「んーっ!」
 青空に向かって大きくのびをする。
「……紗智、ずっと寝てたでしょ」
「まあね」
 と、紗智は振り返り。
「大した講義内容でもなさそうだったし」
「……紗智は頭良いから」
 麻里絵は小さくため息をついて。
「『絶対に1人暮らしを始めるから』…なんて言ってたくせに、結局地元の大学に進学しちゃうし」
「まあねん」
「……」
 じとー。
 麻里絵の視線を無視して、紗智は言葉を続けた。
「惚れた男のそばには、いたいじゃない」
「じゃあ、今別れたら、あとの4年は後悔しっぱなしになるね」
「そのときはそのとき」
「……尚斗君が言ってたよ。『あのバカ、そんなことで進路を決めやがって…』って」
「とか言いながら、陰ではにやついてるのよ、これが」
「……」
 じとー。
「わかってるわよ……でも、できるだけそばにいたいの。これ、何よりも優先すべき、自分の気持ちだから」
 麻里絵は紗智をじっと見つめ。
 紗智は案外、ダメ男にひっかかって、身を持ち崩すタイプの人間かも知れない……などと考えた。
 そんな麻里絵の沈黙をどう解釈したのか。
「や、アタシもちゃんと考えてるから……ほら、資格を取るために勉強も始めてるし」
 などと、説明しだすのだ。
「……それなら、大学の講義はちゃんと受けようよ」
「全部は無理」
「……」
「やらなきゃいけないことが多すぎるから……何かを切り捨てる必要があるの」
「……本末転倒のような気がするんだけど」
「それは、尚斗にも言われた」
「だったら…」
「だから、意地でもやるの」
「……あ、そう」
 ふーっと、麻里絵はあきらめのため息をつくのだった。
 
 あの大雪の日から数えて、2度目の春。
 紗智と麻里絵は、同じ大学に進学し……そして尚斗は…。
 
「じゃ、逆に聞くけど……麻里絵は、大学で何がしたいの?」
「……」
「……全部とは言わないけど、そんなもんでしょ大学生なんて」
「う、うー…勉強できる人間は、ちゃんと勉強すべきだと思うよ…」
 麻里絵の呟きに、紗智は苦笑を浮かべて。
「あのねえ、麻里絵……勉強に関しては、アタシも『その他大勢』の1人に過ぎないわよ」
「そうかなあ…」
「まあ、尚斗は『その他大勢』以下かも知れないけど」
「……」
「や、麻里絵。尚斗は私の彼氏だから」
「私の幼なじみでもあるもん」
「……私と尚斗が別れるの待ってる?」
「うん」
「うわ、言い切られた」
 麻里絵はちょっと笑って。
「別れさせはしないよ。ただ待ってるだけ」
「……」
「あのね、尚斗君と紗智、友達としては良くても、恋人としてはすっごく相性悪いと思うから」
「い、いや、そんなにこやかに言わないでくれる?」
「うん、幼なじみと友達が別れるのをまってるなんて、ひどい女だよね私」
 にこにこにこ。
 麻里絵の微笑みに、紗智は少々寒気を覚えた。
「えっとさ…ひょっとして、怒ってる?」
「え、まさか……紗智も尚斗君も、私にとっては大事な人だもん」
「い、いや、それなら…ずっと一緒にいられるように祝福してくれないかな?」
「うん、だから、尚斗君と紗智は、恋人としてはすっごく相性悪いんだってば……友達として相性が良すぎるから、きっと勘違いしたんだと思うの」
「……いや…麻里絵…」
「大丈夫……ずっと待ってるから」
 本当に『ずっと』待ちそうだった。
「えっと、この話はまた今度ね」
「うん」
「……」
「用事あるんでしょ、紗智」
「あ、うん……じゃあ」
「ばいばい、紗智」
「……ばいばい、麻里絵」
 
「……それ、ばれるばれないを通り越して、思いっきり確信持たれてないか?」
「アンタもそう思う?」
 頭を抱えたまま、紗智が呟く。
「……おっかしーわね」
「いや、そもそも最初から無理があっただろ……大体、紗智はいつも言ってたじゃねーかよ、『尚斗は遊び友達としては理想だけど、彼氏としてはちょっとね』って」
「……うん」
「どう考えても、麻里絵の言いぐさは、そのあたり意識してるぞ」
「……そうね」
 尚斗はちょっと考えて。
「やっぱ、やめようぜ…」
「今さら…」
「まあ、今さらなのは認めるが……麻里絵もそうだけどさ、紗智もだよ」
「え?」
「お前だって、せっかく大学生になって……麻里絵のために、進学先決めて、俺とつき合ってるフリまで……それ、お前の時間を失わせてる気がする」
「あ、アタシはいいのよ…別に」
「よくねーよ」
「アタシが良いって言ってんだから、いーの」
 そう言いながら、紗智はちくちくとした胸の痛みを感じた。
 『遊び友達としては理想だけど、彼氏としてはちょっとね』……自分は確かにそう言った。
 でも、それは最初のうちだけだ。
 中学時代、みちろーと仲良くなりたくて、幼なじみだと聞いた麻里絵に近づいた。
 結局自分は、また同じ事をしてしまったのか。
 『アンタに彼女ができたら、麻里絵もあきらめがつくんじゃない?』
 あの時、何故素直に、自分の気持ちを口にできなかったのだろう。
「尚斗は…やっぱり今でも、麻里絵のことを恋愛対象としては見られないの?」
「一緒に遊ぶならまだしも、つき合って、その先って言うと、なんか心が冷めるな」
「そう…」
 その先、という言葉に、胸がドキドキした。
 自分は大学生になったのだ……恋人同士なら、決して早くはない、と思う。
 でも、尚斗はしない、するはずがない……偽恋人だから。
「いっそのこと、キスシーンでも目撃させちゃう?」
「悪趣味だろ……つーか、紗智だって、初めてがそれじゃイヤだろ」
「な、なんで…」
 顔が熱くなった。
「いや、みちろーに惚れてたんだから……まだだろ、お前?」
「……ま、麻里絵のためなら…別に」
「自分のことも、構えよちょっとは……俺にとっちゃ、紗智だって大事な存在なんだぜ」
 尚斗のそんな言葉が嬉しくて、ひどく悲しくなる。
 中学の時と同じように、『好き』と自分で自分に言えなくしてしまった。
 ひどく不毛な片思いの中に、紗智はいた。
「ま、この話はまた今度ね…」
「んー」
「どうなの、仕事の方は?」
「まだ、仕事ってレベルじゃないな……見習いの前ってとこか」
 尚斗は、高校3年の夏の時点で、進学という選択を排除した。
 別に、入るだけならどうにかなるという大学がなかったわけではないが……結局、技術系の専門学校と就職という選択で、色々と世話をしてくれる人が現れたおかげで、尚斗は就職を選んだ。
 こんなことなら、最初から工業系の高校に進学するんだったな……と、苦笑を浮かべたものの、高校3年の秋から職業訓練校にも足を運び、多少の技術と知識を得て、この春から給料は半分以下の見習いとして、いわゆる町工場といっても技術力は確からしいが、それでも世間的には町工場は町工場でしかないのだが、鉄工所で働き始めた。
「それ、火傷?」
「ん、溶接の時にちょっとどじった」
「……痛そう」
「ほっときゃ治る……でも、失敗した材料は、もとにもどらねえからな」
 ふっと、尚斗は時計に目をやって。
「悪ぃ、休憩時間終わるから」
「え、今日も残業?」
「残業じゃねえよ、勉強。先輩の仕事見せてもらうんだ」
 そういって、尚斗はひょいっと伝票をつかんだ。
「あ、ちょっと…」
「俺社会人、紗智は学生」
「……給料半分のくせに」
「使わねーから、関係ねー」
「……っていうか、まだでしょ最初のお給料」
「ははは、ばれたか」
 明るく笑って、支払いを済ませる尚斗。
「……ずるい」
「は?」
「……男子って、いきなり大人になるよね」
「俺はガキだっての……いきなり大人になるのは、女の方じゃねえか」
 尚斗は、また笑って。
「じゃな」
「尚斗、さようならのキス」
 びし。
「何すんのよ」
「はは、冗談もそのぐらいにしとかないと、マジでやっちゃうぞ」
「や、恋人同士だし、私たち」
「まーな」
 もちろん、尚斗はキスもせずに行ってしまった。
 
「……明日は日曜日なんだけど?」
『お仕事です』
「何時まで?」
『夜まで……たぶん、9時ぐらい』
「そう、わかった…頑張ってね」
『ああ、サンキュー』
 電話を切り、紗智はふう、とため息をついた。
「彼女をほったらかして日曜日も仕事なんて、最低。紗智、別れちゃえば?」
「いやいやいや、何言ってんのよ」
 麻里絵に向かって首を振る。
「尚斗の仕事が終わるのを待って、迎えに行くの……素敵よね」
「たぶんね、職場の先輩とご飯食べに行くと思う」
「……そーかも」
 紗智はちらりと麻里絵に視線を向けて。
「ちなみに、麻里絵ならどうする?」
「お昼に食べてね、って、お弁当でも作るかな」
「……なるほど」
 さすがは麻里絵、いいこと言う…と、紗智は頷く。
「あ、でも…」
「なに?」
「職場の人たちとお昼ご飯食べに行くなら、反対に邪魔になるかも。尚斗君、お昼はいつもどうしてるの?」
「えっと…」
 じとー。
「つき合ってるのに、そんなことも知らないの?」
「あ、いや…なんて言うか、あんまりそういうこと話さなくて。ほら、この4月から働きだしたばっかりで、尚斗も大変かなって」
「……」
「き、聞いた方がよいかな?」
「んー、つき合ってるのは紗智だしね。紗智が決めれば?」
 
「……なんかやせてない、尚斗?」
「ん、まあ、慣れないことばっかだからな3キロほど……しばらくしたら落ち着くだろ」
「あ、また火傷…」
「ああ……こう、溶接の時にな、スパッタっていうか……まあ、真っ赤にやけた鉄とか、飛ぶんだよ。それが隙間から飛び込んでぺたっと」
「うわ…」
 尚斗はちょっと笑い。
「この前な、練習にちょうどいいって言われて、ドラム缶を半分に切って、バーベキューとか焼き肉ができる台を作らせてもらった」
「へ、へえ…」
「あ、悪ぃ。そんなこと言われても、あんまりピンとこないよな。紗智は、大学はどんな感じ?」
「あ、うん…そうねえ…」
 などと、紗智は尚斗との会話が微妙にかみ合わないことが少し悲しくなった。
「ところで、今度の休みって…」
「あ……5月にはいるまでは、いっぱいいっぱいかな」
「…へえ」
 尚斗はちょっと渋い顔をして。
「なんつーか、俺みたいに使えない人間を雇ったらさ、その指導やら教育のせいで、いないよりも時間食うんだよ……できるだけ早く、プラマイ0の存在になりたいもんだ」
「プラマイ0が目標…ねえ」
「そうだな、ゴールデンウイークの後半ならたぶん休みも取れるし、麻里絵も誘って、どこか行こうか」
「いや、アタシたちつき合ってるわけだし、2人で。まずは2人で」
「そこまでカムフラージュしなくても…」
「は、カムフラージュって……」
 浮かしかけた腰を、おろして。
「あ、うん、そうね」
 苦笑を浮かべながら、紗智は泣きたくなった。
 なんで、こんな事になったんだろう。
 
「尚斗君、お疲れさま」
「あれ、麻里絵じゃねーか……つーか、お前こんな時間に」
「うん、送ってね」
「送るも何も、帰り道だから……いや、違うっス。幼なじみです、彼女ってわけじゃ」
 麻里絵は、尚斗の先輩ににっこり笑って頭を下げ。
「いつも、尚斗君がお世話になってます。別に彼女じゃないですよ」
 などと言う。
「……まあ、乗れ」
「はーい」
 尚斗の自転車の荷台に横座りして、麻里絵は空を見上げた。
「毎日こんな時間まで大変だね」
「まーな」
「星が綺麗だよ」
「自転車こぎながらは、危険だっつーの」
 きこきこきこ。
「……で、何の話だ?」
 麻里絵の指が、尚斗の耳をつかみ。
「数ヶ月放置してきたけど……ばれてないと思ってる?」
 怒っていると言うより、悪戯をした子供をたしなめる母親のような口調だった。
「あ、いや…なんとなく、最初からばれてたんじゃないかと…」
 きこきこ。
「……悪かった」
「私、女の子としては見られない?」
「んー、可愛いと思うし、美人だとも思うんだが……つき合うとか、そういう事考えると、なんか心が冷める」
「……長期戦だ」
「え?」
「別に、なにも」
 と、麻里絵は首を振り。
「まあ、それはいいけど……紗智が泣きそうだから、助けてあげて」
「……紗智が、何を泣きそうなんだ?」
 既に心を決めてきたのか、ためらいなく麻里絵は告げた。
「紗智はね、尚斗君のこと好きなの」
「……もんのすごい、初耳なんだが」
「……初耳なんだ」
 麻里絵がため息をつく。
「いや待て…助けてあげてって……俺が言っていいのかわからんが、麻里絵は…お前、それでいいのかよ?」
「んー、今回は、私も紗智を追い込んだところがあるから……しかたないかな、と」
「しかし、紗智が…紗智がかあ…んー、紗智…ねえ…」
「あれ、紗智も、女の子としてみられない?」
「いや、可愛いというかかなりレベル高いのはわかってるんだが、なんというか、ものすごく気の合う遊び友達というか…バカ言いあって、騒いで、遊んで、すげえ楽しい…で、完了しちまう感じ?」
「……ここ、私笑っちゃいけないんだろうな」
「え、何?」
「ううん、別に」
 麻里絵は、尚斗の耳元に顔を寄せて。
「尚斗君、根本的な質問だけど、誰か好きになった事ある?」
「あー」
 と、尚斗は空を見上げ。
「微妙」
「……」
「エロいこと考えたことならあるんだが、好きとか、そういうのは……ひょっとしたら、ないかもしんねー」
「……押し倒せっていわれてるのかな、私」
「え?」
「ううん、別に」
「……いや、彼女欲しいとか考えたし、今もそういう気持ちはあるんだけどさ、彼女が欲しいって気持ちと、誰かを好きって気持ちは別だよな?」
「……そうだね」
 きこきこきこ。
「なんつーか……ガキですまん」
「まあ、それはいいけど……どうする?」
「紗智が本気だったら、とりあえず、今の関係というか、恋人同士のフリは白紙にするしかねえなあ」
「……たぶん、尚斗君の言ってることは正しいと思うんだけど」
「まあ、紗智の立場がないって言うか……だからといって、好きになれって言われても、なあ?」
「……」
「つーか、今俺って、麻里絵に対してひどいこと言ってるよな。すまん」
「いいよ、別に…最終的に、結婚してくれれば」
 きこきこきこ。
 春の夜気に、自転車のペダルをこぐ音だけがしばらく響き。
「……マジですか?」
「うん」
「えーと、何度も言うような事じゃないから、ちゃんと聞けよ」
「なに?」
「麻里絵。お前、可愛いんだぞ」
「尚斗君がいい」
「あー、すまん…そうだな、麻里絵も大学生になったんだよな」
 と、前置きして。
「さっき、紗智のことも言ったけどな……麻里絵、お前は可愛い女の子から、美人へと移行しつつある」
「あは…嬉しいけど、ちょっと照れちゃう」
「いや、だからだな……もうちょっと視野を広く持てば、お前、俺を選ばなくても…」
「尚斗君がいいな」
 ぴしゃり。
「紗智曰く、ナイスバディの…」
「尚斗君がいいの」
「……」
「じゃあ、尚斗君は、美人でナイスバディの女の人なら誰でもいい?」
「別に、誰でもとまでは言わないが……美人を見かけりゃ、美人だなって目が追いかけちゃうし、ナイスバディを見れば、自然に視線が…」
「そりゃ、私だって格好良い人見たら、格好良いなって思うよ」
「だろ?」
「でも、それだけ」
「……それだけですか」
「ちゃんと考えて、尚斗が君がいいって、私は言ってるよ?」
「……そこが今ひとつ、理解に苦しむ」
「尚斗君が、いいなあ」
「……えーと、将来的には真面目に考えたいとは思うが、今の俺は当然家庭をもてるなんて状況じゃないし、そもそも紗智を助けようとしているんだよな?」
「うん、そう」
「……」
「大丈夫。尚斗君はいつも、どうにかしてきてくれたから」
 幼なじみのおねだりは、なかなかにヘビーだった。
 
「旅行に行くぞ」
「え?」
「初めての給料、おやじにはビール券、母ちゃんと姉ちゃんには靴」
「く、靴はともかく、ビール券って…」
「で、残りは全部お前な、紗智」
「……」
「つっても、元の額が額だから、大した金額じゃねえんだが」
「……」
「……紗智?」
 ぐい。
「麻里絵に、何言われたの?」
「なんでこんな時だけ異常に鋭いんだよ、お前」
「鋭いんじゃなくて、極端すぎるのよアンタはぁっ!」
 紗智はぐいぐいと尚斗の首を締め付け……ふっと、惚けたような表情を浮かべ、いきなり、赤面した。
「ま、まさっ…か、まさか…麻里絵ってばっ!」
「あー、いや」
「違うの。ほら、私役者だし…なんていうの、いい女は、みんな女優なのよ。演技、全部演技なの。それを、麻里絵ったら、アタシに騙されちゃったのよね」
 尚斗から手を放し。
「やーねぇ、もう、尚斗ったら。最初から言ったじゃん。恋人のフリだって」
「あ、いや、だから…」
「あ、まさか、尚斗ったら、本気になっちゃった?ごめぇん、尚斗って、遊び友達としては最高に気が合うんだけど、恋人としてはちょっとね」
 まさにマシンガントークというか、尚斗にはまともにしゃべらせず、紗智はひたすら言葉を並べ立てていく。
 そして尚斗は、こりゃキリがない、と見切りをつけて。
「てりゃ」
 びしっ。
「な、何を…」
「聞けよ」
「だから」
「聞け」
「……ぅ」
 攻守逆転。
「まずは結論からな。紗智が本気なら、フリは成立しねえ」
「告白する前に振られたあげく、思い出のための旅行とかいったらぶっ殺すわよっ!」
「まあ、待て」
「待つことなんかっ」
「勝負だ」
「……は?」
「2泊3日の旅行の間に、俺を惚れさせたら紗智の勝ちな」
「……」
「ものすげえ、気の合う遊び友達って認識があるから、今ひとつピンとこねえっていうか……2泊3日の旅行で、俺の意識を覆すぐらいの紗智を見せてくれ」
「……」
「まあ、紗智が俺に対して見切りをつけることになるかも知れないが」
「……」
「……紗智?」
「あ、いや…あまりにばかばかしくて、意識が飛んでたわ」
「でも、好きだろ?こういうの」
 紗智は、ニヤリと笑って。
「まあね」
「ならよし」
「ふふー、お泊まり旅行って事は、色仕掛けもアリって事よね」
「……え?」
「アタシ、目的のためには結構手段を選ばないから」
 ぐっと、拳を握りしめ。
「尚斗、アンタ、アタシという女を甘く見たわね…後悔させてあげる」
「あ、いや、そういうのは…」
「まず、尚斗がルールを提示した。勝負って言うならアタシの要望も聞いてもらわないと。違う?」
「あ、そう…かな」
「よし、この勝負勝ったも同然ね」
「…やけになって、ないよな?」
「ふっふっふっ…」
 不気味に笑う紗智に、尚斗は一抹の不安を覚えた。
 
「うっわあ…」
 麻里絵は指先でつまんだそれをしげしげと眺め。
「これ、シルクだよね……レースとかすっごくこまかいし…高そう…」
「……イタリア製」
「イタ…」
 麻里絵はちょっと息を呑み。
「……の、上下セット…かあ」
 いったい、いくらするんだろうと、思ったが……旅行は2泊3日の予定だったから、おそらくはこれと同レベルのモノが最低でも2組。たぶん、それだけで旅費より高い……などと瞬時にここまで計算できてしまい、怖くなったので麻里絵はそれ以上考えるのをやめた。
「ふ、ふふっ、ふふふ…ごほっ、ごほごほ」
「さ、紗智…?」
「お風呂あがってから、何時間も鏡の前で、これがいいかな…あれがいいかな…なんて裸でやってりゃ、そりゃ風邪もひくわよね…熱も出るわよ」
「あ、あはは…」
 とりあえず、乾いた笑いを浮かべ……。
「……ってことは、5種類ぐらい…かな」
 麻里絵の呟きは、どうやら布団をかぶっている紗智には聞こえなかったらしい。
「でも、尚斗もさあ…額に手当てて、いきなり『帰るぞ』とか言うんだもん……結局、アタシとの旅行なんか、楽しみにしてなかったってことよね」
「……紗智」
 麻里絵の声の冷ややかさに気付いたのだろう、紗智は布団から顔を出した。
「ごめん…ちょっと八つ当たり」
「謝る相手が違うと思う…」
「尚斗は怒らないけど、麻里絵は怒ってるから」
「紗智は、結構尚斗君には甘えるよね」
「……惚れてるから」
「みちろーくんには、そうじゃなかったけど」
「ごほごほ、あー、咳が止まらない」
「うわあ、大変。背中さすってあげようか」
 二人して棒読みの台詞だった。
「……」
「……1日早いけど、誕生日おめでとう、紗智」
「……本当なら、明日の朝にね……私、尚斗が起きるまでじっと、顔を眺めてようと思ってた。それでね、おはようって声をかけて、『知ってる?今日、私の誕生日なの』って…」
「ふーん」
「……何よ?」
「紗智は、たぶん待つことに耐えられなくなって、尚斗君を叩いて起こすと思う。それで、朝からちょっとしたケンカになるのが私の予想かな」
「……」
「……」
 布団から顔の上半分をのぞかせたまま、紗智はしばらく目を泳がせていたのだが。
「……ものすごいリアリティのある想像しちゃったんだけど」
「だったら、紗智が考えていた計画にはリアリティがないって事だよ」
 しれっと、麻里絵が言う。
「あれー?」
 アタシ、何か間違えた……みたいな表情を浮かべた紗智に、麻里絵がぽつりと。
「まあ、リアリティがあれば成功するわけでもないけど……勢いとか、弾みとか、運とか、結構重要だと思う」
 自分にはない勢いや弾みを、紗智は持ってるから……と、麻里絵は心の中でだけ呟く。
「あ、あのさ…麻里絵なら、尚斗をどう誘う?」
 そもそも、そういう発想が私にはできなかったな……と、心の中でため息をつきながら。
「それは、秘密」
「そりゃそうよね…一応、ライバルだし、アタシたち」
「あはは、どうかなあ…」
「……眼中にないって言ってる?」
「眼中って、尚斗君の?」
「……」
 無言で、紗智の頭が布団の中へ消えていった。
「じゃあ、紗智……私はそろそろ帰るよ。ちゃんと休んで、元気になってね」
「……うん、ありがと」
 にゅっと、布団から手が突き出されてきたので、麻里絵はそれを握って上下に軽く揺さぶった。
「じゃあね、ばいばい」
 ぱたん。
 ドアの閉まる音を布団の中で聞いて……紗智はそのまま、声を殺して泣いた。
 
 ぐるぐるぐる…。
「あー、天井じゃなくて目が回ってる…」
 一晩寝て起きて……紗智の風邪はしっかり悪化していた。
 結局、昨日は風邪のひき始めというか、紗智を家に帰らせた(全力で嫌がる紗智を抱えて家まで送った)尚斗の判断は間違ってなかったのだろう。
 ぐーる、ぐるぐる。
 回る天井を見ていると、なんだか楽しくなってくる……のは一瞬で、すぐに気分が悪くなってきた。
「……やば…」
 紗智は慌てて目を閉じた……が、閉じた瞼の裏で、怪しい何かが蠕動しているような、シュールな模様が浮かんではねじくれ、ねじくれたそれが消えたと思ったら、また新しい模様が浮かんでくる。
「…熱…だよね、これ」
 おでこに手をあてる……が、手のひらが熱いし、寒気もする。
 えーと、こういうときは……水分、とらないと。
 起きて…。
「おわ…」
 ごと、ん。
「……気持ちいい」
 床が冷たくて、いい感じだった。
 いや、このままだとやばいという意識はあるのだが、圧倒的な倦怠感が、それらを妨げている。
「……せめて…布団を…」
 手をようよう伸ばし、掛け布団をつかんで、ベッドから引きずり落とす。
 背中が冷たくて、温かい……完璧だった。
 いや、完璧な気がした。
 
「うわ…」
「病気の時ぐらい、おとなしくできんのか、こいつ…」
 
「……?」
 額が冷たい。
 紗智は目を開け、ちょっと顔を傾けた。
「……麻里絵?」
「あ、ごめん、起きちゃった?」
「……」
「ん、おばさんに呼ばれたの…今日用事あるから、紗智のことみててもらえないかって」
「……ごめん…ありがと」
「大丈夫?」
「うん……なんか、ちょっと楽になった」
「……じゃあ、ひどかったんだね。実際、ひどかったけど」
「今……何時?」
「夕方……あ」
 額からずれ落ちそうになったタオルを、麻里絵の手がつかんだ。
「……冷えぴたで、いいのに」
「あれって、熱があって身体がだるいときは、いらいらしない?」
「……そう?」
「なんか、肌にずっとくっついてるのって…私はやだな」
 絞ったタオルを、紗智の額に。
「……気持ちいい」
「風邪、うつされたら、私の看病も頼むね」
「うん」
「……」
「どうかした?」
「アタシ…床に転がった記憶があるんだけど」
 麻里絵はため息をつき。
「床の上で、布団にくるまって震えてたよ」
「……ごめん、重かった?」
「あれ?そこは覚えてないんだ」
 麻里絵の浮かべた微笑みが、なんというか、顔に張り付けた感じのモノだったから、紗智は、何となくいやな予感を覚えて。
「え、何か……した、アタシ?」
「あ、大丈夫」
「え、いや、何が大丈夫?」
「うん、だから…」
 麻里絵の顔から微笑みが消え、携帯を取り出す。
「ちゃんと、動画で保存しておいてあげたから」
「……な、何の動画?」
「ヒント1……紗智をベッドに戻したのは、私でもないし、おばさんでもない」
「……」
「ヒント2……尚斗君は、ここに来てすぐに帰っていきました」
「……そ、そこまでは…予想の範疇なんだけど…」
 すすすっと、紗智の手が掛け布団をつかんで顔を隠していく。
「ヒント3……私、結構今機嫌悪いよ」
「いや、その、アタシ…今、熱あるから…」
 紗智は、ばふっと布団をかぶり。
「風邪、治ってから聞くから」
「……その方がいいかもね」
 紗智は布団をかぶっていたから、当然、麻里絵の表情はわからない。(笑)
 そして麻里絵はちらり、と時刻を確認すると。
「でも、そろそろ戻ってくると思うけどね、尚斗君」
「……だから、聞かないってば」
 このとき、麻里絵がとても良い笑顔を浮かべていたことは、麻里絵自身も知らない。
 
「尚斗君、紗智、覚えてないって…」
「……まあ、そんなこったろうとは思ったがな」
 紗智の部屋で、尚斗と麻里絵、そして布団をかぶったままの紗智の3人。
「まあ、買ってきちまったもんはしかたねえし」
「……律儀だよね、尚斗君も」
 布団から顔をのぞかせ、紗智が抗議の声を上げた。
「ねえ、わざと私に聞こえるように言ってるよね、2人とも?」
「おう、その感じじゃ大分熱は下がったようだな」
「あるわよっ!」
「朝に比べてって、意味だぞ」
「……まあ、マシにはなった…かな」
 少なくとも、天井は回っていない……というか、視界がはっきりしてる。
 紗智は、ちらりと尚斗を見る。
 額に手を当て、それを確かめる……ぐらいのことは、気軽にしてくれるはずだった。
 それを今、尚斗がしようとしないのは……つまるところ、自業自得なのだと、紗智は再び布団をかぶった。
「おい、お前頭に濡れタオル乗せたままで…」
「さっきからだから、今さらだよ、尚斗君」
 と、これはため息混じりに麻里絵。
 尚斗は麻里絵をちょっとにらみ。
「そういうわけにもいかんだろ、病人に」
 と、手を伸ばして布団をめくる。
「わ、な、なにすんのっ!?」
 顔に向かって伸びてくる手……紗智は目をつぶることで、それから逃げた。
 そんな紗智を見て、麻里絵は『うわ、紗智ったらかわいい』などと呟いたのだが、これは麻里絵の心の中だけの話である。
 尚斗は、傍らの洗面器の水でタオルを絞り、再び紗智の額に乗せると……掛け布団の内側を、指先でさぐって湿ってないかを確かめた。
「麻里絵」
「なに?」
「俺、外に出てるから、紗智の身体ふいて、着替えさせてやってくれ」
「いいけど、別に部屋の外に出て行かなくもいいんじゃない。見物していけば?」
「な、何勝手なことっ!?」
 紗智は慌てて跳ね起きた。
 紗智の寝間着が汗で肌に張り付いているのを見て、麻里絵が口を開いた。
「あ、ホントだ…これは着替えないと」
 その台詞が棒読みだったあたり、これはわかっていて尚斗が帰ってくるのを待っていたのだろう。
「み、見るな、ばかぁっ!」
 紗智が慌てて、胸元を両腕で隠した。
 当初の旅行の目的を考えると、紗智の振る舞いは滑稽かもしれなかったが、人の恥じらいとはそういうものである。
「んじゃ、頼んだ」
「ん、頼まれました」
 まさに、いけしゃあしゃあと、麻里絵は頷いたのだった。
 
 尚斗が部屋を出ていくと、麻里絵は実に手際よく……というか、既に用意してあったポットから別の洗面器にお湯を取り、温かいタオルで紗智の体を隅々まで拭いてから、乾いたバスタオルで紗智の身体を包み込む。
「どうする、紗智?」
「な、何が?」
「下着」
「な、何バカなこと言ってんのよっ!」
 麻里絵はちょっと首を傾げ。
「身体がつらいなら、私が着せてあげようかって意味なんだけど?」
「……ぇ?」
「え、ひょっとして…旅行のために用意した下着のこと?」
「ち、違う…そんな意味じゃ…」
「止めはしないけど、病気が治ってからにした方が…」
「だから違うって言ってるでしょ…自分ではく」
「……怒ると、熱が上がるよ?」
「ねえ、怒らせてる?わざと怒らせようとしてるよね、麻里絵?」
「……機嫌悪いって、言ったよ、私」
「……」
 紗智が黙る……と、麻里絵も黙る。
 すると、今度は沈黙に耐えられない。
「あ、あの…アタシ…何をやったのかな…?」
「……尚斗君1人で、紗智をベッドに戻そうとしたら、どうすると思う?」
「それは……」
 紗智は、自らの想像を無理やり押し込めるためにちょっと口をつぐみ。
「えーと、体を起こして、おんぶとか?」
「へえ」
 氷を思わせる麻里絵の返事に紗智は身震いし……下着を身につけ、新しい寝間着に袖を通した。
 床に横たわる人間をベッドに戻す。
 やはり、ごく普通に想像できるのは……だが、麻里絵の機嫌が悪いのは、それとは別の何かがあってしかるべきで。
「はい、布団に戻って」
「あ、うん…」
 ほんのわずか離れていただけの布団は、やはりどこか肌寒く、紗智はぶるっと身体を震わせた。
「……ありがと、麻里絵」
「まあね」
 病気のせいか、それとも何かの悪戯か……紗智は、自分の中にこみ上げた思いを、素直に口にした。
「ごめん、麻里絵」
「……何が?」
「……結局、アタシが全部、いろんなものをかき混ぜちゃったのかなって」
「……そうかもね」
 麻里絵が静かに答える……何故か、その静けさに紗智はほっとした。
「紗智は、トラブルメーカーだもの」
「……うん」
「でも、紗智がそうやってかき混ぜてくれるから……たぶん、本音で語れる部分はあると思うよ」
「本音……か」
 紗智は、ぽつりと呟き。
「そういえば、麻里絵にはちゃんと言ってなかったね」
「……うん」
「アタシ、みちろーの事が好きだったの」
「知ってたけど」
「違う…みちろーの事が好きになって…それで、アタシは、みちろーの幼なじみで、みちろーが心を寄せていた麻里絵に近づいた」
「うん、それもわかってた」
「……そっか」
 紗智は、ふっと天井を見つめた。
 天井は回らずとも、頭の中でぐるぐると何かが回る。
「……麻里絵」
「うん」
「アタシ、尚斗が好き」
「知ってる」
「そ、そりゃ…そうでしょうけど…じゃあ、いつからよ?」
 麻里絵はちょっとあらぬ方角に目を向け。
「ええと、言っちゃっていいのかな、これ」
「は?」
「あのね、紗智のそれって…一目惚れだよ、きっと」
「はぁ?」
 紗智はちょっと体を起こし。
「ないない。何言ってるの、麻里絵はもう…」
 紗智の感覚としては、気の合う遊び仲間として時を過ごしつつ高校3年になり……夏休みに入った頃に、ふとそうなった、と思っている。
「まあ、いいけど」
 争わず、麻里絵は逃げた……が、それ故に、紗智は麻里絵の言葉を冗談と受け取ったのだろう。
「一目惚れって…いくらなんでも、それはないでしょ」
 苦笑を浮かべ、紗智は再び身体を横たえた。
 麻里絵ではなく、みちろーから何度も聞いた、もう1人の幼なじみでライバルの存在。
 確かに、ある意味なじみ深い相手だったかも知れないが……初対面ではただ幻滅した。
 自分が惚れていたみちろーのライバルとしては、かなり落ちる存在としか思えなかったが……なんというか、気の合う遊び相手としては申し分はなかった。
「……それで、麻里絵は?」
「ん、尚斗君と結婚できたらなあって思ってる」
「……」
 いきなり、カウンターをもらったような気分だった。
「そ、そう…」
「まあ、今すぐってわけじゃなくて…大学を卒業して、何年か働いて……さすがに、尚斗君も諦めてくれるだろうし」
「ちょっと待って」
「ん?」
「何、その、『諦めてくれる』って?」
「私がそれを待ってるって事に、耐えられなくなるって事」
「……」
「尚斗君には、たぶんそれが一番有効」
 平然と言い放つ麻里絵に、紗智は渋い表情を浮かべて体を起こす。
「本気で言ってる?」
「言ってる……尚斗君には言ってないけど、私5年間ほっとかれた恨みは忘れてないし、まだ怒ってるから」
「そ、そうなんだ…」
 曖昧に頷きつつ、紗智は、麻里絵の誕生日はいつだったか……と考え、いわゆる『蠍座の女』ってのは、こういうことなのだろうかなどと、ぼんやりと思った。
「紗智、そろそろ尚斗君呼ぶよ?」
「あ、うん…」
 
「……なんで帰ってこないのよ?」
 尚斗を呼ぶ、と言って麻里絵が部屋を出てから……おそらく、10分は過ぎたと思うのだが。
 え、なに、何かトラブル?
 もんもんもんもん……としている間にさらに5分経過。
 今この家にいるのは、自分、麻里絵、尚斗の3人。
 そして今、自分は熱を出して動けなくて、麻里絵は尚斗が好きで、尚斗は男で……。
「……」
 がちゃ。
「紗智、お待たせ」
 紗智があまりよろしくない想像を始めた頃、ようやく部屋のドアが開かれた。
「おう、勝手に台所借りたぞ」
 と、現れた尚斗の手にはお盆が。
「……」
「食欲ねえかもしれねえが、何か食わないと薬も飲めねえだろ」
「あ、うん…大丈夫」
 曖昧に頷く紗智を見て、麻里絵が呟いた。
「……なんか、紗智が良からぬ想像をしてた気がする」
「よ、良からぬ想像って何よ…良からぬ想像って…」
「まあ、いいけど…」
 と、麻里絵はため息をついてから。
「自分で食べる?それとも、尚斗君に食べさせてもらう?」
「自分で…っていうか、何作ってくれたの?」
「にゅうめんだよ」
「あ、そう…」
「……贅沢言わないの。尚斗君が作ってくれたのに」
「俺はゆでただけなんだが…」
 
「……なんか、また熱が上がってきた感じがする…」
「つらいか?」
「そりゃあ…ね」
 心配そうな尚斗に、紗智は力のない微笑みを返してやる。
「紗智、熱計る?」
「ん…いいや、計ったところで意味無さそーだし」
「無理するな、寝とけ」
「……眠くはないのよ」
 そういいつつ、紗智はちょっと目を閉じた。
「……思ってたほど、悪い誕生日じゃないみたい」
 親友と、惚れた男に看病されて。
「お水、飲む?」
「ん」
 紗智は目を閉じたまま口を開けた。
「麻里絵、何それ?」
「これ?吸い飲みだよ…尚斗君、知らないの?」
「吸い飲み…っていうのか?初めて見た」
「……まあ、そう言われたらそうかも…私も田舎のおばあちゃんの家で…」
「み〜ず〜」
「あ、ごめん…はいはい」
 麻里絵は慌てて吸い飲みの先を、紗智の口に含ませた。
「……なるほど。確かに熱のある時って身体起こすのつらいもんな」
「うん、昔の人ってよく考えるよね、こういうの」
「……ん、もういい」
「……病人は、王様だよね、ホント」
 と、麻里絵が笑う。
「王様かぁ」
「女王様の方が良かった?」
「ううん…そうじゃなくて…」
 紗智は、麻里絵から尚斗へと視線を移し。
「なおとー」
「ん?」
「好きだよ」
「……」
 麻里絵はちょっとため息をつき。
「……覚えてないって怖いよね、ホント」
「え?」
「……それを動画で撮ってた麻里絵が怖いよ、俺は」
「え、えぇ?」
 尚斗と麻里絵は、頷きあい。
「風邪が治ってからな」「治ってからね」
「……な、なにやらかしたのよ…アタシ」
「今はやめとけ」「今はダメ」
 すすすっと、紗智は布団をかぶった。
「尚斗君」
「あ、そか……おい、紗智、手出せ」
「……?」
 布団からにゅっと、紗智の手だけが伸びた。
「はい、誕生日おめでとさん」
 と、尚斗はそれを紗智に手に握らせた。
「?」
「んじゃ、俺は帰る」
「お疲れさま」
 と、尚斗が出ていってから、紗智は布団から顔を出し……手の中のイヤリングを見つめた。
「これ、なに?」
「誕生日プレゼントでしょ」
「……」
「『旅行キャンセルになったから、その金額分のプレゼントよこせ』って、紗智が尚斗君に絡んだんだけど」
「うあああああっ」
 紗智が頭を抱えて。
「マジ?アタシ、マジでそんなこと言ったの?」
「うん、百年の恋も冷めるよね、実際……まあ、それで馬鹿正直に買ってくる尚斗君も尚斗君だけどね」
 と、麻里絵は紗智を寝かせ。
「ちなみに、イヤリングは紗智の要求だから」
「ごめん、麻里絵…ギブアップするから、それ以上は勘弁して」
「じゃあ、おとなしく寝て」
「……はい」
 
『……おとなしく寝てろっての』
「あ、いや…妙に目がさえちゃって……一応、熱は下がったみたいなんだけど」
 時刻は既に夜の11時を回っている。
「今日はその…ありがと。プレゼントも含めてだけど」
『麻里絵が先だぞ』
「あ、うん…寝てるうちに帰っちゃったから、さっき電話で」
『そっか……まあ、俺は看病したわけじゃないしな』
「あ、いや…」
『……』
「……」
『その、悪かったな…』
「え?」
『いや…昨日、無理やり家に戻しただろ?結果として寝込んだけど、軽い風邪だったって可能性もあったっていうか……』
「……」
『……たぶん、紗智と2人っきりの旅行ってのを、俺はどこかでびびってたんだと思う……まあ、早い話、病気を口実に逃げたっていうか…な』
「……」
『まあ、こういう腰が引けてる情けないところも含めて、俺って言うか……まあ、こんなもんだぞ、俺ってやつは』
「……あははは」
『まあ、笑われるよなあ、普通…』
「いや、そうじゃなくて…ホント、尚斗は馬鹿正直って言うか…」
『……』
「……覚えてないんだけど、なんか色々やっちゃったみたいね、アタシ」
『ん、まあ……麻里絵には謝った方がいいぞ』
「……えっと、それって…尚斗には?」
『いや、なんつーか…たぶん後で麻里絵に絡まれると思うけど、お前、麻里絵の胸なんて、贅肉の固まりなんだから…とか、言いまくってたから』
「うあああぁぁ…」
『麻里絵のやつ、引きつった笑みを浮かべながら携帯で全部撮ってたからな…かなり来てるぞ、あれ』
「やっばい…なあ」
『記憶にございません、で逃げるのもひとつの手だとは思うが』
「…アタシの趣味じゃない」
『だろうな……まあ、頑張れ』
「あはは…頑張る」
『……』
「……」
『……じゃあ、眠くなくてもおとなしくしてろよ』
「あ、ちょっと待って」
『ん』
「アタシ、諦めないから」
『……正直なところ、俺は紗智と疎遠になるのが一番いやだな。なんつーか、お前ほど気の合う相手はいねえよ、マジで』
「いや、遊び相手じゃなくて、できれば恋人としてね」
『嫌いとか、そういうこと言ってるわけじゃないぞ…ただ』
「別に、時間掛かってもいいから……麻里絵のこともわかってるし……それはもう、アタシの中でも覚悟してるから」
『……』
「ゼロにはしないで…嫌いじゃないなら、可能性は残してよ」
『……なんか、ひどく俺に都合のいい話のようで、正直気が引ける』
「……惚れた方が負け、っていうでしょ…そういうもんよ…」
『そっか…わかった』
「……おやすみ、尚斗」
『ああ、おやすみ、紗智』
 
 紗智の、19回目の誕生日はこうして終わった。
 
「残念」
「私はともかく、尚斗君は仕事なんだから、寝込んだら大変だよ」
「まあねん」
 連休明け、昼休み、大学の食堂で、麻里絵と紗智の2人。
「……ところでさ、そろそろ…見せてくれてもいいんじゃない?」
「見ない方がいいよ、たぶん」
「あ、いや…尚斗からちょっと聞いてるから…その、麻里絵にひどいこと言っちゃったみたいで」
 麻里絵はちょっと紗智を見つめ。
「あのね、紗智……尚斗君が、自分に何をされたかを、話すと思う?」
「……」
「……」
「え、ひょっとして、麻里絵より、尚斗にやらかしてる…の?」
「あははははは」
「いや、顔が笑ってないから、麻里絵」
「ねえ、紗智……断片的に、自分が何をやったかの情報は集まってるよね?それ、自分でつなぎ合わせようとしたら、ものすごい不自然だってことに、気付くと思うけど」
「……」
 麻里絵に言われるまでもなく、紗智は紗智で……色々と考えてはいたのだ。
「いや、なんていうか……たぶんね、ベッドから落ちてたアタシを、尚斗が抱え上げてベッドに戻そうとしてくれた……はずなのよ」
「うん、正解」
「……ただね、そこからどうして、『プレゼント買ってこい』とか、麻里絵の…その…悪口みたいになるのかなあって…」
 麻里絵は何も言わず、フォークではなく箸でパスタを口に運んだ。
「ちょ、ちょっと麻里絵…なんで、そこで、黙るの?」
「……胸が大きい女は、年をとるとぶくぶく太るんだってね」
「……」
 もぐもぐ。
「黙っててもいい…というか、むしろ黙っててください」
「勝手だね、紗智は…」
 もぐもぐもぐ。
 蠍座の女……と、紗智は心の中で呟いたのだが。
「なに?」
「ううん、なんでも」
 慌てて首を振る。
「あ、ひとつだけ」
「な、なに?」
「紗智、尚斗君とキスしたから」
「……ぇ?」
「仮に、紗智と尚斗君が結婚することになったら、2人のなれそめ映像で、私の持ってる動画を絶対使わせるからね」
「……」
「……」
「……紗智?」
 紗智は顔を真っ赤にして……震える指先で自分の唇をなぞりつつ。
「し、したの…アタシ?」
「無理やり…っていうか、不意打ち?」
「うああああぁぁぁ…」
 悶絶する紗智をよそに、麻里絵は、静かにパスタを口に運んでいく。
 まあ、その表情と仕草ほど、内心は穏やかではないのだろうが。
 
 季節は既に初夏の装いを見せはじめていたが、尚斗、紗智、麻里絵の関係は、未だ先の見えない混沌の中にあるようだった。
 
 
完?
 
 
 ただ、だらだらと長くなったような気もしますが。
 今さらながら、ちょっとした話やエピソード的なものならともかく、紗智というキャラはあらためて大上段に構えると難しい、と実感しました。
 まあ、今後の課題というか……精進します。

前のページに戻る