ご、おぉぉ〜ん。
 使い古された表現だが、いわゆるコンクリートジャングルって場所には相応しくない……どこか、穏やかで柔らかい響きに、俺は作業の手を止め、何とはなしに周囲を見回す。
 どうやらそれに気付いたのは俺だけではなかったのだろう。
 他にも何人かが手を止めており……しかし、途方に暮れたような表情を浮かべた者や、何かを耐えるように唇を噛んでいる者の存在が俺に疑問を抱かせた。
「あんちゃん、手を止めてる余裕はねえべ」 
「あ、すんません」
 隣で手を休めることなく作業を続けているおやじにちょっと頭を下げ、俺は疑問を振り払って作業を再開する。
「学生か、あんちゃん」
「あ、いえ…」
 こんな現場では、仕事に関係ない会話そのものが珍しい……だからというわけではないが、俺は少し戸惑いを覚えて口ごもってしまった。
「…まあ、そんな良い身分じゃないすよ」
「そうか…」
 何を感じたのか、それとも興味を失ったのか……そしておやじは、黙々と作業を続ける。
 不器用そうな太い指をしていたが、俺なんかよりよほど手際はよい。
「すまねえな」
「え?」
「若えのが珍しくてな、つい詮索するような事言っちまった…」
「……」
「儂みたいに歳食った連中で、年が明けてめでてえなんて思うようなやつは、こんなとこはいねえからよう」
 言い訳というより、自分自身に言い聞かせるようなおやじの言葉で、俺はようやくあれが除夜の鐘であることに気付いた。
 それと同時に、さっきの疑問に対する答えも……何となくわかってしまった。
 車の音、作業の音……それら全部が何かの拍子で止んだことで生じた隙間に、するりと忍び込んできた鐘の音。
 1年が終わり、新しい年があける。
 めでたいも何も、そのことに対する複雑な感情はおろか、そもそも今日が大晦日という認識が俺の頭にはなかったのだ。
 別に、正月だけじゃない。
 雨の日も、風の日も、どこかの誰かのために提供されるサービスが存在する。
 そして俺は、今夜サービスを提供する側に回った……ただそれだけのことで、日曜とか祝日とか、そういう概念が頭の中から消えて久しい。
 区切りのない生活ってやつは、時間の経過そのものを曖昧にさせるわけで……それはつまり、俺が区切りのない生活を始めてから長いという事でもあるのか。
 ただ、学校や仕事等の環境はともかく、テレビ番組、漫画などの雑誌……そうした決まったサイクルを刻むモノからも逸脱している生活を送っている事実は、俺自身の精神的な荒廃を意味しているのかも知れない。
 いや、実際……己の中の荒廃を自覚してもいるのだが。
 そうこうしてるうちに、交代の連中が作業を開始した……が、すぐにあがれるわけでもない。
 深夜12時まで……という決まりでも、1時間近く作業を延長させられる。
 それが、給料をピンハネするためなのか、作業が遅れているからなのかはわからないし、正直どうだっていい。
 2年前までならともかく……今となっては金銭にそれほど執着もなく、自分が生きていけるだけ稼げればそれで良いし、稼げなくなったらなったで、そこで終わればいいだけのことだ。
 
「いらっしゃいませ…」
 24時間営業とはいえ……深夜の2時を過ぎれば、やってくる客もほとんどいない。
 面倒くさそうによってきた店員の態度に腹を立てることもなく、カウンターの上に黙って食券を置いた。
 客は俺1人……30秒も経たずに、俺の目の前のカウンターに、ごとっとどんぶりが置かれた。
「お待たせしました…」
 ご飯を盛って、お玉ですくった具をかける……この前読んだ本に、『豚の餌を連想させる』などという表現が名誉毀損にあたるかどうかなどと書いてあったが、多分そういう表現をした人間も、それを問題とした人間も、人の食事は豚の餌であってはならないという考えがあるのだろうとしか俺は思わなかった。
 カウンターからドンブリをおろし、一応という感じに両手を合わせる。
 その仕草が、たまに奇異の目で見られることもあるが、多分死ぬまで俺はそれをやめないだろう。
「……ありがとうございました」
 店員の声を背中にうけながら、店を後にする。
 新しい年の始まった深夜……1人で、来るかどうかもわからない客を待つ仕事。
 あの店員が、その事をどう思っているかほんの少しだけ気になった。
「さて、と…」
 1つのびをして、歩き出す。
 2年前まで、こんなゆっくりした時間を過ごすことはなかった。
 1つ仕事が終わればすぐに次の仕事に……食事は移動中にとり、睡眠は、仮眠と仮眠を合計して1日に2時間から4時間。
 それが今は、仕事の掛け持ちはしないし、休みもあるし、普通に睡眠もとれるし……こんな風に夜空を見上げるようなことだってできる。
「……」
 曇りだった。
 星が見えなかった事に軽い落胆を覚えた自分に少し驚き……『別に、星が見たかったわけじゃない』そう呟いて、歩き出した。
 いつもこの時間帯の帰宅というわけではないが……家の窓から漏れる明かりが普段より多く感じるのは、やはり大晦日……いや、新年になったということか。
 時折、すれ違う人……たぶん、初詣なり、初日の出を見に行くのだろう。
 1月1日の朝日……それは、俺にとって1月2日の朝日と変わりなく、12月31日のそれとも変わらない。
 多分、時間の概念を失うということは……そうやって、あらゆる変化に対して鈍感になることであり、心の動きを制限してしまうことでもあるのだろう。
 だからといって、それをあらためようとは思わない……その方が楽だからな。
「……っ」
 足を止めた…いや、止まった。
 街灯の明かりの届かない裏路地に視線を向ける。
 何かが争っている音……ではなく、もがいている…のか。
 今日から新年。
 夜空を見上げたら星が見えなかった。
 何が、きっかけだったのだろう……俺は、いつもと同じ楽な一歩ではない、別の一歩を踏み出していた。
 
「……大丈夫…か」
「わ、私は……でも、貴方の方が…」
「どうってこと…ない」
「でも、血が…」
「……そういう意味じゃ、ねえ…」
「え?」
 戸惑ったような声。
 傷が、痛みが『どうってことない』のではなく、このまま死んだところで何の問題もないという意味の『どうってことない』だった。
 親はいない。
 唯一の肉親も、2年前に亡くした。
 知り合いもいない。
「そっか…」
 呟く。
 トラブルを予感しながら、いつもと違う一歩を踏み出したわけ。
「……死にたかったのかもな、俺は…」
「な、何言ってるんですか…と、とにかく、立ってください…」
 ぐいと、腕を引っ張られる感触。
 小柄、というわけでもないが、女が男を抱えるのはやはり大変なはずで。
「…かすり傷だ」
「血が出てるんですっ、今も」
「服が…汚れる…ぞ」
「このまま貴方をおいていけば、服じゃなくて私の魂が汚れます」
「くっ…」
 魂ときたか。
 この女、宗教かなんか……面倒系か。
「すぐそこに、私の…店がありますから」
「店…?」
 あったか、そんな…。
 急に、身体が重くなり、視界が狭まった…。
 これは…まずいかも……いや、良い感じ…というべき…かな。
 
「……」
 どうやら死に損ねたようだった。
 と、いうか……。
 身体を起こしてみたが、特に痛みもない……そもそも、死ぬとか生きるとかいうケガじゃなかったって事か。
 ほぼ暗闇だっただけに、想像力ってやつが色々働いたんだろう。
「と、すると…」
 俺は、別に死にたがっているわけではないって事か……。
「あ、お目覚めですか」
 視線をそちらに向ける……と、声から想像して当たっていたのは若い女という部分だけだった。
「世話をかけた…すまなかったな」
「そ、そんな…それはこっちの台詞です」
 頭を下げようとした俺を制止すべく、女が慌てて手と首を振る。
 スーツに身を包んでいるために上半身はともかく、細身でありながら女らしさを感じさせる曲線がパンツスーツのシルエットから見て取れた。
 髪はショート……おとなしそうなイメージを抱いていたが、スーツのせいもあってか、むしろ首から上だけなら活発そうに印象を受けた。
「今、何時だ…?」
「え?」
「いや、身体に痛みもないし…ひょっとしたら、長い間お邪魔したんじゃないかと思ってな」
「あぁ…」
 と、女は納得したように頷き。
「1時間も経ってないですよ…お礼もしたいですし、帰るなんて言わないでもうちょっとゆっくりしていってください」
「別に、礼をされるような事は…」
「したんです」
 俺の声にかぶせるように。
「……」
「貴方は、私を助けてくれたんです」
 そして、女はちょっと笑った。
「帰るって言っても、帰しませんし、帰せません」
「……そうか」
 と、ため息をつき。
「と、いうか…ここは?」
「私の店の控え室……というとちょっと語弊がありますね。雇われ店長なんです、私。オーナーは別にいて」
「……」
 何の店……と言いかけたが、少なくともこんな深夜を越えて営業してる店となると、ある程度は想像がつくというか。
 とはいえ、こんな若い女が雇われ店長……というあたりに、違和感はある。
 と、俺の沈黙をどう受け取ったのか。
「あ、何の店か興味あります?」
「いや、そういうわけじゃ…」
「何を隠そうこの店は、会員制の、秘密ク…」
「隠しとけそれはっ!」
 慌てて遮った。
 会員制に、秘密ときたよ。
 想像の斜め上というか……雇われ店長ってことは、さっきのトラブルもそっち関係の話って事は十分あり得る。
「……隠せと言われると見せたくなる。そんな私はちょっと露出の気が…」
「いやいやいや、秘密会員クラブってことは、部外者に見せちゃダメだろ。しっかりしろよ、雇われ店長」
「……部外者」
 呟くように。
「部外者だろ、俺は」
 女はちょっと首をかしげ……何か思いついたように。
「部外者じゃなければ問題ない?」
「聞けよ」
「いや、今ちょうど会員の空きが1つ出来ちゃってて」
 困ったわね…という感じに肩をすくめ、女はちらりと俺に向かって秋波を送ってきた。
「あのな…」
 まあ、からかってるだけなんだろうけど……なんで、俺みたいな素人が雇われ店長様に説明しなければいけないのか。
「秘密はともかく、会員制って事は、客を選ぶって事だろ?」
「うん、そう」
「だったら、俺みたいなのが会員になったらダメだろ……」
「さっきのお礼もかねて」
「〜〜〜っ!!」
「1年間限定会員。うん、こんなとこかな」
 何言ってんだこいつ。
 これで完璧、というようにうんうんと頷いている女にちょっと腹が立った。
「つーか、会員制って事は、会員になる事が客のプライドとかそういうのをくすぐるんだよ。そこに俺みたいなのがうろうろしてみろ、他の会員がみんな気を悪くするのは目に見えてるだろ、ちょっと考えてものを言え」
「……」
 きょとんとした表情で、女が俺を見つめている。
 まさか、気づいてなかったとか言うんじゃねえだろうな…。
「……若いくせに、随分としっかりした考えを持ってるのね」
 感心したように、とぼけたことを。
「アンタだって、俺と1つや2つしか変わらないだろっ!」
「え…」
 口元に手を当て、女が微かにほほを染めて恥じらった。
 意外な反応……というか、何か押してはいけないボタンを押してしまった気がして、俺はおそるおそる『おい…』と声をかけたのだが、女は頬を染めたまま何度も何度も頷き……いきなり顔を上げ、俺に向かって宣言した。
「決めた…絶対決めた。貴方を会員にするから。(雇われ)店長権限発動」
「だ〜か〜ら〜っ!」
 頭をバリバリとかきむしり……ふと首をひねった。
「……どうかした?」
「いや…頭とか殴られた割に、たんこぶとか打ち身の痛みもねえなあ、と」
「あ、興奮してても結構クール…ますます好み」
「はぁ?」
「そういうクールな人が、メロメロになっていくのを観察するのが、私は大好き」
 と、ぼうっと上気した顔で呟く女の目が、ちょっと妖しい。
「……」
「というわけで、雇われ店長……多分、私の天職」
「……じゃ、帰るわ」
「いやぁ、帰らないで帰らないで帰らないでっ!」
 がしっと、しがみつかれた。
「帰るって言うなら、ここの会員になるってサインしてから帰ってぇ」
「……お礼がしたいとか言ってなかったか?」
「うん、お礼したい。もう、熱烈に」
 こくこくと頷きながら、女。
「だから、このまま帰るとか言われるととても困るし、哀しくて泣いちゃいそう」
 何というか、必死というか……そこに、演技らしきモノは感じ取れない。
「で、会員になれば、このまま帰ってもいい、と?」
「本当は、お店の説明とかしたいけど、どうしてもと言うなら、サインした上でそのまま帰ってもらっても構わないわ」
「……わけわからん」
 つーか、俺の身なりとか見れば、金持ってるような感じはしないはずなんだが。
「大丈夫、この店、そんなに高くない」
「……それが高いか安いかを決めるのは、アンタじゃなくて客の方だろう」
「全ての会員様に、ご納得いただいてると自負ぐらいは持ってる」
「だから、その会員様と俺じゃあ、全然違うだろ、いろんな意味で」
 ため息をつき、女の目を見てから……俺は、手をこじ入れて女の腕を振り解こうとしたが、女が自分から放した。
「……お礼をしたいって、あんたの気持ちは正直嬉しい」
「……」
「でも、俺はこういうところにいていい人間じゃない。ついでに言えば、あんたを助けようと思ったわけでもない」
「だったら、何故?」
 それは、当然の疑問なんだろうが……俺を見つめる女の目は、何故か全てを見通しているような気がして。
「それは…」
「死にたかったから?いいえ、これ以上生きていたくなかったから?」
 半開きのままだった口を閉じ……首を振った。
「……わからん」
「生きていくことに、何の意味も見いだせない……それは、死ぬ理由にはならないわ」
「そうかも……な」
 女の視線から逃れるためにちょっと俯き、俺は……久しぶりに、愛想笑いというモノを浮かべた。
 態度と言葉で拒絶していれば、大抵の人間は興味を失って離れていく。
 でも、こんな風に……諦めずに踏み込んでくる人間に対してどういう対応を取ればいいのか、俺は学んでこなかったから。
「つまり、アンタは……俺を心配してくれてる…のか?」
「それは、いけないこと?」
 真面目で、優しい瞳。
 あの時まで、その存在を知ることもなかった赤の他人……。
「私が、あなたを心配するのは……いけないことなの?」
 何かが……全部ではないにしろ、自分の中で堅く凍り付いていた何かが、ほんの少しだけ融けた。
「……ありがとう」
 俺は、死にたかったのではなく……こうして、自分の事を心配してくれる誰かを待っていたのかも知れない。
「……って、ことは?」
「いいよ、あんたが会員になれって言うなら、なってみる」
「本当にっ!?きゃー、良かったーっ!」
 などと、女が文字通り飛び跳ねて喜びを表現する。
 ほんのついさっきまでうっとうしいと思っていたそういう態度が、何故か今は好ましく思える。
 ひょっとしたら、他に何か魂胆を持ってて、俺を騙そうとしているのかも知れないが……俺はもう選んでしまっていた。
 あの時、踏み出した別の一歩……それに続くもう一歩を。
「ねえっ、これから店の紹介をしていいっ!?ううん、始めるからねっ!」
 と、女が俺の腕を取った瞬間。
 ばんっ!
 まさに叩き付けるような勢いで、ドアを開けて飛び込んできた女。
「……ぁ」
 飛び込んできた勢いとは裏腹に、乱暴に開けたドアが気になったのだろう……女は蝶番を気にし始めた。
 首元の…タイというのか、それを除いて両肩をさらして、スカートは不自然に短い。
 まあ、やっぱり、そういう感じの店……なんだろうな、今更だが。
「どうしたの、玲香さん?」
「あ…」
 声をかけられて、当初の目的を思い出したのか。
 玲香と呼ばれた女は振り返って…。
「どうしたもこうしたも、店長の声、店の中まで響きまくってるよ。うるそーて、仕方ない…じゃなくて、お客様に失礼とちゃう?」
 呆れ半分、怒り半分……といったところか、女はちょっと俺の方に視線を向け、小さく頭を下げた。
 イントネーションが変というか、関西方面のそれを連想させたが……どうなのだろう。
「ああ、それなんだけど聞いてよ、玲香さん」
「だから、全部……ではないけど、聞こえてましたって店長」
 と、女が再び俺に視線を向け……もう一度頭を下げた。
「話がまとまるまで、邪魔に入るわけにもいかず…やきもきしましたわ」
「いや、そこは邪魔に入るべきだろ、客のためには」
 女は、玲香はちょっと顔を上げて……俺の顔をじっと見つめ。
「……恩人の前だから猫かぶってますけど、店長って、怒ると怖いんよ」
「玲香さん?」
 店長の語尾が微妙に上がる。
「……こんな風にな」
 と、玲香は軽くウインクを飛ばし、長居は無用とばかりに部屋からさっさと出て行った。
「えっと…私はみんなに支えられて、けなげに頑張る雇われ店長」
「いや、その弁明は逆効果だろう……つーか、みんなになめられたら店長なんか出来るわけない」
「あ、そう言っていただけると…助かります」
 
 店の中は、意外と明るかった。
 まあ、そういう店に通ったことはないが、金を稼ぐための怪しげな仕事の関係で、何も知らない子供というわけでもない。
 フロアの中央の巨大な噴水……を取り囲むように、ボックス席が用意されている。
 巨大な噴水もそうだが、室内装飾に金がかかっているのは一目でわかり……やはり、強烈な場違い感が俺を襲う。
 奥の方には、二階へと上がっていく階段が……って、ここ、今更だけど『秘密クラブ』なんだよな……と、少し腰が引けた瞬間。
「エッ〇なサービスは全くありません」
「……ないのか?」
 そう問い返すと……店長はちょっと頬を染め。
「あなたが望むなら…私限定で、少しなら…」
「いや、法律に挑戦するのとは、違う方向で…」
「自由恋愛」
「警察に捕まる連中は、みんなそういう」
「まだ、捕まったことはないから大丈夫」
「『まだ』って言葉が刺激的だな」
「……多分、これからも?」
「だからといって、不安をあおらないでくれ」
「冗談よ」
 くす、っと店長が笑い。
「この店は、ピュアな紳士がホストガールと、会話を楽しむお店」
「ぴゅ、ぴゅあ?」
「そう、あなたみたいな」
「お、俺のどこがピュアか?」
 潤んだような店長の目にどきっとして、ちょっとどもった。
「そういうところが」
「……」
「そんな顔しないで…ほら、あなたにもわかるんじゃない?そういう雰囲気が店の中にある?」
 店長がすっと、手を指し示す。
「まあ、確かに…」
 多かれ少なかれ、どこか崩れた雰囲気を感じさせるのが常だが、この店には奇妙なほどそういった……熱気のようなモノが感じられない。
「こんばんわ、セッちゃんをまた指名してくれてありがとう」
 ふっと、そちらの座席に目を向けた。
 なんというか……声の幼さが、この場にそぐわない気がしたからなのだが。
「……」
「気になる?あの子は雪(せつ)と言って…?」
 店長の首をつかみ、耳元で……ごく自然にドスのきいた声が出た。
「この店は、明らかに18歳未満の子供を働かせているのか?」
「ちゃ、ちゃいます」
「いきなり、怪しげな関西弁で否定するところが怪しい」
「雪は、正真正銘18歳以上です」
「……」
「人を、外見だけで判断するのって最低だと思うの」
「う…まあ、そうだな…悪かった」
 と、店長の首を放した。
「ふふふ、優しーんだ…ますますピュア紳士」
 などと脇腹を肘でつつかれる。
「そういうわけじゃ…」
 俺のそばを、黒服……も、女なのか珍しいな……が酒を持って通り過ぎていった。
「まあ、キャバレーというか、パブみたいなもんか…」
「そうね、そんな感じ」
「……」
「……」
 再び店長の首をひっつかみ。
「18?18歳って言ったかさっき?」
「ああ、間違えた。20歳っ、この店に勤める女の子は、全員20歳以上ですっ!」
「本当か、本当にそうなのかっ!?」
「うそだったら、私のこと好きにしていいから…んー」
 などと、目をつぶって唇を突き出してくるもんだから、俺は慌てて首を放した。
「……むー、ピュア紳士から、腰抜けに格下げを検討中」
 ちょっと恨めしそうに店長。
「そんな勢いでやっちまう方が、アンタには失礼だろ」
「……」
 するりと、俺の腕を抱くようにして、店長が背伸びして囁いてきた。
「多分、これが私の最後の恋」
「どんだけ惚れっぽいんだ、アンタ?」
「いやー、私これでもピュア淑女ですし」
 と、にこにこと微笑みながら。
「『これでも』ってこたあないだろ……別に、あんたが軽いとは思わないし、美人だし、言い寄る男だって少なくないんじゃねえの…?」
 あれ、また何かスイッチ押した感じが…。
「……私、生まれ変わっても、多分あなたに夢中」
 どこか、熱に浮かされたように店長がささやきかけてくる。
「俺は、生まれ変わりなんて信じてねえよ」
「……」
「……悪い、気にしないでくれ」
「いや、今のは私が……誰にだって、踏み込まれたくない部分があるもの」
 
 そして、フロアをぐるりと一周し……さっきの、控え室まで戻ってきた。
「……まあ、なんとなく、お店の雰囲気はわかったと思うけど」
「つーか、アンタの言う『ピュアな紳士』ってのはなんとなくわかる」
「……と、いうと?」
「いや、こういう店……って言える程知らねえし、そもそも客として通ったことなんか全くないんだけどな、酒とか飲んでるのに、この店って人の熱気みたいなものをほとんど感じないって言うか」
「んー、まあ、フロアが広いし、空調もしっかりしてるから」
 どこか曖昧に店長。
「で、多分気になってるであろう、お値段はこんな感じ…」
 と、メニュー表というか、ボードを差し出してきた性急さが、ほんの少しだけ気になったが…。
「……この店、大丈夫なのか?」
「い、いきなり何?」
「いや、店の2階の部分には敢えて触れないけどよ……女の子指名して、一回延長して、一番高い酒とつまみを注文して3万ちょっとって、フロアの座席数からしても人件費だけでやばくねえか?」
「……ちなみに、二階はVIP席」
「なるほど」
「……」
「……」
「違うもんっ、エ〇チなサービスなんかしてないもん」
 などと、俺の沈黙をどう受け取ったのか、店長が慌てて否定する。
「あ、いや…俺、本当にここの会員になって良かったのか」
 隠さなきゃいけない部分があるとしたら、俺の存在はリスク以外の何ものでもないような…。
「全然問題なし」
「アンタに、迷惑をかけたくない……いや、真面目に言ってるから、目を潤ませるな」
「迷惑も何も、私はあなたがこの店で楽しんでくれたら、それで満足だから」
「……さっき見せた値段、特別とか?」
「ううん、他の会員と同じ」
 何かあったら、俺がここに来なければよい……それだけだ、と頷く。
「……わかった」
「じゃあ、後は女の子の指名だけど…」
 と、さっきの値段表とは別のボードを持ち出そうとする店長に。
「あんたが相手してくれるんじゃないのか?」
 ごとっ。
 顔を赤くした店長は、テーブルと床にぶちまけたボードを拾い上げるでもなく、ただじっと俺の顔を見つめて。
「私、7回生まれ変わっても、あなたに尽くそうと思うの」
「いや、人生は一回きりだから……つーか、本気だとしたら、アンタのツボが俺には良く理解できん」
「あなたがそういってくれるのは嬉しいけど、私はどうあがいても雇われ店長だから、ホストガールにはなれないの……だから、ここから選んで」
 と、テーブルやら床やらから拾い上げたボードを、ずらっと並べるあたり、俺の話を聞いているのかいないのか。
「まあ、選べって言うなら、一番人気のないやつでいいよ」
 人気のあるキャストを選んだら、店にとっては迷惑だろうし…。
 ぺち。
「……」
 俺の額を叩いた店長を見つめる。
 決してふざけているわけではない、真面目な表情だった。
「あなたが私に使ってくれた気を、他の子にも向けてあげて」
「……と言うと?」
「多分あなたは、人気のあるホストガールを自分が選んだら、店にとって都合が悪いだろう……だから、あんまり関係なさそうなホストガールにしておこう……そんな風に考えた、違う?」
「いや、まあ、その通りだ…」
 どこかおかしかっただろうか?
「あなたに選ばれたホストガールが、その理由を知ったらどういう気がするかしら?」
「……ぁ」
「何度も言うけど、ここは、ピュアな紳士が、ホストガールと楽しいひとときを過ごすためのお店」
「……」
「あなたがこだわっている、お金持ちかどうかなんて事より、ホストガールのことをきちんと考えてあげられる紳士であることのほうがよっぽど重要……この店の会員になる資格に、それ以外は必要ないといっても、過言ではないわ」
 店長の言葉が、胸にしみた。
 別に特別なことを言ってるわけでなく、それは当たり前のこと。
 その当たり前のことが、いつの間にか出来なく……いや、考えられなくなっていた。
「消去法でもなく、選ばされるのでもない……あなた自身が考えて、あなた自身が選ぶの。それでこそ、ホストガールは選ばれた自分に誇りを持っていられる」
「ああ、わかった…」
 と頷き……俺は目の前に並べられた10枚のボードに目を向けた。
 顔写真と名前だけ。
 それ以上のことは、これからお互いに知り合っていけばいい……そういう事なのか。
 そして、俺は一枚のボードを選んで店長に差し出した。
 
「俺は、この人を指名するよ…」
 
 
                  完
 
 
知 人:『高任さん、もう『どうしようもない』チョコキス啓蒙運動なんか放っておいて、こっちに力を貸してくれよ……っていうか、なんか書いてくれよ』
高 任:「ようし、覚悟は出来たか、このクソ野郎。後悔するなよ…」
 
 ……などというやりとりがあったら、ネタになるんでしょうが。(笑)
 いえいえ、ただ書いてみたかっただけですよ。ええ、前からそう思ってました。
 いえいえ、作品はもちろんキャラクターに罪はありませんからね。
 真面目に書きますよ……高任なりに、というか、高任テイスト全開でな。
 まあ、店長をヒロインにするのはだけは勘弁してやるが……というわけで、覚悟してください。 

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