「あ、あの…私、九条御子と申します…」
 ゆっくりーと下がっていく小さな頭を見ながら、尚斗はなんというかこう、未知なる生物に出会ったような厳かな気持ちに襲われた。
 そんな思いが、ふとこんな言葉を呟かせる。
「……やべえ、ほんものだ」
「…あ、あの…何か?」
 困ったような表情で見上げてくる御子に気付き、尚斗は慌てて首を振った。
「あ、いや、何でもない……有崎尚斗です」
「はい…」
 冬の空気のように、どこか澄んだ沈黙に包まれる……もちろん、育ちの悪い尚斗にとっては居心地の悪いことこの上ない。
「あー、その…」
「……?」
 きょと、と首を傾げる少女を見ながら、尚斗はふと九条という名字に聞き覚えがあることに気付いた。
「……え、九条?」
「は、はい」
 尚斗は御子の顔をあらためて見つめた……が、恥ずかしそうに顔を背けられてしまう。
 姉妹……とは思えないのだが、、この内気そうな少女がわざわざ話し掛けてきた動機がそれ以外に思いつかない。
 何しろ、この学校における顔見知りは麻里絵と、ピンポンパンの3人組しかいない。
 見たところ下級生のようだし、人見知りする麻里絵の知人と言われてもピンとこない……とすると、やはり弥生関係と見るのが無難であろう。
「……おお、今日は冴えてるな、俺」
「え、えーと?」
「いや、なんでもない……と、間違えてたら申し訳ないんだけど、弥生の妹さんかな?」
「お、お姉さまから何か……?」
「いや、独断と偏見による論理的帰結というか……」
 御子は小さく首を傾げ、おそるおそるといった感じで呟いた。
「あ、あの…独断と偏見という言葉は論理的帰結という言葉と相容れないような気がするのですが」
「……ツッコミまで上品だよ、おい」
 しかもどこか見当違い。
「あ、あの…」
「あ、ごめんね……何というか、ちょっと舞い上がってます、はい」
「……?」
 取りあえずは失礼のないように……と、小さく咳払いしてから御子に向き直った。
「で、えーと、九条さん?」
「……弥生お姉さまと区別が付きにくいのでは?」
「いや、弥生の場合は弥生と呼んでるし……って、あらためて考えると、初手から名前呼びか……」
 男友達の感覚だったがそれはすごく失礼なことなのかも……などと考えていると、おずおずと制服の裾を引っ張られた。
「あ、あの…」
「あ、ごめん……どうも、異世界に召還されてちょっぴり情緒不安定なだけなので気にしないで。で、何の話?」
「おねがいが…あるのですが」
「……は?」
「だめ…ですか?」
「いや、そんな事ないともさ!」
 すがるような目つきで真珠の涙を浮かべるのは反則だと思いつつ、安請け合いしてしまう尚斗。
「……良かった」
 しゅるる、と涙がひいていく。
「ひょっとして、俺騙されてる?」
「やっぱり、駄目なんですか?」
 じわり。
「いや、全然オッケーです」
「良かった…」
 しゅるる、とひっこむ涙。
 かあさん……あなたの息子は、今ひょっとすると大ピンチです。
 などと空を見上げつつ、尚斗は天国の母に祈った。
「で、おねがいとは?」
「……」
「そこで黙るか…」
「……姉と、話がしたいんです」
 ぽつり、と呟かれた言葉の意味を理解するのに3秒ほどかかった。
「えーと、……家で話をすればどうでしょうか?」
「姉は、今プチ家出中なので……」
「だったら、学校で話をすればどうでしょうか?」
 御子は驚いたような表情で尚斗を見つめていた。
「あ、あの…家出と聞いて驚かないのですか?」
「家出ぐらい別に珍しい事じゃ…」
「そ、そうなんですか?」
 御子の声が尚斗の記憶上最高のデジベルを記録した……もちろん、普通の人の普通の会話レベルだが。
「……というか、学校に来てるし。せいぜい、友達の家に厄介になってるぐらいなもんだろ?」
 年頃の女の子にしちゃかわいいもんだ。
「で、でも…」
「俺の見たところ精神的に荒んでいる様子もないし……って、お願いだから涙を浮かべるのはやめてください」
 などというやりとりが為されたのは2週間ほど前のこと。
 
「有崎ぃ!」
 独特の呼び方に振り返る。
「今日は練習ない日だよな?」
「あ、あのさ…今日は暇?」
 視線を逸らしつつ、少し困ったような、それでいて恥ずかしいような弥生の仕草に、尚斗の脈拍が平常より17ほど跳ね上がった。
「ひ、暇……だな」
「だったら…ちょっとつき合って欲しいんだけど」
「ど、どこに?」
「近くのスーパー」
「……はいぃっ?」
 思わず声が裏返った。
「うん、卵の特売日なんだけど1人一個限定なのよ……だ、か、ら」
「だ、か、ら……って、どうせ俺も夕飯の買い物するからいいんだけどよ」
「何よ、『ちょっと屋上まで来てくれない…』ってな展開でも期待したの?」
「ま、『いつか殺す』とまで脅されたばっかりだし……」
 何故かはわからないがグッと胸を張る尚斗に向かって、弥生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だって御子に頼まれたとはいえ、アンタ私を騙したんだもの」
「騙したとは人聞きの悪い……死に別れた姉妹の感動の再会に手を貸そうとしただけじゃないか」
「死んでもないし、別れてもいないっ!」
「……まあ、何があるかわからない世の中だからな。できることなら早めに和解できるといいな」
 穏やかな、穏やかすぎる口調と視線が弥生の口を閉じさせた。
「……恨んでる?」
「何を?」
「お母さんのこと……有崎、苦労したんでしょ?」
「どうだろうな……生きてたら生きてたで、『クソババア』とか毒づいてるような気もするし」
 弥生は小さく笑い、そして高く澄んだ空を見上げた。
「このままだとお父さんやお母さん……御子も、私を恨んだりするのかな」
「一介の男子高校生には重すぎる話題だな……」
 尚斗は呟き、そして笑った。
「まあ、俺にできるのは御子ちゃんと弥生を話し合わせるぐらいで」
「別に……私の方から話す事なんて無いもの」
「御子ちゃんにはある……そして、弥生もそれを待ってるんだろ」
 弥生はちらりと視線だけを動かして尚斗を見、そしてため息をついた。
「鋭いね、有崎は……」
「血がつながってようがつながってまいが家族は家族だよ……それを否定するならば、家族の始まりさえも否定することになる」
「他人だからそう割り切れるんだろうけどね……」
 ふ、と弥生の視線が遠くなった。
 同時に、周囲に纏う雰囲気が一瞬で別物へと変化する。
「私の家は……いろいろと難しい問題が積み重なってますから」
 幼い頃から厳しく躾られてきた弥生のもう一つの顔……どちらが本物という単純な話ではなく、どちらも本物の弥生。
「一般ピープルにはちょっと無縁だからな、そういうの」
「そこらかしこにごろごろしてたら、ちょっと窮屈すぎると思いますよ」
「そうだな、弥生みたいに窮屈すぎる服を脱ぎ捨てられる人間がごろごろいるとも思えないし」
「御子に……」
「ん?」
「御子に、それを求めようとしている私は……残酷なんでしょうか?」
「いや、すげえと思うよ」
「……?」
 尚斗の言葉の意味を計りかねるといった風に、弥生はほんの微かに首を傾げた。
「弥生が御子ちゃんの事を本当に大事に思ってるのはすぐにわかった……だからこそ、今の弥生は偉いと思う」
 動きを止め、弥生は視線を地面に落とす。
 そして、顔を上げて尚斗の肩をばんと叩いた。
「だから有崎は」
「何だよ?」
「……他人を甘やかしすぎ」
 ぷいと顔を背ける弥生の頬がほんのりと赤い。
 照れているのか、冬の風のせいなのか……弥生自身がそのどちらとも判断を付けかねていた。
 
 温室の中でちょこちょこと小さな頭が揺れていた。
 陽あたりを考えて鉢の位置を変えたり、水をやったり……尚斗からすれば、ちょっとじれったいぐらいの速度だが、一応その動作にはよどみがない。
「……まあ、御子ちゃんらしいと言えば御子ちゃんらしいけど」
 肩をすくめ、温室の扉を開ける。
「ぁ……有崎さん」
 尚斗の姿を認めると、御子は手を休めて深々と頭を下げた。
「……ちょっと慣れてきたか」
「はい?」
 きょとんと小首を傾げる仕草が、またなんとも。(笑)
「手伝おうか?」
「え、あ、その……」
 嬉しいけれど困ったような御子に、尚斗は軽く理由を与えてやる。
「最近運動不足でね……ちょっと体を動かしたいんだ」
「あ、そうなんですか」
 御子が少し落ち着く……と、何かを窺うようにじっと尚斗を見つめてきた。
「……本当に?」
 尚斗が御子の扱い方を覚えてきたように、御子もまた尚斗のやり方というモノに気付きつつあるのか。
「いや、本音を言うとここって暖かいから」
「あは…」
 ゆっくりと御子の顔がほころぶ。
 どうやら安心したらしい。
「でしたらこれを……ぴきっ」
 大きな鉢をずらした瞬間、御子が妙な声をあげて固まった。
「……御子ちゃん?」
 覗き込むと……まあ、その、黒くかさかさしたモノが鉢の下から四方へと逃亡を開始しているわけで。
 御子の目の前で手をひらひらと振ってみたが反応無し。
「1匹ならともかくなあ……」
 確認できただけでも半ダース。
「と、言うか……何故こんなところにいるのだごっきーよ?」
 四方に消えてしまったゴキブリに向かって尚斗が呟くと、御子が微かに身体を身震いさせた。
 どうやら、我を取り戻したらしい。
「あ、あの…私、今悪い夢を見ていたみたいなんですが?」
「現実逃避だと思います、はい」
 御子はひどく悲しそうな表情を浮かべ、あたりを見回す。
「……じゃあ、いるんですか?」
 尚斗が重々しく頷くと、御子はまわりの植物に向かって目を伏せながら小さく呟いた。
「……ごめんね」
「…え?」
「でもね、こうなったら焼き尽くすしかないの…」
 ちょっとばかり常軌を逸した光が瞳の中にちらほらしているのを認め、尚斗は慌てて御子の肩を揺さぶった。
「御子ちゃん、落ち着いて!」
 どうやら花愛でる姫は、全ての虫を愛でる姫ではないようで……
 
「……と言うことがあってな」
「あれは、御子が6才の頃だったかしら」
 尚斗の話を聞いて、弥生は遠い遠い目をして呟いた。
「夜中にふと目を覚ました御子は、暗闇に目が慣れるにつれ天井に黒いシミがあるのに気付いたの…その、微かに蠢くシミは幼かった御子の想像力を無限にかき立てて」
「泣きましたか?」
「それならまだ良かったんだけどね……もう気になって気になって眠れなくなった御子はその黒いシミをずっと見つめていたの」
 弥生が、一旦言葉を切る。
 暗闇の中の怪談話ならともかく、話の流れ的にその黒いシミがゴキブリって事がわかってるだけに尚斗はいまいちつまらない。
「すると突然……その黒いシミが大きくなって」
「……うわ」
「見事御子の顔面に着地したごっきーは、かさかさかさーと御子の首筋をはって寝間着の中に……」
「ひでえな、それ」
「悲鳴を聞いて、屋敷中の人間が血相変えて御子の部屋に駆けつけたわ……もちろん、私も」
 そう言って弥生は肩をすくめてみせた。
「たかがゴキブリで……とか言っちゃいけないんだろうな」
 弥生はどこか挑むような視線を尚斗に向け、そして口元を小さく歪めた。
「他人のたかが……は、当人にとって意味を為さないから」
 壁に立てかけてあったギターを手に取り、そしてつまはじく。
「……それが1つもない人間なんて、生きてるとは言えないわよ」
 そう言いきって……ピックを床に落とす。
「……」
「……」
 静寂に耐えられなくなったのか、弥生が顔を真っ赤にして弁明を始めた。
「手が滑ったの!」
「そうか」
「わ、私、ボーカルだもん!」
「はいはい…」
 弥生に押しつけられたギターを取り、尚斗は床の上のピックを拾い上げた。
「では拙い演奏でございますが、お嬢様のために一曲弾かせていただきます…」
「アンタ、やっぱりいつか殺す!」
 
「有崎さん…」
「ん?」
 寄る辺ない子供の浮かべる、すがりつく様な視線……ではなく、ただ純粋に切羽詰まったような雰囲気を漂わせて尚斗を見上げている。
「お姉さまは……私に何を求めているんでしょうか?」
「んー?」
「お姉さまは……思慮の人ですから」
 尚斗は口を開きかけ、そのまま閉じた。
 二人の間の強い絆……それを否定することは誰にもできない。
 姉妹だね……と思わず口をついてしまいそうになった言葉をグッと飲み込み、尚斗は御子の頭に手を乗せた。
 撫でる……つーか、撫でまくり。
「……不思議です」
「何が?」
「有崎さんに頭を撫でられると……心の中のもやもやっとした気分が消えてしまいます」
 尚斗の脳裏に、『有崎、アンタ他人を甘やかしすぎ!』という弥生の声が甦る。
「……むう、そうなんだろうか?」
「は?」
「いや、こっちの話なんだけどね……」
 そう呟いて目をそらした瞬間、唐突に御子が切り出した。
「お姉さまと私、似てませんよね?」
「まあ、そうかな……」
 空気が重みを増してくるのを感じ、尚斗は殊更に何でもないように呟いた。そんな尚斗を見て、ふ、と御子が表情を和らげる。
「そうですね……」
「……」
 ぴゅうっと吹き付けた風がなのか、それとも御子の表情がなのかはわからないが、重々しい空気が一新された。
「私、もう一度お姉さまと話がしたいんです」
 不安に揺れながら、その瞳の中には確かな決意を秘めている。
「……それを俺に頼むの?」
 前回、何故弥生があんなに怒ったのか……それは、御子自身ではなく、尚斗にそれを頼んだからだと尚斗は思っていた。弥生本人は、御子が誰かに頼み事をする事自体に進歩を認めていたようだったが。
「……はい」
 御子はほんの少し目を伏せ、それでいて力強く頷いた。
「了解……」
 人それぞれのペースがある。
 誰もが、弥生のようにいきなりトップギアに入れるとは限らない。
 少しずつ、少しずつ強くなっていく道だってあるだろう。
「尚斗さん……」
「ん?」
「……って、呼んでもかまわないですか?」
「そりゃ、かまわないけど……ちょっとこそばゆいね」
 先ほどまでとは違い、春の陽光を思わせる視線が尚斗を見つめている。
「私……お姉さまみたいになりたいです」
「んー、御子ちゃんには御子ちゃんの良さがあると思うが」
 頭を撫でようとしたが、御子はその手から逃げた。
「……そういう意味じゃないんですよ」
 
 二人の二度目の話し合い……尚斗は二人を引き合わせただけですぐにその場から退散したので何を話したかは知らない。
「……なんか、犬にでも噛みつきそうな顔だな、おい」
「有崎、ちょっと頼みがあるんだけど」
「おや、弥生が頼み事とは珍しい…」
「アンタの首締めていい?」
「丁重にお断りしたいんだが……って、待て!」
 弥生の手を振りほどき、尚斗は呼吸の荒い弥生を見た。
「今回は別に騙したわけじゃねえだろ!」
「アンタが、多分アンタが全部悪い…」
「なぜに?」
「どうしてもよっ!」
 わきわきと指を動かし、弥生は尚斗をにらみ付ける。
「わけわかんねって…」
「だから言ったのよ、他人を甘やかし過ぎって!」 
 怒りのためか、弥生の顔が赤い。
「なんだよ、話し合いが上手くいかなかったとしても俺にやつあたりすることは…」
 尚斗がそう言った瞬間、弥生の顔が無表情になった……そして、その美しく整った唇から紡ぎ出された言葉と言えば
「アンタ、絶対死なす!」
 尚斗を追いかける弥生の耳に、御子が呟いた言葉がリフレインする。
『お姉さま、有崎さんを好きになってもいいですか?』
 
 
                     完
 
 
 弥生の話っつーか、御子の話というか……まあ、九条姉妹の話ですな。(笑)
 そういや高任の知人の1人が、御子の『お姉さま、1つおねだりしてもいいですか?』という台詞に妄想大炸裂させてましたが……この話も妄想大炸裂というレベルでは同じかも。(笑)
 考えてみたら御子の部屋の中で、弥生が歌を歌い、そして、『お姉さま、もう一つおねだりしても…』ってな台詞を言って、顔を赤らめながら弥生の耳に何かを囁く……
『駄目、絶対駄目!』
『おいおい弥生、どんなお願いだかしらねえけどこの状況で首を振るか?』
『う、うるさいっ!これだけは駄目!』
『御子ちゃん、何をお願いしたの?』
『あ、あの…それは…』
 顔を真っ赤にして弥生と尚斗を交互に見比べる御子の口を必死でふさぎ、『絶対に駄目なんだからねっ!』ってな感じで顔を真っ赤にして叫ぶ弥生なんてシチュエーションの方が楽しそうだ。(笑)
 うむ、また違う話で使ってみよう。

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