「おはようございます」
「……侘助か」
「あれ、みなさんまだですか?」
 と、たんぽぽは稽古場に視線を走らせた……が、あらためて確認するまでもなく、稽古場には鬼百合1人だけ。
「みんなはもう、それぞれ稽古に出かけた。お前が最後だ」
「……あの、私、講義が終わってダッシュでやってきたんですけど?」
「時間割は学部によって違うし、個人個人で決めるモノだ……それ故に、みんなそろって稽古を始めるという形は大学では取りにくい」
「なるほど」
 たんぽぽは頷いた。
「佐萌道と豆斯波は、雛菊に案内されて山に入った……決まったコースというわけではないが、ランニングに使える道を教えておかないと迷子になる可能性があるからな」
「なるほど」
「マイは、おそらく……川の橋の辺りにいるだろう。三ツ葉黒は、裏山の中腹、見晴らしの良い丘の辺りにいるはずだ」
「はぁ、みなさんホントにバラバラに稽古するんですね…」
 新歓コンパの時にあらためて説明を受けたが、いわゆる、みんなそろっての全体練習は日曜日のみ。
 それ以外は、各自がそれぞれ独自に己を鍛え上げる……自己練習の繰りかえし。
「私は、侘助が稽古を始めるのを確認してからみなの様子を見て回るが…」
「あ、じゃあ私も、最初は先輩方がどういう稽古をしているか、見物して回ります」
「そうか。なら、私についてこい」
「はいっ」
 
「……あの、何故こそこそしてるんですか?」
「それとなく見守るのが私のやり方だ」
「……なるほど」
 木陰に潜み、鬼百合とたんぽぽは三ツ葉黒の様子をそれとなく見守った。
 日当たりの良い場所に座り込んで、携帯ゲームをかちゃかちゃと……。
「……ゲームしてますね」
「そうだな」
「……いいんですか?」
「私の求める姿とは違うが、三ツ葉黒はいわゆる天才だ。才能に関して言うなら、私よりも遙かに上だろう」
「…そうなんですか?」
 鬼百合はたんぽぽをちらりと見て。
「ふむ、お前なら、こう言った方が実感がもてるかも知れないな」
 と、前置きしてから。
「子供の頃、私はミズキに負けた」
「えっ」
「声が大きい」
「す、すみません…」
「ミズキに負けたことが悔しくてな、私は雪相撲の稽古に打ち込んだ……ジュニア、高校と、負けを知らずにいられたのは、アレのおかげだ」
「……じゃあ、三ツ葉さんも、ずっと女雪相撲を?」
「いや、ミズキはやらなかった……ゲームと漫画とアニメと、たまにふらっと私の試合に来て応援してくれたがな」
 そう呟く鬼百合の目が優しい。
「……じゃあ、大学から?」
「……まあ、今ひとつ実感をもてないのは理解できるが、ミズキは天才だ。あれが私と同じように女雪相撲に打ち込んでいたなら、私は全国優勝はおろか、全国大会にすら出られなかったかも知れん」
「ほぁ〜」
 たんぽぽが感心したように三ツ葉黒に視線を向けた。
 鬼百合はそんなたんぽぽの様子に苦笑を浮かべながら、言葉を足した。
「とはいえ、ミズキが雪相撲の稽古に打ち込んだなら、天才は天才で無くなかったかも知れんがな」
「……どういうことですか?」
「100の力を持たせる稽古をさせたなら、50や60の力を持つ者を100に近づけることはできる。しかし、200の力を持つ者にとっては、むしろマイナスだ」
「……」
「中学、高校と……ミズキを理解し、それにふさわしい稽古をさせることができる指導者と出会えたかどうか……正直、私は疑問だ」
「……なるほど」
 頷くたんぽぽの肩を叩いて、鬼百合は立ち上がった。
「次に回るぞ」
「はい」
 
 マイの海は、川の中に入ってじっと水面を見つめていた。
「……あれは何を?」
「興味があるなら、聞いてこい」
 たんぽぽが鬼百合を見た。
「私は、見守る」
「……では、ちょっと行ってきます」
 頭を下げ、たんぽぽはマイの元へと走っていった。
「マイさ〜ん」
「あら、侘助さん」
 顔を上げ、微笑む。
「それは、なんの稽古ですか?」
 たんぽぽの問いかけに、マイの海はちょっと困ったように言った。
「んー、『なんの稽古か?』と問われると難しいですね…」
「え、えっと…じゃあ、何をしてるんですか?」
「魚を捕ってます」
「……道具は?」
「素手ですが?」
「……」
「……信じてませんね?」
 マイはちょっと笑って、水面に視線を向けた。
「……」
「……」
 きらっ。
「ふっ」
 マイの右手が閃き、水面から水糸が伸びた……。
「……この通りです」
 と、指先につかんだ魚を、マイの海はたんぽぽに見せた。
「うわぁ」
 たんぽぽは子供のような表情を浮かべ。
「わたし、私もやってみていいですか?」
「どうぞ……足を滑らせないように気を付けて」
「はい……うあぁっ、冷たっ」
「あんまり騒ぐと、魚が逃げますよ」
「は、はい……っていうか、結構流れがキツイし…水苔でヌルヌルする…」
「バランスと、足腰の鍛錬にもなります」
「なるほど」
 と、たんぽぽは目を輝かせ……川の流れを目を向けた。
 川の流れに逆らって、中腰の体勢……なかなかにきついはずなのだが。
「……ひっくり返るのを、少しばかり期待したんですが」
「え、何か言いました?マイさん?」
「いえ、何も」
 にっこり。
 微笑むマイの左手の小指と薬指には、テーピングが巻かれている。(笑)
 もちろん、たんぽぽとの取組で負傷したアレだ。
「ていっ」
 ざぼっ。
「うああああぁっ、やば、やばやば…」
 バランスを崩しかけたが、たんぽぽはなんとか立て直した。
「惜しい…」
「惜しくないですよぉ。動きが遅すぎて、魚の影すらつかめませんでした」
「……魚を捕らえる、という感覚ではなく、相手の雪力士に技を仕掛けるという心持ちでやってみなさい」
「え、技を仕掛ける…ですか…んーと」
 水面を見つめるたんぽぽの表情に迷いが見えた。
「あ、ごめんなさい。まずは、侘助さんが思うようにやってみた方がいいわ」
「あ、は、はい…」
 ざぼっ。
 どぼっ。
 ばちゃっ。
「んー、違うな…さっきのマイさんは、もっとこう…水を切るような…」
 ぶつぶつと呟きながら、たんぽぽが集中を始めた。
 水に向かって、ではなく、空中に向かって腕を振り……肩の力が抜けていく。
「マイ」
 背後から声をかけられ、マイの海は振り返った。
「鬼百合関…」
「……もう、聞こえてないだろう?」
「そのようですね……正直、ひっくり返って、ずぶぬれになってくれるのを期待したんですが」
 と、マイの海が微笑み。
「それはともかく、あからさまに精神的にムラがありますね…」
 すぱっ。
 たんぽぽの右手が、水の糸を引いた。
「…うん、この感じ……次は左手で…」
 ぱちゅっ。
「…違う…こうきて…こう…」
 ぴしゅっ。
「……」
「……」
「侘助は、マイという手本を目で見た。同じ条件ではない」
「アレができたとしても、魚が捕れるとは限りませんし」
 にっこり。
「……お前は1日でできたが、私は3日かかったぞ」
「それは、鬼百合関が稽古のつもりではなかったからでしょう?」
「私にとってはけーこさんの命令にすぎなかったが、マイはこれを稽古まで昇華させた。日々の生活そのものを、女雪相撲に結びつけることができる……私にはその発想もなかった」
 鬼百合は、少し目を細めて笑った。
「自分の視野の狭さを思い返して、恥ずかしく思う」
「わかった!」
 突然たんぽぽが大声を上げ、鬼百合とマイの海の2人はびくっとした。
「これ、この動き、ビンタだ。ビンタなんだぁ…」
 鬼百合とマイの海が顔を見合わせた。
「……斬新な捉え方だな」
「侘助さん独特の感性でしょうね」
「そっか…腕の力を抜いて…ムチのように…」
 なおもぶつぶつと呟きながら、たんぽぽはあらためて水面と向かい合った。
「……」
 鬼百合とマイの海の2人も、固唾を呑んでたんぽぽを見守ったのだが……唐突に、たんぽぽの集中が解けた。
「マイさん、魚がいないです」
 と、振り返る。
「……」
「……」
「うわあ、鬼百合さんっ!見守ってるんじゃなかっ…う、わっ…たっ…」
 ざっぱーん。
「ひいぃぃぃっ」
 自分の身体を抱えるようにして、たんぽぽは慌てて川からあがった。
「……良かったなマイ。侘助のやつ、ずぶぬれになったぞ」
「良くも悪くも、こちらの期待を裏切ってくれますね…」
 マイの海は、苦笑しつつ答えた。
 
「あうううぅ…ひどい目にあった」
「勝手に滑って転んだだけだろう」
「まあ、それはそう…ですけど」
「どうだ、少しは暖まってきたか?」
「はい」
 ちなみに、山の中を走りながらの会話である。
「それにしても、いいコースですね」
「ああ、適度に起伏に富んでいて、下も柔らかいからな……膝への負担も少ない」
「走ると体重の3倍の力がかかるとかいいますよね」
「そうだな…ん?」
「どうしました?」
「いや、雛菊達がいたんだが……どうした?何かあったのか、雛菊?」
「あ、鬼百合関…」
「鬼百合さん…に、ワビさんも」
「……もうだめダス…だるいダス…膝と腰が、痛いダスよ…」
「佐萌道が、コース案内の途中で動けなくなってしまって…」
「むう、そうか…」
「サモちゃん?大丈夫?」
「大丈夫じゃ…ない…ダス…」
「んー、じゃあ、私が担ぐから一緒に戻ろ?」
「担ぐってワビさん。サモさんの体重って…」
「んー、柔道部の男子とかかついで階段登りしてたし、歩くぐらいならなんとかなるかなぁ…」
 と、たんぽぽは息も絶え絶えの佐萌道を抱え上げ……背中に背負った。
「う、うわ…さすがに…きつい」
「侘助さん…乙女に対してそれはないダスよ…」
「あ、あぁ…ごめん…サモちゃん…でも、ダイエットしなきゃ…ダメだよ」
「……」
 佐萌道を背負って歩き始めたたんぽぽを呆然と見つめる豆斯波にちらっと視線を向け……しかし何も言わず、鬼百合はたんぽぽに声をかけた。
「大丈夫か、侘助?なんなら、代わるぞ?」
「大丈夫です…稽古にもなるし、サモちゃんの身体、ものすっごく暖かいんで」
「カイロがわりか」
 と、鬼百合が苦笑を浮かべる。
「……?」
「ああ、さっき侘助のやつ、川で転んでな」
「マジっスか?」
「道理で。侘助さんの背中、冷たくて気持ちいいダスよ…」
 
「では、あたし達は稽古に戻ります」
「わかった。佐萌道のことはこっちに任せておけ」
「はい」「うっス」
 と、雛菊と豆斯波の2人が稽古場を出ていった。
「……さて、大丈夫か佐萌道?」
「水分補給して、人心地ついたダス……散歩みたいなものだと油断してダスが、山を舐めちゃいかんダスな」
「う、うむ…」
 そういう問題ではないのだが、と鬼百合は心の中で呟いた。
「鬼百合さん」
「なんだ、侘助?」
「雛菊さんとシバちゃん、これから走り込みを中心に基礎練習するらしいんで、私も一緒にやってきます」
「そうか、わかった」
 鬼百合が頷いてやると、たんぽぽはにこっと笑って稽古場を飛び出していった。
「……佐萌道」
「なんダスか?」
「水分補給……しすぎじゃないか?」
 ちょっと目を離した隙に、佐萌道は1.5リットルのペットボトルの2本目に散り掛かっているではないか。
「人の身体の60%は水分ダス。ワシの体重は約150キロ……つまり、90キロは水分ダスよ。つまり、ワシの水分補給は、体重が60キロの人間に比べて、2.5倍の量が必要になるはずダス」
「ん、む…?」
 このとき、鬼百合は初めて、佐萌道に対してそこはかとない不安を覚えた。
 
「雛菊さん、シバちゃん」
「ん、侘助か…」
 と、雛菊は侘助を見て小さく頷いた。
「あれ?ワビさん、鬼百合さんと一緒に稽古してたんじゃないっスか?」
「やだなあ、シバちゃん。鬼百合さん、主将としてみんなの稽古の様子を見て回るから、誰か1人について稽古を付けることはしないって言ってたじゃない」
「あぁ、付いて回ってたスか?」
「うん、みんながどこで稽古してるかの道案内も含めてね」
「……ってことは、今日は一緒に稽古するっスか?」
「三ツ葉さんはずっとゲームしてたし、マイさんは……今日はもう、川で転ぶの嫌だし…やっぱり、基礎から始めようかなって」
「なるほど」
「と、いうわけで…よろしくお願いします、雛菊さん」
「ああ…アタシと一緒に稽古するからにはサボるなよ」
「はいっ」
 たんぽぽは元気良く答えたが、豆斯波は少し納得がいかない様子で雛菊を見つめた。
「じゃあ、まずはランニングだ……豆斯波にはさっき案内したから、侘助はアタシたちの後を付いてこい」
「はい、わかりました」
「じゃあ、準備運動を……起伏に富んだ山道だからな、足首の柔軟は念入りにやっておけよ」
 準備運動をすませて、ランニング開始。
 雛菊の後に豆斯波が、その後にたんぽぽ。
 雛菊はちらりと後ろの豆斯波を見た。
「…さすがだな」
「何がっスか?」
「いや、このペースに普通に付いてきていることがだ」
「まあ、自分、足は速いほうっスから」
「そうか……なら、遠慮せず『いつもの』ペースで走るぞ」
 ぐっと、雛菊がペースを上げた。
「…このぐらいなら、なんとか」
 そして豆斯波は、後ろを見る。
「ん?」
 にこにこと、息も乱さずに付いてくるたんぽぽが、『どうしたの?』という感じに首を傾げた。
 そして、コースの終わりが近づいて、豆斯波が少し速度をゆるめた。
「……雛菊さん?」
「4周だぞっ」
 怒ったように雛菊。
「よ、4周っスか?」
「1周1周、少しずつコースを変えるからなっ!遅れずに付いてこいっ!」
「……ちょっとキツイっすね」
 と、豆斯波が何となく後ろを振り返ると。
「ん?」
 にこにこと、息も乱さずにたんぽぽが首を傾げる。   
「……ちょくちょく、ムカツクっス」
「え、何が?」
「何でもないっス!」
 豆斯波は、少し開いた雛菊との差を詰めるべく、速度を上げた。
 
「次は坂道ダッシュだっ!この坂を上りきったところに小さなほこらが…」
「雛菊さん、これは坂じゃなくって、崖って言うと思うっス」
「アタシが坂と言ったら、坂だーっ!」
「まさか、ワビさんより先にっ」
 ぱぁんっ。
「……今、シバちゃんが、ひどいこと言った」
「豆斯波の心配ぐらいしないかーっ!」
「ええっ、雛菊さんがそれを…」
「こうだーっ!」
 ぱぁん。
「……」「……」
 豆斯波は、これから走ってのぼることになった坂を無言で見つめ、たんぽぽはさっきの雛菊のビンタを思い出しながら、ああでもない、こうでもないと、手を振っている。
「とりあえず、10本だっ!降りるときは、ここじゃなく、回ってくるからな」
「はい」「うっス!」
「じゃあ、いくぞっ!」
 と、雛菊の小柄な身体が、坂を駆け上がっていく。
 坂道の幅は、ようやく2人が通れるほど……おそらくは、雛菊の稽古によってできた道なのだろうと、豆斯波は悟った。
「おっ、シバちゃん、速い…」
「自分、長距離より、短距離の方が得意っスから」
 どっ、どっ、と、足場から足場へと、器用に跳ねるように駆け上がっていく豆斯波の姿は、とても初めてとは思えない。
 対照的に、たんぽぽは苦戦していた。
「おわあぁぁーっ!足場がっ!」
「ワビさんっ!ちゃんと足下を観察するっス!」
「か、観察って言っても…」
 たんぽぽはあらためて坂を見つめたが、よくわからない。
「侘助ーっ!さっさとあがってこいっ!」
「はいっ、今行きます…おりゃあぁぁ」
 勢いを付けて、滑る足下もなんのその。
 たんぽぽは、後数歩でてっぺんという地点までたどりついた……が。
 つるっ。
「あぁぁぁーっ!」
「ワビさんッ!」「侘助っ!」
 心配するふたりをよそに、たんぽぽは全身土まみれで立ち上がった。
「大丈夫です。コツはつかみましたっ!」
 と、再び坂道にトライ。
「あ、足場も何も関係ないっスね…」
「力任せにのぼろうとしても無理なんだが…」
 だがそこは、無理を通してきたたんぽぽである。
「とりゃっ」
 てっぺん直前で、前方に大きくジャンプ。
 そのまま転がるようにして、てっぺんへたどりつくことに成功する。
「お待たせしましたっ!」
「……侘助」「ワビさん…たぶん、間違えてるっスよ?」
「え?」
 全身泥だらけになったたんぽぽは、不思議そうに首を傾げるのであった。
 
「ひ、雛菊さん…いつも、こんなことやってるっスか?」
「当然だっ!」
 と、雛菊は頭上に持ち上げた岩を、足下に落とした。
「あたしは、お前達と違ってなんの実績もない。稽古するしかないんだっ!」
「自分も、それなりに厳しい稽古は積んできたつもりっスが…」
 豆斯波が、持ち上げた岩を落とした。
「……キツイっス」
 雛菊は、豆斯波をちょっと見つめ。
「アタシがいた学校は、弱い部員はろくに練習もさせてもらえなかった……アタシは、こうやって思う存分稽古できることが嬉しい」
「そっスか……自分の学校は、割と少数精鋭で、設備にも恵まれていたっスからね。強い部員だけに稽古を集中する学校が珍しくないのは、知ってるっスよ…」
 豆斯波はちょっと笑って。
「まあ、『アレ』は宇宙人っスね」
 と、宇宙人であるところの『アレ』に目を向けた。
 雛菊もつられて、そちらを見る。
「こ、これ、すごく負荷がかかる……良いトレーニング見つけちゃったぁ…」
 などと、たんぽぽは岩を抱えて、坂道を駆け上がろうとしていたりする。
 いや、実際に駆け上がっていたりする。
「……豆斯波」
「うっス」
「お前は、何故大輪女子大に来た?」
「……どういう意味っスか?」
「侘助が、ここに来るのはわかっていたことだろう?」
 雛菊の、たんぽぽを見る視線は、やはり厳しい。
 それが、新入生の教育係だから……という理由だけでないことは、薄々豆斯波も気付いていた。
「……自分、どんな目で、ワビさんを見てるっスか?」
 雛菊はちょっと目を閉じ、呟くように言った。
「お前は、侘助が嫌いで、憧れているんだろう?」
「自分の気持ちを他人に断定されるのは、ちょっと不愉快っス」
「そうか。悪かった…」
「よおぉし。今度は岩を2つ抱えて…突撃〜♪」
 お気楽……としか思えないたんぽぽの様子に、雛菊はちょっと口元を歪めた。
「自分は、ワビさんに勝つために、ここに来たっスよ」
「……あたしは、『花畑たんぽぽ』を好きにはなれない。でも、侘助は可愛い後輩だと思いたい」
「……あの人、宇宙人っスからね、こっちが色々考えるだけ無駄かも知れないッス」
 雛菊が目を開け、豆斯波を見た。
「……お前は、侘助に…『花畑たんぽぽ』に3度負けても、女雪相撲を諦めなかったんだな」
 豆斯波と雛菊の視線が絡まり……豆斯波の方からそれを解いた。
「自分、女雪相撲しかないっスからね……それしか、価値がないんスよ、自分には」
 そう呟いた豆斯波の横顔の暗さに、雛菊は息を呑んだ。
「おああああっっ」
 雛菊と豆斯波がびっくりしてそちらに視線を向けると、ちょうどたんぽぽが、岩を抱えたまま転がり落ちてきたのだった…。
 
「……安全面で多少問題が…」
「まあ、ケガがなくて何よりっス」
「ありがと、シバちゃん」
「さて…次は何をやるかな」
「と、いうか…そろそろ暗くなってきたっスよ、雛菊さん」
「そうだな…」
「締めの練習なら、いいのがあります」
 と、たんぽぽが手を挙げた。
「バランス的には走り込みか…」「足下が暗いから、山道は危険じゃないっスか?」
「あれぇっ!まさかのスルー!?」
「侘助、お前……さっきのアレを忘れたのか?」
「いやいや、違いますよ。思いつきじゃなくて、高校の時、みんなでやってた練習ですって」
「ほう…」
 たんぽぽの個人練習ではなく、部員みんなでやっていたというなら、それほど無茶なモノではあるまい、と雛菊は興味を持った。
 そして、それは豆斯波も同様で。
 
「じゃあ、山登り、入ります。1合目っ!」
 たんぽぽの合図にあわせて、3人がダッシュ。
 決めた地点で折り返して戻ってくる……いわゆる、往復ダッシュというやつだ。
「……7、8,9,10。2合目っ!」
 10秒のインターバルを挟んで、再びダッシュ。
 さっきと違うのは、2往復であることのみ。
「……7,8,9,10。3合目っ!」
 ダッシュしながら、雛菊は考えていた。
 10秒のインターバル(5合目からは20秒)も含め、この練習は悪くない、と。
 ただ、ラストに向かって負荷を上げ続けるというのはあまり良くないかも知れないな……とも。
「……17,18,19,20。8合目っ!」
 8往復の途中で、さすがに豆斯波が遅れ始めた。
「…19,20。頂上に向かって、10合目っ!」
 1往復、2往復……。
 豆斯波はさておき、雛菊は力を振り絞ってたんぽぽを追った。
『激しい稽古に耐えられるというのは、立派な才能だ』
 鬼百合の言葉を思い出す。
『お前は体も小さい。実績もない。だからといって女雪相撲を諦める理由にはならん。お前には激しい稽古に耐えられる才能がある。自分に自信がもてないと言うのなら、己を支えることのできる稽古に打ち込め』
 8往復、9往復。
 雛菊は、一歩先を行っていた、たんぽぽをとらえた。
「……だぁっ!」
 ほんのわずかな差、だが、雛菊はたんぽぽより先にゴールした。
 全国大会3連覇のスターに対して、自分は、強豪でもない高校の団体メンバーにも選ばれなかった補欠選手。
「雛菊さん…ラスト、速かった、ですね…」
「……まあな」
 肩で息をしているたんぽぽに悟られぬように、雛菊は必死に呼吸を抑え込みながら答えた。
 自分の稽古は間違っていない。
「シバちゃん、ラスト。頑張って…」
 たんぽぽは、遅れている豆斯波に声をかけ……大きく深呼吸を始めた。
 2度、3度……見る見るうちに呼吸を整えるたんぽぽを見て、雛菊は気付かれないように深く速く呼吸する。
「……死ぬっス」
「ああ、急に止まっちゃダメ…ほら、歩いて…」
「いや。自分は、もう、動かないっス、から…」
「うん、ちゃんと限界まで出し切ったみたいだね……後輩とか、たまに手を抜く子がいたんだよね…」
「稽古は、自分の、ために、するっス…」
「うん。シバちゃんは、下りはお休みだね」
「……下り?」
 雛菊は、呼吸を整えるのに必死で、その不吉な言葉を聞いていなかった。
「じゃあ、雛菊さん。山下り、入りますよ」
「……なんだ、下りって?」
 まだ荒い呼吸を押し殺しながら、雛菊が問うた。
「やだなぁ、雛菊さん、山に登ったら、降りないと家に帰れないじゃないですか」
「……そうだな」
「ど、どーしたんですかっ、雛菊さん!森〇一みたいな、ひっくい声出してっ!?」
「な、なんでも、ない…」
「声が震えてますけど、何か…」
「いいから行くぞっ!」
「は、はいっ!山下り入ります、10合目っ!」
「わかってたけど、やっぱり10合目からかっ!」
 ぱあんっ。
「い、今のはわかりませんっ!何でビンタなんですかっ!」
「まさかと思うがっ、10合目の次が11合目とか言うんじゃないだろうなっ」
「ち、違いますよ…あくまでものぼっただけ下ります、のぼるときに20合目までいけば、下りるのも20合目からで…」
「ラストに向かって負荷を下げていくっ!良い稽古じゃないかーっ!」
「ど、どすこいっ?い、いまのはお褒めのビンタ?」
 頑張れ雛菊、後55往復。(笑)
 
 
「うあ、雛菊さん…胸大きい…柔らかい…」
 妖しいシーンではない。
 動けなくなった雛菊を、たんぽぽが背負っただけである。
 背中に当たる感触は、たんぽぽの経験にないモノだった。
「小柄で、可愛くて、胸まで大きいって……いいなあ」
 ちなみに、鬼百合は…背が高くて、美人で、足が長くてスタイル抜群。
 鬼百合と雛菊の共通項から、たんぽぽのコンプレックスがちょっとばかり透けて見えるかも知れない。(笑)
「……で、シバちゃんを重ねて……重いけど、サモちゃん1人の方が重いんだよね、これって」
 と、気を失ったように眠ってる豆斯波を、背負う。
 とはいえ、たんぽぽはたんぽぽで、きっちり稽古を積んだ後だから、多少膝が震えた。
「あぁ…今日は、良い稽古できたかも…」
 2人を背負って、1歩1歩ゆっくりと、稽古場に向かって歩き出すたんぽぽ。
 
 さて、その頃稽古場では。
「たーだいまー」
「戻ったか、ミズキ」
「んー、バッテリーが切れた」
「そうか」
「つーか、こそこそ見回りに来んなよなー、小百合」
「ほう、気付いたか?」
「気付くも何も、侘助がうるせーって」
「ミズキはシャイだからな。見られていては、稽古ができないか」
「はー?わけわかんねー。アタシが稽古なんかするか、バカ」
 と、三ツ葉黒はさっさとシャワーを浴びるため、更衣室へと姿を消した。
「ただいま戻りました、鬼百合関」
「マイか」
「少し、物足りない感じです」
「まあ、左手の怪我が治るまではおとなしくしていろ」
「はい」
 そして鬼百合は、マイの海が見てる前で四股を踏み始めた。
「……」
「……何だ?」
「いえ、いつもより足の位置が高いのは、侘助さんの四股を意識しているのかな、と」
「していないというと、嘘になるな」
 そう言って、鬼百合は足を上げ……そこで止める。
 たあぁーん。
「見惚れます」
「右はいいんだがな…」
 と、鬼百合は左足を上げ……止めた瞬間、かすかにバランスを崩した。
 たーんっ。
「……侘助の四股は、両足ともに、見事なモノだった」
「……綺麗でしたね」
「四股に比べると、土俵の上の動きは、バタバタしている感じがするな」
 
「……こ、これはどういう状況だ、侘助っ?」
「あ、目が覚めました?雛菊さん」
「お、おろせっ」
「や、もうすぐですし」
「いいからっ…って?」
 雛菊は、自分の背中の重みに気付いて肩越しに振り返った。
「豆斯波?」
「シバちゃん、休憩中に眠ちゃったみたいで」
「起きてるッス」
「そっか。後で、マッサージしてあげるね、シバちゃん」
「……いいんスか?」
「いいもなにも、普通でしょ?」
「自分、情けないっス……稽古に付いていけないなんて」
「何言ってんの、シバちゃん、稽古っていうか、基礎トレーニングは、自分の身体に負荷をかけるためにするもんなんだから、付いていくとか関係ないよ」
「……おい、あたしを挟んで会話するな」
「ワビさんは、家に帰るためにまた走って、寝る前にも走るっスよね?」
「……無視か」
「だからシバちゃん。稽古なんて、長くやればいいってもんじゃないよ?私だって、ちゃんと負荷をかけられるなら、さっさと終わりたいよ」
 そうたんぽぽが言うと、豆斯波が驚いた。
「そうなんスか?」
「私、好きで長く練習やってるわけじゃないよ?自分で言うのもなんだけど、結構鍛えちゃったからさ、負荷をかけようとすると、長くなっちゃうの。激しすぎる稽古は、怪我しちゃうからね」
「……怪我が怖いのか、侘助」
「…はい」
「……そうか」
 それきり雛菊は何も言わず、たんぽぽに背負われたまま稽古場につくまでおとなしくしていた。
 
「どうかしたか、雛菊?」
「鬼百合関……少し、稽古について考えようと思います」
「ほう?」
「侘助のやつが言ったんです。『基礎トレーニングは、自分の身体に負荷をかけるためにするモノだ』と。『負荷がかけられるならさっさと終わりたい。でも、負荷がかけられないから長くやるしかない』って…」
「……うむ」
「あたしは……稽古の量や時間そのものに、いろんな意味で頼りすぎていたかも知れません」
 鬼百合はしばらく雛菊を見つめていたが……やがて口を開いた。
「雛菊。お前は、侘助に何か含むところがあるのか?」
「………申し訳ありません」
「そうか、話したくないなら、無理に話せとは言わん」
「……侘助を見ていて、わからなくなりました」
「……」
 変に言葉をかけず、鬼百合はただ雛菊を見守った。
「あたしは、鬼百合関や侘助と同じ、西東京地区の出身です……侘助が1年の時の、地区予選……鬼百合関の妹さんと侘助の取組を見ていたんです」
「……そうか」
「あの日、あたしは…見たはずなんです」
「何を?」
「侘助の…『本気』をです」
 
 
続く
 
 
 山、下ります!
 もう、この台詞を聞いたときの新入部員の表情ったら。(笑)
 当然先輩連中は、山登りの9合目、10合目などで『ほら、ラストラスト。出し切れ』などと、さりげなく意識を誘導するのですが。
 ちなみに、たまにフェイントで『11合目っ』とか始めると、『まだ半分終わってない…』という絶望の表情があちこちで…。
 
 ……フィクションです。(笑)
 
 高任個人としては、あのシーンの雛菊のそれに笑っていただけると嬉しいです。
 

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