昔読んだ本の作者によると、箸が転がってもおかしい年齢に私は生きている。多分それは一種のたとえで、要は多感な時代ということを述べたかったのだろう。
 だから、急に悲しくなって泣くこともあるのかも知れない。
 私があの人と初めて言葉を交わしたのはそんな時のことでした……
 
「あの、大丈夫…?」
「え?」
 驚いて顔を上げた私の顔を心配そうに覗き込んだ少年があの人だと気付くまでに数瞬の間が必要だった。
「ん?君は……」
 涙が止まると同時に、心臓まで止まりそうになる。
 いつもいつも隠れて見ていたはずなのに、見ることに夢中になっていて自分の存在に気付かれることが何回かあった。
 そんな私の仕草に困惑したのか、あの人は子供に語りかけるように、優しい声と眼差しでもう一度重ねて聞いてきた。
「どうしたの、大丈夫?」
「ぇ…ええ……あ、あの、大丈夫…です」
 やっとの思いでそれだけを伝えた。
 多分、変な子だって思われたに違いない。自己嫌悪と後悔が私の心を包み込む。
「そうか、それならいいんだけど……」
 そう言って、あの人は背を向けて歩いていく……でも、しばらくしてまた振り返った。そして、また土手を降りてきてもう一度聞いた。
「あの、本当に大丈夫なの?」
 あの人が話し掛けるたびに、心臓に多大な負担がかかる。いろんな感情が混ざり合ってとても平静でいられそうになく、私はうつむいたまま大丈夫とオウムのように告げた。
「……悩みってさ、誰かに話すだけでも気が楽になると思うけど」
 最近千枝ちゃんとすれ違うことが多くて、自分は1人なんじゃないだろうかってずっと思ってた。それなのに、あの人にとっては見ず知らずの私の話を真剣に聞いてくれて……励ましてくれている。
 多分こんな人のことをお人好しと世間では呼ぶのだろう。
 でも、それはきっと素敵なこと。
「人は1人じゃ生きていけないんじゃないかって俺は思う」
 心にしみいるような口調に、私は顔を上げてあの人の顔を見た。何故だが、自分で言った言葉に驚いているようなあの人の表情。
「……」
「誰かが誰かを必要とするから、人は生きてるんじゃないかって、そう思うんだ」
「誰かが必要とするから……」
 この人がこの場にいなかったならば、多分私はずっと泣いていただろう。さっき泣いていた自分は、きっとこの人を必要としていた。
「大丈夫、ちえちゃんはきっと君のことを必要としているよ…」
「千枝ちゃんが私を…?」
「そう、君を」
 本を通じて人に優しい気持ちを与えたり勇気づけたりする人は、まるで魔法使いのようだと思っていた時期があった。
 言葉を通じて人を励まし、そして勇気づける……この人、悠介先輩も魔法遣いの1人かも知れない。その魔法の力は、多分見ず知らずの人間を放っておけない優しさから来るのだろう。
「それじゃ、私帰ります。今日は、本当にありがとうございました」
 私は深々と頭を下げた。
 大丈夫、私は笑える……
「うん、頑張ってね……」
 悠介先輩は安心したような表情で私に背を向けて歩き始めた……あの人が振り返ることはないだろう。
 そうだ、悠介先輩が言った通り、千枝ちゃんにおにぎりを作ってあげよう。さっきまでの自分なら、千枝ちゃんがイヤな顔をしたらどうしようなんて考えたかも知れないけど、今は違う。
 きっと、大丈夫。
「……誰かに必要とされるから、かあ…」
 悠介先輩が歩いていった方角を見つめ、私は思いきって呟いてみた。
「私……悠介先輩に必要とされてみたいです」
 
 日曜日を丸一日潰して書いたラブレター……1時間目と2時間目の間の休み時間、2時間目と3時間目の休み時間……悠介先輩、もう少しだけ勇気を下さい。
「みやこ…あんた、何やってるのさっきから?」
 私が手に握っていた手紙を、千枝ちゃんがひょいっと取り上げていった。
「ああっ、ち、千枝ちゃん!」
「む…?」
 千枝ちゃんの繭が微妙につり上がった。
「みやこ…これってまさか?」
 血が逆流するような恥ずかしさごまかすように、私は机に突っ伏した。
「渡す人って、例の『あの人』なの?」
「……」
 仕方なく頷く。
「下駄箱にでも入れときなさいよ……」
「だ、駄目だよそんな……ちゃんと手渡さないと!」
「いや、みやこのことだから直接手渡す頃には卒業してそうだし?」
 だし?の部分の発音が微妙にからかわれているような気がする……というか、千枝ちゃんちょっと不機嫌そうに見える。
 そんな私の視線に気が付いたのか、千枝ちゃんは居心地悪そうに身体を揺すり、そして、ぽつりと呟いた。
「……私が、渡してあげようか?」
「え?」
「まあ、おにぎりのお礼というか何というか……で、その人の名前とクラスは?」
「え、ええ?」
「ああもう、じれったいわね!」
 そして、千枝ちゃんは昼休みになると制止する私の言葉を聞かずに教室を飛び出していった……こんな事でいいのかなあ、私。
 
 最近の千枝ちゃんはどこか変。
 時折私の方を見ては含み笑いをしたりしている。なんというか、格好の玩具を見つけた猫のような表情。
 多分、何か変なことを考えているに違いない。
 私が先輩とつきあい始めた最初の頃は、『何か進展は?』とか『どうしてもっと自己主張しないの?』とかうるさかったのに、最近はそうでもない……あ、『お弁当を作ってあげなさいよ』ってしつこかったけど、先輩が嬉しそうだったからちょっと嬉しい。
 でも、ここ数日は特に変だ。
 テスト中だというのにいつも通りにはしゃいでいたと思ったら、先輩と喧嘩したらしく悪口を長々と並べ立てたり……そして、そんな自分に気付いた瞬間、慌てて平静な自分を装ったりする。
「ねえ、千枝ちゃん……」
「ん、どうしたのみやこ?」
 やっぱり普通すぎた。
 普通だから変……って言うのはおかしいかもしれないけれど、千枝ちゃんとは中学からのつきあいだから何となくわかる。
 何か、悩みでもあるのかなあ……
 あの時の私には悠介先輩がいたけど千枝ちゃんにはそういう人がいるのかなあ……私が、その役目をしてあげないといけないんじゃないのかな?
 キーンコーン…
 お昼休みになると、千枝ちゃんが教室まで誘いにやってきた。
「みやこ、行くわよ」
「あ、待ってよ千枝ちゃん…」
 お弁当箱を2つ持って千枝ちゃんの後を追いかける。
「それでね、クラブの先輩がこう言うのよ……」
 もしこの場に千枝ちゃんがいなかったら、こんなに会話がはずんだりはしない。私は、先輩と2人きりだと緊張しちゃうし、先輩も誰かとつき合ったりしたことがないらしいからどことなくぎこちない……私がそう思うんだから、きっとそうなんだろう。
 千枝ちゃんのいる明るい雰囲気の中だと、私も先輩も大分話ができる。
 2人も仲直りしたみたいだし、やっぱり先輩に千枝ちゃんのことを嫌いにならないでって頼んだのが良かったのかな?
「あ、そういえば…日曜日に事故があったんだって」
「え?」
「事故?」
 どことなく上の空で答える先輩と千枝ちゃん。そうかと思うと、我に返った千枝ちゃんが何かを先輩に訴えているような仕草をする。
「…あの土手なんだけど、気をつけないとね」
「そ、そうね!事故には気をつけないといけないわよね!」
「そ、そうだなあ…」
 ぞくり。
 何故だろう…風邪をひきかけたときのような、何か嫌な何かが忍び寄ってきたような変な感じ。
 その後、千枝ちゃんはいつも通りに元気だった。
 
「あ、俺飲み物買ってくるけど何がいい?」
「私、牛乳」
「あ、私…先輩の選んだものなら……」
 先輩は少しだけ困った様な表情を見せたけど、小さく頷いて中庭を後にした。戻ってくるまで、3分ぐらいかかるだろう。
「ねえ、みやこ。そのおかず1つ貰ってもいい?」
「え、いいけど」
 購買のパンだけでは足りなかったのか、千枝ちゃんは指を伸ばしておかずをつまんだ。ひょっとすると先輩が席を外すのを待ってたのかな?
「……」
「ど、どうかしたの千枝ちゃん?喉につまったの?」
「…いや、大丈夫…なんとか」
 千枝ちゃんは軽く胸を叩き、そして既に食べ終わっている先輩の弁当箱を見て微かに首を振って呟いた。
「先輩って、みやこのこと本当に好きなんだねえ…」
「ちょっと千枝ちゃん、どういう意味?」
「べーつに…」
 そこに、パックのジュースを抱えた先輩が戻ってきた。
「お待たせ…」
 先輩に渡された牛乳パックを、まるで口直しするかのように一気に飲み干す千枝ちゃん……料理があんまり上手じゃないのはわかってるけど、そんなあからさまに。
「…っぱあ。生き返ったわ」
 死ぬほど不味いのかなあ、これ。
 お弁当を作って喜ばせてあげるっていうのが、千枝ちゃんの言い分だったはずだけど、料理が下手で嫌われるのって嫌だ。
 私は、もそもそとお弁当の残りを口に運び続けた。
「あのさあ……そろそろ私って邪魔だよね?」
「え?」
「いや、もうお昼ご飯の時に私がいなくても大丈夫でしょ…」
 千枝ちゃんがなんでそんなことを急に言い出したのかわからない。
「千枝ちゃん、どうしたの?」
 私が千枝ちゃんの制服の袖を引っ張ると、千枝ちゃんはやれやれって感じで肩をすくめて首を振る。
「だって……2人っきりで、ラブラブな方がいいんじゃないの?」
「そんなことないよ!……あ、先輩…私の言いたいのは…」
「いや、わかってるからみやこちゃん」
「ほら、イイカンジじゃない…」
 ごちそうさまって感じに、仰々しく両手を合わせて頭を下げる千枝ちゃんの表情がどことなく疲れているように見えた。
 ぞくり。
 あ、まただ……何か変な感じがする。
 
「おーい、まこと」
「あら、悠介……って、この子なの彼女って」
 すらっと背が高くってきれいな人…あ、3年生なんだ…が、私に近付いてきてじろじろと眺め回された。はっきり言って恥ずかしい……と言うより、この人誰?
「可愛い、可愛い…悠介にはもったいなーい」
 等と呟きながら頭の上に手を置いて、ぐるんぐるんと頭が揺れ動くぐらいに撫で回す。この人って、なんとなく千枝ちゃんに似ているかも。
 でも、ちょっと痛い。
 撫で撫で攻撃からやっと解放された私は、悠介先輩に尋ねてみた。
「悠介先輩、この人は…?」
「あ、そうか…こいつ、まこと。俺の家の隣に住んでて、まあ家族みたいな…」
「私、吉沢まこと。悠介のことで知りたいことがあるなら何でも聞いてね」
 にこっと、満面の笑みを浮かべる吉沢先輩。
 でも、どうしてかな……ちょっと嫌な感じがする。
「あ、あの…私、若月みやこです」
「みやこちゃんね、よろしく」
 また頭を撫でられた……どうも子供扱いされてるみたい。
 千枝ちゃんに吉沢先輩の話をすると、不思議なことに千枝ちゃんはその人のことを知っていたらしい。
「……みやこが作るまで、ずっとその人が先輩のお弁当作ってたのよ」
「え、だって悠介先輩購買のパンを……」
 千枝ちゃんの表情が、あからさまに失敗したという感じに変わった。
「い、いや…毎日ってわけじゃなくて…」
「つき合ってた…の?」
「違う、それは違うってみやこ!大体悠介先輩見ればわかるでしょ?あのぎこちなさといい、頼りなさそうな雰囲気といい、誰かとつき合ったことなんかないって」
「で、でも悠介先輩は素敵だよ。千枝ちゃんもそう思うでしょ?」
「え…」
 ぱりん、と何かが割れた音が聞こえるような表情。
「べ、別に私は…悠介先輩って頼りないし…」
「しっかりした人がいいの…?」
「そ、そうね、やっぱり私がつき合うならしっかりした……」
 思ったことがそのまま言葉となって流れ出る瞬間…今がそれだった。
「もしそうなら、悠介先輩の隣にいるのはしっかりした人がいいのかな……吉沢先輩みたいな」
「ちょ、ちょっとみやこ。悠介先輩とつき合っているのはみやこでしょ…何言ってるんだか」
 千枝ちゃんは呆れたように呟いて私の頭を撫でた……吉沢先輩のように。
「やめてっ!」
「み、みやこ…?」
 いきなり手を振り払われて、痛みよりも驚いた様な表情で私を見つめる千枝ちゃん。そのおかげで私は我に返ることができた。
「ご、ごめん、千枝ちゃん…」
「あ、別に対したことはないから…」
 困惑したように微笑み、千枝ちゃんは自分の教室に戻っていった。
 自分でも良く聞き取れないぐらい小さな声で私は呟く。
「千枝ちゃん…どうして、悠介先輩を避けるの?」
 違うよね、千枝ちゃん……悠介先輩がきっと千枝ちゃんを選ぶなんて思ってないよね。そういう優しさって、きっと残酷だよ。
 
「……そうそう。悠介ってちょっと辛いぐらいの味付けが好きなのよ」
「う、やっぱり私って何もできない……」
 手際の良い吉沢先輩を見ていると少し悲しくなる。
 ぶしつけとは思ったけれども、吉沢先輩に頼んでいろいろと教えて貰おうと決めてから数日。まずは、お料理……なんだけど。
「大丈夫……すぐ上手になるから」
「そう、でしょうか?」
「ええ、料理ってね、張り合いがあると上達するのが早いの…」
 がらんとした室内。
 良くわからないけれど、吉沢先輩の家には家庭の匂いがしなかった。そんな私の仕草に気が付いたのか、吉沢先輩は極めてさらりと語った。
「ああ、私って母親がいないのよ……悠介とは逆でね」
 悠介先輩のお父さんがいないことは知らなかったけど、先輩の家は暖かかった。(恥ずかしくて良くわからなかったけど)
「吉沢先輩には…張り合いのある人が?」
「……張り合いのない相手ならいたけど」
 少し目を伏せ、私にも良く理解できるようにゆっくりとした動作で野菜の皮を剥き、刻んでいく動作に狂いはない。
「何を食べても、『ふーん』とか『まあまあじゃねえの』とか」
「…ぁ」
 急に不安になった。
 どうして吉沢先輩は、親切に料理を教えてくれるのだろうと。この人にとって、私は……私は。
「ほら、みやこちゃん。お鍋が吹いてるよ…」
 自信に満ちあふれた視線向ける吉沢先輩から逃げるようにして、私は慌ててお鍋の中をかき回し始めた。
 自分の心の中をかき回すように……
 
 先輩の箸が動くのを緊張しながら見つめていた。
 そして一口
「あれ?」
 先輩は少し驚いたような表情で私を振り返った。
「ひょっとして……まことに習った?」
「……やっぱり、わかっちゃうんですね」
「まあ、そのぐらいは……」
 自分の味付けは、遠く吉沢先輩には及ばない。
 このお弁当を作る途中で葛藤を繰り返した自分。教えられたとおりに作るか、それとも、全然違う味付けにするか。
「おいしいですか?」
「うん、美味いよ」
「そうですか、良かったです……」
 結局、美味しいと言ってくれる方を選んだ。
 でも悠介先輩の好みに合わせようとすればするほど……それは吉沢先輩に近づいてゆく。多分、それは料理だけじゃなくて……きっと。
 私はそのことにとても耐えられそうにない。
 悠介先輩には……必要とする人が既にいたんですね。
「み、みやこちゃん、どうしたの?」
「え?」
 先輩に指摘されて、私は自分が泣いていることに初めて気が付いた。先輩には泣いてるところばっかり見られてる。
「聞いてください、先輩」
「な、何を?」
「私には、かけがえのない人が2人います。1人は先輩で、もう1人は千枝ちゃん……だから、私は大丈夫です」
「な、何を言ってるの?」
「先輩は優しいから……ほっとけなかったんですよね?あの時みたいに…」
 多分、答えは見えている。
 だったら、大事にされているうちに別れよう。このまま頑張ってると、私は先輩だけじゃなくて千枝ちゃんまで失ってしまいそうな気がする。
 千枝ちゃんは…きっと先輩の事が好き。
 そして、吉沢先輩も先輩が好き。
 ゆうすけ先輩は……多分、他人のことを気にかけすぎて自分のことが見えていない。だから気付かせてあげよう。
 多分、私にはそれぐらいしかできないから……
「先輩は…きっと吉沢先輩のことが好きなんですよ」
 応援できなくてごめんね、千枝ちゃん。
 私は……私は悪い子です。
 
 それからしばらくして……いちょうの葉が散りおさめになる頃、私と千枝ちゃんはいちょうの木を見上げながら、落ちてくるいちょうの葉に負けないぐらいに先輩の悪口を言い合った。
 どれぐらいの間そうしていただろうか、とっぷりと日が暮れたいちょう並木の真ん中に座り込んだまま千枝ちゃんがぽつりと呟いた。
「みやこ……後1つだけ言おうか」
「うん……」
 私は、千枝ちゃんと肩を並べてささやかに、本当にささやかに呟き合った。
「悠介先輩の馬鹿……」
 寂しくなったいちょうの枝から星が見えた。
 そうだ、涙はきっととまる。
 このいちょうの舞う季節のように……
 
 
                       完
 
 
 だから、どうしてバッドエンドなんだよ!などと、吉井さんの泣き叫ぶ声が本当に聞こえてきそうですが、実際には聞こえないので気にしないことにします。(笑)
 前半部分を読んで、今回はハッピー…などと勘違いしてくれた人がいたら、高任としてはラッキーです。
 後半は、かなり強引で作為的な展開かも知れませんが勘弁してくださいな。一応、オリジナルバッドエンドと言うことで。

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