新婚生活なんて、まあ、3ヶ月だよ。
そう語られる以上、そこには何らかの真理があるのだろう。
初カノと新婚を一緒にするのはどうかと思うが、人生において初めてできた彼女との交際というか、何とも言えない幸福感をできるだけ長く味わっていたいと尚斗が願ったのは、ごく自然なことだった。
そう、自然なことだったのだが……。
その、幸福感を分かち合うべき少女の様子が、最近なんともよろしくないというか、煮え切らないというか。
はて、いわゆるデリカシーがないらしい自分が何かをやっちゃったのか……と、尚斗は勇敢にも、もしくは幼稚にも(笑)、その疑問をぶつけてみたのだが。
「……倦怠期かも」
「早えなっ!?」
尚斗の返答も早かったが、それは皮肉でも何でもなく、ノリツッコミに近い会話のテンポというやつだ。
「っていうか、むしろ早まった?」
うわあ、3ヶ月保たなかったよ……とほほ。
尚斗はちょっと背中を丸め。
「そう言われると、みもふたもねえなあ…」
もちろん、陰で不満をためられるより、直接ぶつけてもらえるだけありがたい……と、まだまだ尚斗は前向きだったのだが。
3分。
5分。
10分。
宮坂の馬鹿を誘って、焼き鳥をつまみに、酒でも飲みてえなあ……などと、遠い目をしてしまうほどに、尚斗は打ちのめされた。
いや、打ちのめされると同時に何とも言えない違和感のようなものを覚えたわけで。
紗智は、そんな尚斗に気付いているのかいないのか、指先で前髪をいじくりつつ。
「なんかね……麻里絵と勝負になるかなって思って、早めに勝負をつけようと思ったんだけど」
「……」
倦怠期はともかく、早まったとか……早めに勝負をつけるとかって…なあ?
その言葉の意味するところは……そういうことか。
「……はいはい。そーいうことなら、彼氏失格って事で、別れを切り出してくれよ」
「……引き留めないの?」
「お前が決めたなら、止めても無駄っていうか……お互いが好きだからつきあうんもんだろ?それが冷めたって言うなら、仕方ないじゃん」
紗智は、じーっと尚斗を見つめ。
「なんていうかさ……尚斗って執着心がないよね」
「去ろうとするモノを追っかけても、格好悪いだけだろうがよ」
「格好悪い……ね」
は、と紗智は鼻で笑って。
「なんだろう、大事にしてくれてるとは思うんだけど、愛されてるって思わせてくれないのよね…」
「面倒な性格してるなあ、今さらだが」
「あー、自分で言うのも何だけど、そうかもしんない」
紗智は頬杖をついて、あらぬ方角に目をやった。
「お金はかからないけど、手は掛かるっていうか……なんかね、いつも自分がものすごく愛されてるって実感を欲しがってる気がする」
「……密室に閉じこめて、鎖にでもつないで飼えって言ってるか?」
「そういう、猟奇的な方向はなしで」
「つーか、紗智の場合……こっちがべたべたくっついて、拘束しようとすると、途端にそれをうざったく感じる気がするんだが」
「あー、そうかも」
「なるほど」
尚斗は小さく頷き、重々しい口調で告げた。
「ふざけんな」
「自分に正直になってるだけなんだけど」
「まあ、そりゃそうなんだろうが……ふざけたこと言ってるのは間違いねえぞ」
「うん、それもわかってる」
「……俺にどうしろと?」
「そうねえ…」
紗智はちらりと視線を走らせ。
「とりあえず、コーヒー一杯で粘るのも何だから、出ましょ」
「なんというか…」
並木道を、肩を並べて歩みながら。
「別れても仕方ない…みたいな尚斗の反応がちょっとショックだった」
「元々俺は、自分に自信なんか持ってないからな」
「……っていうかさ、ぶっちゃけ、尚斗はアタシのこと、それほど好きでもないって事じゃないの?」
「……」
「アタシが、『つき合って』って言ったから、『じゃあつき合ってみようか』みたいな感じでさあ…」
「あれかよ……俺が紗智を好きって気持ちより、自分の好きって気持ちの方がよっぽど強いとか、そういうこと言いたいわけか?」
「ん…全部がそうじゃないけど、そういう気持ちがなくもないわね」
「……気持ちとか感情とか、どうやって比べるって言うんだよ」
「そりゃあ…態度とか」
「……わかった」
尚斗は足を止め。
「やめよう」
「ん?」
「少なくとも、距離を置こうぜ……俺は、お前と遊んでるとすげえ楽しいし、少なくともずっと一緒にいたいと思っているんだけどな。どうも、求めるモノが違いすぎるとしか思えねえ」
「だから、そういうあっさりしたところが…なんていうか…」
「じゃあな…」
「ちょっと…尚斗」
尚斗は振り返らなかった。
「……へえ」
「あれ、麻里絵の視線がすごく痛い?」
「うわ、『痛い』ですんでるんだ…おかしいな、私、かるーく、殺意なんか覚えちゃってるんだけど…」
「あはは、その冗談おもしろ…い」
口をつぐんだ紗智に向かって。
「私、しばらく紗智とは口きかないから」
「ちょっと、麻里絵…」
もちろん、麻里絵も振り返らなかった。
かこーん、かんっ、からからから…。
「…ったく、何だってのよ、2人して」
ぶつぶつぶつ。
恋愛に夢を持ってどこが悪い……。
「……悪いのかしら?」
一緒にいて、遊んで楽しい……べつにそれは、恋人じゃなくても、友達でもできることというか。
恋人って関係は……誰かを好きって気持ちは……もっと、特別で…侵しがたい大事な何かではないのか。
「……ないのかなあ?」
なんとなく、紗智の足取りから力が抜けた。
とぼとぼとぼ…。
「アタシ…何か間違ってたのかなあ…」
家に帰ると、珍しく母親がいた。
「あら、おかえり」
「……ただいま」
「……なんか、元気ないわね?」
母親に向かって、はは、と愛想笑いを浮かべてみる。
「そうかも」
「……」
「……」
「……」
「……『何があったの?』とか、母親なら聞くもんじゃない?」
「そうなんでしょうけどね…」
と、今度は母親が紗智に向かって、曖昧な笑みを浮かべた。
「今さら、母親面する資格があるとも思えないし」
「……自分のお腹痛めて、アタシを産んだんだから、あるでしょ資格は」
「その理屈で言うなら、義理の母親には母親たる資格がないってことにならない?」
「……あー言えば、こう言う」
と、紗智がため息をつき……それが自分自身がよく言われてきた言葉であることに気付いてしまう。
「……親娘だわ」
紗智の呟きが聞こえなかったのだろう、母親が口元を歪めるように笑って。
「娘の弱みにつけ込みたくないのよ……後で、そんな自分を後悔して、死にたくなるのが目に見えてるから」
「そういう、ヘビーな事言うのやめて」
「このぐらいでヘビーなんて言ってたら、社会に出た後で苦労するわよ」
「……」
「……」
紗智は、しばらく視線をさまよわせていたのだが……踏ん切りをつけるようにため息をつくと、母親の顔を正面から見つめた。
「お母さんって、何でお父さんと結婚したの?」
「誤解と幻想かしらね」
真面目な顔でそう言ってくれたなら、いくらか救いもあったのだろうが……よりによって、紗智の母親は自分自身を嘲るような笑みを浮かべてそう答えたのだった。
「……」
黙り込んだ紗智へ追い打ちをかけようというのか、少し呆れたように母親が呟いた。
「……もっと、子供の頃に聞かれるかと思ったけど」
「……勘弁してよ」
みちろーの両親は、ある意味離婚できるぐらいにお互いに向き合っていたが、紗智の両親はお互いをいないものとして振る舞っている。
それこそ、夢も希望もない。
「子供なりに、気を遣ってあげたんだから」
「だったら、なおさら私には母親面する資格がないって事よね…」
そこでようやく、母親の笑みが少し健康なものへと変化した。
「……アンタに妹か弟をつくってあげとけば、良かったのかしら」
「なんで、作らなかったの?」
「冗談でしょ」
母親が、くくっと笑い。
「顔も見たくない相手に身体を触れられるなんて、考えるだけで虫酸が走ったもの」
「あ、一応……嫌いって感情を持ってた時期はあったんだ?」
「そうね……そこを通り過ぎて、今はただの他人」
にこ。
「や、そこでその笑顔はあり得ないから、ふつー」
「アンタ相手に、体裁を繕ってもね…」
「そりゃ、そうだけど…」
紗智はため息をつき。
「今さらだけど、何で離婚しなかったの?」
「面倒だったから」
「なるほどね」
「……それで納得できるアンタも、多少問題あるわよ」
「そう?」
と、紗智は首を傾げた。
そんな紗智を見て、母親はまた少し笑って。
「結局……アンタも含めた3人が、そろって家庭というか、家族の姿を直視することを避けてたって事よね」
「……」
「ただ、アンタのそれは…母親の私と、父親のあの人に責任がある。だから、母親面する資格がないのよ、私には」
「……よく、わかんない」
「恋とか愛とか家庭とか……それこそ幻想なんだけど、アンタの存在だけがリアルだったわ、私には」
「あー」
困ったように紗智は頭をかいて。
「アタシがいたから、離婚できなかったってやつ?」
「んー、それはちょっと違うのよね……『子はかすがい』って言うけど、あれはなかなかに深い言葉よ、きっと」
「……子供がいても離婚するじゃん?」
「……かすがいって、見た事ある?」
「ないけど、知ってる」
「無理やりに引き裂くと、かすがいが壊れるの」
「やっぱ、アタシがいたから離婚できなかったって聞こえるけど」
「私もそうだけど、あの人が自分自身よりアンタのことを大事にしてるって思う?」
「ノーコメント」
母親がまた笑った。
「子供のことを思うと、別れられないってのはね……結局、親の自覚がなければ意味がないって事でしょ。もしくは、子供と自分を比べて、自分の方が大事だと思うかどうか」
「……」
「かすがいってね、鉄でできてるの。で、たいていは、それを使って木材を留めるのね」
「……子供は強いって事?」
「言ったでしょ。アンタの存在だけがリアルだったって」
「……」
「リアルはね、逃げたりごまかしたりできないからリアルなの」
紗智は首を傾げ。
「よくわかんないけど……それって結局、お母さんやお父さんには、親としての自覚があるって事とは違うの?」
「さてねえ…」
と、母親は笑い。
「あくまでも、感覚的なモノだから…うまく言葉にできないのよ……ただ、ひとつ言えるのは」
「……何よ?」
「娘に向かって言う言葉じゃないけど、私もあの人も、アンタのために別れなかったってわけじゃないわ」
「……本音で話し合えるってのも、考えもんよね」
渋い表情で夜空を見上げながら……紗智が呟く。
よくぞ、ひねくれずに育ったわよね……などと、誉めてもらっても罰は当たらないと思うのだが。
「アタシの存在だけがリアルだったって事は……他の、愛とか、恋とか、結婚とか、家族とかは、全部、誤解や幻想だった……か」
別にそれは、色恋だけの問題じゃなくて……この世は、幻想に満ちている。
下手をすれば、確かなものなんてひとつもない。
「……だと、みもふたもないのよね」
正直、両親が離婚しても仕方がないかなとも思うし、自分がどっちについて行くか……なんてのは、そのときの気分次第のような気がする。
紗智は、ふーっと、深いため息をついた。
春霞という言葉通り、冬空と違って地平付近の星はほとんどがその輝きをくすませてしまっている。
「……両親の離婚ぐらいで、おたおたすんな、ばーか」
天頂近くの星……紗智はその星の名前を知らなかったが……は、何も答えない。
「……ごめん、みちろー」
そういう問題ではないのがわかっていたから。
800万の死に様というか、800万の苦悩というか……人間って生き物は、心の片隅に自分の死体をひっそりと積み上げながら生きていく。
中学の時、みちろーの背中を押したことで紗智は自分を殺し、その死体を積み上げた。
両親の仲について、死体を積み上げたのは小学校の時だったか。
「……」
人が、人と関わり合いながら生きていく限り、いろんな場面で自分を殺すことは仕方ない……だけど、できればその回数を減らしたい。
紗智は、携帯をとりだした。
『…なんだよ?』
「あ、『距離を置こう』とか言ってた割に、電話には出てくれるんだ?」
『出なきゃ出ないで、出るまでかけ続けるだろ、お前』
「まーね」
『……』
「……」
『で、なんだ……何か面白いことでもあったのか?』
「いや、そういうわけじゃないけど……なんとなく?」
『なんとなくって…なあ』
「アタシらしいでしょ……っと」
車のライトが近づいて来たので、紗智はちょっと道から外れてそれを避けた。
『……今の、車か?』
「うん」
『待て、お前こんな時間に…』
「まだ宵の口じゃん」
『女1人で、うろつく時間じゃ…って、今どこだ?』
「……距離を置こうって言ったじゃん」
春の夜風を感じながら、尚斗と2人、歩く道。
「馬鹿か……ケンカしてようが、絶交してようが、危ねーことやってたら止める」
「大袈裟って言うか…過保護?」
「なんとでも言え……別にお前じゃなくて、麻里絵だったとしても、俺は迎えに行くぞ。お前が怒ったとしてもな」
「なんでアタシが怒るのよ」
「……」
黙ってしまった尚斗に、紗智は首を傾げて。
「……変な尚斗」
「……女は、女ってだけで危ないんだよ」
「はぁ?」
紗智は腰を落とし、びっと前蹴上げを繰り出した。
「アタシの腕前、知ってるでしょ?」
「あぁ。でも、何もやってねえ俺とやり合えるってとこだろ」
『あの』男子校でやりあってる尚斗を、あたかも一般的男子と同列に置くのはどうかしら……と首を傾げたが、とりあえず紗智は、そこをスルーすることにした。
「だったら…」
「2人、3人相手じゃダメだろ……つかまれたり、押さえ込まれたら、腕力と体重差で、抵抗も出来ねえよな」
「そりゃ、まあ…」
そうさせないのが、空手なんだけど……という言葉を飲み込む。
「お前、空手をかじってるせいか……口で言うほど、何でもアリってケンカにちゃんと対応できねえぞ、たぶん」
「なにそれ、男の方が強いって言ってるわけ?」
「そうじゃねえっ!」
「……っ」
「悪い…そうじゃなくてな…」
「……」
「そうじゃねえんだよ…」
「……」
尚斗は、頭が……ではなくて、かなり成績が良くない。
もちろん紗智はそれを知っているから……こんな風にうまく言葉にできなくて、思い悩む尚斗の姿をみるのは初めてじゃなかったし、実際のところ、そういう尚斗が嫌いではなかった。
すぱすぱっと言葉を返されるよりも、本当に、心から考えてくれている……そんな実感がもてるからだろうか。
それはつまり、『自分のことを考えてくれている』とか『愛されている』という実感を、自分は求めすぎているのだろうかと、紗智は思って。
「……ウチの母さんが言うのよ。恋とか愛とか家庭とか、全部幻想だったって」
「……すげーヘビーだな、それ」
「でしょぉ?」
「まあ、会話ができるだけマシかもしれんが」
「……?」
「『とっとと起きろ』とか『飯』とかの、会話というか合図をのぞけば……たぶん俺、何年も両親とは会話してないな」
「そうなの?」
「まあ、中学校の時点でほぼ捨てられたというか……男子校に入学してとどめを刺したのかな。『勉強しろ』ともいわれねえし、高3になったってのに、進路とか話題にものぼらねえよ……つーか、それ以前に会話がない」
紗智は、ちょっとため息をついて。
「そりゃ大変」
「別に、どこもこんなモンだろ……宮坂なんか、飯も作ってくれないし、小遣いももらえないらしいからな」
「……それ、どーやって、生きてんの?」
「たくましいよな、あの馬鹿」
「あははは」
「……」
「……どうしたの?」
「いや……俺と紗智も、ある意味会話がなかったのかな、と」
紗智はちょっと考え。
「……そういうことを、話してこなかったってだけじゃないの?」
「まあ、そーだが…」
「せっかくつきあってるんだから、楽しいこととか、そういうことだけでいいじゃん」
「……で、楽しくなければ、それでおしまい、か?」
「……」
「俺は、いやだ」
「……あっそ」
振り出しに戻る……という言葉が、紗智の脳裏に浮かんだ。
「……尚斗はさ」
「あ?」
「アタシといて、楽しい?」
「ああ」
「ケンカしてても?」
「そりゃ、ケンカはやだけどな……ケンカもできない状態よりは、ケンカできる方がマシだな」
「……だったら、あっさりと『しばらく距離を置こう』なんて言わないでよ」
「だから、俺1人で決めることじゃねえだろ?紗智がいやだって言ったら、そこでもうダメって事じゃねえか」
ぎゃあぎゃあぎゃあ……と、言い合うウチに、ちょうど紗智の家に着いたのだった。
『……何か用?』
「あ、『しばらく話しかけないで』って言った割には、電話には出てくれるんだ?」
『出なかったら、出るまでかけてくるでしょ、紗智は』
「……」
なんだろう、さっき尚斗にも同じ事言われたような……と、紗智は首を傾げた。
『それで何?なんか、面白いことでもあった?』
「いや、さっきちょっと尚斗と話してたんだけどさあ…」
『……』
「……ってね?なんで、アタシがいやだっていったら、そこでもうダメって事になるのよ?そう思わない?」
麻里絵がため息をつく気配。
『あのね、紗智……なんで尚斗君が、紗智を迎えに行ったかわかる?』
「迎えに来たかったからじゃないの?」
『……何で尚斗君が、紗智とつきあい始めたかわかる?』
「アタシとつきあいたかったから」
ぶつっ。
「あ、ちょっと、麻里絵、麻里絵?」
その後、何度かけ直しても、麻里絵は出なかった。
電源を落としたり、着信拒否にしてないあたりに、怒りの深さがうかがえるというものだろう。
「藤本先生」
「あら、一ノ瀬さん。どうかしましたか?」
「いえ、ちょっと悩み事というか…人生相談?」
綺羅はちょっと表情を曇らせ。
「難しい話のようですね……立ち話もなんですし、こちらへ」
「……と、言うわけなんですよ」
にこにこにこにこ。
綺羅は笑っていた。
真面目に話を聞いていない……というわけではなく、ただ笑っていた。
ただし、何もしゃべらない。
「あの…藤本先生?」
と、紗智が言葉を促すことで、ようやく綺羅が口を開いた。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「私は、男の方とおつきあいしたことがないので参考になるかどうかわかりませんが…」
そう前置きしてから、綺羅はちょっと紗智の目を見つめ。
「一ノ瀬さんのお話を聞いていると、自分が楽しければ、相手は誰だってかまわないと言ってるように思えます」
「はぁ?」
相手が教師だったことを思い出して、紗智はちょっと口元を押さえた。
「あ、いや、そんなこと無いです」
「そうですか」
綺羅はちょっと頷き。
「ですが、一ノ瀬さんの言葉が、私にそう思わせた……というのは、ちょっと重要かも知れませんね」
「重要……ですか?」
「ええ…」
綺羅はそれまで絶やさなかった笑みを消すと、少し目を伏せて。
「言葉というものは便利なのですが……便利であるが故に、その不自由さを忘れがちになるのかも知れません」
「……」
「私も、おつきあいするなら、尚斗君のような方がいいですわ」
「え?」
綺羅が少し笑って。
「意外…ですか?」
「そりゃあ…だって、藤本先生なら、選り取りみどりじゃないですか?格好良くて、お金持ちでとか……なんでわざわざ尚斗を相手に…」
綺羅は、小さくため息をついた。
「一ノ瀬さん」
「はい?」
「私、怒ると怖いですよ」
「え?アタシ、何か怒られるようなこと言いました?」
「……なんかこう、たてつづけに否定されると、自分に自信がなくなってくるわね」
ぶつぶつぶつと、学校からの帰り道を1人で。
遊びに行く気分ではなかった……が、家に帰ったところで、何か楽しいことが待ってるというわけでもない。
「だいたい……藤本先生だって、さんざんアタシと一緒に尚斗イジって楽しんでたくせに、なーにが、『おつきあいするなら、尚斗君のような方がいいですわ』ってのよ?」
どう考えたって冗談だ。
尚斗と綺羅がつきあっている姿を想像し、ちょっとばかりシュミレート。
外見はふつー、成績は良くない、学生で、家もふつーで資産は特になし。
男女の恋愛関係において、総合的な意味でつり合いのとれた相手と結ばれる……という、さほど特殊とも思われない紗智の考えからして、尚斗と綺羅はつり合いがとれていない。
短期ならともかく、綺羅は尚斗に対して不満を覚え、別れることになるだろう。
「まあ……藤本先生だけに通用するような、目に見えない人間的な資産価値が、奇跡的につり合いをとるという可能性が無いとも言えないけど」
自分の考えをまとめるような呟きの後……紗智は、ふっと首を傾げた。
「尚斗と麻里絵…」
ぐいんぐいんぐいん。
紗智のシュミレートおよび計算によると、つり合いはとれていないが、反対に2人が別れるイメージが浮かばない。
それはつまり、うまく言葉にできないものの、尚斗は麻里絵に対して優位となる見えない人間的資産価値を有していると、紗智は無意識レベルで考えているに違いない。
「……んー?」
紗智は首をひねった。
今さらながら、ひどく根本的な疑問……というか。
「アタシ…尚斗のどこに魅かれたんだっけ?」
などと、おそらくは尚斗が耳にしたらしょっぱい表情を浮かべるようなことを口にする紗智。
『みちろーのライバル』と聞かされていたから、元々興味はあったのだ……そして、興味があった故に、初めて会ったときは失望した。
そう、失望したはずなんだけど……。
麻里絵とのやりとりを見聞きし、日々の生活の中で何かとふれあい……なんとなく、いいなあと思ってしまった。
なんとなく、としかいえない。
麻里絵は、幼なじみ補正というか、妙なフィルターがかかっているから保留するとして……なんとなくでも、自分にいいなあと思わせ、冗談だとしても、あの綺羅にああいう言葉を口にさせる。
尚斗には何かこう……人間的な魅力があるのだろうか?
いや、あるのだろう。
ただ、それを言葉で説明できないだけ。
言うまでもなく、紗智の思考は迷宮にはまりこんでいた。(笑)
そして数日が経ち、ゴールデンウイークの終わりが近づいた頃。
「……やめた」
誰に聞かせるでもなく……おそらくは自分に向けて紗智は言った。
繊細さと飽きっぽさ。
紗智の中には、矛盾しかねない2つの要素がきわめて特殊なバランスで配置されているのだ。
ちなみに、この『やめた』は、『尚斗との恋人関係』ではなく、『尚斗の人間的魅力について考えること』である。
紗智は服を着替え、外出する。
ゴールデンウイーク、良い天気。
風薫るなんとやら……だ。
国民病といわれる花粉症も、いまのところ紗智とは無縁である。
久しぶりの開放感。
紗智は大きくのびをして、太陽の光いっぱいに浴びながら笑った。
しかし、その開放感は、別の意味で紗智から何かを忘れさせたようで。
「なーおーとっ!」
尚斗は家に1人だった。
ドアを開け、『ほら、遊びに行くわよ。用意して』という表情の紗智を、不思議そうに見つめる。
「……何よ、その顔は」
「いや、なんつーか……」
別に会いたくなかったわけではないし、実際は会いたかったわけだが……紗智からは、こう、仲直りという雰囲気が全く感じられない。
「休日」
紗智はそう宣言し、空を指さした。
「いい天気」
「……だな」
「今、遊びに行かないで、いつ遊びに行くのよ?」
「……さっちゃんよ」
「何よ、なおー」
どうやら、麻里絵あたりから聞き出したのか、尚斗はそこについては負けを認め。
「紗智さんや」
「何よ…1分、1秒が惜しいのに」
「距離を置こうという話はどうなったのかね?」
「は?」
紗智はちょっと首を傾げ。
「あ…」
と、開いた口を、手でふさいだ。
「……そうきたか」
演技でも何でもなく、綺麗さっぱり忘れちゃってくれてたのだ、この少女は。
「あ、いや、違うのよ…ちゃんと考えてたの。それも、ついさっきまで」
などと言い訳を始めるあたり、多少なりとも自分を恥じる気持ちはあったのだろう。
尚斗は笑い、サンダル履きのまま外に出て空を見上げた。
「……いい天気だな」
「でしょ…休日だし、これはもう、どこか遊びに出かけるしかないと思ったのよ」
尚斗は、視線を空から紗智へ。
「な、何よ…」
「それまで色々考えてたけど、何かいやになって外へ出たら、いい天気だったから、忘れちゃったんだろ」
「そ、そうよ…悪い」
「悪かねえよ、悪かねえけど…よ」
遊びに出かける。
そのとき、最初に自分のことを考え、メールなり電話で連絡するわけでなく、直接家までやってくる。
尚斗自身としては、それで十分満足なのだ。
『好き』などと言葉で告げて欲しいなどと言うつもりもないし、特別に何かして欲しいということも……今のところはない。
ただ、紗智は……自分でいいのか、と。
紗智が求める事に対して、自分はそれに応えられるのか。
紗智と遊んでいて、自分は楽しい。
そして、自分が楽しいからこそ……紗智が楽しいのでなければ、意味が無いというか、それは一方的に紗智が奪われるだけの関係のような気がして。
「ちょっと、尚斗…なんか言いなさいよ」
尚斗は、紗智を見た。
昔…子供の頃によんだ、マラソン選手の小説を、何とはなしに思い出す。
『苦しくて、つらくて、ゴールなんか、とても考えていられない』
『あの角まで走ったら、あの坂を上り終えたら、やめてしまおう』
『気がついたら……ゴールしてた』
「……いいのかなあ」
「な、何がよ…」
「あのな、紗智…ひとつだけ約束しろよ」
「なに?」
「俺のことがいやになったら、ちゃんと言ってくれ」
首を傾げながら、紗智は頷き……。
「……変な、尚斗」
そう、呟いた。
『へえ…』
電話の向こうで、どこか呆れたような……というか、諦めたような麻里絵の声がした。
どうやら時間をあけたためか、紗智からの電話に諦めてでてくれたようだが、紗智の話を聞いてどう思っているのかはまだ定かではない。
「……聞いてる、麻里絵?」
紗智の問いかけに麻里絵は答えず……反対に質問を投げてきた。
『紗智は、尚斗君のこと好き?』
「はぁ?そうでなきゃつきあったりしないわよ…何言ってんの?」
『……』
「え…ひょっとして…アタシって、そう見えないの?」
『あんまり』
「そ、そんなことないわよ…えっと、ラブラブだっての」
『……』
「ちょっと、そこで黙らないでよ…」
『……そのぐらい、曖昧なモノなんだよ』
「え?」
『好きって気持ちは……言葉にしろ、態度にしろ…とても曖昧で、壊れやすくて…それを、自分じゃない誰かに、はっきりと伝え続けるなんて……できるはず無いよ』
「……麻里絵」
『私が怒ったのはね、紗智が…紗智が好きだって言ってる…尚斗君のことを、全然信用してないように思えたからだよ』
「……」
『届かない気持ちは、相手に察してもらうしかないに決まってるじゃない……それは自分だってそうだよ。紗智は、自分が要求するばかりで、尚斗君のことを察してあげようと……ごめん、私にはそう思えたから』
「……」
『ごめん…切る』
電話は切れた。
携帯を握りしめたまま、紗智は今さらだけど……それを呟いた。
「そっか……やっぱり、麻里絵は……好きなんだよね、尚斗のこと」
紗智は、しばらく身じろぎもせずに考えていた。
『俺のことがいやになったらちゃんと言ってくれ』
尚斗の言葉を思い出しつつ、紗智は夜道を歩いていた。
本当に好きだったら、いざそのときに自分は身をひく……みたいな発言ができるはずない……と、先日までの紗智なら考えていただろうか。
もちろん、今の紗智もそれを考えなくはなかったが……尚斗は、あの馬鹿は、自分のことを考えてそう言ったのが、わかったから。
紗智が向かっているのは、尚斗の家だ。
今電話をかけたら、また『こんな時間に1人で出歩くなって言ったじゃねえか』と、迎えに来るのだろう。
玄関、ではなく、二階の尚斗の部屋の窓に面した道路に立って。
「尚斗ーっ」
部屋の明かりはついている。もう一度。
「なーおとっ!」
窓ガラスに人影が現れ……いきなり、窓が開いた。
「紗智、お前…何やってんだこんな時間に…」
「尚斗っ!」
「馬鹿、こんな時間に、騒ぐな…」
尚斗の語尾が、消える。
ぱっ、ぱぱっ、と電気の消えていた周囲の家で、ひとつ、2つと、明かりがともる。
「好きだ、馬鹿」
「…は?」
この前、2人で見に行った映画の台詞を意識しつつ、もう一度。
「好きだ、馬鹿っ!」
「ちょっ、待てお前…」
ぱぱっ、ぱぱっ、ぱぱぱっ。
明かりがついていく。
尚斗に、この馬鹿に、自信が無いというなら、自分が尚斗に自信を与えてやればいい。
紗智はそう思って、さらに叫んだ。
「好きだって言ってるのよ、馬鹿っ!」
ぱぱっ、ぱぱっ。
目立ってる目立ってる……どうだ、この臆病者め。
ふふん、と得意げな表情を浮かべていた紗智の目に、とんでもない光景が映った。
「え、ちょっ…と」
二階の部屋の電気が消えたと思ったら、窓から黒い影、尚斗が身を投じたのである。
「尚っ!?」
駆け寄った…いや、駆け寄ろうとしたのだが。
「こっちに、来い」
尚斗が、紗智の手を引いて走り出す。
「……?」
見れば、尚斗は靴を履いている……その視線に気付いたのか。
「夜中に玄関開けると、母ちゃんが気付いてうるさいんだよ…部屋の中に靴ぐらい用意してるっての」
尚斗がそう言う。
「……怪我とか、してない?」
「しねえよ、あのぐらいで……つーか、明日からご近所の視線で刺し殺される可能性はあるが」
「あははは」
「笑い事じゃねえよ…ったく」
走る速度を落とし、夜の公園に入った。
住宅街の、小さな……本当にただあるだけの公園だ。
その、ただ一つ設置されている古ぼけたベンチに腰を下ろすと……尚斗は、大きくため息をついた。
「嫌がらせか、このヤロウ」
「愛の告白よ?わからなかった?」
しれっと、紗智が答えた。
「うわあ、日本語って難しいなあ、コンチキショー…」
そう呟いて、再び大きなため息をつく。
「あははは」
「……あれか?」
「なに?」
「毎日毎日、ああいうレベルの意思表明を俺に要求してるって事か?」
紗智はちょっと真面目な顔になり。
「アタシ、自分の家の周りであんなことされるの、絶対にイヤ」
「嫌がらせ以外の何物でもないように聞こえる…」
尚斗は三度、大きくため息を吐いた。
「映画のワンシーンみたいで、気分良くならなかった?」
「……さらしモンだろ」
「まあねん」
「……お前、校内放送で誰かに告白とかできるか?」
「誰もいない夜の校舎に隠れている相手にならなんとか」
「……悪意しか感じねえ」
と、尚斗が自分の手で顔を覆った。
「や、無茶なのはアタシもわかってるから……でもまあ、そのぐらい好きだってことを表現してみようかなって」
「……」
「……えーと」
「麻里絵に…何か言われたか?」
「うわ」
紗智は、驚きをもって尚斗を見つめた。
「図星か…」
「何で…」
「わかるっての……紗智、お前麻里絵とケンカしてるだろ」
「……麻里絵に何か」
「聞いてねえ」
「だったら…」
なんで?
「なんとなくっていうか……わかるんだよ、そういうの」
「エスパー?」
「だったら、もっと成績もいいし、色々とやらかして……いや、目立たないようにするのか、むしろ…」
「あははは、ダメダメ。目立ってるもん尚斗」
「はぁ?どこが?」
「んふふ…」
紗智は妙な笑いを浮かべ。
「男子校の連中が女子校にやってきたときとかさあ……宮坂君とは別の意味でね、尚斗は目立ってた」
「いや、だから…別に頭は悪いし、顔はよくねえし、宮坂みたいに馬鹿もやってねえぞ、俺?」
「……言われてみればそうね」
はて、と紗智は首を傾げた。
「おい」
「まあ、いいや…とにかく、尚斗は目立ってたの。女子校の子に聞いてみたら?たぶん、尚斗のことはちゃんと覚えてるって言われると思うわよ」
「俺、何も、してねえぞ?」
「じゃあ、何もしてないから目立ってたのかも」
「なんだそりゃ?」
尚斗は、空を見上げ……紗智もまた、何となく空を見上げた。
「……とりあえず、帰るか。家まで送るぞ」
「え、帰るの?」
「お前を家まで送っていって、こっちに帰ってくる頃には、たぶんみんな寝静まってるだろうからな……まあ、明日のことは…今は考えたくねえ」
「いや、じゃなくて…」
紗智は首を振り。
「アタシ、このまま尚斗と…みたいな気分なんだけど」
「今から繁華街まで脚を伸ばしても、うろつけるだけだぜ…つーか、ただ危ないだけだ」
「だから、そうじゃなくて…」
んー、困ったな…みたいな感じに、紗智がちょっと視線を逸らし。
「アタシの家、一応親がいるから」
「そりゃいるだろ……ってこともねえのか、紗智のところは」
「あははは…」
紗智は、大きくもない自分の手ひらをいっぱいに広げて、尚斗の顔をつかんだ。
「羞恥プレイってやつ?それとも放置?」
「は?」
数秒経過。
「い、いきなり何を?」
「や、つきあい始めてから2ヶ月…早くない早くない、普通普通」
「知らねえよ、そんな普通とかどうとか」
「あ、ちょっと待って…」
「は?」
紗智が携帯をとりだし、時刻を確認する。
「うわ、ナイスタイミング…はい、カウントダウン開始…えーと、1分が60秒で……427、426…」
「長いなっ?」
「いいから…421、420…」
いったい何のカウントダウンなのかと思いつつ、尚斗は紗智に合わせて声を出した。
「…27、26、25、24……」
と、残り30を切ったところで、尚斗は気付いた……が、今は黙っておくことに決めた。
「3、2、1…ゼロ」
と、紗智のそれに合わせて、尚斗は言った。
「誕生日おめでとう、紗智」
「……」
「…だろ?」
「うわ、その得意げな顔がムカツク…」
「……悪いけど、プレゼントは部屋だぞ」
「あら、用意してくれてたの?」
「自慢じゃないが、ゴールデンウイークの前には用意してたっての」
言うまでもないが、今は取りにいけない……と、目で語る。
「あははは」
紗智はちょっと笑い。
「窓から飛び出したときに、その誕生日プレゼントも抱えてたら、これはもう、全米が泣く、大ヒットだったのに」
「つーか、どうやって渡そうか、悩んでたんだが……」
「え?」
尚斗はため息をついて。
「だからな、今日…じゃなくて昨日か。紗智と遊びに行くまでは距離をとろうって…」
「ああ、はいはい…そんなこともあったわね」
あっけらかん。
「……どしたの?」
「いや、別に……」
紗智は、尚斗を見て……足下にいったん視線を落とし、また尚斗を見ていった。
「まあ、その…あれよ」
「ん?」
紗智は、くっと角度をつけて立ちポーズをとった。
「一ノ瀬紗智、めでたく18歳になりました」
「おう」
「……18歳は大人ですよー?」
「俺、まだ17だもん」
「年下かぁ」
「つーか、ノリと勢いでそういうことは決めんな」
「やあねえ、大人になったら、みんな普通にやる事よ」
どこかのおばちゃんのような口調で、紗智が手を振る。
「だったらなおさら、それまでは無理することねえだろ」
「えっちなDVDとかクラスで回覧してる割には、堅いこというのね」
「……」
「おや、真面目な顔」
「自分が好きな相手を、傷つける可能性があることはできねえよ」
「アタシが望んでるのに?」
「お前の準備ができてても、俺の方の準備がまだなんだっつーの……お先真っ暗の高校生のガキが、おいそれとできるようなことじゃねえよ」
「……」
「……」
にらみ合い……としか思えない2人の表情だったが、何故か2人を包む気配は柔らかかった。
「わかった…キスで手を打とう」
「……」
「ちょっと、キスもダメとか言うんじゃないでしょうね?」
「いや、そうじゃなくて…」
自分の唇に人差し指を立て……尚斗は、ベンチから立ち上がって低い姿勢をとった。
言葉はなかったが、紗智も尚斗にならった。
そのまま静かに公園の隅へ。
5分…10分経ち。
「どう?行った?」
「ああ……まあ、まだこの辺をうろついてるのは間違いねえけどな」
「ご苦労様です、お巡りさん……よね」
「……どう考えても、原因はお前だけどな」
「しばらく、このまま?」
公園の隅、街灯の光も遠い影の中……紗智の瞳が微かに光っていた。
「このままだ」
「そう」
紗智の目が閉じる……それにあわせて、尚斗は顔を寄せていった。
「んふふ」
紗智の目が開き、妙な笑い方をする。
「アタシの初めて」
「……そうか」
「……んー?」
どこか疑わしそうな声を出しながら、紗智の指が尚斗の耳をつかんだ。
「誰かとつきあうのは初めて…だったよね?」
「ああ」
「今の、アタシのファーストキス」
「そうか…ムードも何もなくて悪かった」
「ん、んんー?」
紗智は、もう一方の手を伸ばして、尚斗の耳をつかみ……ものすっごい低い声で尚斗に問いかけた。
「麻里絵じゃないでしょうね?」
「それはひどい誤解だ」
「今の発言、すっごい重要な意味を含んでるんだけど、自覚はある?」
「紗智とつきあったのが初めてだ」
「……馬鹿正直な男ね」
紗智が、ため息をついた。
「……」
「で、つきあってもいない誰かと、キスをしたことはあるわけね?」
「黙秘権はないか?」
「行使してもいいけど、死ぬまでネチネチと嫌味を言い続けるわ」
「えーと、小学生の時です…麻里絵じゃないです」
「それは、麻里絵も知らない?」
「幼なじみだけど、通ってた小学校が違ったからな」
「へえ、麻里絵も知らない…ふーん」
2人の周囲は暗く、表情は確認できなかったが……まあ、確認できない方が良かったのだろう、たぶん、おそらくきっと。
「へえ、ふーん、へえ…」
「えーと、軽蔑されるかもしれませんが、つきあう以前に、恋愛感情すらありませんでした」
「……」
「なので、これ以上は言いたくないです……軽蔑してもいいけど、相手のことを詮索したりするのはやめてください。過去ではなく、今と未来をみつめて人は生きていくべきではないかと」
「……へえ」
見えなかったが、尚斗は紗智がいつもの力の抜けた笑みではなく、どこか邪悪な感じの笑みを浮かべたような気がした。
「もしかして、みちろー?」
「は?」
「あ、違ったか…ちょっと興奮したのに」
「お、お前…すげーこと考えるな…」
「じゃあやっぱり、相手は女の子か…」
「だから、詮索すんなっての…」
尚斗の言葉を聞いているのかいないのか。
「え、まさか藤本先生とか?」
「接点ねえよ…つーか、女子校にお邪魔したときに会ったのが初めてだっての」
「ふむ…学校の先生の線もなさそうね…親戚のお姉さんとかそういうのも……ふむ、なしね」
「こ、こいつ…」
闇の中で、尚斗の受け答え、そして身体の反応を恐ろしいほどの冷静さで分析し、じわじわと広げた網を閉じにかかっているのだ。
そしてそれは、今のところ間違っていない。
「だから、紗智の知らない相手だっつーの、調べたところで、何の意味もない」
「ふーん、まあ、それは分かってるんだけどね……理屈と感情の違いって言うか…」
紗智はひとつ首を振り……尚斗の耳から手を放した。
「つきあってたわけでもない、恋愛感情もなかったどこか誰かさんと同等ってのもむかつくわね…尚斗、もっかい」
「……さっき以上に、ムードがねえぞ」
「いいから」
そして2人は、2度目のキスをした。
余談になるが、『紗智の知らない相手』と、尚斗はいった。
もちろん、尚斗には嘘をついているという意識はなかった。
この話では明かされないし、この後明かされるかどうか疑問(笑)だが、結果として、尚斗は紗智に対して嘘をついたことになる。
「なんか、夜の散歩っていいわよね」
「確かにいいな…紗智が隣にいてくれるのは」
「……」
「…どうした?」
「……あなたがそばにいてくれればそれでいいとか聞くけどさ、誰がそばにいようと、面白いことは面白いし、つまらないことはつまらないのよ」
「……」
「まあ、多少のその程度が変化するのは認めるけど……アンタ、アタシと一緒に実力試験を受けてて楽しく思える?アタシがそばにいたら、嫌いなテストも、ハッピー?」
「いや、そんなことは…ねえ」
紗智は、尚斗の手をきゅっと握って。
「だから……その…アンタと一緒にいて…今ひとつ楽しそうに見えなかったってのは……たぶん、アンタと一緒にいることそのものじゃなくて、その時にやってたことに問題があったのよ……たぶん」
「……」
「だから…その…アタシは…今…」
きゅ、きゅきゅっ。
尚斗の手を握る、紗智の手に力がこもる。
「1人でする夜の散歩より…楽しく思えてるわ、きっと」
「そうか」
きゅ。
「…ぁ」
手を握り返されて、紗智はちょっと尚斗を見つめた。
遅れて、尚斗が紗智を見る。
「何、ひょっとして照れてる、尚斗?」
「そりゃ、こっちの台詞だ」
「……あはは」
「何だよ…?」
「手ぇ握って恥ずかしがるって、アタシたち、小学生かよって」
「……いんじゃね?」
「え?」
「慣れて、何も感じなくなったらそれはそれで寂しいと思う…しな」
「……そうね」
「……だろ?」
2人は微笑みあい……また、歩き始めたのだった。
完
うわーん、5月が終わっちゃうぅ…。
マジですみません、吉井さん。(笑)
ただ、それ以外の更新に関しては、何も言いません。
などと楽屋オチから……なんというか、紗智とラブラブというのが高任にとっては想像以上にハードル高くて。
『高任君、ハードルが高くなればなるほど、下をくぐり抜けやすくなるモノだよ』
ありがとうございます、先生。(笑)
この言葉は、高任に勇気を与えてくれました…たぶん、余計な勇気を。
まあ、時間の制約というか、高任自身の精神状態というか……やや迷走気味のお話となりました。
例の映画のネタといい、最後の貴重な紗智のデレといい……たぶん、落ち着いてから読み返すと、布団をかぶって呻いてしまうんでしょう。
まあ、こういうときでしか書けない話と思えば……むう。
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