「……巧くなったね、有崎のギター」
「そりゃ、やり始めは、一番上達が目につきやすいからな…」
「……」
「俺のおじさんが言ってたよ……『ギターに限った事じゃないが、何かをやるって事は山登りと一緒だ』ってな」
「ああ、例のおじさん?」
 尚斗は小さく頷き。
「山の裾野は大抵勾配が緩いから、しばらく歩いてから後ろを振り返ると、自分がこれだけ登ってきたって満足感も得やすい……でも、5合目、6合目になってくると」
「……全然進んでない事にがっかりする?」
「そういうこと」
「……ふーん」
 弥生はちょっと考えて。
「有崎は、そのおじさんのことを気に入ってたのね」
「ああ」
 短く同意し……尚斗はギターを弾く手を止めた。
「風来坊って言うか、定職にも就かずにふらふらして……まあ、本人は、何をやってもモノにならないって言ってたけど…ギターもだけど、写真とか絵とか、子供の俺から見れば、何でも出来る人に見えた」
「……でも、周りの大人は、そう見ないんでしょ」
「まあね……でも、多分……多分だけど、本当はあのおじさんが、一番頭がよいって言うか、いろんな事をわかってる人だと俺は思ってる」
 弥生は何も言わず、尚斗の言葉の続きを待っていた。
「多分、おじさんは…世渡りが下手っていうか……世渡りが嫌いだったんじゃないかなあ…そんな風に俺は思う」
「……ふーん」
「なんだよ?」
「いや、有崎の人を見る目って優しいな、と思って」
 そう言って弥生はちょっと笑い。
「今度は私が弾く」
「え?」
「貸して」
「買ったばかりなんだぞ」
「知ってるわよ…一緒に選んだんだから」
 と、弥生が口をとがらせ。
「壊すとでも思ってるの?」
「そこまでは思ってないが……ようやくギターが俺の癖を覚え始めてきたのに、弥生が弾いたらギターが混乱するだろ」
「……ギターにも優しいくせに、私には優しくないなあ」
 なんでだろ、という感じに弥生が首を振り……じっと、尚斗を見つめてきた。
「お、俺は別に…誰に対しても優しくなんかないぞ」
「御子には優しい」
「あれは…」
「……有崎にはあげないから」
「妹を、モノ扱いするなよ……」
「有崎とは関係なく家に戻ったのに……御子は、目をきらきらさせて『全部有崎さんのおかげなんですね』とか、言い出すし」
「なんか、御子ちゃんは悪い奴に騙されそうで不安だ…」
「そうね…目の前にも1人いるし」
「勘ぐりすぎだ……ったく。シスコンも大概にしとけ」
 弥生に背を向け、尚斗は再びギターを弾き始めた……といっても、コードをなぞる為の練習曲みたいなモノだ。
「うりゃ」
「うおっ」
「……へたっぴ」
「いきなり、背中にもたれられたら、ミスりもするだろ、ふつー」
「常にアクシデントを想定した練習が大事だと思うの」
「どんな演奏だよ、そりゃ」
 と、背中に当たる柔らかい感触を全力で無視して、再び演奏を…。
「できるかっ」
「な、何よいきなり…」
 女子校の近くを流れる川の土手。
 もうすぐ3月。
 ようやく吹き抜ける風から厳しさが抜けてきたが……やはり、水辺は寒く感じる。
「あー、弥生君、ちょっとそこに座りなさい」
「……座ってるけど?」
 休日、ここで練習するとき、弥生はいつもジーンズでやってくる。
 まあ、そのまま腰を下ろすから……なんだろうが、スカートとは違って、尚斗は弥生のスタイルの良さをもろに見せつけられる事になるわけで。
「えっとだな…俺としてはこのまま言わないでおくという選択肢も捨てがたいんだが、今日は敢えて言わせてもらう」
 弥生は、ちょっと驚いたように尚斗を見つめ。
「そっか…男の子だね、やっぱり」
「え…」
 こいつ、まさか今まで全部わかってて…。
 などと、一時的にパニックを起こした尚斗を、弥生は全力で置き去りにした行動を取った。
「いいよ…」
 と、目を閉じて唇を…。
 
 10秒経過。
 
「……ちょっと、有崎?」
 目を開け、弥生は尚斗がさっきのポーズから微動だにしていないことを確認し。
「何の真似?」
「……あ、いや…それはこっちの台詞というか、なんというか」
 弥生の今の仕草は、えっと、いわゆるあれなんだろうか……というか、何なんだろうか……というか、理解不能というか…どういうことなんでしょう……などと、尚斗の頭の中は、ぐーるぐーる状態で。
 そんな尚斗の様子を見抜いたのか、弥生は気が抜けたような表情を浮かべた。
「……で、今日は敢えて何を言うつもりなの?」
「お、おう…」
 と、弥生の言葉でようやく、尚斗の意識は着地点を見いだして。
「あ、あのよ…時々、俺の背中にもたれてくるよな、弥生って」
「うん?」
「その、その時…当たるんだわ…えーと、柔らかいモノっつーか、、胸。胸が当たるんだ、気をつけた方がよいぞ」
「……」
「……」
「……有崎、ちょっとギターを置いて」
「え?」
「いいから、置く」
「あ、ああ…」
 と、弥生に言われたとおり、尚斗はギターを、ケースに入れた。
「置いたぞ」
「どーん」
「おわっ」
 弥生に突き飛ばされた尚斗が、土手を転がり落ちていった。
 
「……とか言ってくれちゃうのよ、頭来ちゃったわ」
「小学生?」
「温子、自分が彼氏持ちだからってあんまり煽らないの」
 と、世羽子が釘を刺す。
「と、いうか…有崎君、ケガはなかったの?」
「あ、それはすり傷と打撲ぐらいで」
 平然と答える弥生をしばらく見つめ……世羽子は、ため息をついた。
「……呆れたわ」
「な、何が…」
「自分の思い通りにいかないからって、八つ当たり……弥生の方がよっぽど子供じみた振る舞いよ?」
「だ、だって…」
「確かに、幼稚かも知れないけど…弥生のことを大切に思ってるからと思えば腹も立たないはずよ」
「ぐっ…」
 言葉に詰まった弥生を冷ややかな眼差しで見つめ、世羽子はさらに追い打つ。
「じゃあ、何?弥生は、情熱とは名ばかりのリビドーに衝き動かされて、弥生の身体を気遣うこともなく…(以下略)」
 世羽子のあけすけな物言いに、弥生は顔を赤くして。
「そ、そんなことは誰も言ってないでしょ!」
「男の子は、一皮むけば、みんなけもりんだよ、弥生ちゃん」
「温子も」
「だって、所詮は他人事だもん……面白おかしく、私の耳を楽しませてさえくれれば、それでいいかなって」
 などと、温子がわかりやすく、偽悪的な言葉を口にしたのだが。
「あ、温子…あなたねえ」
 弥生は弥生で、それに気付くほど精神的な余裕がないようで。
「っていうか…そもそも、有崎君は、弥生ちゃんに振り回されて、ギターまで買わされて、練習に付き合って…」
「え?」
「そもそも、何の面識もなかったはずの弥生の妹さんに頼まれて、色々と骨を折っちゃうようなお人好しだもの、彼」
「……」
 温子がちらりと、弥生を見て。
「弥生ちゃんが、有崎君の優しさにくらっと来たのはおいといて、有崎君はそろそろ嫌気がさしてるかもね」
「そうね、人間の親切心には、限りがあることだし」
「そ、そそ、そんなこと無いわよ。有崎はね、有崎は…」
「世羽子ちゃん、私、最近肩が重くてね…」
「ああ、肩が重いと大変よね…」
「そ、そんなこと無いんだからねっ。わ、私…有崎と……」
「有崎君と?」
「彼と?」
 世羽子と温子に見つめられ、弥生は顔を真っ赤にして『何でもないっ!』とそれ以上の追求を拒否したのだった。
 
「……世羽子ちゃんも、煽ってるじゃない」
「煽ると言うより……弥生の妹さんの『それ』が変わる前に、勝負をつけておいた方が良さそうなのは確かだから」
「……」
「……」
 こほん、と温子はちょっと空咳をして。
「世羽子ちゃん、私、結構そういう話は好物なんだけど」
「知ってる。だから今まで言わなかったの」
「……」
「……」
 しばらく無言で見つめ合い……今度は温子がため息をついた。
「弥生ちゃんって…はっちゃっけてるフリはしてるけど、基本理念は古風だよね」
「そうね……多分、相手から告白されたいというか、自分からそれを告げるということに対して、心理的抵抗があるのよ……こればっかりはね」
 温子は、ごんっと、机に頭を打ち付けて。
「そんでもって…有崎君が、また鈍い…」
「……鈍いだけかしら?」
「……と、言うと?」
 顔を上げ、温子が世羽子を見つめる。
「確信のないことを、口にするのは控えることにしてるから」
「あ、そう…」
 と、温子は再び机に突っ伏した。
「……多少のあきらめとコツさえ覚えれば、草食系ほど扱いやすい相手もいないんだけど…」
「多少のあきらめって所に、老成した部分を感じるわね」
「3人目だもん、今彼」
「あら、たったそれだけ……あきらめが早いのね」
「……」
「……」
 ゆっくりと顔を上げ……温子が、うかがうように世羽子に視線を向けた。
「……世羽子ちゃん?」
 にっこり。
「……いや、何でもない」
 決して目立たず、密やかに、そして軽やかに……世羽子が周囲の人間を巧みにコントロールしていることがわかる程度に、温子もまた自分の周囲の人間をコントロールできるだけの能力を保持している。
 弥生が、軽音部のリーダー的な存在であるのは間違いない。
 だが、軽音部を本当の意味で支配しているのが、この秋谷世羽子であることを温子は理解していたから、笑顔1つで素直に引き下がったのだった。
 
「有崎ぃ〜帰ろうぜ」
「おう」
 少し遠回りにはなるが、電車通学の宮坂のために、男子校最寄りの駅に向かって歩き出す。
 尚斗達2人の他にも、駅に向かう生徒は少なくない……というか、徒歩通学の尚斗の方が、ごく少数派。
「……この前まで、女子校に通ってたから、余計に男子校の評判の悪さを痛感するな」
「くっくっくっ、所詮おれたちゃ、世間の嫌われ者だからな」
「いや、わかってはいるんだが…そこまで開き直れん」
 道行く男子生徒に対して、他の通行人は…。
 
 近づかない。
 目を合わせない。
 汚物を見るような(以下略)。
 
「……歴史の重みを感じるぜ」
「気にすんなよ、有崎」
 と、宮坂は肩をすくめて。
「女子校に通ったおかげでわかったじゃねえか……ああやって、俺らの存在に眉をひそめる人間ほど、心が荒んでるってことが」
「あー。まあ、そうかもしれんが…」
「綺羅先生のように、心清らかな人間は、全て平等に愛を注いでくれるんだよ」
「清らか…そっか、清らかなのか…あの人は」
 俺には微妙に汚れているように感じられたんだが……という言葉が出かかったが、何とか呑みこむ。
「だからといって、俺らが汚れてないという証明にはならんだろ」
「つーか、ウチの男子校で、本当にやばいやつらはごく一部だし……そもそも、そういう連中は、問題起こしてやめていくからな」
「熱血ドラマなら、『切り捨てることが教育ですか?』なあんて、熱い台詞が出てきそうだが」
「綺麗事だな」
 と、吐き捨てるように宮坂。
「耐えられなくなって飛び出す奴も確かにいるが、学校が生徒を見捨てるんじゃなく、生徒の方が学校を見捨てただけだっつーの」
「……かもな」
「まあ、結局…」
 言葉を切り、宮坂が空を見上げた。
「……半端モンってか」
 尚斗の呟きを耳にして。
「さあな……そういう意味だと、俺は世の中の人間のほとんどは半端モンだと思うぜ」
「はぁ?」
「今の世の中、生活を人質に取られてあらゆる諦めと妥協を強いられる人間がほとんどってことさ……」
「……さすが、知能犯の言うことはひと味違うな」
「金もない、コネもない……だったら、時間と頭ぐらいしか使いようがねえからな」
「俺は、お前ほど悪知恵が働かねえし…実行力もねえよ」
「またまた…」
 と、宮坂が肘で尚斗の横腹をつついた。
「…んだよ?」
「男子校の連中で、お嬢様を引っかけたのはお前だけだぜ、有崎」
「ひっかけてねえよっ」
「あ、悪い悪い。引っかけたなんて人聞きが悪いよな。有崎は、惚れられただけだし」
「だ、誰がっ…誰に…惚れた?はぁ?」
「照れるなよ、有崎だってバイト代はたいてギターまで買ったのは、まんざらじゃないからだろ?」
「ま、待て、宮坂、お前は何かものすごい勘違いをしている」
 にやにやにや。
 ごつっ。
「……ちゃんと話を聞けっつてんだろ」
 鼻を押さえつつ、御坂が尚斗の手をつかむ。
「へへっ、あんちゃんよう、拳闘やらねえか、拳闘…」
「わけわかんねえこと、いってんじゃねえっ」
「み〇さん、聞いてくださいよー。ボクの友人ったらね、ことあるごとに、ボクに暴力をふるうんですー」
「そのネタ、後何年通じるんだろうな?」
「はっはっはっ、10年なんてあっという間だぜ」
 
 夕日に照らされる河原に1人座り込んで。
 尚斗は、黙々とギターの弦をつまはじく。
 
『有崎だってバイト代はたいてギターまで買ったのは、まんざらじゃないからだろ?』
 
「だあっ」
 ばりばりばりと、髪の毛をかきむしり。
 ごろごろごろと、右へ左へ転がってはもどり、戻ってはまた転がる。
「ぐあああああっ」
 穴があったら入りたい……というのはこういうことなのか。
「下心じゃん、下心満載じゃん、俺」
 御子に相談されたとき、無意識レベルならいざ知らず、自分に何か出来るなら手伝ってやりたいなあ……と思って始めたはずなのに。
 なにが、いつから、こうなった?
「うおおおおお」
 起き上がり、闇雲にギターの弦をかき鳴らし。
「最低最低最低、俺って最低だぜ〜」
 などと、即興の自虐ソングを演奏するのだが、頭で考えるフレーズに技術が追いつかないモノだから。
「でい、ちくしょうっ」
 音を外してしまい、いらだちを募らせる結果になった。
 嘘でも、お世辞でも、自分のギターが好きだと言ってくれた弥生の言葉。
 弥生に返せるモノというか、与えられるモノといえば、それぐらいしかないような気がして。
「だあっ、練習、集中、それしかねえっ」
 さすがに、コードの位置を目で確かめて……などということが必要でもないぐらいに、ギターは尚斗の手に馴染みつつあったから、尚斗は目を閉じた。
 
 『…いいよ』
 
 目を閉じて、唇をそっと突き出してくる弥生の姿……。
 
「そっちに、集中するんじゃねえっ、俺の煩悩っ!」
 ごろごろごろ。
 幸いというか、夕暮れの河原には、他に人影もなく。
 警察や病院へ通報する通行人はいなかった。
「そうだよ、あれだ、あれからだっ」
 バレンタイン直前の連休。
 弥生は、尚斗の目をふさいで、口紅を塗ってくれた。
 自分の唇に押し当てられた柔らかな感触を、今も鮮やかに思い出すことができる。
 多分、あの時……自分の中で何かが生まれたというか、自分の中の何かを自覚させられた。
「あー、もうっ」
 そして再びギターと格闘する……日が落ちて、真っ暗になるまで。
 
「有崎さん」
「あぁ、御子ちゃん、久しぶり」
「はい」
 にこ。
 御子の笑顔は可愛いのだが、今の会話の流れで『はい』と返事されると、言葉を継ぐのは困難だ。
「えーと…」
 さて、何を話せばいいかな……などと、尚斗が微妙に居心地の悪さを感じているに対し、御子はじっと尚斗の顔を見つめて……ただそれだけで、なにやら楽しそうで。
 そんな御子を見ていたら、別に話題を探す必要もないのかな……と、尚斗の心も穏やかになる。
「……ちょっとばかり、春っぽくなってきたね」
「はい」
「温室に移動させた植物とか、元気?」
「はい」
 お、今の『はい』はちょっと嬉しそうだった……と。
「そっか…やっぱ、あいつらも春の方が元気出るよな」
「……」
「あれ、俺なんか変なこと言った?」
「いいえ、そんなこと…ないです」
 にこにこ。
 尚斗はわかっていなかったが、植物をただ単にモノとして扱わない『あいつら』という表現が、御子は単純に嬉しかったのだった。
 まあ、そもそも尚斗に対して好意を持っていて、全てを好意的に受け取るそんな状態だからということもある。
 御子の笑顔を見ていると、尚斗も自然に笑みがこぼれて。
 にこにこにこ。
 にこにこ。
 いや、笑いあっててどうする……と気付いて、尚斗。
「そういや、御子ちゃんは帰るところじゃなかったの?」
「…はい」
 あ、この話題はあまりお気に召さなかったようだ。
「有崎さんは…弥生おねえさまを待ってらっしゃるんですか」
「うん。なんか今日はここで待ってろって」
「……そうですか」
 ちょっと俯き……でもすぐに顔を上げ、御子はにこっと笑って言った。
「あ、あの有崎さん…おねえさまが来られるまで、お話ししていてもいいですか?」
「うん、構わないよ…っていうか、むしろ大歓迎」
 校門で一人、女子生徒の行き交う中、立って待ってるというのはなかなかにあれで……そういう意味でも、こうして御子と話していられるのは有難い。
 だがしかし、そのあたりの機微を御子が理解できたかどうか。
「あれ、御子もいたんだ」
「おねえさま」「おう、弥生」
 多生のやりとりを経て、とりあえず、駅まで……と3人がその場を去ってから。
「弥生ちゃんの妹、御子ちゃんだよね…かーわいい、可愛い」
「いや、そっちじゃなくて」
 と、温子と世羽子が物陰から現れる。
「そっちじゃないというと…」
 温子は苦笑を浮かべ。
「有崎君、鈍すぎ」
「いや、それもそうなんだけど…」
「弥生ちゃんに対して、腰が退けてる?」
「あぁ、やっぱりそう見える?」
「……御子ちゃんに対して、すごい自然って言うか…比較するとわかりやすいね」
 世羽子はちょっと眉をひそめ。
「ええ……まるで、弥生を好きにならないように自分の心を抑え付けてるようにも思えるわね」
「それはそれで、御子ちゃんとくっつきそう」
「……」
「……馬に蹴られるよ?」
「……このままだと、弥生が妹さんの気持ちに気付くわ」
「それもまた人生」
 と、温子が手を合わせ。
「それとも、世羽子ちゃんとしては、さっさと片付いて欲しいってとこ?」
「……なんで?」
 世羽子の視線を避けるように俯いて、温子は呟いた。
「ごめん…ちょっと、カマかけたの」
「……不覚」
 そう呟いて、世羽子は目を閉じた。
「いや、わりと人見知りする世羽子ちゃんなのに、有崎君には、物怖じせずに声をかけたな…という違和感はあったんだ」
 世羽子は大きなため息をつき……天を仰いだ。
「向こうには覚えがない……その程度の縁よ」
「ま、深くは聞かないけど」
 温子は空を見上げ。
「消去法による選択は、あまりおすすめしない」
「難しいことをいうわね、温子は」
 
「また巧くなってる」
「そうか?」
 尚斗はちょっと手を止め……振り向いたすぐそばに弥生の顔があったことに狼狽して、慌てて演奏を再開した。
「じ、自分ではわからんが…」
「そろそろ、デビューしていいんじゃないかな?」
 とんっと、尚斗の肩に顎をのせて、弥生。
 弥生の体温、呼吸、体臭……尚斗の意識は千々に乱れ。
「……へたっぴ」
「だ、だから練習してるんだろうがっ」
「んー?」
「な、何だよ?」
「顔赤いよ、熱でも…」
 尚斗が慌てて距離を取る。
「……」
「熱なんかねえって」
「……なんだかなあ」
 つまらなさそうに、弥生がため息をついた。
 もやもやもやっと弥生の脳裏に甦るのは、尚斗と御子の距離感。
 あれに比べると、どうも自分は尚斗に距離を置かれているような……。
 華道の名門九条流の長女にして、次期後継者……中学に上がる頃には、既に父や母の代理を務めていて、方々に、顔と名前は売れている。
 良家の子女が集まると言っても、やはり弥生はいろんな意味で抜けていた。
 もちろん、弥生自身はそんな自覚はないというか、華道を歩むモノとしてそういった自覚そのものが愚かしいと感じていたから、鼻に掛けるなどと言うことはないものの。
 結局、普段から自分より年上の……それも、洗練された人間と接することが多かったから、同学年の人間にとって、時には教師も含めて、近寄りがたい雰囲気を弥生は醸し出していたのである。
 あの、どことなくよそよそしい妙な距離感と、今自分が感じるこれは、同じモノであろうか。
 そこにいるのに、そこにはいない……あれとはちょっと違う気がした。
「ねー、有崎ぃ」
「んー?」
「ギター、貸して」
「今、練習してんだっつーの」
 ものすっごい意識しているけど、それをわざと無関心な返事に包む尚斗……弥生はそれに気付かない。
 結局、弥生はごくふつうの世間的価値観および、ある種の対人コミュニケーションにおいて、初心者なのである。
「あーりーさーきー」
 くいくいと、尚斗の袖を引く。
「なんだよ?」
 ようやく手を止め、尚斗は振り返った。
 犬や猫が時折発する、構ってオーラを滲ませつつ、弥生は尚斗の腕をつかんだ。
「練習ばっかりしてないでさ、ちょっと話そうよ」
「弥生が良いっていうなら良いんだがよ…」
 尚斗は、微妙な表情を浮かべて、微妙な距離を保ちつつ。
「……」
「……」
「なんか、話すんじゃないのか?」
「ん、特に何かってワケじゃなかったんだけど」
 と、弥生の目が、尚斗に何かを期待してるのは明らかで。
「……テレビ…は、見ねえんだよな」
「だから、テレビ部屋には、許可をもらわないと、入れないってば」
「漫画…は、読むわけねえか」
 そもそも、趣味が合うのかどうか。
「と、すると……」
 世間話……って感じじゃないし、残るは、音楽の話、もしくは……。
「そういや、御子ちゃんって…」
「御子が、なに?」
「……」
「何で黙るの?」
「いや、黙るだろふつー。いきなりそんな不機嫌そうな面されたら」
「不機嫌……なんで私が不機嫌にならなきゃいけないのよ」
「鏡見ろ、鏡」
 弥生は素直に尚斗の言うことを聞いて……。
「……うわ」
「だろ?」
「むー」
 と、首をかしげつつむくれるという、器用さを見せる弥生に。
「つーか、警戒しすぎだろ」
「警戒って?」
「……自覚ねえのか」
 と、尚斗はため息をつき。
「どーせ、俺が御子ちゃんにちょっかい出すんじゃないか…とか思ってるんだろ」
 弥生はちょっと考え…頷いた。
「なるほど…そういうことなのかしら」
「確かに、御子ちゃんは可愛いとは思うけどな」
「でしょでしょ、御子ったら、御子ったらねぇ〜」
 蕩々と、御子のかわいらしさを語り出す弥生にあてつけるようにため息をつき。
「お前、シスコンだろ」
「……」
 妙な目で、弥生が自分を見つめているのに気付いて。
「……なんだよ?」
「有崎の、そういうところって…うん、いいね」
「はぁ?」
「多分、意識はしてないんだろうけど」
 そう言って、弥生は笑った。
 御子が養子だと、あの時、あの場所で、尚斗もまた耳にしたのに、意識するでもなく、自分と御子が姉妹だと、普通に口にしてくれること。
「……?」
 明らかに意味がわかってない尚斗を、ぴっと指さして。
「御子は私の大事な大事な妹だから、有崎にはあげない」
「だから、あげる、あげないの話じゃないっての…」
 尚斗は微妙に疲れを覚えて。
「まあ、でも……俺、姉貴しかいないしな……弟だと生意気そうだから、御子ちゃんみたいな妹は欲しかったな」
「だから、有崎には…」
 ふっと、弥生の眼が泳ぎ……遅れて、頬を微かに上気させた。
「え、えっと…その」
 右、左……と、視線が落ち着かないのはともかく、決して尚斗を見ようとはしない。
「か、考えとく…」
「は?」
「わ、私、今日は、もう帰る」
「お、おい」
「じゃ、じゃあね」
 たっ、たたたたたっ。
 走り去る、弥生の背中を見送りながら。
「なんだ、あいつ…」
 尚斗は首をかしげるのであった。
 
「やっ、よっ、いっ、ちゃーん?」
「……」
 ぼー。
「……返事がない、ただの屍のようだ」
「屍かどうかはともかく、心ここにあらずの教科書ね、まるで」
 と、これは世羽子。
「仕方ないなあ…」
 と、ため息をつき……温子は、鞄の中から1枚20円のケント紙を取り出した。
 折って折って、これまた鞄から取り出したビニールテープで根本をぎゅっとまとめる。
 すぱーん。
「な、なにすんのよっ、いきなり!?」
「おお、魂の帰還」
 1人頷く温子に向かって。
「な、何が魂の帰還よ…いきなり人の頭をはたくなんて、失礼にも程が…」
 と、つめよりかけた弥生に向かって、温子はさらに踏み込み。
「陰陽道盛んな平安時代より、ハリセンは魔を祓う神具として民間に伝わっていたんだけどね、応仁の乱によって京の都の荒廃と共に、その伝承も廃れていったの…そして今は、関西地方の一部で、本来の使用法を知らぬまま、パーティージョーク用のアイテムになりはてて…」
「そ、そんな由来が…」
「あるわけないでしょ…」
 と、世羽子がオチを奪う。
「で、何があったの?」
「え?」
「何があったの?」
 と、温子が弥生の右腕を抱え込む。
「何か、あったの?」
 と、世羽子が弥生の左腕を抱え込み。
「い、いや何がって…その…」
 弥生の頬に、赤みが差した瞬間、温子が茶々を入れた。
「ほう、有崎君と、何か進展があったのかな?」
 ぎりぎりぎり。
「痛、ちょっと、痛いってば世羽子…」
「あ、ごめん…」
 と、世羽子は慌てて弥生の左腕を放した。
「……し、進展って言うかその…」
 弥生はちょっと恥ずかしそうに2人からを顔を背けて。
「有崎って…思ってたより情熱的なんだって…」
「わーお……痛、痛たたたたっ、世羽子ちゃん、世羽子ちゃんっ!?」
「あ、ごめん…」
 と、世羽子は温子の髪の毛を放した。
「……弥生ちゃんじゃなきゃ、ばれてるよ」
「……」
 ぷい。
「どいつもこいつも、素直じゃない…」
 と、温子はぶつぶつと呟いた。
「……や、弥生…その、情熱的って?」
 さらに己の心にナイフを突き立てようというのか、世羽子がおずおずと切り出した。
「あ、うん…求婚…された…かな」
「きゅっ…」
 世羽子の口を手でふさぎ、温子はまじめくさった表情でびしっと弥生の顔を指さして言った。
「ダウト」
「……」
「……」
「だうとって、何?」
「むう」
 温子は、この箱入りの世間知らずめ、と心の中で呟き。
「何をどう受け取ったか知らないけど、ほぼ100%、弥生ちゃんの勘違いだと思う」
「か、か、勘違いって何よっ」
「じゃあ、なんて言われたの…結婚してくれって、言われたの?」
「あ、う、そうじゃないわよ……その…」
 照れ照れ。
 いらいら。
「その、御子の話をしてて……御子みたいな、妹が欲しいなって」
「……」
「……」
「み、御子が有崎の妹になるって事は、そ、その…御子は私の妹で…つまり、…その…って、ことじゃない…も、もうっ、言わせないでよっ」
 恥ずかしげに手で顔を隠し、弥生は子供が嫌々をするように、何度も何度も首を振る。
「……」
「……」
 温子と世羽子は、2人そろって自分が二次元の世界に閉じ込められたような錯覚にとらわれていたのだが……先に復帰したのは温子だった。
 すぱーん。
「あ、痛っ」
 すぱーん、すぱーん。
「ちょっ、なっ…?」
 すぱーん、すぱーん、すぱーん。
 さすがの温子も腹に据えかねたのか、ハリセンの音は、しばらく続いた。
 
「なんかね、温子も世羽子も、ワケわかんないのよ…」
 ぶつぶつぶつ。
「いや、それ以前に状況がわからないんだが…」
 と、弥生に背を向け、今日もせっせとギターの弦をつまはじきながら、尚斗。
 弥生から尚斗に示された状況説明は、『あの2人ったらひどいのよ』だけなのである。
「まあ、温子とヨーコさんの2人が、理由もなくひどいことをするとは思えんぞ……理不尽さとはほど遠いキャラっつーか」
 むしろ、まだ弥生の方が、妙に世間知らずの分だけ理不尽な部分を持ってる……とは言わない。
「……なんで、2人の肩を持つかなあ」
「いや、状況説明も何もないじゃん」
「だったら、そこは余計に、私の肩を持つべきじゃないの、有崎は?」
「あ、いや……その、人間はみな平等…つーかな…」
 しどろもどろ。
 こ、こいつ、おれの気持ちっつーか、煩悩に気付いてんのかよ…という感じに、尚斗の心の中には嵐が吹き荒れていたいり。(笑)
 とはいえ、むやみやたらに弥生の味方をするのは違うだろう……という理性というか常識は保っている。
「むー、有崎がなんか冷たい…」
 求婚までしておいて、何よ……。
 と、尚斗と弥生の間に、大きくて深い川が流れている。
 もちろん、川を渡る橋は、半ばまで完成しているようだが、2人の間に意志の疎通がなければ、その橋は幻以外の何物でもない。
「……また、ギターの練習ばっかり」
 しかも、こっちに背を向けて……と、心の中で。
 温子の言葉が、ふと甦る。
 
『ほぼ100%、弥生ちゃんの勘違いだと思う』
 
「……」
 するりと、弥生の心の隙間に、その言葉が忍び込む。
 温子の言うことが正しいとしたら、それはどういうことになるのか。
 ふっと、尚斗の背中を見つめる弥生の目に、おそらくは今まで見せたことのない感情の色が浮かんだ。
「……やだな、それは」
 ぽつりと。
「ん?」
 聞こえるかどうかの呟きだったのに、尚斗は手を止めて後ろを振り返った。
「どうかしたか…弥生?」
「ううん」
 弥生は笑って、首を振った。
 それまでは、めんどくさそうに背中を向けたままで言葉を返していたのに、今は振り返ってくれた。
 顔は普通だし、成績も良くないみたいだけれど、この人は……有崎はきっと、今の時代の人間が色々と忘れかけた、人として何か大切な物をちゃんと持っている。
 それは、理屈ではなく、弥生の直感だ。
 温子ならば『あばたもえくぼ』などと、返してくるかも知れないが。
「……ねえ、有崎」
「ん?」
 背中を向けたままで……それが気にならなくなっていた。
「今日、何の日だか知ってる?」
「ひなまつりだろ」
「……正解」
「……なんだよ、他にあるのか……耳の日だっけ?」
「……何にも知らないのね、有崎は」
 そう言って、弥生はちょっと笑った。
 多分、それは自分も同じなのだろう、と。
 有崎が、自分の誕生日すら知らないように、自分もまた、有崎の事をよく知らない。
「ま、いいけど…」
 立ち上がり、尚斗の横に、ちょこんと腰を下ろす。
「なんだよ…」
「別に、ほら、続けて続けて…」
「お、おう…」
 尚斗がギターを弾く。
「〜♪」
 ちらりと、尚斗は弥生を見て……弾く曲を変えた。
 アコースティックギターの優しい音が前奏を奏で、それが、風に乗って流れていく。
「優しい風の歌〜聞いて、歩いた道〜♪」
 ゆっくりと、気持ちを込めて歌いたい部分を、スローに弾いてくれる。
 それは、あの時と同じで。
 どこかの誰かのためにではなく、この曲を聴いてくれる人のためでもなく、この人は、ただ自分のために弾いてくれる……それが、心地良い。
 曲が終わると、弥生は尚斗に身を寄せて、避ける暇も与えずにキスをした。
「…っ!?」
「初めてのキス」
「う、嘘つけ、お前、あの時…」
「今日、17歳になったの、私」
「え、あ…それは…めでたい」
「あははは」
 この人は、気の利いた言葉も言えないことがわかった。
「まあ、いいか…」
「な、何がいいんだよ…お前、いつも、いきなり…」
 顔を赤くして、尚斗は…何を言っていいのか、どう反応していいのかわからなくなっているようで。
「たくさんはいらない、1つだけわかってればいいかなって」
「……?」
「私、あなたが好き。有崎のことが好きだよ」
 
 それは、3月、優しい風が歌い始める頃。
 いつの時代もそうであったように、風は、未来に向かって吹いていく……。
 
 
 
 
 まあ、弥生の誕生日は3月でいいよね。(笑)
 弥生が3月で、仮に御子が4月だったら、『御子が養子ということを聞いて驚く弥生にツッコミをいれる』なんて、ギャグになるんでしょうね。
 あ、腹違い、というケースもあるか。
 
 尚斗が、世羽子のことを『ヨーコさん』と呼んでいるのは誤字ではなく、伏線です。(笑)

前のページに戻る