髪の生え際に冷たいモノが触れるのを感じ、悪代官は空を見上げた。
ただの白い点であったそれはすぐに数を増し、見る見るうちに空を覆い尽くしていく。
身じろぎもせずその様を見つめていた悪代官は、庭がうっすらと白い化粧を施されて初めて呟いた。
「……雪か」
「寒いはずでございますなあ…」
「なんじゃ、来ておったのか大黒屋……」
それなら声をかければ……と言おうとした悪代官を制し、大黒屋は当分止みそうにない雪に視線を向けつつ呟いた。
「声をかけづらいご様子でしたからなあ……何か心配事でおありで?」
「そうではない……」
悪代官は再び空に目を転じる。
「昔のことを……少し思い出しておった」
「……ああ」
大黒屋は微かに頷き、そっと目を閉じた。
「父上、話がございます」
一人息子の呼びかけを一顧だにせず、ただ文机に向かったまま筆を走らせている父の姿に若き日の悪代官、助兵衛はいらだちを隠さずに膝立ちのまま一歩いざり寄った。
「父上っ」
「……聞こえておる、しばし待て」
外は雪。
普段なら中間、郎党合わせて十数人が屋敷の中にいるのだが、正月を目前にして色々と用を申しつけたり家族の元へと戻らせたりして人気はないから余計に静かであった。
助兵衛が口がつぐむと、部屋の中は紙の上に筆が走る音と、ジ、ジ、と油の燃える音しか聞こえなくなる。
助兵衛は黙って父の背中を見つめた。
幼少期はともかく、元服をすましもうすぐ二十歳を迎えようかというのに、未だに父の背中に圧倒される自分を恥じる心がある。
むしろ、面と向かい合ってのほうが緊張の度合いは少ないと言えた。
厳しい父であった。
学問はもちろんのこと、代官の子としては異常なぐらい武術の稽古に打ち込まされた。他ならぬ父によって皮膚が裂けるまで木刀で打ち据えられ、打ち身で熱を出した次の日も稽古を休むことは許されなかった。
今では、天下太平の世に馴れきった旗本のせがれなど助兵衛に指一本触れることもできない……無論、刀さえろくに抜けぬ相手にそれを誇っても意味もないが。
そして、助兵衛の父の教育はそれに留まらなかった。
武士として……いや、人として歩むべき道を毎日のように説き続けた父。
その口調が、表情があまりに真剣だったからこそ助兵衛は困惑せざるを得なかった。
毎日のように助兵衛にそれを説く父と、悪代官として商人と結託し民を食い物にする父……その二つの姿のどちらが真実であるのか。
そんな父に反発し、学校の窓ガラスを壊して回ったり、盗んだバイクで走り回った事もあった……が、今は悪代官としての父を諫めに回る日々である。
コト……と、筆を置く音に助兵衛は顔を上げた。
「父上」
「この手紙を裕玄に届けてもらいたい……」
裕玄というのはある寺の住持の事であり父とは…おそらく親友と言って差し支えない間柄であるように思え、事実両人が顔を合わせるとそうとしか思えないやりとりをする。
子供の頃はわからなかったが、助兵衛自身の剣の腕が上達することで、この気さくな住持が元は武士だったのだろうという推測ができるようになった。
父と親しい間柄であり、しかも程良く枯れていて話しやすい雰囲気を纏っているため、助兵衛は父の悪行について一言言って貰えないかと相談をしたこともある……その返答は、寂しい笑みであった。
おそらく、無駄だったのだろう……助兵衛はそう判断していた。
それはともかく、寺の場所が屋敷からは少し遠いだけに父はともかく助兵衛はここ半年ばかり住持と顔を合わせていない。
「良いか、手渡しで渡すのだぞ……お前の話はその後で聞こう」
手渡しで届けろ……それはつまり返事を貰ってこいと言うことか。
「……わかりました」
父の手から手紙を受け取るやいなや踵を返した助兵衛の背に、声が投げかけられた。
「助兵衛……」
未だかつて聞いたことがない優しい口調に、助兵衛の足が止まる。
「……雪が降っておるからな、足下に気をつけてゆっくりとゆけ」
思わず振り返った。
父がただ静かに微笑んでいるのを見て、助兵衛は父のそんな表情を見るのが初めてだったことに気付く……少なくとも記憶にはない。
助兵衛は僅かに頭を下げ、部屋を出た。
軒の下から顔を突き出すようにして空を見あげる。
「風情がある……等と言える雪ではないな、これは」
越前越後、はたまた陸羽の雪所とは遠く比べようもないが、雪を見ることはさほど珍しくない。
冬になれば雪が降る……その程度の認識を持ち合わせてはいる助兵衛だが、これだけの雪の降り方は子供の頃にまで記憶を遡る必要があった。
「久しいな助兵衛…」
「……誰か、お待ちになっておられたのですか?」
助兵衛が寺に着いたとき、寺の境内で裕玄は立っていた……降りしきる雪の中をである。
「いや、雪を見ておった……」
「確かに、これだけの雪は珍しいと思いますが……」
わざわざ、雪にまみれながら空を見上げていることはない……そう言いたげな助兵衛の顔色に気付いたのか、裕玄は剃り上げた頭の雪を払い落として笑った。
「どのぐらい、そうしておられたのですが」
「ふむ、四半刻も経ってはおるまいよ……まあ、虫の知らせというやつじゃな」
「……?」
「……庫裡で待っておれ、般若湯でも振る舞って進ぜよう」
「いや、父に言いつけられた用事があります故、遠慮します」
裕玄は微かに眉をひそめ、そして小さくため息をついた。
「親子揃って狷介な事じゃ……」
降りしきる雪の中を助兵衛は走っていた。
手には父からの……いや、養父から助兵衛への手紙を持ったままで。
胸に滾る怒りは今頃になって全てを明かした父に対してなのか、それとも手紙を読むまで父の真意に気付くことができなかった己の愚かさに対してなのかわからない。
凍えるような風が肌を切り裂かんとするが、助兵衛の身体は熱く燃えていた……それでいて背筋に忍び寄る不安という名の冷ややかさを消し去ることができぬまま、白い視界の中に身を投げ出すようにかけた。
「父上っ!」
身体ごと木戸を押し開け叫ぶ。
屋敷の中は静かで、あまりに静かすぎて助兵衛は知らず知らずのうちに膝が震えるのを感じた。
「父上っ!」
乱暴にふすまを開ける……と、同時に血が匂った。
醤油樽をひっくり返したような畳の上に誰かが倒れていた……が、一目で父ではないと知れた。
凝固しかけた血に、足跡らしきモノはない。
おそらくは一刀のもとに斬り殺されたのであろう……そんなことを思いながら元は人であった肉塊に近づく。
「……蔵屋」
代官である父と結託し民を食い物にしてきた悪徳商人。
無念の思いを滲ませた蔵屋を静かに横たえ、助兵衛は自分が入って来た方向とは逆方向の、庭へと続く縁側に顔を出す。
誰かが争ったような形跡が、降り積もる雪によって覆い隠されつつある。
そして……
「父上っ!」
白く染められた庭の真ん中、注意してみないとわからない白装束に身を固めた誰かが倒れている。
駈けより抱き起こす……と、父の目がうっすらと開いた。
「馬鹿者……ゆっくりゆけと言ったであろう」
「父う…?」
腹部にじわじわと広がる紅い花。
「すぐに血止めを…」
「よい……身体の外へと溢れる血は止められるが、身体の中へと溢れる血は止められぬ」
ふ、と父の瞳に力強い光がきらめいたのを見て、助兵衛は父の命が今まさに燃え尽きようとしていることを絶望的に悟った。
「意に添わぬ悪事まで働いて……それでも、父の仇は討てぬか……ワシの一生は…道化よの…」
助兵衛が養子であったように、父もまた養子であったことは裕玄より知らされた……おそらくはまだまだ長い話があったのだろうが、制止しようとした裕玄を押しのけるようにして助兵衛は雪の中に身を投じたのである。
敵討ちのために悪代官を装った父と違って正真正銘の悪党であったことも……それでも、父は自分の中の大切な何かを守るために仇討ちに身を投じたのか。
「父上…私は、私はどうすればよいのですか…」
「………」
父の身体からゆっくりと熱が逃げていき、そして父は最後に薄く微笑んだ……
「敵の名も知れず……というのは厄介でございますなあ」
「……父と祖父、おそらくは別口の正義の味方であったのだろうの」
父の死から20年……それは長かったのか短かったのか。
数え切れぬほどの正義の味方を亡き者にしてきた……が、もしやするとその中に父の仇がいたやもしれぬし、既に仇そのものがこの世にはおらぬ可能性も捨てがたい。
「……蔵屋を再興するつもりはないのか?」
「旦那様に顔向けができませぬな」
そう呟いた大黒屋の表情は普段と違い、ひどく穏やかに見えた。
捨てられていた赤ん坊だった金次を拾い、小僧として育ててくれたのが蔵屋だったらしい。
子供のいなかった蔵屋は利発な金次を愛し、小さい頃から商人としてのノウハウを叩き込まれたおかげで今の自分があると思っているのだろう。
「それに、お代官様は……仇を討ったとして、はいそうですかと手のひらを返されますか?」
「……ムシが良すぎるのぅ、それは」
「それと同じ事でございます……お代官様も、私めも、もう道を選んでしまったのです。その道を走り続けるしかございますまい」
助兵衛はその横顔に寂寥の陰を滲ませながら、それでもにやりと笑った。
「そうじゃな……ワシは、死ぬまで悪代官よ」
「……地獄の果てまでお供いたしますよ、お代官様」
完
ギャグがダメなことを再び思い知らされたので、だったら思い切って高任テイストでどうにかしてみようと思ったのですが……ダメだこりゃ。(笑)
まあ、元々学生の頃に考えてた漫画のネタを一部転用したモノだから、文章にするとおかしくなるのは当たり前と言えば当たり前なんですが。
最初は『暴れん坊将軍』が父の仇ということにしようと思ってそのシーンも含めて書いていたのですが……なんか、異様なノリになったので短縮モード。
ま、それはさておき『悪代官2』が出るデスよ……って事は、前作って売れたのかなあ?
多分、今作はやりすぎかなんかで笑えないバカゲーになり果てるような気がします……高任はそういうの好きですが!(笑)
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