大雪の影響で低速運行を余儀なくされて時間こそ余計にかかったが、夏樹は何事もなく女子校の最寄り駅に電車を降りて大きくのびをした。
「んっ……く…」
 乗車率150%オーバーの、こもった熱気に内心辟易していたため、身を斬るような冷気はかえって快い。
「さて…と」
 駅を出て、足下に注意しつつ学校へと……向かいながら、夏樹はちょっと首を傾げた。
 ごく普通に考えると、良くも悪くも駅というのはその地域の中心地であり、交通量というか人の往来は大抵駅に向かって集まっていく。
 それなのに……駅近くの道路よりも、学校近くの道路の方が明らかに足跡が多い。
 もちろん、この天候のせいか駅前の人通りは普段に比べて微々たるモノだったが……それはつまり。
『……あのですね、雨が降ろうが槍が降ろうが夏樹様のファンは学校に来ますよ』
 今朝方、結花に言われた言葉が夏樹の脳裏をかすめた。
「まさか……ね」
 現実から目を背けつつ、夏樹はざくざくと雪を踏みしめて歩いていく。
 危なっかしい手つきで玄関前の雪かきをする人がちらほら……滑って転ぶ人間もちらほら……ただ、動いている車はほとんど見かけず、動いていても、おっかなびっくりののろのろ運転で、あまり意味がなさそうな感じで。
 何はともあれ、夏樹は転ぶことはもちろん、さほど苦労もせずに学校前へとたどり着いた。
「……夏樹様」
「え?」
 校門に近づこうとしていた夏樹は、声の方を振り向いた。
 見れば、結花に紹介されたことのある親衛隊の一人が、あたりに気を配りながら手招きをしている。
「こちらへ」
「あ、はい…」
 おそらくは、注意深い結花の配慮であろうが……夏樹としては『そこまでやらなくとも…』とも思う。
 もちろん、結花と比較すると、夏樹は世間を知らなさすぎたり。
「では、私はこれで…」
 人目を逃れるようなコースをたどり、演劇部の部室前まで夏樹を連れてきた少女は静かに頭を下げる。
「えっと、ありがとう」
 微笑みながら夏樹。
「あ、いえ…そんな…」
 さっきまでの厳しい表情を崩すと、照れた様に頬を染めてその場から立ち去っていく少女……を見送りつつ、夏樹はため息をついた。
「うーん…」
 静かにドアを開け、そこにいる演劇部員達に挨拶する。
「おはようございます」
「あ、おはようございます夏樹様〜」
「すごい雪ですよね〜」
 それまで活気がなかったわけではないが、スイッチが入ったように明るくなる部室。
「……結花ちゃんは?」
「あ、今は見回りに…」
 
 10分後。
 
「……あの、夏樹様?」
 ステージサイドの物陰からこっそりと体育館内をのぞき込み……その場にへたり込んでしまった夏樹に、結花が心配そうに声をかけた。
「……御気分でも悪いんですか?」
 夏樹は疲れたような視線を左右に向け、その場に結花しかいないことを確認してから呟いた。
「この娘たちって……電車も動いてない状況で集まってきたの…」
 電車が動き出す……という情報を聞いてすぐ駅に向かった夏樹。
 もちろん、学校の近くに住んでいる生徒はともかく……みながみな、手に手を取って、雪中行軍をやらかしたことはほぼ間違いなく。
 体育館に集まった少女達は、朝から飽きもせずに自分で作った夏樹のアルバムを披露したり、『あの時夏樹様は…』などという話題で盛り上がっていたり。
 話題のネタとなっている当事者の心境は推して知るべしであろう。
 そんな夏樹の心中を思ったのか、結花は複雑そうな表情を浮かべて言った。
「『さすがは私』……と、居直ることさえ出来れば、それなりに楽しいかと…」
「もう、今更気にしないで結花ちゃ……?」
「……?」
 夏樹はちょっと立ち上がり……またしゃがみ込むようにして(悪気はない)結花の顔をじっと見つめた。
「な、何かついてますか?」
「昨夜…ちゃんと寝た?」
「…ぐっすりとはいきませんでしたが」
「結花ちゃん……本当に、少しでも、寝た?」
 問いつめるのではなく、どこか諭すようなような夏樹の口調に結花は屈した。
「……ちょっと休んできます」
「部室じゃなくて、保健室が良いと思うわ」
「保健室……ですか?」
 
「……まあ、材料は結構残ってるから」
「はい…」
 弥生の言葉に頷きつつ……御子は申し訳なさそうな表情を浮かべて世羽子にゆっくりと頭を下げた。
「あの…秋谷先輩…申し訳ありませんが、お台所お借りします…」
「ああ、好きに使っていいから…」
 世羽子はちょっと右手をあげて、やや過剰に過ぎる御子の言葉をさりげなく封じた。
 ピルルルン〜♪
「ん」
 世羽子は携帯を取り出し……心持ち眉をひそめながらそれに出た。
「……何の用?」
 その口調からして、あまり好ましい相手からの連絡ではないのだろうと察しつつ……御子と弥生は台所の隅へと移動する。
 相手が一方的に喋っていたのだろう、2分程黙っていた世羽子が口を開いた。
「……好きにしていいのね?」
 それから一言二言、世羽子はため息をつきながら携帯を切った。
「……弥生」
「な、なに?」
「私、ちょっと出てくる……そうね、多分長くて2時間ぐらい」
「……え?」
 首を傾げる弥生の目の前で、世羽子はちょっと右肩を回して言葉を続けた。
「……別に抜け駆けしようとかじゃないわよ」
「いや、それは全然考えてなかったけど……」
 ここで抜け駆けするぐらいなら、あの時わざわざ呼び戻したりはしないだろう。
「と、いうか……なんで、ストレッチ?」
 ゆっくり、ゆっくりと身体を左右にねじり始めた世羽子に向かって、弥生の口調が不審の色を帯びた。
「ん……」
 世羽子は身体をねじったまま動きを止め……弥生が気付く程度に不機嫌さを漂わせながら。
「これから多分、尚斗の家にふ……」
 突然口ごもった世羽子に首を傾げつつ弥生。
「……ふ?」
「……ふ、不審人物がやってくるのよ」
 それを聞いて、今度は弥生だけでなく御子も首を傾げる。
「……不審人物…ですか?」
 その呟きはともかく、御子の視線は『それが何故先輩の外出と関係があるのですか?』と語っていたり。
「というか……」
 静かな…静かすぎる口調で世羽子。
「個人的にも、その不審人物にちょっと問いつめたいことがあってね」
「よ、世羽子…?」
「……私、尚斗ほど心ひろくないし」
 ねじった身体を戻し、今度は反対方向に……弥生と御子には理解できていないが、反動をつけずしてのひねりの角度は、世羽子の肉体の柔軟性と筋力を物語っている。
「……チョコ、作らないの?」
「あ、う、そ、そうね…」
 さすがに弥生は、これから世羽子が何か荒っぽいことを起こす事を悟ったのだが……同時に、止めようがないことにも気付いてしまい。
「……じゃ、行って来るわ」
「行ってらっしゃい…」
 と、世羽子を送り出した弥生に、御子が不思議そうに視線を向けた。
「あの…おねえさま?」
「ほら、御子……手伝うから一緒に作りましょ」
「……ですが」
「世羽子なら心配ないって…」
 御子の肩をちょっと叩き……弥生はぽつりと呟いた。
「……相手は心配だけど」
 
「な〜お〜と〜」
 しびれを切らしたように、紗智が尚斗の制服の裾をつかんでグイグイと引っ張った。
「わかってる、わかってるから…」
「さっきからそればっかりじゃない…」
 紗智はため息をつき……ぽつりと呟く。
「困ってる人がいたら助ける……そりゃそうだけど」
 家を出て1時間弱……尚斗、麻里絵、紗智、安寿の一行は、学校に近づくどころか遠ざかりつつあった。
「なんか、やけに遭遇率高くないっ!?」
「まあ、この雪だからなあ……」
 滑って転んだ怪我人……雪が積もって景色が一変したせいか、道に迷った人間……ふざけて上った屋根から降りられなくなった子供の救助。
「昔からそうだけど…なんで尚斗くんって、遭遇率が高い日と低い日の差が極端なのかな…」
 ぽつりと麻里絵。
 そして、安寿といえば……
「誰かに必要とされ、それに応えられるってステキです〜♪」
 瞳をきらきらさせながら、あらぬ方角に祈りを捧げていたり。
 それが幸せかどうか抜きにして、困っている人を助けては感謝され、また次の困っている人を助けて感謝され……。
「今更ですけど、エンゼルポイント獲得しまくりです〜♪」
 などと充実感に満ちあふれた安寿に視線を向けつつ、紗智がぼやいた。
「……なんで天野さんはあんなに楽しそうなのよ」
「モノは考えようだよ紗智……学校にたどり着かないなら、それはそれで良いと思うし」
「え?」
「学校に行けば……絶対演劇部の女の子とかが、尚斗くんと接触するよ」
 紗智はちょっと視線を泳がせ……ぽんと手を叩いた。
「それもそうね」
「有崎さん〜向こうで子供が泣いてます〜」
「むう、怪我でもしたのかな…」
 ざっざっざっと、歩き出した安寿と尚斗を、麻里絵と紗智が追いかける。
「……あれ?」
「どうしたの、麻里絵?」
 麻里絵はちょっと目をこすり、じっと安寿の背中を見つめた。
「今……天野さんの身体、光らなかった?」
「……雪の反射じゃない?」
「そう……かな?」
 
 さくさくさく…。
 恋する少女のように頬を染め……それでいて、口元には小悪魔を思わせる微笑みを浮かべた綺羅が行く。(笑)
「その角を曲がれば…」
 後はもう30メートル足らず……の曲がり角の手前で、綺羅はいきなり転んだ。
「……?」
 首を傾げながら立ち上がり、スーツに付いた雪を払い落としてから、あらためて足を踏み出そうとしてまた転んでしまう。
「これ…は」
 雪で滑ったとかそういう事ではなく……身体が、そこに行こうとするのを拒んでいるかのような。
『こう殴られたらこう受ける、こういう攻撃の時はこうさばく……そういう技術は所詮下の下であって、本当の護身とは、そういった危険を察知し、その場にたどり着かない事を言います……』
 綺羅はふっと、合気道の達人の名言を思い出した。
「……まさか、ね」
 それはあくまで達人と呼ばれるレベルにいたってなし得る境地であるだろうし、自分がそんな事を出来るはずもない。それ以前に、いったい何の危険があるというのか……そう思って綺羅はちょっと首を振ると、ゆっくりと立ち上がって再びスーツの雪を払い落とした。
「さて……行きますわよ」
 綺羅は微かな不安を無理矢理抑え込み……曲がり角を曲がって、すぐに立ち止まった。
「……おはようございます、藤本先生」
「おはようございます、秋谷さん」
 お互いに頭を下げ……るが、視線が外れない程度の軽い礼。
「藤本先生」
「はい」
「私が鍵のかかったドアを蹴破って現れたとき、驚きませんでしたね?」
「……驚きましたよ?」
「それは、ドアを蹴破られたことに対してで……『私が』それをした事に対しては特に驚いてませんでしたよね」
 綺羅はちょっと質問の意図をはかりかねたような視線を世羽子に向けた。
「それが……何か?」
「……藤本先生がみんなの前でそれをやったら多分大騒ぎになると思いますけど」
「それは…」
 巨大な猫をかぶってますから、と綺羅は心の中で呟き……1秒、2秒……世羽子の質問の意味を悟ってちょっと視線を逸らした。
「つまり……藤本先生は知ってたんですよね、私がそういう事を出来るって」
「……ドアを蹴破るぐらいでしたら…」
「それは、出来る人間の意識です。ドアなんて、男が助走をつけて体当たりしてもそうそう壊れたりはしません……」
「あら…そうなんですか?」
 綺羅はちょっと口元を手でかくしつつ微笑んだ。
「私、世間知らずですので…」
「昔の話ですけど……私と尚斗が街に出かけたとき、妙なのをけしかけたりしませんでしたか?」
「……まず結論ありきの姿勢で話を進めてませんか?」
 世羽子はちょっとため息をつき……これ以上質問することを諦めたのか、ポケットから取り出したイヤホンを綺羅に向かってぽんと放った。
「……?」
 首を傾げつつ、綺羅はそれを耳に付け……すぐに表情を凍らせた。
「あ、秋谷さんっ…」
「青山君が渡してくれたんですけどね……」
 そう呟き……世羽子は男子校のある方角にちょっと視線を向けた。
「相手が相手だから同情はしますけど……ちょっと不用心でしたね」
「……」
「この前、『善意の寄付』なんて記事を載せた新聞社なり、下世話な週刊誌あたりに持っていくと……」
「何が望みですか?」
「金輪際、尚斗に近づかないでください」
 綺羅はちょっとうつむき……困ったように呟いた。
「……人を試すような真似は趣味が悪いですよ、秋谷さん」
 そんな綺羅を世羽子をじっと見つめ……ちょっと笑った。
「向こうに、空き地があります……これが欲しければ、力ずくでどうぞ」
「教師として、教え子に暴力をふるうのは気は進みませんが……」
 綺羅はちょっと言葉を切り、イヤホンを世羽子に投げ返した。
「思い上がった小娘にお灸を据えるのは嫌いじゃありません…」
 世の中格闘ブーム……等と言われてはいるが、小説や漫画ならいざ知らず、単なる小突き合いではない本当の暴力を目の当たりにさせられた人間は大抵腰が引ける。
 もちろん女性なんかも、話で聞くだけならまだしも、好意を持っている人間が実際に暴力を振るうのを目にすると……好意そのものが冷え切ることも少なくない。
 さてここで、お節介な尚斗の性格を逆手に取ろうと考えた人間がいたとする……デートの場面で、容赦なく暴力を振るう尚斗を見て相手の少女はどう思うか……などの作戦はいともたやすくひねり出されることであろう。
 綺羅にとっての誤算は……暴力を好んでいるわけではないが、世羽子が数少ない例外だったと言うことであろう。
 まあ……尚斗より先に世羽子がそいつらをぶちのめしたのだが。(笑)
 
 少し時間は前後して、男子校敷地内。
「……さて、これで良し」
「ほどいてくれ〜」
 携帯を切ってにやりと微笑む青山に向かって、どこか抗議するような口調で、宮坂が話しかけた……と言っても、四肢を拘束されて融け始めた雪の上に転がされている状態なのだが。
「……」
「あ、青山大輔君?どうして親友の僕をそんなに冷たい視線で見るのかな?」
「いや……実際、お前はもう用済みだしな」
「……」
 5秒、10秒……青山の言葉の意味を誤解(?)したのか、宮坂がもそもそと不自由な体をくねらせてもがき始めた。
「いやだ、いやだ、いやだぁっ、殺さないで、死にたくないっ!」
「……おい」
 青山は苦笑を浮かべ、もがく宮坂の背中を踏んだ。
「いやだぁっ、ちゃんと言われたとおり藤本先生に『有崎は今家に一人です』って連絡したじゃないかぁっ!」
「宮坂……愛のためなら死ねるとか言っといて、結局、自分の安全のためにあっさりと藤本先生を売ったな…」
「売らせた奴が偉そうなことを言うなっ!」
「……というか」
 青山は、宮坂の背中をぐりぐりと踏みにじりながら言葉を続けた。
「お前の認識では、俺はそういう人間なのか?」
「っていうか、青山。何があったか知らないが、お前昨日からめちゃくちゃ怖いぞっ!拳銃構えたやーさんに詰め寄られたときの方がよっぽどマシだ」
「……ふむ」
 青山はちょっとため息をつき、自分の頬を指先で軽くなぞった。
「……これでいいか?」
 宮坂の神経をぴしぱしと削り続けていた圧迫感が急に遠ざかる。
「演技……だったのか?」
「いや……ちょっと機嫌が悪かっただけだが」
 宮坂は動きを止め、地面に向かってぶつぶつと呟き始めた。
「この男……『今日は機嫌が悪いから3人ほど殺すか…』なんつって、実際にやっちまう人種だ、間違いねえ」
 ぐりりっ。
「痛い痛い痛いっ!」
「それにしても、お前と藤本先生の関係が良くわからないな…損得抜きに従順かと思えば、さっきみたいに平気で嘘もつく……」
「自分の命と天秤に掛けるなら、俺は何でも売るぞっ!」
 と、大いばりで宮坂。
「……そこまで言い切れることが出来るなら、いっそ清々しいな」
 名残惜しそうに宮坂の背中を強く踏みにじり……青山は仮校舎の壁を軽く叩いてちょっと首を傾げ、宮坂の身体を壁から離れた場所へと引きずっていく。
「……そろそろやばいのか?」
「まあ、こっちはほぼ計算通りだ……本当なら校長や理事長の目の前で傾いていく予定だったんだが…」
 と、青山がため息をついてから数分……青山と宮坂の二人が見守る中、仮校舎が微かに揺れ始めた。
「……青山」
「なんだ?」
「爆破じゃ足がつきやすいって言ってたが……これは大丈夫なのか?」
「少なくとも俺は平気だ」
「……」
「……」
「……おい?」
 抗議しかけた宮坂の目の前で、仮校舎がゆっくりと傾いていく……倒れこそしないが、一目で『近づくと危険』と判断できるレベルまで。
「ふむ……まあまあか」
 おそらくは自分の計算の許容範囲内に収まったのだろう、青山がぽつりと呟く。
「……ところで、青山」
「なんだ?」
「あの女って……怖いな」
「あの女……というと、秋谷のことか?」
 ちょっと意表をつかれたように、青山の視線が宮坂を向いた。
「有崎に限らず、どんなに強くても大抵の奴は、我を失わない限り相手の身体をどこかで気遣うもんだろ?」
「……」
「それをあの女…」
 どこか笑いをこらえるような青山の表情を見て、宮坂はちょっと口をつぐんだ。
「……青山?」
「いや、別に…」
 宮坂は器用に首をひねり……おそるおそるといった様子で呟く。
「ひょっとして……アレで手加減されてる?」
「まあ、一発一発の攻撃力がずば抜けてるわけじゃないが…」
 青山はちょっと肩をすくめ、言葉を続けた。
「中学の時、秋谷は暴走した有崎を一人で止めたぞ……確かに当時の有崎と今の有崎は比べモノにならないがな」
 
「さて……」
 一昔前なら子供達が集まって雪遊びにいそしんだであろうが、今はおこたでゲームなのか……世羽子が綺羅を誘った空き地は、足跡さえ残されておらず。
「いつ、始めま…」
 にこやかに振り返った綺羅の右頬をかすめ、何かが背後の壁で砕けて散った。
「スポーツじゃあるまいし」
「あ、秋谷さんっ!?」
「はい?」
「い、い、い、今の…」
 背筋に冷たい汗を感じつつ、綺羅はなんとか年長者としての威厳を保とうとしつつ抗議の声を上げた。
「……これですか?」
 世羽子は足下の雪をすくい……それをギュッと圧縮して薄い半透明の氷をつくると、綺羅に確認させるためなのか、足下めがけて投げつけた。
「……」
「それが、何か?」
 綺羅の中で、この相手ならふつーに勝てるなどという甘い気持ちが地平線の彼方にぶっ飛んだ。それどころか、まともにやったら確実にやられる……という寒気に似た何かが背筋をはっている。
「ぶ、武器は無しっ!」
「は?」
「お互いに素手で、正々堂々とっ!」
 ちなみに、懐にはスタンガン(改造済み)、右手首には大きさが単三電池ほどの超小型催涙スプレーを仕込んでいたりする綺羅なのだが。
 世羽子はちょっと首をひねり……心底不思議そうな口調で言った。
「あの、藤本先生……それでよく青山君にケンカ売る気になれましたね?」
「(こ、この小娘…)」
 内心忸怩たる思いはあるものの、綺羅はあくまでも微笑みをたたえたまま。
「ほ、ほら…理由はどうあれ、私たちが怪我でもしたら、尚斗君が心配するでしょう?」
 世羽子の視線がじいっと綺羅をみつめたまま動かない。
「……な、何か?」
「『達』?」
 自信あふれる世羽子の発言にかえって綺羅の心は冷静さを取り戻し……微笑みを浮かべて言った。
「今ここで、私が逃げたとしても…秋谷さんはそれを使ったりしませんわね」
「……」
「青山君と違って、秋谷さんはそういう手段を嫌うタイプのようですし」
 どう考えても、世羽子は尚斗よりの性格なので、とりあえず揺さぶり……できることなら戦いそのものを回避する方向へと。
 勝てるかどうかわからない勝負なら回避するに限る……が。
「先生……ここまでついてきておいて、逃げられると思いますか?」
「……確かに、無理ですわね」
 世羽子の心が微動だにしない。
 綺羅はちょっとため息をつき……仕方なく、右手を前にして半身に構えた。
「(……スプレーは使えるのが一回切りですし、小手を引き込む振りをしてスタンガンでも…)」
 と、正々堂々とした戦いのプラン(笑)を練る綺羅に向かって、世羽子が無防備とも呼べるような状態で近づいていく。
「……」
 無言で自分の接近を見守る綺羅を見て、世羽子の口から空気を切り裂くような気合いが漏れた。
「…っ!」
 予想していた以上に世羽子のステップインが速かったのか、綺羅の反応が半瞬遅れた。
 既に世羽子の左腕は角度を決められており、後は綺羅の肝臓めがけて突き上げるだけ……さばきは不可能とみて、綺羅は敢えて右足を斜めに踏み込んで世羽子の拳を背中で受けた。
 世羽子の攻撃を推力に変えてそのまま身体を回転させ、綺羅が左脚を世羽子に飛ばす……が、世羽子の視界を背中で遮り、懐からスタンガンを取り出すのが本命である。
 仮に世羽子が蹴りを防ごうとして組み付いたが最後、強力スタンガンの餌食……と、なるはずだったのだが、世羽子は綺羅の背中めがけて右掌で一撃を加える。
 さっき背中で受けたモノとは比較にならない衝撃を受け、綺羅は呼吸を詰まらせて受け身もとれずに倒れ込み……しかしながら、一旦取り出したスタンガンを再びしまい込んだのだから綺羅も並ではない。
「…ほっ、ごほっ…」
 呼吸回復とともに慌てて飛び起きる綺羅……世羽子の動きを見守りつつ、綺羅は何故追い打ちががこなかったのかと考えた。
「(打撃系……という事かしら?)」
 不用意とも思える後ろ蹴り……いわゆる総合格闘技のセオリーなら、そのまま組み付いて地面に押し倒し、脇の下を膝で固定して後頭部に連撃でおしまい……なのだが。
「(何にしろ……甘い)」
 踏み込みの鋭さには驚いたが、タイミングを覚えてしまえばなんとでも対処できる。
 綺羅の口元の微笑みが微かに深く……その瞬間、世羽子がさっきよりもわずかに速い踏み込みで懐に飛び込んだ。
「…っ!?」
 再びのレバー撃ち……パンチそのものも、さっきよりわずかに速い。
 ほぼ無意識の動きで、綺羅は右手を回すようにして世羽子の左手首を打ち払い、左手でそれを捕まえようとしたがかわされた。
「(……)」
 さっきの速度を再びインプットしたところで、三度世羽子が懐に踏み込んでくる……もちろん、踏み込み、パンチともにさっきよりもわずかに速い。
 今度はひいて避けた。
「あの……秋谷さん?」
 何も応えず、4度めの踏み込み……は、最初の踏み込みと同じような速さ。
 しかし、パンチの速度がさっきのそれと同じ。
「……っ」
 タイミングが狂い、綺羅は再び後ろにひいて避ける。
 5度目の踏み込みは、3度目の速さと同じぐらいで、パンチは最初と同じ……のように感じたのだが、既に綺羅は自分のリズム感が狂わされている事を悟っており、もう自分の判断に自信がもてなくなっていた。
 6度目の踏み込み……を、これまでで一番速く感じて、綺羅は避けるというより、逃げるという言葉がふさわしい動きで後ろへとひいた。
 タイミングがつかめない事ほど怖いことはない……殴られるとわかって殴られるのと、わからずに殴られるのはダメージが天と地ほども違うからだ。耐えられるはずのなんでもない打撃があっさりと勝負を決めてしまう。
「……回りくどい戦い方ですわね」
 踏み込みとパンチ、その一連した動作の中で両者別々にリズムを変化させる技術に驚嘆しながらも、綺羅は皮肉っぽく呟き……世羽子は、すっと右手を構えながら応えた。
「そりゃあ……」
 かしぃんっ!
 乾いた音を立てて、綺羅の右手が後方に弾け飛ぶ……それに遅れて、右手首付近からぷしゅうぅぅとガスが漏れるような音が。(笑)
「あ…」
 綺羅は慌てて顔を背け、右手をぱたぱたと振った……もちろん、元々一回こっきりしか使えないモノだから量そのものは大したこともなく。
 冷たくもなく熱くもない視線で綺羅を見つめながら、世羽子が呟く。
「……懐にも何か隠してますね」
「……」
 武器のあるなしではなく、先ほど右手首を襲った世羽子のパンチ……タイミングも何も、見えない上に気配まで感じ取れない……ここで綺羅は、こういう争いに関して世羽子と自分は勝負にもならないことをはっきりと悟った。
 世羽子の顔をじっと見つめ……綺羅は小さくため息をついた。もちろん頭の中で、青山ならともかく、世羽子なら本当にひどい事はされまい…と、計算を働かせながらだが。
 綺羅本人は気付いていなかったが、その安心感が微妙に口元に浮かび……世羽子の眉を少しばかりひそめさせた。
「さて……さっきの質問に答えていただけますか?」
「……こだわりますね」
 綺羅はため息をつき……渋々といった感じに、それを認めた。
「あの日も……ですか?」
「あの日……と、おっしゃいますと?」
「4年前……春休み最後の日曜日です」
「……さあ、そこまで細かいことは」
 綺羅はちょっと首をひねり、言葉を続けた。
「秋谷さんと尚斗君が二人で電車に乗って街に出たなら、多分そうしたと思いますが……」
「そう……ですか」
 かつん。
 顎の先に衝撃を感じた瞬間、視界がいきなり歪んだ。
「あ…え?」
 膝に力が入らず、その場にしゃがみ込み込みそうになった綺羅の肝臓を世羽子の左拳が突き上げ……そして返しの右。
 綺羅の意識はそこでとぎれた…。
 
 
                  完結編2に続く
 
 
 ばぶう。(笑)
 

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