……ガタンゴトン。
 夏休みの8月初旬、俺達は引っ越し先への町へと向かうために列車に揺られていた。
 そう、まさしく揺られていたという表現が正しいぐらい長くそうしていたのだが、目的の駅に着くまでは、まだ優に一時間はかかるはずだ。
 駅に止まるたびに車両内を見渡すのだが、乗客の乗り降りは滅多にない。
 時間帯がそうさせるというより、列車の窓から見える景色が終始緑と山、そして時折思い出したように現れる小さな集略以外変化がないことに問題があるのだろう。
 都会のそれとは違って、駅と駅の間隔がまた長い。
 やることもないので、俺は列車の車輪がレールの継ぎ目を越えるときにたてる音の間隔とレールの長さから逆換算して、今列車がどれぐらいの速度で走っているのか考える。
「いぬいぬ〜♪」
「……」
 俺と向かい合わせの座席に座っているひなたが、窓の外の景色を眺めながら底抜けに明るい声をあげた……と言うと、いきなり騒ぎ出したような印象を受けるかも知れないが、列車に乗ってからというもの、ずっとこんな感じだ。
 それは、ある意味凄いのかも知れない。
「今この列車はおよそ時速80キロで走っているんだがな……」
「なんで、わかるの?」
「ひなたには一生かかってもわからない不思議な方程式があるんだ」
「あ、ねこねこ〜♪」
 聞いちゃいねえ。
 というか、本当に猫の姿を確認して喋ってるのかこいつは?
 ちなみに、今も窓の外から見える景色は山と緑だけ……少なくとも、両目とも視力2.0の俺にはそう見える。
「猫なんていないだろ?」
「いたよ……じゃーん!」
 ひなたは足を上下にパタパタさせながら、手に持った愛用の双眼鏡を謎の台詞と共に俺の方に差し出した。
「15分200円だよ」
「いらん」
「じゃあ、300円」
「値上げしてどうする」
「……値段が高い方がよく売れる商品もあるんだって」
「確かにな……」
 ただそれは薬とか宝石の、高い方が効果があるだろうとかプライドをくすぐるとか、消費者心理が大きく介在する一部の商品……などと説明するのも大人げないと思い、俺は口をつぐんだ。
「とりさん、とりさん〜♪」
 再びはしゃぎ出すひなた。
 一年前の自分は、決してあんな子供だったとは思えないのだが。
「……寝る」
 そう宣言して俺は瞼を閉じた。
「ウシウシ〜♪」
 そうか。
「カメカメ〜♪」
 その双眼鏡がいくら優秀だとしても、水の中の亀は見えんぞ多分。
 いつもながらの宇宙人的発言を繰り返すにひなたに対して、俺は心の中でいつもながらのツッコミを繰り返す。
「あ、女の人が裸で水浴びしてる…」
 チョップ。
「うにゅ」
 涙目になってぐっすんのひなたが俺を恨めしそうに見た。
「俺は寝る。いいか、俺は寝るぞ」
「は〜い…」
 やれやれ…
 ひなたとのやりとりによる疲労は眠気を誘ったのか、俺の意識はすぐさま深い谷底に落ちていった。
 
 夕焼けを背に受けて、1人の少女が俺のことを見下ろしている。
「……あなたが私を救ってくれるんですか」
 まどろみの中。
 とてもとても小さな頃の……俺達が今向かっている街に住んでいた頃の……懐かしい記憶。
 ぼんやりとして、思考が上手くまとまらない。
 今の今まで思い出したことは一度もなかった……が、それが懐かしい記憶であることを俺は無意識に受け入れようとしていた。
 多分、まだ3才ぐらいの頃で……街から引っ越す直前の出来事だったと思う。
 少女は俺の前に片膝を付き、手をのばしてゆっくりと俺の首を掴む。
「私は……信じません」
 俺は暴れるでもなく、ただ首を絞められる痛みと息苦しさに耐えながら黙って少女の顔を見つめていた。
 人形のような無表情……なのに、俺はその少女がひどく悲しんでいるように思え、首を絞められながら少女の頭をそっと撫でた。
「…っ!」
 弾かれたように少女の手が俺の首から離れる。
「コホッ……おねーちゃん、泣いてるの?」
 音もなく、少女の瞳から透明な滴が溢れて頬を伝いだす。
「……」
 俺は再び手を伸ばし、ただ俺の顔をじっと眺めて涙を流し続ける少女の頭を撫でた。今度は、少女もそれに抗おうとはしない。
 微かに歪んでいた表情が再び無表情になる……流れ続ける涙以外は。
「あなたが……私を救ってくれるんですか?」
 少女の手が、今度は両手で俺の首を掴んだ。
「私は……信じない」
 さっきとは比べようもないぐらい、きつく首を絞められる。
 それでも、俺は……自分が死ぬと言うことも良くわからない子供の頃、多分そうすることが必要だと思いこんだのか、むきになって少女の頭をなで続けた。
 少しずつ、景色が霞んでいく。
 夕焼けの空が、そして少女の顔が……
 
「……ちゃん、お兄ちゃんっ!」
 地震……じゃなくて、身体が激しく揺すぶられている。
 目の前には、心配そうに俺の顔を覗き込んでいるひなた。
「……あれ?」
「なんかひどく苦しそうだったから……と言うより、もうすぐ駅に着くんだけど」
 着く…?
 自分が今何をしているのか見失っている状態。
『ご乗車ありがとうございました。この列車はまもなく……』
 無機質なアナウンスが、俺の意識を急速に回復させた。
「…おお。やっと着いたか」
「……お兄ちゃん、途中からずっと寝てたじゃない」
 脳天チョップ。
「うにゅっ」
「さっさと荷物を下ろすぞ」
「ひどいよう……」
 ぐっすんひなた。
「……起こしてくれてサンキューな」
「……うんっ!」
 ひなたの表情が輝いた。
「そんなにうなされてたか?」
「んー、山を抜けて海が見えた頃から急に……ひなた、ちょっと心配しちゃったよ」
「そうか、サンキュー」
「えへ、兄妹だもん」
「…まあな」
「あー、お兄ちゃん照れてる」
 チョップ。
「うにゅ」
「馬鹿言ってないで、ほら、駅に着いたぞ…」
「はーい…」
 荷物を抱え、出口へと向かうひなたの背中を見つめながら俺は思った。
 母が死に、そして父が行方不明となった今……多分、それを知っているのは俺だけなんだろうか。
 俺は随分な子供の頃にそれを聞かされた。
 『今はひなたに言わなくていい…』
 『今は』という言葉にどういう意味があったのか、父にそれを聞くことはできない。
「……」
「どうした?」
 自問を押し込めると、両手を広げてじっと目をつぶっているひなたに声をかける。
「ん……ただの感傷って言われるかも知れないけど」
 ひなたは、俺の表情を窺うようにして目を開けた。
「還ってきた……そんな気がして」
 風音(かずね)市……俺とひなたが生まれた街。
 空を見上げる。
 父が行方不明となって早3ヶ月。
『お父さんは生きてるもん……だから、予定通りお引っ越ししなきゃいけないんだもん』
 頑ななひなたの表情と口調に押し切られたわけじゃない。
 ひなたには甘い父だったが、俺には厳しかった……ただ、その厳しさには十分に共感できる理由があったし、父親として尊敬できる存在だった。
 だからこそ、俺にはわかる……多分、ひなたにも。
 父は、もうこの世にはいないと言うことが。
「お兄…ちゃん?」
「…ん、どした?」
「早くいこ」
「ああ、そうだな…」
 兄として……ひなたの笑顔を守ろう。
「文句ねえだろ…親父」
「あー、お兄ちゃん。この街、路面電車が走ってるよぉ」
「……」
 ひなたが指さす方向に視線を向けた瞬間、ふいに懐かしさに襲われた。
 生まれ故郷というモノは、こういうモノなんだろうか……
 
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
「ん、散歩……学校が始まるまでにいろいろと慣れとかないとな」
「ひなたも今日はいろいろ歩き回ってみるつもりなんだけど…」
 一緒に行かない?という、あるかなきかの気配が語尾に現れた……が、俺はそれに気付かないフリをした。
「そうか、日射病に気をつけろよ」
「…ん、はーい」
 微笑むひなた。
 とにもかくにも……それがたとえ演技だったとしても、3ヶ月という時間はひなたを微笑ませることができるようにした。
 俺自身、まがりなりにも笑ってくれるひなたに救われている部分はある……ただ、俺がひなたにとって救いを与えているかどうかは疑わしい。
 アナクロ的な父の厳しさの影響なのか、俺はあまり社交的というか、周囲の人間を和ませ明るくさせる性格とは言い難いのだ。
 時には甘く、時には厳しく……などの、人生の酸いも甘いもかみ分けた人格者のようなふるまいがひなたに対してできるわけもなく、甘すぎたり、厳しすぎたり……何はともあれ、父がいないという事実を根本的な部分でひなた自身に乗り越えさせようという事だけは決めている。
「うにゅ?どうしたの?」
「あ、いや……じゃ、行ってくる」
「街のどこかで出会うかもね」
「まあ、あてもなく彷徨うつもりだからな……」
 軽く右手を振ってから、俺は階段に向かって歩き始める。
 5階建て以上の建築物にはエレベーターの設置が義務づけられているとか耳にしたことがあるが、このマンションは4階建てにも関わらずエレベーターが設置されている。
 それを使うか階段を使うかは、今のところその時の気分次第だが……しばらくすると、階段を使ったりすることはなくなるかも知れない。
「……ふう」
 マンションの入り口から外に出た瞬間、照りつける夏の太陽の容赦なさにおもわずため息が出た。
 朝っぱらから精の出ることで……
「……ちゃんと帽子をかぶれって言うべきだったかな」
 何気なく呟いた独り言に、俺は首を振った。
 こういうところが必要以上に甘すぎるような気がする。子供じゃないんだから、心配あるまい。
「さて、と…」
 歩きながらポケットからメモ用紙を取りだした。
 ひなたにはああ言ったが、俺の本当の目的地は9月になれば俺とひなたが通う事になる学校だった……まあ、早い話が転校手続きだ。
 休みだというのに、担当の先生には申し訳ないと思うが、目的はもう一つ。
 母さんは病気で死んだ……亡き母に関して妙に口の重かった父がそう教えてはくれたのだが、俺はこの年になるまで墓参りもしたことがない。
 というか、俺は先祖の墓がどこにあるか、また両親の縁戚関係について全く知らない。
 ただ父と母はこの街で生まれ、この街で育ち……そして、母がこの街で死んだ事だけは事実だろうと思う……いや、思っていた。
 ちなみに、一昨日は住所移転の手続きで市役所に行ったのだが……気になっていた母のことを調べてもらったところ、『申し訳ありませんが、あなたの母親がこの街に本籍を持っておられた事実はないようです』……という、なかなかショッキングな回答が俺のアイデンテティを少しぐらつかせてくれた。
 父が嘘をついていたのか、嘘をついていたならそれなりの理由があったのか……そのどちらも知ることができないだけにちょいとつらい。
 行方不明になる2,3日前、転校手続きがどうのこうのという話題が出たとき、2人ともそこの学校の卒業生だと父は確かに言った。
 もしそうなら、そこの卒業者名簿に母の名前がある……はず。
 考え事をしながら家を出て、路面電車の駅に着く。
 この街では路面電車がバス代わりなのか、路線は道路に沿って結構複雑に入り組んでいて、この街の大概の地域に続いている。
「んーと……この路線か」
 学園線、学園前。
 ひどくわかりやすい路線と駅名、そして最寄り駅が複雑な中継駅でなかったことに感謝しつつ電車を待っていると、程なくやってきた。
 まあ、何となく懐かしさを覚えてしまうのは俺の記憶なのか、それともノスタルジックな錯覚のなせる技か。
 ゆっくりと、電車は学園のある山の方に向かって進んでいく。
 ふと、窓の外に目を向けると……色鮮やかなヒマワリ畑が飛び込んできた。
 
「……無し、か」
 父の年から換算して、さらに念のために前後5年の卒業者名簿を確認し終わってから俺はため息をついた。
 俺とひなたの転校手続きを終えてから、向かった図書室。予想通り卒業アルバムは揃っていたが、そこに母らしき名前がないことも、半分は予想通りだったと言ってもいい。
 うっすらと、本当にうっすらとだけ残っている記憶の中の母の面影。
 ただ、記憶があるだけ俺はマシな方で、ひなたに至っては……俺はそっと目を閉じた。
 自分が自分である拠り所……多分、俺とひなたはそれが極端に希薄な環境にいる。
 この街から新しい街に引っ越すとき……うっすらとした記憶だが、既にひなたは側にいた……筈だ。
 俺の側にいた小さな女の子……ひなただよな、あれは。
 ふ、と自分の思考が何かの陥穽にはまりこんでしまったような気がして、俺は軽く頭を振った。
 くだらない感傷に浸っている場合ではない。
 俺は椅子から立ち上がり、卒業者名簿を棚に戻した。
「……気持ちを切り替えないとな」
 父はそれなりの蓄えを残してはいる……が、失踪では当面保険が下りるはずもなく。ただ、そういう余計な心配をひなたにさせたくもない。
 多少なりとも金銭を家計に入れる……長い目で見ると、多分それは大きいはずだった。
 バイトをしてみたかった……買いたい物がある……ひなたへの言い訳としてはそんな理由で十分だろう。
 そんなことを考えていたのがまずかったのか、本棚の間から踏み出した瞬間に何かとぶつかった。
「あっ…」
 目の前で黒髪が舞う。
 微かに香るシャンプーか何かの匂いにちょっとどぎまぎしながらも、俺は尻餅をついた少女に向かって慌てて手を差し伸べる。
「す、すまん、大丈夫か?」
「ええ…」
 そう呟くと、少女は顔を覆っていた髪を手の甲で払った。
「…」
 きめ細やかな燐光のように輝く白い肌に、バランス良く端正な目鼻立ちが乗っている。ぱっちりとした瞳の色の濃さに目が奪われた。
「……?」
 半ば硬直していた俺を不思議に思ったのか、少女が不思議そうに首を傾げる……が、不意に頬のあたりをうっすらと紅潮させ、慌てて目のあたりを手のひらで探った。
 その理由はすぐに予想がついた。
 少女がまわりを見渡し、落ちていた眼鏡を拾い上げたからである……と、同時に俺にかけられた呪縛が解けた。
「ふう……」
「あ、すまなかった……眼鏡は、大丈夫だったか?」
「き、気にしないで…」
 少女はスカートの裾を払いつつ立ち上がる……そして何かに気付いたように俺に振り向いた。
「……あなた、ここの生徒じゃ?」
 俺は私服で、少女は黒を基調としたセーラータイプの制服。
 夏服とはいえ黒の生地に灰色のスカートは見るからに暑そうだ……胸元のリボンの色も濃い緑色で、随分と熱を吸収しそうに見える。
「えっと、詳しく話せば長くなるんだが……9月からここの生徒で、今日はその手続きに来た」
「つまりは転校生ってわけ……ふふっ、映画や小説みたいな出会い方ね」
 何かを待つように、少女はじっと俺を見つめている。
「丘野真、2年生……」
「紫光院霞、同じく2年生。よろしく」
 端整な顔立ちだけに随分と大人びて見えたが、笑うと随分と愛くるしく感じた。
 
「お兄ちゃん……暑いよ」
「そりゃ、夏だからな」
「うにゅ…」
 意味不明の言葉を呟き、ひなたは麦わら帽子を深くかぶりなおした。
 お盆を過ぎたとはいえ、陽射しはまだ夏の威圧感たっぷりに降り注いでいる。公園に人通りが少ないのがそのせいなのかどうかはまだ判断が付かない。
「ほらほら、元気出せ……お前がそんなだと、俺も気が滅入る」
「……そう、なの?」
「当たり前だ」
「え、えへへ…じゃあ、ひなた元気になるよ。ひなたジャーンプっ!」
 元気良いかけ声と共に、ひなたの身体が高く宙に舞う……目測3メートル。あ、下着が白い……って、待て。
 地面に降り立ったひなたと俺はお互いに顔を見合わせた。
「お、お、お兄ちゃん!?ひなた、今すっごく変なコトしなかった?」
「きょ、今日は暑いからなっ!た、多分、気のせいだろ!」
 確かにひなたはスポーツ万能だ。
 足の速さに関しては陸上部からも誘いが絶えなかったほどなんだが……今の跳躍はスポーツ万能とかそういうレベルの問題じゃない。
「……とうっ!」
 約1メートル。
 いつも通りの跳躍力。
 それを見て、ひなたが再びジャンプ。
「えいっ!」
 普通のジャンプ。。
「や、やっぱり気のせいだよねお兄ちゃんっ!」
「そ、そうだな」
「すごい力ですね」
 ただ感心したという口調に、俺とひなたは慌ててそちらを振り向いた。
 強い陽射しの下でポニーテールの少女が微笑んでいる……背中に背負っているのは竹刀なのか?
「み、見てたのか!?」
「ええ、すごいですね」
「い、いや、すごいとかそういうレベルじゃないだろう」
「あれ?」
 少女は首を傾げた。
「ひょっとして……この街に引っ越してきたばかりですか?」
「はあ?」
 
「……お兄ちゃん、この街ってすごいんだね」
「ああ、すごいのは確かなんだが、不思議なこともあるもんだ…」
 普通に考えると納得できないはずなのだが、何故かそういうモノかと納得してしまう自分が不思議だった。
 
 この街に住んでいる人はその多くが不思議な力が使えるんですよ……そういった後、少女は背中の袋から竹刀を取りだして、公園の樹の枝を指し示してから軽く振って見せた。
 小さな枝が刃物で斬られたように落ちる。
「うわあ、百歩神拳だよぉっ!」
「いや、それは違うぞひなた…」
「私の力は完全にコントロールできる種類のモノですけど、目が見えるのと同じように本人が望む望まないに関わらず発揮できる力もあるんです」
「良し、ひなた、もう一度ジャンプだ!」
「らじゃ。ひなたジャーーンプッ!」
「あ、ちょっと待って……」
 少女が何か言いかけたが、青い空にひなたが舞う。
 さっきよりも高く。
「おおっ、すごいぞひなた。世界を狙える器だ」
「やるよおっ、ひなた、世界を目指すよおっ!」
「あの…盛り上がってるとこ申し訳ないんですが……」
「はい?」
「この力、この街を出ると使えなくなりますから……というか、街を出ると力そのものの記憶がぽっかり抜け落ちるんでそれをしようという事も考えつかなくなるらしいですよ」
「え?」
 少女が微笑む。
「私も良くわからないんですけどね……紙にメモを残しても、街の外に出るとそれ自体がなくなっちゃうとか」
「……」
「それと…」
 もさっ。
 突然、ひなたが俺に寄りかかってくる。
「ひなた?」
「力を使いすぎると眠くなるんです……休めば元に戻りますから心配ないですけど」
 
「ひなた、身体は何ともないか?」
「平気だよ」
「……考えてみると、ジャンプ中に眠ってしまったりすると危ないよな。意識がないから頭から落ちたりする可能性もあるし」
「あ、そうか……」
 初めて危険性に気付いたのか、ひなたが俯いた。
 いや待てよ、3メートルなり4メートルの高さまでジャンプできると言うことは、その高さから落下しても怪我をしないという事でもある。
 だとすると、ひなたの力というのはただ単にジャンプ力というのではなく、身体構造が強化されたと言うことなんだろうか。
「ひなた、ちょっとこっちに…」
「なーに?」
 でこぴん。
「うにゅっ!」
 涙目になってぐっすんのひなた。
「いきなりひどいよう、お兄ちゃん…」
「……」
 俺は自分の指をじっと見つめた。
「ひなた、腕相撲してみないか?」
「え、ひなたがお兄ちゃんに勝てるわけが…」
「俺に勝ったら何でも好きなモノをプレゼントしてやろう」
「……やる」
 ひなたの手が俺の手をしっかりと握りしめた瞬間、その小ささに少し驚いた。そういえば、ひなたと手をつなぐなんて随分久しぶりか。
 腕相撲は勝負にならなかった。
 ひなたと俺との相対的な強さは変わってないように思える……だったら。
「まさかと思うが……一昔前のヒーローのように技の名前を叫ばなきゃいけないなんて事は…」
「お兄ちゃん、何をぶつぶつ言ってるの?」
「……」
 ひなたに聞かれると恥ずかしいので、俺は無言で自分の部屋の中へと……そして、
「まこと、ジャーンプ!」
 スタッ。
 俺は無言で、怪訝そうな表情を浮かべたままのひなたが待つ台所に戻った。
「……お兄ちゃん?」
 ……あまり気にしないのが一番なんだろうな。
 
 夜風の涼しさが、夏の終わりの到来を告げている。
 俺はゆっくりと呼吸を細く……上手く説明できないが、父曰く剣の呼吸法の1つだ……していった。
 30秒間吸い続け、1分間吐き続ける。
 少し皮膚感覚が鋭敏になったところで、俺は無手のまま構えを取った。
 夜の公園、木刀はもちろんのこと実際に竹刀をぶら下げていたりしたら間違いなく警察に通報されるからな。
 父の姿を思い浮かべての型稽古……もちろん、足さばきだけだが。
 時間にして十数分、俺はそっと構えを崩して、そちらに視線を向けた。
「何か用ですか?」
「あ、ごめんなさい…」
 闇の中から滲み出るように1人の少女が姿を現すと、学校の制服なんだろう、ベレー帽をのせた頭をぺこりと下げる。
 最近の流行なのか、毛先が少し不揃いのショートカットに、丸みを帯びた眼鏡のフレームがまだ幼さを残した顔立ちと良くマッチしている。
「お邪魔をするつもりではなかったのですが……その、見とれてしまいまして」
「え、あ、どうも…」
 思いがけない言葉に、そんな曖昧な言葉を返すしかできない俺。
 無手での足さばきが、ひょっとするとダンスか何かと勘違いされたのかも……
「お強いんですね」
「……え?」
 きょとんとして、少女の顔をまじまじと眺めてしまう。
「あ、あの……剣術の、足さばき……ですよね」
「え、あ、うん…そうだけど」
 何故それが…
「…っ!」
 後方から明確な害意を感じ、微かに身構えた。
「あ、あの…?」
「静かに」
「はい…」
 音はしない……が、気配を感じる。
 いや、これはどうもこの少女が狙われているような感じだな。俺は邪魔者扱いと言うわけか。
「……家は近く?」
 ナンパと勘違いされるかもと思ったのだが、囁くような、それ以上に真面目な口調が少女にそれとなく伝わったらしい。
「いえ、歩いて20分……くらいです」
「携帯で家に連絡を」
「え、あの…」
 持っていないのか、それとも忘れたのか……仕方ない。
「初対面でなんだが、信用……してくれるかな?」
 少女はじっと俺の顔を見つめ、そして小さく頷いた。
「はい」
 
「丘野真君と言ったね…」
「はい」
 父と同等の……いや、それ以上の圧力を感じさせる視線から顔を背けることなく、俺は短く返答した。
 少女の父親……藤宮さんはこの街で剣術道場を開いており……俺の足さばきをみて『強いんですね』といった事もこれで納得がいったが。
「わかばの……娘の危ないところを助けて貰って感謝の言葉もない」
 警察での事情聴取を終え、署から外に出た早々に深々と頭を下げられた。
「いえ……父は、俺を怒ると思います」
「……」
 暴漢は明らかに俺より弱かった……弱かったのに、俺は自らの恐怖に負け、必要以上の打撃を与えてしまった。
 助けた少女に、治癒の力が備わっていなかったら……そう思うと、寒気がする。
 少女は力を使ったせいなのか、逞しい父親の背で安らかな寝息を立てていた。
「えっと…わかばさんがいなければ、もっとひどいことに」
「君のご両親は……立派な人だったんだな」
「はい」
 躊躇い無く言えた……が、何故だろう、微かな違和感を感じた。
「後日、改めてお礼に伺わせて貰うよ……」
「いえ、お構いなく」
「お父さんっ!」
 タッタッタッと、闇の中を駈けてくる足音よりも早く、声が闇のしじまに響く。
「娘の望です……わかばとはうって変わったお転婆で」
 苦笑を浮かべながら俺に紹介したのは……
「おや?」
「あれ?」
 ポニーテールと勝ち気そうな瞳が印象的な、あの少女だった。
 無意識にちらりと藤宮さんの背中で眠る少女の顔を見て、その行為に気付いてからそれ示す意味を理解した。
 姉妹……か?
 ちょいと顔立ちが違いすぎる……って、自分の無礼な感情を無理矢理ねじ伏せた。
 俺とひなただって……
「察しの通り、わかばは養女だよ」
「……すいません」
 藤宮さんの言葉に、俺はただ頭を下げるしかできなかった。
 どうして俺はこう…
「でも、わかばは私と家内にとってかけがえのない娘でね…」
「あ、あの、お父…さん?」
 おそらくは家庭の事情というやつを、見ず知らずの人間に話すのが不思議なんだろう……俺にとっても不思議だが。ポニーテールの少女は不思議そうに藤宮さんと俺の顔を交互に見やる。
「望、この丘野…真君が、わかばの危ないところを助けてくれたんだ」
「えっ!」
 
「お兄ちゃん……」
「何だ?」
 藤宮さん夫妻に、望ちゃん、わかばちゃんの一家総出のお客様が帰った後、ひなたは俺の顔をじっと見つめながら呟いた。
「お兄ちゃんはさ……私のことも守ってくれるよね?」
「当たり前だろ……まあ、そういう場面に出くわさないのが一番だが」
 何をバカなことを……そんな感情が滲み出た。
「じゃあさ……お兄ちゃんに好きな人ができて、その人とひなた、どちらかしか助けられないって状況になったらどうする?」
「……結構非現実的な状況じゃないか、それ?」
「そうかな…?」
 ひなたはうすく笑い、首を振った。
「そうでもないと思うよ……」
 ひなたはそう呟くと、大きくため息をついた。
「それにしても!」
 ひなたの口調と表情が一変した。
「な、何だよ…」
「お兄ちゃん、藤宮さんにうちの両親がいないって言ったの?」
「……」
 昨夜感じた微かな違和感が、解けた。
「お兄ちゃん?」
 確かに、それなりの勘さえあれば俺の警察署での言動から父がいないってのは判断できたはずだが……母がいないとは。
 『君のご両親は……立派な人だったんだな』……完全に過去形だ。
 この街は、父と母の生まれ故郷で……母は、この街で。
 俺の表情に何かを感じたのか、ひなたはぽつりと呟いた。
「……藤宮さんって、お父さんやお母さんの事知ってるのかな?」
「考えすぎ……かもな」
「うん……そうだね」
 
「ひなた、起きろ!」
 ひなたの部屋のドアを連打する。
「うにゅ〜」
「うにゅ、とか言ってる場合じゃないって!」
 始業式を明日に控え、昨夜6時半に合わせておいたはずの目覚まし時計が、何故か7時40分に鳴った。
 当然、朝飯なんか作ってる場合じゃなくて。
「ひなた、おい、ひなたってば!」
「うにゅ、うにゅ、うにゅ…」
 仕方ない、非常事態だ……
 俺は、自分の財布からとりだしたカードをドアの隙間に忍ばせた。
 ドアノブの位置を調節し、カードで擦りあげるようにしてロックを解除する。
「ひなた!」
「うにゃっ!鍵かけてたのに!」
 部屋の中に入ってきた俺を見てびっくりした表情のひなた。
「……待て」
 ひなたは既に制服に着替え終わっている……俺は、愛想笑いを浮かべているひなたのこめかみにげんこつをセットした。
「痛い痛い痛いっ!」
「さては、目覚ましをいじったのもお前か!」
「だって、お兄ちゃん転校生なんだよ……痛たたッ!」
「ワケわかんないこと言うな!」
「お兄ちゃんただでさえ無愛想で人から誤解されやすいんだから、食パンくわえて『遅刻、遅刻』とか言いながら教室に駆け込むちょっとお茶目な転校生という演出を……」
「……」
 朝っぱらからどっと疲れた。
「えっと……怒った?」
「いや、もういい……そら、行くぞ」
「うにゅ…」
「誤解したいやつにはさせとけ…」
 冷蔵庫から、1パックで2時間キープとやらのゼリータイプのアレを取りだしてひなたに手渡し、俺はバナナを頬張って牛乳で一気に流し込む。
「お兄ちゃん……お行儀悪いよう」
「お前だって、たまにやってるだろう。第一、時間がない」
「それは、そうだけど…」
 牛乳パックから直接飲む俺を見て、何故かひなたが頬を赤らめる。
「さて…」
 ひなたが小さく頷いた。
 新学期。
 この街での生活が、本当の意味で始まる……
 
 
                  プロローグ・完
 
 
 怒りにまかせて書き始めてみましたが、これスッごく長くなりますわ。(笑)
 前にも何かで書いたような気がしますが、途中で投げ出すっていうか、はらたいらに全部。(笑)
 まあ、続きを書けとせかされたら書きます……多分。

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