稽古場の入り口で礼。
 中に入って、神前に向かって礼。
 それからたんぽぽは、1人、稽古場の掃除を始めた。
 違う道を選んだ紀子のことを思うと、少し胸が痛む。
 それはもちろん、紀子も同じはずで。
 しかし、紀子は笑ってたんぽぽを送り出してくれた。
 紀子のためにも、たんぽぽは全力でこの道を歩むつもりだった。
 入り口に、気配。
 主将である鬼百合が入ってきて、神前に向かって頭を下げる。
「おはようございます、鬼百合さん」
「早いな、侘助」
「はい」
「1人で掃除か?」
「はい」
 鬼百合は、小さく頷き。
「授業はどうした?」
「はい、紀子ちゃんが代返してくれるって言ってくれたんで…」
 
「授業はちゃんとでろぉっ!」
 
「……怒られちゃった」
「あぁ、うん…そうなんだ…」
 と、紀子はたんぽぽのために席を空け。
「でも、そういう小百合さんは…」
 たんぽぽは、反対側の頬を紀子に見せた。
「……」
「鬼百合さん、もう必要な単位は全部とってて、後は卒論と、ゼミだけだって…」
「で、ビンタ…と」
「うん」
 ため息をつき、たんぽぽはテキストとノートを机の上に広げた。
「あ、そうだ紀ちゃん」
「ん?」
「鬼百合さんがね、『今日は新歓コンパを行うが、設楽にも声をかけておけ』って」
「え?いいの…?」
「いいんじゃない?ダメだったら、わざわざ言わないと思うし……もし参加するなら、夕方5時に、稽古場まで来てくれって」
「うん、わかったよ」
 
「いーかー!これから行くところで、何か無礼なことがあったら……こうだぁっ!」
「なんでっ!?」
「後であたしが、こんな感じで思いっきりビンタくらわすからなー!」
「なるほど…」「わかったっス」
「サモちゃん、シバちゃん、ふたりして流さないでっ!?」
「まあまあ雛菊さん、そんなに脅かしてはかわいそうですよ」
「脅しじゃないですよっ!?今、私、まさに意味もなくビンタされましたっ!」
「……みなさん、怖がらなくていいですからね」
「マイさんまでまさかのスルー!?」
「へっへっへっ、侘助って、なんだかビンタしやすいんだよなぁ」
 と、三ツ葉黒。
「嬉しくないですよ、そんな目のかけられ方」
 マイの海が、穏やかな表情を一変させて、言葉を続けた。
「…怖がる必要はありませんが、礼儀だけは忘れないように。忘れるようでしたら、後で私がビンタを張りますよ」
「は、はい…」
 もともと雛菊は、たんぽぽ達1年生のの教育係だから厳しくしているのは当然だが、普段穏やかなマイの海がすごむと、そのギャップも含めてなかなかに迫力がある。
「…と、いうか」
 紀子がぼそっと呟く。
「わざわざここまで念を押すって事は、これから行く場所には何かあるんでしょうね…」
 そして、案の定というか、たどりついた場所でたんぽぽは目を丸くした。
「ど、土俵居酒屋!?土俵居酒屋けーこ…って」
 看板を見つめてなんだそりゃ、という表情を浮かべたたんぽぽに向かって、鬼百合が言った。
「不満か?不満なら別の店にするぞ?」
「いえ、不満とかじゃないです。その…初めてなので」
「ワシは高校時代、修学旅行で東京に来たときに寄らせてもらったダス」
「ど、どんなところだった?」
「18歳未満だったから、入った途端に追い返されたダス」
「そ、そりゃそーね…でも、サモちゃんが来たってことは、それなりに有名なんだね」
「いや、大輪女子大の下見に来たダスが、バスの待ち時間やら往復時間を計算に入れてなくて、自由時間が無くなりそうだったから駅前を適当に散歩してて見つけたダス。だから、詳しいことは知らんダスよ」
「おい、なんでもいーけどさー。さっさと入ろうぜー」
 と、三ツ葉黒に促されて、鬼百合が頷いた。
「……よし、入ろう」
「……今、鬼百合さん、一瞬気合い入れてなかった?」
「…いれてたっスね」
「怖がるなって言ってたけど、たぶん怖いところね…」
「……ダス」
 
「あら、いらっしゃい」
 笑顔で出迎えてくれた女将さん(?)に、鬼百合が頭を下げた。
「押忍」
「あなたたちが、今年の新入部員?」
 と、女将さんに声をかけられたにもかかわらず、たんぽぽ達の視線は、店の中の一点に集中していた。
「店の中に土俵がっ!」
「なるほど!だから土俵居酒屋なんダスな!」
「本格的な土俵っスね」
「……シュールね…」
 マイの海が、慌てたように口を開いた。
「み、みなさん、あいさ…」
「小百合ぃ?」
 このパターンは…と、たんぽぽがいち早く歯を食いしばった。(笑)
 ズバリのタイミングで、女将さんのビンタが炸裂。
 ただし、炸裂したのは鬼百合の頬だ。
「……押忍」
「アタシは、この子達に質問したよな?」
「押忍」
「オマエの教育が悪いから、誰もすぐに答えなかったんじゃねぇのかぁ?」
「押忍。申し訳ありません」
「えっ!?そ、そういうわけじゃ…」
「わ、悪いのは、すぐに答えられなかったワシらダス!」
「そ、そうっス!悪いのは、自分らっス!」
「申し訳ありませんっ」
「あ、驚いちゃった?ごめんねぇ。せっかくの新歓コンパなのに、空気悪くしちゃってぇ」
 と、愛想良く女将は笑い。
「小百合ぃ?」
 ぱんっ。
「なんか、アタシ1人が悪いみてぇじゃねぇか?」
「押忍。申し訳ありません」
「…な、なんなんですか…何が起きてるんですか?」
 と、たんぽぽは震えながらマイの海に囁いた。
「あの方は、けーこさんと言って、鬼百合関が入部したときに、主将を務めていた人です……だから、失礼のないように、って言ったでしょう」
「そ、そういうことは先に…」
「本当なら今すぐ、あなた達全員を張り倒したいけど、そうしたらまた鬼百合関が…」
「こ、これ以上、失礼のないようにします」
「あら?内緒話?」
「ひぃっ!?」
 そしてけーこさんが、また鬼百合を見る。
「小百…」
「いえ、綺麗な女将さんだなって…直接言うと失礼になるかと思いまして。気分を害したのなら申し訳ありません」
 さらりと紀子が、機転を効かした。
「あら、うまいわね。席はちゃんと用意してあるから、早く座ってちょうだい♪今日は、サービスしちゃうわよ」
 と、背中を向けて席に案内するけーこさんの背後で、『紀ちゃん、ナイス』などと囁きあいながら、拳をぶつけ合うたんぽぽ達がいた。
「…お、鬼百合さん、すみません。私たちのせいで」
「かまわない。いつものことだ。ビンタというものは、憎いから張るものでもないしな」
「……いつものことですか」
 ぼそりと紀子。
「勘違いするなよ」
 と、雛菊が割り込む。
「けーこさんは、直接の後輩だった鬼百合関にしか張らない」
「……そうっスか」
「だからって、これ以上失礼なことしたら、後であたしがまとめてビンタくらわすからな」
「はいダス」
 佐萌道をはじめ、たんぽぽ達は神妙な面もちで頷く。
「はぁい、みんな席に着いたわね♪じゃあ何飲むー?とりあえずビールの人?」
「はーい」
 と、三ツ葉黒が手を挙げた。
「ミズキちゃんはアサヒの生よね?」
「うす。お願いします」
 たんぽぽはちょっと首を傾げた。
「……そういや、鬼百合さんも、三ツ葉さんのことミズキって呼んでたような…名字?名前?」
「他の子はいいの?マイちゃんは飲まない?」
「そ、そうですね…では一杯だけ。バーバーバービールをお願いします」
「…何それ?」
 と、たんぽぽは佐萌道に囁いた。
「ベトナムのビールダスよ。しかし、日本の居酒屋に置いてあるような…」
「サモさん……すっかり、解説役のキャラ位置に置かれてるっス」
 とは、豆斯波の呟きだ。
「ふっふーん♪そう来ると思って、取り寄せておいたわよ」
「なんダスと?」
 そして女将けーこさんは、席を見渡し。
「小百合と野菊ちゃんは飲まないし。新入生の4人は、ビールでいいよね?」
「い、いえっ、私たちはまだ未成年ですから!私は、う、ウーロン茶をお願いしますっ」
「けーこさんから勧められたのに、断るやつがあるかーっ!」
「でも、みせっ!」
「こうだーっ!」
 雛菊の右腕が一閃。
「……じゃあ、ビールお願いします」
「未成年がお酒飲んじゃダメでしょっ!」
 と、マイの海が立ち上がり。
「間違っていますっ!」
「もぎゅっ」
 と、たんぽぽにビンタを食らわし、マイの海はけーこさんに告げた。
「4人とも未成年なので、ウーロン茶をお願いします」
「そうね。じゃ、ウーロン茶4つ、と」
「……紀ちゃん、今、ものすごく理不尽な目にあったよね、私?」
 と、たんぽぽが涙目で紀子に泣きつく。
 そんなたんぽぽをちらっと見て、三ツ葉黒が聞こえよがしに言った。
「まあ、ガキが酒飲んじゃいかんよなー。けーこさん、灰皿いただけます?」
「あれっ!?三ツ葉さん、2年生でしたよね?お酒も煙草もダメですって!?」
「ワビさん、それは誘いっス!」
「その通りっ」
「にゃふっ」
「へっへっへっ…アタシ、高校卒業してから2年ほどヒキこもってたからな。幼稚園から中学校まで、小百合とはずっと同じクラスだったんだ」
「そうなんですか?」
「侘助、お前、リアクション良いなー。叩き甲斐があるっていうか…」
 たんぽぽは両手で顔を覆って、しくしくと泣いた。
「違う…憎まれてはいないみたいだけど、何か違うよう…」
「どうやら、ワビさんはいじられ役に決定っスね…」
「はーい、ビールとウーロン茶、持ってきたわよ♪」
 と、飲み物が全員に行き渡り。
「では…大輪女子大女雪相撲部の歴史と伝統と、今後の繁栄を祈って…」
 鬼百合の音頭にあわせて乾杯。
 
「むう…」
 トイレに立ったたんぽぽは、真っ赤に腫れ上がった頬をさすりながら呟いた。
「油断すると、鬼百合さんがけーこさんにビンタされるし、黙ってると『盛り上がりが足りない』って鬼百合さんがけーこさんに叩かれるし、だからって私たちがはしゃぎすぎると、先輩達からビンタが飛んでくる…」
 そしてたんぽぽは頭を抱えた。
「何、この無理難題?」
 とはいえ、別にけーこさんは怖いだけではない。
 鬼百合の好物である蛤を仕入れておいてちゃんこにしてくれたり、その場の1人1人にきちんと目配りし、鬼百合にビンタを飛ばしたりするわけだ。(笑)
 だが、たんぽぽはまだ気が付いていなかった。
 たんぽぽがビンタされることで、場が適度に盛り上がっていることに。(笑)
「わーびーすーけー」
「ひぃっ、三ツ葉さん」
「おら、さっさと戻って来いよ…それともぉ?ここでいっとく?」
「速やかに!戻ります!」
 思わず軍人敬礼をして、席に戻ったたんぽぽが目にしたのは…。
「小百合。お前はまだビンタというモノがよくわかっちゃいない」
「押忍」
「いいか、理想のビンタってのは、痛みだけを与えて、身体にダメージを残さない……わかるだろ?」
「押忍」
 ぱぁん。
「わかってないから、できてないんだろ?」
「押忍。申し訳ありません」
 ……という感じの、理不尽としか思えないやりとり。
「ビンタってのは、指導であり教育だろ?暴力と勘違いしてねかぁ?」
「押忍」
「……」
 なんだか今、全力でつっこまなければいけない何かが……などと思ったが、たんぽぽは何とかそれを口に出さずに飲み込んだ。
 今ここで優先されるべきは、鬼百合さんの頬を守ること……と、ある意味割り切ったたんぽぽに、けーこさんが視線を向けた。
「あ、いいところにきたわね、たんぽぽちゃん♪」
「な、なんでしょうか?」
「はい、ここ座って…これ持って、落とさないでね♪」
「…?…?」
 わけもわからず、けーこさんの言うとおりにするたんぽぽ。
 右手と左手にビール瓶……の間にビール瓶を挟み込む。
「わっ…これ、意外と…バランスが…」
「……はい、もう2本追加♪」
 と、けーこさんがテーブルの上にビール瓶を置く。
「えっ、ちょっと…それは…」
 乾いた布巾で水滴は拭き取ってはいるが、少し力のいれ具合を間違ったら、即落下の状況なのは言うまでもない。
 しかし拒否できるはずもなく、たんぽぽは慎重に両手に持ったビール瓶で、3本のビール瓶を挟んで持ち上げた。
「で、できましたよ、けーこさんっ!」
「……」
「…けーこさん?」
「……優秀ね♪ご褒美に、いいモノ見せてあげる」
 そう言うと、けーこさんは無造作に右手を振って、たんぽぽの持っているビール瓶を叩いた。
「ああああぁぁっ!?」
 当然、微妙なバランスによって保たれていた、3本のビール瓶が落下した。
「うわわわ…」
「たんぽぽちゃん、さっきアタシが叩いたビール瓶はどっちの手に持っていた方?」
「え?ひ、左手の方ですけど…」
「そうそう…はい、こっちのビール瓶は無傷ね」
「はぁ…?」
「で、落ちた3本のビール瓶も無傷」
 と、けーこさんは3本それぞれを、皆の目にかざして見せ…。
「なのに、たんぽぽちゃんが右手に持っているビール瓶だけは、ひびが入っているんだなぁ?」
「え……えぇ?」
 え、何で…と首を傾げるたんぽぽにはかまわず、けーこさんは鬼百合に言った。
「小百合。これでようやく、ビンタという山の7合目ってとこさ」
「押忍。およびません」
「…ふええぇ、なんで…?」
 と、不思議そうにひびの入ったビール瓶を眺めるたんぽぽに、けーこさんがあらためて笑いかけた。
「運動エネルギーってわかる?たんぽぽちゃん」
「聞いたことはありますが、わかりません」
 きっぱり。
 少なくとも、大学生が胸を張って口にして良い言葉ではない。
「あら。正直ね」
「ごっつぁんです」
 と、何か勘違いしたままたんぽぽは頷いた。
「じゃあ、たんぽぽちゃんにもわかりやすいように、女雪相撲で説明するわね……」
 
「えーと…」
 着物の上からそのまままわしを締めたけーこさんを前に、たんぽぽは困惑していた。
「けーこさんは、理論派でな……侘助だけでなく、全員良く聞いておけ」
「真面目なこと言わないの。余興よ、余興。大輪女子大女雪相撲部の基本は、張り手。ビンタの道は張り手の道」
「は、はい」
「……面白くなかった?」
「けーこさんに失礼だろーがーっ!」
 と、雛菊のビンタがとんでくる。
「野菊ちゃんの今のビンタ、見た目は派手だけど、さほどダメージは残らない……でしょ?」
「えーと、痛いことは痛いんですけど…」
「野菊ちゃん。今度は、ビンタじゃなく張り手で…もちろん、同じ力でね」
「わかりました。やらせていただきますっ!」
「ええぇぇっ!?」
「避けちゃダメよ、たんぽぽちゃん」
 どかぁっ。
「……お父さん、お母さん…大学は怖いところです」
「ごめんねぇ。たんぽぽちゃんは、身体で覚えていくタイプかなって」
「……いえ、自分でもそうかなって思いますし」
「それで、ダメージの違いとか実感できる?」
「そりゃ、全然違いますよ。雛菊さんの張り手をまともにもらったら、そりゃ…」
「……そうは見えないんだがな」
 と、どこか不満げに雛菊が呟いた。
「同じような速さで、同じようにたんぽぽちゃんは叩かれたのに、身体に残るダメージは全然違う……ここ、すっごく重要だから♪」
「……」
「まあ、ぶっちゃけると、張り手は運動エネルギーを無駄にしない。ビンタは、意図的に運動エネルギーを無駄にするわけ」
「……ビンタは手加減のたまものって事でしょうか?」
「そうね♪」
 けーこさんはちょっと笑って。
「まあ、どうやってエネルギーを無駄にするかというと……これは色々あるわけで。たとえば音。音もね、運動エネルギーが変換されたモノなのよね」
 ひゅっ。
 何気なく振られたけーこさんの右手の風切り音に、たんぽぽは身体を固くした。
「顔を張った瞬間に大きな音を出す……一見派手だけど、与えるダメージは確実に減っちゃう」
 ひゅぅ…。
 と、今度はけーこさんの左手。
「顔を張られた相手がよろけたり、後ろに倒れたりする……のも、当然エネルギーを、相手の身体を動かすことに費やすことになるから、派手に見えても、ダメージは少なくなる」
 すっと、けーこさんはたんぽぽに向かって腕をまっすぐ突きだした。
「…っ」
 顔のすぐそばに右手を感じつつ、たんぽぽはけーこさんを見つめた。
「ビンタとは逆に、張り手は運動エネルギーを全部たたき込むのが理想なのね……もちろん、相手を張り倒したり、距離をとるための張り手なら話は別だけど、ダメージを与えるという意味なら、音を立てず、相手の身体も動かさない……それが理想」
「……なるほど」
 たんぽぽが小さく頷く。
「それで、運動エネルギーだけど……基本は、物体の質量×速度。つまり……腰の入ってない張り手よりも、ゆっくりでも体重を乗せた方が…」
 けーこさんがゆっくりと一歩踏み出し、その手がたんぽぽの顎に当たる。
 かくん。
「……ぇ?」
 ひざが折れ……それを慌てて立て直そうとするすたんぽぽ。
「え、え?」
 しかし膝が笑って、視界も歪み……それでいて、その場に倒れずにすむのは、たんぽぽの並はずれたバランス力のたまものか。
 けーこさんは、少し驚いたような表情を浮かべ、立ったままいられるたんぽぽを見つめていた。
「ワビさん、まさか、今のが効いてるっスか?」
「腕だけじゃなく、今のは身体全体で動いたのね……速さは無くても、体重全部を、威力に上乗せできるの」
「よ、よくわからないけど、すごいです、けーこさん!」
 と、たんぽぽが目をキラキラさせてけーこさんの手を握った。
「あら?もう、平気なの?」
「まだなんか、足下がふわふわしてますけど、大丈夫です」
「……ふーん」
「けーこさ……ひゃあっ!?」
 ぺたぺたぺた。
 けーこさんが、たんぽぽの腕やら太腿やらを撫でまわす。
「あ、あの、けーこさん…?」
「ああ、ごめんね♪やっぱり、若い娘の肌って、すべすべでぷにぷにしてるなって…」
「ええっ、けーこさんは、美人で、『まだ』若いじゃないですか」
「ば、ばかっ、侘助…」
「小百合ぃ?」
「押忍」
「オマエに、1つだけ教え忘れたことがあったよ…」
「押忍、なんでしょうか?」
「大輪女子大女雪相撲部の伝統……握りビンタっ」
「……押…忍」
「ぐーぱんじゃないですかっ!?ただのぐーぱんですよね、今の?しかも、肩をねじり込むようにしてっ!?」
「あら?今の見えたの?たんぽぽちゃん?」
「そりゃ見えますよっ!?ものすっごい綺麗な動きでしたし」
「…綺麗?」
「え、あ、私のお母さん、昔体操やってて、バレエとかもかじってたらしいんですけど……」
 と、たんぽぽの話を聞いて、けーこさんは頷いた。
「ふーん……究極に無駄を省いた動きは、人間の意志そのものを示す、ねぇ」
「正直、まだ私もちゃんと意味を理解できてはいないんですけど……動きが綺麗な人はわかります」
「たんぽぽちゃん自身は?」
「あはは…全然ダメです。映像とか見て、赤面しちゃいますね。私と違って、シバちゃんは、すっごく綺麗なのに」
「…ぇ」
「動き。動きが、綺麗」
 と、微かに頬を赤らめた豆斯波の耳元で、紀子が囁いた。
 
 宴もたけなわ。
「さて、今後のことについて少し話そう」
 と、鬼百合が切り出した。
「まず、対外試合の取組順決め役だが、雛菊はこの一年、良く務めてくれた」
「ありがとうございます」
「侘助も、新歓試合で取組順決め役の重要性が少しなりとも理解できただろう」
「は、はい」
「今後の対外試合の取組順決め役は、侘助、お前に任せる」
「ええっ!?」
「鬼百合関の決めたことに不満があるのかーっ!」
「うあああっ、そういうことじゃ…」
「そんなやつは、こうだーっ!」
「……ごっつぁんです」
「侘助」
「は、はい。ホントに、私でいいんでしょうか?」
「おそらく、適任という意味なら、佐萌道の方が優れているだろう」
「だったら…」
「鬼百合関は、わざわざお前に任せるのには意味があると仰ってるんだー!」
 雛菊の右手が振り上げられ…。
「人の話は最後まで聞けー!」
 こんな状況だというのに、たんぽぽはさっきけーこさんに言われたことを思い出した。
 そして、雛菊が自分の頬を張り飛ばすまでをしっかりと見とどける。
「……」
「……侘助」
「あ、はい」
「私が見たところ、お前は、相手をよく見ていない。相手がどういう意図を持っているか、何を得意としているのか、そういう事を気に留めて、考えられるようになればお前にとってプラスになると私は判断した」
「あ、ありがとうございます」
 鬼百合は小さく頷いた。
「女雪相撲は、練習を一日さぼると、取り戻すのに3日掛かると言われる。それはつまり、日々の積み重ねを正しい方向に向けないと、いくら努力をしたところで成果として現れないと言うことだ」
「はい」
「足りない部分を補う、優れた部分を伸ばす……練習方法や方針に、明らかな間違いはあっても、明らかな正解はない。新歓試合を見て、私なりにお前達のこれからの方向性を考えてみた」
 鬼百合は、佐萌道を見て。
「佐萌道は、まずダイエットだ。それが終わってから、またあらためて話をしよう」
「はいダス!」
「次に豆斯波」
「うっス」
「お前は確か、神戸松嶺にいたんだったな?」
「うっス」
 豆斯波が頷いた。
「お前の恩師を批判するつもりはない。とりあえず私の考えとして聞け」
「…うっス」
「女雪相撲に限らず、この国のスポーツの指導は縦のつながりがほとんどない。指導者は、選手を自分の手元にいる間に完成させようと方針を決める事が多い。豆斯波はおそらく、高校の3年間、技術中心の練習をこなしてきたのではなかったか?」
「…そうっス」
 豆斯波は頷き、言葉を続けた。
「正確には、1年の全国大会決勝でワビさんに負けてからっス。ワビさんのパワーに対抗するためには、技術が必要だと…」
「うん、そうか…確かにそれは間違いじゃない…が」
 鬼百合はたんぽぽに目をやり。
「侘助、豆斯波と腕相撲をしてみろ」
「は、はい?」
「言われたらすぐにやれー!」
 雛菊のビンタを、たんぽぽはまた最後まで見届けて…。
「んじゃ、シバちゃん…」
「いくっスよ…」
「では、私が合図を…」
 と、マイの海が、2人の手を叩いた。
「うわっ」
 身体ごとひっくり返った豆斯波を心配して、たんぽぽが声をかけた。
「あぁっ、ごめんシバちゃん。ケガはしてない?」
「…平気っス」
「豆斯波、次は両手でやってみろ」
「さ、さすがに両手なら…」
「勘違いするな、両手だからといって、単純に力が2倍になるわけじゃない」
「……うっス」
「では…ハイ」
「うわぁっ…」
 と、やはり豆斯波が転がる結果となった。
「……鉄腕、怪力、人間起重機…」
 紀子がぼそりと呟くと、佐萌道が頷いた。
「ここまで差があるとは…」
「そ、それは、こっちの言葉っスよ…」
「……わかるか、豆斯波。確かに、力に対抗するためには技術が必要だ。だが、現実として、筋力や速さなどの基礎トレーニングをそこそこに、技術練習に打ち込んだことで、お前は雪相撲そのもののスケールが小さくまとまってしまったように、思える」
「で、でも自分は…」
「私が見たところ、お前の天分はその身体能力…特に、速度にあるようだ」
「……」
「パワーもそうだが、お前はこれから基礎トレーニングを中心に取組み、これまでの自分の殻を壊してスケールアップに務めろ……そうだな、パワーを付けたいなら雛菊と練習するといい。速度や、身体の使い方を学ぶなら、ミズキ…三ツ葉黒について稽古しろ」
「は、はい。頑張るっス。雛菊さん、三ツ葉黒さん!よろしくお願いしまっス!」
「よし、いつでも来い!」
「めんどくせー。あー、オマエ、アタシと稽古したいなら、携帯ゲーム買え。本体」
「ほ、本体なら両方持ってるっスけど」
「おー。んじゃ稽古つけたるよ。代わりに、アタシのクエ手伝ってくれよなー」
「う、うっス!」
「最後に侘助」
「はい」
 キラキラ…。
 期待に満ちた目で、鬼百合を見つめるたんぽぽ。
「お前は頑張るな」
「わかりました、死ぬ気で頑張ります!」
「……」
「……あれ?」
 たんぽぽは首を傾げ。
「お、鬼百合さん。今…『頑張るな』って言いました?」
「そうだ。稽古したければすればいい。したくなければしなければいい」
 たんぽぽは、ちらりと雛菊を見た。
 さっき言われた言葉を思い出す。
『鬼百合関は、わざわざお前に任せるのには意味があると仰ってるんだー!』
 つまり、これには何か意味があるはずで。
「あ、侘助のやつ、学習しやがった。つまんねーのー」
 三ツ葉黒の呟きをスルーし、鬼百合は言葉を続けた。
「さっき豆斯波に言ったが、雛菊は馬力を付ける稽古をしている。一緒に稽古すれば、パワーが付くだろう。技術を付けたいなら、やはりマイだな。速度を身につけたいなら三ツ葉黒がいい」
「はい」
「それと……ここに来れば、けーこさんが女雪相撲の基本をたたき込んで…」
「小百合ぃ?」
 ぱん。
「『たたき込む』たぁ、ずいぶんと人聞きの悪い言い方するなぁ?」
「押忍。申し訳ありません」
 けーこさんはにっこり笑って。
「たんぽぽちゃん。ここで稽古するなら、手取り足取り教えてあげる♪」
「……ご、ごっつぁんです」
 ちょっと怖いような、楽しみのような……複雑な心境でたんぽぽは頷いた。
「…と、いうわけだ。サボりたいのなら、サボってもかまわない。後は侘助、お前が決めろ」
「……」
「返事をしろー!」
 雛菊にビンタを張られたが、たんぽぽはだまって鬼百合を見つめ続けた。
「お前はー」
「よせ、雛菊」
 と、鬼百合は雛菊の追撃を制止し。
「どうした?」
「鬼百合さんと、一緒に稽古は出来ないんですか?」
「大輪女子大女雪相撲部の主将は、部員全員の様子を見て回る……つまり、1人に対して付きっきりで稽古を付けるということはできん」
「……わかりました」
「それと……お前は指導者もなく、ほぼ自己流でここまで己を鍛え上げてきたと聞く。正直なところ、私にも、お前にどういう稽古をやらせればいいのか見当が付かない」
「……」
「私はしばらく、お前の稽古を観察したい」
「わかりました…でも、頑張るなっていうのは、どういうことですか?」
「……」
「雪力士として稽古するのは当たり前です。頑張るなっていうのは、稽古するなって事ですか?それなのに、自分で決めろってどういうことですか?」
 鬼百合の目が、まっすぐにたんぽぽを見る。
「……侘助」
「はい」
「もう一度言う。お前は頑張るな」
 
 お開き、そして現地解散。
 けーこさんの『小百合、ちょっと話があるから残んな』という言葉を予想していたのか、鬼百合は部員達を見送ってから、店の中に戻った。
「……さて、小百合」
「押忍」
「飲め」
「押忍。しかし、私は…」
「いーじゃないかよぅ…オマエが、紀子ちゃんに対してあーいう気配りができるようになったことが、あたしには嬉しいんだからさ」
「……良かれと思ってやったことですが、本当に良いか悪いかはわかりません」
「そこから先は、紀子ちゃんの問題だね…少なくとも、3年前の小百合には、できなかった気配りなのは確かだから♪」
 鬼百合はちょっとうつむき。
「……新歓コンパに参加させて、良かったんでしょうか?」
「そりゃあ、人それぞれさ、小百合。素直に楽しめるのもいれば、卑屈な思いを抱くのもいる……当然だろ?人間ってのは、1人1人べつもんなんだから」
 けーこさんは、鬼百合にコップを持たせて、ビールを注いだ。
「重要なのは、昔の小百合なら、そういう気配りを思いつきもしなかったってことさ」
「押忍。ありがとうございます」
「雪力士でいられなくなった後の方が、人生では圧倒的に長いからねぇ……それにしても、小百合がもう4年で、来年には卒業とはねぇ」
「……」
 鬼百合は申し訳程度に、コップに注がれたビールを一口含んだ。
「……どうすんの?」
「引退してから考えます」
「……そっか」
 と、けーこさんがコップを空け……鬼百合が注いだ。
「……危ういねえ、たんぽぽちゃんは」
「やはり、けーこさんもそう感じますか?」
「まあねぇ…つくしちゃんはつくしちゃんで、たんぽぽちゃんに対して屈折した気持ちを抱えてるみたいだし」
「3年連続で全国大会決勝で敗れたのだから、それは…複雑でしょう」
「まあ、民子ちゃんみたいにならないように……って、アタシが言えた義理じゃないか」
「私には、『アレ』は理解できません」
「うん、まあ…無理に理解する必要はないさ。ただ、ああいう人間もいる、ということだけ認められるようになりな」
「押忍」
「可憐ちゃんは、いい雪力士になるよ、きっと」
「押忍」
「……」
「……」
 けーこさんが二度コップを空にして、その都度鬼百合が注いだ。
「小百合」
「押忍」
「……百合根ちゃん、だっけ?」
「押忍。門前払いしました」
「……」
「負けを知るタイミングと、負けそのものが悪かったこともありますが、アレは、性根が腐っています」
「……厳しいことを言うねぇ」
「私への甘えが根底にある以上、私のそばでいると、立ち直ることもできません……というか、中学の時点であいつが天狗になっていたことを見抜けなかった、姉としての責任は痛感してます」
「ああ、わかった、わかった。たんぽぽちゃんじゃないけど、全部背負い込むな。頑張るんじゃない」
「押忍。けーこさんの言葉を借用させていただきました」
「……アタシはもうちょっと親切だったと思うけど」
「私と侘助は違います」
 けーこさんは、鬼百合をしばらく見つめて。
「小百合と民子ちゃん、そしてたんぽぽちゃんとつくしちゃん……3年連続で全国大会の決勝が同じ相手、それが2回連続で続くなんて、本当は良くないんだけどねぇ」
「?」
「その競技がメジャーであればあるほど、競技者の数が多ければ多いほど、本当は群雄割拠の状態になっていくんだよ……しかも、一瞬の隙が、ひらめきが、女雪相撲では勝敗をひっくり返す」
 けーこさんは、コップを傾けて。
「興味があったら調べてみな。競技者人口が少ないほど、特定個人の連覇率というか、独占傾向は高くなる」
「……それは、つまり…」
「女雪相撲は立派なメジャー競技で、競技者数も多いのにもかかわらず、実質のレベル差が激しいってことになる……アタシはちょっと心配だよ、女雪相撲の将来ってやつがね」
 
「ごめんねぇ、遅くまで引き留めて♪」
「押忍。問題ありません」
「気を付けて帰るのよ。ちゃんと明るい場所を選んで」
「不届き者がいたら、張り倒してやります」
「…あぁ、うん。それでもいいんだけどさ」
 と、けーこさんは苦笑を浮かべ。
「おっと、忘れるとこだった。OGは、現役のやることに口出ししないのが決まりだけど、野菊ちゃんと、ちゃんとお話しするのよ?」
「押忍。ミズキが、気を回してくれています」
「……ちゃんと気付いてるなら、いいや。好きにおやり」
「押忍。ご意見、ありがとうございました」
 鬼百合を見送って、けーこさんは星空を見上げた。
 ジュニア、高校、社会人、そしてプロ。
 一般人が目にする、華やかな女雪相撲の世界。
 大学女雪相撲界は、それとは対照的だ。
 この世界に飛び込んでくる人間は、正直それほど多くない。
 もちろん、昔に比べたら全国大学選手権に参加する大学の数はかなり増えたと聞く……が、年末に両国で行われる高校選手権とは、参加人数及び、華やかさは比べものにならない。
 ましてや、年に4回、季節ごとに行われるプロの女雪相撲場所のように、金も、栄誉も与えられない。
 鬼百合が……大河内小百合がそうだったように、3年も経てば、また新たに女雪相撲界にはスターが作り上げられ、その存在は一般人から忘れられていく。
 少し早いが、けーこさんはのれんを片づけた。
 掃除、洗い物をすませて、まわしを締める。
 ジュニア、高校から社会人を経て、けーこさんはプロの世界に身を投じた。
 3年我慢したが、結局はやめて……ほとんど気まぐれのように、大学を受験した。
「ふうぅぅ…」
 たーんっ。
 けーこさんの、四股を踏む音が響き渡る。
 二度、三度……。
「ふうぅ…」
 まだ肌寒い春の夜。
 額に汗をにじませたけーこさんは、息を吐いた。
「たんぽぽちゃんに、つくしちゃん、そして可憐ちゃん……今年は、面白い素材が集まったわね…」
 
 
               つづく。
 
 
 お前は頑張るな。(笑)
 この台詞って、どれが元ネタなんだろう? 

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