夏休みだというのに、来る日も来る日も演劇の稽古。
公演を間近に控えて鬼監督はますます厳しく、他の劇団の仲間のようにみんなで飲みに行ってストレスを発散させることもできない未成年だけに、巴の気分転換は別の手段をとらざるを得ない。
「……よし」
財布の中身と相談し、遠回りになるが遅めの夕食をとるために海岸沿いのファミリーレストランへと向かったのだが……
「……困ったな」
恨めしげに空を見て、分厚い雨雲を穴を空くほど見つめてみたが、ちょっとやそっとでは退散しそうになかった。
コンビニまでは走っても約3分。
雨に濡れたまま冷房の効いた電車に乗ると間違いなく風邪を引く……しかし、この雨の中を2駅分歩き続けるのはつらい。
こうしてぐずぐずしている間にも、終電の時間は刻一刻と近づき、巴の選ぶべき選択肢は確実に削られていく。
「……悩んでるフリして答えを先送りしてるだけ…か」
何となく今の状況がはまっているような気がして、今度の公演で自分が演じる役柄の台詞を呟いてみてもむなしさが増すだけだった。
「…あのさ、ちょっといいかな?」
「はいっ?」
声のした方を振り返ると、どことなくスポーツマンの雰囲気を漂わせる長身の青年がすぐ側に立っていた。
迂闊にも周りに人がいることに気がついていなかったらしい。さっきの芝居っ気たっぷりな台詞を聞かれていたとしたらちょっと恥ずかしかった。
「こういうこと言うと迷惑かも知れないけど、コンビニまで送ろうか?」
「……あれ、さっきの店員さん?」
その整った顔立ちと、誠実そうな客応対が印象に残っていた。
さっきお店の中でコーヒーのお代わりを入れてくれた店員さんであることに気付き、少々間抜けな声を上げてしまう。
「いや、ちょうどバイトがあがって……余計なお世話かも知れないけど困ってるようだったから」
「んーと、ナンパならお断りなんですけど?」
真意を探るように少し意地悪く微笑んでみる。
「あ、いや……そんなつもりは無かったと思うけど。…それに送るといっても傘を持ってるだけだし」
困ったように下を向く仕草は自然なものだった。演劇なんてやってると、自然に人の表情や仕草を窺うことに長けてしまう。
「あはっ、善意で言ってくれたのにすいません嫌なこと言って。それに、正直助かります。ちょっと今は風邪なんかひいてる余裕ないから」
「えーと、いいのかな?」
「あははっ。店員さん、その台詞は私の台詞ですよ」
初対面で、しかも他愛もない会話だというのに、日々のストレスで絡まった精神の糸が柔らかくほぐれていくのが不思議だった。
「じゃ、せめてものお礼に私が傘を持ちますね」
海岸沿いの国道を歩きながら、隣を歩く店員さんを興味半分、警戒半分でちらちらと盗み見る……結局興味の方が優勢勝ちを収めて話し掛けることになるのだが。
「バイトを始めたのって最近ですか?」
「うん、そうだけど……?」
「何度かあの店に寄ったけど、店員さんを見たのは初めてですから」
「独り暮らししてるから家計の足しにと思って……夏休みだし」
少し困ったような表情……でも、独り暮らしって事は大学生かななどと想像は広がっていく。
「ふーん、苦労してるんですね」
「家事さえなきゃ開放感でいっぱいなんだけど…」
しみじみと呟く姿がなんともスマートな外見に似合わない。
「……ぁ」
雨にぬれないようにゆっくり歩いていたはずなのに、コンビニはもうそこだった。
少し残念に思いながら、軽く息を吸い込んで明るい声を出す。
「じゃ、私コンビニで傘を買いますから……」
「うん、帰り、気をつけてね…」
「ありがとうございました」
店員さんに向かって軽く手を振ってからコンビニへと飛び込む。そして傘を買って外に出るともう店員さんの姿はなかった。
「……あ、名前ぐらい聞いても良かったかな」
相性というものが存在するならばきっと……そんな事を初めて考えた夏の夜、巴は鬼監督に怒られたことを引きずることなく幸せな気分で眠りについた。
従業員用の出入り口から出てきた人影が、何気なく店の中を覗き込むのを確認して巴の心は決まった。
「誰かをお捜しですか?」
「あっ、飛世さん……てっきり帰っちゃったんだと…」
「凄く忙しそうだったね……また、コーヒーのお代わりを持ってきてくれるかと思ったんだけど、来たのは接客態度のなってないウエイターさんだったし」
「申し訳ない……って言っても、僕の方が新人なんだけどね」
「バイトはもう上がり?」
「うん…」
ごく自然に肩を並べて歩き出す。
ああしようこうしようと思うのではなく、ごく自然に2人の呼吸が一致しているというか……上手く説明できないけど、よく似た時間の流れを持っているような気がする。
「……あれ、よく考えるとこの店って家に帰るのに遠回りなんじゃないの?高校生にとって値段が安いとは言えないし……」
それには答えず、巴はじっと顔を見つめた。
舞台を前にしたような緊張が巴の胸を締め付ける。
「今日、こうして歩いてるのって……偶然じゃないんだけど?」
偶然出会った公園で、お互いに自己紹介しあったのは一昨日。初めて出会った日から計算すると、まだ一週間も過ぎていない。
大学生だと思っていたのが実は同い年で……名前と学校を教えてもらったから、新学期になって中学の友人を頼る方が確実なのだが、一刻も早く会って話をしたかった。
少し答えを急ぎすぎてる気がしないでもなかったが、ここまではっきりと心を惹かれている事が自覚できるのだから待つ必要を感じなかった事が理由の1つ。
そして単なるうぬぼれかも知れないけど、多分脈があるという巴の判断が答えを急いだもう一つの理由である。
「あの日と同じ時間に来ればまた伊波君と一緒に帰れるかな……なんて」
いざというときは冗談として笑い飛ばせるように軽く…そう心がけたのに、そんな演技ができない自分が愛しく、また照れくさい。
「ぁ……」
息を呑む音。
その音に何となく不吉なものを覚えて顔を上げた。
答えを聞くまでもなく、その困ったような表情が全てを物語っている。
「……ごめん飛世さん。自覚してなかったけど、思わせぶりな態度をとってたかも知れない」
地面を見つめたままの真面目な言葉が、余計に巴の心を締め付けた。
「……好きな娘、いるんだ?」
「うん…」
「あは……凄く楽しそうに笑ってくれるから、ちょっと勘違いしちゃったかな…」
恥ずかしさと悔しさがグチャグチャになった感情に押しつぶされそうな中、巴は必死に笑顔を作る。しかし、それが自然な笑顔でないことだけは不思議とわかった。
「飛世さ…」
「ごめん、そのまま下を向いてて。私、今酷い顔をしてるから…」
「ごめん…でも」
言われたとおり俯いたままだったが、ハンカチを差し出すあたり何か勘違いをしているのかも知れない。
もちろん、誤解を解く余裕はない。
「さようなら…」
差し出されたハンカチを拒否するように背を向けた瞬間、自分一人が舞い上がっていた惨めさに涙が出る。
そのまま暗い夜道を二駅分歩いて家に帰り、今夜もまた仕事なのか、両親が家にいない事を感謝しながら巴は携帯の一番最初に登録してある番号をセットした。
「……というわけで、失恋しちゃいました。まあ、変に二股かけられたりしなかっただけ良しとしよう」
「そんなぁ……ととちゃんを振るなんてその人って見る目ないよぉ。ほたると同じ学校の人なんでしょ?なんて名前?」
「いや、さすがにそれは……」
親友である白河ほたるが、純真で性格的に不器用なことを知っているから教えられない。はっきり言って何をするかわからないのだから。
「ま、それはともかくほわちゃんは彼氏と相変わらずなの?」
「え、えへへ…」
携帯を握りしめたまま、目尻が下がりまくるほたるの顔が見えるようだった。
去年の夏休み、花火大会の会場で来年は2人とも彼氏を連れて花火を見に来ると誓ってから半年足らず、ほたるはよりによってクリスマスにお目当ての彼氏を捕まえた……ただし、恥ずかしいからとまだ紹介はされていない。
「……でも、最近はほたるのピアノの練習が忙しくって。本当ならずっと一緒にいたいんだけど」
「はいはーい、ごちそうさま!」
「あ、ととちゃんひどーい……」
「ふふふ、ハートブレイクしたばかりの少女にのろけ話は禁句なのよ…」
「あうっ…そんなつもりじゃなかったんだけど」
「あははっ、うそうそ。変に気を遣われるよりほわちゃんみたいに普通にしてくれる方が気が楽だから……でも、多少は手加減よろしく!」
受話器の向こうで黙り込む気配……そして、幾分真面目な口調で語り出す親友の言葉は、巴の心の弱い部分を刺激するものだった。
「あのね、ととちゃん……その人に好きな娘がいるからって失恋したと決め付けなくてもいいんじゃないかなあ?」
「……え?」
「もちろん、彼女から奪い取るとかの話じゃなくて……ほたるはね、失恋するって事はその人のことを好きでも何でもなくなったときになって初めて失恋したって言うと思うんだぁ…」
喉のあたりに何かが絡まるような感覚がせり上がる。
「だから……無理に忘れようとしなくても……」
「……ほわちゃん、ちょっと泣いちゃうけどいいかな?」
「うん、いいよ……でも、電話でごめんね」
「そ、そんな事ない……面と向かっては…恥ずかしいから……」
携帯に向かって泣き言を繰り返しながら、巴は中学校でほたると知り合えた幸運に今一度感謝した。
弟が生死の境をさまよっていた時でさえ演劇という仕事を優先した両親への反発から、惹かれながらも嫌悪していた演劇の道を歩むことができたのも全てほたるのおかげだった。
敢えて口にはしないが、いつかそのお返しをしなければいけないと巴は思う。
「ありがと…本当にありがと、ほわちゃん……」
「ほたる、ととちゃんに何もしてあげられないから」
「そんなことない…うん、そんなことないよ…」
数日後、巴は稽古前に少し舞台の感覚をつかもうと思って公園に足を伸ばした。
また偶然出会ってしまったら困るので、ここ数日は意図的に散歩のコースからも外していたのだが演劇となるとそうもいかない。
「どうか、いませんように……」
それが本心なのかどうかを考えずに、巴は茂みからそっと顔を出して公園の中を窺った。
そして、途方に暮れる。
ベンチに腰を下ろしているのは間違いなくあの少年であり、それだけならともかく、女性と2人連れというヘビーな状況である。
「……きついなあ」
等と呟きながら、それ以上に好奇心が上回るのは人間の哀しい習性なのか。巴は再び背伸びするようにして公園の中を覗き込んだ。
公園と言っても、四方を道路に囲まれた典型的住宅街の公園だけに、そんな巴の姿は怪しすぎるのだが気にはならないらしい。
腰まで伸ばされた漆黒の黒髪に、大人びた雰囲気。どちらも自分にはないモノで、巴は心の中で舌打ちする。
「そうですか、ああいう人が……って、どこかで見たような?」
見えやすい位置にじりじりと移動しつつ、背伸びからつま先立ちへと巴の姿勢が変化した。
「え……静流さん?」
巴とは3つ違いの大学生であり、親友であるほたる自慢の姉、白河静流。
お菓子作りとプロレス観戦が趣味で、ほたる曰く『お姉ちゃんみたいになりたい』のだそうだ。
「……」
楽しそうに笑い合う2人を見ると心が痛む。
二人が座るベンチの上には、おそらくは静流は作ったお菓子がある。
ただの知人……にわざわ手作りのデザートを食べさせたりしないだろう。しかも、静流は3歳も年上なので友達としては生活サイクルが違いすぎる。
第一、静流が見せる笑顔は……友達に対しての笑顔には見えなかった。
「……そっか、静流さんが相手なのか」
よりによって静流と比べられたかと思うと、何となく膝の力が抜けた。つま先立ちの姿勢からゆっくりと踵を下ろす。
「ととちゃん、何してるの?」
「……っ!」
感覚的に心臓が2センチほど跳ねる。
ちょうど気が抜けたところだったせいで、余計に驚きが強い。
「ほ、ほわちゃん?」
不自然なぐらい語尾が跳ね上がるが、おどろいたのはほたるも同様だったようだった。
「ど、どーしたの、ととちゃん。変な声だして…」
「あ、あはは。何でもない、何でも……」
精一杯平静を装いながら、巴の頭の中は3割方パニックである。
「何を覗いてたの?誰かいるの?」
「う、ううん、ただの背伸びの運動!」
ほたるから静流さんに彼氏がいる等という話は聞いたことがない。
もちろん隠す必要はないのだが、巴は自分自身の感情も重ねて必死でほたるの視界を遮ることに専念したがそれも空しい抵抗だった。
「あ、お姉ちゃんと…あれ、健ちゃんだ。おーい!」
「え、ほわちゃん…?」
『健ちゃん』といういかにも使い慣れた言葉の響きに、巴は何か自分がとてつもない勘違いおよび危険な立場にいることにおぼろげながら気が付いた。
そして、我に返ってその場を逃げ出そうとしたときにはもう手遅れ……
「そういえば、まだととちゃんに紹介したことなかったよね…」
こんな時だけやたらと強引なほたるがしっかりと自分の手を握り、有無を言わせずグイグイと引っ張っていく。
「ちょっ、紹介するってまた今度がいいな」
「だーめ、今日は珍しくそんな気分だから。今日じゃないと、一生健ちゃんを紹介できないかも知れないから」
巴は、自分の想像が当たっていたことを知って目を閉じた。
ほたるに引きずられるようにして公園の中に連れて行かれる巴の頭の中で、ドナドナの大合唱が始まる。
「けーんちゃーんっ!」
その小柄な身体のどこに そんなパワーがあるのか、ほたるは巴を引きずりながらぶんぶんと大きく手を振って辺りをはばからない声を上げた。
「ほたる?」「あ、遅いわよ、ほたる…」
覚悟を決めかねている巴の背中を押すように、ほたるがぐいっと少年の前に押し出した。
「健ちゃん、何度か話に出てきたと思うけどこの人がととちゃんだよ……」
無茶苦茶気まずかったが、こうなっては仕方がない。巴は精一杯の芝居っ気を引っ張り出して巨大な猫をかぶることにした。
「あ、初めまして。私、飛世巴です……ほわちゃんから、噂はかねがね…」
ほたるには気付かれないように、こちらに合わせろ光線をバシバシと送る。
「あ、初めまして……伊波健です」
少し引きつったような曖昧な微笑み。そんな2人を不思議そうに見つめる静流の視線が痛い。
「ところで健ちゃん、どうしてお姉ちゃんと一緒に?」
「あ、健君が通りがかったから声をかけたの……ちょうど新作のお菓子もあったし」
「ほたるはいつも美味しいとしか言わないから参考にならないんだってさ」
「だって、美味しいんだもの…」
どうやら、ほたるが今度のピアノ競技会に着るためのドレスを買いに行くためにこの公園で静流と待ち合わせていたらしい。
そうして針のむしろに座ったまま会話が続きそうな気配を察して、巴は慌てて口を挟んだ。
「ほ、ほわちゃん!静流さんと何か用事があったんじゃないの?」
「あら、忘れてた。ほたる、そろそろ行きましょ」
「うん、じゃあね、健ちゃん、ととちゃん…」
「あはは…行ってらっしゃい」
そうして白河姉妹がいなくなると、巴は恐ろしいほどの疲労を感じてベンチに座り込んだ。
「……大丈夫?」
「いや、あんまり……ちょっと自己嫌悪が酷くて。知らなかったとはいえ、ほわちゃんの彼氏にモーションかけちゃうとは……」
自分自身に対してため息をつく。
ほたるは、いつも『けんちゃん』としか言わないため、ちゃんとした名前も知らなかったのだ。
「あのさ、さっきから気になってたんだけど、『ほわちゃん』と『ととちゃん』って?」
「ほわちゃんの名字を英語にするとホワイトリバーでしょ?だからほわちゃん。『ととちゃんに』関してはほわちゃんが名付け親なんだけど、名字と名前が『と』で始まるからだと思う…」
「なるほど、親友ね…」
「ちょっと、どういう意味よ?」
巴は反射的にベンチから立ち上がりかけ、気持ちを振り払うように頭を振ってゆっくりとベンチに腰を下ろした。
やっぱり、あまりにも波長が合いすぎる。
ともすれば罪悪感を押し流してしまうほどに心地よい瞬間は、麻薬のような中毒性を持っているように思えた。
「ごめんなさい……独りにして」
「何か飲み物でも買ってこようか?」
優しい言葉をはねのけるようにきっと顔を上げて、親友の恋人の顔をにらみ付けた。
「優しくしないでよ……いつでも、誰にでも優しいのって、凄く残酷なんだから」
「ごめん…」
「謝らないで!……私、自分がやつあたりしてるのぐらいわかってる!」
時間さえおけば、気の合う友人としてやっていく自信はある……いや、そうしなければいけない。
一度紹介されたからには、仲良くしないと優しい親友はそのことに心を痛めてしまうだろうから。
「……じゃあ、俺は行くから」
「ごめん。次に会うときはちゃんとできると思う……」
容赦なく降り注ぐ真夏の太陽と、遠慮なく神経を逆なでする蝉の合唱から逃げ出すこともなく、巴は劇団の稽古に遅刻しそうになる寸前まで自分自身を虐め続けた。
「お姉ちゃん、このドレスなんかどうかな?」
「……あ、うん、いいんじゃないかしら」
「そういえば、昔ピアノの発表会でお姉ちゃんが着ていくドレスをほしがったことがあったよね…」
「あのピンクのドレスでしょ……サイズなんか全然合わないのにほたるったら。結局、ほたるが破いちゃったのよね、あのドレス…」
自分から話題をふったにもかかわらず、ほたるは困ったように俯いてしまう。
「う…実はあんまり良く覚えてないんだよね」
「あらあら、調子のいいこと…」
ほたるの頭を軽く撫でてやりながら、静流は自分がピアノを習っていた当時のことを思い出していた。
何故ピアノを習いたかったのかは良く覚えていない。生まれつきの器用さが幸いしたのか、すぐに人より巧みにこなせるようになった。
家庭が裕福で、娘がピアノを習いたいと言えばピアノ教室に通うことも出来、練習のためのピアノを両親が買うなんてことさえしてくれたせいもあるだろう。
そして、その影響でほたるもピアノを習い出すことになったのだから、運命というのは皮肉なものだと静流は思う。
先に習いだした自分は小学校の5年でいろいろと理由を付けてやめた……発表会で好成績を残して、誉められていたにもかかわらず、だ。
無論、子供の頃の発表会の審査基準なんて指定された曲を教科書通りに弾くことと、演奏時の姿勢や態度からの減点方式によるものがほとんどなのだが。
何でもできる、また何でも手に入る……何かを奪われる事なんて夢にも思わなかったあの頃、可愛い妹であるほたるが初めての痛みを教えてくれたからピアノに見切りをつけることができた。
それは発表会に着ていくドレスの奪い合いというような単純なことではなく、己の努力はおろか、存在そのものまでをも否定するような圧倒的な才能の違いを知らされたことだった。それは誇らしくもあり、また心の奥の澱んだ部分をチクチクと刺激し続ける小さな棘のような想い出。
子供の頃にそれに気が付いた自分は幸せだったのかどうか良くわからない。
ただ、子供の発表会ではいい成績を残せなかったほたるの才能をいち早く見抜くだけの力はあったというだけなのか。
あの時ほたるの弾くピアノを聞いていた人の中で、自分だけが涙を流していた……
「……ちゃん、お姉ちゃんってば…」
「あ、ほたる…どうしたの?」
「どうしたのじゃないよぅ、ぼーっとして」
抗議するように唇をとがらせるほたるが顔を覗き込んでいる。
「ごめんね。で、どうかしたの?」
「うん、そのボックスの中身ってまだ……」
興味津々といった表情で、静流が肩から下げた小さなクーラーボックスに目を向けている。
静流は内心の動揺を隠し、その額を指先で軽くはじいてやった。
「残念でした…もう残ってないわよ」
「え、健ちゃん全部食べちゃったの?」
「ほたるには、ちゃんと納得のいく完成作品を食べてもらいたいものね…」
「お姉ちゃん酷い。健ちゃんには完成作品じゃなくてもいいって思ってるんだ」
「……」
「お姉ちゃん…?」
「な、何でもないわよ……そうね、今度ほたるに持たせてあげるから、健くんと一緒に食べなさい」
2人きりの方がいいでしょ?と含みを持たせたのだが、ほたるは首を振る。
「お姉ちゃんも一緒に食べようよ。その方が同時に意見も聞けてお姉ちゃんだって都合がいいでしょ……」
「ほ、本人の前だと……正直な感想って言いにくいでしょ…それよりほたる、ちゃんとドレスを選ばないと…」
静流は強引に会話をうち切った。
自分の好きな人と美味しいお菓子を食べてなごむ……それは、今の静流が最も幸せだと考えている場面。
ほたるがお菓子を食べて笑うのを見ると、静流は幸せだった。
もちろん、両親に食べてもらった時も楽しいし、友人である小夜美に食べてもらうのも楽しい。しかし、その中ではやはりほたるに笑ってもらうのが一番嬉しい。
天才的なピアノの才能を持った妹を誇りに思い、その良き姉として生きてきた。
『今度、新作を作ったときは健くんに試食をお願いするね』
『ええ、その時は是非…』
妹の彼氏が自分の作ったお菓子を美味しそうに食べるのを見て、妹に対するよりも強い満足感を覚えてしまったのはどういうことなのか。
元々、ほたるに紹介されてからというもの、生活サイクルの違いもあってたびたび顔を合わせていたわけではないが、顔を合わせる機会を持つことを本能的に恐れていたような気もする。
しかし、その理由をほたるに説明することは決してできない。
自分にも理解できない感情を説明できるはずもない……
公園のベンチに座る健を認めた瞬間、静流は反射的に踵を返そうとした。
しかし、そんな態度をとること自体が不自然だと思い直し、ごくさりげなく声をかけることにした。
「あら、健くん」
「あ、静流さん……」
「……え?ど、どうしたの?」
どことなく悩んでいるような表情を見ただけで、静流の心は騒いだ。
「あ、大したことは……って言うか、ほたるを見ませんでしたか?」
「ほたるが……どうかしたの?」
少し複雑な表情を浮かべる健。
「なあに、何か悩み事なの?」
自分に話していいものか迷っている様な印象を受け、静流はそっと背中を押してやることにした。
「ほたるに関係してることなら、私にも聞く権利があると思うな……それに、年上として何かアドバイスできるかも知れないわよ」
「……」
「健くんがそんな顔してると、あの娘もきっと心配するわ」
健の表情にふと弱い何かが走った。
「……ほたるにちょっと誤解されちゃって。もうすぐピアノのコンクールもあるし、あまりほたるを悩ませたくないのに…」
上手く状況がつかめていないと言うよりは、ほたるがどうしてそんな反応をとるのかわからないのだろう。少年がぽつりぽつりと話す内容は少し要領を得なかったが、静流はなんとかその内容を理解した。
「その…南先生って人は健くんの部屋のお隣さんなのね?」
「ええ。でも、ただそれだけなのに……さっきだって、ちょっと立ち話してただけなんですけど、ほたる怒っちゃって…」
静流は小さくため息をつき、出来の悪い教え子を諭すように話し始めた。
「もし…もしもよ。私が健くんの彼女だったとして、やっぱり自分の知らない所で女の人と笑い合ってるって考えたら冷静じゃいられないと思うの。その女の人が素敵なら尚更だけど…」
「ほたるだけじゃなくて、静流さんも……そうなんですか?」
「それ、どういう意味かしら?」
ちょっと睨む。
「あ、そうじゃなくて……静流さんは僕らよりずっと大人で落ち着いてるのに……その、そんな風に思うのかなって」
「当たり前よ……」
「でも、実際の話どうしたらいいのかなんて……ほたるのいないところで誰とも話さないなんて不可能だし…」
困ったような情けない表情を浮かべる健の頭をそっと抱き寄せた。
そうして、ほたるにしてやるように頭を撫でながら優しく語りかける。
「大丈夫……健くんはこんなにいい子だもの。きっとほたるだってわかってくれるわ…ちょっと素直になれないだけなのよきっと」
「し、静流さん…」
顔を赤らめた健を見て、静流ははっと我に返った。慌てて抱え込んだ頭を解放して視線を逸らす。
「ご、ごめんなさい。いつもほたるにそうしてるからつい…」
「ほ、ほたるが甘えん坊なのは静流さんのせいなんじゃ…?」
「……きっぱりと否定はできないわね」
2人同時に笑い出す。
「ありがとうございました。ちょっと気分が楽になった気がします」
「ふふ…仲直りするなら早めにね。あんまり機会が残されてないかも知れないし」
「……?」
健の浮かべた怪訝そうな表情に気付くことなく、静流は青い空を見上げた。
「でも、あなた達みたいな関係って少し憧れちゃうかな…ほたるも、健くんも本当は私よりずっと強いんだもの」
「そう……ですか?」
「ええ、夏休みにはいるまで健くんとは会う機会がほとんどなかったでしょ。だから、実際にあなた達に会うまでは少し心配してたの」
「心配って……何を、ですか?」
「さっき言ったでしょ?『ピアノコンクールが近いから悩ませたくない』って。ちょっと感動しちゃったな……あんな風に自然に言葉にできるのって…」
一旦言葉を切り、慎重に言葉を選んだ。
「……ほたるも、女冥利に尽きるわね」
多分、ピアノをあきらめてからずっと……ほたるを羨ましく思っていた。
自分にないモノを持っているほたるを目を細めながら眺める……それは、家族を大切に思う感情や、自分が斬り捨てた道をどこまでも歩いていく存在への眩しさが入り混じった複雑な感情。
血のつながった姉妹であるということと、妹と自分は違う人種であると認めること……それは、苦い薬を飲み下す時の思いに似ていた。
ピアノを辞めてからというもの、拭いがたい劣等感を抱いたせいか、ほたると同じ事で張り合う事を殊更に避けた。
それが、甘い姉としての静流を形成する一要素であることを自覚している。
「……ほんと、羨ましいわ」
そう言って視線を空から健へと移した瞬間、静流の心は一気に冷めた。
どことなく腑に落ちない表情を浮かべた健を見て、漠然と自分が何か爆弾を踏んでしまったような恐怖感に襲われたのだ。
「感動って…静流さんはオーバーなんだから」
どこかでボタンを掛け違えている。
そんな会話を交わしている事に気が付き、静流は少しためらいながらも、素早く曖昧な言葉を選んで口にした。
「健くん……ほたるが、コンクールの優勝候補の最右翼って知ってる?」
「そうなんですか?ほたるのピアノは好きだけど、そう思ってる人がいっぱいいるってのはちょっと考えたこともなかったです……」
まるで自分のことを誉められたように嬉しそうに笑う姿が、静流には壊れやすいガラス細工のように思える。
「……そういうこと詳しくないし、ほたるは何も教えてくれないんですよ……って、静流さん?」
「ご、ごめんなさい。私、少し用事を思い出しちゃって……」
一刻も早くほたるに確かめようとして、静流は慌てて健に暇を告げた。
「……言ってないよ」
「ほたる……」
「だって、ほたるが優勝するって決まってるわけじゃないもの」
子供のようにぷいと横を向くほたるには少し酷かも知れないと思いながら、静流は重要なことを尋ねた。
「ほたる……あなた、本当に優勝したい?」
「……」
夏だというのに、空気が急に冷え込んだ気がした。
やがて、沈黙に耐えられなくなったのか、ほたるはふてくされたように口を開く。
「ほたる…ピアノが好きなだけだから。優勝とか、そんなこと考えて弾いているわけじゃないから…」
コンクールの優勝者に与えられる海外留学の権利。
高い評価を受けているほたるのコンクールへの申し込みは、それが大前提だった。そのことは当然自分の彼氏に話しているものだとばかり……
留学することで、ほたるは才能をより豊かに開花させることは想像に難くない。そして健はそれを温かく見守る事に決めたのだと思っていた。
健くんとピアノのどちらが好きか……という質問を静流はぐっと飲み込む。
姉として、今この瞬間にその質問だけはしてはいけない。その2つはほたるにとって選べるようなものではないのだから。
多分、健から聞かされた南先生がどうのこうのという誤解も、根っこは優勝したらどうするのか悩んでいることからきているのだと静流はようやく理解した。
「そう……今まで言おうとしても言えなかったのね…」
ほたるの身体がびくっと硬直した。
気が遠くなるような長い沈黙の後、ほたるは小さく頷く。そして、堰が切れたように静流に向かって感情の塊とも言える激しい言葉をぶつけてくる。
「だって、ほたるなんかピアノの練習で健ちゃんに一日会えないだけで寂しくて仕方がないんだよ!でも、健ちゃんは……」
ほたるの表情が微妙に歪む。
「健ちゃんは……ほたるほど寂しがり屋じゃないかも知れないけど、『帰ってくるまで待ってて』なんて言えない……そんな、ほたるにできないことを言えるはずないよ」
「……でもそれを承知でコンクールに申し込んだんじゃなかったの?」
「ほたる……ピアノ大好きだから」
静流はほたるの頭を抱き寄せ、優しく撫でてやった。そうして荒ぶった気分を落ち着かせるように優しく語りかける。
「大丈夫、健くんはいい子だもの……」
静流に頭を撫でられながら、ほたるはどこか遠くを眺めるような目をして独り言のように、言葉を呟き始めた。
「ピアノと健ちゃん、健ちゃんとピアノ……お姉ちゃん、ほたるは欲張りなこと言ってる?」
「……」
淡々としたほたるの言葉だけに、それに含まれる苦悩は深く重かった。
静流はその苦悩に同情する気持ちと……そして、微かな反発心を感じて黙り込んだ。
無垢で純粋なピアノ……かつて静流はそれを憎んだ。いや、今までずっと心のどこかで憎んでいたのかも知れない。
それを塗り込めるようにして、殊更妹に甘い姉として振る舞ってきたのだ。
反発心はそんな静流の心の弱い部分を少しずつ浸食していく。
この夏、ほたるがあの時の自分と同じ思いを経験するかも知れない……その想像が、微かに心を躍らせると同時に、まるで身体の中で蛇が蠢いている様な嫌悪感を覚えた。
「……お姉ちゃん?」
自分を呼ぶ妹の声に我に返る。
一瞬でもそんな想像をしてしまった罪悪感が、静流を普段よりも優しい行動へと駆り立て、ほたるの頭をぎゅっと抱き寄せた。
「大丈夫……きっと大丈夫だから。ほたるも健くんも、こんなにいい子なんだもの…」
まるで自分自身に言い聞かせるように呟き続ける。そうすることで、自分の心の中に育ちつつある感情を抑えつけるように……
感情の高ぶりが収まったのか、やがてほたるは照れくさそうに笑って静流の手から逃れた。
「ごめんね、お姉ちゃん……ほたる変なこと言っちゃったね」
「姉妹なんだから気にしないの」
しかし、静流は幾分眉をひそめてほたるに大事なことを告げる。
「でも……コンクールまでにはちゃんとほたるから健くんに言いなさい」
「でも……健ちゃん、ほたるが健ちゃんよりもピアノを選んだって思わないかなあ?」
「健くんはそんな子じゃないわ!」
静流の口調の激しさに、ほたるはもちろんのこと当の静流さえもが驚いて息を呑む。
「お、お姉ちゃん…」
「あ、ううん、健くんはそんなことでほたるを嫌ったりしない……ほたるならわかるはずよ」
静流の言葉に曖昧に頷きながらも、ほたるは普段とは違う視線で姉を見つめていた。
「あっ……」
2人同時に大きく口を開き、そして健は居心地が悪そうに目をそらした。しかし、もう一方の巴は……
「久しぶり……って程じゃないね。元気してた?」
不思議そうに自分を見つめる健を見て、巴は軽く肩をすくめた。
「言わなかったっけ?次に会うときはちゃんとするって……」
「あ、でも……ちょっと無理してる感じが」
「そういうことは気付いてても言わないの!……しかし、ちょっと傷つくなあ、これでも役者の卵なのに…」
「多分……先入観があるからだと思うけど」
「……なるほどね、優しいイナに必要のない罪悪感を与えちゃったか」
巴は手を後ろに回して空を見上げた。
あの公園ならともかく、まさか海岸縁を散歩していてばったり出くわしてしまうとは思っていなかった。
まあ、出会ってしまったものは仕方がない。
「イナも散歩なの……って、何故にサッカーボール?」
「部活を引退したけど、何となく体を動かさないと落ち着かなくてね……ところで、『イナ』って何?」
「ん?伊波君だからイナって呼ぶことにしたんだけど……何か変?」
「……まあ、ほたるのほわちゃんよりはましか」
どこかあきらめたような呟きを肯定の返事として受け取る事にした。
「でも、ボール使って体を動かすならあの公園の方が……そっか、会わないように気を遣ってくれたわけね」
「いや、偶然だよ……」
大きくため息をつき、健の胸のあたりを指先で軽くつつく。
「イナってさ、他人に気を遣いすぎるって言われない?変なとこ不器用で……ああ、静流さんと同じタイプかも知れないね」
「……」
「あ、図星だった?」
「ははっ、静流さんがどうこうはともかく、この前知人にそんなことを言われたよ……同じサッカー部の奴なんだけど」
照れたように頭をかく仕草に、少しだけ鼓動が高鳴った。
「そういう優しさはね、彼女に、ほわちゃんだけに向けてあげればいいの…」
「……あのさ、ちょっと変なこと聞いていいかな」
「な、何?」
幾分真面目な表情に、慌てて視線をそらす。
「女の子って、自分の知らないところで彼氏が他の女の子と話したりするのって心配になるものなのか?」
「気にならないことはないだろうけど……実際、そんなの無理でしょ」
「……だよな」
「何々?ほわちゃん独占欲強いから何か言われた?」
「何か言われた……って言うか、今までそんなことなかったから、多分コンクールのせいでちょっと神経質になってるんだと思う…」
少し重くなった雰囲気を変えるように、巴は意地悪い微笑みを浮かべて手をひらひらさせながら囁いた。
「……でも、イナはほわちゃんが優勝しない方が良かったりして」
「どうして?」
「だって、ほわちゃんが優勝したら……」
「優勝したら?」
数瞬の沈黙。
「あれ?ちょっ、ちょっと待って。今の無し」
「おいおい、そこで黙られると凄く気になるんだけど?」
「あ、あはは……それが私の作戦なの!」
「ごまかすなよ!」
叱責するような厳しい口調に、巴は首をすくめた。
「静流さんも、コンクールの話をしてたら急に……一体優勝したら何があるんだ?」
「静流さん……が?」
何故か脳裏に浮かんだのは公園での静流の表情。
それと同時に、そんな大事なことを彼氏に告げていないほたるに対して初めて反発心を覚え、そして……自分も多分言えないと思って納得する。
「ごめん……私の口からはちょっと。そういうのフェアじゃないと思うから……多分、ほわちゃんが話すと思うし」
「……悪い、何か理由があるんだな。声を荒げたりして悪かった」
「あ、ううん……ちょっとびっくりしただけ。でも……」
「でも…?」
声を荒げるほど気にかかるんだね……その言葉を口にはしない。からかうような、軽い口調で話す自信がなかったからだ。
その代わり、別の台詞を口をする。
「なんか、こうしてると私達ってずっと昔から知り合いみたいだね…」
「そ、そういえばそうだな……何か飛世さんと話してると、波長が合うって言うか何というか……」
「飛世さんねえ……堅い、堅いなあその呼び方。私はイナって呼ぶんだから、イナもととって呼んでよ」
「……いいの?」
「いいもわるいも、友達はみんなそう呼んでる。だから、イナの方が不自然」
ただの友達のように扱って欲しかった。
『飛世さん』という呼び方は、何か特別な感じがして……心が騒ぐ。
「じゃ、じゃあ……とと」
「なあに、イナ」
2人同時にほんのりと頬を染め、耐えきれなくなって笑い出す。
そうしてひとしきり笑った後、巴は健に向かって遠慮がちに囁いた。
「ほわちゃんはいい子だよ。だから、何を言われても……って、私何を言ってるのかな」
自分の言葉がまた余計な心配をさせるだけだと気づき、巴は顔の前で『今の無し!』という風に手を振った。
そんな巴の頭にぽんと健の手のひらがのせられる。
「……っ?」
「もういいよ……静流さんと、ととの態度で何となくわかったから」
「えっ、わかったって…?」
「ほたるが話してくれるまで俺は何も知らない……それでいいんだろ」
「ごめん…」
「いや、感謝してる…俺の想像通りなら、何故黙ってたんだってほたるに言っちゃってたかも知れないし」
気にするなよって感じに優しく頭を撫でられ、巴は俯いたままぼそりと呟いた。
「イナって、やっぱり静流さんに似てる」
「そうかな…?」
「自分が苦しいのに、他人を気遣うところとか…」
コンクールを前にして神経質になってるとしたら些細なことから誤解されるかも知れないと思い、巴は稽古から帰るととりあえずほたるに電話をかけた。
「もしもし、ほわちゃん。今、大丈夫?」
「あ、ととちゃん。うん、平気だよ、どうしたの?」
「いや、今朝散歩してたら偶然イナに会っちゃって……」
「イナ…?」
「あっ、伊波君だからイナって呼ぶことにしたんだけど、変かな?」
「あはっ、健ちゃんちょっと困ってなかった?」
「困ってた、困ってた……でも、別にいいって」
などと他愛のない話をかわし、巴はそんな必要もないのに声を潜めて聞いた。
「ほわちゃん、私が聞くのも何だけど……イナに、留学の事話してないの?」
「……っ!」
受話器の向こうで息を呑むような音がして、巴は慌ててその場を繕った。
「ご、ごめん……ちょっと無神経だった」
「う、ううん、そんなことない。そうだよね、やっぱりほたるがいけないんだよね。昨日、お姉ちゃんにも怒られちゃった……」
「あ、でも……ほわちゃんの気持ちも分かるよ。私がほわちゃんの立場だったら……やっぱり、ちょっと言いにくいと思う」
一旦言葉を切り、悩んでいるほたるのためにさらに付け加えた。
「でもね、ほわちゃん。留学の話って9月に入ってすぐでしょ……ぎりぎりまで黙ってたとしたら……イナが怒っても謝る時間もなくなるんだよ。だから、多分……ううん、きっと今がぎりぎりのタイミングじゃないのかな……」
「でも、ほたるが優勝しなかったら話す必要なんか……」
「ほわちゃん!」
項垂れるほたるの姿が目に見えるようで、巴は少し罪悪感を覚えた。しかし、ほたるはぽつりぽつりと心の内を呟き始める。
「……うん、わかってる。でもね、ほたるにとって…ピアノと健ちゃんは多分どっちも同じぐらい必要だから」
「イナは……多分ほわちゃんを待っててくれると思う」
「……何で」
ほたるらしからぬ抑揚のない呟きに、巴は思わず聞き返した。
「え?」
「何でととちゃんがそう断言できるの?健ちゃんとととちゃんって会ったばかりでしょ?なのに、ねえ、どうして?」
「あ、それは……」
言えない。
言える筈がないし、自分が振られたことがこの先の保証につながるはずもない。
「お姉ちゃんも、ととちゃんも……どうしてわかったようなこと言うの?」
「ほわちゃん?」
コンクールを前にして神経質になっているのかも知れないという健の言葉を今更ながら意識する。
「健ちゃんとつき合ってるのはほたるなんだよ?『健ちゃんはそんな人じゃない』って、どうして?お姉ちゃんも、ととちゃんもひょっとしてほたるに隠し事してるの?」
「ほわちゃん、誤解……だよ」
いきなり突き出された言葉の刃に狼狽え、巴の言葉はあまりにも弱々しかった。
誤解だと臆面もなく言いきることは親友としてできなかった……いや、親友なら言いきらなければいけなかったのかも知れないが。
「それに、静流さんが一体どうしたっていうの?」
「……何でもない、ととちゃんには関係ないから」
単純に怒ったというのとは違う、今まで聞いたことがないとげとげしい口調に巴は狼狽えた。
心にやましさがある分言い返すこともできないのだが、それがここでは裏目に出た。
「……どうして怒ってくれないの?」
「え?」
「いつものととちゃんなら、『何馬鹿なこと言ってるの!』って怒るところだよ?」
「……そうかな?」
「……」
お互い語る言葉を見いだせないのか、重苦しい沈黙が続き、
「……ばいばい、ととちゃん」
寂しげに呟かれたその一言で電話が切れたが、巴にはもう一度かけ直す気力は残っていなかった。
「ほたる、ちょっと休憩しない?今日のお菓子はちょっと自信作なのよね…」
「うん、ちょうどキリのいいところだったから……」
もちろん、静流はそのタイミングを知って声をかけたのであり、ほたるもそれをわかっている。
「お姉ちゃん、今日は紅茶でいいの?」
「ええ、大丈夫…」
静流がお菓子を取り分ける間に、ほたるがお茶を入れる。
ただ静流が作るお菓子はその日の気分によって違うので、ほたるとしては念のため確かめるのである。
白河家で見られるいつも通りの光景だった……ほたるが静流のお菓子を口に運ぶまで。
「……ほたる?」
姉としてもう少し気の利いた台詞が出てこないのかと思いつつ、静流は涙を流すほたるにかけるべき適切な言葉が思いつかない。
「……え、な、何?」
「何って……ほたる泣いてるから」
「え…?」
静流に言われて、ほたるはピアニストらしい繊細な指先で目元を拭い、それに初めて気付いたのかぎこちなく微笑んだ。
「……ほんとだ、おかしいよね」
「おかしいよねって……ひょっとして、健くんと何かあったの?」
「何もないよ……だって、会ってないもの」
「会ってないって……いつから?連絡ぐらいは取ってるんでしょ?」
静流の問いかけに対して、ほたるは無言を貫く。
「……ほたる。あなたまさか、まだ健くんに何も…」
あの日から1週間は過ぎている。
いくらピアノのコンクールに向けての練習が忙しいからって、それまでべったりだったほたるが1週間も連絡を取らなければ健もおかしいと思うはずだった。
「……もうすぐ、だよ」
「え?」
「ほたるの中でね、もうすぐ決心がつくから……」
ああ、そうなのかと静流は思った。
自分の妹があの少年に向ける感情に比べれば、今自分が抱えている微妙な感情はただの好意でしかないような気がした。
そして……そう納得してしまうのがきっといい。
「そう……じゃあ、私は何も言わない」
「……お姉ちゃん、好きな人っている?」
「え?」
静流のフォークが皿にぶつかって派手な音をたてた。
「と、突然何?」
「ほたるが聞いてるんだよ?ねえ、いるの、いないの?」
「と、特にはいないかな…」
あれからずっと考えていた。
そして、好ましいと思う気持ちと好きという気持ちは違う……そう納得する事にした。
「そうなんだ……ふーん」
どことなく虚ろだったほたるの表情が、いつもの無邪気さを取り戻していく。
「な、何よ。その馬鹿にしたような『ふーん』は?」
「あ、そう言う事じゃないの…ただ、つき合ってる人なんか本当にいないのかな、と思って」
「うふふ…もしいたとしても、ほたるには秘密」
「ずるいんだ、お姉ちゃん…ほたるなんか…」
「健くんとつきあい始めたときは嬉しく嬉しくてお父さんにもお母さんにも言いふらした……のよね?」
ほたるの台詞を先取りし、静流はやんわりと反撃を開始した。
「だって、嬉しかったんだぁ、あの時は…」
……あまり反撃にはなっていなかった。
静流は小さなため息をつきながら当時のことを思い出す。
「でしょうね……あの時からほたるの弾くピアノが一際幸せに…」
「やめて!」
「……っ」
「ピアノの先生もそんなこと言うけど、何でもかんでもほたるのピアノの上達とを結びつけるのはやめて。……ほたるは、ピアノが上手くなるために健ちゃんに恋したんじゃないんだから!」
「ごめん、ちょっと無神経だったわ」
そう言いながら、静流は当時ほたるの弾くピアノを聞いてほっと安心したことを思い出す。
ほたるは自分にとって大切な妹であり、そして自分の中でどんなに複雑な感情が渦巻いていようとも、静流は妹のピアノが好きだった。ひょっとすると、ほたるの存在そのモノよりもピアノが大事なのかもと思うぐらいにである。
それだからこそ、静流は自分の中で芽生えた感情を抑え込むしかできない。
「……ほたるのピアノは、健ちゃんとは関係ないの。それはほたるの問題だから…だから……」
静流はその言葉の続きを待っていたのだが、それきりほたるは何も言わなかった。
この時、静流はお菓子なんか作るんじゃなかったと初めて思った。
「いらっしゃいませっ……お、お一人ですか?」
「はい」
どことなくぎくしゃくとした受け答えに、こういった接客業務だと知人相手はやりにくいんだろうなあと意地悪い楽しみを巴は味わう。
「では、ご注文お決まりでしたら……」
「きのこソースのパスタセットを……それと、イナを」
「……は?」
「もうすぐ、バイトは上がりなんだよね?ちょっと相談したいことが……」
「……ああ、後30分ぐらいだから」
合点がいったのか、健は小さく頷いた。
そして、巴は時間を確認しながらゆっくりと食事をすませて店を出た。それから2分ほどして従業員用の裏口から健が姿を現す。
「電話じゃ話せないことなのか?」
「私、イナの携帯の番後知らないもの。ほわちゃんに聞くわけにもいかないし」
「あ、そっか……じゃ、ついでだから教えとくよ」
「じゃ、私の番号も……」
無言で携帯の番号を交換しながら、何故か吹きだしそうになった。こうして顔をつきあわしているのに、黙り込む事はないだろうと思う。
「……で、相談って?」
「え…と、とりあえず公園にでも…」
「そうだな、歩きながらだとちょっとアレだし……」
『私達はただの友達ですよ』という距離を巴は意識的に開けるのだが、話しているとその距離がだんだんと縮まっていき、また思い出したように距離をとる事を繰り返して公園へと到着した。
市街地ならともかく、街の中心部から離れた古い住宅地の公園だと夜は完全に人気がない。
「あのさ……最近のほわちゃん、どんな感じ?」
電話でほたると気まずい思いをしてから一週間、巴はほたると連絡を取れていない。一度電話をかけたがすぐに切られ、何通か送ったメールへの返事も全くない。
「……何かあったのか?」
「この間イナと会った日の夜に、ちょっと喧嘩しちゃって……」
「理由……聞いていい?」
「ん、私がいけなかったんだと思う……それ以上はちょっと」
「そうか…なら聞かない」
「ごめん……わけわからないよね、これじゃあ」
巴は大きくため息をついた。
「とにかくメールの返事もないし、連絡がとれないからちょっと心配になっちゃって……」
「そうか、とともか……」
「え?とと『も』って……それじゃあ」
「ん……まあ、そんな感じ」
困ったように呟く健。
「あっ…」
「何?」
他人には見せないようにしているのか、その表情に一瞬だけ色濃く浮かび上がった疲労がすぐさま消える。
考えてみれば、朝は学校に行き、夕方から夜にかけてずっとにバイトしているのだから疲れるのが当然か。
「ちょっとイナ……ちゃんと食べてる?」
「そりゃあ、バイトでまかないが出るから……」
「朝と昼は…?」
「まあ、それなりには食べてる…と思う」
「思う…って」
健が1人暮らしをしているということを、巴は今更ながら強く実感した。
日常おける微かな変化……家族と暮らしているなら誰かがそんな変化に気付いて気を遣う。しかし、健の変化に気付くであろう人間には……今その余裕がない。
「私…イナの負担になってるかな?」
「え?」
「ううん、なんでもない……」
自分とこうして会うことも健にとっては負担となっているのでは……そんな思いが表情に出てしまっていたのか、健は心配そうに巴の顔を覗き込んできた。
「どうした、とと。気分でも悪いのか?」
こんな時まで他人の心配なんかしなくていいのに……健の姿に、巴はそんなことを少し思った。
「私は……平気」
「そう、ならいいんだけど」
穏やかな微笑み。
その微笑みの裏に複雑な感情が渦巻いているのか、それとも表情通りに穏やかなのか判断が付かなかったが、巴には痛々しいとしか感じられない。
「ほわちゃんね…いつも電話でイナのこと自慢してた。『健ちゃんのおかげで…』とか『健ちゃんがいるから…』とか……」
でも……イナはほわちゃんの支えになってるけど、ほわちゃんはイナの支えになってるのかな?
そう言葉を続けようとしたが、ぐっとのみ込んだ。
それを言えば多分怒るだろうと思ったからなのか、それとも、微笑みながら肯定されることが恐かったからなのかは巴自身にもわからない。ただ、不自然に空いてしまった間を取りなすようにさりげなく言葉を継ぐ。
「……だから、ほわちゃんは悩んでるんだと思う。ほわちゃんにとって、イナは必要不可欠な存在だから」
「ピアノを弾いてるとき、ほたるは凄く幸せそうな表情をするんだ」
唐突にぽつりと呟かれた言葉がやけに重く感じられ、巴は顔を上げた。
「僕は……ほたるのあの表情を守りたい。そして、あの表情を生み出すのは僕の存在じゃなくてピアノだと……」
「違う!それはイナが間違ってる……私は、イナの言うほわちゃんの表情を知らないけど、それはきっと大好きなイナの前で、大好きなピアノを弾いてるからだよ」
「……でも僕は、ほたるが留学する事を望んでる」
巴は息をのんで健の顔を見つめた。
「ほたるの成長を妨げるような事だけはしたくないんだ……いや、多分…間違ってもそんな重荷を背負い込みたくないという卑怯な感情だと思う」
『ほたるの成長を妨げることだけはしたくない』
家に帰ってからも、巴の脳裏からはさっきの言葉がはなれなかった。ベッドの上で寝返りをうち、自分のことを卑怯だと呟いた時の健の表情を思い出す。
優しさと悔しさ…それらが複雑に絡み合った、見ているだけでつらくなるような表情。
「……卑怯な人が、そんな表情できるはずないじゃない」
あれは多分……自分自身を悪者にしなければやりきれなかっただけだろうと思う。
もしも健が『留学しろよ』と言えば、ほたるはある意味で救われ、またある意味で大きく傷つくだろうから。
巴は、ふと思いついたことを呟いてみた。
「ほわちゃんが…優勝できなければそんなこと考える必要がなくなるのか」
考えてみれば、今ほたるの精神的なコンディションは最悪だろう。
ピアノのことは良くわからないが、そんな状況でいつもの実力が発揮できるとは思えない。
そして、音大に進んでピアノの勉強を続けながら健とも上手くやっていく……そんな選択がほたるにとってはある意味ベストではないのかとも思う。
「あ……でも、イナが傷つくのか」
そう呟いた後、巴はぎくりと身体を硬直させた。
もし、自分がそれを決定できる立場にいたらとしたら…… はたして、親友であるほたるか、それともイナのどちらが傷つく答えを出すのだろうか?
「……って、馬鹿なこと考えてる」
巴は自戒するように呟き、思考をうち切った。
考えれば考えるほどその本質を見失う類の事だとおぼろげにわかっている。当事者にとって悲劇でも、第三者がそれについて思い悩むのは喜劇でしかない。
自分にできることは、現状を見据えて当事者にアドバイスすることだけ……ただ、その当事者と連絡が取れないから余計なことを考えてしまうのか。
もう一度連絡を取ってみようかと思い、携帯に手を伸ばしかけたが時刻は既に夜の11時をまわっていた。
「……やめとこ」
そう呟いた瞬間、携帯がいきなり着信音を響かせたので巴はそれを取り落としそうになった。
非通知であることに首を傾げ、通話ボタンを押す。
「はい……?」
「……」
携帯とはいえ先に名前を名乗ることはしない……が、相手も無言だと判断に迷う。
「もしもし?」
「……っ」
声とも呼吸音ともつかない気配に、巴はおそるおそる親友の名を呼んだ。
「……ほわちゃん?」
「うん、ごめんねこんな時間に……でも、どうしてわかったの?」
「あ、うん……ちょうど連絡しようか考えてたから」
「この前はごめんね……それと、メールにも返事しなくて」
「うん……今、ほわちゃんが大変なときだってわかるし……」
ただ単に仲直りの電話……というわけではなさそうだった。それにしてはあまりにも雰囲気が重すぎる。
「実は……ととちゃんに聞きたいことがあって」
「な、何を…?」
内心ぎくりとする。
しかし、ほたるの言葉は巴が懸念した類のものではなかった。
「……こんな事聞くの酷いと思うんだけど、ととちゃんのお父さんって……あの時、きちんと舞台をこなせたの?」
「あの時って……?」
「ん…ととちゃんの弟が事故にあったとき」
何故今頃そんな事を言うのか不思議に思いながらも、口調の真剣さに答えざるを得ない。正直なところ、あの頃のことはあまり思い出したくない想い出なのだが。
「……私が直接見たわけじゃないけど、人から聞く限りではそんな素振りは全く見せなかったって……」
「そうなんだ……」
呆れるぐらい子供だったあの頃はそのことで余計に父へのわだかまりを感じた。しかし、今なら父の気持ちが少しは分かる。
父はその状況で失敗するわけにはいかなかった……息子のためにも。
「……でも、どうしてそんなこと聞くの?」
「ほたるね、今度のコンクールで確かめようと思うの……」
「確かめるって……何を?」
「……ほたるにもよくわからない何かだよ」
ほたるには珍しい、何か含むような言葉。
「ところで、ととちゃん。今は公演の練習で大変なんでしょ?」
「え?あ、うん…そうだけど」
巴の質問を封じるため、無理矢理に話題を切り替えた様な印象を受けた。そんなほたるに何故か違和感を覚える。
「……ととちゃんの舞台、見に行けるといいんだけど」
「優勝すると駄目ってこと?うーん、私としては親友の快挙を喜んでいいのか、それとも親友の友達甲斐のなさを悲しんでいいのかちょっと複雑…」
触れてはいけない部分の外周をなぞるような会話が、かえってその存在を浮き立たせてしまうのか、2人の会話ははずまない。
「ととちゃん、遅いからまた今度にしようよ……」
「え、う、うん…また今度」
自分からかけてきて……とは思わなかった。
ただ、今度があるのかどうか……それだけが巴には気がかりだった。
8月17日……18回目の誕生日を迎えた巴だが、午後からは舞台の稽古が控えているのでいつも通りの一日になりそうだった。
最近は日課となってしまった感のある散歩だが……巴は公園をぶらぶらと散策しながら眩しすぎる太陽を目を細める様にして見上げた。
盆は過ぎたというのに容赦なく降り注ぐ陽光は秋の訪れの気配すら感じさせない。
「……」
もともと夏休みに入ったばかりの頃は、もっと朝の早い時間に散歩していた。その理由を考えると、やはりほたるの言うとおり自分はまだ失恋していないのだと思わざるを得ない。
「やれやれ、早く失恋しないとね…」
ため息混じりに呟く。
2人の仲が少しこじれているような印象を与えるからなのか、心のどこかで打算的な感情が蠢くのが巴には耐えられない。楽しい恋や苦しい恋、いろんな恋の形があるのだろうが、巴は後ろめたい恋だけはしたくなかった。
ただ、それで割り切れないのが苦しい。
「……心臓に止まれって命令しても止まってくれないのと同じか」
巴は乾いた笑みを浮かべながらベンチに腰掛けた。
「赤の他人なら良かったのに……」
そう呟いてから巴はふと気が付く。
はたして、『赤の他人』ならよかったのは2人のうちどちらなのか?
「は…ははっ、私…今凄くやな事考えたなあ……やな女の子だ私」
ほたると知り合っていなければ今の自分はない。そう思っているのに、なんて事を考えてしまったのか。
「一日中舞台の稽古が続けばこんな事を考えなくてすむのに……」
少なくとも稽古をしている間は全てを忘れていられる。ほたるや健と会っているときより、1人でこうしている時間が今の巴には苦しい。
連日のように続く舞台の稽古で疲労が溜まっているせいか、精神的にも弱っているのかもしれない。
そして、それを相談できる相手がいない……
「……どうかしたの、巴ちゃん?」
「え?」
巴は緩慢な動作で自分を心配そうな表情で見下ろしている人物を見上げた。
「気分でも悪いの…?」
「静流…さん…」
その優しい微笑みに全てを話してしまいたい衝動に駆られたが、慌ててそれを飲み込んだ。そんなこと話せるはずがない。
静流は、あまりにも2人に近すぎる。
「いえ……大丈夫です」
「そう?少し顔色が悪いみたいだけど、本当に大丈夫?」
「……今日は暑いから」
「……そうね、あんまり日差しが強いと余計なこと考えすぎたりするもの」
「え?」
慌てて見上げた静流の瞳に、一瞬だけ後ろめたいような感情が走ったように巴には思われた。
「せめて、木陰に座ったら?」
「あ、そう…ですね…静流さんは?」
「私?」
静流はいつもの大人しい表情とはうって変わった笑みをこぼし、右手でガッツポーズをとって見せた。
「私、今夜はプロレス観戦だから元気があまってて!」
「……暑いのに元気ですね、静流さん」
「ん、ほたる事もあるし……家族揃っての夏休みって今年が最後かも知れないから……だからかな?」
「……?」
「ほたるが留学するとしても……特別な記憶じゃなくて、ごく当たり前な記憶を持たせてあげたいの」
静流はほんの少し遠い目をして空を見上げた。
「人は……日常に帰ってくるって私は信じてる。勝手な言いぐさだけど、向こうでの生活が普通だなんて思って欲しくないの……慣れる慣れないの問題じゃなくて」
静流は一転して明るくおどけたような表情で巴に向き直り、額をちょんとつついた。
「それに、日本には健くんもいるし。あの娘がどれだけ健くんのことを好きかなんて巴ちゃんだって知ってるでしょ?」
「……っ!」
完全に不意をつかれたせいか、抑えていた感情が一気に逆流する。
「と、巴ちゃん?」
「す、すいません。私、失礼します!」
なんともいたたまれなくなり、巴はその場から逃げ出した……後に残された静流にどう思われるかも考えずに。
「……どうかしたのかしら?」
心配げに呟く静流に対して、明るい声が背後からかけられた。
「こんちわー、静流さん」
「あら稲穂君、これからバイトなの?」
照りつける陽光に目を細めながら、静流は優しい笑みを浮かべて母校の後輩を見つめた。
健と同じ下宿で1人暮らしをしているのだが、年齢的には高校3年生。ただし、この春に家を飛び出して学校を中退している。
その理由に触れたことはないが、学校を中退する直前の暗い表情を思うと、今こうして明るく笑えるのならその方が良かったのではないかと静流は考えていた。
「バイトバイトですよ……イナケンが寝込んだから、その分シフトのしわ寄せが……」
「ちょっと稲穂君、健くんが倒れたって……」
「今朝ですけどね、夏風邪と思いますよ。ただまあ、1人暮らしだとね……ほたるちゃんに連絡しようかって聞いたら、『コンクール前の大事なときだから』って」
「……じゃあ、健くんひとり?」
「そりゃそうです……静流さんだってわかるでしょ、イナケンの性格。誰かに迷惑かけるぐらいなら……ってとこ。ほたるちゃんはそういうの物足りないみたいですけどね」
「そ、そうね……」
そんなことを呟きながら、静流は気が気ではない。
「じゃあ、私がお見舞いに行こうかしら?」
「え、静流さんがお見舞いに来てくれるなら俺もこれから寝込みます!」
「……んー、稲穂君をわざわざお見舞いする理由なんてないし」
冷たい言葉に少年はがっくり肩を落とした。
「じゃあ、イナケンにはあるんですか?」
「妹の彼氏、つまり将来の家族候補…ってとこかしら?それと、忙しいほたるの代わり。連絡さえあれば……ほたるはきっと健くんを放っておかないだろうから」
一瞬どきりとしたが、自分自身に言い聞かせるように言うと少年は明るく笑った。
「なるほど。静流さんならほたるちゃんもやきもちやかないですみますし……」
「……そういうこと」
「ま、それなら俺も安心してバイトに精を出せます。同じ1人暮らしとして他人事じゃないですからね…」
少年は安心したように笑い、雑踏の中へと消えていった。
そして静流は一旦自分の家へと向かう。
「お帰り、お姉ちゃん」
「え、あ、んーと……」
ここで健が寝込んでいることを話すと、健の心配りを台無しにすることになる。しかし、それを黙っているのも何となく気分が悪かった。
「……仕方ないか」
静流はあきらめたようにため息をついた。
「ほたる、健くんが夏風邪で寝込んでるって稲穂君から聞いたんだけど?」
「え?」
ほたるが一瞬だけ嬉しそうな表情を浮かべたことに静流は首を傾げた。
「お見舞いに行ってあげる?健くん喜ぶわよ、きっと」
「……そんなことない」
「え?」
「健ちゃんは優しすぎるから……最近、ほたるにもやっとそれがわかってきたの」
「ほたる…?」
ほたるは静流から視線を逸らし、ぎゅっと目をつぶった。
「ほたるね、昨日健ちゃんと賭をしたの……」
「賭?賭ってどんな?」
「もしほたるがコンクールで優勝したら別れてって……」
どこか異国の言葉を聞かされているような気分に静流は襲われた。やがて、その言葉の意味が本当に理解できると、静流は慌ててほたるの身体を揺さぶった。
「ちょ、ちょっとほたる、それって……」
「この条件でほたるがもし優勝できるような演奏ができたなら……多分、ほたるは健ちゃんがいない外国に行っても大丈夫だと思うから」
「ほたる!」
「でもね、それでほたるのピアノがめちゃめちゃになっちゃったら……ほたるには健ちゃんが必要なの……コンクールでそれを確かめたいって昨日健ちゃんに言ったの…」
「何でそんなことを…」
「でも……健ちゃん、凄く冷静だったからほたるつらかった…」
静流の声が聞こえないかのように、ほたるはぶつぶつと言葉を呟き続ける。
「コンクールのこと知ってたのかな……それでも、頑張れよっていってくれてたのかな……健ちゃんは、ほたるがそばにいなくても寂しくないんだよね、きっと」
「そんなわけないでしょう!」
つい声を荒げてしまった静流に、ほたるは脅えたような視線を向けた。
「……どうして」
「だって……健くんはいい子だから」
「いい子だから……お姉ちゃんみたいにほたるのワガママを聞いてくれるの?ただ、優しいからほたるがおつき合いしてくださいってお願いしたら頷いてくれたの?」
「馬鹿なこと…」
「だって考えてみたらいつも優しくしてもらったけど、ほたるは健ちゃんに好きだってちゃんと言ってもらったこと無いよ!」
「……男の子は、そういうの照れくさいのよ」
ふと、ほたるが自分を見る視線が変化した。
姉ではなく、赤の他人を見るような視線。
「お姉ちゃん……健ちゃんの味方ばっかりするんだね」
それから数時間後、静流は健の部屋の前に立っていた。
コンコン……
返事無し。
「健くん、寝てるの?」
無意識にドアノブをつかんでひねる。
1人暮らしの人間の防犯体制に思いを馳せながら、静流は静かにドアを閉めてもう一度ノックを繰り返した。
「健くーん…静流だけど……」
部屋の中で何かが動く気配がした。
「……静流さん?」
意外そうな声と共に、ドアがゆっくりと開かれる。
「健…くん?」
少なくとも見た目は重症だった。
「どうして静流さんが…?」
「稲穂君から健くんが寝込んでるって聞いて……お見舞いに…」
健の表情にすまなさそうな感情が微かに浮かぶ。
「え、と……とりあえず、入ります?」
「そうね…その前に1つだけ聞きたいんだけど、仮病なの?それとも本当に具合が悪いの?」
「……仮病です」
「そう……なら重症ね」
「え?」
多分、自分の具合が悪いこともわかっていないのだろう。それだけ精神的にまいっていると言うことなのか。
「健くん、とりあえず冷蔵庫借りるわよ。あまり日持ちがしないから早めに食べてね…」
「あ、はい……」
持参してきた小型のクーラーボックスから取りだした自家製アイスを冷凍庫に押し込むと、静流は健の方に振り向いた。自分の部屋だというのに、どこか居心地悪そうにしている健の緊張をほぐすように静流は微笑む。
「仮病でも使いたくなる気持ちはわかるから、そんな悪戯が見つかった子供のような表情は止めてちょうだい」
「……ほたるに聞いたんですか?」
「まあ、そんなとこ……」
ほたるの様子を聞けばますます心を痛めるであろうから、曖昧な受け答えをするしかなかった。
ピルルル……
いきなり気勢を削ぐように静流の携帯が鳴った。
「健くん、ちょっとごめんね……」
健に断りを入れてから携帯をとりだし、親友の小夜美からということを確認して電話に出た。今夜予定していたプロレス観戦が頭から綺麗さっぱり抜け落ちていることにはもちろん気が付いてない。
「……小夜美、今立て込んでるからまた後で!」
『え、ちょっと静流?』
何か言いたげな親友の言葉を無視して電源を切る。
そして小さく息を吐き、再び健に向き直った。
「……ほたるにいきなりいろいろ聞かされて驚いた?」
「留学云々は、静流さんの態度でなんとなくわかってましたから」
「……そうね、あの時はごめんなさい」
「いえ、別に……あれがなかったら、ほたるにみっともない姿を見せたかも知れないし」
静流はため息をついた。
「……健くんの言うみっともない姿が私の想像通りなら、多分…ほたるはそれが見たかったんだと思うわ」
「……見せられませんよ」
「どうして!?」
「ほたるにも言われましたよ、『どうしてそんなに冷静なの?』って……でも、そんな姿を見せたらほたるは……って、自惚れてますか、僕?」
決して自惚れではないと思う……無いと思うのだが、健を見ていると静流のいらだちがつのった。
「ほたる…ピアノを弾いてるとき凄く幸せそうなんです。だから……それを奪うような事はしちゃいけないと」
「……そのためなら、何でも我慢するの?」
「…はい」
「どうして自分が欲しいモノをあきらめなきゃいけないの!」
無意識に大きな声を出してしまった。
ただ驚いたような表情で自分を見つめる健を見て、静流は一気に冷静さを取り戻す。
健はただしかられただけと感じるだろうが、自分の取った行動が単なるやつあたりにすぎないことを静流は知っている。いろいろと理由を付けて何かをあきらめてきた自分に対してのいらだちが健に向けられたにすぎない。
「あ…け、健くん…ごめんなさい…」
「いえ、別にどうということは……静流さん?」
怪訝そうな視線を向けられ、静流は慌てて自分の表情を隠すために健の頭を抱える。
「大丈夫…健くんはこんなにいい子だもの。ほたるはきっと健くんから離れたりしないから……」
「ちょっと、静流さん。子供じゃないんですからそういうのは……」
「ご、ごめんなさい!」
静流は慌てて健の頭を解放した。
「じゃ、じゃあ健くん……ほたるが心配するからちゃんと元気になるのよ」
「心配……してくれるでしょうか?」
「当たり前でしょう!好きな人のことが心配にならない女の子なんて……」
いない……
何故自分はずっとほたるの側についててやらなかったのか?
確かに健は重症だが、ほたるもまた重症に違いない。
少し頭を冷やす時間が必要……そんな甘い言い訳を与えて、妹と妹の彼氏を秤に掛けた自分。
「心配だったから……?」
「静流さん…一体何を?」
「……心配だったのかしら、私」
妹よりも……自分の目の前にいる少年のことを。
静流は、自分を心配そうに見つめる健の顔にゆっくりと視線を移した。
本当にそうなのだろうか?
内心の動揺を押し殺して笑顔を見せる。
「……あなた達はね、別れたらだめ。お互い好き合ってる二人がうまくいかないなんて……あってたまるもんですか」
何かをあきらめることで培ってきた技術を静流は持っていた。
どんな刺激にも心を揺らさぬように自分に言い聞かせることでゆっくりと心を塗り込めていくのだ。
仮面は……かぶり続けることで真実になる。
「さて、こんな時間に1人暮らしの男の子の下宿に長居するわけにもいかないし…健くん、私帰るね」
「ええ、わざわざどうも…」
立ちあがりかけた健を制して、静流はそっと健の部屋を後にした。
「……こんばんわ」
「え?」
階段を下りたところで女性と鉢合わせした。
何故か気配というモノを感じさせないたたずまいに、なんとなく背筋が寒くなる。
「……ただの挨拶に自己紹介が必要?」
「あ、いえ…こんばんわ」
軽く会釈すると、女性は口元に小さい笑みを浮かべた……ように見えた。
「顔色悪いけど……大丈夫?」
「え、ああ、平気です……」
「そう……」
女性は目を伏せると、小さな足音を残して階段を昇っていった。そして健の隣の部屋のドアが開ける。
「あの人が南先生……なんか不思議な人ね」
確かに綺麗な人だったな……そんな思いを胸に、静流は月明かりに照らされて駅への道を歩き出した。
健の下宿は昔の街なみが今も息づいていて、道は細く、しかも少々ややこしい。
「あれ?確かこっちで…って、きゃっ!」
角を曲がったところで誰かとぶつかった。
「ご、ごめんなさい!」「すいません!」
女性の声であることに安心して、相手と同じタイミングで深々と頭を下げた。そして頭を上げた瞬間お互いの顔が月明かりに照らされる。
「え、静流さん?」
「え……あ、巴ちゃん!どうしたの、こんな所で?」
「あ、お芝居の稽古の帰りですけど、今日みたいに時間が早いときはたまに海岸沿いのレストランに寄るんです」
口調が妙に流暢な事に首を傾げながらも、静流は小さく頷いた。
「ああ、ルサックね……」
「おいしいですよね、あのレストラン」
「そうね、私もそう思うわ。特にスープに関しては、ちょっと他の店の追随を許さないレベルではあるわね」
などと一通りの料理批評を終えると、巴は何気なく質問を返した。
「で、静流さんはこんな所で何を?」
「え?」
少しためらいながらも、静流は健が夏風邪で倒れたと言い、そのお見舞いに来たことを巴に話した。
「……でね、今はその帰りなんだけど…?」
「……」
怪訝そうな表情を浮かべて自分を見つめている巴の様子に気が付き、静流は首をひねった。
「巴ちゃん?」
「……ほわちゃんは?」
「え?」
「ほわちゃんは……その、お見舞いには?」
「ほたるは、今ちょっと……いろいろあるから」
「そう……ですか」
気まずい空気が二人を包む。
「イナ…伊波君、具合は平気なんですか?」
「大丈夫、とは思うけど……1人暮らしってのは不便よね」
「そうですか、良かった……」
安堵のため息をついた巴の顔を、無意識のうちにじっと見つめてしまっていた。先ほど塗り込めたはずの心が騒ぎだす。
「巴ちゃん、あなた……」
「え?」
「ううん、何でもないわ…」
その後、二人は無言のまま駅へと向かった。
「健ちゃん!来てくれたんだぁ……風邪は治ったの?」
「ま、なんとか。……それに、応援に来るのが当然だろ」
刹那の間を経て、ほたるは小さく頷いた。
「そうだね……可愛いほたるの晴れ姿だもん」
「……そのドレス、静流さんと選んだやつ?」
「うん……ちょっと大人っぽかったかなあ?」
「いや……似合ってるよ」
「なーんか気になるなあ、その間…」
穏やかな……微笑みさえ浮かべながら他愛もない会話をするほたると健の様子に、静流は状況を忘れそうになった。
ひょっとすると、ほたるは思い直したのかも知れないと思う。
「緊張してない…?」
「してる」
「普段通りでいいんだよ……僕は客席でそれを聞いてるから」
「……そうだね、健ちゃんの前だから尚更失敗はできないね」
妹の表情に微かにはしった影から慌てて目を背ける。
今日、このコンクールに出場する者で、これほど悲痛な決意を胸にしている参加者が他にいるとは静流には思えなかった。
それなのに……多分、妹は優勝するだろう。
静流は、何故かそう確信していた。
「……じゃ、そろそろ時間だから。ほたるの出番は最後だけど、寝ちゃったら駄目だよ、健ちゃん…」
「信用無いなあ……」
苦笑する健を見て、ほたるは明るく微笑んだまま出場者のみが許される控え室へと姿を消した。
「健くん……どうして来たの?」
「……応援に来てね、と頼まれましたから。もちろん、言われなくても来るつもりでしたし…」
そう言いきった健の表情や口調に、一切の皮肉めいた感情は感じ取れない。数日前の姿とはまるで別人のようだ。
「健くんが…あなたが応援に来たら、あの娘は……失敗できないじゃない」
自分のピアノが好きだと言ってくれる恋人を前にして、ほたるは悲壮な決意をもってコンテストに挑むだろう。
「……」
「……どうして?」
「行きましょうか、静流さん……客席へ」
静流は急かされるように手をつかまれ、その指先が震えていることに気付いてそれを振り払うことも、それ以上言い募ることもできなくなってしまう。
そして、二人は言葉を交わさずに、ただ客席でその瞬間を待ち続けた。
『……白河ほたる。曲は……』
最後の演奏者であるほたるの名が告げられると、客席の間にある種の緊張感が張りつめた。優勝候補の呼び声が高いだけに注目度も高いと言うことか。
大人びたドレスに身を包んだほたるは軽く一礼し、そして静流達の座る客席のあたりに向かって軽く微笑んだように見えた。
そして、演奏が始まる……
穏やかな、包み込むようにメロディーを紡ぎ出す少女に、客席から感嘆のため息が漏れる。
5分、10分……曲の半ばを過ぎたところで、ほたるの目元に光るモノを認めて静流は息を呑んだ。慌てて隣に座る健を振り向いたが、すぐに視線を床に落とす。
ほたると健のどちらも見たくなくて、静流は最後まで乱れることはなかった演奏を聞きながら、じっと下を向いていた。
「健ちゃんは…?」
「結果を聞いてから帰ったわ……ほたるに会っていきなさいって言ったんだけど……多分、あなたが会わないだろうからって」
「うん……そうだね。ほたるも、会わないつもりだったから」
コンテストの直前にあれだけ精神的にぼろぼろだったとは思えない、重い荷物から解放されたときのような表情を浮かべるほたる。
「ほた…」
「本気だよ……これで健ちゃんとはお別れ」
静流の言葉を遮ると、ほたるは無機質な視線を自分の指に向けた。
「ほたるね、演奏しながら泣いたよ……」
「……ええ」
「どうしてこの指はなめらかに動き続けるのかなって思ってた……」
毎日の修練、そして音楽に対する愛情と、自分のピアノを好きだと言ってくれた健への愛情……と言ってしまうことはたやすい。
また、成功することに対しての心理的圧力を否定する学説もある。
「ほたるね……多分、どういう結果になってもピアノが弾きたかったんだと思う」
「それは……」
ただの自己欺瞞……という言葉を静流はのみ込んだ。
自分を見る妹の視線が、あまりにも悲痛だったから。
かつて、自分もそんな視線を妹に向けていたのだろうかと静流は思った。
「健くん、元気出さないと……」
「……元気なさそうに見えますか?」
「ええ」
目を伏せながらそう呟き、静流は健の部屋の中を見渡した。
散らかっているわけではない……いや、むしろ以前訪れた時よりも整理整頓されているぐらいだ。
それなのに、どことなく荒んだような印象を受けるのは先入観のせいだろうか。
「ほたるはああいう子だから……多分すぐに、『健ちゃん、やっぱり待ってて……』なんていう事を恥ずかしげも無く言ってくるわよ」
努めて明るくふるまいながら、静流は角部屋に位置する健の部屋の2つの窓を大きく開け放した。
「ほら、いい風……」
風の中に微かに柑橘系の香りがただよう……それが健の住む下宿の庭に植えられた樹木の放つ匂いであることを静流は最近になって知った。
それは、静流が頻繁にここを訪れていることを意味している。
「……お菓子作ってきたんだけど、食べる?」
「はは、試食の相手がいないんですか?」
右手に持ったバスケットを掲げて見せた静流に、健は苦笑いして見せた。
コンテストの日から一週間。
ほたるはあの日から一度も健に会おうとはしなかったし、健もまたほたるに会おうとはしない。
「静流さん……忙しくないんですか?」
「受験生の健くん程じゃないわよ……と言っても、健くん成績良いのよね?」
勝手知ったる感じで、ティーカップを用意する静流。
「まあ、ほたるよりは」
「……ごめん、そう言われると何かすごく不安なんだけど」
「上の下……と言うところです。でもまあ、これからはみんな勉強しますから」
窓からの風に前髪をなびかせながら、健はやや強ばった笑みを浮かべた。
「……静流さん、無理して様子を見に来てくれなくてもいいんですよ」
「え、何か言った?」
聞こえないフリをして振り返る。
おそらくは優しさからくるのであろうが、人の好意を拒絶することが苦手なタイプだから……多分、二度は言えない事を承知で。
「……いえ」
「……じゃあ、お湯を沸かしてくるわね」
そう言って、部屋を出ていく。
健の下宿は、一階に共同炊事場がある。
やかんをかけ、揺らめく炎をじっと見つめる。
拒絶されるわけにはいかない……今の頼りないつながりは、切れてしまえばそれっきりになることが目に見えている。
自分の役目は……あの少年を妹につなぎ止めておくこと。
「……こんにちわ」
慌てて振り返る。
「ああ、南先生……」
「私はあなたの先生じゃないわ……正確に言うと、伊波君の先生でもないけど」
夏休みの特別補習の臨時講師らしいのだが、今ひとつ人間がつかめない。
「お湯……貰えるかしら?」
「え?」
茫洋とした表情のまま、女性は手に持ったカップ麺を少し持ち上げた。
「……」
「伊波君と、同じような目で見るのね……他人がどんな食生活をしてようが関係ないでしょうに」
他人……という言葉に微妙なニュアンスが含まれているように感じた。
静流の心の中を察したかのように、女性はちらりと階上を見上げる。
「冷めきった家庭ならともかく……肉親よりも心配に思う存在って一体何なのかしらね?」
頭に血が上る。
「な、何を…」
「ただの一般論……でも、1人暮らしの少年の家に女性が頻繁に出入りすると周囲が彼をどんな目で見るかぐらい判断できないほど子供だとも思えないけど」
「……」
「放っておいてあげなさい……」
「……」
カタ……カタタタタッ
ヤカンの蓋が小さく振動し始める。
「でも……」
「放っておけないなら、偽善者の仮面は外すのね……醜悪だから」
『偽善者の仮面は外すのね……醜悪だから』
健に暇を告げてからも、その言葉が静流の脳裏から離れない。
もうすぐ秋が来るとは思えない強い陽射しに照らされながら、静流はゆっくりと駅への道を歩き始める。
「こんにちわ、静流さん」
「え……ああ、巴ちゃん」
「今日も暑いですね……」
「そうね……そういえば、公演の稽古はどう?」
「あはは、まあまあです」
「うふふ、頑張らないと」
空々しい挨拶が終わると、途端に思い沈黙が2人を包み込む。
やがて、巴が耐えかねたようにその沈黙を破った。
「イナに……会いに来たんですか?」
「ええ……今は、ほたるも意地になってるようだから」
「それだけの理由で……」
「え…?」
「それだけの理由で、毎日イナに会いに来てるんですか?」
自分を見る巴の顔を見つめた。
「静流さん、本当はイナに会いたいだけじゃないんですかっ!?」
「……」
「静流さん……イナのこと好きなんじゃないんですか?」
血がひいていく音が聞こえる……と、同時にどこかで冷めた自分が目を覚ました。
「そんなの、ほわちゃんに酷すぎます。よりによって、静流さんに裏切られるなんて知ったら……」
「裏切る……?」
「だって、イナはほわちゃんの恋人…なんですよ。多分ほわちゃんにとってピアノと同じぐらいに大事な……」
巴は、どこか辛そうな視線を地面に向けていた。
「それに静流さんは……ほわちゃんのお姉さんじゃないですかっ!」
「……大事なモノを奪うのは裏切ることなの?」
「あ、当たり前じゃないですか!」
静流はじっと自分の手を見つめた。
かつて……血の滲むほどにピアノの鍵盤を叩いた指先。
「……ピアノ…」
「え?」
自分の指先が生み出す旋律の中で躍動する心と身体……あの、なにものにも代え難い喜びに没頭した日々。
「最初は軽い気持ちで……でも、すぐに夢中になった」
「静流……さん?」
「好きだったわ……あの日までは」
あの日、ほたるの演奏を聴いた瞬間……静流の心と身体は自分の演奏では躍動しなくなった。
妹に奪われたのは、静流にとってかけがえのないモノだった。
「……多分、私だけじゃないんでしょうね」
発表会の、コンクールの度に……何らかの形でピアノを愛する人間に与える暖かさに数倍するほど、ほたるのピアノはいろんな人からいろんなモノを奪い続けたのだろう。
静流は巴の顔を見つめた。
大事なモノを奪うのが裏切りだとしたら……自分は、あんなにも子供の頃に裏切られていたことになる。
「……そうね、あの子は昔から人の持っているモノを何でも欲しがったから」
ほたるが破いてしまったドレスを思い出す。
「それなのに……私は我慢してきたのよね」
我慢…という言葉に巴が鋭く反応した。
「だったら……最後まで我慢したらどうですか」
自分自身に言い聞かせるような口調に気付き、静流はあらためて巴の顔を見つめる。
『偽善者の仮面は外すのね……醜悪だから』
「ああ……そういうこと」
何故、こんな場所で一度ならず巴と出会うのか。
欲しい物を欲しいと言えず、どこか世の中をすねたような目つきを仮面で隠す……確かに、目の前の少女の顔は醜悪だった。
静流は口元に小さな笑みを浮かべ、穏やかな口調で語りかけた。
「じゃあ巴ちゃん……あなたが健くんを元気づけてくれる?一緒にいたいんでしょ?」
「え…」
戸惑ったような表情の裏に、ちらりと少女の願望が滲み出る。
「ふふ、巴ちゃんも……同じじゃない」
奇妙な仲間意識が、静流を饒舌にしていく。
「ほたるがいなくなって寂しいけど嬉しいよね?」
無意識に口をついて出た言葉……その言葉は混乱していた静流の心を急速に収束させ、現実味を帯びさせた。
「なっ…」
「ああ……そうか。私、嬉しかったんだ……」
常に自分を抑圧してきたほたる……その妹がいなくなる。
そう思うと、重りから解放される喜びがじんわりとこみ上げてきた。
「わ、私は違う!」
「そう?」
「私…私は、ちゃんと我慢しました!」
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「そ、それは……」
少女に言い訳を与えてやろう……ふと、そんな気持ちがわいた。
「人を…好きになっただけじゃない」
「え?」
奇妙なほど優しい口調が、巴の心を弱い方に流していくのを感じた。
意識して、全てを許すような優しい笑みを浮かべる。
「出会いの後先で……全ては決まるの?」
「……」
「最初に……ほたるが出会っただけでしょ?」
そして、巴が知らないであろう事実を少女の喉元に突きつけてやる。
「あの2人……理由はどうあれ別れたのよ。知らなかった?」
「う…そ」
「本当よ、それもほたるの方から一方的に……健くん、可哀想よね?健くんなら、きっとほたるの帰りを待ったはずなのに……ほたるはね、恋人である健くんを信用できなかったのよ…」
巴の眼が焦点を結ばなくなったのを見て、静流は暗い悦びを感じて小さく頷く。
風に乗って、ヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。
と同時に、あたりが薄暗くなる。
どうやら、太陽が雲に隠れたらしい。
確かに夏は終わりかけているらしかった……陽射しが遮られると、それだけで随分涼しく感じられる。
潮の香りも、幾分弱くなっているようだった。
「じゃあね、巴ちゃん……健くんは部屋にいるから」
「あ……」
何かを言おうとしたが言葉にならずに立ちつくす巴に一瞥を向け、静流は口元に微笑みすら浮かべて躍動感溢れる歩調で駅への道を歩き出した。
そして、その場に残された巴。
落ち着かない表情で、静流の去った駅への道と、健の下宿へと向かう道を何度も見比べては、手のひらを握ったり開いたりすることを繰り返す。
「別れたなら……いいよね」
そう呟くと同時に、巴は下宿への道に踏み出した。
心の中の罪悪感とは裏腹に、口元に微笑みを浮かべていることに巴は気付いていない……
完
このHPのSSの中ではそれなりに長く、さらにくどい文章をお疲れ様です。
終わってねえよ!とか、修羅場はどうした?などと怒られそうですが、なんとなくカタルシスの瞬間までを書いてみたかっただけですのであしからず……というか、やっと物語の導入部分が終わったんですけど後何枚書かなきゃいけないんだ?と正直腰が引けて無理矢理うち切った次第でございます。(笑)
だもんで、ラストシーンの巴が本当に壊れるまでは、ほたるに電話をかけるとか、健と静流の2人っきりのシーンを見せつけられる……とかの追撃アンド駄目押しが必要ですよね?(笑)当初の予定では、この後一時帰国したほたるを交えて巴、静流、ほたるの三つどもえ修羅場(主人公は無視)を書こうかなあと思ってたんですが……もう、薄い文庫本の半分の枚数が埋まってたりするんですよこれ。(笑)しかも、あんまり読み手のこと考えてないので読みづらいし……最後まできちんと読んだ人はかなりのチャレンジャーですきっと。
とりあえず、このSSの中で静流は徹底的な自己暗示型タイプの人間にしました。
『好きな人と手作りのお菓子を食べるのが幸せ』……『お菓子を食べたら幸せだった』=『自分はその人のことが好きである』などと、自分の設定した価値観に絡め取られていくタイプ……とか考えないと、このゲームの人物自体が納得いきませんし。(笑)
まあ最近は幼児体験がどうだのとかで、トラウマが大安売りされてるみたいですけど……トラウマって、もっとえげつないモノですよね?個人の価値観に影響を与える程度の経験なんてのはトラウマじゃないと思うんですが。確かに、トラウマってある意味便利ですもんね、医者にとっても物語の書き手にとっても。
後は、『あのゲーム』のパロディなんで、『主人公の存在感は0』を基本にしました……なかなか辛かったです。
しかし……書き手の未熟さがもろに露呈してしますね。反省、反省。(笑)
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