夕日に照らされた自分の影が目の前に大きくのびている。
 肌を切り裂くような冷たい風が吹き抜ける公園で、結花の腰掛けたブランコがキイ、と音をたててきしんだ。
『やりたくてやってるんじゃないわ!』
 あの瞬間、もし鉄橋を電車が通過してくれていたら……自分はこんな思いをしなくてもすんだのだろうか。
 演劇が好きで、それが本来裏方が志望だったとしても、演劇にかわりはなくて……それは、演技者としての希望をもっていた自分が裏方に回り、そこに喜びを見いだせたように夏樹もまたそうだと思いこもうとしていた。
 潰れそうだった演劇部が活気を取り戻すのを見てあんなに嬉しそうにしていた夏樹の笑顔は、結花達に対しての気遣いに過ぎなかったのだろうか。
 もしあれが本当だったとしたら、いつから自分は夏樹をあそこまで追いつめてしまったのか……そんな想いがぐるぐると結花の頭の中を渦巻く。
 鉄橋の下、少年と二人きりだと信じていたであろう夏樹が発した言葉と、そして流された涙……そこに、夏樹が虚構めいた演技を盛り込む必然性はない。
 以前からうすうす気付いていたという事と、実際に夏樹の口から聞かされるのでは重みが格段に違った。
 悲しい色に染まった空を見上げた。
 唇からこぼれた白霧がすぐに風にまぎれて見えなくなる光景に、いやでもこれまで自分がやってきた事を重ねてしまう。
 ふと、背中から吹き付ける風が弱まったのを感じ、結花は空から地面へと目を転じた。
「……何がしたいんですか?」
 影が微かに揺れた。
「わざわざ私に夏樹様がどこにいるか聞いて……そうすればきっと夏樹様の邪魔をさせないように私があなたの後を尾けていくって……」
「……」
「わざと夏樹様を怒らせて、そしてそれを私に盗み聞きさせて……一体、何がしたいんですかっ!?人を手のひらの上で弄ぶのがそんなに楽しいですかっ!」
「んー、何というか……」
 結花の背後に立つ少年は一旦口ごもり、そして自嘲混じりに呟いた。
「お前ら見てると、やりきれなくてな……」
「何がですか……上手くやってる私と夏樹様が羨ましかったんですか?」
「……お互いがお互いに遠慮して、言いたいことも言わず、ゆっくりと傷つけ合う関係を上手くやってるというのか、最近は?」
 ブランコから飛び降り、少年に向かって突進する。
 助走距離が足りなかったのか、それとも動揺が本来のタックル力を発揮させなかったのか……少年は、ただ結花の身体を受け止めた。
「お互いのさ、そういう優しい心がこれ以上すれ違って破局を迎えるのをもう見たくなかったんだ……非道いことをしたとは思ってるけどな」
 少年の腹部に顔を埋めたまま、結花は無茶苦茶に少年の身体を叩き続けた。
 多分、少年が言うとおりなのだろう。
 現に、夏樹は少年に少しつつかれただけで激情を爆発させるまでに追いつめられていた……その役が結花に回ってくることがなかったと誰が断言できようか。
 それは多分、少年の言う破局に違いない。
「だからって……だからって…」
「他人に気をつかうのは良いと思う……でも、気を遣いすぎるとそれは当人にとって負担になるんだ」
「あなたに、あなたに……何がわかるって言うんですか」
「夏樹さんの負担にならないように何も気付いてない振りをして真っ直ぐな視線を向け続けたんだろ……でもな、真っ直ぐすぎる視線は、多分夏樹さんには痛かったんだ」
「……見てきたような事を」
「まったくだ……えらそうな事言ってるな、俺は」
 少年の言葉に含まれた自嘲の響きが、結花の涙腺を刺激した。
「お前はただ夏樹さんの気持ちを大事にしようと思ってただけなのにな……それなのに、つらい役どころをお前に持っていった……非道い話だ」
「……それ以上何か言ったら泣きますよ」
「……泣きたいときにはな、泣いておかないと泣けなくなるぞ」
 少年のひどく優しい口調にダメをおされ、結花は少年の制服を握りしめたまま涙をこぼし始めた。
 
「……前々から気付いてました。今やってる演劇は夏樹様が望まれているモノではないって」
 夕暮れの公園で、二人仲良くブランコに腰掛けて。
「夏樹様は……ご自分の容姿にコンプレックスを感じていますものね」
「……」
「役柄に感情移入することで自然な仕草を引き出し、なおかつ舞台装置、観客の視線の全てを計算すること……スタニスラフスキーのリアリズム演技論のその部分に傾倒してますから、夏樹様は」
「自分の外見だけを必要とするお遊戯には耐えられない……か?」
「スタニスラフスキーの演劇論には続きがあるんですけどね……ただ、夏樹様にとってある特定の役柄しか演じられないのは本質的に演技者ではないという持論をお持ちで」
「……実は頑固なのか?」
 結花は小さく笑った。
「そうですね……頑固というか、凛々しいお人なんです……ただ」
「……ただ?」
「夏樹様は1つ勘違いをしてるんです…」
「ん?」
「ウケを狙うって事と、実際にウケを取るって事の間には、大きな川が流れてるって事に……」
「……と、いうと?」
 結花は目を閉じ、そして言った。
「私の主観ですけど……役者として夏樹様は本物だと思います。演劇部が本格的な集まりで、見物に来る人間もまたそれにふさわしいならともかく……私は、方法としてわかりやすいウケの形を提示したに過ぎないわけですから」
「……夏樹さんがただの外見だけのお人形さんだとしたら、演劇部は潰れてた……と?」
 結花が小さく頷く。
「……私はそう思います。0から始めて耳目を集めるにはそれだけのモノが必要ですし、人気を維持し続けるにはそれ以上のモノが必要に決まってます」
「それが、どんな形であれ……か」
「でもまあ、そういう勘違いに……夏樹様が本物だから陥ってしまうんでしょうね。誰でもできる……それは時として、まわりの人間をひどく傷つけるんですけど」
 結花の瞳になんとも言えない微妙な光がよぎった。
「私、演劇が好きなんです……多分、有崎さんが想像してるよりずっと」
「あの自己陶酔っぷりをみていると、夏樹さんより役者に向いていると思うんだがな」
 少年の言葉を聞いて、結花はぎこちなく微笑んだ。
「どんなに素晴らしい宝石も……人の目に留まらない限り、ただの石ころですから。私は、夏樹様という宝石を利用してたくさんの人の目を集めたかっただけかも知れませんね」
「別に安っぽい偽悪家を演じる必要はないぞ」
「お互い様です……ただ、いつの間にか手段が目的にすり替わってました」
 結花は、地面を軽くけってブランコをこぎ始めた。
 何かを吹っ切るような横顔をして。
「私は……臆病でした。今の関係を壊したくなかった事もありますけど……夏樹様と同じ舞台に立つことで、自分の才能を見せつけられることが恐かったんです」
「そういや、夏樹さんが言ってたな……ちびっこは元々役者志望だったとか」
「有崎さんは、ダイヤモンドが一番硬いって知ってますか?」
「なんかひどくバカにされているような気がするんだが…」
「そういうつもりじゃないんですけど……」
 結花は一瞬だけ少年に視線を向け、再び前を向いて語り始めた。
「ダイヤモンドの輝きに魅せられて……むやみに近づくと傷つくんです。ガラス玉の硬度は、ダイヤモンドのそれと比べようもないですから」
 結花が大きくブランコをこぐ。
 その横顔に精一杯の虚勢を認めたのか、少年はぽつりと呟いた。
「あ、あのさ、ちびっこ…」
「何ですか?」
「俺は舞台の上の夏樹さんはおろかちびっこすらも見たことがないからアレなんだが、ダイヤモンドってのはその硬さが人を惹きつけてるワケじゃないだろ」
「工業用に使用するんでなければ当然ですね…」
「だったらさ、いくら傷ついたとしても最後まで砕けなかったガラス玉はきっとダイヤモンドのように輝くんじゃないだろーか……」
「……」
 ふ菓子をもらった鯉のような表情で、結花はブランコに揺られながら少年の顔をじっと見つめ……そして、可笑しそうに笑った。
「有崎さんは……魔法って信じます?」
「は?」
「何でもないです…」
 元気良く、子供がするようにブランコをこぐ結花の姿はどこか照れくささをごまかしているように見えた。
「しかし、今からじゃ新しい台本を用意するのも無理があるか……だとしたら、俺がしたことは大きなお世話だったって事に…」
「……台本なら心配ないですよ」
 きっぱり言い切って、結花はブランコから飛び降りた……着地は少し乱れて9.75。
「さすがちびっこ……夏樹さんが言いだした時のために、代わりの台本は既に用意ずみって事か」
「それは有崎さんの買いかぶりです……まあ、夏樹様とは、つきあいが長いですから」
「……ああ、何となくわかった気がする。で、俺は何をすればいい?」
「話が早い人って嫌いじゃないですよ」
 そう言って振り向いた結花は、10点満点の笑顔だった。
 
「いよいよ明日か…」
 何気なくそう呟いた少年を、結花はじろりと睨んだ。
「一応、プレッシャーなんてモノと戦っているんですけど」
「ああ、そういや夏樹さんも女性役を初めて演じるからって自信なさそうに震えてたな…」
「夏樹様の邪魔をしてるんじゃないでしょうね」
「いや、台本の直しとか台詞よみの相手とか事ある毎に頼まれるんだ……夏樹さんにもひどいコトしたからな、恨まれてはいないんだろうけどこき使われてるよ」
「……」
「ん、どした?」
「流星パンチ!」
 パンチとは名ばかりの高速のキックが少年の向こうずねを襲う……が、少年はそれを平然と受け止めた。
「何をいきなり?」
「別に何でもないです…」
「変な奴だな……」
「な、夏樹様は……腹いせで誰かをこき使ったりはしません」
 結花が必死である感情を押しつぶしながらそう口にする。
「んー?」
 少年は少しだけ首を傾げ、そして呟いた。
「……感謝されてるのだろうか?だったら、どうして…」
「流星キック!」
 油断していた少年の鳩尾に結花の小さな拳がめり込む。
「い、いきなり何しやがるっ!」
「それ以上考えを進めることは禁止です」
「……何をわからないことを」
 敬愛する夏樹の事を誤解されたまま放置しておくことができないのと同時に、あなたのことが気になってるからですと口にするほどお人好しになれそうもない自分の中に渦巻く複雑な感情。
 が、少年に対してはそれだけで十分な判断材料となるだろう。
「ああ……」
 空を見上げて、少年がぽつりと呟く。
「『ああ…』?『ああ…』ですと!何が一体『ああ…』なんですか?」
 顔を真っ赤にして言い募る結花の頭に少年はぽんと手を置いた。
「……俺がどうして頼まれもしないのにお前の練習につき合ってると思うんだ?」
「……悪いことをしたと思っているからでしょう?」
 ゴン
「いたぁーい」
 頭を押さえて涙目になる結花。
「なるほど、お前のさっきの行動の意味が良くわかった……」
 少年は少し困ったような表情を浮かべ、そして呟いた。
「鋭いお前のことだからとっくに見透かされてると思ったんだがな……」
「何の話ですか?」
「……秘密だ」
 ぷい、と少年がよそを向く。
「一体何なんですか?」
「鈍い奴には教えない」
「有崎さんに言われたくないです!」
 そんな2人のやりとりを、空は黙って見つめている。
「……もういいです。明日の公演のことを考えるだけで精一杯ですから」
「なんだ、自信ないのか?」
「当たり前です……夏樹様と練習すると、ひどく自信を無くしますから」
「ふむ……」
 少年は腕組みし、そしてぽつりと呟いた。
「ところで……ダイヤとダイヤを擦り合わせるとどうなるんだ?」
「それは……どっちも傷つくでしょうね」
「なるほど…」
 少年は含み笑いをし、結花の肩をポンと軽く叩いた。
「明日はいい芝居になりそうだな……少なくともちびっこが言うダイヤが2人もいるんだから」
「は?何を言ってますか…?」
「気にするな……憧れの夏樹さんとの舞台だろ、目一杯楽しんでくればいい」
「気楽に言ってくれますね…」
「部外者だからな」
「これからも……ですか?」
「え?」
 ぽつり、と呟いた無防備な自分の言葉に気付き、結花は慌てて目をそらした。
「何でもないですよー」
 数日前に買い求めたバレンタインチョコ。
 それがポケットの中で存在を大きく主張し始めるのを結花は感じていた……
 
 
                   完
 
 
 さーて、夏樹をメインにして結花の出会いを絡めつつちょっといい話を……なんて考えながら書き始め、我に返ったらこの有様です。(笑)
 どのあたりから高任が我を失ったのか、読み返してみると良くわかりますわ。
 ラストで、『俺にとってはお前がダイヤなんだけどな……』なんて恥ずかしい展開も考えていたのですが、やっぱり結花の性格を考えるとはっきりしない意地の張り合いみたいな展開が妥当かと。
 にしても、『チョコキス♪』発売から1年と3ヶ月あまり……俺はまだこんな話が書けますか。(笑)

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