「チョコは持った?」
「おっけーです」
「愛情は込めた?」
「ば、ばっちり…です」
「心の準備はいい?」
「な、なんとか…」
「じゃあ、行くわよ」
「はい、おねえさまっ」
 あからさまにうわ滑っている姉妹に向かって、世羽子は意図的に冷たい口調で言った。
「どこに?」
「どこに……って?」
「……ぁ」
 世羽子の言わんとするところを悟ったのか、御子の口が小さく開かれた。
「お、おねえさま……まずは、有崎さんがどこにいるか確認しないと」
「……学校じゃないの?」
「絶対とは言わないけど、すれ違う可能性が大きいわね」
「ふふっ、違うのよ…世羽子」
 首を振る弥生の仕草はどこか芝居がかっており。
「会えるのよ……会える運命にあるなら、どうしたって会えるものなのよ」
 それはまるで、自分と尚斗はどうしたって出会える運命にあるのだと確信しているかのような口調で。
「……それは」
 ぽつりと御子。
「会えない運命にあるなら、何をどうしても…」
 姉妹の性格(?)が良くわかる会話を遮るように、世羽子がちょっと手をつきだした。
「尚斗が帰ってくるのを待って渡す……多分、それが一番確実」
「今すぐ渡したいのっ」
「わ、私も…できるだけ早く…」
「はいはい…」
 世羽子はちょっとため息をつき……弥生や御子の二人に聞こえないぐらいに小さく呟いた。
「……多分、色々と邪魔が入ると思うけど」
 
「……と言うわけで、今学期一杯はこのまま女子校のお世話になることに…」
 全員ではないがそれなりに集まった男子生徒を前にして、男子校の教師が一人……仮校舎に不具合(笑)が見つかって使用できなくなったこと、なので今建設中の校舎の完成まで……エトセトラエトセトラ。
 そんな教師の言葉をまともに聞いている男子生徒は一人もおらず、今は全身を拘束されたままの宮坂を胴上げするのに忙しい。
「ありがとうっ!」
「ありがとう、宮坂っ!」
 二度、三度、四度……宙を舞い続ける宮坂。
 一見、ほほえましい光景に見えるものの……その実態は、仮校舎の不具合が見つかった件について何か問題が持ち上がったとき、全ての責任を宮坂になすりつけるための薄汚い光景以外の何物でもない。
 もちろん、この場にいる男子生徒の誰一人として仮校舎に不具合が見つかった……などという理由を信じてはいない。
「……張本人が何をのうのうとしてるのよ」
 胴上げされる宮坂に皮肉っぽい視線を向けていた青山に、これまた皮肉っぽい視線と口調で紗智が近づいていく。
「……と、言われても」
 青山はちょっと肩をすくめて言った。
「いつ崩れるかわからないような建物で学校生活を送るほどの度胸はないからな」
「……そんな、ひどかったの?」
「なんせ見積もりの半分しか費用をかけてなかったからな……俺としては、自分の身を守るためという意識しかないが」
 2秒の沈黙を経て、紗智の表情が怒りに染まった。
「だ、男子校の責任者って生徒のことをなんだと思ってるのっ!?」
「そりゃ商売道具だろう……やり方の巧拙があるだけで、ここの女子校も似たようなもんだと思うが」
「なっ」
 思わず絶句する紗智……怒りのあまりというよりは、青山に向かって言い返す言葉が見つからなかったという感じではあるが。
「本校舎の完成まで、一ヶ月ぐらいしか使わない建物に1円たりとも使いたくない……って、気持ちは分からないでもない」
「だったら、それまで素直に女子校の…」
 青山の手がすっとのび、紗智の額を軽く弾いた。
「まあ、それ以上は善人の一ノ瀬に聞かせられる話じゃないんだ…」
「っ!っ!!」
 聞こえているのかいないのか、紗智は額を押さえて奇妙な踊りを披露する……それを微笑みながらみつめる麻里絵に向かい、青山はあらためて尋ねた。
「それより椎名、有崎はどうした?」
「……ちょっと目を離した隙に、いなくなったの」
「ほう……有崎が、椎名や一ノ瀬に声もかけずに?」
「うん……私もちょっと変だなって」
 困ったと言うよりは、不思議そうな表情を浮かべて麻里絵が呟く。
「いなくなる前に、橘先輩と話してて……でも、二人ともすぐに別れたって…」
「……ふむ」
 曖昧に頷きながらも、何かを探るように青山の視線が動く。
「椎名は……一ノ瀬と二人か?」
「二人だよ……元々、尚斗くんと紗智と私の3人だったでしょ?」
「……なるほど」
 と、青山がため息をついた……ところで紗智がでこぴんのダメージから脱し、悔しそうに空を見上げて言った。
「ああぁ、こんなとこでうだうだしてる間にも、どこかで誰かが尚斗にチョコとか渡したりしてるのよ〜」
「……連絡入れた方が早いんじゃないのか?」
「さっきからいくらかけても通じないのっ!」
 
「……さて、どういう事かしらね」
 携帯をポケットにしまい、世羽子が呟く。
「有崎、出ないの?」
「出ないというか……電源を切ってるか、電波の届かないところらしいわ」
 弥生はちょっと首を傾げ……言った。
「学校で電波の届かない場所って……ないよね?」
「さあ、試したことないし……あ、そっちは」
「ひゃっ」
 世羽子の腕が御子の首筋をさくっとつかんで引き戻す。
「だいぶ、足下がぬかるみ始めてるから気をつけないと…」
「あ、ありがとう…ございます…」
 世羽子に首筋をつかまれたまま……御子はこくんっと頭を下げた。
「にしても……やっぱり雪国と違って、雪に粘りがないわね」
 天候回復とともに気温が急上昇したせいもあるのだろうが……日陰はともかく、日の当たる場所で、誰かが歩いた場所の雪はもう、ぐちゃぐちゃのどろどろで。
「雪って……粘るんですか?」
 多少イヤそうな表情で、御子が足下に視線を落とす。
「ああ、粘性があるって意味じゃなくて……すぐに融けちゃうって意味。多分、地面からの放射熱なんかも関係してるんでしょうけど…」
「……むう」
「どうしたの、弥生?」
「あ、いや…ちょっと…ね」
 顔を背けるようにして言葉を濁した弥生を、世羽子と御子がじっと見つめる。
 そのプレッシャーに耐えかねたのか、弥生がぽつりと呟いた。
「そ、その…世羽子と御子が姉妹みたいに見えたの…それだけっ」
 世羽子はほんの微かに眉をひそめたが……御子がじっと自分を見つめていることに気付いてすぐに表情を作り直し、首筋をつかんでいた手を放した。
「あの…秋谷先輩…」
「なに?」
 ふっと、御子の表情が和む。
「……些細な…事です」
「そう……私は、気休めは言わないわよ」
「……また私だけのけ者にするのね…」
 ちょっと拗ねたような弥生に向かってため息をつき、世羽子は再びの忠告をした。
「だから弥生…あなたはもっと言葉に気をつけなさい。言葉ってね、自分が思ってる以上の情報がぼろぼろこぼれるモノなのよ」
「……え?」
 首を傾げる弥生から御子へと視線を移し、世羽子は尋ねた。
「で、これからどうするの?このまま学校に向かう?それとも、引き返して尚斗の家で待ってる?」
「……行きます」
「そう…」
「ちょっと、私の意見は無視っ!?」
「別に、弥生には聞くまでもないでしょ…」
「……」
「何年友達やってると思ってるのよ」
 世羽子はちょっとため息をつき、言葉を続けた。
「まあ、時間かければいいってモノでもないけどね」
「さ、さあ、いくわよ、御子っ」
 ちょっと照れたように歩き出す弥生を、御子はほんの少しだけうらやましそうに見つめていた。
 
「あの〜」
「ん?」
「何も、理由を聞かないんですねえ〜?」
 尚斗に背を向けたまま、安寿が空を見上げながら呟いた。
 昨夜から今朝にかけての大雪が嘘のように晴れ渡った青空……ただ、陽は西に傾きつつあり。
「別に、一晩ここでじっとしてろってんじゃないんだろ?」
「……陽が沈む前にはなんとか〜」
「それぐらいなら、まあ、空でも眺めてここで過ごすのも悪くない」
 そう言って、尚斗もまた安寿と同じように空を見上げる。
「有崎さんは覚えてますか〜?」
「何を?」
「ここって、私と有崎さんが初めて会った場所です〜♪」
「会ったというか……降ってきたというか」
 そう呟いて、尚斗は屋上をぐるりと見回す……融けかかった雪の上に、安寿と尚斗の足跡だけが残されていて。
「しかし……やっぱ、アレなのか?天使は幸せになりたいとか思ってる人間に引き寄せられたりするのか?」
「……前髪が引っ張られてバランスを崩しただけなんです〜」
 ちょっと誇らしげに、安寿の前髪の一房がぴょこっと揺れた。
「ほう…センサーみたいなモノか?」
「人の思いの変化量というか、なんというか〜ちょっと、こう……うまく説明できません〜」
「……なるほど」
「……ちなみに〜」
 安寿が尚斗を振り返って言った。
「有崎さんからは、びっくりするぐらいそういうのが出てません〜」
「え、そうなの?」
 ちょっと意外そうな表情を浮かべた尚斗に向かってため息をつきながら安寿。
「恩返ししたいのに……天使としては、張り合いのない事、この上ないです〜♪」
「あーだから、恩返しとか気にしなくて良いから……そういう気持ちだけで嬉しいというか…」
「……それが、張り合いがない…ぶつぶつ」
「ぶつぶつは、口で言わない」
 尚斗には珍しいぴしゃりとした口調でいじける安寿を牽制し……いつもの口調に戻して、話を促した。
「……で、何か話したいことがあるんじゃないのか?」
「そう〜ですねえ〜」
 いつも以上に間延びした返事をして、安寿はちょっと横を向いた。
「お気づきだったかも知れませんが、実は〜今日で有崎さんとはお別れなんです〜」
「ん…」
「天使らしい事はろくにできない、規則は守らない……仕方ないんですけどね〜」
 そう言って、安寿は一目で空元気とわかる笑みを浮かべた。
「安寿以外の天使に会ったこと無いからアレだが……安寿が、いろんなヤツに幸せについて聞いて回ってるのって、やっぱそれだけみんなの事を真剣に考えてくれてるからと俺は思うんだ」
「……」
「安寿は、俺に恩返しできないとか言ってたけど……俺は、ちゃんと安寿から色々ともらったと思う……っていうか、実際に色々フォローされてた気もするし」
「……やめてください…よぅ」
 尚斗に背を向け、安寿は微かに肩をふるわせながら呟く。
「そんな…優しいこと言われたら〜」
 うつむいたまま、安寿は自分の目の前でぱちんぱちんと手を叩き始めた。
「……安寿?」
 ぱちん、ぱちん、ぱちん……ばちぃっ。
 猫だましから一転、やたら気合いの入った音が安寿の両頬から響き……真っ赤な頬をして、安寿がくるりと振り返った。
「気合いだ〜♪」
「お、ついに新ネタ?」
「……え?」
 きょとんとした表情で、安寿が尚斗を見る。
「……すまん、さすがに昔のネタは着いていくのにも限界が…」
「まあ、有崎さんが生まれる前のネタですから〜」
「ちなみに、安寿って…」
 安寿の手がすっと伸び、指で尚斗の口をふさいだ。
「天使は歳をとりません〜♪」
「なるほど」
 ふっと、二人の間に沈黙が訪れる。
 それは特に重苦しいモノではなかったが、どことなく、寂しい気配をはらんでいて。
「……私は」
 やがて安寿がぽつりと。
「あなたの幸せを願います」
「そっか……さんきゅ」
 安寿がちょっと笑った。
「幸せって言葉は…抽象的なのかも知れないですねえ〜」
 言葉の中に含まれた微かな自嘲に反応したのか、尚斗はゆっくりと首を振った。
「まあ…言葉ってのは、他人とコミニュケーションをとるための道具だから……思ったことを言葉に変換する時の誤差、それを相手に伝え、相手がその言葉から意味をくみ取る時の誤差……その差は覚悟して使え、と青山が言ってた」
「……」
「円周率みたいなもんで、言葉からはイコールじゃなくておよそしか導き出せないのかもな……」
「そう……ですね〜」
 頷く安寿の表情はちょっと複雑そうで。
「でもな、安寿……『およそ』に、相手を思いやる気持ちだとか、善意とかを加えたら限りなくイコールには近づくと思うぞ、俺は」
「……」
「だから、安寿が色々とやったことってのは全然無駄とかじゃないからな。そんな風に思いこむのはよせよ」
 ぱたぱたぱた……
 顔を隠すようにうつむいた安寿が、尚斗の背中をはたき始める。
「……できることなら」
「ん?」
 こつん、と尚斗の背中に額をあてて安寿が呟く。
「あなたの翼になりたい…です」
「や、俺に天使はつとまらないと思うなぁ…」
「……」
「……安寿?」
「……確かに、言葉は『およそ』しか伝わりませんねえ〜」
 くっと顔を上げ、安寿はにこにこと微笑みながら尚斗の正面に回った。
「いつ呼び戻されるかわかりませんからこれが最後になるかも知れませんけど…っ」
 言葉に詰まり、安寿はちょっとうつむいた……が、すぐに顔を上げる。
「あなたの…」
 目元に涙をためて。
「幸運を祈ります…」
 おそまきながら、単なる別れとは思えない安寿の異常に気付いたのか、尚斗はじっと安寿を見つめて言った。
「機会があれば……また…会えるんだよな?」
「それは、まあ…機会があればですねえ〜」
 曖昧に微笑みながら安寿。
「……」
「じゃあ、後1時間ほどここに居てくださいね、有崎さん〜」
「……って、安寿はどこに?」
 自分に背を向けた安寿を、尚斗は呼び止める。
 ゆっくりと振り返り、安寿はにこにこと笑いながら答えた。
「ちょっとだけやり残したことがありますので〜♪」
 
「ところで秋谷」
「何よ?」
「藤本先生はどうなった?」
「どうなったと言われても……まあ、こんな感じかしらね」
 と、世羽子は携帯を開き、青山に示して見せた。
「…ふっ」
 青山が口元を手で押さえ……意外そうな視線を世羽子に向けた。
「……何よ?」
「いや、なんというか……椎名あたりの発想か?」
「正解」
 青山はもう一度携帯の画面をのぞき込み、納得したように小さく頷いた。
「なるほどな……俺の趣味には合わないが、あの先生に対して有効であることは認めざるを得ない」
「……正直、よく理解できないんだけど」
 ちょっとため息をつき、世羽子は言葉を続けた。
「眉毛を剃られたぐらいで、何で泣きわめくのかしら?」
「……」
「流行り廃りはあるけど、眉毛を描いてる娘なんて今は掃いて捨てるほどいるじゃない……生えてくるまで、描けば良いだけの話じゃないの?」
「秋谷……お前、そういう部分はだいぶ有崎に毒されたな」
「……そう?」
 自覚無いのか……という感じに、青山がちょっと首を振った。
「にしても……秋谷が助言を求めたのは意外だった」
「……どうも、藤本先生には足元を見られたみたい。私のなし得る暴力に屈するようなタイプじゃないってわかったし」
「……どいつもこいつも、俺を殺人鬼のように」
 苦笑混じりに青山が呟くと、今度は世羽子が意外そうな表情を浮かべた。
「悪いけど、青山君は平然と人を殺せると私は思ってるわよ」
「否定はしない」
「と、いうか……実際に」
「そういう深刻な疑問を抱きつつ、平然と俺に接することにできる秋谷も大概だと思うが……」
 青山に言葉を遮られた格好の世羽子はちょっと眉をひそめ……周囲に誰もいないことを確認してから呟いた。
「あのさ……青山君のお祖父さんが死んでから、公的なニュースにはならなかったけど、色々騒がしかったわよね?」
「いや、今も水面下で騒がしいんだが……有崎の馬鹿も、何度か巻き込まれてる」
「……」
 並の人間なら無動きすらとれなくなるほどの視線(殺気)を、青山は涼しげに受け流した。
「……そこまで有崎にべた惚れしてて、何故素直に動かんかね」
「私のやることは私が決めるの……誰かさんに踊らされるのはまっぴら……よ?」
 世羽子は口を開いたままちょっと固まり……突然目の前に現れた安寿を呆然と眺めた。
「よ、呼ばれて飛び出て〜♪」
「いや、少なくとも俺は呼んでない」
「そうでした〜」
 しょぼん、と肩を落とした安寿と、平然とそれを見る青山の間を世羽子の視線が揺れ動く。
「ちょ、ちょっと青山君…い、今、天野さんって…?」
「ふむ…」
 青山はちらりと世羽子を見て言った。
「世界は広いという事だ、秋谷」
「そ、そりゃ…広いんでしょうけど…」
 意識の空白をついたとか、死角から現れたとかいう問題ではなく……別の空間からわき出てきたような登場をたやすく受け入れられるほど世羽子の思考は柔軟(笑)ではなく。
「ところで秋谷さん〜」
「な、なに?」
「有崎さんは屋上にいると、九条さん達にお伝えください〜♪」
「……何故、私に?」
 ちょっと探るような視線を安寿に向ける世羽子に向かって、青山が口を開いた。
「秋谷、天野は俺に用事があるそうだ…」
「あ……そういうこと」
 世羽子はちょっとため息をつき……どことなく言い訳めいた口調で呟いた。
「そうね…まあ、それは私の役目よね」
 そうして背を向けかけた世羽子を安寿が呼び止める。
「秋谷さん〜」
「なに?」
 ぱちん。
 
「……が、学校中…走り回ってみたけど…みつからないの…」
「…見つかり…ません」
 姉妹仲良く、肩で息をしながら。
「……屋上には行かなかったの?」
「もちろん行ったわよ…」
「……誰も、いませんでした」
 姉妹の弁に、陽子はちょっと首を傾げた。
「えっと……屋上にいたわよ?」
 そのはずだ……さっき、『自分は』尚斗が屋上にいるのを見つけたのだから。
 ぱたぱたぱた……
 二人の女子生徒が慌ててその場から走り去ったような音(笑)を耳にし、世羽子は弥生と御子にちょっと断りを入れた。
「ちょっと、失礼…」
 2分後。
「ま、麻里絵……足、遅すぎ…」
「先に捕まったのは、紗智だよ…」
 実際は、世羽子が二人の運動能力を見切った上で、先に紗智を捕まえることを選択しただけのことである。
「あ、あの…世羽子…?」
 右手で紗智を、左手で麻里絵を……それぞれ、両手首を背中にねじりあげる形で動きを封じる世羽子に向かって、弥生がこわごわと声をかけた。
「そ、その娘達……何をやったの?」
「さあ、何をやったのか、これから何をやらかすのかも知らないけど…」
 右足を振り上げ、かかとで世羽子の足の甲を攻撃しようとした紗智の手首をキュッと持ち上げる。
「あいたたたたっ!」
「弥生、私はここで待ってるから…」
 屋上に行って用事を済ませてきなさい……という含みを察し、一瞬だけ窺うような視線を見せた弥生は、小さく頷いた。
「じゃあ、世羽子……行ってくるから」
 世羽子達に背を向けた弥生のポニーテールが弾み……の後をえっちらおっちらとついていく御子。
「ちょ、ちょっと秋谷さんっ?」
「なに?」
 暴れるとためにならないわよ……という意志を示すかのように、世羽子はつかんでいる紗智の手首に少しだけ力を込める。
「まだ尚斗に未練たらたらのくせに……いたたたたっ」
「紗智…もう少し言葉を選ぼうよ」
 と、ため息をつきながら麻里絵。
「おかしいっ!好きな人を誰かに譲るなんてのはおかしいっ!」
「……別に、譲るなんて思ってないけど」
「だって、九条さんってば美人だし、いいとこのお嬢様だし、胸だって……いたたたたぁっ!」
 ねじ上げた紗智の腕を戻しつつ、気圧の低さを思わせる口調で世羽子がぽつりと呟く。
「胸は関係ない」
「そ、そうよね、胸は関係ないわよねっ!」
「それに、弥生の場合、大きいんじゃなくてあくまでも普通」
「……紗智と秋谷さんは普通以下……痛いっ、痛いからやめてっ!」
「秋谷さん、もっとやって良いわよ」
 ……等と騒いでいると、不意に麻里絵が微笑んだ。
「もう……大丈夫かな」
「なに?」
「ねえ、秋谷さん…私、九条さんのことは良く知らないけど……あの二人一緒に行かせたのってまずくない?」
「え…?」
 麻里絵の言葉の意味をはかりかね、世羽子はちょっと首を傾げた。
「あは……秋谷さんでも、そういうミス、するんだ」
「……麻里絵、どういう意味?」
「だからぁ…」
 やや得意げに麻里絵が語り出す。
「どうせ尚斗くんの事だから、あの二人にもお節介したんだよね……そんな二人がそろってチョコ渡して……あの尚斗くんが本命チョコって理解できるかなあ?」
「……あ」
 麻里絵の言いたいことを理解したのか、かくんと、世羽子の口が開いた。
「それに……尚斗くんって」
 なおも言葉を続けようとした麻里絵がちょっと口をつぐみ、なんとも微妙な表情で世羽子にちらりと視線を向け、うつむきながらぽつりと呟いた。
「いいよね、秋谷さんは……尚斗くんから告白されたんだから」
 世羽子がなんとも微妙な表情を浮かべて遠い目をしたのだが、うつむいていた麻里絵にそれが確認できたかどうか。
「……あ、あの……二人で何を話してるの?」
「……ふう」
 こりゃ一本とられたわ……とばかりに大きくため息をついて世羽子が言った。
「一ノ瀬さん、尚斗ってもてると思う?」
「そりゃ……そう…なんじゃないの?」
「尚斗はね……全然そう思ってないのよ」
「はあ……それで?」
「なんというか……」
 どう表現すればいいのか……と首をひねる世羽子だが、紗智としても首をひねるしかなく。
「ねえ、二人とも帰ってきたよ…」
 麻里絵の言葉に誘われ、紗智の視線がそちらを向く。
 
「こっ、これっ…私の気持ちだからっ!」
「わ、私も…です」
 顔を真っ赤にした弥生はそっぽを向いたまま片手で、御子は下を向いたまま両手で差し出すように。
「おお、サンキュー…」
 と、まずは御子のチョコを受け取り……尚斗はぽんと、御子の頭に手を置いた。
「そんなに気を遣わなくても良かったのに……結局、俺は何もできなかったし」
「そ、そそ、そんなこと…ないです…」
 頭を撫でられながら頬を真っ赤に染める御子……にチラチラと視線を向ける弥生の表情はかなり複雑なモノで。
「弥生も、わざわざありがとな」
「えっ!?」
 弥生の視線が、頭を撫でられている御子と尚斗の間を忙しく往復運動。
「い、いや……あの、有崎?」
「ん?」
 微妙に話がかみ合ってないことに気付いた弥生は、ずいっと尚斗の胸にチョコを押しつけつつ言葉を付け加える。
「み、御子も…私も……手作りなのよ?」
「うわ、そーなのか?」
「そ、そーなのよ」
「俺も昔、世羽子へのお返しに作ったことがあるんだけど……すっげえ、手間がかかるんだよな」
「そ、そりゃ…私の気持ちだもの…手間ぐらいかかって当然というか」
「と、当然…です」
「いや、だから俺は本当に何もできなかったから…あんまり気を遣われると…」
 苦笑を浮かべ、尚斗がちょっと手を振る。
「いや、そーじゃなくて…」「あう…」
 顔を真っ赤にした弥生と御子の視線が絡み合う。
 二人にしてみれば、尚斗はこちらの意を鋭くくみ取ってくれるという認識が刻み込まれているワケで……ここまでボケられると、それにはなにかワケがあるのでは無かろうか……などと考え始めるのも無理はない。
「まあ、何はともあれ二人ともありがとな」
「ちょ、ちょっと待っててね有崎……御子」
「はい…」
 尚斗のそばから離れると、弥生と御子は顔を寄せ合ってぼそぼそと相談を始めた。
「ど、どう思う、御子?」
「……もしかすると」
「なに?」
「有崎さんは……私達のことを気遣って、ああいうさりげない断り方をされているんじゃないでしょうか」
「そ……そーかな」
 弥生はちらりと尚斗に視線を向け……首をひねった。
「確かめるためにも……もう一押ししてみない?」
「ひ、一押し…ですか?」
 何を想像したのか、御子のは赤い顔を更に赤く染めて……それにつられるように、弥生もまた頬を桜色に染めて尚斗のそばへと戻っていく。
「え、えっとね…有崎」
「……なんか、今日は二人とも変だな」
「そりゃ変にもっ」
「おねえさま…」
 声を上げかけた弥生の袖をそっとつかみ、御子がふるふると首を振る。
「んっ、んんっ……こう、お世話になったからとか…そーいうんじゃなくて……その…なんというか…私は…その、御子も…なんだけど…」
 最初こそ勢いが良かった弥生の口調はしどろもどろになり……反対に、それを見て度胸が座ったのか、御子が口を開いた。
「有崎さんは何もできなかったと仰いましたが…私も、おねえさまも…感謝しているんです……でも、そのチョコレートは…感謝だけじゃなくて、もっと…感謝よりも深い気持ちを込めて……なんです」
 良く言ってくれたわ……と、弥生は顔を真っ赤にしながらも、尚斗の顔をじっと見つめる。
「ん…」
 ふっと……尚斗が浮かべたひどく優しい表情に、弥生と御子はそろって息を呑んだ。
 今度こそ、今度こそはっきりした答えが聞けるに違いないと確信して。
「良くわからんが……まあ、弥生と御子ちゃんはそうやって仲良く笑ってるのが一番だな」
「……」
「……ぁ」
「ちょ、ちょっと待っててね有崎」
 何かわかったと思われる御子の手を取って、弥生は尚斗のそばから離れた。
「……何かわかったの、御子?」
「おねえさま……もし有崎さんが、おねえさまを選んだとしたら……私は、やっぱり、お姉さまと顔を合わせるのがつらい…と思います」
「……」
「多分……有崎さんは、その事を考えてくださったんじゃないでしょうか」
 短い沈黙を経て、弥生は小さく頷いた。
「そう…ね。私も……御子が選ばれたとしたら……とうさまの問題じゃなく、家には帰りたくない……かな」
「……でも…それじゃ、いつまで経っても…」
 うつむいた御子の背中をぽんと叩き、弥生は微笑んで見せた。
「まだ早いって事かな…」
「早い…ですか…?」
「……今日から、家に戻るわ」
「おねえさま…」
「御子もね……とうさまやかあさま、私に遠慮しなくても良いから……こういうのは、有崎に妙な心配をさせたりしなくなってから……そうしましょ」
「……はいっ」
 
「……って、ワケなのよ」
 イヤイヤをするように首を振りつつ……照れているだけなのだが……弥生は、屋上でのやりとりを世羽子達に話して聞かせ。
「もうっ、有崎ったら優しいんだから…でも、そんな有崎ってやっぱりいいよね、御子」
「はい…」
 と、御子も御子で目を閉じてうっとりとした表情。
「……そ、そうよね……尚斗、優しいから」
 紗智は、真実を告げて良いのか悪いのか思い悩みつつも、何はともあれこの場は結果オーライとして曖昧に相づちをうち……麻里絵は、誰にも聞こえないぐらいの小さな声でぼそりと呟く。
「この二人……自分達のどちらかが選ばれるって思いこんでる…」
 そして世羽子は…
「……イヤなこと思い出させるわね、この二人」
 …などと呟いていたり。
 
「さて…と」
 青山と並んで校舎の壁に背中を預けていた安寿が、ぴょんと飛ぶようにして壁から離れた。
「……行くのか?」
「わかりますか〜?」
 と、振り返る安寿の顔は……何かでぬぐい去ったように表情が失せていて。
「そんな顔を有崎に見せたくないのはわかるが…」
「……わかりますか〜?」
 安寿はちょっと笑った……いや、笑っているつもりなのだろうが。
「有崎さん、笑っている人を見るのが好きでしたから……ちょっと、側にはいられません〜」
 ゆっくりと安寿が歩き出す……いや、正確に言うと安寿の足は地面に触れていない。
「……さよならだけが人生です〜」
 すっと……糸で引っ張られたように安寿の身体が上昇を始めた。
 自然と青山の視線はそれを追い……安寿の姿が屋上を越えていった瞬間、青山は否応なしに目撃する事になった。
 空を埋め尽くすほどに巨大な手が突如現れ、ぱちんと手を叩いたのを。
 
 
 
 
 ごっどはーんどっ。(笑)

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