「うち、発明してしまいました…」
「……何を?」
「何でしょう?」
 会話のつながりがおかしいよ、みおさん…。
 ああ、今日もドリームクラブは平和で……ピュアな紳士とホストガールが、明るく、会話とお酒を楽しんでいるはずなんだけど。
 俺は、ため息をついて。
「えーと、被験者に先入観を与えるのは良くないんだっけ?」
「そうです」
 きっぱり。
 うわあ、みおさん、かっこいー。
 ただ、この人…発明家の前に『マッド』をつけなきゃいけないんじゃないだろうか……などと、ほんの一瞬だけ考えてしまった。
 うん、考えたんだけど……。
「……まあ、飲むけど。また薬?」
「そんなこと、一言もいうてへんよ?」
「あ、違うんだ…」
「まあ、酒は百薬の長いうますし、似たようなもんですなあ」
 え、じゃあ発明したのって……酒?
「味に関しては保証しまへんけど」
「しようよ、そこは…」
 とツッコミを入れた俺の手に、みおさんがそっとグラスを握らせた。
「一息でいっておくれやす」
 一息で逝くことにならねばいいんだが…。
 俺は漠然とした不安を覚えながら、それをきゅーっと飲み干した。
 ふむ、まずくはなかったけど……これ、結構、アルコールがきついような…。
 俺はみおさんを見た。
 みおさんも、俺を見ている。
 
 ……5分経過。
 
「えーと…何も自覚症状がないんだけど、そろそろ種明かしというか…?」
 俺が困ったように切り出すと、みおさんはちょっと首を傾げて。
「……なんか、匂いとかしまへん?」
「……?」
「今のお酒は、初恋の女性の髪の香りの記憶をリアルに再現させるという画期的な…」
「えっと、それはツッコミ待ちなのかな?」
「あれ…理論的には完璧なはずやけど……失敗…?」
 だからそれは、ツッコミ待ちなのか?
 それとも、真面目にぼけてる?
 俺は心の中でツッコミを入れ……ふと、思った。
 待て、前回の薬って……『幸せな記憶を呼び覚ます』…だっけ?
 あらためて、みおさんを見る。
 ただそれを飲むだけで、被験者の記憶というか、そういうものに干渉したってことだよな……え、ちょっと待て。それって…今さらだけど、みおさんって……もしかして…?
「失敗…うち…失敗したん?」
 みおさんはなにやらぶつぶつと呟き始めた。
 そして、いきなり酒を飲んだ。
「うちは、あかん発明家です…」
「えーと、ちょっといいかな」
「うちみたいな、あかん発明家に何の用です」
「いや…これまでにみおさんが発明したものの話とか聞きたいなと思って」
 
「なるほど…」
 みおさん自身が語ったり、俺の方から促したりして、これまでの発明品の話をいくつか聞いてみたのだけど。
 たぶんこの人……自分の能力を間違った方向に注ぎ込むタイプの人だ。
 と、いうか……『あかん発明家』どころか、間違いなく天才の部類に属する人だと俺は思うんだが。
 えーと、残念な天才……とでも言えばいいのかな。
 安眠パジャマとか、目覚ましつき枕とか、割れないお皿とか、元気になる薬(どう元気になるのかは怖くて聞けなかったが)とか……ひとつひとつの発明品に注がれた技術とかアイデアとかはたぶん画期的なんだろうけど、コンセプトがダメすぎるというかなんというか。
 そもそも、割れないお皿とか……その、『割れない』ために作り上げたであろう素材そのものに関して、まったく重視してないところが、俺に言わせればすげえ。
 たぶんそれって、お皿ではない何かに使われるべき発明だと思うんだけど……みおさんは『お皿が割れない』という事にしか注目していないのだ。
 床に落としても割れない、スプーンやフォーク、調味料の瓶とぶつかっても割れない、なんといっても、割れないから一生使える。
 『これって、経済的ですよね』……などと、目をキラキラさせながら、俺に向かって言うのだから。
 その開発に、もしくは生産にどれだけのコストがかかったのか知らないけど……『割れない』とか『経済的』であることを目的とするなら、プラスティック製や、アルミなどの金属製の皿で問題ないんだけど。
 それともう1つ、日常的に使用される製品というか商品は、壊れることも重要なファクターなんだけど……たぶん、みおさんはそのことも考えない。
 『割れない』というか『壊れないお皿』は……色んな種類を持つという選択肢はあっても、いずれは人というか社会全体において、『新しいお皿』が必要とされなくなる。
 つーか、食器メーカーにしてみれば、たまったもんじゃない発明のはずだが……。
 そこに思い至って、俺はまたみおさんを見つめてしまった。
「な、なんや…?」
 少し恥ずかしげにうつむく彼女を見つめながら……俺は、彼女がひどく危うい存在のように思えた。
 
 みおさんのお見送りの後、店長のお見送り。
 いつものことなんだけど、何をもじもじしてるんだか、この人は。
「えっと…あのね…」
 俺に肩を寄せ……と、いうか、もたれかかってきた。
「……?」
「これが、私の髪の匂い」
「聞いてたのかよっ」
 つーか、店の中にプライバシーは存在しないのか?もしや、盗聴?
「あ、違うの…私、ただ、地獄耳なだけなの」
「……」
「えっとね…もしかしたら、私の髪の毛の匂いを認識できてないのかなぁ…なんて」
 店長さん、照れ照れ。
 つーか、この人って……すげえよなあ。
 俺は、何というか……色々と感心してしまったのだが、同時に、別のことに気がついた。
「……あ」
「……なあに?」
 俺は、店長を見た。
 この人……『それ』に気付いて、わざとこういう話題を振ってきたのか?
 店長が、すっと俺から離れて、頭を下げた。
「またのお越しをお待ちしております」
「うん、ありがとう」
 俺も頭を下げた。
 店長の視線を背中に感じながら、俺は歩き出す。
 初恋の女性の髪の香り……か。
 中学の時、何となくという形で女の子とつきあったことはあるけど……あれはたぶん……初恋じゃないよなあ。
 
「……リベンジや」
「リベンジですか…」
 みおさんって、結構、負けず嫌いなのかも。
「あ、いや、そのことなんだけど…」
「ささ、くいっと、いっとくれやす」
 また、酒か。
「いや、だから……今度のコンセプトは?」
「被験者に先入観を持たせるわけにはいきまへん」
 うん、まあ……あとで説明したらいいか。
 
「……なんでやのん?」
「ちなみに、今回は一体…」
「また、失敗…また失敗?」
 ぶつぶつぶつ。
 自分で『あかん発明家』とか言ってた割には、プライド高そうだ。
「と、いうか、みおさん。今度の発明って…?」
「初恋の女性の…」
「なんで、そのコンセプトにこだわるのっ?」
 疑問半分、ツッコミ半分だ、チキショー。
「なんでって…」
 みおさんは、不思議そうに。
「人は、恋をしてるときは、たいてい幸せな気持ちになってるもんですやろ?」
「……」
「巷に流れる音楽の9割は、人の色恋を歌ったもんどす。これは、いかに人の興味が色恋に集中してるかを証明してるとは思いまへんか?」
 すげえ、極論だ。
 つーか、最近の音楽なんか全く興味ないからわからねえけど。
「あ、でも…」
 ふと、みおさんが思いついたように。
「魅杏さんに聞きましたが、最近のテレビはバラエティ番組ばっかりで、特にゴールデンタイムはどれもこれも、芸能人がご飯を食べてる番組だらけて、言ってましたなあ…」
「……そうなの?」
 テレビ、見ねえからなあ…つーか、そもそも、俺はテレビを持ってない。
 みおさんはちょっと考え。
「つまり、芸能人として成功する秘訣は、いかにご飯を美味しそうに食べられるかというスキルの有無にかかってる言うことですやろか?」
「えーと、話の流れ的には、美味しいものを食べてるときに、幸せな気持ちになるって、結論にならないかなあ?」
 と、いうか……極論にも程がある。
 あ、いや……こういう発想ができるからこそ、みおさんは発明家というか、天才的な、何かをもたらしているのかも。
 うん、まあ…あれとあれは紙一重とも言うしなあ。
「……美味しいものを食べたら、幸せな気持ちになりますやろか?」
「どう、かなあ…そういう話を聞いたことはあるけど」
「あほらし。テレビの番組の目的は、制作コストを抑えて、視聴率を稼ぐことです、視聴者を幸せな気持ちにしてあげよう…なんて、殊勝な心がけのはずがあらしまへん」
「……?」
 いや、テレビは見ないんだけど……今の、みおさんの言ったことって……なんか、矛盾してないか?
「舞台セットの必要もなく、用意された料理を食べる。食べる人間は、ギャラが安くて、リアクションの派手な芸人で…(以下略)」
 け、結構シビアなことを言う…。
 しかし……その理屈で言うと、9割が恋愛を語った音楽ってのも同じ事じゃないのかなあ。
 俺は、みおさんを見つめた。
 今、彼女が俺に向かって淡々と語っているのは……結局、目的とコストパフォーマンスの問題だ。
 それがわかっているのに……彼女は『割れないお皿』について、目をキラキラさせながら語った。
 人の中に存在する様々な矛盾とかいう話ではなくて……みおさんは、どこか、歪んでいるんじゃないだろうか。
 たぶんそれは……この前、俺が感じた、彼女の危うさみたいなモノの一部のような気がする。
 まあ、彼女の心の中に俺が踏み込んでいいはずもないんだけどな……ただ、少なくともみおさんは、誰かに恋をしてるときに幸せな気持ちを感じていたのだろう。
 恋、というか……恋愛感情か。
 それが、人に幸せな気持ちを与えることについて否定はしないけど、その代償というか……ドロドロとした、黒い情念に苦しめられるような気がする。
 たとえば仮に、俺が家族のことを何とも思っていなかったとしたら……俺は、苦しまずにすんだんじゃないだろうか…。
 もちろん……楽しくて、優しい記憶も、失うことになるんだろうけど。
 
「……みおさんが、また何か?」
 受付から店の敷地の外までの、いつものお見送りの途中で、店長が俺の顔をのぞき込みながら聞いてきた。
 俺の腕を抱いているのとは逆の、左手が誰かのこめかみを狙うかのように大きく開かれているのには、触れないでおこう。
「いや、みおさんが……ってわけじゃなく、ちょっと、考えてて…」
 店長が、しばらく俺を見つめて……俺の腕に両腕をからめてきた。
「あ、あの…ね…気持ちは嬉しいけど…ホストガールといるときは、その娘のことを考えていて欲しいの……あ、でも、私もいつも、あなたのことを考えてるから…偉そうなことは…」
 この店長は仕事に厳しい……と思う。
 たぶん、やんわりと、俺に注意というか、教えてくれているのだろう。
「楽しいって事は、苦しいって事も意味するよな」
「……」
 店長は俺の肩にすり寄るのをやめて、俺の顔を見つめた。
「ああ、いや…代償って言うか…楽しいとか、幸せなだけってのは…無いと思うんだ…俺は」
「うん…それで?」
「この店は……えーと、ピュア紳士とホストガールが、会話や、お酒を楽しむ店だろ……その代償は…何だろなと思って」
「それは、えっと…」
 店長は困ったように笑って。
「お金?」
「わはは、そりゃそうだ」
 俺は笑った。
 この人は店長だけじゃなく、ホストガールとしてもきわめて優秀だろうなあ……と、俺はわけもなく思った。
「まあ、それだけじゃあ、ないけど」
「え?」
「お金ってのは、自然に湧いてくるモノじゃないから……人は、必ず死ぬもん。その限られた時間を費やして、お金を稼いで、生きていく」
「……」
「……言ってみれば、お金じゃなくて、命の時間なのかもね…払うべき代償は」
「なるほど…」
 俺は感心して言った。
「それは、ホストガールというか、この店で働く女の子にも言えることか…」
「……ええ」
 店長は、静かに呟いたが……少し、間が空いた。
 
 そして、次の週も、みおさんはリベンジを求めてきたのだが。
「え、これもダメ?」
 
 そしてまた次の週も。
「……ダメ…ですか?なんでやのん…?」
 
 そして、さらにその次の週。
「うん、もうお店のメールを読んでくれることについては、期待しないことにしたから」
 店長が悟ったように呟いた。
 ってことは…?
「えーと、みおさんがお休み?それとも、コスプレ?」
「両方」
 ああ、みおさんがお休みで、コスプレの日なんだ。
 そっか、そういうこともあるよな……だから、コスプレの日って2週続けるのか。
「あ、今日は体操服だから」
「へえ」
「ジャージでも、スパッツでもなく、ブルマ」
「ブルマ……ああ、見たことはないけど、聞いたことはあるな」
 俺がそう呟くと、店長が目を背けながら言った。
「あ、うん……そうよね…そういう世代というか、時代なんだよね…」
 なんだろう……この前のバニーコスプレの時に比べたら、店長のテンションがものすっごく低いなあ。
「それで、みおさんお休みだから、誰を指名します?あ、まだ会ったこと無いだろうけど、るいさんもお休みだから」
 つーか、みおさん以外は、アイリと魅杏さんしか知らない……あ、あの時に、関西弁っぽいしゃべり方をする……玲香さん?…だったか。
「玲香さんは、今ご指名中なの」
 むう、さすが店長さん。
「……ん?」
 俺は、ふっと視線をそちらに向けた。
 何か気になったからだが……はて、何が気になったのだろう?
 いかにも、という感じの黒服の男が、立っているだけだ。
 ……あれ?
 俺は、首を傾げ……店長を見た。
「へえ、この店……女の子だけかと思ったら、男もいたんだ」
「ああ、あれ」
 と、店長が『あれ』を見る。
「……店の人間じゃないのよねえ、これが」
「え?似合いすぎじゃん、あの黒服の人。ものすげー頼りになりそうと言うか」
「……私の店に、あんないかつい男は必要ないもん」
 どこか拗ねたように、店長。
「いや、必要ないって…実際に、いるじゃん?」
「……じゃあ、遙華さんご指名で」
「え?」
 
「遙華です、以後、お見知りおきを」
「あ、はい。よろしく…」
 なんか、矛盾してるかも知れないけど……ふわふわしてて、それでいて硬いイメージを与える女の子だ。
「……じろじろ見ないでくださる?」
「ああ、ごめん」
「と、いうか…この服は一体なんですの?」
 ぶつぶつぶつ。
 俺は、彼女の背後に控えている2人の黒服に目をやった。
 ああ、なんとなくわかった……この黒服、店の人間じゃなくて、彼女のお付きの人たちだ、たぶん。
 
 と、いうか……酒癖わるくないか、このお嬢様。
 
 その夜、みおさんからメールが来た。
 発明がうまくいかないそうだ……気分転換でもさせてあげるべきだろうか。
 
 正直、もったいないと思う。
 彼女は決して『あかん発明家』などではなく、本来は俺が評価することなどできない、天才のはずで、彼女が望む『誰かを幸せにする』とか『色んな人に楽しんでもらう』とかいう能力というか、才能に溢れた人間だと思うからだ。
 たぶんそれは、誰にでもできる事じゃない。
 俺は、一口酒を飲んでから口を開いた。
「たとえばさ…みおさんに、他にやりたいことができて、それで『発明家なんてやめる』っていうなら、それもありかな、とは思うよ」
「……」
 みおさんは、黙ってグラスを傾けた。
 とりあえず、俺の話を聞いてはくれているようだ。 
 彼女には間違いなく才能がある。
 でも、才能があるからと言って……本人が望まないことを、周囲から強要されてそれをやる、というのはやはり俺はちょっと違うと思う。
「発明が、嫌になったわけじゃないよね」
「……人の話はちゃんと」
「嫌になったのは、失敗することが、だろ?」
「……」
 みおさんが、また、グラスを傾けた。
「ちょっと、嫌な言い方になるけど……みおさんは、『失敗できることの幸せ』をわかってないような気がする」
「……何、いうてんの?」
「……失敗できるのはさあ、何かをできる人間だけなんだよ」
「わけわかりまへん」
「だろうね…」
 俺はちょっと笑って。
「確かに…ちょっとひがみも入ってるから。俺は、失敗することさえできなかった人間だから、失敗できることを幸せなんて言えるんだろうなあ…」
「……」
 俺は酒を飲んで、頷いた。
「うん、そうだよな…失敗することが幸せなんて、ふざけてるよな……失敗が、幸せなはずはない……それでも俺は、失敗できる人間がうらやましい…」
 あいつは、ただ死んだだけだった。
 俺は、血反吐を吐くぐらい頑張ったけど……あいつを、失敗させることさえできなかった。
 俺は、何もできなかった。
 それを、失敗と言えなくもないんだろうけど……この世を何かのレースにたとえるとしたら、スタートラインにさえ立てない人生が、きっとある。
 勝ちか負けかで、すべてを語りたくはないけど……勝った人間に言わせれば、それは負けた人間のひがみに過ぎないだろう。
 勝ちか負けかの世界で、レースに参加できない人間は……負けることさえ許されない。
 グラスに伸ばした俺の手を、みおさんが止めた。
「それは、悪い酒です。飲まん方がよろし」
「そうだね…お酒は、楽しんで飲むものだったね」
「そうです」
 俺は、ふっと……あの時、店長に言われた言葉を思い出した。
 
『生きていくことに、何の意味も見いだせない……それは、死ぬ理由にはならないわ』
 
 本当にわかったわけじゃない。
 たぶん俺は…それを信じたかっただけなんだ、きっと。
 俺は、みおさんを見た。
 どこか心配そうに、彼女が俺を見ている。
 俺は弱い人間だ……自分のためだけには生きられない。この2年あまりで、それが痛いほどにわかった。
「みおさんは…強いなあ」
「そんなこと…あらへんよ」
 ぽつりと、俺を気遣うように。
 みおさんは、強いだけじゃなく、優しい人で……俺は、そのどちらでもない。
 人は、強くなければ生きていけないし、優しくなければ生きている価値がない。
 それは、いい言葉だと思う。
 いい言葉だと思うから……悲しい。
 ふっと、顔を上げると……まだ、みおさんが俺を見ていた。
「ああ、ごめん……なんか、別の話を……ああ、違う。みおさんの話の途中だった…なんだろう、うまい言葉がみつからないなあ」
「……来週、お時間とれますやろか?」
「え?」
 
「んー、ええお天気やなぁ」
「うん……というか、みおさん。これはどこに向かってるの?」
 俺は、周囲の人に目をやりながら聞いた。
 行列、と言うわけではないけど、駅を降りてから周囲の人間はみな同じ方角に向かっているようだ。
 と、すると…イベントか何かだろうか?
「あらら、勘の悪いお人どすなあ」
 みおさんはちょっと笑って。
「今までに、ヒントはぎょうさんありましたやろに」
 ヒント…?
 俺は、周囲の人間を見るのではなく、見つめた。
 んー、と、割と新聞を持った人間が多い…ああ、わかった。
「ひょっとして…競馬場?」
「……ひょっとして…言うことは、何も知らん、いうことですか?」
「いや、やり方は多少知ってるけど……実際に来るのは初めてだよ」
「あ、そしたら、うちとは反対やなぁ……うちは、何度も競馬場に行ったことはありますけど、やり方はほとんど何もしらへん」
「……」
「うち…京都の生まれで、割と近くに競馬場がありましてん」
「へえ……ってことは、馬が走るのを見てるだけ?」
「お馬さん、カッコええやろ?」
「いや、見たこと無くて…っ」
 言葉尻が乱れたのは、みおさんが、いきなり腕を組んできたからだ。
「み、みおさん?」
「うちも、お馬さん見るのは久しぶりや……今日は東京開催の最終日でちょうどのタイミングやったからなあ。来週からは、福島の開催になりますよって」
「……福島?」
「えっと…ホンマになんも知らへんのやなあ。なんというか、…この、中央競馬の開催地は、全国に10カ所ありますのや。そのうち、阪神、京都、東京、中山の4場が、中央開催言いますのやけど……夏になると、他の6場を中心に開催されて…」
 ……などと、みおさんが色々と説明してくれたのだけど、俺にはよくわからなかった。
 とにかく、この東京競馬場での開催がひとまず今週で終了するため、来週になると、気軽に足を運べないという事だけはわかったけど。
 と、いうか、というか……。
 みおさん、胸、おっきい。
 二の腕にあたる柔らかい感触に意識が奪われて、みおさんの説明に集中できないと言うか……男って悲しい生き物だよなあ。
 店長さん、ごめん。
 俺、ちょっとピュア紳士失格かも。
「あれ…パドック、どっちやろ?」
「ぱどっく?」
「レース前に、馬の状態を見物する場所なんやけど……んー、京都競馬場とは、勝手が違いますなぁ」
 はて、ぱどっく?
 俺は、看板が出てないかと思ってきょろきょろと……ん、あれか?
「みおさん…あっちかなあ?」
「あ、それです…行きましょ」
 パドックは……なるほど、ここを回っている馬が、次にレースを走るのか。
 しかし、人が多いなあ…。
「……土曜の午前中やから、少ない方です」
「え、これで…」
「お金賭ける人は、みな真剣ですよって…邪魔にならんように、眺めたらよろし」
 眺めたらいい……と、言われても。
 つーか、馬を生で見るのは初めてなんだけど……結構でかいよなあ、馬。え、あの背中に飛び乗るのって、結構難しそうだぞ。
「と、ま〜〜れぇ〜〜」
 馬が止まって……えっと、騎手か、出てきたのは。
 なるほど、あの、ステップみたいな所に足をかけて乗るわけだ。
 そしてまたぐるぐると馬が歩き出して……え、あれ、馬が、どこに行くんだ?
「行きますえ」
 ぐいぐいぐい。
「え、どこへ?」
「決まってます。これからレースやさかい」
「あ、ああ…」
 ぐいぐいぐい……ぴた。
「どっち行けばいいんやろ?」
 うわーい、みおさんってば、頼りになるんだかならないんだか。
 
「……大分慣れてきましたなあ」
「うん、なんとか」
 俺は頷いた。
 パドック、レース観戦を3回ほど繰りかえし、今またパドックに戻ってきたところだ。
 なるほどねえ、ここで馬の状態とかを観察して、馬券を買って、レースを観戦して、外れた馬券を投げ捨てて(ダメ、絶対)、またここに戻ってくる……そういう流れなのだ、たぶん。
「うち、ホンマは、パドックよりレースを見るのが好きやから、はよう、ゴール前の場所取りしまひょか?」
「うん、わかっ……ん?」
「どないしはりました?」
「あ、いや…あの馬」
 俺が指さした馬を、、みおさんが見た。
「んー、あんまりぱっとしない感じですけど…」
 俺はちょっと苦笑して。
「いや、名前見て…名前」
「名前?」
 馬のゼッケンに、みおさんが目をやった。
「……なかなか見所のある馬のようですなぁ」
 いきなり、前言を翻すみおさん。
「ぱっとしないんじゃなかったの?」
「そんないけずな事いう人は、ウチ、嫌いです」
 ぷいっと、拗ねたようにみおさんがそっぽをむいた。
「はは、じゃあ、次のレースは、あの馬を応援しようか」
「しりまへん」
「そーだ、せっかくだから、馬券を買ってくるよ」
「あ……あんまり、買(こ)うたらあかんよ…」
 みおさんが何か言ってたけど、気にしないことにする。
 というか、期待されてようがされてまいが、俺が応援しないわけにはいかないじゃないか……『ステキミオチャン』なんて、名前の馬。
 
 周囲の人に聞いて、1着になるかどうかの馬券……確か、単勝馬券って言うんだったと思う……を買って、みおさんと一緒にゴール前の場所を確保した。
 彼女はちょっと首を振って『京都競馬場とは回りが逆やから、なんやゴールの場所に違和感があるんやけどなあ…』などと呟いている。
 ちなみに、ゴール前にいると、スタートの様子は見えないけど……トラックの中央に大きなオーロラビジョンがあって、そこにレースの様子を映し出されているから、それを眺めることになる。
 そして、レースが始まった。
 がしゃんっ、とゲートが開いた瞬間。
「うわっ」「あー、ウチのアホっ!」
 俺とみおさんは、ほぼ同時に悲鳴を上げた。
 スタートを失敗したというか、他の馬がスムーズに飛び出したのに、『ステキミオチャン』は前脚を上げるような体勢になって、ぽつんと後ろに取り残されたのだ。
 出遅れ、というらしい。
「あかん、見てられへん…」
「まだ、始まったばかりだって」
「そうやけど…短距離のレースで、スタートに失敗したら、挽回するのは容易やおまへんもん」
 と、みおさんの言葉通り、最後のコーナーを曲がって直線に入ってきたのに、『ステキミオチャン』は、ようやく集団の最後方に追いついた程度。
「そこからそこからっ!」
「ビリだけは、あかんよっ!」
 俺と、みおさんが声を張り上げる。
 集団が長く伸びて、千切れていく。
 最後のスパートをかける馬と、体力切れなのか速度を落とす馬との違いが出てきたからだ。
 2人が応援する『ステキミオチャン』は、直線半ばで5頭ほど抜いて11〜12番手。
「あー、来てる来てるっ」「掲示板(5着まで)っ、せめて、掲示板までっ!」
 俺達2人だけじゃなく、周囲の人間も歓声を飛ばし始めてうるさくなる。
 もちろん、俺達が応援したからって、馬にそれが伝わるわけでも、結果につながるわけでもないんだろうけど…。
 ふっ、と……『ステキミオチャン』の身体が沈み込んだように見えた。
 背中の騎手の手が、激しく動き出す。
 先頭争いを繰り広げる馬の集団……その外から2頭。
 足音を響かせて、俺とみおさんのいる場所に向かって…いや、ゴールに向かっているんだろうけど、突っ込んでくる。
 馬の目が見えた。
 もちろん、馬は俺なんか見ていない……ただ、懸命に走るだけだ。
 俺は、応援するのを忘れて……馬を、目で追い続けていた。周囲の喧噪も消えた。
 目の前を通り過ぎる。
 すでに、コースの外で競り合っている2頭の勝負になったのは素人目にも明らかだ。他の馬とは速度が違いすぎた…。
「見ました?勝ちました、ウチ、勝ちましたえ」
 みおさんが、俺に飛びついてきた。
 みおさんは喜んでいたけど、俺はただ、勝ったのか……としか思わなかった。
 俺には、馬に勝負が理解できるのかどうかわからない。
 もし理解できないとしたら……それでも、ただ馬は走るのか。懸命に。
 走りたいのか。走らされているのか。本能なのか。
 ふと気がつくと、みおさんが俺を見つめていた。
 さっきまで周囲は人で一杯だったのに、また次のレースに向けて、移動したのだろう。
「ええもんですやろ」
 ぽつりと。
「馬が走る姿はなあ、カッコええのや……」
 格好いい……という言葉だけで言い表していいのかどうか……わからなかった俺は、返事ができなかった。
「……競馬場にくる人間のほとんどは、もちろん、馬も好きなんやろけど、お金を賭けにきとります」
「…うん」
「自分の都合で、馬を応援したり、罵倒したりしますけど……それって結局、自分のための応援って事ですやろ」
 みおさんは、ふっとトラックに目をやった。
「馬と気持ちが通じる言う人もいますけど……そのほとんどは錯覚ですやろなあ。馬は、人には関係なく、走るだけや」
「そう……なのかな?」
「もちろん、馬は生き物です…何らかの形で、こちらの気持ちに応えてくれるゆうんを、全部否定はしませんけど」
 みおさんが俺を見て、笑った。
「それでも、うちはお馬さんが走る姿をカッコええと思いますのや。できることなら、自分も、あんな風に走ってみたいとも」
 みおさんの言うそれが、『速く走りたい』と言う意味でないことは当然わかった。
 でも、俺は…彼女が、ちゃんと走っていると思うんだけどなあ。
 ぴろりりろりろりん〜♪
『東京第5レースの払い戻しを発表いたします。1着…番…』
 オーロラビジョンに、さっきのレースの配当が映し出された。
「そういや、馬券買うっていってましたけど、当たったんと違います?」
「あ、うん、1着だったなら…」
 俺は、オーロラビジョンに目をやった。
 えーと、単勝が…7320円。
 ……なんだ、当たったのに、賭けた金額より少なくなるのかよ?
「どないしました?」
「あ、いや…当たったけど、賭けた金額より少なくなったみたいだ」
「まあ、ギャンブルはそういうもんですさかいに。深入りしたらあかんよ」
「そうだね」
 
「ふうん…東京競馬場にもかけそばはあるんやね」
「駅の立ち食いそばと変わらないような…」
「……こっちではどない言うか知りまへんけど、京都競馬場(の一部)では、オケラそば言います」
「オケラ?」
「野暮な言い方すると、スッカラカンってことどす」
「あぁ、なるほど…」
 一番安いもんな、かけそば。
「昔、京都競馬場で聞いた話ですが…中山競馬場の近く(中山競馬場に限ったことではない)には、オケラ街道いわれる通りがあるとか……駅までのバス代が無くて、商店街をぞろぞろと歩きながら、騎手や馬の悪口を…」
「うわぁ…」
 なんか、想像しちまった…。
 
「図らずも、同伴出勤になってしまいましたなあ」
「……というか、まだ開店前じゃあ?」
「ここまで来て、店の外で待つゆうのも殺生な話やから、店長に頼んで中に入れて…」
 みおさんが俺を見て……口を開いたまま固まった。
「…?」
「みおさん、お客様のお出迎えは私の、お・し・ご・と」
「うおっ」
 い、いつの間に……っていうか、腕まで組まれてて、気付けよ俺。
「私は店長だから、その気になれば気配も消せる女」
 と、可愛くポーズをとる店長。
 というか、台詞とポーズが絶望的にあってない。
「気配が消せるって…地獄耳だろ?空が飛べて超音波が出せたら、デ〇ルマン?」
「せめて、デビ〇マンレディで」
 などと、店長が恥じらいながら……。
「ん?」
 店長が唐突に首を傾げ、ふんふん、ふんふん、鼻をひくつかせ始めた。
「ん、なんか匂う?」
「匂うって言うか、お金の臭いがする」
「あはは……確かに、競馬場に出かけたけど、ビギナーズラックはなかったよ……当たったけど、掛け金より少ない配当でがっかりした」
 と、俺はポケットからそれを取り出して店長に見せたのだが。
「や、1点買いで、当たって、掛け金より少なくなることはあり得ないから」
 と、店長が首を振る。
「え、でも、単勝が、7千いくらって…」
 ぴくっと、店長の眉があがった。
「7千…」
「そう、5万円買ったのに、配当が7千円。やっぱ、慣れないことはするもんじゃないって、よくわかった」
「あ、あー」
 店長は、ちょっとそっぽを向いて頭をかき。
「えっとね……私、ピュア淑女だから、ギャンブルのことなんか全然詳しくないの。『2が一番死ねる』とか言われてもその意味も分からないし、笑えないんだけど、その、…えっと…競馬の配当の発表って、100円に対しての配当を示すの」
「……?」
「わかりやすく言うと、7千円だと、掛け金に対して70倍の配当ってこと」
 70倍…。
 ああ、5万円に対して70倍って事か。
 俺はなんとなく、みおさんを見た。
 みおさんも、どこかぼんやりした表情で俺を見つめていた。
 そして、その隙に店長が馬券をポケットにねじ込んで、その場から立ち去ろうとしていた。(笑)
 いや、まあ……本気でやるつもりなら、わざわざ俺に説明なんかしなかっただろうから、ツッコミ待ちの冗談だったのは間違いないだろうけどね。
 
「しかし…この紙切れが…」
 みおさんが、馬券を手にとってしみじみと呟いた。
「……350万どすか」
「正確には、366万…かな」
 そう訂正しながら、俺はどこか冷めていた。
 たぶん、普通なら興奮したり喜んだりする所なんだろうけど……2年、いや、3年前なら、少しは喜べただろうか。
 俺は、口元だけでちょっと笑って首を振った。
 むしろ、絶望が深くなっただけだろう……あの状況で、300万程度じゃ、焼け石に水だったから。
 そして……今となっては、俺には無用の金でしかない。
「……これだけあったら、色々と研究材料も揃えられるんやけど」
 みおさんは、にこっと笑って馬券を俺に手渡した。
「残念やけど、これはうちのもんやあらへんからな」
「……やっぱり、発明家って、お金かかるんだ」
「それは、まあ……せやけど、ウチの選んだ道やからな。そのあたりの苦労も、自分で背負い込む覚悟ぐらいしてます」
 俺はみおさんを見つめ……自分の手の、紙切れに視線を落とした。
 俺には無用の金で使い道もないけど、みおさんにはそうじゃない。
 俺が差し出したそれを見て、みおさんが眉をひそめた。
「……なんやの?」
「これ、発明に使ってよ」
「てんご言うたら、あきまへんえ……そもそも、『はい、そうですか』言うて、受け取れるもんでもあらしまへんやろ、こんな大金」
 ……ああ、『てんご』って、冗談とか、そういう意味の言葉か。
「いや、真面目な話……俺が持ってるより、みおさんが発明に使った方が、よっぽど世のため人のためというか……」
「ウチに、恵んでやる言うてますの」
 ああ、ちょっと誤解を招く言い方だったか。
「いや、そうじゃなくて……」
 俺は、酒を一口飲んでから言った。
「……前に言ったよね。『今の俺は、特に人生の目標もなく、色んなバイトで生活費を稼いで生きているだけの、ただのフリーター』だって…」
 みおさんは、何も言わずに俺をきつい目で睨んでいる。
 ああ……俺は別に、みおさんを傷つけたいわけじゃないのに。
「……何もない俺に、こんな大金は必要ないんだよ。それに、みおさんが誘ってくれなきゃ、俺は競馬場なんかに行かなかったし、みおさんがそばにいなければ、馬券なんか買わなかった」
「……」
「みおさんには発明という目標があるし……俺が言うのも何だけど、すごく才能があると思う。周囲を幸せにするとか……それは、俺にはできないことだから。何もない俺には、この金をみおさんに渡すぐらいしかないんだよ」
「……金がすべてとは思いまへんけど、お金が大事なのは、みな同じですやろ?アホなこと言わんと、これは、アンタはんが必要になるときまでとっておいたらよろし」
 俺は、紙切れじゃなくグラスを手にとって飲んだ。
「……みおさん、タイムマシンってできる?」
「理論的には可能いいますけどなあ…」
「そっか…」
 俺はまた酒を飲み。
「じゃあ、この金が必要になるときは、俺にはもう来ないと思う」
「……そんなことはあらしまへん」
 俺は、通りかかった黒服を呼び止めて、新たに酒を注文した。
「……300万は、それほど大金じゃないよ」
「は?」
「高校中退でも、昼も夜もなく、ちょっとばかり怪しげな仕事なんかも区別無く働き続ければ、1年でそれ以上は貯められるんだよ」
 ああ、酔ってるな……そう思いながら、俺は黒服の娘が持ってきてくれた酒を、また飲んだ。
 酒、というより、過去の記憶が、俺の意識を酔わせているのか。
「入ったばかりの高校を辞めてから3年ちょっとで、俺は1500万貯めたよ」
「……」
「まあ、税金とか払ってないからあれだけど…」
 申告できない金が混ざってたのもあるし……と、俺は口元を歪めて笑い、酒を飲む。
「……ウチに、事情を聞け、言うてます?」
「別に…ただ、金ってのは、必要なときに、必要な分だけなけりゃ、何の意味もないって言いたいだけだよ」
 今度は、みおさんが酒を飲んだ。
「……何のために、貯めたんや?」
「妹をさ、海外に連れて行って、臓器移植を受けさせたかったんだ。それだけ」
「……」
 なんだろう……こうして身の上話をするのは、店で働いてる女性の方だったんじゃないのかなあ……俺は、なんとなくそんなことを考えた。
「まあ、色々あったんだけどね……俺の両親はね、ただの疲労って言うか、寝不足で事故を起こした……俺はそう信じているけどね……事情が事情だけに、保険金狙いの自殺と判断されてさあ」
 生命保険の種類にもよるけど、自殺には保険金が下りない。
 保険会社としては、これは当然自殺であって欲しかっただろう。
 馬鹿な兄貴は、保険会社と警察関係者との間に、何か不正な意志疎通があったんじゃないかって……そんな時間があったら、1円でも多く金を稼げば良かったんだ。
「……募金とか」
 ぽつりと、みおさんが呟いた言葉を俺は笑い飛ばした。
「みおさん、みおさん……確かに、俺の家族にはそれがすべてだったけどね、この国全体で考えれば、移植待ちの患者なんか珍しくも何ともないんだよ」
 また、酒を飲む。
 なんだろう……他人に話すのは初めてだけど、どこか自虐的な気分に浸れて、そう悪いもんじゃない感じがする。
「でも、テレビとかで、たまに…」
「『たまに』だから、だよ、みおさん。しょっちゅうだと番組にならないし、またかってことで、寄付も集まらない。ついでに言うと、そうして番組にとり上げられるのは、テレビ局のお偉いさんに対して、何らかのコネがある人間だけさ」
「……」
 と、いうか……募金って許可が必要なんだけど、話す必要もないか。
「ついでに言うと、海外に行って臓器移植をするってことは、金の力で順番待ちに割り込むって事なんだ……妹は、ひどくそれを嫌がってたよ」
 臓器移植を行うには、その適合性が問題になってくるから……基本的に、あくまでも基本的にだけどな、緊急性の高い患者から順番を割り当てられてて、そこに割り込まれると、後に続く患者数人、十数人、下手をすれば数十人以上が、移植が間に合わずに命を落とすことになる。
 グラスの酒を飲み干して……俺は、囁くように言った。
「他人を殺してでも、助けたかった……妹と違って、俺は、ひどい人間だから」
「そうどすか……間に合わんかったんやな」
「間に合うも何も…」
 ボトルから、グラスに酒を注ぐ。
「移植を必要とするモノがモノだったからね、アメリカなら最低でも1億以上……東南アジアでも、表と裏で変わってくるけど、まあ4千万はくだらないらしくてね……はは、命って高いのか安いのか、よくわかんねーや」
 まあ、移植したから助かると決まったわけでもない。
「……」
 ああ、なんかわかったような気がする。
 頭の中で考えるだけじゃなく、実際に言葉にするって大事なのかもな。
「……みおさん、俺は金に執着がないんじゃなくて、恨んでるんだよ」
 必要なだけ、生きていくだけあればいい。
 執着しないことで、意趣返しをする……俺の心を分析すれば、たぶん、そんな感じじゃないだろうか。
「だから、俺は……俺には、これはいらない。、みおさんがもらってくれると、ありがたいんだ」
 テーブルの上の紙切れ……大金を紙切れのように扱う。
 妹が、俺の家族が……こんな紙切れより大事なモノだなんてことはない。だから、これでいい。
 ふと、気付いた。
「ああ、そうか…」
「……?」
「この店で俺は…あの金を使い切ってしまいたかったのかな」
「…っ!」
 みおさんがテーブルの上のグラスをつかんで、中身を俺にひっかけた。
 たまたま通りかかった黒服が、それを目撃して固まる。
 さっきまでの、不思議な酔いの感覚はすっかり冷めていたから、俺はそれがちゃんとわかった。
 ああ、まずいな。騒ぎにならないようにしなきゃ…と、いう考えも浮かんだのだが。
 俺の酔いを醒まさせ、冷静にさせたはずの、みおさんの表情というか、怒りが、俺の考えを実行に移させなかった。
「……捨てに来た…言うてますんやな」
「…ぇ?」
「大事な家族のために身を削って貯めた金を……あんたは、捨てに来るためにこの店に通ってる言うてんのやろ」
 みおさんは、テーブルの上の馬券をつかんで、俺の顔に投げつけた。
「みお…さん…」
「うち、こんなもん、いらんよ」
 冷え冷えとした声。
「ウチは、アンタが捨てる言うモノを、有り難がって押し頂くようなまねをする女やあらしまへん」
「……」
「捨てたい言うのなら…いらん言うのなら……どこかの誰に役立てたい思うのなら…どこかに寄付でもすればいいやろ」
 寄付…。
「こんな店で、未練たらしく使うより、その方が、なんぼか男らしうおまっせ」
 ああ、そうか…そういう方法もあったのか。
「あんたがこの店に通うのは勝手どす。でも、うちは、そんなお金で指名されるのはごめんや」
 そう、言い残して……みおさんは席を立った。
 
「えーと、なんというか…申し訳ない」
 俺は見送りに来てくれた店長に向かって頭を下げた。
「悪いのは、みおさんじゃなく、俺だから……その…」
「……人を最期に傷つけるのは、悪意じゃなくて好意なの」
「……」
 確か、前にも言われた…な。
「しかしっ」
「っ?」
「あなたは私が見初めたピュア紳士。これを乗り越えて、一回り大きくなって帰ってくると、私は、私だけは信じてる」
 だから、何故ポーズをとるんだろう…っていうか?
「会員抹消じゃ、ねえの?」
 店長は、俺をちょっと見つめて。
「……少なくとも、後一度はみおさんに会いに来るはずでしょ」
「ああ……でも、その先は…どうだろ」
「えっと…」
 店長はちょっと困ったような表情で……俺に向かっていった。
「約束したから、一度指名したから、謝らなきゃいけないから…」
「……」
「そういう理由が無くなったとき、あなたの心の中に残るモノは何かしら?」
 俺はちょっと頭をかいて、呟いた。
「なんですかね…」
 
 高額の寄付、というより、俺みたいな若造がそれをしたということの方が珍しかったのだろう。
 と、いうか……寄付証明の書類なんてもんがあるんだなあ。
 ああ、これが確定申告の時の、控除分ってやつか。
「……」
 俺は、なんとなく空を見上げた……そして、ちょっと笑う。
 あの時と同じ、というか……あれからもう半年以上過ぎたのか。
 梅雨も後半、はっきりしない空模様ってやつだ。
 俺は、残高の無くなった通帳に目をやった。
 全部が全部ではないが、入金の額を見れば、自分が何のバイトをしたのかを、おぼろげに思い出すことができる。
「……おかしいな」
 この、延々と続く入金は、俺の無力さを示す証拠のはずなのに……何故、妹の微笑みを思い出したりしてしまうのだろう。
 いや、妹だけじゃなく……兄貴も、両親も……俺に向かって笑いかけている。
 俺は、また、空を見上げた。
 涙が、こぼれないように……だ。
 確か、そんな歌があった気がする。
 思ってた以上に、俺はこの金に縛られていたのかも知れない。
 元々必要の無かった金が、無くなっただけ。
 ただ、それだけなのに……俺は、自分の心がひどく軽くなっていることに気付いた。
 俺は、空を見上げたまま公園に向かって歩いていった……他人が見れば、さぞかし変だっただろう、俺の姿は。
 3冊の通帳をバラバラにほぐしてから、ライターで火をつけた。
 燃えていく。
 これが、燃えつきても……俺は、家族のことを覚えているし、決して忘れやしない。
 だから、これは無くなってもいいものだった。
「……?」
 ふっと背後に目をやった。
 気のせいか……って、そりゃ公園で、何かを燃やしてたら目立つか。
 
「あ、あの…みおちゃん」
「は?」
「も、もうすぐ開店だから、そ、そんな…怖い顔しないで」
「なんで、うちが怖い顔しなきゃいけまへんの?」
「それは…その…あの人が、もう1ヶ月も店に来ないから」
 みおは、魅杏に向かって引きつったような笑みを浮かべ。
「何をいうてますの…あんな、未練がましい男が、店に来いひんからって、ウチが怖い顔する理由にはならしまへんやろ?」
「え、えっと…」
「むしろ、ウチは清々してますえ?当然でっしゃろ?」
「う、う〜、う〜」
 魅杏は、みおが一歩、また一歩と近づくたびに、顔を横に振る。
 そんな2人を眺めて、某ホストガールがため息をついた。
「店の中に、強烈な低気圧がふたつもあったら、やりにくいわぁ」
 
 もちろん、もう一つの低気圧といえば…。
 
「……やる気あんの、アンタ?」
「あ、あああ、ありますっ、ありますぅっ」
「ふうん、やる気があってこの程度なんだ……グズと言われても仕方ないわね、アンタ」
 などと、新しく店にやってきた娘への教育に余念がない。(笑)
 ただ、店長とみおが直接ぶつかり合ったりしないのが、他の人間にとっては不思議というか、不幸中の幸いなのだが。
「はいはーい。ホストガールのみなさん、集まって…はあ、めんどくさ」
「うわ、テンション低っ」
「店長さん、そういうの良くないのです。あのお客さん、しっかりした店長さんのこと、大事に思ってた、思いますのです」
「おっと、いけないいけない、つい本音が」
 てへっと、舌を出す店長を見て、ホストガールの半分ほどが、目のあたりに縦線が入った。
「そうよね、本音と建て前を状況に応じて使い分けてこそ、初めて一人前の女だものねえ…」
 魅杏は、さりげなく、店長の視線というか、視界からみおの身体を隠すように動いていたりする。
「さて、今日の予定はどうでも…」
 たーん、たーた、たーん♪
 着信音を合図に、まさしく電光石火の動きで、店長が携帯をとりだした。
 そして、メールチェック。
「きたぁっ!」
 ぱあああぁっと、店長の顔が晴れやかに変化したのを見て、ホストガールの面々が、遅い梅雨明けを実感したのは言うまでもない。
「はい、みんな夏バテなんかしてる場合じゃないわよ、気合い入れて」
 などと、いきなりテンションあがった店長を、某ホストガールは死んだ魚の目で眺めながら、『今の…ウエディングマーチやなかったか?』などと、ちょっとすれた事を考えていた。
 そして、魅杏は……おそるおそる、背後のみおを振り返り……慌てて目をそらした。
 
「よう、ウチの前に顔出せましたなあ…」
 なかなか辛辣な挨拶だけど、これは仕方がない。
 今日、俺は謝罪と報告に来ただけだし。
「まず、みおさんにはお礼を言うよ」
「お礼?」
 みおさんは、首を傾げて。
「何の皮肉です?」
「いや、そうじゃなくて……どうも思ってた以上に、俺は金に縛られてたことがわかったから」
「……」
 俺は、あの金を……この前の競馬の配当も含めて、寄付したことを話した。
 最初はどこに寄付すればいいのかさっぱりわからなくて、色々と調べる羽目になった事も合わせて、だ。
 みおさんは、黙って俺の話を聞いてくれた。
 この前のことは、決してみおさんのことを軽んじるわけじゃなくて……ただ、俺は、自分のことしか考えていなかった……と、謝りもしたのだが、やはりみおさんは黙って聞いていただけだった。
 まあ、謝罪に関しては……許してもらえるとは思っていない。
 この店で、店長に最初に言われたこと……『消去法でもなく、選ばされるのでもない……あなた自身が考えて、あなた自身が選ぶの。それでこそ、ホストガールは選ばれた自分に誇りを持っていられる』……俺は、そのことを失念していたように思う。
 俺は、みおさんの誇りを傷つけ……侮辱したのだから。
 話すことは話した……と、俺は立ち上がった。
「じゃあ、みおさん。俺はこれで…」
「まだやろ」
「え?」
「まだ、何か…言うこと…あらへんか?」
 えーと…?
 みおさんが、俺をきっと睨んで。
「なんで…1ヶ月も、ウチを待たせたんや?」
「……あぁ」
 俺は、ちょっと頭をかいて。
「いや、だから……俺は、ただのフリーターだからだよ、みおさん」
「……?」
「ちゃんと稼がないと、この店には通えないって」
「ぁ…」
 みおさんが、急に顔を赤らめてうつむいた。
 それはそれで、俺は立ち去るきっかけを失い……みおさんを見つめていたのだけど。
「……うち、わがまま言うてもええやろか?」
「え?」
「また…うちに…会いに来て」
 さらに深くうつむいたみおさんの、耳が真っ赤だった。
 
「それで…どう?」
「……」
 俺は、頭をかき……ふっと、ドリームクラブの建物に目をやって、しばらく見つめた。
 おそらくは、顔を真っ赤にして呟いたみおさん。
 あれは、約束……なのかなあ。
 ああ、でも……みおさんに、ああ言ってもらえて、ほっとしたのは確かなんだ。
 許してもらえたからというんじゃなく、また彼女に会える……から。
「また、会いたい…かな」
 ふうっと、息を吐く音。
 俺は店長を見つめた。
「あ、気にしないで……ちょっとね、ギャンブルだったの。好きじゃないんだけど」
「…?」
 首を傾げた俺に向かって、店長は笑いかけて。
「寄付したお金……あなたは、自分にとって何の役にも立たなかったって思ってるかも知れないけど、そうじゃないのよ」
「……」
「いずれ…わかるかも知れないわ」
 そう言って、店長はまたいつものように俺から距離を取り。
「またのご来店をお待ちしてます」
 と、頭を下げた。
 
 以前のように、毎週は通えない。
 と、いうか……仕事量は増やした。
 あの店に通うため……いや、みおさんに会うために。
 人は、そんな俺を笑うかも知れないが、何の目的もなく日々を過ごしていた頃に比べれば、俺は日々の生活に何かぐっとハリのようなモノを感じるようになっていた。
 言い換えれば……生きている、そんな実感をだ。
 
「んー、お金に余裕のないあなたには、朗報とは言い難いのだけど」
「な、なんでしょう?」
 店長は、ちょっと笑って。
「まあ、みおさんに聞いて」
「……?」
 
「あ、あの…今日はこちらへ」
 と、みおさんが階段を指し示した。
 二階へと続く……VIP席。
 みおさんの顔が赤い…。
 いかん、ちょっと勘違いしてしまいそうだ。
 そうだ、俺はピュア紳士で、この店にはエッ〇なサービスはありません……よし。
 俺は、みおさんの後について、階段を上がっていく。
 んー、あんまり変わった感じは受けないけど…これが、VIP席。
 何がVIP席かって、基本料金と指名料、そして延長料金が倍になるんだ。
 なるほど、そりゃ確かに朗報とは言えないよ、店長さん…。
「あ、あの…ちょっとわがままいうてもええやろか?」
「ん、なに?」
「その…おつまみを…」
「ん?」
 俺は首を傾げた。
 おつまみなら、いままでだって別に普通に注文してたのに、何も今さら。
 そんな俺の疑問が伝わったのだろう、みおさんは恥ずかしげに呟いた。
「こ、この…VIP席でしか、たのめないおつまみがあるんです…」
「へえ、そんなのがあるんだ…うん、いいよ。頼もうよ」
「お、おおきに…」
 でも、みおさんはちらっと、俺を見て。
「う、うちを…はしたない女やなんて、思わんといておくれやす…」
 え、はしたない?
 それは…なんの…こと?
 
 しばらくして、黒服が持ってきたそれ。
 知ってる、俺はそれを知ってる……こういう商売の錬金術というか、フルーツの盛り合わせ(ぴー)万円ほど金額的には凶悪ではないかも知れないが、ある意味それ以上に許せない錬金術のひとつだ。
 まあ、コンビニでもスーパーでもいいけど、定価150円のポッ〇ーの袋を開けて、グラスに丸くセットする。
 俺が働いたことのある店で、それが2000円だった。
 まあ、この店では1500円だから、良心的なのか。それでも、定価の10倍の値段だ……錬金術としか表現のしようがない。
 でも、『わがまま』という言葉の値段じゃないし…『はしたない』ってどういう意味なんだろう。
 俺が、グラスにセットされたそれを眺めていると、みおさんがそれを一本手にとって口にくわえた。
「……」
「……食べないの?」
 みおさんは、顔を真っ赤にして……一旦それを、指に持った。
「こ、これは……その…うちと…あんたはんとで…食べるん…どす」
「あ、うん、いただきます…」
 と、俺はグラスから一本それを手にとって…。
「……あれ、違うの?」
 
「え、えっと…これは…その…」
 みおさんだけじゃなく、たぶん、俺の顔も真っ赤だろう。
 つまり、みおさんのくわえたそれを、俺が…その、かじっていくわけだ。
 ちなみに、〇ッキーの長さは約20センチ……それをくわえているから、その、みおさんとの顔の距離が…初期状態で…10センチちょっとの至近距離になる…わけで。
 今さらだけど、みおさんは美人で…大きくて綺麗な目をしていて…まつげが長くて…鼻がすっと高くて…ああ、いやいや…狼狽えるな、俺。
「あ、あの…信じてもらえんかもしれんけど…うち、このゲームをするん、初めて…やから…」
 今、それを言うのは逆効果です、みおさん。
「そ、そんな恥ずかしがらんといて…うちまで…」
 いや、既に顔が真っ赤なんだってば、みおさん。
 ちなみに、俺も、みおさんも、注文はしたけど、まだ一滴も酒を飲んでもないから。
「……ん」
 もう、何度目のトライになるのか、みおさんがそれをくわえて俺の方につきだした。
「み、みお…さん…せめて…目をつぶって」
 じっと、見られると…。
 また、みおさんがそれを手に取る。
「いけずなこと言わんといて…うち、あんたの顔を、ずっと見ていたいんやから…」
「……」
「……ぁ」
 みおさんの手から、ポッ〇ーがぽろっと落ちる。
 それを拾おうともせず、2人同時に、目をそらす。
 これも、何度目だよ。
 
「……まあ、VIP席ってのは、イチャイチャぶりを周囲に見せないためにあるんだけどね」
「独り言ですか、店長さん?」
「そう、私は、健気な店長さんだから…」
 店長の呟きに、アイリがちょっと首を傾げた。
 
 1年の終わりに向けて、時の流れは加速していく。
 それは、俺が長らく忘れていた感覚だった。
 1日が長かったり、短かったり……ふとした景色に目を奪われたりすること。
 たぶん、それは当たり前で、何でもないこと……でも、それこそが、生きるということなのだろう。
 両親も、兄も、妹も死んで……決して、それを忘れたわけじゃないけれど、俺は生きている。
 でも……人は、1人でも生きていけるけど、生きていくだけしかできないんだ。
 
「いらっしゃいませ」
 相変わらず、この店長さんは、店の外で俺を出迎えてくれる。
 今さらながらに俺は思う。
 この人がいなければ、俺は……。
「えっと、子供は3人欲しいな」
 俺が礼を言う前に、軽くいなされた。
 俺はたぶん、この人には一生かなわないんだろう。
「いや、あの…本気なんだけど…」
 今夜は、俺は仕事が終わってから、みおさんと会う約束をするつもりだ。たぶん、それをどこかで気付いているんだと思う、この人は。
「私っ、私の方っ!軽くいなされてるのは私の方だと思うのっ!」
 
「ははっ、これって…アフターやね」
 私服のみおさんと、夜の街を並んで歩く。
 俺があまり喋らないから、みおさんがその分喋ることになる。
 それも最初だけで……やがて、みおさんもあまり口を開かなくなり、2人はただ静かに歩く。
「……ぁ」
 曲がり角で、みおさんが小さく声を上げた。
「どうかした?」
「あ、えと…その…」
 みおさんは恥ずかしそうに。
「こっちやのうて…そっちの道…なん?」
「え?」
 みおさんが、控えめに指さす方角は……なんというか、お泊まり所が数軒…。
「あ、いや…その…ちょっと、話があって…この先の公園で…」
「あ、う、そ、そーやったんか…うち…てっきり…」
 ますます口数が少なくなった俺達は、足早に公園までたどりついた。
 
「俺、みおさんと共に生きていきたい」
 事前に色々と考えて、この言葉を口にするまでに回りくどいことを話したけど……つまりは、それが、俺の望みだった。
 望みだったんだけど……な。
 みおさんの表情から、その答えは予想できた。
「それは…あかんよ」
「……そう…か」
 ショックではあったが、みおさんがそう言うなら仕方ない、とも思った。
 世の中、思い通りにいかないことを……俺は、骨の髄まで理解しているつもりだ。
「……うちは、なあ」
 ぽつりと。
「強くもないし、優しくもあらへん……今まで偉そうなこと言うてたんはなあ、うちの願望どす」
「そんなこと、無いと思うよ」
 みおさんはちょっと笑って……自分の腕を指さした。
「これもなあ、うちの発明なんよ」
「……?」
 みおさんが、肘のあたりを爪でひっかく……と、うすい膜のようなモノが、ぴーっと剥がれていった。
「手袋…?」
「ホンマは、うちは嘘つきで見栄っ張りなんや……これも、見せたくないモノを隠すためのものどす」
 そうして、それが剥がれてしまうと……みおさんの手首の傷が露わになった。
「それ…は」
「臆病でもあるんやなあ。死のう思たら、もっと確実な方法がいくらでもあるのに……まあ、それはええわ。聞いて面白い話でもないやろ」
 みおさんは、俺を見て少し狼狽えたように。
「ちょいと待って」
「え」
「……そないまで、うちの事を想うてくれるのは、正直嬉しゅおす。でも、あかんのや。うちは、あんたとは、共には生きていけまへん」
 そう言うと、みおさんは笑って………手に持っていた肌色の人口スキン(?)かなにかを、投げ捨てた。
「……いいの?」
 みおさんは、それには答えず。
「うち、店に忘れ物をしてきたようです…ついてきてくれますか?」
「うん、それは…いいけど…」
 そして、俺とみおさんはまた、夜の街を歩き出した。
 急ぐでもなく、ゆっくりでもないペースで。
 その角を曲がれば、と、いうところでみおさんが不意に立ち止まった。
「みおさん…?」
「……きに」
「え?」
「おおきに…おおきに…うちのこと想ってくれて…おおきに…でも、堪忍や…うちは、あかん…あかんのや…」
 みおさんが、そう呟きながら、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「え、ちょっ…みおさん…?」
 いきなり、みおさんが走り出した。
 角を曲がったところで、俺ははっと我を取り戻して後を追い……足を止めた。
 ドリームクラブの建物が立っているはずの場所……そこには、何もなかった。
「……え?」
 さっきまで……いや、それより、みおさんは?
 俺は、今やだだっ広い空き地と化した場所に足を……。
「待ってっ!」
 横合いから体当たりを食らって、俺は転がった。
「……店長?」
 俺の身体にしがみついたまま、店長が言う。
「もう、1年経つの……今日が…いえ、もう昨日が…あなたが、ここに来られる最期の日だったの」
「え、あ…そりゃそうだけど…何の話…をしてるんだ?」
「あなたは、生きることを決意した…そうでしょ?」
 だから、話が…見えないんですが。
「生きることを決意したなら、あなたは生きなきゃいけない……それが、決まりなの」
「……」
「……ここは、いえ、この店は…現世と幽世の境にあるの…生きることを決意したあなたが帰るべき場所は、ここじゃない」
 店長の言ってることは、俺には何もわからなかった。
 なのに、俺にはわかってしまった。
 なんだ、それ…?
 みおさんは…彼女は…そもそも、生きることを…放棄してるって事か?
 悲しかった。
 みおさんのことじゃなく、彼女にそれをもらったはずの俺が、彼女にそれを与えられなかったことが、だ。
 ああ、またか…またなのか…。
 俺は、俺が大事に思う存在に対して……何もしてあげられなかったのか。
「……っ…」
 そりゃそうだ……人が、そんなにポンポン変わるわけがない。
 俺はずっと、俺でしかない。
 泣いていた俺に、不意に店長がささやきかけてきた。
「…ねえ」
 優しい……優しすぎて、ぞっと寒気がするような声だった。
「私…、あなたのこと、本気よ」
 包み込まれるような声。
 ああ…だとすると…この店長は…。
 いままでの、店長との会話がよみがえり……それが、あるべきところに収まっていく。
 胸が張り裂けてしまいそうな激情が……収まっていく。
「……雇われ店長なんだろ、あんた」
「…ええ」
「大丈夫なのか?色々と勝手なことをしたんじゃないのか…俺のせいで」
 ずっと、俺に対して優しかった。
 たぶん、それは……不公平なことだ。
「……」
「……痛い、痛いって」
 俺の身体を強く抱きしめながら、店長が絞り出すように言う。
「わ、私のモノにしたい…すっごくしたいぃぃ…この世の果てで、あなたと2人っきりで過ごすのぉぉ」
 ほんとに、俺はこの人にどのぐらい救われたんだろうか…。
「……ありがとう」
 
「……行っちゃうの?」
 泣きそうな表情で…というか、ホントに泣いてるんだけど、店長が言う。
「……いつでも死ぬ事ができるなら、生きていられるうちは、生きなきゃ損だろ」
「みおさんは…いないのよ」
「……うん」
 店長は、グシグシと涙を拭いて言った。
「あのね、2つだけ覚えておいて……あなたが1年を過ごしたこの世界は、現世と瓜二つだけど、『現世にはドリームクラブは存在しない』から、確かめに行っても無駄よ」
「うん…」
「それと…いまの気持ちを、決して忘れないで。最後まで貫くのよ、いい?」
「……色々ありがとう」
 店長はまぶしそうに俺を見つめ…言った。
「……あのね、あなたが貯めたお金……あれがあなたを救ったの」
「え?」
「あなたは、心の奥であのお金に強い気持ちを残してた……だから、ギリギリで、ここにとどまることができたの」
「……俺、死んでたの?」
「あのお店に来られるのは、ごく一部の人間だけ……たいていは、さくっと死ぬし、未練に引っ張られるだけでも、えっと…幽霊にしかなれないの」
「……え?」
「ああ、はいはい…じゃあ、行った行った」
 俺は、店長に尻を蹴飛ばされ……そこで意識を失った。
 
「……」
 白い天井が、見えた。
 あれ、俺って…店長に蹴飛ばされて……。
「あっ」
 いきなり、視界に女が現れた。
「よかった。目を覚ましたんですね?状況、わかります?ここ、病院です……(以下略)」
 良く喋る。
 髪の長さをのぞけば…ああ、少し、店長に似てるや。
「…っていっけない、ナースコール、ナースコール……おそい、直接呼びに行ってきます」
 ……ああ、嵐のような女ってのは、ああいう感じなのかなあ。
 
 暴行を受けていた女性を助けに入ったが、頭を殴られて意識不明の重体……良く喋る女が、俺が助けた相手らしいが、どうやら、この世界ではそういうことになってるらしい。
 なるほどなあ……今思えば、あの時、頭とか痛くなかったのは、そういうことか。
「もう、私本当に心配で心配で、あ、ちゃんと助けてくれたことには感謝感激雨霰で、心配したり、感謝したり、このまま目を覚まさないんじゃないかって不安になったり……」
「……本当に良く喋るな、アンタ」
「あ、ああ、うるさかったですか?ごめんなさい、よく言われます」
「……いや、それはいいんだが、肝心なことを教えてもらってないんだが」
「え…あ、あー」
 女はちょっと顔を赤らめ。
「1月1日生まれの、B型です」
「名前だ、名前…ずっと、アンタって呼ぶのはどうも気が引ける」
「そうですか?」
 きょとんと、女。
「まあ、アンタがいいならいいが……こっちが本題だが、正直に答えてくれ」
「はい、なんせあなたは、私の命の恩人様ですからぁ」
「まあ、俺が勝手にやったことだか…」
「命を助けられたら、命であがなえと、おばーちゃんから教えられましたぁ」
「そんなもんはいらん」
「えー。自分で言うのも何ですけど、私若くて可愛いですよ」
「それは否定しないが」
「きゃー」
 ばんばんばん。
 女の手が、俺の身体をばんばん叩く…叩いている。
「……」
「……ぁ」
 女がすっと手を引っ込めた。
「実はな、足の感覚がない」
「……えっと、少し神経に損傷があって、リハビリ次第で元に戻るかもぉ」
「……なるほど」
「うわ、すごい…とっても冷静。私、それを盗み聞きしたとき、ショックで暴れ回りました」
「よし、とりあえず、どこから突っ込めばいい?」
 店長に、みおさん……生き返ったはいいが、現実はなかなかシビアだよ。
 
「正直助かるんだがな、あんたも、自分の生活とかあるだろ?」
「はい、私ぴちぴちの女子大生で、卒論も提出済みでっす。すくなくとも、卒業までは、激しく暇というか、時間あります。というか、あなたに付きっきりでお世話する予定ですよぉ」
 えーと…じゃあ、俺は死ぬ気で、3月中旬までに、1人で生活できる程度にリハビリをおわらせなきゃならんな。
 この女、口にする言葉は軽いが……『私を助けようとしてそうなったんですから』とかいって、一生、俺の世話をしかねんところがある。
 俺は、歯を食いしばってリハビリに励んだ。
 
「ふんぬっ」
 がっしゃん、がっしゃん…。
 リハビリ室の中の、トレーニングマシンで汗を流す俺……を、女と、医師が目を丸くして見つめていた。
「どうだ、完全復活…っていうか、むしろ以前よりビルドアップされたはずだ」
「うわあ、すごいですっ、たくましいです、憧れます」
「……うわ…これ…学会に提出できる特別症例かも」
 まあ、医師はおいといて。
「と、いうわけで…今まで散々迷惑かけて世話になったが、俺はこの通り、完全に大丈夫だ。4月から就職だろ。心おきなく、そっちに専念してくれ」
「えー」
 そこ、嫌そうな返事をするところか?
「あ、ひらめいた」
 女がぱんっと手を叩いて言った。
「あなたに、永久就職」
「俺は無職だ」
「健やかなるときも、病めるときも…これが、愛ですよね?」
「いや、アンタのそれはたぶん愛じゃなくて義務感とかそういう…」
「義務感によって、社会は回っていくんですよぉ」
「社会が回っても、人間関係がどこかで破綻するぞきっと」
「大丈夫です。2人のために、世界はあります」
 つーか、こいつ、ホントに店長に似てるよな……。
 微かな、ひっかかり。
 似てる……だけか?
「店長さん…?」
「な、何をいきなり…わ、私は、健気に頑張る店長さんなどではありませんよ」
 汗が、いきなり冷えた。
「……」
「……あ、あの…どうしました?ほら、私、バイトでちょっとだけ雇われ店長みたいな立場だったんですよぉ」
 俺は息を吐いた。
 この人……ホントに、俺に対して優しいというか甘いよなあ。
 何故か無性に笑えてきた。
 俺を、助けよう、助けようとしてくれるこの人は……彼女を、助けようとはしてくれない。
 そりゃそうだ……自分を助けるのは、己自身だけだと、偉い人もいっている。
 というか……本当は、こんな風に、俺に対して甘いなんて…許されないこととしか…思えないんだよな。
 俺は、笑って言った。
「ちょいと、つきあってくれるか?」
「あ、はい、どこまでもお供しますよぉ」
 
 病院を出て……俺は、自分の足で歩いた。
 女は……っていうか、100%店長だよな……いつもの饒舌が影を潜めて、何も喋らない。
 それが、あの場所が近づいてくると、唐突に口を開いたのだった。
「このあたり、遠坂って地名なんです」
「へえ」
「おかしいと思いません……だって、このあたり、坂なんて無いですから」
「そう言われりゃ…そうだな」
「この国の各地に、同じような場所がいくつかあるんです……坂もないのに、地名は遠坂。もちろん、そのほとんどがダミーなんですけど」
 女が喋り続ける。
「この世のどこからも、最も遠い坂……わかります?」
 俺が首を振ると、女はにこっと笑って言った。
「記紀において、黄泉比良坂と呼ばれる坂……現世と幽世の境、地界に通じる道。これは、この国だけじゃなく、世界各地の神話にある伝承なの」
 そして俺は、あの日と言っていいのか……あの時、みおさんと別れた角を曲がった。
「……」
「うん、まあ…そういうこと」
 女は、店長の口調でそう言った。
「生きることを決意して、はいそうですかで戻れるほど、甘くはないって事よ……興味があったら調べてみて。現世に戻る際に、色んな妨害を受ける話が、世界各地の神話に散見できるから」
 俺は、店長の話を上の空で聞きながら……じっと、ドリームクラブの建物を見つめていた。
「そのひとつにね、あの世の食物を口にした人間は、現世に戻ることができないって話があるの……ここでいう食物は、ただ単純に食べ物ってわけじゃないのね」
「その割には……随分と、俺に対して甘かったよな、アンタ」
「惚れた弱み、よ」
 そう言って笑った店長を、俺はそっと抱きしめた。
「な、ななななにっ?わ、私と愛の逃避行を決心しちゃった?」
「いや…悪い…次は、みおさんだけじゃなく…アンタも…いないんだよな」
 店長は何も言わず、ただ俺を抱きしめ返してくれた。
 
 そして、俺は戻ってきた…たぶんな。(笑)
 約1年にわたって意識不明だった俺の身体は、冗談でも何でもなく、骨と皮だけになっていた。
 誰かを助けたわけでもなく、俺はただ夜道で襲われて金を奪われたという……ただの被害者に過ぎなかった。
 犯人は捕まってないらしい。
 意識を取り戻してから数日後、警察の人間に事情を聞かれたが……俺は、何もわからないと答えた。
 連続の事件でもないようだし、正直、警察がその捜査にどれほど力を注いでいるのかはわからないし……俺はどうでも良かった。
 孤独なリハビリにも耐え……まあ、2度目だったから、その分耐性ができていたのだろうけど、現実はやっぱり厳しく、1年かかった。
 伝わることもないだろうが、それでも、店長には感謝するしかない。
 それと後遺症が出なかったこと……たぶん、これにもなにか店長が絡んでいるような気がする。
 そういえば……俺がせっせと貯めた金は、この世界では健在だった。
 高額治療費に対する還付がどうのこうの……などという手続きは、妹のことで経験済みだったから戸惑うことはなかったが、それも含めてきれいさっぱり治療費やら生活費として消えた。
 つまり、あの金は俺を二度救ってくれたと言うことになるのだろうか。地獄の沙汰も金次第とは良く言ったもんだ…ははっ。
 リハビリが終わって…いや、終わる前から、俺はまた働きだした。
 働かざる者、なんとやら……だ。
 つーか、金がないのは首がないのと一緒とはよく言ったもんだが……土曜だけは、俺は仕事を休んだ。
 そこには今……いや、たぶん、この世界ではずっと前から……だだっ広い空き地が広がっている。
 広い空き地だというのに、子供達は決してそこで遊ばない。
 少なくとも、俺が毎週毎週、土曜日に眺めていた間、子供達の姿をその空き地で見ることはなかった。
 遠坂……この世から最も遠い坂だったっけ?
 勝ち組とか負け組とか……その事に意味があるのがどうか俺には疑問だが、とにかく、俺は生きている。
 店長への感謝はともかく……俺に生きることを決意させたはずのみおさんへの想いは、今となっては、純粋とは少し言い難い。
 生きることを決意はできなくても、この世から最も遠い坂…それはつまり、向こうから最も近い坂であるここにいれば、彼女は俺を見るだろうか、感じることができるだろうか。
 生きることは、楽しいことばかりじゃないけど……いや、むしろ辛いことの方が多いかもしれないけれど。
 別に、怖い事じゃないぜ……みおさん。
 あの馬のように走りたい。
 その気持ちさえあれば……きっと。ああ、でも……誰かが応援してくれてることぐらいは、気付いて欲しいような気もするが。
 
 そしてまた1年が過ぎた。
 俺は、相変わらずの毎日……とも言えないか。
 高校中退の俺が、まともな職に就くことなど最初から考えてなかったのだが……バイト先で、俺の働きぶりを目に留めてくれた人がいたらしい。
 仕事をしながら勉強して……必要な資格のうち、2つを取得した。
 たぶん、今年は残りの資格を取れるだろう。
「あら、こんにちわ」
「こんにちわ」
 毎週土曜日、何もせずにぼーっと空き地を眺めている……どう考えても、変人のはずなんだけどな、たまに、挨拶をしてくれる人がいる。
「何か事情がありそうだから聞けなかったけど…あそこ、何かありますの?」
「……子供の頃、良く一緒に遊んでた幼なじみがいましてね」
「あら」
「あの、空き地を見てると…なんか、懐かしくて仕方がないんです」
 俺は、嘘をついた。
 このぐらいの嘘、害はないだろう。
「そういえば、また……空き地のところで女の人が立ってましたよ…」
「え?」
「ひょっとしたら、あなたのいう、幼なじみの方じゃないですか?」
「はは、行ってみます…」
 俺は頭を下げ、急ぐフリをした。
 願いはしても、期待はしない。
 俺以外にも、時々あの空き地を眺めにくる人がいる……別に、話しかけようとは思わなかったし、向こうもそれを望んでいないことぐらいわかる。
 たいていはすぐに姿を見せなくなるしな……。
 
 俺が、いつも空き地を眺めている場所にたどりつくと、なるほど、女が立っていた。
 それだけなら、珍しくはない。
 ただ、彼女は……空き地の中に立っていた。
 彼女は、髪が長くて、松葉杖をついていた。
 そして彼女は、俺に背中を向けていた。
 それだけだ……ただ、それだけ。
 俺は、女に近づきかけて……しかし、空き地の中には足を踏み入れなかった。
 なにか考えがあったわけじゃなく、なんとなく、ただなんとなく…だ。空き地の中に足を踏み入れたからといって……何の問題が……でも…俺は、それをしなかった。
 彼女は、相変わらず俺に背中を向けている。
 しかし、背格好はもちろん……何よりも雰囲気が似ていた。
「……さん」
 声がかすれた。もう一度。
「みおさん…」
 少し間が空いて、女がゆっくりと振り返る。
 眼鏡をかけていた。
 美人で…大きくて綺麗な目をしていて…まつげが長くて…鼻がすっと高くて…唇が少し薄かった。
 でも……俺を見つめる目は、他人を見るそれだった。
「ひょっとして…みおて、うちのことですか?」
 声も口調も、同じだった。
 ただ、そこにあるべき感情がない。
「……」
「ちょっ、何をいきなり泣いてはるん?」
 うわあ、何やってんだ俺…。
 俺は、慌てて手で顔を覆った。
「……すいません…ちょっと…いや、かなり…知ってる人に似てたんで…」
 顔を覆ったまま、上を見た。くそう……空を見上げたって、涙はこぼれるじゃねえかよ…。
「なんや、そない似てるんか?」
「……ええ」
「…その人、あんたとどういう関係やのん?」
 何をぶしつけな、と思ったけど……いきなり目の前で泣き出した俺が言えた義理じゃない。
「……一緒に…生きていきたいと…思った人です」
「……」
「……」
 彼女が、近づいてくる気配があった……そして、俺の隣にやってきて、言った。
「……ホンマ、初なお人やなあ」
 声に、感情がこもっていた。
 俺は顔を覆っていた手をゆっくりと外した…涙はまだ、流れ続けている。
「みお…さん?」
「だから、ちがう、て」
「……」
 彼女は、眼鏡をかけていた。
 美人で…大きくて綺麗な目をしていて…まつげが長くて…鼻がすっと高くて…唇が少し薄い。
 俺を見つめる目は優しく……なのに……みおさんじゃないって言うのか。
「ほんまに、この人は源氏名も知らんのかいな」
 呆れたように…彼女が、ため息をつく。
「あんたが、もうドリームクラブの会員やないように、うちはもうホストガールやあらしまへんのや」
 みおさんの、大きくて綺麗な目に…みるみる涙がたまって…。
「……ホンマに…強くもなく、優しくもなく、嘘つきの見栄っ張りの…こないな女を…ずっと呼び続けるなんて…ホンマに…けったいなお人やなあ…」
 彼女の長いまつげが……たまった涙を、切り取った。
 すうっと、彼女の頬を伝って落ちる。
「……うちは、これまでに色々諦めてきたんやけど……どうもな…けったいなお人の事を、忘れるゆうか…諦めるのを…諦めるしかあらへんかってん」
 松葉杖が転がり、俺はみおさんに抱きつかれた。
「……戻ってきて…しもうた」
 みおさんの身体を、そっと支える。
 みおさんは、震えていた。
「みおさん…」
「まだ、言うてんの…うちは、うちの名前は…」
 声が小さくて、俺は顔を寄せたのだが……その、大きくて綺麗な瞳で見つめられて動きが止まった隙をつかれてキスされた。
 嬉しいはずなのに、幸せなはずなのに、何故か泣けて泣けて仕方がなかった。
 たぶん、それはみおさんも同じなのだろう。
 みおさんは、あらためて俺の胸に顔を埋め……ぽつりと呟いた。
「うちの名前は……」
 
 
「どうしたの、香奈?」
 いきなり足を止めた娘に、母親が問いかける。
「ねー、お母さん。あの人…泣いてるよ」
「……」
 娘が指さす方向……空き地の中には誰もいない。
 ああ、そうだ。こういうときは子供の想像力を否定するのではなくて…などと、育児本で読んだ文章を頭の中で繰りかえし。
「え、えっと…そうなの…?何か、悲しいことでもあったのかな?」
 と、曖昧に答えた。
「ん…でも、お顔は笑ってた。ほら、そこ。お母さんにも見えるでしょ」
「……え、えっと…そうね」
 見えないの。見えないのよ…と、心の中で母親が呟く。
「それと、女の人なのに、ズボンはいてる」
「んー、そういうお洒落もあるのよ」
 この娘、一体何が見えてるのかしら……と、母親は少々怖くなり、娘の手をとった。
「泣いてるところを見られるのは、香奈も嫌でしょ。ほら、いくわよ」
「う、うん…」
 女の子は心配そうに、母親に取られている手とは逆の手を、泣いている女の人に向かって振り続けた。
 そして、その親娘が見えなくなると……彼女は、ぐっと涙を拭いた。
「残念……最後の罠にも引っかからなかったか」
 そう呟いて、もう一度……空き地に面した別の道路で抱き合う2人に目をやって……『ちぇっ』と、舌を鳴らした。
「いいもーん…来世は、私が予約済みだもんねー」
「……来世は来世で、別の誰かとひっつく……それが運命」
「うるさい、黙れ」
 すっと、何もなかったはずの彼女の背後から、それが姿を現した。
「……強引に、モノにしてしまえば良かったのに」
「それやると、ピュアな魂が穢れちゃうからなあ…」
 そう呟く店長の隣で、彼女はふっと笑って……左目の眼帯を指先で撫でた。
「どうせ、貴女を選んだ瞬間に、熱が冷めちゃうんでしょ?」
「……わかった風なことを」
 店長が、ニヤリと笑い。
「私、ピュア淑女だから、ピュア紳士が大好きなの」
「……」
「……ケンカ、売ってる?」
「……え、本気だったの?」
「最初から、そう言ってたもん…」
 と、そっぽを向いた店長へ、彼女が呟くように言った。
「変わってるわね……人の生き死にに、興味を持ったりするとこも、だけど」
「……人に興味がないなんてかわいそー」
「は?」
「この世で、人間ほど面白い存在なんて他にないのに」
 そう言って、店長は……視線を投げる。
 その、視線の先で……2人は、歩き始めていた。
 
 
 
 
 えっと、このゲームをやったことがない人のために説明すると、このゲームは一見馬鹿ゲーと言うか、実際に浅い見方をするユーザーの間ではそうとらえられていますが、昨今のギャルゲーには珍しく、『生きるという事』という骨太なテーマが根底にあり…
 
 げふううっ。(知人に後頭部を殴打されて吐血)
 
 まあ、生きると言うことは欲望なのだ。(笑)
 みおさん、可愛い。
 これもまた、生きること。
 みおさんのは、京都弁じゃねー。
 たぶん、制作者は舞妓さん言葉を誤解していると思われる……が、高任も詳しくないと言うか、全部変更すると、それはそれで問題あるかなと、色々チャンポンしてみたところ、もう、取り返しがつかない状態に。(笑)
 惚れ薬云々の展開は、敢えて無視……というか、それはそれで、他に書きたい話があったので。つーか、長くなりすぎたので前後編に分割したのですが、後々のことを考えて量的にはアンバランスな分け方をしてるのはそのせいです。発動してない伏線もあるし。
 
 この設定で、他のキャラの攻略編をどう書いたらいいんだか……などと、吐血してしまいそうな感じです。(笑)
 みおさん、ステキ。
 まあ、ゲームシステムに関しては、両方混ぜてます。
 個人的には、『ゼロ』は、システムというかイベントとか下品になって、正直好きになれませんが。
 特に、おくちあーんの、ミニゲームを考えて、実行に移した責任者と膝をつき合わせて小一時間ほど問いつめたい。
 ああ、ロデオマシーンとかもな。
 つーか、ピュアじゃねえ。
 まあ、プレイヤーがやらなきゃいいだけの話とも言うが。
 ……これを読んで、ドリクラをプレイしてみたいと思ってくれる人がいるのかどうか。
 しかし……今も『ドリームクラブ』では、生きることを諦めた彼女たちが待っている。次に彼女達を生きようと決意させるのは、あなたかも知れな……げふううぅ。(知人に後頭部を殴打されて吐血。)

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