ありがとう、ございました」
「え?」
「塚原先輩に話を聞いてもらって、少し落ち着きました…」
「私は…何も」
「いえ…諦めようと思います」
「いいの?」
「あの人のこと、好きだから……優しい人だから、今さら思いをうち明けても、あの人を悩ませるだけだと思うんです」
「……」
「好きだから、大好きだから…困らせたくない。あの人が幸せなら…いいんです。私は、何も言いません」
 少女は、何度もそう繰りかえした。
 それはまるで、ひびきに暗示をかけるように。
「……ありがとうございました、先輩」
 もう一度礼を言って、少女は小走りにその場を去っていく……街灯の下で、一瞬少女の姿が明るく映し出される。
「……」
 今、何か落とした…?
 街灯の下へと歩いていって、ひびきがそれを拾い上げようとした瞬間。
「はい、どうも、塚原先輩」
「え?」
 まず声をかけ、詞は地面の上のそれをひったくるように拾い上げた。
「え、あ…絢辻さん、それ…」
「あ、その前に、場所を移動しますね」
 と、詞はひびきの手を取って街灯の下から移動した。
「え、えっと…」
「あ、これはですね…」
 と、詞はそれをひらひらと振って。
「見せてもいいですけど、その前に私の説明を聞いてもらえます?」
 
 その目で結果を確認したかったのは山々だが、まずは自分の姿が見えなくなる場所まで走り去ることを優先した。
 公園の外に出て、少女は物陰から中をうかがう。
「……?」
 街灯の下に、人影はない。
 自分の落とし物に気付いて、歩み寄り拾い上げる。
 そしてそれを確認する……。
「……カメラでも用意しておくべきだったかな」
 少女はそう呟き、そして頷いた。
「あんまり目立ちたくないけど、明日先輩に会いに行くしかないかな……」
 
「あ、あの…塚原先輩」
「え」
 ひびきは、少女を見つめた。
『ああ、そうそう…さっきの女の子、明日は先輩に会いに来ますから』
 詞の言葉を思い出しつつ、ひびきはふっと思い当たったように。
「あ、あなた…昨日、公園で…」
「はい…上崎、です」
「上崎…さん」
「昨日は、ありがとうございました」
 ぺこり、と頭を下げる。
 表情、口調、その仕草に至るまで……詞の説明を聞いていてなお、ひびきはまだそれが信じられずにいた。
「あ、あの…それで…昨日、ですけど」
「なに?」
「あ、あの…私…昨日、落とし物をしたんですけど」
「落とし物…?」
「あ、いえ…先輩が拾ったのでなければ別にいいんです」
 少女は悲しげに微笑んで。
「どうせ、捨てようと思ってましたから…」
「……」
「それなのに、落としたことに気付いて、後で取りに戻っちゃったです…馬鹿ですよね、私…」
「捨てようと…って、もしかして、その、上崎さんが好きな男の子の写真か…なにか、かしら?」
「え、あ…はい」
 うつむくようにして頷く。
 詞の予想は、恐ろしいぐらいに当たっていた。
 内容が内容でなければ、2人がぐるになって自分をからかっているのでは思えるぐらいに。
 それ故に、詞の話は……ひびきの中で信憑性を増した。
「もしかして…」
「え?」
 少女が顔を上げる。
「その、なんていうか…女の子と仲良く映ってる」
「それ…です」
 悲しそうに、本当に悲しそうな表情を浮かべてうつむく。
「あの、上崎さん…」
「捨てて、ください」
 震える声……これが全部、演技なのか。
「ねえ、ひとつ質問させて」
「何ですか?」
「何故、こんな写真を持ってたの?」
 好きな男の子だけが映っているならともかく、他の女の子と仲良くしている写真をわざわざ持ち歩く理由。
「……友達が教えてくれたんです」
「え?」
「私が、その人を好きなことを知ってて…今は、別の学校に通ってるんですけど、私が信じないと思って、ちゃんと写真にとって…それで、私に教えてくれたんです」
「そう」
 これも、詞の予想通りだった。
「それが、昨日…なの?」
「……はい」
「そう…」
「見たなら、わかりますよね?先輩にもわかりますよね…あの人、すごく幸せそうだって。だから私、もう、いいんです…諦めます…あの人を、困らせたくないから…」
 ひびきは、じっと少女を見つめた。
「ねえ、上崎さん…一度、確かめてみたら?」
「え?」
「その、この2人が本当につきあってるかどうか?」
「そ、そんなこと…」
「うん、私が手伝ってあげるから…その、橘君は、私の知り合いなの。だから…」
「や、やめてください…そんな、確かめるまでもないんです」
「うん、でも…どうせ諦めるなら、やれることはやってみましょ」
「め、迷惑をかけたくないんですっ」
 少女が叫ぶ。
 そして、ひびきはまたも少女を見つめて。
「橘君は……それを、迷惑だって感じる人かな?」
「え?」
「私の知ってる橘君は、あなたの気持ちを疎かにするような、ましてや、迷惑だなんて思う人じゃないと信じてる」
「……」
「確かに、彼を悩ませるかも知れないけど…きっと、迷惑だなんて思ったりしない」
「……ぅ」
 困惑、というよりもどこか怯んだように、少女が一歩下がった。
 そして、ひびきは一歩近寄る。
 たぶん、詞の言うとおりなのだろうし、言うとおりにすれば、うまくいくのも確かだろうと、ひびきには理解できていた。ただ、それでも……詞の言うそれは、大事なことが抜けているようにひびきには思えたのだ。
 だから、言うとおりにはしなかった。
 ひびきは、上崎と名乗った少女を見つめた。
 髪が長い……それは、水泳をやっていた自分には望めなかったもの。
 小柄な身体……それも、少しうらやましい。
 ぱっちりとした瞳……目つきが悪いとか、狐目とからかわれた自分の目が嫌いだったから、そんな瞳に憧れた。
 この少女は、彼の……橘純一の事が大好きなのだ。
 それも、自分よりもずっと昔から。
「……ねえ、橘君に、会いに行きましょう」
「……っ!」
 少女はくしゃっと顔を歪め、手を伸ばしてひびきの肩をついた。
「…っ」
 よろけたひびきを、少女は、涙の溜まった目でにらみつけ……背を向けて走り去っていった。
 そして……。
「う、わあ…結構残酷なんですね、塚原先輩」
 いつもの表情で、詞が空き教室から姿を現す。
「残酷…?」
 あ、やっぱりわかってない…という表情を浮かべ、詞はちょっと笑った。
「そうですよね、勉強も、スポーツも……塚原先輩は、努力することで結果を残してきた人ですもんね。そのことに、何の疑いも持ちませんよね」
「……」
「別に、塚原先輩が悪いわけでも間違ってるわけでもないですけどね……自己満足の世界をのぞけば、努力って報われないことがほとんどなんですよ」
「それは、私だって…」
「あはは」
 詞は、笑って。
「この国は特に、ですけど…努力して成功した人が、努力の大切さを語るんですよ。そして、言うんです…うまくいかないのは、努力が足りないせいだって」
「……あの子、上崎さんが橘君に告白しても、振られるって事?そんなの…」
「塚原先輩……逆に、あの子が何故橘君に告白しなかったかわかります?」
「それは…勇気が…出なかったからじゃ…」
「あはははは…」
 詞が、文字通りお腹を抱えて笑った。
「あはは、おかしい…もう、傑作」
「違う…の?」
「断られるのが怖いとか、勇気が出ないとか……もう、ホント、塚原先輩は前向きの優等生ですよね。尊敬します」
「……」
 ひびきは、詞を見つめて言った。
「私も…聞いていいかしら」
「何でしょう」
「何故…私だったの?」
「何が……ですか?」
「絢辻さんが、協力する相手……それは、私じゃなくても……たとえば、橘君の幼なじみ、桜井梨穂子さんでもよかったんじゃないの?」
「……」
「棚町薫さんでは、ダメだったの?」
「あはは、恋する乙女ですね、塚原先輩。色々調べちゃいました?本人に自覚はないですけどね、結構もてるんですよ、橘君」
 ダメだ、とひびきは思った。
 自分は、話をするために言葉を発しているのに、詞は、自分を飾るために言葉を発しているのがわかってしまったからだ。
「絢辻さん」
「はい」
「絢辻さんでは、ダメだったの?」
「……」
 詞の表情は変わらなかった。
 それでも、ひびきは……その瞬間、周囲の温度が下がったように思えた。
「塚原先輩、橘君の妹さん、知ってます?」
「え、ええ…ちょっと見かけたことがあるけど」
「彼女も結構男子に人気あるんですけど、全部断ってるんです。何故かというと、橘君のことが、大好きだから」
「……え?」
 兄妹……で?
「彼女に対して、さっきと同じ事言えます?さっき、上崎さんに向かって言ったこと……橘君に、気持ちをうちあけろって……言えますか?」
 嘘やでまかせ、とは思えなかった。
 目の前の少女……絢辻詞は、可能な限り情報を集めて分析し、その上で周到な策を練ることが、今のひびきにはもう身にしみてわかっていたからだ。
 そして、ひびきは、語る言葉を見つけられなかった。
 詞は、ひびきをいたぶるように首を傾げてみせ、今度は別の角度から攻めてきた。
「これはたとえですけど、塚原先輩のお友達…森島はるか先輩が、橘君のことを好きだとしたら、言えますか?」
 5秒、10秒と、沈黙が続き……ひびきは、ようやく口を開いた。
「言えない…わ」
「あはは、でもこっちは、塚原先輩の言う、努力と勇気で何とかなるんじゃないですか?」
「そう…ね」
「話を戻しますけど…橘君の妹さんは、何を努力すればいいんですか?」
「……」
「何に対して、勇気を出せばいいんですか?」
「……っ!」
「あの、私、質問してるんですけど?」
 詞の手が、襟のリボンを引っ張る。
「塚原先輩は、そこまで調べられなかったみたいですけど……黒沢って子が、橘君のことを好きなんですよね……あはは、橘君、もってもて〜♪」
「……」
「彼女、ちょおっとかわいそうなんですよ……身内に政治家がいるばっかりに、小さい頃から、人間の醜い部分をこれでもかと見せつけられて育っちゃったんです」
 詞はちょっと笑って。
「人間なんて、信じるだけ無駄だ……って、彼女すっごく攻撃的な性格だと思われてますけど、これって自分を守るためなんですよ。隙を見せたら刺されますから、相手をとことんまで叩きのめさないと安心できないんですね」
 ぐい。
「聞いてます?」
「ええ、聞いてるわ…」
「そんな彼女が、橘君にころっと…」
 ここで再び、詞は笑い。
「でも、彼女は……橘君に、告白しなかった」
「……」
「これ、勇気がなかったからだと思います?」
「……違うんでしょうね、きっと」
 詞は、いつもの表情に戻って、ひびきを解放した。
「ま、人の事情はそれぞれって事ですよ、塚原先輩」
「……追求するなって事ね」
「隠し通す自信はありますけど」
「……そう」
「まあ、塚原先輩も、これから大変ですよ」
「え?」
「卒業までにあの星馬鹿をその気にさせられるかどうか、結構微妙だと思います」
 ひびきは、ちょっと目をそらして。
「わ、私から、告白…すれば…」
「あははは」
「で、できないって…言ってる?」
「どうでしょう?」
 『いつもの』に、少し意地悪成分を含ませて詞は笑った。
 
「おはよう、梅原」
「ウメちゃん、おはよう」
「……おはよう、橘…と、美也ちゃん」
 梅原は、純一の腕をしっかり抱いている美也に目を向け。
「美也ちゃん、何か最近純一にべったりだな」
「寒いから」
「ああ、寒いから…か」
 梅原は、西の空を見上げて呟いた。
「なんで、俺には妹がいないんだろ…」
 それはおそらく、リアルな妹がいないからこそ言える台詞だった。
 
「はい、HRを始めるわよ〜」
 素敵な恋を待ち続けて幾星霜……10月の誕生日を過ぎて、三十路の足音がひたひたと聞こえてきたが、大人として、また教師として必需品である、都合の悪いことは聞こえない大人耳によって、現実逃避を続けている高橋先生が、純一に目を向けて。
「えーと、橘君……毎度のことだけど妹さんは、リリースしてあげて」
 いや、キャッチしてるのが妹の方なんですが……と、クラス全体の無言のツッコミに気付かず、純一はぽんっと美也の頭を叩き。
「ほら、美也…自分のクラスにもどれってさ」
「はーい」
 とぼとぼとぼ……ちら。
「また、休み時間な」
「うんっ」
 てててっ。
「廊下は走っちゃダメだぞ」
 
「やほー」
 のんきな声とともに、はるかが2−Aの教室にやってくる。
 そして、ひびき。
「塚原先輩」
 と、美也が飛びついていく。
「あ、あ、美也ちゃん…」
「塚原先輩、今日も素敵ですね〜」
 などと、美也はひびきにまとわりついて離れない。
「……あー、あれにはホント、アタシも悩まされたわ」
 と、ため息混じりに薫が呟く。
「そういや美也のやつ、薫にものすごく懐いていたよな…」
「……」
「……な、何、その目?」
「別に」
 と、薫が肩をすくめる。
「小さい頃は、梨穂子にべったりだったんだよな」
 純一の呟きに、薫は一度だけ目を向け……そして、そっぽを向いた。
「いいなあー、私も美也ちゃん欲しいなぁー」
 などと、指をくわえているのははるかだ。
「みーやちゃん、ひびきちゃんだけじゃなく、私と遊びましょっ」
 美也は、はるかをみつめて、首を振った。
「塚原先輩がいいです」
「んもう、つれない娘…」
『はは、星馬鹿に惚れたらいいんですよ』
 などと、詞があらぬ方角に視線を向けながら心の中で呟いていたり。
 あの少女は、ひびきとの直接対決に負けたのかも知れないが、しっかりとパトリオットミサイルをセットしたのだった。
「……おっと」
 詞は、自分の口元が緩んでいるのに気付いて気を引き締めた。
 あれは、自分とは別世界の住人なのだから、共に生きることはかなわない。
 
「あ、あの…絢辻さん…?」
「あ、お疲れさまですー、塚原先輩」
「あなたが言ってたの…あれの事よね?」
「あははは、勇気と努力でどうにかしてくださいよ」
 おかしそうに、詞は笑った。
「……」
「何から何までお膳立てされて、『はい、いただきます』じゃ、達成感も何もないですよね?」
「が、頑張る…」
「良くも悪くも、橘君の妹なんですよ彼女……拒絶できないなら、飛び込めばいいんですよ、そのまま」
 
「つっかっはっらっ、せんぱーい」
 飛びついて、ぎゅうっと抱きしめる。
 にぃにと2人きりになんてさせてなるモノかという執念が、抱きしめる力の強さとなってあらわれているのだが。
「みーやちゃん」
 ぎゅうう。
「……っ!?」
 抱きしめ返された。
 過度のスキンシップに関しては、身近にはるかという良いお手本があるのだ……それを自分がやることに多少のためらいはあったが、ひびきは何かを吹っ切った。
 考えてみれば、美也は純一の妹なのである。
 まず馬を射よという言葉が示すとおり、その内心はともかく、純一の身内が自ら自分に接近してくれているのだ。
 こつこつと努力を重ねていく人間は、目指すべき目的と、その努力の方向性が示されたときには、異常なねばり強さを発揮する。
 それはさておき、先輩と後輩。
 女性生徒同士の、誠に心温まる交友関係であると言えよう。
 少なくとも、純一はそう信じた。
「塚原先輩、いつも美也がお世話になってます」
「気にしないで、橘君。『好き』でやってることだから」
 はるかが猫を可愛がりすぎて逃亡されるのを、中学の時から幾度も目にしてきた。
 ただそれをなぞるのではなく、本当に心の底からそう思いこむ。
「美也ちゃん、可愛い…」
「あ、あわわわ…」
 思わず、美也が逃げ出し……慌てて戻ってくる。
「ほら、にぃに。私と塚原先輩の邪魔しないで」
 しっしっと、美也は純一を追い払ったのだが…。
「美也ちゃんは、いつも可愛いわ…」
 などと、その場から去っていく純一の後ろ姿を目で追うでもなく、ひびきは美也の頭をなで続けているのだ。
「うえぇぇぇっ!?」
 美也は戸惑った。
 過去、こうした反応は経験したことがない。
 梨穂子も、薫も、そして裡沙も。
「うふふふ、みーやちゃん」
 はるかがそうであるように、可愛がるときは一心不乱に可愛がる。
 ひびきは、きわめて真面目で、ねばり強かった。
 
「美也ちゃん」
「うわっ」
 
「みーや…」
「ひっ」
 
「ここかしら?」
「あわわわっ…」
 
 などと、数多の攻防を繰り広げたあげく。
「最近、美也ちゃんが私を避けるのよ…」
 などと呟く姿は、まさにはるかそのものだった。
「あー、何か美也って猫っぽいところがありますから…可愛がりすぎると、逃げちゃうんですよね」
 純一はちょっと遠い目をして。
「それまですっごく懐いてたくせに、急に興味をなくすというか、素っ気ない対応を始めたり……まあ、あんまり気にしない方がいいですよ」
 夕焼けの中、駅に向かって。
 ひびきと、純一の2人。
 それは、ひびきがようやくつかみ取った、望んでいた時間。
「……」
「……」
 ひびきが、自分を見つめていることに気付いて、純一もまたひびきを見つめ返す。
 何も喋らない…が、自然に2人の足は止まった。
「橘君は、クリスマスを、どう過ごすの?」
 先に口を開いたのはひびきだった。
「クリスマスですか……美也は、学校のパーティに参加するみたいですけど」
「……橘君は、どう過ごすの…かな?」
「あ、僕ですか…僕はまあ、天気にもよりますけど、山に登って星でも眺めていようかと思ってます」
「ふふ…話には聞いてたけど、本当に星が好きなのね、橘君は」
「はい」
 純一は力強く頷き。
「冬の夜空はいいですよ…いや、一年中いいんですけど、冬の空は、なんていうか、動きがあるというか、いろんな楽しみ方があるというか…」
 語り始めた純一の言葉を、ひびきは微笑みを浮かべて聞いていた。
 文化祭で、純一のクラスの出し物……プラネタリウムをひびきは見ていた。
 あれが、ほぼ純一1人の手によって制作されたモノだということを、最近になって知ったのだ。
 こうして、星のことなら何時間でも語っていられそうな純一が、言ってくれた言葉をひびきは決して忘れないだろうと思う。
「……」
「あ、すみません…語っちゃって。よく、怒られるんです」
「気にしないで、楽しかったから」
「なら、いいんですけど…はは」
 と、頭をかく純一に、ひびきはスッと顔を寄せた。
「……っ!?」
 さっきとは対照的に、ひびきはゆっくりと唇を離す。
「好きよ、橘君」
「……」
「……」
「……え?」
 ひびきは、顔を赤らめて。
「も、もう一度言わせるつもり?」
「あ、いや…えっと…」
「私は、あなたが好きよ」
「……えーと、心を落ちつける時間をください」
「も、もうっ…こうなったら、いくらでも待つし、何度でも言うわよ」
 と、ひびきは口をとがらせて。
「私はあなたが好き、大好き、好きなの。愛してる」
「い、いや、だから、心を落ち着かせる時間を…」
「好きよ、好き好き、もう、大好きなんだから」
 最後は多少やけくそ気味に。
「すみません、月並みですが俺なんかのどこを…」
「橘君が橘君であるところが、好き」
「……そ、そーですか」
 純一の顔の赤さは、夕焼けがすべてかどうか。
「お星様に嫉妬しても仕方ないけど、私たちが生活するこの地上で…私は、あなたの星になりたいな」
「塚原先輩は…その、素敵な人だと思います」
 ひびきは、じっと純一を見つめて。
「クリスマス」
「え?」
「2人で過ごしましょう」
「あ、はい…わかりました」
 純一は、頷く。
「その日、別れる時に、初詣に一緒に行くかどうか決めましょう」
「はい」
「初詣が終わったら、どこか遊び行くかどうか……」
 ひびきは笑って、純一の頬を撫でた。
「いきなり、返事してもらおうとは思ってないから……ひとつずつ、目標を決めて確かめてちょうだい」
 そして、ひびきの手が純一の頬を離れる。
「クリスマス、お天気なら良いわね」
「え、あ…どこかに行くんじゃないんですか?」
「星を眺めるつもりだったんでしょ?」
「いや、何もしないんですよ?ただ、ぼーっと、星を見てるだけで…」
「まずは、あなたの価値観を共有してみたいの…防寒対策については、また教えて」
 
「あ、そこ…足下に気をつけてください」
「ええ…」
 学校のクリスマスパーティに背を向けて、寂しい山を登っていく2人。
「あ、慌てなくていいです…汗をかくと、風邪ひいちゃうんで」
「なるほど…」
「もう少しですから……星空は、ちょっとやそっとじゃ逃げませんし」
「ふふふ」
 純一の言い回しがおかしくて、ひびきはつい笑いをこぼしてしまう。
 やがて、というか、ようやくに2人は開けた場所にたどりついた。
 視界が広い。
 おそらく日中なら、街が一望できるだろう。
「……木の高さが低いのね」
「たぶん、下に粘土の層があるんだと思います……ここ、そしてあっちと、日当たりは同じでも、全体的に成長が悪いですから」
 純一は、下草を払い……敷物を用意してからひびきに言った。
「ここ、寝転がってみてください」
「……ぅ、わぁ…」
 人間の視界は上下に狭く、左右に広い。
 純一の用意した場所に寝転がると、ちょうど樹木が視界に入らないのだ。自分が草原にでも寝転がっているような気分になる。
「星の世界、プラネタリウムにようこそ」
「あ、それって…」
 文化祭での、台詞。
「そっか…あの解説も、今思えば橘君だったのね」
「あ、見てくれたんですか?」
「うん…はるかと一緒に」
「解説、しましょうか?」
「いいけど…」
 ひびきは手を伸ばし、純一を引っ張った。
「私の隣でね」
「…えっと…それは少し…」
「一緒にいた方が寒くないでしょ」
 ちなみに、後日になって自分の大胆さに気付いてひびきは顔を赤らめることになるのだが、この時点でひびきにはそういう意識はない。
「えっと、毛布も用意して…」
「じゃあ、毛布も使いましょ」
「わ、わかり…ました」
 ひびきの隣に、というか身を寄せ合って寝転がり、純一はひびきと同じ目線で解説していく。
 それは、ひびきが聞いた話もあったが、ほとんど知らない、もしくは忘れていたことばかり。
 その語り口や、知識の確かさ、聞く人間を楽しませる話の脚色まで……ひびきは、純一の世界をしっかりと楽しんだ。
 いや、楽しんでいた。
「……ぁ」
「どうしました…?」
 純一が身を起こす……が、ひびきは純一に尋ねるまでもなく、その答えがわかっていたから、それをなかなか口に出せなかった。
 そしてようやくにぽつりと。
「あ、あの…トイレ」
 
 2月になると、3年生は学校に来なくなる。
 受験に備えて、というか……1月末で授業は終了し、次に学校に来るのは卒業式だからだ。
「はぁい、純一」
「ああ、薫か」
「なに、たそがれてるのよ」
「あ、うん…」
 純一はちょっと考えて。
「……わかった」
「え、なに?」
「いや、塚原先輩に会いたいんだ、俺」
「ごふっ、ごふっ、ごふっ…」
 薫のそれが派手だったから気付かなかったが、詞も自分の席でひっそりとむせていた。
「風邪か、薫?」
「違う」
 薫はため息をつき、うなだれて……。
「あー、もう…会いたいになら会いに行けばいいのよ、そんなもん…」
 と、どこか投げやりに言って、自分の席へと戻っていった。
「……そっか、そうだよな」
 純一は頷いて、詞の机へと歩み寄り。
「ねえ、絢辻さん」
「はいはい、早退届ね。だしとくから、さっさと消えて」
 他の生徒もいるというのに、詞もどこか投げやりだった。
「うん、ありがと」
「あ、ちょっと」
「え?」
「その前に、メールなり電話で連絡しなさい」
「あ、そうか…」
 純一は頷き、詞に頭を下げた。
「ありがとう、絢辻さん」
「はいはい」
 純一が出ていった後、詞は『さて、高橋先生のところにいかなきゃ…』などと呟きながら教室を出ていったのだが。
 職員室にいた高橋先生のもとにたどりつくまでに、どこか空き教室に寄り道して、机を3個ほど蹴り飛ばす程度の時間の遅れがあったようだ。
 そして、隣のクラス…2−Bでは、梨穂子が昼休みにやけ食いを始め、黒沢典子はぶつぶつと呪いの言葉を吐きながら、自分のノートに何かを書き殴っていたらしいが、中身は誰も知らない。
 ちなみに、上崎裡沙は、秘密の場所でひきこもっていた。
 そのほかにも約2名ほど、いわゆるおとなしめの生徒が、ため息をついていたらしいが、これは未確認である。
 
「あれ、森島先輩」
「ひびきちゃんに会いたいのなら、私を倒してから行くことねっ!」
 ぽくっ。
「なんでよ〜ひびきちゃん…」
「はるか、明日は受験でしょ…馬鹿なことしてないで…」
「馬鹿な事じゃない。ひびきちゃんは、私の親友だものっ」
「だったら、なおさら、見守っていてくれないかしら?」
 はるかは、すすすっとひびきから距離をとって、純一に囁いた。
「ひびきちゃん、最近やけに逞しいんだけど、あれって、きみのせい?」
「たくましい…ですか?」
「うん、何かうたれ強いって言うか…こう、ねえ…」
「ところで森島先輩、何故ここに?」
「ちょうど、はるかの勉強を見ててあげたの」
「あ、なるほど…」
 純一は納得した。
「あ、すみませんでした森島先輩、大事な勉強中に」
「そうだそうだ、帰れ帰…」
 ぽくっ、ぽくっ、ぽくっ。
「〜〜〜っ」
「じょーく、いっつあ、じょーくだってばひびきちゃん!」
 純一はちょっと笑って、はるかに構わず言った。
「好きです、ひびきさん」
「いっ…」
 この子、私もいるのに何言ってるの…みたいな表情ではるかが振り返る。
 だが時既に遅し、ふたりはもう、2人の世界に入っていた。
 はるかは、耐えきれずにその場から逃走することになる。
 
 
 そして、時は流れて……。
 
 
「私、言いませんでしたっけ…『私の目の届かないところで、幸せになってください』って」
「……あなたが、病気や怪我をしなければいいだけの話じゃないかしら?」
「いっそ独立しません?ほら、離島の医者不足とか深刻ですし。1億ぐらいなら、無利子、無担保で貸しますよ、私」
「田舎はイヤです」
「うわ、医は仁術ならず算術ですか。まさか先輩の口からそのような言葉を聞くなんて思いませんでしたよ」
 白衣に身を包んだ女医はちょっと顔を背けて。
「い、田舎は…星が綺麗に見えるから…イヤなの」
「あはははは、正妻じゃなくて妾扱いなんですね…うぐぅっ」
「あ、ここ痛みますか…かなりひどいですね。お腹の中真っ黒ですよきっと」
「く、こ、この…」
「診察室では、医者が神です……というか、何度も言いますけど、あなたは働き過ぎ」
「診察もせずに…このヤブ」
「……やめましょう」
「……そうね」
 2人はそろってため息をつき。
「それで、彼は元気?」
「3日前のメールでは」
「……今どこに?」
「オーストラリア」
「何でまたそんな…」
 女医はちょっとうつむいて。
「あ、あの…モノは相談なんだけど、あなた、プラネタリウムを建てるつもりは無い?」
「採算とれないものに投資はしないことにしてるの」
「経営次第では…」
「あの星馬鹿に、経営手腕なんかあるわけないでしょっ!」
「あの人の悪口言わないでくれる?」
 
 いや、幸せなのだ、たぶん、きっと。
 
 
 
 
 ぐだぐだ。(笑)
 だって、人間だもの。
 まあ、色々とコンセプトを失ってこうなったわけですが。
 つーか、クリスマスの天然プラネタリウムで終わらせればいいじゃん……と思ったのですが、主人公をああしてしまった以上、こうなってしまうのです。
 
 まあ、早い話……精神状態が良くないと、お気楽ハッピーエンドは書けません。

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