「ねえ、みやこ。」
「どうしたの千枝ちゃん?」
「みやこならもっといい高校が狙えたはずだよね。どうしてここを選んだの?」
 みやこがふと俯いた。
 自分が思っていることを上手く表現できないときのみやこの癖だ。ここでせかしたりしないで待ってあげれば彼女はいつもそれをなんとか表現しようとする。
 だから私はゆっくりとみやこの言葉を待った。
「千枝ちゃんの言う『いい』とは意味が違うけど・・・ここが私にとって一番いい高校だから。・・・千枝ちゃんもそうでしょ?」
『新入生のみなさんは体育館に入場してください・・・。』
「みやこ、ほら行くよ。」
 私はみやこの手を引き、体育館の方へ歩き出す。
「千枝ちゃん・・・さっきの答え・・。」
「そんなのはね、言わなくてもお互い解り合ってるからいいの。」
 自分でそう言いながら少し照れてしまった。
 私はラクロスをやりたくてこの学校を選んだけれど、みやこはきっと・・・。
 私はふと肩越しにみやこを振り返った。
 いつもレンズの向こう側に身を隠すように引っ込み思案でおとなしいみやこ。でも、彼女の存在は私にとってかけがえのない存在だ。
 彼女がこうやって自分のことを慕ってくれるたびにふと考えてしまう。彼女が私に与えてくれるほどに私はみやこに何かを与えてあげることができているのだろうか?
「どうしたの千枝ちゃん?」
 みやこは少しずり落ちた眼鏡を元の位置に戻しながら不思議そうにこちらを見つめている。人見知りの激しいみやこが安心しきった様に私に手をあずけているのを感じて、みやこの柔らかな手をきゅっと握りしめると、みやこもまたそれに応えるように握り返してくれた。
「・・・ずっと一緒にいられるといいね。」
 みやこの微かな呟きはなんだか照れくさくて、私は急ぎ足で体育館を目指した。
 
「みやこ、今日は暇?それとも塾?」
「・・・・特に用事はないけど?」
 教科書を鞄にしまい込む動作を途中で止めて、みやこが首を傾げた。
「今日ラクロス部お休みなんだ・・・。たまには家にでも遊びに来ない?」
 高校に入ってからというもの、部活動に追われてみやことろくに会話も交わしていない事が気にかかっていた。
 引っ込み思案のみやこにはクラスの中に特に話し相手がいるでもなく、ふと姿を見かけたときは1人で本を読んだりしていて放っておけない雰囲気がある。
 だからこうしてみやこが嬉しそうに微笑んでくれると、私もほっとした気分になれる。
 いつもなら1人で帰るいちょう並木をみやこと二人で歩くのは少しくすぐったい。
 茜ヶ丘の地名の元になっている茜川のほとりに植えられた茜の花と、街の至る所に植えられたいちょうの木がこの街の名物だが、どちらも秋になって初めてその鮮やかさを見せつけてくれるからこの季節は少し物足りない。
 などと考えていると、みやこがふと足を止めていちょうの木を見上げた。
 緑の葉が生い茂った隙間から初夏の陽光がちかちかと目を刺激する。私にはみやこの見つめているものが多分見えていない。
「・・・どうしたの?」
「うん、・・・このいちょう並木って秋になると寂しくなるから、今のうちにしっかり見ておこうかなって・・・。」
 そう呟いたみやこの横顔はどことなく儚げで・・・そんな横顔を見ていて不意に漠然とした不安が私の心に生まれた。
「でも・・・来年になればまた新しい葉が出るじゃない?」
「ずっと同じ葉を茂らせておくわけにはいかないのかな・・・。」
「・・・・ひょっとしたら一枚ぐらいはうっかりした葉がいるかもしれないわね・・。」
 それきり私達は黙ったまま馬鹿みたいに突っ立って、しばらくいちょうの木を眺めていた。
 初めてみやこを私の家に連れてきたときは、このいちょう並木は鮮やかに色づいた葉を散らし続けていた。散っても散っても一向に減る気配を見せないいちょうの葉は、永遠というものをほんの少しだけ信じさせてくれる様に思えた。
 季節こそ違えど、あの時と同じようにいちょうの木を見上げるみやこが何を考えているのか私は少し不安に感じた。
「このいちょうの葉が散る頃、私達は何をしてるのかな?」
「そうね・・・多分『来年の今頃、私達は何をしてるのかな』とでも考えているんじゃないかな・・・このいちょうの木を見上げながらさ。」
 緩やかに流れていく時の中で永遠というものがあるのならば、それは多分こんな思いなのかもしれない。
 私は柄にもなくそんなことを考えていた・・・・。
 
「松山っ!何ぼさっとしてるの、さっさと準備しなさい!」
「はいっ!」
 先輩の怒鳴り声にせきたてられるようにして私は着替えをすませた。こんな事になるのだったらやっぱり掃除当番はさぼったほうが良かったかも・・・。
 三年生が引退し、今は新チームとしてのレギュラー争いが熾烈な時期。だから先輩達はみんなぴりぴりしてる。この時期になると毎年退部する人間がたくさん出てくるらしい。
 好きなだけでは厳しい練習に耐えられないのかもしれない。辞める人はケガを除けば自分が選手になれないことを絶望的に悟ってしまった二年生か、そんな先輩の鬱憤のはけ口とされた一年生が多いとも聞いた。
『先輩に目を付けられるということは、選手になれる可能性があるということ。・・・・私もそうだったわ。』
 引退した元キャプテンの綾瀬杏子先輩がそう教えてくれた。
 だから私も一生懸命頑張っている。
「ありがとうございましたっ!」
 練習が終わった後に熱心な一年生を誘って居残り練習を始める。もっとも、先輩に言わせればそういう態度も生意気らしいのだが・・・。
「あー、真っ暗だ。日の落ちるのが早くなったねえ・・・。」
 星空を見上げながら呟く。
 ・・・お腹空いたなあ。
 ふとグランドの脇に立つ黒い影に気がついた。
「千枝ちゃんお疲れさま。」
「えっ?・・・・みやこっ!どうしたのこんな時間に?」
「うん、最近千枝ちゃん頑張ってるから何かして上げたくて・・・だから、はい。」
 そう言ってみやこが差しだしてきたものが月の光を浴びてほの白く浮かび上がった。
 それはおにぎりであった。
 不器用なみやこらしい、少々形の崩れたおにぎり・・・。(形が崩れていたのはずっと持っていたためと後日判明)
「みやこ・・・まさかこのためにわざわざこんな時間まで?」
「ううん、ちゃんと一度家に戻ったから。それに千枝ちゃんのやっていることに比べたらこんなの大したことじゃ・・・」
 私はみやこの言葉を遮るようにして冷えたおにぎりに手を伸ばした。いつから待っていてくれたのだろう。冷えきったおにぎりはとても温かかった。
「おいしいよ、みやこ。」
「よかったあっ。」
 それからしばらくして私達は二人並んで土手の道を歩いていた。すると、突然みやこが河原の方を指さして呟いた。
「今日ね・・・私、あそこで泣いてたの。」
「なっ、なんで!」
「・・・私ね、千枝ちゃんにいつも貰ってばかりで何もしてあげられないから。」
 そんなこと、と言いかける私を遮ってみやこは言葉を続けた。
「そう思うとね、千枝ちゃんがいなくなったら私はどうなるんだろうって、千枝ちゃんに私は必要なのかなっていろいろ考えちゃって・・・。」
 最近みやこのことをおろそかにしすぎていたのかもしれない。それで多分不安になっていろんな事を考えてしまったのだろう。
「そんなときにね、あの人が現れてね、こう言ってくれたの。『人は誰かに必要とされるから生きていけるんだ。きっと千枝ちゃんは君のことを必要としてくれているよ』って。それでね、『千枝ちゃんに何かしてあげたら?きっと喜んでくれるよ』って言ってくれたの。」
 月の光がみやこの顔を照らしだす。頬のあたりを紅潮させたみやこの横顔はどこか幻想的な美しさを漂わせ、それだけに掴もうと手を伸ばせば指の隙間からすり抜けていきそうな感じがした。
「・・・それで、おにぎり?」
「・・・うん。家に帰って作ってみたの。」
 私は黙ってみやこの身体を抱きしめた。自分のことだけに一生懸命な私をこんなにも大切に思ってくれている親友にどんな言葉をかけていいかわからなかったから。
 結局陳腐な言葉しかかけられなかった。
「・・・・ありがとう、みやこ。」
「ううん・・・」
 しばらくして再び土手の上を歩き出したが、なんだか照れくさい。何か話題を、と思ってさっきから気になっていたことを口に出した。
「・・・みやこ、ところでさっきの『あの人』って誰?」
 
 ここに来る前に女子トイレの鏡で自分の顔つきを確認してみた。
 今の私の顔を見れば100人中99人までが私の機嫌が悪いことに気がつくだろう。残りの1人といえば凄く機嫌が悪いと思うに違いない。
 できるだけリラックスを心がけているのだが、スカートのポケットの中にある手紙・・・みやこにお願いされたものだ・・・を考えると訳もなくいらいらする。
 教室の入り口でみやこの言う『あの人』を確認する。
 ・・・なんかこう頼りなさそうな軽薄そうな顔つきね。あんな顔して『人は誰かに必要とされるから生きていけるんだ』なんつー歯の浮きそうな言葉を吐いたりするわけね。
 みやこが口にするのはかまわないが、この少年が口にするのは何か許せない気がした。
 どうやら自分の心が黒いもので埋め尽くされているような気がして、少し反省してから深呼吸した。
 ・・・さりげなくさりげなく。
 すたすたすたつかつかつかどすどすどす。
 ダメだ、足音は正直みたい・・・。
「あなたが秋山悠介さんですか?」
「えっ、・・・ああそうだけど。」
「これ頼まれたの、私のじゃないわよ、ちゃんと読んで返事してあげてね。」
 私はそそくさとみやこから預かった封筒を手渡して、足早に教室を後にした。背後から何やらどよめきにも似た歓声がわきおこっているが私の知ったことではない。
「・・・千枝ちゃん。」
「みやこ、そんな顔しなくてもちゃんと渡してきてあげたわよ。・・・でもみやこもそのぐらい自分で言わないと。」
「でも、そんなの恥ずかしくって・・・」
 みやこは一体つき合って何がしたいのだろう・・・?
 青い空一面ににいわし雲が並んでいた・・・・。
 
「すっかり色づいてきたわね・・・。」
 見上げればいちょうの葉で一杯である。もうしばらくすると休むことなくその葉を散らし続けるのだが、今はまだ数えるほどの散り方である。
 いちょうの葉は何色か?ということをみやこと話していて、上手く説明できなかった私は思わずいちょう色と言ってみやこを笑わせたことがあった。
 あれは確か中学2年の頃。
 でも、今見上げるいちょうの葉はやはりいちょう色に見えた。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、かさかさと枯葉を踏む音が聞こえてきた。
「あっ・・・」
 みやこ、と声をかけかけたがやめた。流石にそこまでおじゃま虫ではない。
 それにしても・・・といちょうの木の陰から二人の様子を見守っているとどうもぎこちない。みやこはそれ以上俯いたら首の骨が折れそうだし、先輩の方は何やらおどおどもじもじして一向に楽しそうに見えないのだ。
 二人が通り過ぎてしまった後で私は呟いた。
「・・・あんなののどこがいいんだろ?」
 そうして私はそのままいちょうの木を見上げていた。時折思い出したようにいちょうの葉が目の前を散っていく。
「・・・いちょうの葉の散る頃に・・・か。想像とは違う光景になったわね・・・」
 みやこにとって、もう私は必要ないのだろうか?
 ふと、そんな思いがこみ上げる。私以外の誰かを必要として、そしてその誰かを手に入れつつある・・・。
 ふと、目から鱗がこぼれたような気がした。
「・・・きっとみやこもこんな気持ちだったのね。」
 ラクロスに夢中になっていた自分と先輩に夢中になっているみやこ。だったら私もみやこに何かしてあげなければ・・・・。
 先程のぎこちない二人の様子を思い出す。
「ま、私にはそれぐらいしかできないし・・・」
 
 今日は昼休み頃から雨が降った。
 グラウンドが使えないせいで今日は補強トレーニングだけの練習に変更。無論いつもより早く終わる。
「さて・・・」
 私は鞄を頭上に掲げて雨の中へと飛び込んだ。思ったより冷たい秋の雨が容赦なく身体にうちつけられる・・・というか私が走っているからかもしれないけど。
 雨に煙って白い霧がかかったような土手の道。前方に相合い傘のカップルを発見して無性に悔しくなった。
 ・・・ああいうのをみやこに強制するのもいいかもしれないわね。
 そんなよこしまな考えを抱きながら、千枝はそのカップルを追い越した。
「あら?千枝、千枝じゃないの?」
「はいっ?」
 いきなり呼び止められて振り返ると、そこには杏子先輩の姿。自分の目標であるラクロス部の元キャプテンにして、同じ女性としても憧れの対象でもある。
 そしてその相手と言えば・・・・
「・・・悠介・・先輩?」
「あら、あなた秋山君と知り合いだったの?・・・ってそんなことよりあなたびしょぬれじゃない!私の家に寄って行きなさい。」
 
「良かったわすぐに制服が乾いて・・・じゃあ千枝、気をつけて帰るのよ。・・・それと秋山君、今日はありがとう。」
「わざわざありがとうございました杏子先輩!」
 にっこりと微笑む杏子先輩に対してはとびっきりの笑顔で挨拶した。そして杏子先輩の家から足早に遠ざかるに連れて、悠介先輩の動きがどこかぎこちなくなる。これから何が起こるのかを肌で感じているのかもしれない。
 すたすたすた・・・ぴたっ。
「悠介先輩。」
「・・・な、何かな千枝ちゃん?」
「どういうことか説明して貰おうじゃないの!言ったはずよね、みやこを悲しませたりしたらただじゃおかないって!・・・ま、杏子先輩が悠介先輩を相手にするはずもないんだけど。」
 口調こそ荒っぽいものの、1つ傘の下でのやりとりだけにどこか滑稽な気がした。
「ち、違うんだ千枝ちゃん。いいかい、想像してみてくれ・・・傘を持ってない綾瀬先輩と傘を持った俺の視線がぶつかった・・・・・」
 要約するとこういうことらしい。
 傘を忘れて困ったように空を見上げていた杏子先輩とばったり傘を持った悠介先輩が出会ってしまったらしい。
 杏子先輩は視線を逸らしつつぽつりと呟く。
「・・・大変、雨が降って帰れないわ・・・。」
 ・・・・・気のいい悠介先輩である。
 そして心優しい杏子先輩である。
「・・・・許す。」
 そこで見捨てていくような悠介先輩なら、みやこは多分この人を好きになることは無かっただろう。そう思ったら許せるような気がした。
 急に雨の音が変わったと思ったらいつの間にかいちょう並木に来ていた。上手く表現できないけど、どこか乾いた雨音が遠くから聞こえてくるように感じる。
「でも男物の傘って大きいのね。二人で入ってもほとんど濡れない・・・」
 そう言いかけて悠介先輩の方を見ると、先輩の肩の辺りが雨に濡れてびしょびしょになっていた。
 そして私は気がついた。
 悠介先輩が私を包むようにして傘を傾けていてくれたことに・・・。
「・・・・ありがとう。」
「二人とも濡れるよりはね・・・俺は風邪ひいても問題ないけど、千枝ちゃんは今ラクロス部の大事なときだろ・・・。」
 少し照れたように呟く悠介先輩の姿を見て、私はみやこがどうしてこの人を好きになったのか少しわかったような気がした。
 それからしばらくみやことはどうなのかとか何をしてるのか、などとみやこが恥ずかしがって話してくれない情報をせっせと仕入れるうちに先輩の家についた。
 先輩は私の手に傘を握らせながら首を傾げている。
「どうしたの?」
「今気がついたんだけど、綾瀬先輩の家で傘を借りたら良かったんじゃないのかな?」
「・・・・・・」
「・・・・・・・」
「なんでそんな簡単なことに気がつかないのよ。」
「・・・千枝ちゃんも、だろ?」
 杏子先輩も先輩である・・・。
 
「・・・というわけで悠介先輩と相合い傘しちゃったわよ、馬鹿みたいよね。」
「・・・相合い傘。・・・いいなあ。」
 少し無神経だったかもしれない、みやこが元気なさそうに少し俯いていた。
「何よ、これからいくらでもそんな機会あるわよ。傘持って待ってればいいんだから。」
「うん・・・」
 ・・・これはちょっとまずいわね。
 そして放課後。
 悠介先輩とみやこが出会うより先に紙切れを手渡した。
「え、何これ。」
「みやこと帰ってる途中で読んで。・・・みやこには見せちゃダメよ。」
 そう言って素早くその場を後にした。
 これで後は悠介先輩が紙に書かれたとおりのことを実行すればばっちり。相合い傘より手を繋ぐ方がよりカップルらしくて恥ずかしいとみんなも言ってたし・・・。
 そこで私はふと心配になった。
 ・・・・恥ずかしい?
 その夜漠然とした不安を感じて、私は悠介先輩の家に電話をかけた。
「はい、秋山です。」
「あ、私は松山と言いますが、悠介さんはおられますか?」
「あ、お兄ちゃんですね。ちょっと待っててください。」
 ・・・なんだ、妹さんだったのか。
「はい、電話変わりました。」
「何かしこまってるのよ、わたしよわたし、千・枝。」
「・・・ああ。」
 多分私の名字を知らなかったのだろう。ま、それはさておき・・・
「・・・・手のつなぎ方がよくわからないんだ。」
 ・・・本気でそんなことを言ってるのだろうか?
 耐え難い疲労感とともに、こめかみのあたりにじんわりとした痛みを感じた。しかし先輩だと思うから情けないのであって、妹のミナだと思えば許せないこともない。
「あのね、悠介先輩。フォークダンスみたいにさっと手を取ったら終わりでしょ。」
 できるだけ優しく、幼稚園児を相手にするように話しかけたつもりだが先輩は幼稚園児より聞き分けが悪かった。
「だってみやこちゃん逃げるんだぞ。手を取るどころか俺が近づいただけで意識するのか、なんか動きがぎこちなくなるし・・・。」
「・・・ああ、そう。」
 その光景が目に見えるようだった。とはいっても納得してるわけにはいかない。
「そんなの悠介先輩がちゃんとみやこをリードしてあげなきゃダメでしょ。みやこはああいう子なんだから・・・。」
「そんなこと言ったって・・・」
 いらいらいら・・・。
「わかったわ。手のつなぎ方を教えてあげるから明日学校に来なさい、いいわね。午前中はラクロスの練習だから午後よ。ぜったいに来なさいよ!」
 がちゃっ。
 ふーっ・・・。
「姉ちゃん、どうしたの?」
 がばっ。
 私は弟の健太の手をコンマ二秒で掴み上げた。
「な・なんだよ、放してよ姉ちゃん。」
 こんな簡単なことができないなんてホント情けないんだから・・・。
 
 私は高校に入ってから初めて辞書を開いた。
 事故・・・思いもかけない出来事。偶然。災難・・・
「こういうときはやっぱり辞書よね。・・・思いもかけないこと。偶然。・・・。」
 私はそう呟きながら下唇のあたりを人差し指でなぞった。それは半ば意識的であり、半ば無意識の動作でもあったが軽い痛みがはしる。ぶつけた拍子に少し歯があたっていたのかもしれない。
「でも・・・災難・・・・じゃないよね・・・。」
 ほぼ新品の辞書を閉じると、ぱたっという小気味のよい音がした。
「・・・じゃあ、事故じゃないのかな?」
 ふと目を閉じると、屋上での出来事・・・じゃなくて悲しそうなみやこの顔が浮かび、私は慌てて目を開けた。
 私は何を考えていたのだろう・・・悠介先輩はみやことつき合っているのだ。
 そしてみやこは私の親友・・・。
 
 昨日のことが気になってテストに集中できない・・・・というのは言い訳にすぎないことはわかっている。単に勉強不足なだけ。
 でも、記号問題しか満足に埋められないというのは、まず人としてどこか間違っているような気がして・・・とか考えてたら刻一刻と時間は過ぎゆく蜃気楼のようで・・
「残り五分です。良く見直すように・・・。」
「うそっ!」
 ・・・大恥をかいてしまった。
 ・・・テスト一日目にして終了。
「全てを忘れたいわ・・・。」
 昨日の出来事も今日のテストのことも・・・そして明日のテストのこともっ!
「だめだよ千枝ちゃん、普段部活ばっかりしてるんだからこんな時ぐらいはちゃんと勉強しないと・・・。」
 傷心の親友に向かってなんという素っ気ないお言葉・・・。
「ふーんだ。みやこは先輩と勉強でもしてなさい。私は1人で遊びに行くから。」
「千枝ちゃん!」
 私はわざとすねたようにそう言うと、二人に背を向けて走り出した。そして廊下の角を曲がったところで振り返る。
 ・・・・・・おや。
 そっと覗いてみると、何事もなかったようにして仲良く二人並んで廊下を歩いていく二人の姿がある。
 それが私にはとても寂しかった・・・・・。
「ふうん・・?千枝もいろいろ大変みたいね。」
 ため息のような言葉とともに、肩の辺りに軽い重みを感じた。
「きょ・杏子先輩!いつからそこに?」
 肩に乗せられた手を反射的に振り落としながら、私は背後に立っていた杏子先輩の方に振り返った。
「いつから?・・・そうね、千枝がこっちの方に走ってきた頃からかしら。」
 しっとりとした黒髪を軽くゆらめかせながら、杏子先輩は微笑んでいる。全部聞かれていたのだとするとかなり恥ずかしい。
「友達の彼氏じゃあね・・・千枝にとってはつらいわね。」
「な・な・なんですかそれえっ!」
 肺の中の空気を全て絞り出した叫びだけに、杏子先輩は顔をしかめて耳を覆った。そうしておいて何もなかったように私の顔をみつめて囁いた。
「・・・違うの?」
「・・・・違います。」
 我ながら語尾が弱々しい・・・かもしれない。
「あら、そう。じゃあ、私が秋山君に交際を迫ってもかまわないわね?」
「なっ!・・・みやこが悲しむからダメです。」
「私の勝手でしょう?・・・それに選ぶのは秋山君だし。」
「それでもだめです!」
 途端にまわりに張りつめていた緊張感がすっと消えた。その代わり杏子先輩は優しい、でも悲しい目をして私をじっと見つめていた。
 そしてため息をつく。
「千枝、世の中で一番騙しやすい存在ってなんだと思う?」
「・・・お人好しですか?」
「違うわ・・・自分の心よ。」
 杏子先輩の言う事が良くわからない・・・。
「でもね、ずっと騙し続けるのが一番難しいのもまた自分の心なのよ。・・・あなた、これから長い間苦しむことになるわ。その覚悟はあるの?」
「・・・なんで私が苦しむんですか?杏子先輩の言うことは私にはわかりません。」
 ラクロスの練習中のように気合いを入れて、私は杏子先輩の顔をきっと見つめ返した。そうでもしないと自分の心が弱い方へ弱い方へ流れていきそうで・・・
 ふっと自分の身体が柔らかい存在に包まれたのを感じた。軽く頭を抱えられて、杏子先輩の胸元に顔を押しつけられる。
「きょ・杏子先輩?」
「・・・私からの最後のアドバイスだがらよく聞きなさい。千枝、あなたは何事も一生懸命すぎるの・・。もっと自分の心に対して適当に向き合いなさい・・・。」
 ・・・最後?最後って何・・・?
「じゃあね、千枝。」
 杏子先輩がフランスに行くことを知ったのはそれからしばらくしてのことだった。
 そしていちょうの葉が盛大に散る頃に、杏子先輩はフランスに向けて旅立った。
 私は、杏子先輩という存在に多くのものを預けていたことを初めて知った。
 
 大分寂しくなってしまったいちょうの葉の隙間から、寒そうな色をした空が見え始めていた。
 もうすぐ冬がくる。
 気がついたときには既に黄昏を迎えていた自分の恋。
 いや、そうじゃなくて無理矢理自分で終わらせようとしただけかもしれない。
「千枝ちゃん、お待たせ。」
「遅い、今日の主役を待たせるなんてどういうつもりなの。」
「まあまあ、今日は千枝ちゃんが見事にレギュラーを獲得したお祝いだから、ちょっと準備に時間がかかったんだ。それじゃあ行こうか、友美も千枝ちゃんが来るの楽しみにしてるし・・。」
 今日は悠介先輩の家でお祝いをする。
 私は、結局ラクロスにしか逃げ道が無くて、その結果レギュラーを取った。それは他人にお祝いされるようなことなのだろうか?
「ふーん『ともこ』ちゃんがねえ・・。何か仕返しされるんじゃないかしら?」
「千枝ちゃん・・・友美ちゃんに何かしたの?」
「ちょっとね・・。」
 いちょう並木を三人で歩く。
 初夏の頃・・・まだいちょうの葉が青々としていた頃に想像していた光景。それより1人余分な存在がいる。
 それが自分であることがとても悲しい。
 目の前をはらはらと舞い散っていくいちょうの葉には目もくれずに、私は再び空を見上げた。
 来年の今頃は今とは違う光景を眺めていたいと思う。
 それが無理ならこの光景を心穏やかに眺めていられる自分であってほしいと心からそう願っている。
 そんな私の鼻先をかすめるようにして、またいちょうの葉が散っていった。
 
 
 

 うがあっ!いきなりバッドエンドになってしもたっ!(笑)
 というわけで『いちょうの舞う頃』です。自分の評価はかなり高いですが、世間一般に知られているかどうかは自信がありません。
 18禁でありながら、主人公が女の子とのつき合い方がわからなくて苦悩する様がポイント高いです。それともう一つ秀逸なのが、大体この手のゲームってバッドエンドとハッピーエンドの雰囲気の落差が激しいモノなんですが、このゲームはバッドエンドもしっかり書き込んであって、それでいて作品の雰囲気そのものの一貫した流れがあるのが素晴らしいです。
 特に下級生シナリオは主人公はおまけなのでは?と思えるほどにみやこと千枝の固い友情の絆を読ませてくれます。
 ちなみにこの話はみやこのハッピーエンドを千枝の視点で書いた様な話になってます。
 本当はこのゲームをやってない人にも作品の雰囲気を味わっていただくぐらいにきっちろと仕上げたかったんですが、それは自分の能力の無い物ねだりだということに気がつきました。それでも微かに(笑)雰囲気らしきものは漂っているような気がします。
 と、言うわけで吉井さんの強いリクエストに応えた話だったんですがノリノリで書いちゃいました。
 ・・・実は文章作成に取りかかってから10時間書きっぱなしなんです。たかだか40枚にそんだけ時間がかかるか?というのもその筈で、二回失敗しました。
 これが三度目の正直か、二度あることは・・・なのか読者の方に任せますが、願わくば三度目の正直でありますように・・・。
 折しもいちょうの舞ういい季節です・・・。
 これが18禁だあっ!という作品やお約束たっぷりのギャルゲーもいいですが、たまにはこういう雰囲気のゲームを味わってみるのも良いかと思います。

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