ゆさゆさゆさゆさ…
ゆさゆさゆさゆさ…ゆさゆさゆさゆさゆさ…
ゆさゆさゆさゆさ…ゆさゆさゆさゆさゆさ…ゆさゆさゆさゆさ…
執拗に身体を揺さぶられる感覚に、大いなる眠りから彼は目覚めつつあった。
「……ま、……様、……官様、……代官様」
「……う、うむ…ぅ?」
「悪代官様」
「誰が悪代官じゃっ!」
目覚めすっきり、跳ね起きた悪代官こと腹黒主水之介助兵衛(はらぐろもんどのすけ・すけべえ)は、コンマ2秒の早業でニューナンブを御用商人である大黒屋金次(だいこくや・きんじ)の眉間に突きつけた。
「お目覚めでございますか、お代官様」
この状況で顔色1つ変えず、口元に笑みを浮かべて大黒屋……さすがに、わずか十数年で大黒屋を一大複合企業へと発展させただけのことはあり、並の商人とは肝の太さが違う。
「……おぬし、今ワシのことを悪代官などと、呼ばなかったか?」
「はっは、何を仰います。お代官様の気のせいでございましょう……深く、深く、お眠りのご様子でありましたし」
「そ、そうか……うむ、言われてみると、まるで4年ほど眠っていたような感じじゃのう」
大黒屋の眉間から銃口を外し、手の中で軽やかに回転させてから懐にしまい込む。
「続編が出たと思ったら、キャスティングが変わっておりましたからなあ」
「きゃすてぃんぐ?」
「いえ、こちらの話でございます…」
あくまでも微笑みを絶やさずに大黒屋。
「ふむ…それにしても」
と、口元を手で隠すこともなく助兵衛は大きなあくびをして。
「眠りすぎで、関節のあちこちが痛いわ」
「端から見ていると、それはもう永眠しているようでございました」
「え、縁起でもないことを申すな……ただでさえ、健康診断で散々脅されているというのに」
「それは申し訳ございません」
まったく申し訳なさそうではない表情で大黒屋がそう言うものだから、助兵衛は皮肉まじりに呟いた。
「まあ、血糖値云々は正常なのだが……何故か、血圧がな。主治医の申すところによると、何か強烈なストレスを日常的に感じているのではないかと」
「それはいけませぬなあ……お代官様にくつろいでいただくため、私は誠心誠意、日夜努力しているのでございますが」
「……さようか」
どこか憮然とした表情を浮かべた助兵衛の表情に気づいているのかいないのか、大黒屋は語り出す。
「今度新しく赴任する地のお屋敷についても、お代官様が心からくつろげるように、これまでとまったく代わらぬ屋敷をご用意させていただきましたし…」
「別のセットを用意して撮影する予算がないだけとも言うが」
「……お代官様は、時々わけの分からないことを仰いますなあ」
「うむ、ワシも時々自分が何を言ってるのかわからなくなることがある」
と、助兵衛はちょっと首をかしげた。
「それにしても夢のようだったのう」
助兵衛の眼が遠くを見つめ。
「何が……で、ございますか?」
目の前の、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべる大黒屋から視線を外したまま、助兵衛は夢見る少女のような表情を浮かべた。
「代官のワシが別の地に赴任すると知って、百姓や町民が『行かないでくださいませ、お代官様、『お代官様、どうかこの地にとどまってくださいませ』と次々に訴え、旅立ちの日は、沿道にずらりと並んでの見送り……代官として、いや男の花道じゃったのう」
「はっはっはっ。この不景気のおり、一人頭1分も出せばいくらでもサクラはみつかりますからなあ。お代官様が通り過ぎるまでおよそ半刻、長くても一刻、それで1分の報酬ですから悪くないアルバイトでございましょう」
「……だ、大黒屋?」
凍り付くような静寂の中、助兵衛のすがりつくような視線と、震える声。それらを充分楽しんでから、大黒屋はさらりと言った。
「冗談でございますよ、お代官様」
「さ、さようか……こう、時々、お主の冗談は洒落にならないと言うか」
「恐れ入ります」
と、頭を下げる大黒屋は、やはり微かに微笑んでいて。
早い話、どこからどこまで本当なのかさっぱりわからない……のは、商人として必須の能力でございますなどと返されそうなので、助兵衛はもう何も言わなかったが。
「地域住民だけには恩恵を施していたとはいえ、留任運動が起こるとは……これで、お代官様も、伝説の名代官早川正紀(はやかわ・まさとし)様と肩をお並べに…」
「滅多なことを申すな……ワシは善人ではないが、あの方だけには尊敬の念を抱いておる。それに大黒屋、お主は代官というと妙に悪いイメージを持っているようだが、留任運動のあった代官は少なくないのだぞ」
「さようでございますか……?」
大黒屋には珍しい、少々疑うような表情。
「ワシの場合、留任運動と言っても代表が江戸に行って嘆願したわけでもないしのう…」
「それはそうでございましょう。嘆願の内容がいくら正しく、幕府がそれを認めた場合でも代表者は必ず磔にかけられますからなあ」
「早川様はもちろん、代表者が命を懸けて留任を嘆願した代官は少なくないのじゃ……そこがワシとは根本的に違う」
「なるほど……この次はそうなるように思案いたします」
静寂。
「だ、大黒屋…?」
「軽いジョークでございます」
「ワ、ワシは……別に、名代官などと呼ばれたくはないぞ」
「お優しいですなあ、お代官様は」
「優しいも何も、そんな事のために、人がポンポン殺されては、夢見が悪いわっ!」
「それをお優しいというのですが」
「ふ、ふむう…」
何やら話をはぐらかされた気がして、助兵衛はふぬけた声をあげた。
「話は戻りますが、お代官様が新しく赴任される地の1つ(江戸時代において、代官は地域に散在する幕府の領地を掛け持ちする事が少なくなかった)である三角について少々お知らせしたいことが…」
「ふむ、くるしゅうない、申せ」
「元は河の三角州という事で米作りには適した土地が少ないようでございますが、港があることと、交通の要所と言うことで商業方面で拓けた土地のようでございます。年貢に関して……」
「そのあたりは、ワシも一応は頭に入れておる。お主が言いたいのは別のことであろう」
「さすがお代官様……されば」
大黒屋は頭を下げ、本題を語り始めた。
「先任の代官が無能だったのか、商人がかなり大きな顔をしております。不正はもちろん、必要以上に富を搾取して民を苦しめ……お代官様、いかがなされました?」
誰もいない空間に向かってツッコミを入れる助兵衛に、大黒屋が説明を中断して首を傾げたのだが。
「いかがも何も……ワシらにそれを言う資格はあるのかのう?」
「ご冗談を……私は悪商人番付けにランキングすることもなく、まっとうな商いをしているだけでございます」
「……正義の味方とやらにばれることなく、悪事を重ねているだけではないのかのう」
「は?何か仰いましたか、お代官様」
「……都合が悪くなると聞こえない振りじゃしのう」
ぶちぶちと呟く助兵衛。
「そうそう、白玉屋という、悪徳商人ランキングの隅っこにランキングしていた小物が、この三角の地ではリーダー的存在として君臨しておりました」
「……ランカーを小物扱いか」
「は?何か仰いましたか、お代官様」
「……で、その白玉屋がどうした?」
「お代官様と私は一蓮托生ですからなあ……なかなか立地条件の良い場所でございましたし、今頃は白玉屋に代わって大黒屋の看板が…」
「……だ、大黒屋?」
「まあ、所詮は世間知らずの田舎商人でございました……悪人なら悪人らしくしておればよいモノを、善人の仮面を付けて醜悪さこのうえなく」
蚊を一匹叩き殺したほどにも思ってないであろう口調と表情に、助兵衛はため息混じりに呟く。
「……どんな正義の味方よりも、ワシはお主の方が恐ろしい気がする」
「何を仰います……お代官様と私は一蓮托生でございますゆえ」
助兵衛はため息をつき、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべた大黒屋を見つめた。
「で、何か……ここでも、正義の味方がスクラム組んでやってくるのか?」
「まあ、ゆくゆくは……ですが、どうもこの地には義賊とやらが活躍しているそうでして」
「ほう、義賊」
興味が湧いたのか、助兵衛は視線で続きを促した。
「義賊といってもまがいモノだらけの世の中ですが、この義賊はひと味違うようですな……被害総額と、ばらまかれた額がいつもほぼ一致しているとか」
「ふむう、代官として言ってはならぬかも知れぬが、感心な話じゃのう」
「まあそういうわけですから、金目のモノは盗まれるかもしれませぬが、命のやりとりまでは」
「なるほど……盗まれた金はまた稼げばよいが、命だけはどうにもならぬからのう…」
「さようでございます」
大黒屋が大きく頷く。
「義賊……か」
そう呟く助兵衛の視線は、奇しくも新たな赴任地である三角の方角を向いていた…。
「おう、すずな…今帰ったぞ」
「お帰りなさい、おとっつぁん」
海老三とすずな……三角の地を騒がせた騒動の余波も静まり、類い希なる腕と度胸によって海老三の正体は今も知られることなく……いや、藍之助亡き今、海老三の正体を知るのはすずなと、夜の闇のみで。
「おとっつぁん、今度三角に新しいお代官様がやってくるそうよ」
「ほう…」
海老三は少し考えるような仕草をした。
何を考えているのか見抜いたように、すずなは明るく言葉を続ける。
「なんでも、前の赴任先では留任運動が起こったぐらいのすばらしいお代官様とか……新幹線の新しい駅を誘致したり、出入りの業者に命じて地元密着型の商いをさせたり……(以下略)」
「おい……それは、全然名代官じゃ…」
「…おとっつぁん?」
「いや、何でもない……そういえば」
すずなと違って、世の中の裏も表も知り抜いた海老三。素早く話題の変換を図った。
「白玉屋の連中、本当に夜逃げしたらしい……さっき、店の前を通りかかったら、新しく別の看板がかけられていた……そう、大黒屋だったか」
「その、大黒屋さん……は、何を商うの?」
「さあな……ただ、良くも悪くも白玉屋の連中よりやり手だろう…」
大工として、また盗賊としての海老三の目が、その新しい看板にかなりの金がかけられていることはもちろん、ただ金がかかっているだけでなくある種の風格すら漂わせているのを見抜いていた。
「ところでおとっつぁん……今晩のおつとめはどうするの」
「そうだな…」
すずなの口から『おつとめ』という言葉がごく自然に出てくることに、海老三は微かな後悔を覚えた……が、振り払うように首を振る。
かつて誓ったまっとうな生き方では、そもそもすずなの命は助からなかった。それを考えても詮無きことと言わざるを得ない…言わざるを得ない、が。
それでも、まっとうではない方法で自分の命を長らえた事、そして自分のためにまっとうではない方法を海老三にとらせてしまったこと……この2つが、すずなの生き方そのものを変えてしまったことは間違いなく。
「……おとっつぁん?」
「いや、なんでもない…ちょっと考え事をな」
相手がいくらあくどく稼いでいる商人だとしても、どんな理由を付けようとも、人の物を盗むと言うことは悪いこと……海老三とすずな、二人の認識はこの点において完全に一致していた。
そういう意味で、世のため人のため……という、自己欺瞞からは最も遠い場所にいる。
「じゃあ、おとっつぁん。ご飯食べて、一眠りして、それからおつとめ」
「あ、ああ…」
『刃物を突きつけて金蔵を開けさせ、証拠を残さぬように皆殺し……そんなのは盗賊の風上におけねえ。なぜだかわかるか、海老三。それはな、その気になれば誰に出来ることだからだ。誰にも出来ぬ事をやるから盗賊であり……そんな盗賊にも真似の出来ない技をもって、神業(かみわざ)と呼ばれる……そこを目指すべきだ…海老三…お前なら…いや、お前しか…』
藍之助の……最後に残した言葉。
「…あにき」
一度は、『もはやあにきでもなんでもねえっ』と思い定めたが……あの時は、いや最後になってやはり、藍之助は海老三のあにきへ戻った。
「神業……か」
その果てなき道を、海老三は歩き始めたのだ。
「ふむ…」
大黒屋が用意してくれた屋敷で、助兵衛はいつものように部屋の中を見渡して呟く。
「いつもの部屋じゃのう」
「サービスでございます。いつもとかわらぬ環境を提供することで、お代官様にゆったりとくつろいでいただきたく思いまして」
と、まるでテープレコーダーを思わせる大黒屋の返事。
「……おぬし、背中にスイッチなぞついておらぬよの?」
「は、スイッチ…でございますか?」
「いや、なんでもない…」
助兵衛はすっと立ち上がり、庭に面する障子を開け放った。
「……海が近いせいか、潮の香りがするのう」
食事制限されている憂さを晴らすかのように、胸いっぱいというか、腹一杯に大きく息を吸い込む助兵衛。
「2週間もすれば、慣れてしまって感じなくなりますが」
「…情緒を解さぬやつじゃ」
「情緒で飯は食えませ……まあ、食えないこともないですが」
「お主が言うと、どこか含むモノを感じるのだが…」
「それはもう、たっぷりと含んでおりますゆえ」
大黒屋が微笑むのを見て、助兵衛はこの男の顔の皮を剥ぎ取っても、同じ微笑みを浮かべているのではないかと思った。
「それにしても、ご到着が遅うございましたな」
「ワシの任地はここだけではないからのう…この三角の北の2郡28村、西の3郡52村を見て回ってからここにきた」
「それはそれは…最初にここにきてくだされば、私どもがいろいろと便宜を図りましたのに」
「なーに、たまにはお主の顔を見ずにすませたかったからの。血圧の調子がよいわ、ぐははは…」
「なるほど…」
助兵衛の高笑いに構わず、大黒屋は重々しく頷いた。
「お代官様の血圧が上がるような報告がございますが、いかがなさいますか?」
「……短い自由じゃったのう」
ぼそりと呟く助兵衛。
「手前どもで用意したお代官様の屋敷ですが、この1ヶ月で盗人の被害に26回遭いました」
「にじゅううろっかいいぃっ!?」
目をむいて叫ぶ。
「1日1善でもあるまいにっ……というか、警護の者は何をしておった?」
「それが、『風を感じた…』とか、『あの男はとんでもないモノを盗んでいきました…』などとわけの分からぬ事を」
「……まあ、お主が用意してくれた屋敷だから、ワシの懐が痛むわけではないが…」
「掛け軸や茶器はもちろん、警護の方の刀や財布、倉の鍵から風呂桶まで……まさにぺんぺん草も生えぬまでに根こそぎかっさらっていきました…」
「そ、そうか…」
いつもと変わらぬように見える大黒屋の微笑み……を、長年のつきあい故に助兵衛はその違いを見抜いた。
「毎日毎日盗まれるものですから、警護の者は懐に石ころを入れる始末で……しかし、その石ころすらかっさらっていきましたからなあ」
「そ、それは……随分と、徹底した盗賊じゃのう」
「まあ、なめられたものでございます」
「しかし、さすがにそれは一人の仕業ではあるまい?」
「いや、それが…」
大黒屋は少し遠くを見るような目つきをした。
「その者、青き風呂敷を担いで、金色の菓子を…」
「ちと、苦しくないか?」
「苦しゅうございます」
と、大黒屋はいつもと変わらぬ微笑みのままで。
「話は戻りますが、1人でございます。何やら4次元風呂敷とやらで、何百貫もの獲物を抱えて逃げる姿は、まるで無人の野をゆくかのようだ…と」
「ふむ……敵ながらあっぱれと言うべきか」
「まあ、確かにそれらは全部民に分け与えておりますし……それを持って、私どもの店に買い物にやってくる……見事な食物連鎖でございますな」
「……怒っておらぬのか?」
「怒っても、一文の得にもなりませぬから」
「人間が出来ておるのお…ワシなら、怒り狂って、斬り殺しておるかもしれん」
「まあ、今夜からお代官様のいる屋敷にやってくるわけでございますし……くれぐれも、懐のモノにはご注意された方がよいかと」
「義賊相手に、目くじらをたてても仕方なかろう……ワシは、代官として民に慕われる政を行うのみよ」
「……」
「……大黒屋、なんの真似だ?」
「いえ、首の後ろに性格設定スロットでも取り付けられているのではと…」
「でたっ、出たぞ赤い風呂敷っ!」
「毎日毎日、貧乏侍の我らの懐を狙いおってっ!」
「盗めるモノなら盗んでみろっ!」
「どうせ盗まれても石ころ1つ。痛くもかゆくもないわっ!」
半ばやけくそなのか、警護の侍達の声が夜の代官屋敷に響き渡る。
「……騒がしいのう」
と、助兵衛目元を擦りつつ、障子を開けた。
「……」
走る、飛ぶ、回る、蹴る……侍を相手にしたその動きは、これまで戦った正義の味方の動きに引けを取るモノではなかったが。
「……ワシの持つ盗賊のイメージからかけ離れておるのう」
指先でこめかみのあたりを押さえつつ。
「くそっ、もってけドロボー」
「バカめ、それは竹光だっ!一文にもならぬわっ!」
「いやっ、やめてやめて、着物は、着物だけはっ!」
いかなる手練か、海老三の手に掛かって侍の着物が脱がされる……を目撃し、助兵衛の目がきらりと光った。
「むう、あれは伝説の…衣はがし」
ぴぃーっ。
呼子の音が夜の闇を引き裂いた。
「御用だっ!」
「御用だ御用だっ!」
「御用だ御用だ御用だっ!」
警護の者が通報したのか、盗賊改のかけ声が……安眠妨害お構いなしの勢いで。
「ちっ…」
侍の着物はおろか、庭の池の縁を囲む石まで掘り返そうとしていた海老三は1つ舌打ちをし、パンパンに膨らんだ赤い風呂敷を背負って逃走にかかる。
と、その時ほんの一瞬……海老三と助兵衛の視線が交錯した。
「あばよ」
と一声のこし……軽やかに跳躍して塀の向こうへと姿を消した。
「御用だっ!」
「御用だ御用だっ!」
「御用だ御用だ御用だっ!」
「賊ならとっくに屋敷の外へ逃げたぞ」
助兵衛の言葉に盗賊改は顔を見合わせ、かけ声をあげながら退出していく。
「あれではのう…」
百年経っても……とため息をつき、助兵衛は中庭に視線を戻す。
「うっ、うっ…し、下帯(ふんどし)まで」
「もう、お婿にいけない…」
「やつは、やつは、私の心まで…」
などと、全裸で泣きぬれる警護の姿に助兵衛再びため息をついて。
「確かに…ぺんぺん草も生えない勢いじゃのう」
「おう、すずな…今帰ったぞ」
「お帰りなさい、おとっつぁん」
海老三がつとめに出る夜、すずなはこうして眠らずに帰りを待つ。
「……おとっつぁん、今日もお代官様のお屋敷に?」
「ああ」
「……悪い噂は聞かないけど?」
「白玉屋がそうだっただろ……人の善い振りをして、陰では悪事を働き……」
何もない空間にすずながツッコミを入れたのに気付いて、海老三が首を傾げる。
「どうか…したのか?」
「ううん、なんでもないよ、おとっつぁん」
「なるほど、今夜も現れましたか」
いつもの笑みを浮かべ、淡々と大黒屋。
「まあ…『来た、奪った、去った』…という感じじゃのう」
「……で、警護の方々は?」
「着物はおろか、下帯まで奪われて泣いておる……どうした、大黒屋?」
「いえ……ちょっと嫌な絵を想像してしまいまして」
と、大黒屋は繕うように呟き……いつもの表情へと戻した。
「しかし、このような場所で、衣はがしの技が拝めるとは思わなかった…」
「衣はがし…と、仰いますと?」
「ふむ……まあ、百聞はなんとやらでな…」
助兵衛がパンパンと手を叩く……と、音もなく襖が開いて女が現れた。
「お呼びでございますか…」
その声を聞いて、大黒屋がちょっと表情を動かした。
「お代官様…」
「うむ、今は普通の格好をしておるが、忍びの女よ……任地視察の途中で気付いて、引っ捕らえた」
大黒屋は、もう一度女に視線を向けた。
「……思いっきり、自由の身に見えますが?」
「世界遺産にも匹敵するいい女を殺すのは、人類全体の損失ではないか。むさ苦しい野郎に殺されるのは嫌だが、いい女に殺されるのはむしろ男のロマンだからな、ぐわははは…」
肝が太いのか、ただのバカなのか、助兵衛の笑い声に、忍びであるらしい女がちょっと照れたように俯いた。
「……まあ、お代官様がよろしいのであれば、私から言うことはございません」
アンタ確か、くのいち3人衆をぶっ殺しになりませんでしたか……と、表情と口調で語りつつ、大黒屋が頭を下げる。
「良いのう、網タイツは…網タイツは実に良い」
「……なるほど」
遠い目をして呟く助兵衛に頭を下げたまま、自分だけに聞こえる大きさで呟く大黒屋。
「で、衣はがしとは?」
「おお、そうじゃった…ちこうよれ」
と、女を誘った助兵衛の手がいかなる様に動いたのか。
ぽんっ。
「…っ!?」
「…!?」
目を見開いた大黒屋の視線から逃れるため、着物を脱がされた女は自分の身体を抱くようにしてその場から遁走する。
「……というわけじゃ」
「な、なるほど…」
さすがの大黒屋をして、表情と声が固い。
「便利と言えば便利にも…」
「合意なしでいきなり脱がせても楽しくないからのう」
論外だとでも言いたげな助兵衛の言葉に、大黒屋はとりあえず空ツッコミを入れ。
「毎度毎度、帯回しをなさってるではございませんか」
「帯回しは、相手との信頼関係があって初めて出来る事じゃぞ?」
何をバカなことをいってる……といいたげな助兵衛に、わざわざ見えるように、大黒屋は空ツッコミを3回ほど入れた。
「嘘じゃと思うなら、大黒屋、お主もやってみれば良かろう……無理矢理では、ぜっっっっっっったいに、くるくるとは回らぬぞ」
「いえ、まあ、そういう問題ではございませぬのですが…」
「火付け盗賊改長官、堀帯刀(ほり・たてわき)でござる…」
「うむ、わざわざすまぬな…」
盗賊改長官に向かって、鷹揚に頷いてみせる助兵衛。
某犯科帳で有名な盗賊改であるが、実際のところは400石から800石どりの旗本が長官を務める臨時役職であって、町奉行などに比べると二つ三つ程ランクは下がり、町奉行ほどの費用は支給されなかったようである。
もちろん幕府直轄地の代官を勤める助兵衛だと、知行は千石を超えており……こうして、盗賊改の長官が、助兵衛に対して礼を取るのは当たり前であった。
「それで腹黒様(助兵衛)…」
「うむ…まずは、これを」
と、助兵衛が堀帯刀の方に桐の箱を押しやった。
「これは…?」
「盗賊改の任務の過酷さに対して、充分な費用が充てられておらぬはなしは聞いておる……些少ではあるがとっておけ」
堀帯刀は桐の箱の重みを確かめ、まさに平伏と言った感じで頭を下げた。
「腹黒様のご厚意、感謝の言葉も…」
「そのかわり……と言うわけではないが」
「はっ、腹黒様の屋敷に忍び入った盗賊の捜査は…」
「いや、そうではない」
「……それは?」
てっきり、ちゃんと任務を果たせ……という意味だと思いこんでいた堀帯刀は不思議そうな表情を浮かべて助兵衛を見る。
「この一件、ワシに任せてみぬか?一応、盗賊改は江戸の街を守るため……という建前があろう。こんな田舎で盗人一人追いかけるより、江戸に戻ってやるべき事をやるが良かろう」
「は…それは、ありがたいお言葉なれど」
「お主の職分であることはわかっておる…」
と、助兵衛は桐の箱をもう一つ積み上げてみせ。
「どうじゃ」
「腹黒様に、お任せいたします」
「うむ…これまでに調べた資料を後で送ってくれぬか」
「かしこまりました」
堀帯刀、恐れ入って頭を下げたモノである。(笑)
ああっ、またその日の気分だけでこういうお話を。(笑)
つーか、神業の世界観というか、盗賊団を主役に置いたお話を書きたいなあ……などと、思っていたはずがいつの間にか。
まあ、それはそれとして……文中に出てくる伝説の名代官、早川正紀は実在します。
代官一筋というわけではないですが……凶作続きで半ば崩壊しかけた村々を、時間をかけて復興へと導くこと数回……赴任した地だけでなく、直接治めていなかった地域にまで石碑が存在するという、まさに、スーパー名代官。(笑)
まあ……そういう資料が残ってはいますが、美談は美化されがちですので、話半分で。
前のページに戻る