4月2日はちびっこの……入谷結花の誕生日だった。
 学校はもちろん春休みで……といっても、部活動に参加する生徒らの姿が、校舎内にもちらほらと。
「……」
 すす、さささっ。
 人目を避けながら、ちびっこが向かう先……それは保健室だった。ドアに手をかけて……。
 がち。
 ドアの鍵が掛かっているのは想定内。
 ほら、保健室には、理科実験室程じゃないにしても、薬品とか色々あるから、わりと戸締まりがしっかり管理されているモノなのだ。
 結花はポケットから針金を取り出した。
 いやいや、素人が見よう見まねでできる事じゃないですよ。確かに、一昔前の学校の鍵は、おもちゃのような作りのモノが(以下略)。
「……じょにーさん直伝の技を披露するときが来ましたか」
 鍵開けの技術というより、保健室の鍵を開けることだけに特化した技術。
 針金の先を鍵穴に静かに差し込み、コツン、と奥をつついたところで、ほんの少し引き戻して手首を右にひねって固定……そして、別の針金を突っ込み……ここから先は自主規制。
 ぐ、ぐぐっ…かちん。
「……ふう」
 額ににじんだ汗を拭い、ちびっこはいったんその場を離れた。
 そして、何食わぬ顔をして保健室のドアの前まで戻ってきて、『失礼します』などと口にしながらドアを開けた。
 あくまでも、保健室のドアが偶然開いていた、という体裁を繕うためであるのだが。
「あら、入谷さん」
「何でですかっ!?」
 ドアを開けた結花に向かって、にこやかに微笑む綺羅がいたりするから、現実というモノは油断がならない。
 綺羅は、微笑みを絶やさずにちょっと首を傾げて。
「『なんで?』と言われても…鍵が開いていたのだから、中に人がいるのはむしろ当然じゃないかしら?」
「ぐっ…そ、そうですね」
「鍵が開いていると思ったから、入谷さんはドアを開けたのよね?それとも、中に誰もいないと思っていたのに、鍵が開いていると思ったのかしら?」
 結花は素直に負けを認めることにした。
「申し訳ありませんでした」
「あらあら…保健室に何の用だったのかしら?」
 結花は、無言で保健室の隅に設置されているそれを見た。
「……あぁ」
 綺羅は曖昧に頷き。
「じゃあ、先生が計ってあげますね」
「お願いします」
 結花は頭を下げると…きりっと唇を引き結んだ。
 結花が、過去5年にわたって跳ね返されてきた、高く険しい壁。
「で、では…」
「はい」
 台に乗った結花の頭に向けて、綺羅が、こつんとそれを押し当てた。
「えーと…ひゃく…」
 
 これからさかのぼること1ヶ月半。
 2月14日をもって、男子校の生徒はプレハブの仮の学舎へと収容され、あけて2月15日。
 
「正しいですっ」
 男子生徒の以内女子校校舎。
 やっと、ようやく、本来あるべき姿を取り戻した……その、感動にも似た激情に衝き動かされて、結花は叫んだモノだった。
「ど、どうしたの…結花ちゃん?」
「がさつで野蛮でけがらわしくて…(以下略)…これが、本来あるべき姿ですよ。正しい、正しいですっ!」
「あ、うん…まあ…女子校だから、間違ってないとは思うけど…」
 夏樹が、どこか曖昧な表情を浮かべて。
「でも、ちょっと…ね。寂しいような、変な感じ」
「気のせいです」
「……ん、でも…」
「気の迷いかも知れません」
「えっと…別に、私も男子生徒全員に対してそう思ってるわけじゃなくて…ほら、有崎君…もう、いないんだなって」
「夏樹様は騙されてます」
 はあ、と夏樹はため息をつき。
「結花ちゃんだって、有崎君には感謝してたじゃない…ほら、昨日だって…」
「義理以外の何物でもないです」
「あ、そう…」
 夏樹は、ぽつりと。
「満更でもなかったような気がするけど…」
 バレンタイン公演の後……頭を撫でられ、顔を真っ赤にしていた結花を、夏樹は見ていた。
 
 日曜日を過ぎ、2月17日、18日……と、帰ってきた日常の中で、周囲が落ち着きを取り戻していくのに対し、結花は反対に落ち着きを失っていった。
 
「入谷さん?なんか、授業中ぼーっとしてたけど…」
 何かあったの…と、親切7割、興味3割の表情で、クラスメイトが話しかけてくる。
「あ、いえ…何というか」
 結花は首をひねって……ぽつりと呟く。
「私……以前は、学校でどういう風に過ごしてたのか、ちょっとわからなくなって…」
 勉強、演劇部、そして夏樹様。
 以前と同じ、以前と同じ生活……でも、何か足りない。
「演劇部のバレンタイン公演が終わって、気が抜けちゃってるんじゃないかな?」
「……そうですね」
 結花はひとつ頷き。
「きっとそうです」
 クラスメイトに対してそう言いながら、結花は心の中で『違います』と呟く小さな声を聞いていた。
 
 どこか落ち着かない、でもその理由がわからない。
 バレンタイン公演が終わったから、夏樹様が卒業してしまうから……そんな理由で無理やり片づけようとした。
 3月14日……唐突に、それは現れた。
 
「よう、ちびっこ。義理チョコのお返しに来たぜ」
 放課後の校門で、自分を待っていた少年の姿を見て、その声を聞いた瞬間……結花は、自分の気持ちに気付いた。
 いや、否定することを諦めた。
「ど、どうした?何かあったのか?」
「べ、別に…何でもないですっ!」
「な、何でもって…お前、泣いてるじゃねえかよ」
「目にゴミが入ったんです」
 そう、それは結花の目に入ってきた。
 がさつで野蛮でけがらわしい…(以下略)…でもちょっとだけ優しくて、すごくお節介なけだものさん。
 好きって気持ちは……人の心は、いつだって理不尽だった。
 
 そして、4月2日に戻る。
 
「よう」
「ふっふっふっ、ちゃんと時間通りに現れましたね」
「お、なんかいい事あったのか?」
「……なんで、そう思います?」
「いや、お前を見てると何となく、そんな感じかなあって」
「聞いてくれます?」
「話したいんだな?」
「実はですね、実はですね、ついに140センチの壁をクリアしたんですっ!」
 胸の前で手を組んで、歌うように告げる結花。
「140センチ…というと」
 尚斗はちょっと考え。
 走り高跳び……いや、こいつの背でその記録はすごいかもしれん。
「そっか、やったじゃねえか」
 演劇部員が、しかも春休みに何故走り高跳びを…という疑問は隅に押しやって、尚斗は素直に結花を祝福した。
「でしょ、でしょ?ああ、140センチの壁にずっと跳ね返され続けた苦節の5年間。ついに、私は、その壁を乗り越えたんです」
「そうか、記録は塗り替えるためにあるよな」
 などと、尚斗の手はごく自然にちびっこの頭に。
「よく頑張ったな」
 なでり、なでり。
「あ、いや…」
 頭を撫でられることで羞恥心が呼び覚まされたのか、結花は尚斗の手を振り払うと、こほん、と空咳をした。
「べ、別に…大したことじゃないです。140センチなんて、通過点ですよ通過点」
「わはは、通過点か。いい言葉じゃねえか。お前のそういうアグレッシブに前向きなところ、俺は好きだぜ」
「す、す…好きですか?」
「ああ」
 尚斗は頷き。
「夏樹さんは、なんかそこに現れるだけで、周囲の空気を変えてしまう華やかさっていうのか、そういうのがあるけど、ちびっこは、周囲を変えるっていうか、巻き込む感じなのかな…お前が明るいと、周りのみんなも明るくなるし、落ち込んでると、周りもちょっと暗くなるっていうか……えーと、影響力っていうのかな、お前のそういうところ、すごいなって思う」
「ま、まあ…誉められて別に悪い気はしませんけどね」
 結花は照れながらちょっと視線を逸らし。
「つ、通過点ですから…私、これから夏樹様のように、170センチを越える、エレガントで素敵な…(以下略)……になる予定ですから」
「……」
「……応援してくださいよ」
「あ、いや、違う違う…」
 違う、走り高跳びじゃなくて身長だ。こいつ、身長の話をしてやがった……ってようやく140センチなのか、こいつ。
 そりゃ通過点だよ…つーか、たいていは小学校のウチの通過点なんだが、そこは黙っておこう。
「う、うーん……い、今から170センチ越えは、さすがに厳しいんじゃないか?」
「為せばなる、です」
「そ、そりゃそうだな……でもさ、前もいったけど、お前はお前のまま、夏樹さんとは別の輝きをな、放って欲しいぞ、俺は」
「えー」
 不満そうに、結花が唇をとがらせた。
「言っておくけど、夏樹さんにはお前の真似はできないからな……お前がそれを否定するなら、お前に憧れる人間がちょっとかわいそうだ」
「は?」
「いや、いるだろ?あれだけ見事に主役を演じたんだから」
「……」
「あの劇って、中等部の生徒も見てたじゃん。お前に憧れて、演劇部にやってくる新入生がきっといるぞ」
「そ、そーですかね?」
「そうだって……中学生の時点で高等部の部活に乗り込んでくるやつなんてお前しかいねえよ。劇を見て、いいな、とか素敵だって思ってやってくるのが普通だろ?つーか、今の演劇部の1年、ほとんどがそんな感じじゃねえの」
「……確かに」
「だから、今年の新入部員は、お前に憧れてやってくるのが大半だ……つまり、そういう意味ではお前は夏樹さんの後継者の道を歩きだしたんだな、きっと」
「夏樹様の…後継者…私が」
 尚斗は、大きく頷いてやり。
「演劇部のバトンを受け渡す…それは、夏樹さんの思いであり、願いだったわけだから……お前は、夏樹さんのまねをするんじゃなくて、その思いを受け継いでいけばいいんじゃなかろうか?」
「……」
「あ、いや、でもまあ…演劇って1人でできるもんじゃねえし。他の演劇部をないがしろにしろっていってるわけじゃねえぞ…って、こんなこと、俺にいわれなくても、ちびっこにはわかってるよな」
 尚斗はさっき払い落とされたのを忘れて、また結花の頭に手を伸ばした。
「お前、頑張り屋だから、頑張れとは言わねえぞ……無理せずに、他人に任せられる部分は他人に任せてな…」
「……」
「どうした?」
 結花は尚斗の手を握って。
「また、手伝ってくれますか?」
「おお、俺にできることなら」
 
「違う、違うんですよ…なんで、『手伝ってくれ』なんて話になったんですか…」
 その夜、自分の部屋の大きな枕を、ぼかすかと、叩き続ける結花がいたとかいないとか。
 
 春という季節の追い風を受けて、ちびっこの、幼い恋心は育っていく……。
 
 
 
 
 ま、ちょいと軽い感じの話も書きたくなったので。
 つーか、ちびっこだけ10本ぐらい書いたら、『なんでやねん?』などとツッコミが入って受けるだろうか……などと考えていたのですが、まあ、色々と大人と子供の事情があるのだとしか言いようがないです。
 

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