ピンポーン。
「今朝は誰だよ、親父」
「……ふむ、御子ちゃんでもさっちゃんでもなさそうだが」
「さっちゃんって……ああそうか、この前会ったような事言ってたな」
「なかなか気配りのきく、いい娘さんに見えたが?」
 ちょっとうかがうような視線を尚斗に向ける父。
「傍若無人に振る舞ってそれを隠そうとはしてるけどな…」
「ふ…ん」
「……さて、今朝は一体誰なんだか」
 腰を上げ、尚斗は玄関へと向かい……ドアを開けた。
 ガチャ。
「おはようございます尚斗君……」
 バタン、ガチャ。
「……鍵までかけるのはあんまりではないでしょうか?」
 ドアの向こうから、ちょっと先生ムッとしてます……な綺羅の声が響く。
「教師が、生徒を迎えに来てどうしますか?」
「尚斗君の授業の出席率が悪いので、これは登校拒否の徴候ではないかと……担任として見過ごしておけないと思いまして」
「その事については怒られても仕方ないですが、今さらというか……後3日でしょう」
「あら?」
 綺羅のそれを聞いた瞬間、尚斗はイヤな予感がした。
「あら、まあ…そうでしたの」
「藤本先生…?」
「なるほど……邪魔はしないというのは…本当でしたのね」
「あの……1人で納得されると気になるんですが」
「いえ、別に何でもありませんわ……では、ごきげんよう」
 しばらくして、家の前から車が発進する音が聞こえた。
 
「みなさま…」
 いつもと同じ気品のある声で。
「おはようございます」
「おはようございます…」
 繰り返される朝の風景。
「くっ…やっぱり…ダメだ…」
「だから、耳ふさいで頭だけ下げとけよ…」
 尚斗と青山のやりとりもいつもと同じで。
「では、出席をとる前に……」
 綺羅は紗智と麻里絵に視線を向け、にっこりと微笑んだ。
「一ノ瀬さん、椎名さん、昼休みまで、廊下に立ってなさい」
「ろ、廊下ですかっ!高校生にもなって…」
「紗智、仕方ないよ……行こう」
「う、まあ…そうだけど…」
 麻里絵に引っ張られるようにして立ち上がる紗智。
 そんな2人の様子に微笑みつつ、綺羅は付け加えた。
「ドアの所にバケツを4個用意しておきましたから」
「バケツッ!?」
「ま、まさか…」
 さすがに麻里絵の表情もひきつって。
「あ、さすがに水は入ってませんよ…それと、休み時間も無しですから」
 綺羅は楽しそうに付け足した。
「用事が出来たときは、教師に許可を貰ってくださいね」
 『トイレ』と直接言わないのは男子生徒がいる故の配慮なのか。
「休み無しって……休み時間も……格好わる…」
 花も恥じらうじょしこーせーが、バケツを持って廊下に立たされて……そんな姿をさらしまくるのは紗智にとってなかなかに試練のようで。
「まあ…そのぐらいですめば御の字だよ」
 そう囁いた麻里絵の表情は、紗智よりも多少明るい……が、やはり教室を出ていく2人の足取りは『とぼとぼ』という擬音がぴったりで。
 2人が廊下でバケツを持ったのを確認すると、綺羅は何事もなかったかのように出席を取り始めた。
 女子は世羽子から、男子は青山から……よどみなく読み上げられる名前と返事が、宮坂のところで滞った。
「宮坂君……は、今日もお休みですか」
 連休を挟んではいるが、先週の木曜、金曜、土曜と学校を休んでいて……早い話、尚斗が暴走しかけた次の日から、今日で4日連続の休みと言うことになる。
 もちろん、先週の木曜に関しては学校に来なかっただけで、その日の昼までは綺羅と連絡を取りつつ東へ西へと奔走していたのだが……綺羅が青山の提案をのんでからというものぱったりと音信が途絶え。(笑)
 綺羅がちょっと青山に視線を向けた。
「……何か?」
「い、いいえ……」
 綺羅は慌てて首を振り……それでも、おずおずと切り出した。
「宮坂君は……その、恩を返そうと思って行動したことですので…できれば…」
「……俺じゃなく、有崎に説明してやってください」
「……?」
「宮坂が休んでるのは、俺がどうこうしてるわけじゃなく、多分誰かさんの怒りが収まるのをひたすら待っているだけでしょうから」
 青山の隣の席で世羽子がぼそっと呟く。
「……尚斗の怒りが収まったら連絡してやるから……とか言ったんじゃないの?」
「我を忘れてないだけで、まだ怒ってるからな…」
「誰が何と言おうと、俺は『本気で』宮坂を5発は殴るぞ」
 そう言った尚斗が固く握りしめた右拳をちょっと持ち上げると、教室内の男子だけがシーンと静まりかえった。
「……と言うワケです、藤本先生」
「そうですね、いくら宮坂君でも……ちょっと」
 綺羅はちょっと眉をひそめ……そして、尚斗に向かって言った。
「有崎尚斗君……後で、ちょっとお時間いただけますか?」
 
「とりあえず、宮坂の馬鹿と藤本先生はウチの連中がここに間借りする事になった前からの知り合いって事ですよね?」
「それは今から話します……が、何から話せばよいかと」
 綺羅はちょっと困ったように口ごもった……もちろん、自分にとって都合の悪いことを抜いて、話を再構成する時間を稼いでいるだけのことだが。
「えっと…」
 綺羅はちょっとうかがうような視線を尚斗に向け、口を開いた。
「宮坂君が物心つく前にご両親をなくされたことは…?」
「一応、知ってます」
「では……彼が施設に預けられた経緯などは…?」
 尚斗はちょっと首を傾げて言った。
「俺は……親戚の家にやっかいになってると聞きましたが」
「そうですか……」
 綺羅はちょっと俯き、ため息をついた。
「彼のプライベートについては、また聞きですので詳しく知りませんが、彼は、その…ご両親の親戚の家をたらい回しにされて……結局施設に預けられたというか、彼の状況を見かねた人が自分の経営する施設に彼を引き取る格好だったとか」
「……で、その経営者が藤本先生の知り合いとか?」
 綺羅は言葉を探すようにちょっと俯いた。
「そういうワケではありませんが……その手の施設は、大抵誰かの好意によって支えられていることが多くて」
「……?」
「つまり、いろんな事情で好意の提供者がいなくなったとき、施設の運営が不可能になったりする事があって……宮坂君が育った施設も例外ではなく」
 尚斗はちょっと首をひねり。
「……藤本先生が、代わりに好意を提供した?」
「純粋な好意とは言い難いですが、その施設がそこで消滅する事は免れました……私が、中学生の時の事です」
「中学生……ですか?」
 だとすると、宮坂が小学校に入るか入らないかという頃か。
「本家の跡取りが無能でしたから……その、自分を売り込むチャンスを得たと思って、その施設を救済することによるメリットとデメリットをお祖父様に示して…」
「いや、えっと……藤本先生のプライベートに触れるつもりは」
「それはそれで少し哀しいのですが…」
 綺羅がちょっとうなだれた。
「と、とりあえず、宮坂とはその時に…?」
「私が大学の2年の時……どこでどう調べたのか、わざわざお礼を言いに来たんです……宮坂君にとって、その施設の経営者は母というか……家族の全てだったのかも知れません」
 尚斗はちょっと顔を上げ……言った。
「じゃあ、施設は…」
「経営者の方が亡くなられて結局は……薄情と思われるでしょうが、その施設の件は私にとってのきっかけに過ぎませんでしたから、宮坂君から聞かされるまで知りもしませんでした」
 綺羅はそう言って首を振り、尚斗が視線で先を促した。
「『この恩はいつか必ず…』そう言い残して……まあ、その時は適当に聞き流してましたが」
 尚斗の視線から顔を背けつつ。
「いつ……宮坂と再会しました?」
「その…尚斗君は気付いてなかったみたいですが、時間を見つけては尚斗君の生活ぶりを観察したりしていましたの……その時ばったりと。私はうろ覚えでしたが、宮坂君は一目で私だと気付いたようで」
「……」
「ですから、尚斗君の高校生活に関してはほぼ遺漏なく情報を集めることが……どうかしましたか?」
「い、いえ……ちょっと頭痛が…」
 7年の長きに渡ったストーカー行為……水無月の苦労が否応なしにリアルさを増して尚斗の肩にのしかかる。
 ふ、と頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてみた。
「まさかとは思いますが、世羽子の件って…」
「……その質問が出ると言うことは、成績優秀者による複数受験をご存じでしたか」
 綺羅はため息をつき、首を振った。
「偶然ですね…秋谷さんも、お母様のご病気がなかったら首を縦に振ることもなかったでしょうし、この学校が遠く離れているわけでもありませんし……秋谷さんがこの地域でトップだったのも偶然ですし…」
 綺羅の言葉を素直に受け取り、尚斗は頭を下げた。
「すみません……邪推でした」
「……あまり他言は」
「しませんよ……世羽子が話したわけでもないです」
「……ですね」
 ふ、と尚斗が首を傾げた。
「あれ…?」
「……何か?」
「今気付きましたが、そんなワケないですよね」
 綺羅は尚斗をうかがうように見つめる。
「昔から、俺のことを調べてたとすれば……青山にケンカなんか売れるわけないですし」
「…ちっ」
「今、『ちっ』とか言いませんでしたかっ!?」
「あら、もう2月も半ばですもの…」
 綺羅はゆったりとした仕草で、窓の方に身体を向けた。
「きっと鳥の鳴き声と勘違いされたんでしょう…」
「俺の目を見て話しましょうよ、藤本先生」
「尚斗君ったら、私の気持ちを知っててそんな意地悪を…」
「いや……えっと、確かに女性の顔に肘は……すみませんでした」
 そう言って頭を下げた尚斗を見て、綺羅は『この子どこの国の言葉を使ってるのかしら?』という表情を浮かべた。
「……あぁ」
 綺羅はため息のような声を出すと、尚斗に気付かれないように、例の傷を髪の生え際に素早く貼り付けた。
「……思いだしたんですのね」
「思い出したんですけどね……アレはほとんど犯罪じゃないですか?」
 と、顔を上げた尚斗に近づき、綺羅は顔を寄せて例の傷を突きつけた。
「傷……残りましたのよ」
「……っ」
 唇を震わせつつも、尚斗は傷から視線を逸らさなかった……視線を逸らすことが、自分のやったことから逃げる事と同じと思っているかのように。
 綺羅は手で押さえていた前髪を放して傷を隠した。
「こうしているとあまり目立ちませんけどね…」
 ちょっと言葉を切り、綺羅は尚斗を見上げるような角度で顔を寄せた。
「…ぁ」
「みんな……そうやって傷に視線を向けますの」
 綺羅は尚斗に背を向け、窓際へと歩いていく……ほんの少しだけ肩を落としている姿勢が尚斗の心をぐさぐさ突き刺すのを計算しつつ。
「もう、本家の跡取りを蹴り落として事業にうちこむしか道はありませんでしたわ……意に添わぬ政略結婚の話が持ち上がらなくなったのは有り難かったですけど」
「……さっき、中学の時に自分を売り込むチャンスがどうとか言ってませんでしたか?時期的にちょっと合わないですけど」
「……」
「……藤本先生?」
「……え、えーと」
「『えーと?』ってなんですかっ、『えーと』ってのはっ!?」
 プルルル……。
「あ、あら電話が…尚斗君、ちょっとごめんなさいね」
 綺羅があたふたと携帯をとりだして、耳にあてた。
「はい……えっ?」
 いきなり綺羅の顔に緊張が走った。
 落ち着かない素振りで部屋の中にきょろきょろと視線を巡らせつつ、机の下とか壁をぱたぱたと叩きはじめる。
「……青山ですか?」
 綺羅は何も答えず、ぼそぼそと電話を続け。
「はい……わかりましたわ…」
 綺羅は大きくため息をつき、今度ばかりは演技ではなくほんとうに肩を落として尚斗と向き合う。
「……尚斗君」
「は、はい…?」
 白魚のような指先で例の傷をつまんではがし、精一杯の愛想笑いを浮かべて。
「軽い冗談……で、許してくれません……よね?」
 
「……おや?」
 保健室の入り口で、主…というと語弊があるが、水無月が居心地悪そうに立っているのを見つけて尚斗は近寄った。
「どうしました?」
「おお…」
 水無月は指先で眼鏡の位置を調節し、声を潜めた。
「香月に客が来ててな……あんまり他人には聞かれたくなさそうな話のようだ」
「……追い出されたんですか」
「アタシだってそのぐらいの気は使う…?」
 ちょっと首を傾げ、水無月は尚斗の顔を覗き込んだ。
「ちょっとご機嫌斜めのようだな…」
「まあ……俺に責任が無いとも言えないんですが、タチの悪い冗談を仕掛けられましてね…」
「……綺羅か」
「ええ、まあ……」
 曖昧に頷きかけたところで、保健室のドアがガララッと音をたてて開いた。
「おや、夏樹さん」
「え、あ、な、なんで…?」
 あたふたと夏樹。
「いや、通りがかったというか……」
「そ、そう……」
 夏樹はちょっと視線を泳がせ、思い出したように水無月に向かって頭を下げた。
「水無月先生、ありがとうございました…じゃ、じゃあね、有崎君」
 すたすたと早足でその場を去っていく夏樹の背中を見送っていると、水無月の視線を感じた。
「はい?」
「中に入らないのか……休んでいけ」
 単に通りがかっただけなのだが……それも良いかと思い。
「……じゃ、遠慮なく」
 水無月の後に続く。
「噂をすれば…ね」
 尚斗がやってくるのをわかっていたような感じで冴子が微笑んだ。
「え、夏樹さんの話って俺に関係した話ですか?」
「ふふ…」
 冴子は含み笑いを浮かべ、口元をちょっと手で隠した。
「話の中にキミは出てきたけど、表面上は夏樹に関係ないわね」
「……?」
 首をひねった尚斗を椅子に座らせ、冴子はいつものようにお茶を入れる準備を始めた。
「そうそう、この前撮ったキミの写真が出来てるわ…」
「……写真?」
「撮ったでしょ?」
「ああ、アレですか……」
「ちょっと待っててね…」
 さり気なく、それでいて洗練された仕草でお茶を入れると、冴子は封筒をポケットから取りだした。
「アレですか、自分で現像したりするんですか?」
「写真部の子は、みんな自分達でするわよ……現像代も馬鹿にならないし」
 尚斗はちょっと首をひねり、ぽつりと呟いた。
「……麻里絵も?」
「ゴメン、訂正するわね……ほとんど自分達でするわよ」
「やっぱ、麻里絵は冴子先輩に頼んでやってもらうってとこですか?」
 冴子がじっと尚斗の目を見つめた。
「……何か?」
「まあ……いいけど」
 冴子が封筒からとりだした写真を広げた。
「……狙ったように……というか、明らかに狙ってますね」
 写真はどれもこれも、尚斗が瞬きする瞬間ばかりのモノで……世間一般的な意味合いで、まともに映っているモノは一枚もなく。
「……完全に呼吸を読まれてるなあ…」
 感心しながら写真を見つめる尚斗の表情をじっと観察していた冴子だが、やがて小さくため息をついた。
「キミは……あまり写真を選ばない人なのかな」
「選ばないと言うか、こういう写真を撮られることになれてるというか……」
「……どういう意味?」
「まあ、ウチの母親は……俺が寝てる間に素っ裸にして写真を撮ったり、鼻から牛乳を噴いた瞬間を撮ったり……子供の頃の俺のアルバムは、そういう意味だと悲惨なモノです」
「イヤじゃ……なかったの?」
 尚斗はちょっと苦笑しつつ。
「そりゃイヤでしたよ、大体なんのためにそんな嫌がらせみたいな事をとか思ってました……」
「……続き、ありそうね」
「中学にあがって……その、家に連れてきた彼女に母親が嬉しそうにアルバムを見せるんですよ……」
「それは……災難だったわね」
「で、母親が言うんですよ……」
 尚斗はちょっと言葉を切り……窓の外に視線を向けながら続けた。
「『お前が気分良く感じる写真も、気分が悪くなる写真も、お前の写真には変わりないだろう…それを彼女に隠してどうする』……って」
 冴子はちょっと目を細めて呟いた。
「なるほど……ね」
 それまで黙ってお茶を飲んでいた水無月が静かに立ち上がり、そのまま保健室を出ていく……気を使ったというより、他人の会話を聞いている状態に耐えられないタイプなのか。
「どんな写真であろうと……写真そのものは事実には違いないってワケね」
「母親に言わせると、人の心はカメラみたいなモノだそうで」
「へえ…」
「人によって、また状況によって違う写真を撮られるだろうけど……自分にとって都合の良い写真だけを信じるのはもちろん、そういう写真を撮ってくれる人間だけをまわりに集めるな……と」
「……」
「……死なれてからですね、母親の言葉の意味がわかり始めてきたのは」
「直接答を教えるのが嫌いだったんでしょうね、キミのお母さんは…」
「とことん理不尽で、まわりの人間は結構悪く言いましたけどね……俺にとってはいい母親でしたよ」
 冴子は黙ってお茶を飲むと、珍しい事にコトッと音をたてて湯飲みをテーブルの上に置いた。
「……その教えを守って、どんな写真を撮られても受け入れる……と?」
「一応そのつもりはありますけどね…」
 そう呟き、尚斗はちょっと笑った。
「そりゃ限度がありますし……そこまで人間出来てないですよ、俺」
 冴子がちょっと笑い、ポケットから違う写真を撮りだした。
「こういうのは…」
 冴子が言い終わるよりも早く、尚斗はその写真を奪いとってビリビリと破いた。
「あらら…」
「……どこから手に入れました?」
 忘れかけていた心の傷のかさぶたをはがされて、尚斗はやや剣呑な雰囲気を漂わせながら聞いた。
「写真じゃなくて、妖しげな映像がこそこそと出回ってるみたいね……さっきの写真は、それを撮って、ちょっと加工したんだけど」
「すみませんね、人間出来てなくて…」
「まあ、写真云々じゃなくて、でっち上げに近いモノだし……いいんじゃないかしら?」
 破られた写真を全部拾い上げると、冴子はそれをゴミ箱に捨てた。
「……一度お会いしてみたかったわ、キミのお母さん」
「青山は、いきなりバケツで水をぶっかけられましたよ」
「……いきなり?」
 冴子には珍しい驚きの表情。
「ええ、『へえ、キミが青山君?』とか言いながら持ってたバケツを問答無用で…」
「……何故?」
「さあ……俺のレベルで、母親の行動規範を理解するのはちょっと」
 尚斗はちょっとため息をつき。
「青山は何かしら理解できたみたいですけどね……俺には無理です」
「ふーん…」
 冴子は曖昧な返事をし、ちらっと尚斗に視線を向けた。
「キミは……私にお節介するつもりはないの?」
「何か、困ってることでもあるんですか?」
 冴子はしばらく尚斗を見つめ、そして大きくため息をついた。
「……本当に鋭いね、キミは」
「水無月先生や夏樹さん、本気で心配してるみたいですけど…」
「でしょうね……水無月センセはともかく、夏樹は私の発作を何度が見ちゃってるわけだから」
「……」
「それと……耐えられるようにはなったけど、やっぱり気に入った人間以外とは接したくないし、大勢の視線に晒されると気分が悪くなるのは事実だもの」
 冴子は椅子の背もたれに背中を預け、天井に視線を向けた。
「……医者まで騙してるのに、キミはなんでわかったの?」
「何となくですね。それに、冴子先輩ぐらい頭が良ければヒントすら残さないはずだなあと……ただ、裏の裏という可能性もあるから、自信はないです」
「あははっ」
 天井を見つめていた冴子が身体を折り曲げて笑った。
「キミ、他人を心配するのも良いけど、自分が置かれてる状況を把握してる?」
「は?」
 口元を押さえ、意地悪そうな表情を浮かべて冴子は尚斗の顔を覗き込んだ。
「近い将来、きっと酷い目に遭うわね…」
「酷い目……ですか?」
「私の親友が……さて、どう出るかが問題だけど」
 
「……ねえ、紗智」
「何よ…?」
 廊下でバケツを持ったまま、授業中なのでひそひそと。
「私……授業受けるよりも、こうして立ってた方が楽かも」
「ま、麻里絵…」
 紗智は小さくため息をついた。
「今度、勉強見てあげるから……そういう事言わないでくれる?」
「……勉強できる人が憎い」
 ぽつりと麻里絵。
「な、何をいきなり…」
「昨日、気付いたの…」
「だから、何を…?」
「明後日、バレンタインなのに…」
 麻里絵の背中が少しずつ丸くなっていく。
「チョコを買うお小遣いもないの…」
 紗智は瞬間言葉を失い……気を取り直したように言った。
「そ、それはオーバーでしょ?」
「ううん…」
 麻里絵は首を振って。
「万が一のためのへそくりとか合わせても、尚斗君への借金が返せないの…」
「じゃあ、チョコぐらいは…」
 麻里絵の恨めしげな視線が紗智の口を閉じさせた。
「私の作戦だと、チョコを何個も買わないといけないし…」
「さ、作戦…?」
「それに……尚斗君にお金返してないと、借りたお金でチョコ買って渡してるみたいに思われるもん…」
「……」
 紗智はちょっと考え、なるほどと頷いた。
「そうね……どんな作戦考えてるか知らないけど、尚斗なら『それより金返せ』の一言で雰囲気をぶち壊してしまいそうよね…」
「そっか……紗智は、これ幸いと私を見捨てて1人だけ尚斗君にチョコ渡して……ぶつぶつぶつ…」
「くふふ、私を甘く見てもらっては困るわ…」
「え?」
「認めたくないけど、今の状態で私が本命チョコ渡しても勝算は限りなく低いと思うのよ……」
「……れ、冷静なんだね」
「一か八かじゃダメ、私はハンターになるのよ……相手を弱らせて弱らせて、獲物が獲れると確信するまでは…」
「……それ、臆病なだけじゃ…」
 ゴン。
「〜〜〜っ!」
 バケツを持ったまま器用に頭を押さえ、麻里絵がその場にしゃがみ込んだ。
「私のヨミではやっぱり秋谷さんが最右翼候補なのよ……それを阻止するためには」
 一旦言葉を切り、紗智は麻里絵を見た。
「一時休戦と言うことで」
 
「有崎さーん」
 すたたた……ぽふっ。
 駆け寄った勢いのまま尚斗の身体に抱きつき、ちょっと困ったような表情で尚斗の顔を見上げて。
「昨日は、すみませんでした」
「いや、俺は別に……っていうか、何やらご機嫌だな」
「ただの空元気ですよ」
「そ、そうか…?」
「嘘でーす」
 昨日の支離滅裂ぶりを考えると、今日のちびっこのノリは明らかにハイテンションというか。
「そういや、演劇部の方は…?」
「順調ですよ……男子生徒も、良く働いてくれてますし」
「そうか、それは何より」
 ここでちびっ子は尚斗から離れ、ちょっと申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません……有崎さんには色々お世話になっているのに、思い出したときはもうチケットが残ってなくて」
「あ、いや……14日って、俺ら結構忙しいんだ……ほら、男子校に戻る準備というか、荷物とか色々運ばなきゃいけないだろ?」
 結花が不思議そうに尚斗を見つめた。
「男子校の工事……終わったんですか?」
「え、いや…だって、2月14日に戻る予定って…工事が遅れたとも聞いてないし…」
「それはそうですけど……でも、一昨日にちょっと寄ってみたらまだシートで包まれてましたし、全然終わってないんじゃ…?」
 今度は尚斗がちょっと首を傾げ、ちびっこの顔を見つめた。
「なんで男子校の工事現場に?」
「べ、別に深い意味は無いですよ…」
 何やら結花は顔を赤らめながら言った。
「い、家とかならともかく、学校の校舎みたいな工事の様子ってあんまり見る機会がないですから、興味がわいただけで……こ、工事が遅れたらとか考えてたワケじゃないです」
「……この校舎の工事って、お前が中1の時に」
「流星パンチっ」
「その高さはっ」
 お腹ならともかく、ちびっこの体勢と身長が身長だけに尚斗は素早く腰を引いて直撃を逃れた。
「何をムキに…」
 自分のことを棚に上げ、そう呟きかけた結花が顔を真っ赤にする……どうやら、自分のパンチがどこに向かっていたか理解したらしい。
「す、すみません…」
「いや、避けたから別にいい……夏樹さんだと危なかったかもな」
「夏樹様は冗談抜きでお強いですから……中学の時、警備員に代わって不審者をうち倒したほどですし」
「……むう、ひょっとして『夏樹様』の下地はそのあたりか?」
「……ですね」
 尚斗はちょっと頷き、思い出したように言った。
「しかし、男子校の工事か……詳しくないから1ヶ月ってのが早いのか遅いのかよくわからんな」
「早すぎます…」
「いや、プレハブの仮校舎だし…早い話、組み上げるだけだろ?」
「仮校舎……ですか?」
 結花が尚斗を見つめた。
「仮校舎って事は、新しく校舎を建てるまでの校舎って事ですよね……じゃあ、シートがかかってたのは、そっちの工事ですか…」
 ちょっと寂しそうに、俯きながら呟く結花。
「……ん?」
「……なんでもないです」
 顔を上げた結花は、もういつもの表情で。
「じゃあ有崎さん、失礼します」
 
 その頃、某地方にて。
「……あっ!」
 冬山には珍しい快晴……美しくそびえ立つ山肌を双眼鏡で眺めていた男が悲鳴じみた声を上げた。
「どうした?」
「い、今…人みたいな黒い影が落ちた…」
「な、なんだって…?」
 
「くっくっくっ…」
 と、畳三畳分ほどのテラス(岩棚)から今自分が転げ落ちてきた壁を見上げて、宮坂が満足げな笑みをこぼす。
「青山はともかくとして……」
 宮坂がグッと両腕を天に突きあげて叫んだ。
「俺は、ついに有崎の打撃を越えたっっ!!」
 さあ、これで帰れる……と、もう一度見上げた壁に白い雲がかかった。
 いや、白い雲と思われたそれはあっというまに大きく広がって……
「雪崩ぇっ!?」
 ズドドドドド……宮坂の身体をのみ込んでいった。
 
 
                   完
 
 
 ちょっと気が緩みすぎました。(笑) 

前のページに戻る