3限目が始まるまでは良く晴れていた空も、予報通りというかいつの間にか雲に覆われ……それに伴って気温も急降下。
「……大きなお世話かも知れないが」
 空を見上げながら青山が言う。
「……寒くないか?」
「寒いですねえ〜♪」
 寝っ転がったまま、安寿が歌うように応えた……語尾が多少震えていたりするのはやはり寒さのせいなのか。
「だろうな…」
「3時限目ぐらいまではぽかぽかで幸せだったんですよ…」
 青山は何も言わず、視線を安寿に向けた。
「えっと……幸せと不幸せは陸続きかどうかを確かめようと思いまして…」
 どこか弁解するように安寿。
「気温がぐぐっと下がった瞬間、幸せ気分は消滅しました……今は結構惨めな気分というか」
「……なら起きろ」
 突き放すような言い方だったが、青山を知る者であるならば、これは青山にしては珍しい好意的な発言である事を認めざるを得なかっただろう。
 これが安寿ではなく、何の興味もない生徒だったなら虫を見るような一瞥をくれてお終いのはず……それ以前に、声すらかけないだろうが。
「……そうします」
 ちょっとしょぼくれた表情を浮かべて安寿は立ち上がり……。
「幸せって何でしょうか…?」
「別に幸せじゃなくても人は生きていけるから心配することはないな…」
 指先で眼鏡を押し上げ、安寿は涙を拭いながらすんと鼻を鳴らした。
「……真面目に応えてくださったのに無視された方がマシだと感じてしまうのは何故でしょう…」
「幸せじゃなくても人は生きていけますが、それだと生きていくだけしかできませんから……と言い返すぐらいの機転はないのか」
 安寿がぱちぱちっと瞬きをして青山の顔を凝視し……ポケットからメモ帳を取りだしてずずいっと青山に詰め寄った。
「すみませんっ、もう一度っ、もう一度お願いします…」
「別に幸せじゃなくても人は…」
「その後、その後っ」
「……」
「口に出すのが嫌なら、ここに、このメモにちょちょいっと書いてくださるだけでっ」
 有無を言わさず青山にメモ帳を押しつけると、安寿は胸の前で手を組み、わくわくという擬音がぴったりの表情でじっと青山を見つめた。
「……自覚のなさそうな大物か」
 青山はため息をつき、どこからともなく取りだしたペンをメモ帳に走らせると、メモ帳を安寿に返した。
「ありがとうございます」
 安寿には珍しくキビキビとした動きで深くお辞儀をし、メモ帳を見て……肩を落とした。
「……意地悪しないでください〜」
「本当に思い出せないのなら書いてやってもいいが…」
 青山はちょっと言葉を切り、空を見上げた。
「…ちゃんと覚えているのに、確認する必要はないだろう」
 安寿がすっと手を伸ばしかけた瞬間、青山がさり気なく距離をとった。
「……?」
 ちょっと首をひねり、安寿が口を開いた。
「何故、逃げるんですか?」
「何故、手を伸ばそうとした?」
 再び首をひねる安寿。
「いえ……なんで、私が覚えてるってわかったのかなと思いまして」
「それと、俺の背中に何か関係があるのか?」
 三度安寿は首をひねり、うかがうような視線を青山に向けた。
「あの…さっきの言葉ですけど、ここぞと言う時の私の決めぜりふとして使用してよろしいですか?」
「言葉は誰のモノでもないからな……しかし、あんな台詞を決めぜりふに使えるような状況が何度もあるとは思えないが…」
「ありがとうございます〜♪」
 青山の皮肉に気がついているのかいないのか、にっこりと微笑んで安寿は深々と頭を下げた……まま、一歩青山に近寄ると、頭を上げ、周囲を見渡し、1つ頷く。
「えいっ」
 すかっ。
 安寿のタックルはむなしく空を切った。
「……何の真似だ?」
「こうなったら奥の手です…」
 安寿はいきなりあらぬ方向を指さしながらそちらに視線を向け……たのはほんの一瞬、すぐに視線を戻したのだが、そこに青山の姿がない事に気付いて目をパチパチとしばたたかせた。
「消えた……という事はやはり」
「後ろにいるんだが」
「わっ」
 安寿は文字通り飛び上がって驚き、着地と同時にくるりと後ろを振り返った。
「……あんなフェイントにひっかかるのは宮坂ぐらいだ」
 安寿はちょっと微笑むと、きょろきょろと周囲を見渡して屋上に誰もいないことを確認してから首を振った。
「青山さんが、監視者だったんですね?」
「……監視者?」
 青山がちょっと眉を動かす。
「背中に触られるのを嫌がったり、人の心を読んだり、一瞬で姿を消したり……なるほどなるほど……そういえば、術が解けたりもしましたし」
 うんうんと何度も頷く安寿に、青山は微妙な視線を向けた。
「……天野?」
「あれ……でも、それだと変ですねえ?」
 青山に視線を向けつつ、安寿は首をひねった。
「青山さん」
「何だ?」
「私の名前はご存じですか?」
「天野安寿」
「……はて?」
 逆の方向に首をひねって安寿。
「監視者の方に術がかかるはずもないし……あぁ」
 ポンと手を打って、安寿は頷いた。
「かかったフリですね」
「……墓穴体質か」
 ぼそりと青山が呟いたが、安寿には聞こえてないようだ。
「でもでも、私の監視者にしては登場の仕方が……とすると、私ではない誰かを監視してたわけで……はっ」
 安寿は弾かれたように顔を上げ……たが、すぐに肩をすくめて首を振る。
「違いますよねえ……有崎さんの事なら何度も確かめましたし」
 安寿はますます首をひねり……ふっと不安げな表情を浮かべて青山を見た。
「あの、さっき姿を消したのって…」
「天野の視線がよそを向いた瞬間、死角に回りこみながら位置を移動しただけだが」
「せ、背中を触られるのから逃げたのは…」
「天野の行動の意図が読めなかったからだが……害意は感じなかったが、避けられる危険は避けておくに越したことはない」
「わ、私のやることが読んだのって…」
「別に俺じゃなくても、有崎や秋谷でもわかったと思うが…」
「……」
 安寿の額に汗が浮かび……大きくため息をついた。
「あ、危なかったです……有崎さんの時と同じ間違いをしてしまうところでした…」
「……とりあえず誤解が解けたようで何よりだが」
 ちょっと首を傾げ、今度は青山がうかがうような視線を安寿に向けた。
「……1つ、聞いていいか?」
「はい?」
 青山にしては珍しい、どこか自信のなさそうな表情を浮かべて……ぽつりと。
「ひょっとして……天野は…その、天使なのか?」
 ぶわさぁっ。
 突如、安寿の背中に白い翼が出現した。
「な、ななななななっ、何を言ってるんですか?て、天使なんて、天使なんてみんないないって言うんですよ…」
 激しく動揺しているのか、安寿は視線をあらぬ方向に泳がせながら、ばっさばっさと翼をはためかせながら必死で弁明を続ける。
「『僕の天使はキミだよ…』とか、『キミの笑顔はまさに天使だね…』とか言う人はみんな変なところに私を連れて行こうとするし……えっと、天使なんて誰も信じてないし、いないに決まってますよ……あうっ」
 どうやら自分の弁明に傷ついたらしく、安寿がその場にしゃがみ込む……あいも変わらず翼をばさばさとはためかせつつ。
「……天野」
「はっ……まさか、青山さんも私を妙なところに連れ込もうと…」
「とりあえず、背中の翼をどうにかしてからモノを言え」
「背中…?」
 安寿は肩越しに振り返り……びっくりしたのか、翼をばっさばっさばっさと激しく羽ばたかせた。
「ち、違うんですよ…こ、これはですね……そう、玩具屋さんで2980円で売ってたんです…本物の羽毛を使っていて手触り抜群、安眠にはもってこいのですね…」
「ほう…どこで売ってた?」
「う……売り切れました〜♪私が最初で最後、限定一名様だったんです〜♪」
 ばっさばっさ。
「天野…」
「あんまり嬉しかったから、こうやっていつも身につけてます〜♪」
 ばっさばっさ。
「いや…」
「動きますよ〜♪」
 ばっさばっさ。
 そして10分後。
 安寿は顔を真っ赤にして青山に詰め寄っていた。
「な、何でですか、一体誰が青山さんに天使の記憶を残したままにしたんですか…」
 青山は無造作に手を伸ばし、安寿の額にでこピンを打ち込んだ。
「〜〜〜〜〜っ!?」
 ばっさばっさばっさばっさばっさ……。
「…とりあえず冷静になれ」
「……冷静になりました」
 額を押さえながら立ち上がり、涙をにじませた目でじっと青山を見つめる安寿……が、両手をあげようとした瞬間、青山は華麗なステップワークで安寿の右斜め後ろへと移動した。
 ぱちん。
「あれ?」
 誰もいない場所に向かっての猫だましの音がむなしく響く。
「……何をする気だ?」
「そっちですかっ」
 と、振り向いて再び猫だまし……は、むなしく空を切る。
「いや、だから…」
「今度はそっちっ」
 ぱちん。
「おい…」
 ぱちん。
 ぱちん、ぱちん、ぱちん、ぱちん……どびしっ。
「〜〜〜〜〜っ!?」
 青山に二発目のでこピンを叩き込まれ、安寿が両手で額を押さえてしゃがみ込んだ。
「あ、頭がわれそうに痛いです〜」
「……こっちは、違う意味で頭痛がひどいんだが」
 こめかみに手を当てて、青山がちょっとため息をつく……もちろん、安寿から視線を外すことなく、隙は与えていない。
「ん……そうか、この間の事から察するに記憶操作の能力を持ってるんだな」
「はい……申し訳ありませんが、記憶を消させてください…」
「まあ、とりあえず俺の話を聞け…」
「話を聞いたら、記憶を消させてくれますか…?」
「とりあえず話を聞け」
 青山がでこピンの構えをすると、安寿は大きく深呼吸しながら怪しげな構えをとった。
「こ、こうなったら本気を出します…」
「そうか、今までのは本気じゃなかったのか…」
「か、覚悟ですっ、青山さんっ!」
 
 キーンコーンカーンコーン……。
 昼休みを告げるチャイムと共に、まずは紗智と麻里絵が教室に戻ってきた。
「あれ、尚斗ったらまたいない…」
「……もう、サボってばっかりなんだから」
 ため息をついた麻里絵の額を、紗智が指先でちょっとはじく。
「まあ、今日に限れば1限から4限までサボった私達が言うのはどうかと……っていうか」
 今度は紗智がため息をつく。
「秋谷さんに天野さん、青山君までいないってのは…」
 教壇から見て、右手前のスペースが完全に空白地帯。
「……えっと、私達のサボりが目立たなくなってラッキー…かな?」
「いや、多分余計に目立ってると思うけど…」
 紗智はちょっと首を振り、気を取り直すように自分の頬をぺちぺちと叩いた。
「ま、大事の前の小事よね…」
「……何が大事なんですか?」
「わっ」
 机と机の合間を、半回転しながら器用に飛び退った紗智……に胡散臭そうな視線を向け、結花が呟く。
「……心にやましいモノがある人間特有のリアクションですね」
「い、いきなり声かけられたら誰でもびっくりするわよ…」
「まさかと思いますが、明日は有崎さんに一日中はりついてるなんて馬鹿な事考えてたりはしないですよね」
「……」
「……」
 顔を見合わせた紗智と麻里絵に、結花は小さくため息をついた。
「あんまり偉そうな事言える立場じゃありませんけど……自分がやりたい事と、してあげたい事は、似て非なるモノじゃないですか?」
 言葉を切り、結花はちらりと麻里絵を見る。
「ま、それはそれとして、有崎さんはいないんでしょうか?」
「どこかでサボってるみたいだよ…」
「……相変わらずですね」
 わかったように呟いた結花の言葉にちょっと眉をひそめたが、それが目の錯覚であったかのように麻里絵の表情はすぐに微笑みへと変化する。
「そうだね……この一ヶ月、半分ぐらいしか授業出てないんじゃないかな」
「それはそれで、ちょっと問題ありそうですけど…」
 結花は小さく頷き、紗智と麻里絵に向かってぺこりと頭を下げた。
「お手数をとらせました、失礼します…」
「あ、うん…お役に立てなくてゴメンね」
「いいえ、気にしないでください…」
 結花はもう一度頭を下げ、教室を出ていった。
「……麻里絵」
「なあに?」
「何をにこやかに応対してるのよ…っ?」
 麻里絵が振り返った瞬間、紗智は口をつぐんだ。
 顔こそ笑っているが、目が全く笑っていない事に気付いたからだ。そして、麻里絵は物覚えの悪い生徒を諭す教師のような口調で呟く。
「紗智……無理に警戒させる必要ないでしょ」
「ま、麻里絵…さん?」
 この子は誰?という表情を浮かべた紗智に、麻里絵は口元を隠してくすりと笑いながら言った。
「紗智……子供の頃の尚斗くんって、1人で行動するときも多かったけど、一緒に遊ぶ相手は大抵私やみちろーくんばっかりだったんだよ」
「……は?」
「私はともかく……尚斗くんは行動範囲が広かったし、すぐに友達の10人や20人は出来ておかしくなかったのにね」
「……え?」
「……何でだろうね」
 そう呟き、麻里絵はにこっと微笑んだ。
 
「ところでさ…」
 箸を置き、弥生は世羽子に視線を向けて言った。
「世羽子と有崎ってどういうなれそめでつき合い始めたの?」
「あ、それは私も興味あるかな…」
 興味半分、及び腰半分といった感じに温子が頷くが……世羽子は手を止めることなく、淡々と食事を続けて黙殺する。
「……弥生ちゃん。世羽子ちゃんは、あまりそれに触れられたくないみたいだけど」
「何で?」
 弥生が不思議そうに世羽子を見つめた。
「だって、有崎の方から……いたたたたっ」
 箸先で耳を引っ張られ、弥生が悲鳴を上げた。
「あ、ゴメン弥生……おかずと間違えたわ」
「そんなの間違えるわけ……」
 あたかもチャックを閉じられたかのように、弥生の口がピタッと閉まる。
「耳だから良かったわね……鼻や口、目とかと間違えたら大変だし」
 微かに微笑みながら世羽子がウエットティッシュで箸を拭いた……のだが。
「……それは、意外というか」
 そう呟いた温子に、弥生は勇者に対するような視線を、そして世羽子は微妙な視線を向けた。
「んー…」
 温子は顎の先に人差し指をあてて首をひねった。
「有崎君が世羽子ちゃんに告白、世羽子ちゃんがそれを受ける……なんか、ピンとこないのよねぇ……いたたたたっ」
「触れられたくないのがわかってるなら、ちょっとは遠慮して」
「ご、ごめん…考え始めると止まらなくて…」
 世羽子はため息をつき、つまんでいた温子の耳を放した。
「……すんだ事よ」
「世羽子ちゃん、人は歴史を学ぶことで同じ過ちを繰り返さないように……痛いっ、痛いってば…」
「あのね…」
「だからっ」
 温子は涙目で続けた。
「弥生ちゃんは、有崎君と世羽子ちゃんという歴史から何らかの教訓を得たいと思ってるんだってば」
「……あぁ、なるほど」
 世羽子は小さく頷いて温子の耳を放すと、顔を真っ赤にして俯いている弥生に視線を向けた。
「ご、ごめん…世羽子」
「別にそれは構わないけど……」
 世羽子はちょっと遠い目をしてぽつりと呟いた。
「……どう考えても、尚斗にとっての私の印象って最悪だったはずなのよ」
 弥生はチラリと温子を、温子はチラリと弥生を……先を促せと、視線で押し合いもみ合いし、温子が勝利を収めた。
「え、えっと…」
 弥生は腫れ物に触るように口を開いた。
「ど、どういうこと…かな?」
「思いっきり、ぶん殴ったもの……まあ、初対面と言って差し支えなかった状態で」
「な、殴ったって…?」
「ふむ、有崎君は世羽子ちゃんのパンチ力に惚れたのだ…いたたたっ」
 こめかみをひくつかせながら、温子の耳を引っ張る世羽子。
「……弥生はともかく、そろそろ気付きなさいよ温子」
「わかった、わかったから…世羽子ちゃんにも良くわからないんだね…」
 
「……気は済んだか?」
「て、天使のプライドがぼろぼろです〜」
 額の真ん中を真っ赤に腫れ上がらせた安寿は、眼鏡をちょっと持ち上げて涙を拭う。
 術さえかけてしまえば……と思った安寿だったが、青山の動きが自分のソレを遥かに凌駕し、しかもこっちが何をやろうとしているのかがわかっているかのように先手先手を取られる事を幾度となく繰り返し。
「まあ、とりあえず冷やせ…」
 どこからともなく取りだしたハンカチを、これまたどこからともなく取りだしたペットボトルの中身で濡らして安寿の額にあててやる青山。
「お、お世話になります…」
「とりあえず、話を聞く気になったか…」
「はい……でも」
 安寿はちょっと首をひねり。
「青山さんって…なんか術のかかりが普通の人よりも悪いような…」
「……そのあたりは多分、これから話す内容に関係があると思う」
「はあ…」
 安寿は曖昧に頷き、腫れあがった部分に手を当てた……と、みるみる腫れが引いていった。
「……余計なお世話だったか」
「あ、いえ、そんなつもりじゃ……すみません」
「まあ、別に構わないが…」
 ちょっと恐縮しながら、安寿は青山の隣に並ぶように屋上の手すりにもたれた。
「……何故俺が天使を知っていたかというと」
「天使を知っていたかというと?」
 冷たい風に吹かれながら、安寿は青山の言葉を繰り返す。
「俺の母親が天使だった」
「ダウトです〜♪」
 青山を指さし、安寿がぐっと胸を張った……が、青山に指をつかまれてスッ転ばされてしまう。
「人の顔を指さすのはやめた方がいいぞ」
「……だからといって、いきなりスッ転ばすのはどうかと思いますが…」
 安寿は眼鏡の位置を調節しながら立ち上がり、スカートのすそをパンパンとはたいた。
「天使なら避けろ」
「天使だからって何でも出来るワケじゃないです〜」
 安寿は抗議するようにちょっと口をとがらせ……しょぼんと肩を落とした。
「それに私……下っ端というか、天使失格のレベルらしいので…」
「そうだろうな」
「そんな力強く肯定しなくても…」
 安寿の肩がさらに下がる。
「話を戻すが」
「ビジネスライクですねえ…」
「いきなりダウトと断言するからには、それなりの確証があるわけだな?」
「……ひょっとして」
 安寿はちょっと気の毒そうに呟いた。
「『知ってる?お母さんって本当は天使だったの…』なんて言葉を真に受けて……」
「……育ったような人間に見えるのか、俺が?」
 安寿はふるふると首を振った……が、納得いかない感じで口を開いた。
「じゃ、じゃあ…何故母親が天使だと?」
「自分の正体が天使だと告白されただけじゃなく、翼も見せられたし、空も飛んでみせたが?」
「……」
「後、俺の能力は人間として明らかに異常……と言っても、有崎の母親みたいな人もいるからアレだが」
「あ、あの…」
 安寿がおずおずときり出した。
「やっぱり母親が天使ってのは納得いかないんですが…」
「だから、その根拠は何だ?」
 安寿がこころもち顔を赤らめながら言った。
「あ、あのですね……天使って、子供を産めないんです…」
「ほう、天野は試したことあるのか?」
「な、なななないですけどっ」
 顔を真っ赤にして。
「そう教えられましたし、実際子供の天使なんて見たこと無いです……というか、私は天使として現れた瞬間からこの姿です」
「……ふうん」
 曖昧に頷いた青山の目がちょっと光った。
「天使には子供が産めないとすると……天使は、死なない?」
「……死にはしませんけど…滅多にないことらしいですけど…」
 ひどく哀しそうな表情を浮かべ、安寿が呟いた。
「……消えるだけです」
「聞かれたくないことを聞いたようだな」
「いえ…」
 力無く首を振った安寿から視線を逸らし、青山は西の空を見つめた。
「ちなみに、俺の母親は6年ほど前に死んだが……これも、天使ではないという理由になるか」
「……ですね」
「まあ確かに、育てて貰った記憶はあるが産んで貰った記憶はないしな……どこかの赤ん坊をワケあって天使が育てていたという事でも無い……か」
 青山はちょっと首をひねり……喉仏に手を当てながら呟いた。
「……$¥*%#&、@:”&」
「……っ!?」
 弾かれたように安寿が顔を上げる。
「な、何故…青山さんが?」
「息を引き取る直前、母親が言った言葉で……世界の主要言語を調べても該当するモノはない」
 青山が安寿に視線を向けた。
「あまり発音に自信はなかったが、やっぱり天野達が使う言葉か?」
「……はい」
 西の空を見つめながら、青山が呟く。
「さて……ややこしいことになってきたな」
「あ、う……やっぱり天使のような気がしてきました…」
 自信なさそうに安寿がうなだれた。
「で……どういう意味なんだ?」
「あ、はい…『幸運を祈ります、息子よ…』という感じかと」
「……?」
「……青山さん?」
「人間の常識で言うと、言語ってのは日常生活に密接した事柄について発展していくんだがな……子供がいないのに、『息子』という言葉があるのか?」
 安寿はため息をつきながら弁明した。
「ちょっと意訳したんです……『幸運を祈ります』の後は、『宝物』とか『大事なモノ』というのが本来の意味なんですが……すみません」
「なるほど…」
「あの、こう言ったら身も蓋もないですけど、母親は母親で……天使だろうが人間だろうが…ですね」
「考えが浅いな」
「あ、浅い…ですか?」
 教師にしかられたような表情を浮かべて安寿は首をひねった。
「まあ、差し迫った問題じゃないが……ラバやレオポンには生殖能力がないだろ」
「は?」
「いや、俺の母親が天使だった場合、俺はキメラなワケで……遺伝工学的に考えると」
「勘弁してください〜」
 安寿が両手で耳をふさぎ、深々と頭を下げる……はてなマークが背後で飛び回っているのが目に見えるよう。
「わかった、簡潔に言う」
「助かります」
「母親が天使だった場合、俺には生殖能力が無い可能性が高い……一応、中学の時に病院で検査はしてもらったが……正直、あてにできないだろうし」
 安寿は青山の視線から顔を背け……顔を真っ赤にしながら呟いた。
「あの、えっと……不能なんですか?」
 青山がちょっとよろめく。
「わっ、わっ、すみません〜えっと、気にしないのが一番というか、リラックスというか……」
 安寿さん、それをさらに勘違い。(笑)
「……天野、生殖能力がないという意味をちょっと勘違いしてないか?」
「え、えっ?」
 
「……わざわざ自分が天使であることを告白した理由は、俺に生殖能力がないという事を自覚させる為だと思ったんだが」
「で、でもでも……天使は子供を産めないです」
「……試したこと無いんだろ?」
「な、ないですけどっ!?」
 安寿の顔が真っ赤になる。
「……とすると、天使は子供が産めないと誰かが思いこませていると考えることも出来るが?」
「……」
「……というか、天使が子供が産めるとなると、何か困ることが起きるとでも…」
「あっ」
 安寿が弾かれたように顔を上げ……青山の視線に気付いて慌てて口を手で隠す。
「何でもないです〜♪」
 にこにこと微笑みつつ。
「……」
「え、えっと…」
 青山がすっとでこピンの構えを取った。
「ぼ、暴力反対です…」
「天野、暴力は人種や民族を越えた唯一無二の絶対言語だ」
「か、哀しいこと言わないでください〜」
 ふるふると首を振り、安寿は渋々と口を開いた。
「あの、ですね……もしそうだとすれば…ひょっとしてなんですが、天使はみなさんの幸せを祈ることが出来なくなるかも知れません」
「……?」
 安寿はちょっと顔を赤らめ、青山の視線を避けるようにして呟いた。
「あ、後で絶対に記憶を消しますからね…絶対ですよ」
「ああ、わかった」
 誠実さの欠片も感じさせない口調で青山が頷く。
「私……今、天使としてかなりまずいというか…特定の人のために祈ることしかできないと言うか」
「有崎に惚れてしまったと」
 ぶわさぁっ。
 安寿の翼、再び出現。
「な、なななんでそれをっ!?」
「おや?」
 青山が首をひねる。
「考えてみると、有崎は天野が天使だということを知ってる感じだな……何故、記憶を消さない?俺と違って、有崎なら無抵抗で消させてくれる筈だが」
 安寿がちょっと恥ずかしげに俯いた。
「あ、あのですね……忘れたいと思ってることは簡単に消せるというか……天使なんているはずがないと思ってる人は、天使であることがばれても全然平気というか…」
 安寿が青山に背中を向けて言った。
「翼、見えますよね?」
「ああ」
「消しますよ〜」
 と、安寿の翼が空気に溶け込むようにして消えてしまう。
「手で触ってみてください」
「消えてるが?」
 翼があった場所を青山の手がむなしく通過する。
「いえ、翼はそこにあるんです……多分、青山さんなら強く認識すれば触れるかと…わわっわっ…」
「なるほど…」
 見えない翼を撫で回しながら、青山は頷いた。
「く、くすぐったいです…」
「ああ、悪い…」
 青山の手が離れると、安寿は振り返った。
「翼なんてない……みなさんがそう思いこんでるから見えなくも出来るし、触れなくも出来るんです……人に働きかける類の私達の力は、人の思いと私達の祈りが源ですので」
「……とすると、有崎が天野のことを忘れたくなかったと?」
「わっわっわっ…そ、そうじゃなくて……」
「あぁ、逆なんだな…天野が、有崎に忘れられたくなかったのか…」
 安寿はがっくりとうなだれ、顔に縦線を入れた表情でぶつぶつと呟きだした。
「……私、青山さんが嫌いになりました」
「別に俺は気にしないが」
 安寿が再びため息をつく。
「青山さんの側にいる有崎さんは天使のような人です…」
「……あぁ、なるほど」
 青山はちょっと頷き、ぽつりと呟いた。
「実は……有崎の母親も父親も天使なんだが」
「ほ、ほんとうですかぁ〜」
「なるほど、天使も自分の希望に添った嘘には騙されやすいワケか……ちなみに、父親はともかくあの人は天使と言うより悪魔のような人だったが」
「はっ」
 騙されたことに気付いたのか、安寿が哀しそうに眉をひそめた。
「う〜」
「意地悪な質問なんだが」
「これ以上ですか…」
「もし、有崎が天野と一緒にいたいと願ったとして……それはやはり叶えられない願いのか?」
「……天使ですから、それは…ちょっと」
「でも、天野としては有崎と一緒にいたいように見えるが…」
 安寿はますます困ったような表情を浮かべ、ゆっくりと首を振った。
「そろそろ……記憶消しますよ」
「母親に関する記憶は勘弁してくれ…」
「え、抵抗しないんですか…?」
「俺が一番知りたかったのは……最後に何を言い残したか、だからな」
「……多分、忘れさせようとしても無駄でしょうからいいですよ」
 安寿が青山の目の前でゆっくりと手を叩く。
 ぱちん。
 
 ぽつ、ぽつ、ぽつ…と、灰色に染まった空から白い粒が落ち始める。
「あ、降ってきた…」
 下校途中の生徒が、1人、2人と空を見上げ、それにつられてまた数人が足を止めて視線を空へ。
「ふふっ、明日はホワイトバレンタインって事ね」
「……弥生ちゃん、その言い方は変」
「まあ、いいんじゃない…っていうか弥生、今夜は手作りするのよね?」
 と、これは校門を通りすぎたところの温子と弥生と世羽子。
 
「夏樹様、雪ですよ〜」
「あら、ホント…」
 バレンタイン公演を前日に控え、準備に余念のない演劇部員だったが、手を休めて窓の外に視線を向ける。
「予報で大雪って言ってましたけど…」
「あんまり降ると、それはそれで困るわね…」
 結花と夏樹が苦笑を浮かべる。
 
 凍える指先に白い息をはきかけ、小さな身体を一杯に力ませて植木鉢を温室内に運び入れようとする御子が、ふと空を見上げる。
「……雪」
 ぽつりと呟く御子の足下に、黒猫がすり寄って小さく鳴いた。
「なーぉ」
 
 パソコン教室で、雪が降りだしたことにも気付かない紗智と麻里絵。
「いい、麻里絵。明日は7時に集合だからね」
「わかってるから…」
 そう応えつつ、立ち上がる麻里絵。
「麻里絵…?」
「ちょっとね…演劇部でものぞきに行こうかなって」
 麻里絵がにっこりと微笑んだ。
 
「冷えると思ったら…結局、終わりも雪か…」
「……何が終わるんですか?」
「何が……って、香月?」
「無事に終わると良いですね、男子校の工事」
 あいも変わらず保健室で、タバコをふかす水無月と穏やかな表情で思考を巡らせ続ける冴子。
 
「……ええ、手はず通りお願い」
 携帯片手に、嫣然と微笑む綺羅……その瞳は窓の外に向けられて。
 
 そして、屋上に1人佇んだまま空を見上げ続ける安寿。
「私は……」
 目尻に雪の粒が落ち、溶けて流れていくそれは涙のようで。
 
 それぞれの思いを乗せて、静かに、静かに重なっていく白い雪。
 
 
                  完
 
 
 さて……ここまで来たか。(笑)

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