3月3日(日)。
 
「……すげー」
 尚斗は呆けたように呟いた。
 尚斗が弥生の家、九条家を訪れるのは一応2度目になるのだが、前回は御子のお見舞いという名目があった上に、色々と考えることが多かったから、そういうことを考える余裕がほとんど無かったともいう。
 それ故に、今こうしてあらためて目にすると……な、わけだ。
 敷地の広さはさておき、門構えやら建物そのものは、いわゆる豪邸と呼ばれる外見ではない。
 大きいとか、威圧感があるとか、そういうのとはちょっと違って……神社やお寺など、いわゆる神域というか、みだりに立ち入ってはならない気持ちにさせられる、ああいう気配に近いか。
「わかってたことだけど…」
 そう、わかってはいたのだが、呟かざるを得ない。
「お嬢様なんだよな、弥生って…」
 女子校に一ヶ月ほど間借りして、同じ空気を吸ったせいでわかったことがある。
 いわゆるお嬢様と呼ばれる少女の大半は、庶民の延長上に位置する存在であるのだが、ごくまれに、別次元というか、本物のお嬢様ってやつが存在するのだと。
 短いスカートでぴょんぴょん跳ねるし、妙に人なつっこいところもあるが……弥生の素地が不意に顔をのぞかせると、尚斗は否応なしにそれを意識してしまう。
 だからまあ……今、尚斗の目の前にあるそれは、圧倒されつつも、なるほどなあ、とうなずけるモノでもあるわけで。
 それと同時に、そうやって自分にうなずかせてしまう弥生は、やっぱりすごいんだよなあ……と、思いを新たにしたところで。
「……えーと」
 門の前で、尚斗はきょろきょろと視線を彷徨わせた。
 呼び鈴とか、インターホンとか、一体どこに?
 前回は、弥生のあとをついて……ここじゃない、別の出入り口というか、通用門みたいなところからお邪魔したんだよなあ、と。
 もう一度、門周りを確認してから、尚斗は小さくうなずいた。
 とにかく、自分は努力をしたのだ。
「お邪魔します」
 軽く頭を下げ、門の中へ一歩…。
「そういうところ、有崎はすごいよねえ」
 門の影から、笑いをこらえるような弥生の声。
「見てたんなら…」
 尚斗の言葉が不意にとぎれたことに不審を覚えたのか、弥生が首を傾げた。
「……どうしたの?」
「……着物だ」
 やや白痴じみた尚斗の呟きに、弥生はちょっと恥ずかしそうに(笑)胸を張り。
「そりゃ、ふつーに着るわよ」
「いや、あんま、ふつーじゃねえと思う」
 正月の晴れ着や、夏祭りの浴衣、あとは卒業シーズンにちらほらと……ぐらいしか、尚斗には、いわゆる和服を目にする機会がなかったから。
 もちろん、普段から着慣れている弥生にとって、着物はあくまでも普段着でしかない。
「あのね、ひゃ…」
 百年、と言いかけて弥生はちょっと口をつぐみ。
「に、200年も前は、この国の人間はみんなこれだったんだからね?」
「そーなんだよなあ」
 尚斗は大きくうなずき。
「でも、刀持った人間が、道をふつーに歩いてたんだよなあ、その頃って……200年か、すげーよな、200年って…」
 などと、弥生にしてみれば、尚斗のそれは不思議な感心の仕方で……肩の力を抜き、苦笑を浮かべて言った。
「刀なら、ウチにもあるけど?」
「……あるのか?」
「うん、蔵の中に…小さい頃に見た記憶があるもの」
 興味あるの?という表情で、弥生。
「蔵」
 おいおい、よりによって蔵ときましたよ……みたいな表情を浮かべる尚斗。
「ウチの建物、文化財指定とかされてるから、新しい離れはともかく、勝手に改修とか出来なくなってるの」
「……ってことは」
 尚斗は首をかしげ。
「エアコンとか、設置できねえって事か?」
「多分、そう…壁に穴を開けたりも出来ないからね」
「あ、ひょっとして…」
「なに?」
「いや、テレビ部屋ってのも、ひょっとしたら、そのあたりが関係してるかもな。アンテナ工事とか、できないのかもしんねえし」
「そのあたりは、よくわかんない」
 尚斗はちょっと苦笑し。
「まあ、なんだかんだで大変そうだよな、こういう家ってのも」
「……自分の思惑以外の部分で、自由に出来ないって言うのは、正直息が詰まる」
「なるほど…」
 尚斗は頷き、思い出したように。
「最初はびっくりしたけど、弥生の着物姿って、なんかいいな」
「なに、いきなりとってつけたみたいに」
「いや、正月の初詣なんかで見かける連中ってさ、あれはあれで綺麗だとは思うけど、着物に着られてるって感じがする。弥生のそれを見たら特に、そんな感じ」
「慣れてるだけって事よね、それ」
 弥生はちょっと笑い。
「まあ、こんなところで立ち話も…よね。どうぞ」
 すっすっすっ。
「……足の運びまで、違ってら」
「……そういうところに、目配りできる有崎も、大したモノだよ」
「え?」
「別に。ついてこないと迷うわよ……無駄に広いから、この家」
 すっすっすっ。
 てくてくてく。
 弥生の後をついていきながらも、尚斗はあちらこちらに視線を投げて。
「なんつーか、あれだな」
 立ち止まり、振り返る弥生。
「なに?」
「弥生んち、旅館が経営できそうだな」
「ぷっ、あはははは…」
 弾けるように、弥生が笑い出す。
「え、なに、ツボッた?」
「旅館、旅館って…あはは…あー、おかしい」
「……そんな面白いことを言ったつもりはないんだが」
 笑いを止め、背筋を伸ばし、弥生が、尚斗に向かって恭しく頭を下げる。
「純和風旅館九条屋へ、ようこそいらっしゃいました」
「……」
「……ぷっ」
 弥生は再びお腹を押さえて。
「あははははは、だめだめ、おかしいおかしい…」
「こらこら、年頃の娘さんが、そんな大口開けて…」
 やや芝居じみた口調でたしなめたのだが、かえって弥生の笑いを加速させた。
「あはははは…」
「ラッキョが転がっても、おかしい年頃ってやつか」
「あはは…ラッキョ?箸じゃなくて?」
 と、いきなり弥生が食いついてきたのを。
「切り替え早いな、お前…」
「ラッキョが転がっても…っていうのは、聞いたことない。そういう表現があるの?」
「どこかで聞いただけ…つーか、俺はむしろ、箸が転がっても…って方を知らねえよ」
「……年頃の女の子は、笑い上戸?」
「未成年の飲酒は禁止されてます」
「あはは」
 弥生が笑うのを、尚斗はちょっと首をかしげ。
「つーか、今日の弥生は妙にテンション高くねえか?」
「そうかな?」
「……誕生日だから?」
「……馬鹿」
「へ?」
「『ただの』、誕生日なんかに浮かれたりするわけ無いでしょ」
「まあな…」
 と、頷いた尚斗を、弥生はじっと見つめ。
「……馬鹿」
「うわ、二度言われた…」
「はい、こっち…さっさとついてくる」
「へーい」
 
「……ドアがねえ部屋ってのが、すげえ新鮮」
「あ、そうらしいわね」
 と、弥生はうなずき。
「世羽子や温子、聡美も似たようなこといってたから」
「弥生は、反対にドアのある部屋とかに違和感を覚えなかったのか?」
「別に…まあ、学校とかで、普通に目にしたもの。どっちが特別、なんて考えたことない」
「どっちも、ふつー?」
「そうね、そんな感じ」
 弥生は、やや憮然とした感じで……おそらくは、尚斗がなぜそういうことにこだわるのかがよく理解できないからであろう。
「じゃ、ちょっとお茶の用意をしてくるから…」
 と、弥生は立ち上がり。
「庭でも眺めてて」
 中庭ではなく、内庭というのか……弥生が開け放した障子から、四方を建物や渡り廊下に囲まれた……それでいながら、おいおい、冗談だろってな広さの庭が、露わにされた。
「……庭を眺めて、感じ入る趣味も資質もないんだが…」
 弥生の去った部屋の中を、尚斗の視線が一周し。
「他になにもねえ…ってのは、このことか」
 昔の人間が、部屋の調度品や庭に手をかけたのは、案外こういう理由かもな……と、尚斗は、仕方なく庭に目を向けた。
「……まあ、きれいな庭だな」
 終了。(笑)
 が、子供に勉強させるのは簡単である。狭い部屋に閉じこめて、書物だけを与えればいい……という言葉があるように、人間は、退屈には耐えられない。
 後は、寝るか、何かを考えるか……しかないのである。
 結局、尚斗は、見るともなしに、庭を眺めるしかない。
「……様、弥生様」
「ん?」
 やや、反応が遅れ……障子は、静かに開かれた。
 もちろん、尚斗としては反応のしようがなかったのだが、もう少し知識があれば、そのように障子をあけられることがないはずだと気がついたであろう。
「あら?」
 30歳前後、か。
 たぶん、これもまた当たり前なのか、和装の、上品そうな女性が、不思議そうに尚斗を見つめる。
 その視線の意味に、尚斗がようやく気づき。
「あ……えっと、怪しいものではないです。有崎といって、弥生の知り合いで…」
「あぁ…」
 小さく頷き、女性がほほえみを浮かべた。
「弥生様からうかがったことがあります。有崎尚斗様ですね…私は、九条家住み込みの内弟子の1人で、桜と申します。以後、お見知り置きを」
 膝の前に指をつき、深々と頭を下げる。
「あ、いや…これはご丁寧に」
 と、尚斗もあわてて正座し、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。本日、有崎様がおいでになることを、弥生様から何もうかがってなかったものですから」
「あ、いや、そんな、気にしないでください…桜さん。それに、様はいいです。弥生はともかくとして、俺はただのガキで、人に頭を下げられるような大した人間でもないですから」
 畳に額をこすりつけるようにして尚斗がそう頼むと、桜は柔らかく微笑み。
「では、尚斗さん、とお呼びしてよろしいですか?」
「あ、はい、それでいいです」
 これだけのやりとりに、尚斗はどっと汗をかく。
「ところで尚斗さん、弥生様はどちらに…?」
「あ、なんか、お茶の用意をしてくる、と。それまで、庭を眺めて待っててくれと言われて…」
「庭を眺めていらっしゃったわけですね」
「はい」
 桜は、尚斗を誘うような仕草で視線を庭に向けた。
「いかがですか、この庭は」
「あ、綺麗ですね…としか」
 尚斗は苦笑し。
「そもそも、様式とか、伝統とか何も知りませんから……強いて言えば、綺麗だけど、厳しいというか、寂しい庭かなってぐらいで」
「……厳しくて、寂しい庭…ですか?」
 その心は…という表情で、桜が尚斗を見る。
「いや、この庭って、人がいることを考えてないような……まあ、見るための庭なんですかね?俺なんかは、庭ってのは遊ぶ場所だって、認識がありますから」
「……」
「眺めるだけの庭なら、それはあれですよね?芸術品ってやつじゃないんですか?」
「なるほど」
 別に気を悪くした風もなく、桜は微笑んだまま頷いた。
 
 さて、その一方で。
 
「……御子。あなた、かあさまについて、桃香の会に出かけたんじゃなかったの?」
「その、お母様は、気が変わったと仰って……静さんに代理を…」
「代理って…」
 弥生ははっと顔を上げ。
「お、おねえさま?」
 とまどったような御子の声にも振り返らず、尚斗の元へと戻ってゆく。
 
 ほんの微かに、桜の意識がそっちに向いて、尚斗もそれに気がついて、ふっと視線をそちらに向けた。
 それから数秒もしないうちに、声もかけずに障子が開かれる。
「かあさまっ」
「なんです、弥生。お行儀の悪い」
「かあさまこそ、何をだまし討ちみたいなまねをして……そもそも桃香の会を、代理で済ませるなんて、みなさまに失礼ではありませんか」
「体調不良では仕方がありません」
「何が体調不良ですか…そんな」
「弥生、弥生」
「何よ、有崎」
「いや、お前、今……桜さんのこと、かあさまって、言ったか?」
「言ったし、言うわよ。かあさまだもの」
「……」
 尚斗があらためて、桜を見る。
 桜は、さっきと同じように微笑むだけだ。
 言われてみれば、弥生と顔立ちは似ているし……その、見た目の若さ故に、無意識にその選択肢を削ってしまったのだろう。
 それにしても…。
「……若ぇ」
「尚斗さん」
「は、はい」
「年をとる、ということは経験を積むということでもあります。若い、という言葉が常にほめ言葉であるとは考えない方がよろしいですよ」
「あー、なるほど。青二才、とか言いますね、そういや」
 尚斗の言葉に、くすっ…と、桜が口元に手をやった。 
「な、なんで、かあさまが、有崎のことを名前で呼ぶのですかっ」
「……少し落ち着きなさい、弥生」
 桜は、音もなく立ち上がって……弥生を、部屋の外へと押し出してから。
「尚斗さん、御子にお相手をさせますから、しばらくお待ちください」
 と、頭を下げた。
 ほどなくして、御子が姿を現す。
「あ、御子ちゃん。おじゃましてます」
「お、お久しぶりです、有崎さん」
 深々〜。
「やっぱ、御子ちゃんも家では和服なんだ」
「……」
 恥ずかしげに、御子がうつむく。
「よく似合ってて、かわいいよ」
「あぅ…」
 ますますうつむいてしまった御子のうなじが、真っ赤だった。
「それにしても、誕生日なのにみんな出かけて祝ってくれないから、祝いにきてよ…って、弥生に言われてきたんだけど?」
 なんか、母親も御子ちゃんもいるじゃん、みたいな尚斗の言葉に、御子は、うつむいていたのが幸いって訳でもなかろうが、黙り込む。
「……?」
「……えっと、お茶を…どうぞ」
「あ、うん…ありがとう」
 尚斗は御子のいれてくれたお茶を一口すすり。
「それにしても…」
「はい」
「……」
「あ、あの…有崎さん?」
「ごめん、何をしゃべろうとしたか、忘れた」
「そ、そうですか…」
 御子がちょっと笑ったのとは対照的に、尚斗はゆっくりと息を吐いた。
 何も考えずに、『御子ちゃんのお母さんって若いねえ』などと言ってしまいそうだったのである。
 ……とはいえ、この状況で、それを口にしないのも不自然か。
「御子ちゃん。女性の年を聞くのって失礼なのはわかってるんだけどさ…」
「あ、わ、私…16です」
 恥ずかしげにうつむきつつ、御子がか細い声で答えた。
「むう、御子ちゃんがぼけるとは珍しい…」
「……ぇ?」
 微妙な間をおいて。
「いや、その、御子ちゃんじゃなくて、桜さんの…」
「……ぁ、ぅ…」
 いや、それ以上は無理だよ、と声をかけたくなるぐらいに御子は縮こまって。
「お、おかあさまは…19で、弥生おねえさまを…産みましたから」
「19って……そりゃ、早い……のか?」
 高校卒業してすぐって事だよな……などと考えつつ、尚斗は桜の年を計算して、若いのは確かだが、見た目がそれ以上に若いのも確かだよな……と頷き。
「……確か、うちのかーちゃんは23で結婚して、25でねーちゃんを産んで…」
 尚斗は指を折り折り計算し、自分の母親とちょうど10歳ぐらい違うんだな、と頷きかけて。
 10年経つと、桜が自分の母親のようになる……というのは、進化論的にも無理があるような気が激しくした。
 いや、子供の頃に見せられた結婚式の写真では、時の流れは残酷だよなと思える程度に、母親はそれなりに美人だったとは思っているのだ。
 尚斗はちょっと考えて。
 まあ、自分みたいな馬鹿息子を相手にして苦労すれば、ああもなっちまうか……と、反省した。
 さて、御子は御子で尚斗の沈黙を違う方向に解釈したのだろう。
「私を養子にもらったから…かあさまは、2人目を諦めたんだと思います」
「諦める…って」
 尚斗はうつむいたままの御子を見つめて。
 そういや、桜さんは19で弥生を産んだ後……子供を作らなかったのか、と別の思考にたどりつき。
 弥生が実子で、御子が養子、その下にもう1人実子が生まれた場合、御子の気持ちは……などと、考える人間はやっぱり考えるよなあ、と尚斗は頭をかいて。
「ごめん、御子ちゃん。俺にはよくわからない……俺は桜さんじゃないし、そもそも、大人でもなく、女でもないから」
「……はい」
「ただ、うちのかーちゃんは、俺を産んだのは失敗だったっていつも言ってる」
「そんな…」
 顔を上げた御子が飲み込んだのは『そんなことはない』という言葉か、それとも『そんなひどいことを』…という言葉なのか。
「いやいや、少なくとも、人に自慢できる息子じゃないのは確かだから」
 中学校の、進路を決定する最後の三者面談の帰り道で、尚斗は、母親に泣かれた。
 『何度言っても勉強しないから』とか、『このバカ』と、罵られた方が気が楽だったのだが、ただ泣かれた……というのは辛かった。
 別に自分は、勉強ができないだけで……という言い訳が通用しないことがわかっていたから、尚斗はもう、何も言わなかったが。
 嘘をつかないこと、困っている人がいたら助けてあげること、間違ったことをしてる人がいれば正してあげること……子供の頃、父親と母親は、そう教えてくれたから。
 仲間はずれにされているやつがいたらそれとなく声をかけ、いじめには荷担せず、むしろ、いじめている方をぶん殴った。
 そして、勉強のできない人間の言うことを、大抵の教師はあまり信用してくれない。
 両親の言うことが間違ってるとは思わなかったから、その通りに生きてきたつもりなのに……気がつくと、父親はもちろん、母親もまた『この子のことは、もう放っておこう』的な感じに扱われるようになったわけで。
 そういう意味では、姉の存在に自分は救われた、と尚斗は思っている。
「あのさ、御子ちゃん」
「はい」
「子供がほしかったら、産んでたんじゃないのかな」
「……」
「いや、ほんとーのほんとーに、欲しかったら」
 女の子を前に、こういう話題はちょっと気恥ずかしいモノがあるのだが……うまく言葉にできなくとも、ほんの少しだけでも、御子を慰めることができたら、と口にした。
 麻里絵に対して、みちろーに対して、小学校のクラスメイト、中学校の連中……こういう時、尚斗はいつも、祈るような気持ちで言葉を口にしてきた。
 ただ……そうした言葉は、気持ちは、悲しいほどに届かないのが常だった。
「ありがとうございます、有崎さん」
「ん…」
 届いたわけではない、今のはむしろ、御子の方が自分を思いやってくれたのだ、と尚斗は思う。
 言い換えれば、御子の気持ちが、本来は届かなかった不足分を補ってくれた。
「良くないとわかってはいるのですが…」
 ぽつりと、御子が呟く。
「どうしても、考えてしまうんです」
「そりゃ、そーだよなあ」
 尚斗も、頷く。
 御子が、ふっと顔を上げ。
「お茶が冷めてしまいました…入れなおしますね」
 
「……弥生」
 母の視線をまともに受け止めて、というか、見返すように。
「はい」
「……最初から、そう構えられては、話になりません」
 と、桜はため息をつき。
「家の者がほとんど出払った隙に、男の方を家に連れ込むのは感心しません」
「……」
「どれほど気配りしても、誰かがそれを見て、あらぬ噂を立てられるぐらいのことは、弥生も承知でしょう。あなたらしくもない」
「かあさま」
「何です」
「私はもう17です」
「『まだ』17です」
「19で私を産んだかあさまにそれを…」
 桜は敢えて渋い表情を浮かべることで、弥生の言葉を封じ。
「……何を焦っているのですか、あなたは」
「……」
「尚斗さんとは先ほど言葉を交わし、良い方だというのは理解しました」
「当たり前です」
 弥生の口調、表情共に、一片の曇りもない。
「別に、弥生が選んだ方ならと、そのことは心配していませんでした」
「だったら…」
「弥生が尚斗さんと出会ってから、まだ一月半でしょう。おつきあいを始めたのもそうですが……」
 と、桜が少々言葉を濁し……弥生が微かに頬を染めた。
「そもそも、今日、あなたが考えていたことを、尚斗さんは承知なのですか?私にはとてもそうは思えませんでしたが」
「……」
 そして、桜はもう一度。
「何を焦っているのですか、あなたは」
 弥生の口元に、強情さがあらわれる。
「理由を口にできないということは、何かやましいことがあるか、もしくは口にしても理解してもらえないと思っているかのどちらかでしょう」
 桜は弥生を見つめ、重ねて口にする。
「先ほどあなたが言ったように、私は19であなたを産みました。そのことで被った自分の苦労を、1つ1つ子供に話して聞かせるのも愚かですが……私には、そうしなければいけない理由がありました」
「……」
「……」
 5分、10分……ようやく、弥生の口が開く。
「言いたくありません」
「……わかりました。あなたがそこまで言うのなら何か事情があるのでしょう」
「……かあさま」
「何です?」
「何故、わかったのですか?」
「……香神様が、あなたを心配して連絡をくれたのです」
「温子が…」
「それと、『高校は、一緒に卒業しようよ』と、伝えてくれ、と」
 弥生の顔が、羞恥に染まった。
 
「んじゃまあ、あらためて、誕生日おめでとう、弥生……これはまあ、つまんないもんだが」
 と、尚斗が差し出した小さな包みを、受け取りつつ。
「あ、ありがと」
 と、弥生が頭を下げる。
 ちなみに、御子も、桜もその場にいる。
 ひどく予定が狂ったなあ、と思いつつも、弥生はそれを顔に出さない。
「弥生の名前は、やっぱり3月生まれだからなんですか?」
「ええ、そうです」
 尚斗の質問に、桜が笑って答えた。
 自分のことを話題にされる照れなのか、はたまた母である桜に嫉妬したわけではなかろうが、弥生が尚斗に対して問いかけた。
「わ、私はともかく、有崎の名前はどうなのよ?」
「んー、なんか、小さい頃に説明された気がするけど、忘れた…」
「呆れた」
「そんなものですよ」
 と、桜は微笑み。
「親は、子の未来を想い、願いを込めて名を付けますが、子の未来は、その子のものなのです。親は、自分の想いで子供を縛り付けようなどと願いません」
「なるほど」
 感心したように頷く尚斗を、桜は微笑みを浮かべて見つめ……ふっと、同じように尚斗を見つめている、御子に気づいた。
 そこは年の功というか、桜は、怪しまれぬ程度に小さく頷き、心の中で『なるほど』と呟いたのだった。
 ……そのつもりだったのだが。
「どうかしました、桜さん?」
「あら」
 よりによって、尚斗に気づかれた。(笑)
 自分の鋭さを隠しておけないのは、尚斗の素直さと言うよりも、若さだろうと思いつつ、桜は微笑みに驚きをくるんで。
「いえ、子供の誕生日を祝うのは、当たり前のことなのかしら、と思って」
「……どうですかね」
 と、尚斗は首をひねり。
「小学校の時、ミカンの缶詰をあけてもらったぐらいですね。誕生日プレゼント、なんかは親からもらったことはないです」
「……学校のみんなは、結構、当たり前、みたいな感じで話すけど」
 と、弥生が御子を見る。
「はい。私も…そう聞きます」
「いえ、そういう意味ではなく」
 桜は、ちょっと間をおいて。
「元々この国は、新しい年の訪れと共に、家族みんなが1つ年をとる……と、考えていたんです」
「そーなんですか?」
「そもそも、西洋暦がつかわれだしたのは、明治に入ってからですよ、尚斗さん」
「えーと、それまで使われてたのが、旧暦ってやつですか?」
「そうですね」
 桜は目を閉じ。
「外国とおつきあいする上で、言葉をはじめとしたいろんなものが共通していた方が、やりやすい、という理由はわかるんですが」
「……」
「言葉はもちろん、文化も同じでなければ分かり合えないのなら……それは悲しいことですね、きっと」
 そして、桜は……弥生と、御子に視線を向けた。
「……」「……」
 桜は尚斗に頭を下げ。
「それでは尚斗さん、私はこれで…」
「あ、いえ…なんか、色々勉強になりました」
 と、尚斗も頭を下げる。
「御子、あなたも…」
「はい」
 先に桜が、遅れて御子が立ち上がる……。
 
「……緊張したぜ」
「いや、ぜんっぜん、そんな風には見えなかったから」
 やや仏頂面で、弥生が首を振る。
「見えなくても、緊張してたんだっつーの」
 大きくため息をつき。
「礼儀作法とか、全然知らねえからな……どういうことしたら失礼なのか、想像もつかないってのはプレッシャーだぞ」
「……礼に必要なのは、心だけ」
「そりゃ、そーだろうけど」
「まず、相手を敬う心があって、礼が生まれる」
「……」
「礼の形が生まれ、時の流れと共に、それは単に形式となり果てた、虚礼を生む」
 弥生は、尚斗を見つめ。
「たとえば、有崎が誰かに対して、慣れない尊敬語や謙譲語を用法的に間違った使い方をしたとする……それで腹を立てるような相手は、礼に値しないだけ」
「いや、それは…」
 極端だろう……という言葉を、尚斗に言わせず、弥生が続けた。
「本当に大事なのは、言葉や、礼の形を間違えない事じゃない。それをやろうとした有崎の心が、すでに礼になっているから」
「……間違えないに、越したことはないだろ」
「かあさまは、私と御子のかあさまなの」
 そして、弥生は笑って言った。
「信用して」
「……俺も、自分の家族をそんな風に言ってみてえなあ」
「……」
 あ、勘違いされたか…と、尚斗はあわてて手を振った。
「いや、逆な、逆」
「……?」
「弥生と違って、『俺』は、言葉に重みを与えられないなあって……俺の両親、俺のねーちゃん、だとな、ろくでもなさそうに思われるのがオチだから」
 苦笑する尚斗を、弥生はじっと見つめ。
「えい」
「……っ!?」
 たっぷり10秒、弥生の唇が離れ……尚斗の金縛りが解けた。
「い、いきなりは、やめい」
「……もっとすごいことしちゃう予定だったのに…」
「は?」
「べーつーにー」
 ふいっと、弥生がそっぽを向いた。
 たぶん、できなかったな……と、弥生は心の中で呟く。
「……」
「……何よ?」
「いや、なんか、いつも弥生にばっかりされてる気がしてな」
「……」
「えーと」
 じりじりじり。
 弥生は、お行儀の悪い事に、尚斗のそばへと膝でいざり寄って。
「な・あ・に?」
 などと、悪戯っぽい笑みを浮かべて、尚斗の顔を下から見上げる。
「……だぁあ、可愛いじゃねえか、弥生」
「んっふふー」
「キスしたい」
「…うん」
「いや、俺から。俺の方からな…」
 と、尚斗はいったん、弥生の身体を押し……あらためて、目をつぶって待っている弥生に顔を寄せていった。
「……」
「あ、こら…」
 離れかけた尚斗の首を、弥生がぐいっと引き寄せて、さらに数秒。
「……有崎は、淡泊なの?」
「誰と比べてだよ、誰と」
「や、温子の話だと、男の子って、もっとこう……ねえ」
 ちょいと照れながら、弥生が視線を泳がせる。
「ねえ、と言われてもな…」
 尚斗は、なんとなく、自分の下腹のあたりを手のひらでなでて。
「なあ、なんかあったのか、弥生」
「……別に」
 微妙な沈黙……を、尚斗が破った。
「最近じゃなくて……もっと前からだよな」
「何が?」
「いや……ガールズバンドだから化粧しなきゃとかいって、目隠しはされたけど、弥生が俺にキスしたときぐらいから」
「したかったから」
 弥生の呟き、をほとんど無視する形で。
「……あの時はわかんなかったけど、なんとなく、弥生が何か焦ってるような……それには気づいてたんだ」
「……」
「ふつーは、心配して、何か力になってやろう……とか思うよな」
「有崎」
「はいはい、回りくどい話は嫌いってんだろ…」
 と、尚斗はため息をついて。
「俺、弥生と一緒にいたいと思ったんだ……だから、何も聞かず、何も言わず……今さら、『何かあったのか?』なんて事を口にしてる」
「……」
「ひどい男だ」
「今の話を要約すると、こういう事よね」
 弥生は、微笑みをたたえたまま。
「有崎は、自分の主義を曲げてもかまわないと思うぐらいに、私のことが好きで……今、自分の恥をさらしてまで、私のことを心配してくれてる」
「……好意的に解釈しすぎだろ、それは」
「当たり前でしょ、私、有崎のことが、好きなんだから」
「……すまん、ちょっと照れた。つーか、すげーうれしかったりする……俺、単純だよな、マジで」
「悲しいことだけど」
「え」
「困ってる人がいたら、助けようとするのはふつーじゃないよ」
 淡々と。
「みんなにとって当たり前らしいテレビも見ずに育ってきたけど、たぶん、有崎よりずっと、世間を知ってると思うよ、私」
「……」
「今日で17年……そのほとんどの時間を、花と人だけを見てきたの。みんながテレビを見たり、雑誌を読んだり、いろんな事をして過ごした時間を、私は、その2つだけに注ぎ込んで育ったの……御子も同じ」
 弥生は、ちょっと尚斗に笑いかけ。
「私と有崎は、ただ出会っただけだけど、御子は有崎を見つけたの……本音を言うと、これはちょっとショックだったな」
 尚斗は、頭をかき。
「……弥生、その、お前が回りくどい話が嫌いなように、だな…俺は、難しい話が嫌いというか、よく理解できん。出会った、と、見つけたって、何か違うのか?」
「んー」
 どこか困ったように、弥生が笑った。
「……」
「……簡単に言えば、私は御子に劣るって事」
「……別に、御子ちゃんを軽んじるつもりはないんだが…」
「いやいや、人の中に人を見いだす力があるって事はさ、自分の中にある自分を見いだす力があるって事でね…」
「だから、難しい話はわかんねって」
「……これ以上は、御子に悪いから言わない」
「……」
「……」
「えーと」
 尚斗は頭をかいて……弥生の目をじっと見つめた。
「好きだぞ、弥生」
「うわ」
 弥生はちょっと笑い。
「も、もう一回いいかな」
「こ、こういうのは、たまに言うからいいんだ」
「そ、そうかもね…」
 2人は、どちらからともなく視線を逸らし……そしてまた、どちらからともなく見つめ合い、唇と唇をあわせるだけの、小さくて優しいキスをした。
 
「尚斗さん、少しよろしいですか」
 陽が暮れる前に帰ろうとした尚斗を呼び止めたのは桜である。
「あ、はい…」
 桜の後を、尚斗がついていく。
「……弥生」
「私に聞かせられない話ですか、かあさま」
「そうです」
「……」
 ああ、こりゃ桜さんの上が一枚上だな、と尚斗は苦笑し。
「何を話したか、後で俺が話してやる。それでいいか?」
「……わかった」
 と、弥生が素直に(?)引き下がり。
「えーと、それで桜さん、話って言うのは…」
「ええ」
 桜は、膝の前に手をついて。
「弥生の軽はずみな行動のせいで、尚斗さんに迷惑をかけることを、まずはお詫びしておきます」
「え、別に」
 迷惑なんて……そう言いかけて、尚斗は口をつぐんだ。
「……迷惑をかける?」
「弥生は、まだ自分の立場をまだ理解していません」
「九条流のあとを継ぐとか、そういう…」
「いえ、そうではなく」
 桜は首を振り。
「弥生は中学にあがる前から、私や主人の代理として催しに参加したり、人に指導させたりと……まあ、各界に顔を売らせてまいりました」
「……?」
「つまり、その……弥生は、各界のお偉いさんに、気に入られていると言うことです。正確に言うと、その奥様方に、ですが」
「すみません桜さん、できれば、簡潔にお願いします」
「弥生が尚斗さんを家に招いた、となると、これはもう……『お友達』で、すませられないのです」
 桜は、気の毒そうな表情を浮かべるでもなく。
「つまり、尚斗さんはもう、後には退けません」
「……」
「交際するなら交際するで煩わしい思いをするでしょうし、ましてや弥生と別れるとなると、あまりよろしくない手段をとる方がいらっしゃるかもしれません」
「それは、つまり…」
 尚斗は、ごくりとつばを飲み込み。
「がんばれ、と」
 桜が笑った。
「そうですわね……私は応援させてもらいます」
「はあ、どうも」
 と、尚斗は少々間の抜けた返事をする。
「ひとまず、主人のことは私にお任せください」
「はあ…」
「……」
「あ、いや、そーじゃなくて」
 と、尚斗は首を振り。
「俺で、いいんですか?」
「ほほ」
 桜が口元を手で隠し。
「それは、尚斗さんと弥生の2人で決めることですから」
「……」
「その、当たり前のことに、いろんな人間が首を突っ込んでくる……良くも悪くも、こういう世界なのです」
 
「……それで、かあさまと何を話したの?」
「ん、あ、いや…」
 尚斗は、ちょっと頭をかき。
「有崎」
「……覚悟を決めろって」
「は?」
「いや、桜さん、19で弥生を生んだのって……すげー、苦労したんだろな」
「苦労したのは、かあさまじゃなく、とうさま……たぶんだけど」
 尚斗は弥生を見て、弥生は尚斗を見つめた。
「弥生」
「なに?」
「ちょっと、笑ってくれ」
「好きって言ってくれたら」
「……安売りさせんな」
「あっそ」
 ふいっと、2人して目をそらす。
「ところで弥生」
「なに?」
「九条流の跡継ぎとか、どうすんだ?」
「……有崎が継ぐ?」
「無茶言うな」
「あはは」
 
 弥生の父親、九条流の現宗匠が入り婿であることを尚斗が知るのは、後のことである。
 
 
 
 
 ん、ちょい、尻切れ気味。
 ただ、後日談というか、このあとの展開そのものについて、想像を巡らせやすい話ではあると思います。
 まあ、原作では、父親やら母親やら、全く出てこなかったんで、設定が『偽』に引きずられ気味なのは否めません。
 
 まあ、それはそれとして……原作において弥生の父親はおそらく40代、いって50でしょう。
 で、御子の発言から血縁によってあとを継ぐ……となると、なおさら、この時期に、そういう話が浮上する理由が不明というか、高任が考える七不思議の1つ。
 
 実は父親、不治の病に冒された?
 

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