「……え?」
「いや、だからね弥生……」
のみこみの悪い生徒に向かって辛抱強く説明を続ける教師のような表情と口調で、世羽子が言葉を続けた。
「それ、尚斗が気を遣ったとかそんなんじゃなく……多分、いやおそらく……99%以上の確率で気付いてないから」
「大丈夫、大丈夫だって世羽子……私、別に無理して明るく振る舞ってるわけじゃないから…ねえ、御子」
「はい…有崎さんの優しさを無駄にはしません」
春を思わせるような笑顔でこっくりと御子が頷く。
「……テレパシーでもつかえるんじゃないかってぐらい鋭い有崎さんが、あれで気付かないはずが…」
「……テレパシー使えるなら、そもそも告白する必要ないよ」
「麻里絵、私の背後で黒い発言するのはやめて」
と、故意なのかそうでないのか……麻里絵と紗智が聞こえよがしに混ぜ返し。
「いや、だからね…」
世羽子は手で顔を覆い……やがて、小さくため息をついた。
「……説明して、理解できるようなことでもないのよね」
「……っていうか、秋谷さん」
「何?」
世羽子が紗智に視線を向けた。
「尚斗って……本当に気付いてないわけ?私からすれば、なんというか……こう、わざと気付かないフリをしてる……ってな解釈もありかなと思うんだけど?」
「……」
「だってさ……そりゃ尚斗が鈍いのは百も承知だけど、秋谷さんの態度からして別にこういうことは珍しい事じゃなかったんでしょ?この二人はアレとしても、直接『好き』って告白とかされた時も気付かないわけ?」
「あぁ、何というか…」
世羽子がちょっと困ったように眉をひそめる。
「……私は聞こえないフリされてそのまま逃げられたけど」
「えっ、いや、麻里絵のこと言ってるんじゃなくてっ」
「え、逃げられたって?」
「……」
今度は弥生と御子の視線が麻里絵に集中……深読みすれば、世羽子に余計なことを言わせず、敢えて弥生達の意識を自分に向けたとも。
計算通りなのか、はたまた偶然か、さっきまでの浮かれた雰囲気はどこへやら……紗智、麻里絵、弥生、御子の4人を包む空気がぐっと重くなる。
ちなみに、世羽子だけは平然と……そもそも、いろんな意味で(笑)踏んできた修羅場の数が違う。
「そういえば……弥生は、椎名さんと面識は無いのね」
意識してそうしたのか、世羽子の発言が固化しつつあった空気を再び気化させた。
「面識って……ほら、この前、街で」
「……会ってないです、おねえさま」
「そうだっけ?」
御子のツッコミを受けて弥生はちょっと首をひねり……右手の指を曲げたりのばしたり。おそらくは、あの場にいた人間の数を確認でもしているのか。
「……でも、見覚えはあるんだけど」
「そりゃ、同じ学校に通ってりゃね…」
「それもそうね」
弥生はちょっと笑い、麻里絵に軽く頭を下げた。
「今さらかも知れないけど、私、九条弥生……よろしく」
「……」
ふっと……麻里絵の表情が変化した。
それは表面的にはほんの微かな変化で御子や弥生には分からず……ただ、身にまとう雰囲気の変化は、その場にいた全員がそれと気付くほど明らかで。
「あらら…」
ちょっと困ったような表情を浮かべ、弥生は世羽子に視線を向けた。
「よーするに、この娘も有崎に?」
「筋金入り……一番キャリアも長いわね」
「ふーん」
生返事をして弥生はその場にいる人間を見渡し……こめかみのあたりを微かに痙攣させながら世羽子の方に手を置いた。
「有崎ってさ、ひょっとして……」
「あ、有崎さんは、そんな人じゃ…」
世羽子、弥生、紗智、麻里絵の視線を浴びて御子はちょっと俯き……それでも、言葉を続けた。
「そんな人じゃ…ないです」
「ちなみに弥生」
肩に置かれた手の上に自分の手を重ねつつ、世羽子が言った。
「『ひょっとして…』に続く言葉は?」
「べ、別に本気じゃないわよ……なんというか、状況が状況だからちょっとだけ有崎を悪者にしたかっただけ」
そして弥生は大きくため息をついた。
「……って事は、ほんっっきで気付かれてないの?」
紗智の背後で、麻里絵がぼそりと……しかし、確実に弥生と御子が聞こえる程度の音量で呟く。
「気付かれないのと、拒絶されるのってどっちが幸せかなあ…」
「……」
沈思黙考……そんな言葉がよく似合いそうな状態の青山に対して、彼女は臆することなく近づいていく。
「ちょっと、おじゃましていいかしら?」
青山は顔を動かさず、目の動きだけでそちらを見ながら言った。
「そのしぶとさには敬意を表しますが……藤本先生に対する有崎の怒りは決壊寸前ですよ」
「……何故?」
心外だと言わんばかりの表情を浮かべる綺羅に、さすがの青山もため息をついた。
「俺には、わざわざ有崎に…嫌われようとしてるとしか思えませんが」
言葉の途中で青山が微かに言いよどんだ事に気付いているのかいないのか、綺羅はちょっと首を傾げてそう呟く。
「……愛情表現に対する価値観の違いかしらね」
価値観の違いなどというレベルの話ではない……と、青山以外の人間がいたらツッコミを入れただろうが、良くも悪くも青山は青山だった。
「かもしれませんね…」
と、さらりと流し……口元に皮肉な笑みを浮かべて言った。
「ところで、左の眉はどうかしましたか?」
ひくっ。
「……これは」
自分の左眉を指さしつつ、綺羅はこめかみをひくひくさせながら言葉を続けた。
「青山君の差し金?」
もともと顔の造形に恵まれているだけでなく、どうやら綺羅は化粧の腕も半端ではないようだった……それと知っていなければ、間近でじっくりと凝視でもしない限り指摘できる人間は100人に1人もいないであろう。
「有崎なら、眉の一つや二つ、気にもしませんよ」
「それはそれで……多少、複雑ですが」
「まあ……『滅多にお目にかかれない美人』…とは、有崎も認めてました」
今さら青山相手に隠す必要を感じなかったのか、綺羅は背後に美麗な花束を出現させそうな笑みを浮かべつつ言った。
「……『黒い影がちらついて見える…』などと、付け足されなければ、なお良かったのですけど…」
「外見の美醜は立派な能力ですよ……それをどう使おうと、個人の自由でしょう」
「あら、お上手……青山君も、外見だけなら立派なモノよ」
見えない糸が見えそうな会話を時間の無駄だと判断したのか、青山がため息混じりに呟いた。
「……で、何の用ですか?」
「用というか何というか……」
綺羅はちょっと目を細め……言葉を続けた。
「秋谷さんは……どこ?」
「……秋谷にはちょっと借りがありまして。目に余るような報復に出るなら、俺は藤本先生をつぶしにかからざるを得ないですね……場合によっては、命の保証もしませんよ」
「……」
「秋谷の居場所なんかじゃなく、結局それが知りたかったのでは?」
「話が早い……のは歓迎なのですが、あまり歓迎できない…というか、意外な返答ですわね」
「もちろん、藤本先生が秋谷を1対1で叩きのめす……と言うなら、いくらでもどうぞ。それで眉をそられようが、丸坊主にされようが、秋谷の責任ですし」
綺羅はちょっと肩をすくめてみせた。
「最初こそ、思い上がったこの小娘がと思いましたが……正直、『本気で』やったとしても、勝てる気がしません」
「……先生が本気でやったなら、もうちょっと大事になってたと思いますよ」
「こちらに合わせて思いっきり手を抜かれましたわ……ただ、こう…雰囲気がなんとなく青山君に似た印象を受けましたけど?」
「小6の時、半年ほど俺が鍛えました」
「……なるほど」
「有崎とつきあい始めてからは、有崎の母親がみっちりと」
「なんですって」
愕然とした表情を浮かべた綺羅に誘われたのか、思わずといった感じで青山が聞いた。
「やはり、あの人と面識がありましたか」
「……」
「藤本先生?」
焦点の合わない瞳は何を映しているのか……ぽつりと綺羅が呟いた。
「……鬼」
「……否定はしませんが」
何かイヤなことでも思い出すような表情をして、青山は自分の左肘をちょっと撫でる。
「ちなみに……藤本先生は何をされました?」
「……」
カタカタと震えだす綺羅の額にはじっとりと脂汗がにじみ出していて……青山は、すかさず綺羅の背中を平手で打った。
「……っ!?」
「……戻ってきましたか?」
「あ…ぁ…ありがと…」
荒い息を吐きつつ、綺羅はハンカチを取り出して額の汗を丁寧に拭った。
「……」
「……ご、ごめんなさい……ちょっと、あの事は…考えたくないの」
「まあ、あの人はアレでかなりの親バカでしたし」
「……ぇ?」
「いえ、独り言です…」
それきり二人の言葉はとぎれ……5分、10分……精神のバランスを取り戻したのか、綺羅が口を開いた。
「ところで……私が秋谷さんに何かするとして、目に余らなければいいのかしら?」
「まあ、それはそれで有崎が怒るでしょうね」
ちょっと困ったように綺羅が呟いた。
「それは……」
「恋愛感情以前に、秋谷は有崎にとって大切な友人なんですよ……まあ、俺が先生の立場なら秋谷はおろか、有崎の周囲にいる人間には手は出しませんね」
「……泣き寝入りしろと?」
「有崎を、藤本先生に惚れさせるのが一番の報復ですよ……」
青山は、ちょっと探るような視線を綺羅に向けた。
「藤本先生……本気で、有崎に好かれようと思ってますか?」
「ええ、もちろん……何故、そんなことを?」
「単にそういう気質なのか……と、最初は思ったんですが」
一旦言葉を切り、青山はちょっと首を傾げてから言葉を続けた。
「今ひとつ……秋谷なり、椎名なり……にある切迫さが感じられないと言うか、何か他の目的が…」
「尚斗君の側にいたい……それだけですよ」
5秒ほどの沈黙を経て、青山は再び呟いた。
「……側にいられるなら、嫌われても構わない?」
「仰る意味が良くわかりませんけども…?」
不思議なモノを見るような目つきで、綺羅が呟く……もちろん、青山はそんな視線に慣れている。
「……なるほど」
「青山君と話していると……鋭い刃物で自分が切り裂かれているような気分になりますわね」
「別に……藤本先生の立場なら、こんな話し方をする相手には事欠かないでしょう」
「それはそう……なんですが」
不意に、綺羅は視線を空に向けた。
光沢のある黒髪が肩にかかり……再びさらさらと背中にこぼれ落ちていく様は、砂時計のそれを見ているようで。
非常に絵になる光景だった……ある一点をのぞいて。
「……晴れましたね」
綺羅の呟きに何か意味があるとも、また返事を求められているとも感じられなかったのか、青山は沈黙を保つ。
5秒、10秒……綺羅は青山を振り返った。
「では、ごきげんよう……」
ちょっと頭を下げ、その場から立ち去ろうとする姿こそ優雅だったが……すぐに、『な〜おっとくん〜♪』などと、鼻歌混じりにスキップを始める綺羅。
その後ろ姿を見送りつつ、青山はぽつりと呟いた。
「……有崎に会う前に気付くかな」
夕焼けの赤が、少しずつ、少しずつ、夜の蒼に浸食されていく。
安寿の言った『後1時間ほど…』は過ぎたのだが……尚斗は、屋上の手すりにもたれかかるようにして空を見つめ続けていた。
自分の気付かないところで、安寿を酷く傷つけてしまったのではないか……去り際のあの表情は、そんな事を考えざるを得ない微笑みだった。
麻里絵や世羽子を傷つけた時の……表情は違うが、そこには同じ何かが……あった。
ギィッ……バタン。
屋上の扉がきしみ、閉まる音に尚斗は振り返り……ちょっと不思議そうな表情を浮かべた。
「こんな寒々しい場所で……心が凍えてしまうわよ」
「あ、あの……藤本先生?」
「はい?」
ここ一番のスマイルを浮かべる綺羅に……尚斗はおずおずと声をかけた。
「なんか…左目のまわりが…」
「左目?」
綺羅は尚斗に背を向けて、小さな鏡を取り出し……
「〜〜〜っ!!」
声にならない悲鳴を上げた。
先ほど汗を拭ったときに描いた眉をこすったため……以下略。
「いやあぁぁっ、尚斗君に、尚斗君にっ」
「せ、先生?」
「あ、あの娘達っ…気付いててっ…」
脱兎のごとくその場から走り去る綺羅……を、尚斗は呆然と見送るしかない。
「……いきなり、藤本先生を押し倒そうとでもしたの?」
綺羅と入れ替わるように、屋上のドア影から姿を現したのは冴子……口元の微笑みが軽い冗談だと言うことを示しているが、現れてなおそこに気配はなかったり。
「……ども、冴子先輩。いつからそこに?」
「いえ……スキップする藤本先生に興味をそそられて、つい」
冴子はゆっくりと尚斗の方に歩き出し……そのまま屋上の手すりにぶつかるかというところで軽やかに反転し、そのまま背中を預ける。
「……あそこで見ないフリができれば、キミもなかなかのモノなんだけど」
「そりゃあれが宮坂なら、だめ押しとばかりに額に油性マジックで落書きまでしてやるところですが……さすがに、あのままはまずいでしょ」
「誰かさんはにこやかに微笑みながら、キミの居場所を教えてあげてたけど」
「それはつまり……」
尚斗はちょっと首を傾げ、冴子に視線を向けた。
「冴子先輩は、藤本先生にそれを教えてあげることもなくずっと後を尾行けてたという事でわ?」
冴子は口元を手で隠して笑った。
「まあ、そういうことになるわね……」
「……案外、冴子先輩も誰かに後を尾行けられてたり」
「あ、それはないわよ……多分」
何でもない事のように冴子。
「まあ、冴子先輩が言うんなら、そうでしょうね…」
「……」
「……どうしました?」
自分をじっと見つめる冴子に問いかけた。
「まあ……いいんだけど」
そう呟き、冴子は視線を空に転じた。
「で……こんな場所で、誰かと待ち合わせ?」
「あ、いや……なんというか……もう、約束の時間はとっくに過ぎたんでそろそろどっかに行こうかとは思ってるんですがね…」
「……え?」
冴子らしからぬ抜けた声に、尚斗がそちらを振り向いた。
「なんですか、その『…え?』ってのは?」
「えっと……それはつまり?」
「んー、安寿って言うんですけどね……冴子先輩は知らないかも」
「そうね……珍しい名前だけど、聞き覚えがないし」
「でしょうね……って、冴子先輩?」
「ごめんなさい、しばらく考え事させて」
手すりにもたれたまま腕組みをし、冴子は微かに首を左右に振って空をじっと見上げ……本当に考え事なのか疑わしい仕草だったが、もちろん尚斗はそれを邪魔するつもりはなく。
2分、3分……と続いた沈黙が、唐突に破られた。
「有崎君」
「え?」
失礼かとは思ったが、ちょっと首を傾げてしまいそうなほど冴子の表情と口調は優しさに包まれていて。
「ありがとう…ね」
「……ワケ分からないんですが」
それじゃあ、まるで御子ちゃんです……と、続けようとした尚斗を、冴子が口元に浮かべた悪戯っぽい笑みが押しとどめる。
「……ワケが分かられると、私が困るの」
「はぁ……なら、聞きませんが」
素直に頷く尚斗に、冴子がちょっと笑った。
「ふふっ、じゃあね……約束だからって、いつまでもこんなとこにいたら風邪ひくわよ」
「そうですね…」
何気なく、尚斗は西の空に視線を向ける。
確かに……いつまでもここにいても仕方がない。そろそろ、演劇部の講演も終わりに近づいているだろうし。
「……よう、青山」
「あぁ、有崎か……」
青山は尚斗にちらりと視線を向け……ちょっと眉をつり上げた。
「……え、ひょっとして俺の顔にも何かついてるか?」
ぺたぺたと自分の顔をなで回す尚斗をじっとみつめ、青山がすっと右手を突きだした。
「殴ってみろ」
「…そりゃ、構わんが」
尚斗がパンチを放とうとする瞬間、青山の手が消えたように位置を変える……が、尚斗は楽々とそれを追って的確にヒットさせた。
「……この前、宮坂を殴ってた時にも感じたが、大分微調整が効くようになってきたんじゃないか?」
「そーか、自分では良くわからん……そこまで、要求される機会もねえし」
「ま、それはそれとして」
青山は尚斗にちらりと視線を向け……ため息混じりに言葉を続けた。
「……平和そうだな」
「なんかあったのか?」
「有崎が、それを俺に聞くのか」
「?」
「相変わらずというか……ある種の呪いがかかっているとしか、俺には思えんな」
「の、呪い…?」
尚斗がちょっと首を傾げる……が、青山はただ肩をすくめ。
「あ〜いたいたっ!尚斗はっけ〜んっ!」
ぬかるんだ足下をもろともせず、盛大に泥をはねとばしながらまず紗智が、少し遅れて麻里絵が登場……紗智はともかく、麻里絵は肩で息をしながら、しきりと背後を気にしている。
「どうした、麻里絵……追われてるのか?」
「ちょ、ちょっとね…調子に…乗りすぎて…口が滑ったの…」
「っていうか……あんな美人でも、眉一つで随分印象が変わるというか」
また一つ賢くなったわ……ってな感じに頷きながら紗智。
「……そーゆーのを、物笑いの種にするのはあんまり好きじゃないんだが」
「尚斗って、藤本先生のこと嫌ってなかった?」
「まあ、好き嫌いが影響しないとは言わないが……そーゆーのを陰で言うのは良くないだろ」
「そりゃあね」
紗智が頷く。
「……と言うわけで尚斗くん。一緒に帰ろ」
作為のない笑みを浮かべ、麻里絵は指先で尚斗の服の袖をちょっとつまんだ。
「……どういうワケだ?」
「うん、尚斗くんと一緒にいると、藤本先生は何もできないだろうから」
「……良い笑顔で、黒い発言を」
ぼそりと紗智……が、気を取り直したように口を開く。
「っていうか、麻里絵……今日は良くても、明日はどうするの?」
「うん、ほとぼりが冷めるまで、ずっと尚斗くんと一緒……」
ぽんっと、頭に手を置かれた麻里絵は……油の切れた機械のような動きで、背後を振り向いた。
「……あ、秋谷さん…ちょ、ちょっと…痛い」
ぎりぎりぎり……と、世羽子の指先が麻里絵の頭を責めている。
「藤本先生のことならもう心配ないわよ…」
「そ、そうなの…?」
世羽子は息がかかるほどの距離まで近づき、一語一語、区切るように言った。
「だ、か、ら、一人で帰りなさい」
「……っていうか、秋谷さんはなんであんな酷いことを?」
納得のいかぬ表情で紗智……そもそも紗智の場合、綺羅の眉を剃り落とすアイデアを出したのが麻里絵だということを知らない。もちろん、それをやったのが世羽子……という事だけ、麻里絵がちゃっかりと教えていたりするから、当然の反応と言えば当然か。
「……別に、怪我させたわけでも、再起不能にしたわけでもないし……眉なんて化粧で描けるし、ほっとけば生えてくるじゃない?」
「なんだ、藤本先生のアレ、世羽子の仕業か」
「ええ……でも、なんであんなに嫌がったのかわからないのよ」
「まあ、それなりに恥ずかしい……のかもな。あれだけ事やっといて、今さらという気もするが……宮坂が周囲の目を気にするようなもんだし」
「……そうよね」
と、一体何が酷いことなのかと心底わかってないそぶりの世羽子と、それをまた何でもないことのように言った尚斗に、紗智が虚ろな視線を向ける。
「一ノ瀬、有崎も秋谷もそういう意味での常識が欠如してるから、求めるだけ無駄だぞ」
「ま、まあまあ紗智……終わったことだし」
これ以上つっこまれると、自分の関与が話題にのぼりそうだと感じたのか、麻里絵がなだめるように紗智の肩を叩く。
それを見て、何かを理解したように尚斗は世羽子に向かってちょっと頷いた。
「ちなみに世羽子、藤本先生ってかなり粘着気質だと思うが……心配ないのか?」
「椎名さんは……って意味。私が恨まれるのは仕方ないじゃない」
麻里絵に恩をきせるでもなく、世羽子は何でも無いことのようにさらりと告げる……アイデアを提供したのが麻里絵であっても、それをやったのが自分なのだから、と、恩を着せるという認識そのものがないのだが。
「話は変わるけど、尚斗はまだ何か用事ある?弥生達が一緒に帰らないか…って言ってるんだけど?」
「いや、この後ちょっと用事がある」
「時間……かかるの?」
世羽子の目は、じっと尚斗を見つめたまま。
「どうだろ……正直なところ、何時になるかわからねえ」
世羽子は小さくため息をつき……ちょっと微笑みながら言った。
「じゃ、私は行くわね…」
と、右手に麻里絵、左手に紗智を捕まえて、世羽子が立ち去っていく。
「ちょ、ちょちょっちょっ、秋谷さん?」
「え、何これ……身体に力が入らないっ?」
3人の背中を見送る尚斗に、青山が声をかけた。
「有崎」
「ん?」
「今朝のことで、ちょっと聞きたいことがある」
「……何だ?」
青山がそういう尋ね方をするなんて珍しいと思いつつ尚斗。
「九条妹の落とし物を捜しに外へ出た……その時の面子は、俺、有崎、一ノ瀬、椎名、九条妹……の5人だったか?」
「……」
尚斗の視線がちょっとばかし泳ぎ……。
「何故、そんなことを?」
「いや、その5人の面子なら、俺は絶対にあのポジションを歩くことはないはずなんだが…」
納得がいかないのか、青山が首をひねる。
「そ、そうか…」
尚斗の耳に、『青山さんは本当に人間ですか?』という安寿の言葉が甦る。
「今朝に限らず……どうも、不自然な記憶が多くてな。しかも、それが突然すぎる」
「いや、俺に言われても…」
「俺の周囲に集まってくるのは大抵薄汚い連中だが、常識の範囲内の奴ばかり……で、常識外の連中を集めるのは大抵有崎だ。だから、俺は有崎に聞いてる」
わからない、と答えるのは簡単だが……それは確実に青山に何かを悟られる。
だから、尚斗は仕方なくこう答えた。
「すまん、青山……聞かないでくれ」
今ここで安寿のことを喋ると、何か彼女に悪い影響を与えるんじゃないか……そんな気がしたのだ。
「……そうか。まあ、有崎がらみとわかればいい」
青山は小さくため息をつき、有崎に向かってちょっと右手を挙げた。
「じゃ、俺はそろそろ帰る……有崎も、お節介も大概にしておけよ」
抵抗しても無駄だと悟ったのか、世羽子に抱えられた紗智はあくまでもおとなしく……
「秋谷さん放してっ……演劇部のあの娘は、ほっとくとまずいのっ!」
麻里絵は……演技か本気はともかく、焦っているように見えた。
「まずいって……何がまずいの麻里絵?」
「あの娘……てんぱると理性が飛んじゃうタイプだもん。誰かに遠慮したりとか、駆け引きが全然通用しなくなるのっ」
「……だから、徹底的に邪魔をして近づけなくするとでも?」
「そうだよっ」
「へえ、さすが小さい頃から尚斗を独占するために近寄ってくる相手を薄汚い手段で遠ざけてきただけあるわね、麻里絵」
「……なっ、なんで紗智がそれをっ」
「麻里絵……私じゃなくて、喋ってるの秋谷さん」
世羽子の脇に抱えられたまま、麻里絵は苦労して首をねじまげた。
「どうしたの、麻里絵?」
紗智の声色を使ってにっこりと微笑む世羽子から、何を感じたのか……麻里絵がとたんにおとなしくなる。
「……秋谷さん、多才ね」
「中学の頃、こういう小細工が色々と有効でね」
感心したように紗智が呟き、世羽子がさらっとそれに答える。
「……今思うと、椎名さんの足下にも及ばないようなのばっかりだったわね」
「麻里絵…」
「な、何?」
「私ってさ、ひょっとして麻里絵に騙されてる?」
「そ、そんなことないよっ」
麻里絵の口調には微かな怒りが滲んでいて……紗智は、すぐに謝った。
「ごめん…」
「椎名さん、冗談抜きで一ノ瀬さんは大事にしないさいよ……貴重だから」
「わ、わかってますっ」
麻里絵の返事は……怒っているのか、それとも照れているのか。
「心配ないわよ一ノ瀬さん」
「え?」
「あなただけよ……尚斗に近づいても、椎名さんが平然としてたのは」
「…ぁぷっ」
何か言いかけた麻里絵の口を世羽子の手がふさぐ……悪いようにはしないから黙ってなさいと言わんばかりに。
「え…と」
「まあ、私は……尚斗ほど心が広くないから、尚斗に椎名さんが必要以上に近づくのはイヤなのよ」
「むーっ!」
麻里絵が暴れ始める。
「……つまり、秋谷さんは九条さんならいいって思ってるワケ?」
「……恩人なのよ、彼女」
ぽつりと、生半可な気持ちで踏みいることをとを許さない重い響き……紗智は黙るしか無い。
「おーい、世羽子〜」
御子を連れ、弥生が走り寄ってくる。
「どうだった?」
「ん、これからまだ用事があるからダメですって」
「そう、残念……って、世羽子?」
今初めて気付いたのか、弥生の視線が世羽子の両脇に。
「両手に花…っていうか、拉致監禁でもするの?」
「基本的に男は嫌いだけど、そういう趣味はないわね」
「や、私はボーイズラブの趣味ならあるけど」
「ぼーいずらぶ?」
弥生と御子が同時に首をひねった。
「ですって…一ノ瀬さん」
「むうっ、まだまだマイナーなのよね……でも、私がきっとメジャーに変えてみせるわ」
と、不自由な態勢のまま紗智が力み……麻里絵がため息をついた。
体育館の後かたづけ、そして3年をのぞいたミーティング……という名の弾劾裁判。
同じ事をくどくどとみんなが繰り返すそれをうなだれたまま聞き終えた結花は、一人取り残された部室でちょっとだけ泣いて……戸締まりを確認してから校舎の外に出た。
あたりはもう真っ暗で……結花が何気なく見上げた空には、いっぱい星がきらめいている。
足下のぬかるみをのぞけば、今朝方大雪だった事が信じられないぐらいに、星のきらめきを妨げる雲一つない。
「よう、ちびっこ」
闇が動く。
「あ、あれ?有崎さん、ですか…何で?」
結花は反射的に目元を拭い……そちらに視線を向けた。
「いや、とりあえず公演も終わったし、ちびっこの労をねぎらってやろうかと」
ゆっくりと近づいてきた闇は、結花の側で止まり……ぽんっと、頭に手を乗せた。
「まさか……待ってましたか?」
「まあ、多少は」
「多少って…」
結花は自分の頭に乗せられた尚斗の手を取ったが……思ったほど冷たくはなかった。
「さて、目指すは駅前のコンビニ……シーズン終了間際の中華まん新製品、こーひーみるくまんをちびっこに奢ってやろう」
「それ……どっちかというと、罰ゲーム用ですよ」
「なんだ、既に経験済みか…」
尚斗の軽口にそれ以上つき合わず、結花がぽつりと呟いた。
「……夏樹様から、何か?」
「いや、保健室で別れてから顔を合わせてはないけど……ついさっきまで、心配そうに部室の前でうろうろしてたのは見た」
「そうですか…」
それは、演技派の結花とは思えない棒読みの言葉で。
「別に、へーきですよ、このぐらい」
「そっか…へーきか」
「だから、有崎さんが責任を感じる必要なんてありませんからね。有崎さんは提案しただけ、実際にそれを決めたのは私と夏樹様……ですから」
最終的には、演劇部全員で決めたんじゃなかったか……そう言いかけて、尚斗は口をつぐんだ。『責任者が責任をとらずしてどうしますか』……そんな風に返されるのは分かり切っている。
「……って言うか、ひょっとして公演を見に来ました?」
「いや、見てねえ」
「だったらっ」
何でっ……と続く結花の言葉を押しとどめたのは、尚斗の手。
「まあ、なんつーか……用意周到なちびっこが、チケットを忘れてたってのがちょっと不自然に感じて」
泣きたくて、でも泣いちゃいけないと気を張るちびっこを優しく諭すように、頭を撫でながら。
「俺に劇を見せたくないっつーより、客の反応を見せたくなかったんだな」
「な、何言ってますかっ…」
「俺は、あれだけ面白いならきっと…って軽く考えてたけど」
「勘違いしないでください」
「…?」
「私と夏樹様が選んだのは、安易な客寄せに頼らない演劇……それだけなんです。今日、最後まで残ってくれた人は……いつも以上に喜んでくれました」
結花は一旦言葉を切り……言葉を続けた。
「……だから、成功です」
「そっか」
「劇の途中でぞろぞろお客が出ていって……多分、みんなはアレがショックだったんだと思います。でもっ、本来の目的からすれば……今日は、満足のいく舞台でした」
「うん、そっか」
「成功なんですっ…なのに…」
結花の声は、微かに震えて。
「みんな、わかってくれないんですっ……あれだけ、あれだけちゃんと説明して、納得してくれたはずなのに…」
何も言わず、尚斗はただ結花の頭をなで続けて。
結花もまた、尚斗の胸……というか、腹に顔を押しあてて嗚咽混じりに言葉を吐き出す。
「みんなっ、みんなそうですっ……お願い、入谷さんならできる、そこをなんとか、ありがとう、助けて、入谷さんすごい……どいつもこいつもそればっかりっ」
ぎゅうっと、結花の手が尚斗の服をつかむ。
「そのあげくにこれですかっ……なんなんですかっ…夏樹様にもそうです……あれして、これして、格好良い、夏樹様はこうでなきゃ、そんなの夏樹様のイメージじゃないですよ……みんな、夏樹様に何をしてあげましたっ!?」
やはり尚斗は結花の頭をだまって撫でることしかできず。
「……私が間違ってるんですかっ……私はみんなに何も求めちゃいけないんですかっ……いったい私はなんなんですかっ…」
演劇部の関わってから……というには、ちびっこの言葉はあまりにも重すぎて。
おそらくは、ずっと小さい頃から積もりに積もった言葉……尚斗はただそれを黙って受け止めてやる。
「……平気なんですか、有崎さんは」
「ん…?」
感情の波を一つ越えたのか、結花の口調は落ち着いて。
「私、偉そうなこと言って有崎さんに何もしてないです……なのに、有崎さんは私に色々してくれます…頼み事も聞いてくれました……私、何をしたらいいんですか…何かできることあるんですか…」
「まあ、俺はお前の頭撫でるの好きだし…」
なでなでなで。
「……本気で言ってますか」
ため息混じりに。
「いや、撫でるの好きなのは本当だが……なんつーかな」
尚斗の手の動きがちょっと止まる。
「…?」
「お前や夏樹さんを笑わせたかったのに……悪かった」
再び、尚斗の手が動き出す……結花はちょっとうつむいて。
「有崎さんがそう言うなら、私、笑いますよ……ずっと、笑ってます」
「それじゃ、意味ねっての……無理に笑うぐらいなら、素直に泣いてくれ」
頭を撫でながら、そっと手元に引きよせた。
「……じゃあ、また胸をお借りします」
「そこは胸じゃねえ、腹だ」
「そうですね…」
そして、結花は静かに泣き始める……。
「……多少はすっきりしたか?」
「そうですね」
ゆっくりと、夜道を歩きながら。
「中学の頃…」
ぽつりと、結花が語り出す。
「私が演劇部に乗り込んで……色々あったんです」
「……らしいな」
「私は演劇部のために頑張ってたつもりなのに、色々と妨害があって……泣きたくなるようなことも多くて」
結花が空を見上げた……星を見ているのか、それとも記憶の中の光景を見ているのか。
「私が一人で泣いているとき、夏樹様はいつもそっと見守ってるんです……声をかけたりするのが普通と思うんですけどね」
「そりゃ……自分が側にいると、ちびっこが泣けないからって思ったからだろ」
ちらっと、結花が尚斗を見る。
「……どういう意味ですか?」
「んー」
尚斗がちょっと困ったように指先でほほのあたりをひっかいた。
「夏樹さんもだが……優しいからな、お前は」
「……」
「チケットなくなりました〜ってのも、俺に責任感じさせたりしないためだろうし……お前を悪い子なんていう奴はどこのどいつだ、おい」
そう言って尚斗がのばす手を、顔を真っ赤にした結花が払いのけた。
「これ以上泣かすつもりですかっ」
「いや、単に『いい子いい子』してやろうかと」
「それはそれで、別の意味で泣きたくなるんですけどね…」
大きなため息をつきながら……結花の視線は、自分の足下から尚斗の目線まで1往復……再びため息。
「あそこの角を曲がればコンビニだからな、もうちょっと我慢しろ」
「お腹がすいたワケじゃないですっ!」
「こーひーみ〇くまん3個でいいか?」
「それ以外の選択肢はないんですかっ」
「ノリが悪いな……そこで『私、こーひーみるく♪』とか言えば…」
「そう言ったら、有崎さん本当に買ってくるじゃないですか」
「そりゃそうだが…」
などと話しつつ、二人は角を曲がり。
「さて…」
と、コンビニに向かいかけた尚斗の手をちびっこが引き留めた。
「ちびっこ、ぷり〇しぇいくまんでいいか?」
「発売後1週間で製造中止に追い込まれた幻の商品が、ここのコンビニで取り扱われているとは思えませんけど」
「……あの宮坂が、吹きだしたからなあ」
懐かしそうに頷く尚斗の手を、結花がもう一度引っ張った。
「というか……ちょっと時間いいですか、有崎さん」
「ん?」
コンビニで二人してホットドリンクを買い、その足で公園……風がないだけに耐えきれないほどではないが、公園内を照らす街灯の光はやはり寒々しいとしか。
ベンチに腰を下ろし、お茶のペットボトルを両手で拝むようにして持ったままちびっこがぽつりと呟く。
「……有崎さんって秋谷先輩とつき合ってたんですよね」
「……じょにーかね?」
「いや、見ればわかりますよそのぐらい」
怒ったような、拗ねたような表情を見せまいとしてか、そっぽを向いたまま答える結花。
「ん…」
「あの……ですねっ。有崎さんは、秋谷先輩のどういうところが好きになったんでしょうかっ?」
風が吹き、かさかさかさっと音がした。
「……は?」
「えっと、勘違いしないでくださいねっ……ほら、漫画や小説と違って、女子校で彼氏がいる……なんて人少ないんですよ。わ、私も女の子だから、そういう話にちょっと興味あるというか……有崎さんが迷惑っていうならやめますけど」
あたふたあたふた、という擬音が聞こえてきそうな結花を見て……尚斗がちょっと真面目な表情を浮かべ。
「ちびっこ……さてはお前」
「な、何言ってますかっ。これはただの一般論でですね、第一、有崎さん以外にこんなこと聞ける男子がいないだけですっ」
「ちびっこ…」
結花の肩に手を置いて。
「な、なななななんですかっ」
「その相手、男子校の生徒なら俺が引き合わせてやろうか」
結花が、手に持っていたペットボトルを地面に叩き付けた。
「何でそっちに話が飛ぶんですかっ!?」
「え、いや……誰か好きな奴でもできたんじゃ」
「だからっ……」
何かを言いかけた……結花の視線が、尚斗の背後にある茂みへと。
「ちびっこ…?」
茂みから二本の腕が飛び出している……ご丁寧に、その手には携帯が握られており、どちらもこちらを向いていて。
結花の知る限り、その携帯はどちらも動画撮影が可能なタイプ。
「違うんですよ……その、私も夏樹様と同じで脚本なんかに興味があってですね。男子と接するのは滅多にない機会ですし、有崎さんさえ迷惑でなければ、色々お話を聞けたらいいなあっと思って」
「なるほど……そういう話か」
「そうそう、そういう話なんですっ」
すすすっと、二本の腕が茂みの中に消えていくのを見て……結花は、こう、沸々とわき上がる怒りのようなモノを覚えた。
「冗談じゃないです…」
「え?」
足下のペットボトルを拾い上げ、背後の茂みに向かって投げ入れる。
「人の邪魔するぐらいなら、自分でもやればいいじゃないですかっ!」
がさっ、がさがさ…
『みゃお…』
悲しそうに鳴いて、猫が一匹走り去っていく。
「え…?」
猫が走り去った方角を呆然と眺める結花に向かって、尚斗がぽつりと呟く。
「ちびっこ……猫が嫌いにしても、あれはあんまりじゃ…」
「ちっ、違うんですっ!これは、罠って言うか…」
はめられたっ!
そんな心の叫びが結花の頭の中でがんがんと鳴り響く。
「まあ、御子ちゃんのごっきー嫌いと一緒で理性じゃどうしようもない部分もあるだろうけど…」
「だからっ、違うんですっ!ちがうんですってばぁっ」
ちびっこの悲鳴が、夜の公園に鳴り響く……。
完結編5に続く。
いや、次で最後ですから……マジで。
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