「ふう……」
図書室の一角で、夏樹がため息をついた。
その視線は机の上に置かれた本に……とはいえ、本を読んでいるわけでもなく、何が書かれているかを認識できてさえいないのだが。
整った目鼻立ちに、すっきりとシャープな顎のライン。
女子校内における人気の高さという点では他の追随を許さない夏樹だが、敢えて欠点を上げるとすれば……外見的に親しみやすい部分があまり無いというところか。
ましてや、何か思い悩むように眉がひそめられていたりすればそれは尚更で。
「夏樹様…何か、お悩みになっているみたい…」
あまり人が多いわけではないが、図書室を出ていこうとする生徒の3人に1人が、心配そうに夏樹を見つめ、声をかけることも出来ずにその場を立ち去っていく。
もちろん、今の夏樹にまわりなんか全然見えていない……そのため、自分の姿がまわりにどう映っているかに気付くこともなく。
ちなみに、夏樹を考え込ませているのは後2日と迫ったバレンタイン公演について……のワケはない。
「結花ちゃんと有崎君…」
無意識にか、ぽつりと呟く。
「あの2人をくっつける方法……」
大切な恩人……というと結花は複雑な表情を浮かべるだろうが、演劇部云々の話ではなくて、結花に個人的な恩返しがしたい。そう思っていた夏樹にとって、今回の話はすっぽ抜けのカーブがど真ん中に入って来たようなモノで。
背の高さだったり、凛々しい外見だったり……それをコンプレックスに感じていた夏樹にとって結花はある意味で自分の理想のような女の子。
そんな結花の恋が上手くいかないなど、夏樹にとってはあってはならないというか……2人の仲を取り持とうという夏樹の気持ちの中には色々と微妙なモノが混ざり込んでいるのだが、冴子はともかくとして当の夏樹は未だそれに気付くこともなく。
『有崎君…?ああ、いい相手だと思うわよ……それなりの苦労はするでしょうけど』
夏樹自身も尚斗のことはいい人だと思う……が、なんと言ってもこれまでほとんど男性に接してこなかっただけに、いまいち客観性に欠けるのではないか。
そう思って冴子に聞きに言った時の返答がこれで。
あの、気むずかしくて人間嫌いと思われる冴子でさえ誉めた……それは夏樹の心のアクセルを踏みつけこそすれ、ブレーキを踏むような判断材料であるはずもなく。
もちろん、夏樹は冴子の言った『それなりの苦労』の意味を間違えていた……いや、敢えて間違えそうな表現を冴子がしたのだが。
「……くっつけると言っても」
恋愛経験がない、誰かの恋愛を手助けしたこともない……それ以前に、生粋の女子校育ちで、街を歩いていたら男の子に声をかけられた……などと、クラスメイトがごく当たり前に話している事さえ経験したことがない夏樹。
もちろん、声をかけられないのは夏樹が思いこんでいるのとは別の理由だが。
ため息をつきながらぽつりと呟く。
「自分の書く小説だったら…」
いくらでも上手くいくのに……その言葉をのみ込み、夏樹は昨日の騒動を思い出す。
「5人…いたわよね、昨日」
再度ため息をつきながら。
「何人……結花ちゃんのライバルになるのかしら」
キーンコーンカーンコーン…
「……はぁ、やっと終わった」
こんなモノ、という感じに紗智がバケツを床に置く。
「……う、腕がだるいよ…」
いくら中身が入ってないとはいえ、何も運動してない麻里絵にとっていつもと違う姿勢、および、軽いとはいえずっと負荷のかかった状態はなかなかに厳しかったようだ。
「あぁ、マッサージしてあげるから…」
と、紗智が麻里絵の二の腕をつかんでゆっくりと揉みほぐす。
ふにふにふにふに…。
ちょっと首を傾げ。
「……ねえ、麻里絵」
「何?」
「振り袖になってるよ…」
つかまれていた腕を麻里絵が慌てて引き抜いた。
「ふ、ふふふ普通だもん…このぐらい」
「……じゃあ、はい」
紗智が突き出した腕を麻里絵がおそるおそるつかむ。
すっきり。
「……」
「……どう?」
「さ、さささ紗智は脂肪少なすぎだよ…そ、そんなだから、胸も…」
がすっ。
「〜〜っ!」
「なんか言った?」
「な、何も言ってないよ…」
頭を押さえたまま、涙目の麻里絵が首を振る。
「麻里絵、言っていいことと悪いことが…」
「……同感ね」
「……っ!?」
紗智が慌ててそちらを振り返った時、既に世羽子は歩き出していて。
「……?」
「ねえ、紗智」
「何よ?」
「秋谷さんも……少し胸のあたりが寂しい人だよね」
がすっ。
「〜〜〜〜っっ!!」
「『も』って何よ、『も』って。ちょっと自分がナイスバディだと思って……って、あ、いいのか別に」
「……?」
爽やかな笑みを浮かべて紗智が軽くガッツポーズをとった。
「尚斗は秋谷さんとつき合ってたわけだから……おっけー、私の体型全然おっけー、スレンダー万歳っ」
「な、ななな尚斗君は別に体型がどうだとかで誰かを好きになったり…」
がすっ、ごすっ。
「〜〜〜っ!」「〜〜〜っっ!!」
紗智と麻里絵が頭を押さえてしゃがみ込む。
「アンタ達……先週ぐらいから、羞恥心とかの大事なモノをどこかに忘れてきてない?」
そう言って、世羽子はため息をついた。
「ねえ、温子」
「なあに、弥生ちゃん?」
「温子は……その、今までに何人も男の子とつき合ってきたわけだよね」
弁当箱のサイズに合わせた小さな俵むすびを口に運び、温子は面倒くさそうに呟いた。
「なんかひどく誤解を受けそうな言い方だけど……まあね」
「温子から見て……有崎って、どういうタイプが好きそうに見える?」
「聞いてどうするの?」
「どうもしない……私は私だから」
窓の外に視線を向けたまま弥生は心あらずと言った感じで言葉を続ける。
「変わっていくのはともかく…無理に変わろうとは思わないから」
「ふむふむ……」
温子はちょっと頷き、高校生になった娘の弁当にタコさんウインナーを入れる母のセンスに絶望しつつ呟く。
「……有崎君がそれを求めたら?」
「ん……そういうのはなんか違う気がする」
「……?」
「今の私は、今の有崎がいいと思ってて……上手く言えないけど、何かが変わったら、他のものも変わっていくのが当たり前と思う」
「ふむふむ……哲学だね」
温子は鶏の唐揚げの皮の部分を器用にはがし、素知らぬふりをしてそれを弥生の弁当箱に置いた。
「子供の頃から花ばっかり見てたせいかなあ……こう、永遠に変わらないモノなんて信用できないし、無いと思ってるから」
弥生はちょっとため息をつき、言葉を続けた。
「1年後…ひょっとしたら、半年後……私は、有崎のことをなんとも思ってないかも知れない……だから、今の気持ちを大事にしたいな」
「……じゃ、大事にすれば?」
弥生がちょっと口を尖らせた。
「そりゃ、大事にはするけど、他にも大事にしなきゃいけないモノがあるでしょ。有崎の気持ちや、世羽子の気持ち……」
微妙な表情を浮かべて口ごもった弥生に温子がちょっと視線を向けた。
「どうかしたの、弥生ちゃん?」
「あー…なんというか…その…」
弥生ががしがしと髪の毛を掻きむしる。
「……世界は混沌に満ちてるのよ」
「……世界が混沌に包まれてることは否定しないけど、会話のつながりがちょっと変」
楽しげなネタを見つけたゴシップ記者の表情をして、温子が弥生に顔を近づけた。
「何があったの?」
「……あんまり言いたくない」
「んー…」
温子はちょっと目を閉じた。
「『あんまり言いたくない…』か……弥生ちゃんの性格と価値観からすると、それは弥生ちゃん自身の問題でも他人の問題でもないって事だね……ふむ、いわゆる親しい人間というか身内の……」
今度は温子が黙り込む。
「……温子」
「……いい天気だね、弥生ちゃん」
弥生の視線から顔を背けながら。
「でも、明日の晩から天気が崩れて雪になるとか…」
「温子、そこまで言いかけて黙るのは優しさでもなんでもないから」
温子が大きくため息をついて。
「……弥生ちゃんって、1つ下の妹がいたよね」
「いるわよ……御子って言うの、可愛いわよ」
「そうだよね……私の勘違いじゃないんだよね」
「ええ…」
「……可愛いの?」
「すっごく」
ちょっと誇らしげに弥生が頷き、温子は再びため息をついた。
「弥生ちゃん……何をどうやったら、そんなややこしいことになるの?」
「有崎に言ってよ、有崎に…」
弥生は苦虫を纏めて噛みつぶしたような表情で呟いた。
「……大丈夫か、麻里絵?」
「結局、昼休みまで教室に戻ってこなかった尚斗君に心配されたくないよ…」
ぶつぶつと呟きながら、麻里絵は二の腕をさする。
「…と言うか、麻里絵はちょっと運動した方がいいかもね」
「確かに……空のバケツ持ってそれじゃあな」
紗智の言葉に尚斗が頷く。
「う、運動って言ったって…」
「犬の散歩なんか良いんじゃないか……リードとか持ってると、結構力を使うとか聞いたことが…」
「あはは」
いきなり紗智が笑い出す。
「紗智っ」
「だって、麻里絵って昔犬に引きずられてぼろぼろに…」
「言ったらダメだってば」
紗智は口元に例の笑いを浮かべて麻里絵の視線を黙殺し、尚斗の肩を叩きながら言った。
「いや、私の家って犬飼ってて……グレートピレネー犬なんだけど」
「……よくわからんが、でかそうな名前だな」
「みちろーが飼ってた犬より大きい種類」
「そりゃでかい」
紗智は笑いを堪えるように言葉を続けた。
「散歩させてみたい…って言ったはいいけど」
「言わないでってば」
「えー」
紗智が手で口元を隠しながら意地悪な微笑みを浮かべる。
「や、なんとなくわかった…」
尚斗はちょっとため息をつき、麻里絵を見た。
「そんなになってもリードを手放さなかったのは一応誉められるべきかと」
「あ、う、うん…」
「……リードを手首に巻き付けてて外れなかっただけ」
そっぽを向いて、紗智がさり気なく呟く。
「だって、あの子ちっとも言うこと聞いてくれないんだもんっ」
「あはは……でも、最近いい具合に枯れてきたからまったりと散歩できるかもね」
「そういや……いろんな犬と散歩が出来るとかいう所があるって聞いたことがあるな」
「あ、そこ知ってるよ…ここからだと1時間ぐらいかかるかな」
なにやら楽しげに麻里絵……に、どこか冷めた口調で紗智が呟く。
「基本入園料が800円、犬の散歩は種類にもよるけど1周で大体500円」
「う…」
「人気の犬は大抵待ち時間が長くて、人気のない犬は散歩が嬉しいのか元気良く走り回ってすぐに終わっちゃう……いやいや、良くできてるわね」
資本主義って奴はこれだから、などとうそぶきながら紗智がワケもなく頷いたり。
「……紗智、ちょっといい?」
「え?」
紗智と麻里絵は尚斗のそばを離れ、肩を寄せ合ってひそひそと。
「……一時休戦じゃなかったの?」
「そりゃそうだけど……お小遣いないから、今小技きかしても意味ないんじゃない?」
「そ、それは…そう…なんだけど」
紗智が麻里絵の首根っこをつかみ、頬が触れあうぐらいまでに顔を引き寄せた。
「いいこと、麻里絵……シャッターチャンスってのは、他人に写真を撮らさない瞬間のことなのよ」
「え、え?」
「自分が良い写真を獲れるときは、他人も同じように良い写真が撮れるものなのよ…」
自分の言葉に自分で納得しているかのように頷きながら。
「大事なのは、他人に写真を撮らせないこと。自分が写真を撮ることを考えるよりそれが先決……大体、尚斗が男子校に戻っちゃえば女子校とつながりもなくなって……秋谷さんはともかく、麻里絵と私の独壇場になるでしょ、勝負はそこから」
「そ、そう…かな?」
「そうなの。だから、今は私達が争っている場合じゃないというか…」
ちらりと、肩越しに尚斗を見て。
「こういうのを、カルテルって言うの」
「う、うん…わかった…」
そう言って頷いた麻里絵の顔は、確実にわかっていなかった。
5時限目が終わった後、彼女が入ってきた瞬間、教室内がざわめいた……ただし、ざわめきのほとんどが女生徒で。
「夏樹様…」
「夏樹様だ…」
そんな声に気付いているのかいないのか、夏樹は教室内をちょっと見渡すと、お目当ての人物を見つけて真っ直ぐそこに向かった。
「こんにちは、有崎くん…」
「…珍しいですね、夏樹さん」
「と言うか…初めてだけど」
夏樹がおかしそうにちょっと笑った。
「で、今日は……」
尚斗は口ごもり、ちょっと表情をあらためて言った。
「まさか、演劇部の方で問題が…?」
「あ、ううん、そうじゃなくて……」
夏樹はちょっと恥ずかしげに周囲を見渡し、尚斗にだけ聞こえるように呟いた。
「ちょっと聞きたいことがあって、屋上に来てくれるかしら……えっと、しばらくしてから」
「はあ、いいですけど…」
6時限目の授業が始まってから5分ほど経って、尚斗はいつものように教室を出た……そして真っ直ぐに屋上へと。
ぎぃ…と、鉄製のドアが軋んだ瞬間、夏樹の顔がこちらに振り向く。
「お待たせしました」
「あ、ううん…私、こういう場所嫌いじゃないし」
にこやかに首を振る夏樹の態度からすると、尚斗に気を使ったというワケでもないのかもしれない。
「……で、何でしょうか?」
「あ、うん……あのね」
口に手をあて、恥ずかしそうに顔を背けながら。
「その…昨日の事なんだけど」
「ああ…」
尚斗は曖昧に頷いた。
「ちびっこならさっきというか、4時限目が始まる前に会いましたよ。ハイテンションというか何というか、公演が近いせいか、感情的に浮き沈み激しいみたいですね…」
「……やっぱり」
夏樹はちょっとため息をついた。
昨日結花と話したことで、自分がそういう方面に関して鈍いことをあらためて認識はしたが……目の前の少年が、さらに強者であることを漠然と悟ったからだ。
「まあ、フォローしてやりたいところですが……ここまで来て素人があれこれするのも何だし、気心の知れてる夏樹さんが気をかけてくれたらと思いますが…」
夏樹は尚斗に向かって嬉しそうに微笑んだ。
「そう……有崎くんは、結花ちゃんをフォローしてあげたいって思ってくれてるんだ」
「そりゃまあ…」
ちょっと照れたように呟く尚斗の反応に、夏樹は心の中で『手を出すまでもなくイイカンジみたい…』などと考えた。
「ちびっこと来たら、器用だけど不器用で、目一杯頑張り屋で……失敗させられないでしょう」
「そうっ、そうなのよ」
まるで自分が誉められたように夏樹が大きく頷いた。
「結花ちゃん、すごく成績いいし、仕事もてきぱきこなすからちょっと勘違いされてるような所があるけど……頑張り屋さんというか、ちょっと性格的に不器用というか……本質的にちょっと人見知りするタイプなのよね」
「……ですよねえ」
「今でこそ演劇部もある程度まとまってるけど、去年の結花ちゃんはつらかったと思うわ……」
「まあ…中学生にてきぱきと指図されたら、角も立つというか…」
尚斗の言葉を聞いて、夏樹がびっくりしたような表情を浮かべた。
「結花ちゃん、そんなことまで有崎くんに話したの?」
「あ、いや……話したというか何というか……」
じょにーの秘密レポートで知ったとは言いにくいのか、尚斗が言葉を濁す……が、夏樹は本当に嬉しそうに微笑んで。
「そっか…結花ちゃんは本当に有崎くんを信頼してるのね…」
「信頼というか……何となく、懐いてくれたなという感じはありますが」
懐く……という表現に多少ひっかかったが、夏樹はあまり気にしないことにした。
「……良かった」
「え?」
「ううん……さっきも言ったけど、結花ちゃんって、ちょっと誤解されやすいところがあるから」
尚斗に向かって微笑みながら。
「有崎くんは……ちゃんとわかってくれてるんだって思って」
「は、はあ…」
微妙に会話が食い違っているような気がして、尚斗は曖昧に頷く。
「でも、それなら大丈夫よね……」
小さく頷く夏樹は本当に嬉しそうで。
「……?」
「あ、そうそう…ちびっこじゃなくて、結花ちゃんって呼んであげて……有崎くんに悪気がないのはわかるけど、背が低いことを気にしてるから…」
「ゆ、結花ちゃん…ですか?」
それはそれで反対に怒り出しそうな気がしないでも……という言葉をのみ込みつつ。
「くす…」
夏樹がちょっと思い出したように笑った。
「考えてみれば、私…有崎くんに『夏樹ちゃん』って呼ばれたのよね…」
「んー……こう言ったら失礼ですけど、今でもあんまり年上って気がしないです…」
「それは…喜んでいいのかな」
言葉とは裏腹に、夏樹の顔は微笑んで。
「そっか……有崎くんには、なんか恥ずかしいところばかり見せちゃったかもね…」
ぬいぐるみに、原稿、台詞の練習……。
夏樹が今さらながら顔を赤くする。
「やだっ、考えてみたら本当に恥ずかしいところばかり…」
「いや、あの絶妙のフェイントは大したレベルだと思いますよ……世羽子といい勝負というか」
「もうっ……な、なんか結花ちゃんじゃなくて私が誤解されてるような…」
バタン。
勢いよく開かれた扉とは対照的に、ゆっくりと綺羅が姿を現した。
「……う」
半ば無意識に尚斗が半歩後退る。
「有崎尚斗君」
にっこりと微笑みながら。
「あまり授業をお休みすると、出席日数が危ないですよ」
「いえ、一応そのあたりは計算してます」
これ以上俺に関わらないでくださいという気持ちが滲み出るような口調と表情で尚斗。
ちなみに、尚斗が今日出席した授業は5時限目だけだったり。
「……ぁ」
何かに気付いたように、夏樹が口元を手で隠した。
「そっか……3年生は受験シーズンで自習ばっかりだけど」
ちょっと困ったような表情を浮かべ、夏樹は尚斗に向かって頭を下げた。
「ご、ごめんなさい…私、自分達が自習ばっかりだから勘違いして……授業休ませちゃった…」
「え?」
夏樹は怪訝そうな表情を浮かべた尚斗に背を向け、今度は綺羅に向かって頭を下げる。
「すみませんでした藤本先生」
「あ…別に橘さんを責めてるワケじゃないんですよ」
綺羅はちょっと慌てたように。
「というか、、別に授業の1つや2つ…」
気にしないでいいですよ……と、言いかけた尚斗を振り返り、夏樹が首を振る。
「私のせいだから…」
夏樹の真剣な表情に敬意を表して、尚斗もまた綺羅に向かって頭を下げることにした。
「えっと、一応体調が悪かったという事でここは1つ…」
「え、体調が悪かったのっ!?」
弾かれたように頭を上げ、夏樹が心配そうに尚斗を見る。
「いや、そうじゃなくて…」
尚斗は苦笑を浮かべ、これまであまり実感はしてなかったが、夏樹は本当にお嬢さまなんだな……と納得する。
考えてみれば、紗智や世羽子、冴子に麻里絵……安寿はもちろんとして、この女子校では異質なグループなのだろう。
「夏樹さん、俺はサボりの常習犯ですからどうってこと無いです……夏樹さんのせい、なんて言われると背中がくすぐったくなりますって」
気にするな、という風に夏樹の肩をポンと叩いて。
「じゃ、授業に戻りますけど……藤本先生は、受け持ちの授業無いんですか?」
「先生はこの時間お休みですのよ…」
「なるほど、じゃあ俺はこれで…」
尚斗は魚をくわえたドラ猫のごとく、綺羅の隣をすり抜けるようにして屋上から姿を消した。
「……何やら青山君のせいで、どんどん深みにはまっていくような」
空を見上げ、綺羅がため息混じりに呟く。
冬にしては珍しく風がほとんど感じられないが、空に浮かぶ雲の動きは早い……おそらく、上空にはかなりの風が吹いているのだろう。
「あ、あの…藤本先生…?」
「……はい、なんでしょうか橘さん?」
「有崎くんの出席日数が危ないって…」
「ああ、それは……少しオーバーというか」
穏やかに、いつもの微笑みを浮かべながら綺羅。
「ただ、教師……という視点で言うなら、彼はちょっと問題のある生徒と言わなければいけないですね」
「そう……なんですか?」
意外そうに夏樹が首をひねった。
そんな夏樹をちょっと見つめ。
「有崎君は…学校とか社会で決められているルールより自分の中に抱えているルールを大事にしてるというか」
「……わかる、気がします」
「それだけの事です……彼が言ったとおり、橘さんが気に病む必要はないですよ」
そう言って、綺羅は再び空を見上げた。
「……と言うわけで」
顔を真っ赤にした結花を前に、夏樹が言った。
「大丈夫、結花ちゃんなら絶対に大丈夫…」
「で、ででででもですね…」
公演を2日後に控え、衣装合わせや小道具製作の最終段階、台詞合わせ等であたふたとしている演劇部員を後目に、ある意味余裕かましまくりの夏樹と結花。
「結花ちゃん」
結花の目を見つめながら、夏樹が結花の手をギュッと握った。
「2日後は、ほら…バレンタインだし……チャンスじゃないかな」
「そ、そそそれはそうですけど……公演がありますし…」
結花自身初舞台でもあるし、とりあえずここは公演に全力投球しなければ……そんな結花の言い分はもっともで。
「でも、結花ちゃん……有崎くんが男子校に戻ったら……会いに行くのも大変だと思うけど…」
「そうですか?」
結花が小首を傾げた。
小柄な結花が夏樹を見上げながらそうしている様は、どことなく小鳥を思わせて。
「別に、有崎さんの連絡先も知ってますし、家も学校の近所ですし、会いに行こうと思えばいつでも会えますけど……」
「彼の家って……この近くなの?」
「徒歩通学ですよ、あの人」
夏樹はくすっと笑い、結花の顔を覗き込む。
「くわしいのね、結花ちゃん」
「べ、べべ別に、詳しいも何も……チョコパン1つで大抵のことは…」
「……チョコパン?」
「あ、いえ……夏樹様はお知りになられない方が」
結花は首を振り、何気なくパチンと指を鳴らした。
「……我が名はじょにー、お呼びとあらば……ん」
閉じていた目をゆっくりと開く……と、そこは一面の雪原。
「お、おぉ…」
ギシギシと関節を軋ませるようにして身体を起こすと、宮坂はゆっくり頭を振った。
「……そうだ、雪崩に……表層雪崩で運が良かった…な」
身体が冷え切っているのはもちろんのこと、どのぐらい気を失っていたのか、雲一つなかった青空は今や一面の雪雲に覆われていて。
右手、左手、右足、左足、肘、肩、膝……気を失うまでは最大限の努力を尽くしたおかげか、それなりのダメージはあるが負傷していない事を確認。
「さて、帰るか……」
コキコキッと首を鳴らし、宮坂は何の問題もなさそうな口調で呟いた。
「……にしても」
宮坂は自分が倒れていた場所を振り返る。
「……本格的に天候が崩れる前に目が覚めてラッキーだったな」
完
余談ですが、タイトルは『ああっ、夏樹様』の方が良かったでしょうか。(笑)
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