これから1人暮らしを始める娘を見送るそんな日は、やはりいい天気であって欲しかった。
「晴れて良かったわ…」
空を見上げて、呟いた。
それは、願いが叶ったわけではなく、ただの巡り合わせだろう。
春特有の、霞んだような青空が、母親には少しばかり癪だったのだが。
「荷物は、これで全部ですか?」
「はい…えぇと…」
これから娘が向かうのは、緑の豊かな……というか、ぶっちゃけると緑しかない田舎だ。
向こうで色々と買いそろえるのは難しいそうなので、こちらでそれなりのモノを揃えてから引っ越しというのは、家計を預かる主婦として少々頭が痛かった。
もちろん、娘本人の希望もあって、さほどの出費も必要なかったのだが。
「…えぇ、大丈夫だと思います」
「わかりました。えぇと、それで…」
見た目50を超えた引っ越し業者の男性が、少し視線を泳がせた。
「あぁ…」
母親は、それを察して。
「たんぽぽ。後の荷物は『あなた』だけなんだから、ぐずぐずしないの」
「あ、うん。今行くから……みんな、見送りありがとね」
「たんぽぽ」
「わかってるって…それじゃあ、みんな…行ってくるから」
娘が引っ越し業者のトラックに乗り込んで、軽く手を振った。
「たんぽぽ先輩…」
「頑張ってください」
「わ、私も2年後に、先輩と同じ学校に進学しますから…」
春休みとはいえ、学校の後輩やら何やら、大勢の人間がこうして娘を見送ってくれようとしている……母親として、そこは満足すべきだろう。
娘の目が自分に向けられたのに気付いて、母親は小さく頷いてやった。
「しっかりやんなさい…」
娘を乗せたトラックが、動き出す…。
母親は、静かにそれを見送った。
トラックを運転する50過ぎの引っ越し業者が口を開いた。
「なんか随分と見送りの人間が来てたね…」
「あ、はい。学校の後輩とか、集まって来ちゃって…」
照れたように答えたたんぽぽは、引っ越し業者のもう1人、若い男の視線に気が付いた。
「あ、あの…なんでしょう?」
「いや、さっき…たんぽぽって…」
「はい…?」
きょとんとした表情で、たんぽぽは若い男を見つめた。
「あ、あの、花畑たんぽぽちゃんなの?本人?」
「え、ご存じなんですか?」
「ご存じも何も…」
若い男は、信じられないという表情を浮かべて。
「マジかよ…たんぽぽちゃんみたいな有名人の引っ越しに立ち会えるなんて…」
「おい、ヒデ」
「いや、志水さん。たんぽぽちゃんですよ、たんぽぽちゃん。まさか、わかってました?」
「……芸能人とかは、ようわからん」
「違いますよ志水さん。何言ってんすか…」
「ヒデ、お嬢ちゃんが困っとる。ちょっと落ち着け…」
「あ、あぁ、ごめんね、たんぽぽちゃん…」
「あ、いえ…大丈夫です」
たんぽぽは、半分ほどの愛想笑いで応じた。
「つーか、志水さん、マジで、たんぽぽちゃんのこと知りません?」
「ワシは、テレビとかあんまり見んからな」
「雪相撲ですよ、雪相撲。たんぽぽちゃんは、雪相撲界のアイドルなんです。雑誌のグラビアにも、何度か出たよね?」
「あ、あはは…ちょぉっと、恥ずかしかったですけど…まあ、断れなくて」
「そうなんだ」
「ヒデ。お嬢さんが困っとるから、そのぐらいにしとけ」
「うっす」
多少の自覚はあったのか、ヒデと呼ばれた若い男は背筋を伸ばして前方に目をやった……が、それもわずか数分だ。
「たんぽぽちゃんは、プロには行かなかったんだね」
「あ、はい」
たんぽぽは、特にいやな顔もせずに若い男に向かって頷いた。
「……雪相撲ってのは、あれだろ?女の子が、着飾って相撲する…プロとかあるのか?」
「志水さん、知らないんすか?今は、雪相撲って超メジャースポーツですよ」
「メジャーってのは、野球のことだろが?」
「違いますよ、そのメジャーじゃなくて、有名って事です」
「ふうん……女の子の相撲がねえ…」
「えっと…」
少しばかり訂正の必要を感じたのか、たんぽぽが志水に話しかけた。
「雪相撲は、相撲とはちょっと違うんです……押し出しとか、寄り切りとかありませんから」
「……なんだって?」
大相撲の決まり手の6〜7割が、押し出し、寄り切りなどと、いわゆる土俵を割ることで決着が付く。
「勝敗の形としては、モンゴル相撲に近いですけどね……そもそも、雪相撲には、土俵という概念がないんです」
そして、たんぽぽは、雪相撲がどのようにしてこの世に生まれたかを語りだした…。
1747年冬…。
9代将軍、徳川家重の寵愛を受ける中臈『相模(さがみ)』は、神社に代参に来ていた。
参道脇に土俵を見つけ、軽い気持ちで腰元に相撲を取るように命じたのだが。
『境内における相撲は神事であり、この土俵は女人禁制でございます』
宮司の声が、それに待ったをかけた。
将軍の寵愛を受けている相模は、元々の性質もあって驕慢ではあったが、愚かではなかった。
そもそも、この神社は将軍家ゆかりの神社であり、将軍代理としての自分の立場を思えば、無茶を通せるものでもない。
顔には出さなかったものの、相模は爪を噛む思いでその場を引き下がり、神社にて寒い一夜を過ごした。
寒いはずである。
翌朝、境内は一面の雪であった。
『まぁ、これは…』
そう呟いたきり、黙って境内を眺めていた相模が、突如笑い声を上げた。
『雪じゃ!雪じゃ!』
一体何事かと、しかし相模の性格を知る腰元連中は、迂闊に声がかけられずおろおろするばかり。
相模は、そんな腰元連中を振り返り、笑ってみせた。
『雪で覆われておれば、よもや土俵とは言えまいて!』
苦虫をかみつぶした表情を浮かべる宮司の前で、相模は腰元達に相撲を取らせ、『そうじゃ、よいぞ』などと歓声を上げて溜飲を下げたのである。
この話は、あっという間に大奥の中に広まった。
女人禁制、嫉妬やら権力争いやら、陰謀渦巻く魔窟のこと。
この、『雪相撲』は少しずつ形を変え、大奥の中で受け継がれていった……。
雪相撲には、2人の母がいると言われるが、この相模はさしずめ産みの母親といえるだろう。
「……というわけで、雪相撲の土俵は、4つの徳俵と、仕切り線を指すんです」
「なるほどなあ…つまり、倒すか倒されるかで、決着が付くって事か」
「はい……それと、これは大奥という特殊な場所で受け継がれてきた歴史的背景から生まれたルールだと思うんですが、体重制限があるんですよ」
「体重制限?」
「あはは、なんていうか…その…いわゆる、おデブちゃんは大奥に入れないというか…」
「あ、あぁ、そういうことかい…」
ちょっと慌てたように、志水は頷いた。
将軍様だって1人の男である。
多少の例外はさておき、若くて美しい女を選ぶだろう。
やや気まずい空気を、若い男が吹っ飛ばす。
「志水さん。たんぽぽちゃんは、インターハイで3連覇したんですよ」
「ほう、それは大したモンだ…」
と、これは掛け値なしの志水の賞賛の言葉だ。
「…まだまだです、私は」
ある意味嫌味にも聞こえる言葉だが、たんぽぽのそれはひたすら前向きに響いた。
「私が雪相撲を始めたきっかけ……あの人に比べたら、私なんて全然です」
大河内小百合。
たんぽぽは、憧れの人の名を心の中で呟いた。
中学3年、高校受験を控えた冬休み、コタツにみかんの日本的幸福を味わいながら、何気なく付けたテレビに映し出された彼女の勇姿。
3連覇を達成した彼女は、優勝トロフィーを抱えたままインタビューを受け、自分を誇るのではなく、自分を支えた周囲への感謝の言葉に終始した。
たんぽぽの目に映る大河内小百合は、強くて、優しくて……美しかった。
受験勉強もそこそこに、たんぽぽは中学の雪相撲部に押し掛けて基礎指導を受け、自分でもトレーニングを重ねた。
そして高校デビュー……にも、紆余曲折があった。(笑)
高校から競技を始めたその年にインターハイを制したたんぽぽは、天才と呼ばれるようになった。
たんぽぽは、練習の時も、試合の時も、いつも小百合の背中を追いかけた。
憧れの小百合と同じく3連覇も達成した。
しかし、まだまだだった。
プロの誘いは全て断った。
大河内小百合もまた、プロの誘いを断って大学進学を選んだからだ。
小百合は、今年で大学4年になったはず。
小百合が進学したのは、大学女雪相撲の名門、大輪女子大学……もちろん、たんぽぽの進学先でもある。
「そういえば…」
若い男…ヒデが口を開く。
「は、はい?」
「中学とか、高校、社会人にプロと、テレビやら雑誌やらで雪相撲のことがとりあげられるけど、大学の雪相撲って聞いたことがないような…」
「そう、ですね…」
たんぽぽの言葉も、歯切れが悪い。
実は、たんぽぽ自身もそこに多少不安を覚えていたからだ。
「中学と高校、社会人とプロの雪相撲の管轄は文部科学省なんですけど、大学雪相撲は皇宮庁の管轄で……たぶん、その辺りの理由でメディアへの露出が制限されてるんだと思います」
「へえ…そうなんだ」
プロはもちろん、ジュニア・高校・社会人など、『月刊雪相撲』をはじめとする専門雑誌などで有力雪力士やら選手やら学校やら、詳しく取り上げられるのだが、大学のそれは結果だけが示されるに過ぎない。
親しくなった雑誌記者などにたんぽぽも尋ねてみたのだが、かれらもまた、皇宮庁から発表される情報以外、知る手だてがないとのこと。
そして、たんぽぽにとって最も気がかりだったのは……小百合がいるはずの大輪女子大学女雪相撲部は、3年前を最後に、全国大学選手権に出場していないことだ。
憧れの小百合を追いかけて進学を決めたのに、そこに小百合がいなかったとしたら喜劇でしかない。
そうこうしているうちにも、トラックはひたすら西へ。
東京は、日本の総面積の1%にも満たない広さでありながら、日本の人口のおよそ1割を抱える。
しかし、東京といってもピンからキリまであるのだ。
人口わずか80万人のT県のおよそ半分の人口が県庁所在地に集中しているように、都会も田舎も、人口は偏って分布する。
たんぽぽが向かっている『緑の豊かな田舎』は、『東京都』なのである。
そう、大輪女子大学は東京の西の方……山の中にある。
実家が東京でありながら、1人暮らしを選択せざるを得ない……そんな立地。(笑)
「荷物、運び終わったよ」
「お疲れさまです、良かったら、これどうぞ」
と、たんぽぽは2人にペットボトルのお茶とスポーツドリンクを差し出した。
「あれ、店とかないよね…?」
ヒデがきょろきょろと辺りを見渡した。
なんというか、こんな所にアパートがあること自体が奇跡……そんな風景だ。
「お母さんに言われて、向こうで買って用意してたんです」
「ああ、なるほど…」
「じゃ、お嬢ちゃん。頑張んな」
「あ、お世話になりました」
ぺこっと、頭を下げるたんぽぽへ。
「あ、たんぽぽちゃん。サインちょうだい、サイン」
「…ヒデ」
「いいじゃないですかあ…」
「あはは、いいですよ」
たんぽぽは笑って、運び終わったばかりの段ボールを開けてサインペンを取り出した。
サインをせがまれたのは初めてではない……どころか、割と慣れていた。
きゅっ、きゅきゅっ。
「……ヒデさんへ、と。これでいいですか?」
「あ、できれば、たんぽぽちゃんの好きな言葉とか…」
「え、好きな言葉ですか…んー」
初めてのリクエストに、たんぽぽはちょっと考え込んだ。
もう諦めたのか、志水はおとなしくヒデを待っている。
「……じゃ、これで」
きゅきゅっ。
「ありがとう、たんぽぽちゃん」
図々しく右手を差しだし、ヒデは握手を要求……まさにアイドル扱いといえよう。
「……図々しいにも程があるぞ、ヒデ」
トラックを走らせながら志水。
「えへへ…自慢できますよ、これ」
と、怒られている自覚がないのか、照れながらヒデが言う。
たんぽぽのサインの隣に書かれた言葉は……
「とりあえず、こんなもんかな…」
荷物の片づけを終え、たんぽぽは手を洗った。
電気、ガス・水道に関しては、大家を通じて既に手続きを終わらせてある。
「あっ、そうだ、着いたら連絡しろってお母さんに言われてたんだ」
たんぽぽは携帯をとりだし…
「圏外っ!?」
窓を開け、身を乗り出すようにして携帯を空に向かって突き上げた。
ぴこっ。
「ついたっ」
しかし、自分の顔に近づけるとアンテナが消える。
たんぽぽは、メールで母親に連絡することにした。
「さて…と」
日課のランニング、基礎トレを終えて、後は明日の入学式に備えて寝るだけなのだが、たんぽぽはDVDをセットした。
『全国高校女雪相撲大会、3年連続優勝を果たした大河内小百合さんです。優勝おめでとうございます!どうですか、今の気持ちは』
優勝トロフィーを抱えた小百合に、インタビュアーがマイクを向ける。
あらためて見直すまでもなく、その一語一句まで、たんぽぽは諳んじることができた。
『大変嬉しく存じます。これも全て、支えてくれた先生、部員達……そして両親と妹のおかげです。本当にありがとうございました』
端正な顔に浮かぶ、優しい微笑み。
小百合さんのようになりたいと……あの日、あの時、たんぽぽは思った。
たんぽぽは、部屋の中を見渡しながら呟いた。
「……私は、自分だけの力でここに来られたわけじゃない」
天才といわれて、いい気になりかけたこともある。
そんな自分を戒めるために、たんぽぽはいつもその言葉を思う。
感謝。
花畑たんぽぽの、女雪相撲の歩みはそこから始まっている……。
続く
ぶっちゃけ、元作品を知っている人間だけを想定して書くのはそんなに難しくありません。
パロディを書くに当たって、一番頭を悩ませるのは、その作品の世界観を、いかにしてそれを知らない人間に伝えるか……。
と、いうわけで……去年の年末にいらん事件が起こったせいで、色々と気を遣う羽目になり、何度も書き直しました。(笑)
その過程で、色々と細かい設定もつめて……。
知人との会話から察するに、元作品はほとんど知られてないご様子。
高任の狙いとしては、この第一話を読んで、『元作品を知ってる人間』が、『騙される』読者を思って、口元半笑いになることです。元作品を知らない人は、すぐにググッたりしないことを、お勧めします。
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