杏子は、随分と緊張しているらしい少年の顔をちらちらと見ながら、気付かれないように含み笑いをもらした。
 学校の下駄箱で途方に暮れていた時は全く止む気配など無かったというのに、今はすっかり止んでいる。多分、そのことすら気が付いていないのだろう。
 自分の方に傾けるように差し出された傘と、雨に濡れた少年の左肩がなんとも可愛い。
「あ、私の家ここだから……」
「そうなんですか……って、あれ?」
 杏子が無造作に傘の外に出たのを見て、少年は驚いたように空を見上げた。
「今頃気が付いたの?」
「え?」
 どんな表情をしていいのかわからない少年を見て、杏子は口元を押さえてくすくすと笑った。
「なんか、凄く緊張してたみたいね……」
 気まぐれな空は、まだら模様の夕焼けをうつしこんでいる。
「あ、え……す、すいません」
「いいのよ、おかげで濡れずにすんだのは確かだし、止んだのはついさっきのことだから」
 少年は恥ずかしそうに傘の水滴を弾いた。
「じゃ、じゃあ…僕はこれで」
「ええ、本当にありがとう」
 親切な少年の背中が見えなくなると、杏子は大きくため息をついて空を見上げた。少年の緊張がいくらか伝染していたらしい。
 でも、居心地の悪い緊張感というわけでもなかった。
 何というか、ラクロス部の後輩が試合を前に緊張しているのを見守る感覚に近い。
「弟……がいたら、あんな感じかしら?」
 杏子はぽつりと呟き、誰もいない家の中へと入っていった。
 世間一般で言うところの芸術家である両親はフランスに住んでおり、杏子は一人っ子だった。高校に上がるとき、両親と一緒にフランスに行くという話も出たのだが……自分が生まれ育ったこの街に未練があった。
 両親とは違って、自分はこの国で生まれ育ったという証を持っていない……自分が自分であるということの柱を確認したいと説き伏せて自分だけがこの国に残った。
 そうしてこの3年間で、心の印画紙にいろんな景色を焼き付けてきた。
 高校を卒業と同時に両親の元へと行くのが約束だったから……それももうすぐ終わる。それと同時に、この家も売りに出されるだろう。
 杏子は、何となくしんみりした気持ちで台所に立った。
 自分のためだけの食事を作るのは少し寂しい……そう思った瞬間、杏子はさっきの少年お顔を思い浮かべていた。
「……お礼に、クッキーでも焼いてあげようかしら?」
 その夜、杏子は何となく幸せだった。
 
 キイ…と微かな軋みを響かせながら屋上の扉が開かれた。
「おお、いい風だ……」
 思ったことをそのまま口にしたような台詞を耳にして、杏子は一旦箸をおいて扉の方を振り向いた。
「あら、あなたは…」
「へ?」
 少年は大きく広げていた両手を閉じ、慌てて杏子の方に視線を向けた。
「あ、すいません……誰もいないって思ってたから」
 パンの袋をくわえたままという情けない格好で、少年は杏子に向かって軽く頭を下げた。
「ふふ、別にいいわよ……屋上は誰のものでもないし」
 少年は曖昧に頷くと、誰かを捜すようにきょろきょろと屋上を見回した。
「……誰かと待ち合わせ?」
「いや、そうじゃないんですけど……先輩、1人なんですか?」
「好きなのよ、ここが……でも、涼しくなってきたから誰もつき合ってくれなくて」
 これといった高層建築物のない茜町を一望でき、風が吹き抜ける場所。杏子はここからの眺めが大好きだった。
 何よりも、この空はどの国へも続いている。
「……いい景色ですよね」
「んー、秋山君。何か私に言うこと無いかしら?」
 杏子は困ったように眉をひそめ、自分の両腕を抱いた。
「え?」
「いや、だから……この前渡した…」
 少し恥ずかしげに俯く杏子の仕草を見て、少年の表情に納得したものが浮かび上がる。
「ああ、美味しかったです……友人にいくつか奪われましたが、そいつも誉めてました」
「奪われた……って?」
「どうも、男子生徒にとっては垂涎の的だったようで……7割は死守したんですけど」
 屈託のない少年の笑顔は、年齢よりも幼く見えた。
「喜んでいいのかしら?ちょっと複雑ね……」
 どうせなら全部食べて欲しかったのだが……などと思っても仕方がないと気が付き、杏子は気を取り直して言った。
「で、こんな所で何してるの?」
「ああ、俺も弁当…じゃなくてパンでも食べようかと……」
 少年の持っているパンの袋を見て、杏子はため息をついた。
「……いつもそんなの食べてるの?」
「いつもってわけじゃないけど……まあ、うちのかーちゃん忙しいから」
 困ったように頭をかく少年の姿に、杏子は何となく壁のようなものを感じた。ひょっとすると、あまり突っ込まれたくない話題だったのかもしれない。
「……失礼なことを聞くけど、ひょっとしてお父様は?」
「ありゃ、鋭いですね……まあ、10年以上も前のことですけど」
「ごめんなさい……」
 気にしなくていいですよ、と少年は手を振りながら空を見上げた。
「人間いつかは死にますから……物心付く前ってのはある意味運が良かったかも知れませんし……」
 少年は空を見ながらパンの袋を破り、大きく口を開けてそれにかぶりついた。そして、自分に言い聞かせるように淡々と呟く。
「かーちゃんと妹はいるし、もう1人家族みたいなのもいますから……自分にとっては、それが当たり前なんですけどね」
 パンを食べながら呟く少年の顔は、さっきとはうって変わって大人びて見えた。
「当たり前かぁ……まわりはそんな風に見てくれないのよねえ…」
 杏子が小さく頷きながら呟くと、今度は少年が驚いたように振り返る。
「……複雑な環境なんですか?」
「両親がフランスなのよ……で、私は独り暮らし」
「……ああ、じゃあ屋上には空を見に来てるんですか?」
 杏子の鼓動が大きくなる。
 その動揺を押し隠すようにして、杏子は大きく背伸びをした。
「さて…せっかくだから一緒にお昼食べましょうか。パンだけの貧しい食事をしてる人を見過ごすわけにもいかないし」
「先輩の食べる分が無くなりそうですが…?」
「たまには他人の批評を聞かないと料理の腕が鈍るのよ……」
 
 教室のドアを抜けたところで杏子の足が止まった。何かに気がついたように、手に持ったお弁当箱に視線を落として首を傾げる。
 杏子自身にとっては大した意味を持たない行動だったのだが、つい先日、クッキーを手渡したときの教室内に充満したなんとも言えない雰囲気を思い出したのである。
 そして、今日はお弁当。
 クッキーとはレベルが違うような気がしないでもないが、やはり誰かのために作るという心地よさに押し切られて作ってしまった。
 考えてみれば、誰かのためにお弁当を作るのなんて初めてだったこと気付く杏子。
「……まあ、人助けと言うことで」
 思いっきり欺瞞に満ちた言い訳を呟きながら、杏子は少年のいるクラスに向かって歩き始めた。
 
 机に突っ伏している少年の姿を見て、杏子はため息混じりに呟いた。
「あら、仕方のない子ねえ……」
 気分は既にお姉さんである。
 少し脅かしてやろうかしら…そう思った杏子はゆっくりと少年に近づき、お弁当を背中に隠しながら声をかけようとした。
「秋山く……」
「何寝てるのよ、悠介!ほら、お弁当」
「……どうして、頼まれもしないのに作ってくるかなあ…?」
 机に突っ伏したままの少年の台詞を耳にして、杏子は精神的に3歩ほどよろめいた。
「じゃあ、お昼どうするつもりなのよ?パンなんかじゃ栄養が偏るんだからね」
 少女の台詞に、心の中で拍手を送りつつ杏子は頷いた。そして、やっと少女の正体に気が付く。
「……吉沢さん」
「え?」
 無意識の呟きに反応して、少女は杏子の方に振り向いた。
「あれ…綾瀬さん……どうしてこんな所に?」
 それはこっちの台詞……などと思う杏子の耳に、教室内のひそひそ話が飛び込んできた。
『おい…綾瀬先輩が持ってるのって…?』
『そりゃ、そうでしょ……この前はクッキーだったし…』
『うお、なんて豪華な三角関係……』
『秋山君、一体どうするつもりなのかしら…?』
 とてつもない居心地の悪さを無視して、なんとか強ばった笑みを浮かべた。はっきり言って、ここで背中を見せるわけにはいかない。
 初めてのお弁当は、意地とプライドにかけても食べてもらわなければ……
「ちょ、ちょっと…用事があってね」
 教室内の異様な雰囲気に気が付いたのか、少年はむっくりと身体を起こして杏子の方を振り向いた。そして、ぽかんと口を開ける。
 リアクションのとれない少年の机の上に、ゴトッと音をたてて手にしていた弁当箱を置いた。
「お弁当作ってきたんだけど……迷惑だったかしら?」
 教室内に熱気が揺れ、温度が2度ほど上昇したように思えた。ラクロスの試合前に似た興奮が杏子の背筋を駆け抜けていく。
「あ、綾瀬さん…そ、それ…?」
 どことなく緊張感を漂わせた少女の呟きに、杏子はこっくりと頷いた。
 3人を中心として、黒い紙を近づけたら火か付くのではないかと思うほどに視線が集まっている。
「秋山君……」
「は、はい!」
 おそらくは状況がつかめていないのだろう。背筋をぴんと伸ばした少年に向かって、杏子は精一杯の微笑みを浮かべる。
「め、迷惑だったかしら?」
「あ、いや…そんなことは…」
 秋だというのに、少年の額を汗が流れておちた。
「……ふーん、私には『頼んでもないのに余計なコトするな』とか言うのにね」
 どこかあさっての方角に視線を向けながら少女が呟く。
「あ、こ、こいつは幼なじみで、根っからのお節介焼きなだけで……」
 あたふたと良くわからない説明を始めた少年に、杏子は静かに頷いた。要するに、『家族みたいなの』がこの少女であるのだろう。
「せっかく作ったんだから、今日は吉沢さんのじゃなくて私のお弁当で我慢してくれないかしら?」
「ちょ、ちょっと綾瀬さん。それじゃあ、私のお弁当は…」
 教室内にぴんと緊張の糸が張りつめた。
「りょ、両方食べます……」
「ちょっと、悠介!2つも食べられるわけないでしょう?」
「男の子なんだから大丈夫よね……あ、その椅子いいかしら?」
 にっこりと微笑みながら杏子が少年の隣に腰を下ろすと、少女は無言で反対側の椅子に腰を下ろして長期戦の構えを見せた。
「……まこと、いつもは弁当を渡したら出ていくよな?」
「別にいいじゃない。私の勝手でしょ」
 つんとそっぽを向く少女のことをあきらめたのか、少年は杏子の方を振り向いて言った。
「……あの、綾瀬先輩……ここにいると、昼ご飯を食べる時間が無くなりますよ?」
「大丈夫よ、お腹空いてないから…心配してくれてありがとう」
「……」
 右側をまこと、左側を杏子。学校の男子生徒の人気を二分する少女達に囲まれて、少年はとっても不幸そうだった。
 どちらにも偏らないようになのか、2つのお弁当を交互に動く少年の箸を二人の少女の視線が追いかける。
 そんな少年の姿を、羨ましいような哀れむような視線で見つめるギャラリー。そして、言ってはいけない言葉を口にしたのは少年の幼なじみであるまことだった。
「……悠介、どっちがおいしい?」
「……」
 何やら聞こえないフリをしている少年に向かってもう一度。
「悠介……どっちがおいしい?」
「ちょっと、吉沢さん……どっちでもいいじゃない」
 そう言って杏子が助け船を出すと、まことはふてくされたように自分の作った弁当箱を抱えて教室から出ていった。
「……わかりやすい性格ね」
 杏子はため息混じりにそう呟き、そして困ったような表情を浮かべたままの少年に向かって言った。
「秋山君……誰1人傷つけないように、なんて考えてるとみんなを傷つけるわよ」
「……そうでしょうか?」
「私のことを気遣ってくれたのは、正直嬉しかったけど……」
「いや、美味しかったです……ただ、食べ慣れた味と新鮮な味って比べられるものじゃないと思うんですが」
 あまりにも不器用な少年に、杏子は好感を持つと同時に危惧を抱いた。
 
 それから数日後。
 杏子は廊下を歩く真の姿を見て呼び止めた。
「吉沢さん、ちょっといいかしら?」
「あ、綾瀬さん……」
 杏子の顔を見るなり、まことの笑顔がぎこちないものとなる。
 元々顔見知り程度の知り合いであり、親しく話をする間柄ではない上に、先日のお弁当騒ぎからすれば当然の反応とも言えるだろう。
「吉沢さんは…秋山君のことが大事?」
「な、何でそんなことを……」
 しかし、真剣な杏子の視線に気圧されたのか、ためらいながらもぼそぼそと答えた。
「……そりゃ、ずっと…家族みたいに過ごしてきたし」
 頼りない回答に、杏子はため息をついた。
「……言い方を変えるわ。秋山君のこと好きなの?」
 見ていて気持ちが良いぐらいに顔色の変化が鮮やかだった。どうやら勝負事には向かない性質らしい。
「わ、私は…そんな…ゆ、悠介は弟みたいなもので…」
「そう……」
 杏子は、慌てふためくまことを威圧するように腕組みをした。
「……だとしたら、秋山君ってかわいそうね」
「……?」
「吉沢さん……あなた、自分が凄く魅力的な女性って事に気が付いてる?あなたが秋山君のまわりで世話を焼いている限り、ほとんどの女の子はひくわよ……それとも、それが狙いなの?」
 まことの肩先が微かに震えた。
 杏子は、まことの返事を待たずに背を向けて軽やかに歩き始めた。そして、思い出したように立ち止まって後ろを振り返る。
「私は逃げないからね……」
「え?」
「ふふっ、またね…吉沢さん」
 不安そうな表情を見せるまことに向かって、杏子は穏やかすぎる微笑みを浮かべた。
 
 部活のない生徒にとって、テストが終了する事は穏やかな時の流れを取り戻す事でもある。だが、そんな穏やかな時の流れとは無縁に見える3人組が肩を並べて歩いていた。
 正確には、少年と肩を並べて歩いているのが杏子であり、それをジト目で睨みながら少し離れて付いてくるのがまことである。
「さて、お二人さん……何を食べましょうか?」
「いや、俺は特に……まことと何か食べにいこうと話してただけで…」
「そうなの?じゃあ、後輩から聞いた『このは』ってお店に行かない?」
「ああ、うちの生徒が良く行くらしいですね……まこと、お好み焼きでいいよな?」
「……いいわよ」
 むすっとした表情で渋々と頷くまこと。
 時折ぶつぶつと『何で付いてくるのよ』などと呟いている事から、状況は想像して貰いたい。
 もちろん今日だけの話ではなくて、最近何かというと杏子が絡んでくることに激しいストレスを感じているらしかった。
 程なく到着したお好み焼きの店で、少年の隣に座ろうとしたまことの腕をさりげなく掴むと、杏子は少女を自分の隣に座らせた。
「な、何?」
「……秋山君は男の子だから、二人並んで座ると窮屈でしょ?」
「……」
 つけ込む隙のない杏子の言い分に、まことはそっぽを向いて黙り込んだ。その間隙を縫って、杏子は容赦なく少年に話し掛ける。
「お好み焼きって食べたこと無いんだけど……どうやって注文するの?」
「……普通に注文すれば?」
 ぼそっと囁かれたまことの呟きが聞こえなかったのか、少年はいろいろと説明を始めた。「ええ、ブタ玉ってのは豚肉が表面に……」
「うーん、初めてだからオーソドックスなのがいいかしら?」
「まことは?」
「……私、ブタ玉」
「じゃあ、ブタ玉三つってことで…」
 などと注文を告げ、むすっとした表情のまことを後目に少年と杏子の会話が10分ほども続いただろうか。
 少し困ったように店のおばさんが置いていった物体を前にして、3人は困惑の表情を浮かべていた。
 いびつな形の大きなお好み焼きはどう見てもブタ玉には見えない。無論、お好み焼き初体験の杏子にはそんなことはわからなかったのだが。
「悠介……ひょっとしてあれじゃないかしら?」
 まことの指さした方向には、『カップル特製、ハート形お好み焼き(カップルは例外なくこれを食べること)』という貼り紙。
 凍り付く3人。
 そこから、いち早く脱出したのはまことだった。
「わ、私と悠介は子供の頃から一緒にご飯食べるのに慣れてるから……」
 などと言い訳じみた台詞を呟いて、そのハートの形に見えなくもない物体に手に持ったコテを伸ばしかける……
「あら、吉沢さん。私は別に気にしないし、せっかくの特製なんだから私も食べてみたいから……」
 そう言って、まことの手を押し戻そうとする杏子。
 そんな二人の姿に、少年の視線が泳ぎまくっていた。
 
「わ、私先に帰るから。お二人でどうぞごゆっくり!」
 店を出るなり、まことが足音高く立ち去っていった。
 そして、少年が杏子を振り返る。
「あの……一体どういうつもりなんですか?」
「どういう意味?」
「いくら頭の悪い俺だって、綾瀬先輩が何か企んでいるのぐらいはわかりますよ……」
「吉沢さんは、どうしてそれがわからないんだと思う?」
 にっこりと笑って少年の額を人差し指でつつく。
 少年は困ったように俯き、そして呟いた。
「……何故でしょう?」
 杏子は大きくため息をついた。
「んー、どっちもどっちよね……」
「俺、頭良くないんですけど?」
「だからほっとけないのよね……」
 困ったわね、とばかりに腕を組む杏子を見て少年は傷ついたような表情を見せた。
「嘘でもいいから否定してくださいよ……って、そんなに頼りなさそうに見えますか?」
「……いざというときに頼りになればそれでいいのよ。いつも頼りになる人間なんてね、どこか歪んでることが多いと思うわ……」
「はあ、そんなもんですかね…」
 わかったようなわからないような表情を浮かべ、少年は頭をかいた。どうやら話の論点がすり替わってしまったことに気が付いていないらしい。
「それに、秋山君って結構ポイント高いわよ」
 少年の耳元でそう囁き、杏子は呆気にとられて立ちすくむ少年に背を向けた。
「じゃあね、秋山君」
 道の両側にびっしりといちょうの木が立ち並ぶいちょう並木。もちろん、この街にはいちょう並木だけではなく、いたるところでいちょうの木が植えられている。
 鮮やかに色づき始めたいちょうの葉は、もう少しすれば一斉に散り始める。杏子にとって、今年で見納めになる懐かしい景色となるはずだった。
 杏子は、道を外れて大きないちょうの木の幹の裏へと移動した。
 そうしていちょうの木を眺めながら、来年の今頃フランスで何をしているか想像しようとしてみるが、どうもはっきりとしたイメージがわかない。
「ま、なるようになるでしょ……」
 杏子は大きくのびをして、気の早いいちょうの葉が一枚一枚違った舞い方をして地面へと落ちていくのをぼんやりと眺める。
 おそらく、自分もまた他人とは違う舞い方をするのだろう……
「……なんだ、先に帰ったんじゃなかったのか?」
「そんなの、私の勝手でしょ……」
 ふと、向こうの方からさっき別れたばっかりの二人の声が聞こえてきて杏子は身を縮こまらせた。
「綾瀬さんと一緒じゃないんだ」
「そりゃ、帰る方角が違うからな…」
 相変わらず不器用な二人の会話を聞きながら、杏子は口元に微かな笑みを浮かべた。
「全く……素直じゃないのよね、二人とも」
 肩を並べて歩く姿と雰囲気は、どう見ても恋人同士のそれである。あの微妙な雰囲気が、家族の持つ雰囲気と同じであるはずがない。
「あれ…?」
 ふと、ピントのぼけた写真のように急に景色がぼやけて見えた。
「やだ、どうして……?」
 杏子はハンカチで目元を押さえつつ、卒業と同時に日本を離れるという事が、多少自分をナーバスにさせているのだろうと強引に結論づける。
 二人に気付かれなかっただろうかと思い、杏子は木の幹からそっと首を出して二人の後ろ姿を眺めた。
 おさまりかけていた涙が再びこぼれ、そのことが杏子に強いとまどいを与えた。
「や、やだ……秋山君は弟みたいなもので、だから……」
 お節介をやいたのだ……
 杏子以外聞くはずもない自嘲的な呟きが、恐いぐらいに空虚な響きを持って拡散していく。
 カサカサと葉鳴りするいちょうの木を見上げ、杏子は頼りなさそうにぽつりと呟いた。
「好き……なのかしら?」
 自分の唇から漏れ出たその言葉が自分以外の声に聞こえて一瞬たじろいだ瞬間、乾いた風が梢を揺らし、数枚のいちょうの葉が杏子の上に散った。
 
 抜けるような青い空が広がっていた。
 屋上を吹き抜ける風はどこか冬の匂いをはらんでいる。秋から冬へと移り変わるこの時期は、この街が最も華やかに彩られる季節でもあった。
 杏子にとって過ぎ去っていく最後の秋であり、迎えるのは最後の冬と言うことになる。
 そして、冬から春へと季節が移る頃……杏子は日本にはもういない。
 空を横切る飛行機雲が、少しずつ形を為さなくなるのを眺めながら杏子はため息をついた。
「エンジンより排出される細かな微粒子を核として雲が形成される……か」
 子供の頃、杏子は飛行機が雲を引きずりながら飛んでいるのだと思っていた。今になってみると、それは1つの真実を掴んでいるように思える。
 多分、このままでは自分は心を引きずりながら飛行機に乗ることになるだろうから。
 あの雲のように、やがて拡散して消えていくのならそれでもいい。しかし、いつまでも尾を引いて後悔するのだけは避けたかった。
 同時に、上手くいくことも……
「……ふふ、フられることを願う恋なんて、ろくなものじゃないわね。第一、願うほどの事でもないし…」
 自嘲的な笑みが杏子の口元に浮かぶ。
「それに、いつも側にいてあげられないなら……ううん、側にいられないのはつらいもの」
 杏子の視線が、屋上の入り口へと向けられた。
 もうすぐ現れるだろう少年に向かって、杏子は寂しそうに呟く。
「吉沢さんよりも早く、あなたに出会いたかったわ……」
 
 
                     完
 
 
 ……これで、バッドエンドは終了ですな。
 ハッピーエンドは来年の秋って事でいいですか?(笑)
 おそらく、このゲームの中ではもっとも便利に使い回されたキャラクターでしょう。その分展開的には多少首をひねる部分がありましたが、気になるほどのことではありませんでしたけど。
 そのあたりでキャラクターを掴み切れていないせいか、このお話は自分で言うのも何ですがおかしいですね。

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