「あの…おねーさん、俺、ここが降りる駅だから」
「あら偶然ね…私もこの駅で降りるのよ」
「あ、そうなんだ……」
 尚斗を胸に抱きしめたまま、少女がぽつりと呟く。
「ええ……と言うか、このままここにいると面倒なことになりそうですし」
「え?」
 尚斗が首をひねる……実際は少女に強く抱きしめられていてひねることは出来なかったのだが。
 ぷしゅー。
 周囲の誰かが駅員に連絡したのか、電車のドアが開いてから数秒経って尚斗達が乗っている車両に車掌がやってきた。
「……えと?」
 車掌はちょっと不思議そうに、その場で呻いている3人に視線を向ける。
「暴れていたのが……」
「こ、この3人です。この3人がそこの女子学生に絡んでいたのを…」
 と、サラリーマン風の男性が指さすよりも早く、少女は尚斗を抱きかかえたまま電車から飛び降りた。
 ぷしゅー。
「ごきげんよう…」
 尚斗を抱きかかえたまま、少女は優雅に頭を下げて電車を見送った。
「あの…?」
「悪いことをしていたのは向こうですのに、事情聴取だとかで手間をとられるのは道理に合いませんものね…」
「……そうじゃなくて、苦しいから放してよ」
「あらら、名残惜しいですのに…」
 少女は最後にちょっとだけ強く抱きしめ、それから尚斗を解放した。
「ぷは…」
 苦しかった……という風に子どもっぽい仕草で息を吐いた尚斗を、少女は目を細めながらじっと見つめる。
「あなたのお名前はなんておっしゃるのかしら?」
「なおとだよ」
「なおとくんね…お年はいくつ?」
「10歳」
 少女の視線が、尚斗の爪先から頭の先まで二度往復した。
「10歳にしては……あ、ごめんなさいね」
「いいよ、よく言われるから……でも、俺はこれから伸びるって母さんが言ってた」
 尚斗はちょっと背伸びして少女を見た。
「おねーさんは高いね」
「そうね……平均よりは」
 少女がちょっと微笑んだ。
「あの…おねーさん」
「何かしら?」
 尚斗はちょっと困ったような表情を浮かべて呟いた。
「ひょっとして……さっきは、よけーなお世話だったの?」
「まあ……何故そんなことを?」
 口元に手を当て、少女が意外そうに尋ねる。
「だって…おねーさん、強いんでしょ」
「そんなことはありませんわ……さっきだって、恐くて恐くて…」
「……」
 自分の中の警報装置に何かしらひっかかるモノを覚え、尚斗はごくさり気なく1足ほど少女から退いた。
「なおとくんは強いのね」
「そんなことないよ……さっきのだって、運が良かっただけだから」
 尚斗はちょっと俯き、言葉を続けた。
「ほんとの勝負なら、俺が負けてる……俺がちっちゃいからって、油断してだけだよ」
「……まあ」
 少女の声と肩が微かに震えた。
「あの3人の方が強いと思っていたのに…私を助けてくださったんですね」
 もう、この子可愛いっ…という感じに、少女が自分の身体をぎゅっと抱きしめる。
「ちがうよ、おねーさん」
「え?」
「困ってる人がいたら助けなきゃいけないんだよ」
「……」
「母さんがいつも言うんだ……うまくいきそうだからやるんじゃなくて、やらなきゃいけないときにやる人になれって。うまくいくかどうかだけを考えてると、大事なモノを見失うんだって」
 少女はちょっと微笑んだ。
「立派なお母様ですのね…」
「俺もそう思うけど…みんなはそう思ってないみたい」
「あら?」
「なんか……りふじんがのし歩いている人って言ってる」
「り、理不尽がのし歩く人ですか……」
「あと…じどーぎゃくたいとか……どっちも意味はよくわからないけど」
「児童……虐待…」
 少女がちょっと尚斗のセーターの袖をまくり上げた。
「なに?」
「……なおとくん、お腹にあざとかある?」
「今はないよ」
「……今は」
 少女が表情を曇らせた。
「えっと…なおとくんのお母様は、なおとくんを叩いたりするの?」
「うん、俺が悪いことしたらだけど」
「……たとえば?」
「ちょっと前だけど……川にゴミを捨てた人を何故黙ってみてた、アンタが拾ってこいって川の中に投げ込まれた」
「ごふっごふっごふっ…」
 尚斗の話を聞いて、少女が激しく咳きこんだ。
「そ、そそそそれは…」
「でもね、母さんも川に入って一緒にゴミを拾ったんだよ……子供の責任は親の責任だからって」
 少女はこめかみのあたりを指先で揉みほぐしながら、ぽつりと呟いた。
「た、確かに理不尽がのし歩いているという表現がぴったりというか…」
「……?」
 尚斗はちょっと首をひねり、思い出したように時計に目をやった。
「あ、もうこんな時間だ……おねーさん、俺そろそろ行くね」
 元気良く右手を振って、尚斗はその場から去った……のだが。
 てくてくてく…
 足を止め、尚斗はくるりと後ろを振り返って言った。
「おねーさん……まだなにか?」
「ううん、たまたまおねーさんおとなおとくんが行く方向が同じみたいね……」
「あ、そうなんだ…」
「せっかくだから、途中まで一緒に行きましょう」
「うん…いいけど」
 なんとなーく距離をとろうとした尚斗の手を少女がサッとつかんでしまう。
「わっわっ…」
「おねーさんと、手をつなぐのイヤかしら?」
「そ、そうじゃない…けど」
 なんかおねーさん恐いから……とは言わない。
「おねーさんね、今日はちょっと感動したの」
 つないだ手を振りながら。
「……?」
「自分の身の危険も顧みず、私を助けてくださったのは薫先輩以来のことでしたから」
「……かおるせんぱいって?」
「私と同じ学校の2年先輩の方なのですが……去年卒業してしまいまして。背が高くて心身共に凛々しいお人なのですわ」
「もう、会えない…の?」
「会えないと言うか、会っていただけないというか…」
「……?」
 尚斗はちょっと首をひねり……空き地の中で泣いている女の子を見つけてしまう。
「おねーさん、ちょっと放して…」
「一度つないだ手は、2人の同意がなければ放しちゃいけませんのよ」
 尚斗がちょっと手を振った……が少女の手はがっちりと尚斗の手を握り込んでいて外れる気配はまるでない。
「……じゃあ、一緒に来て」
 
「……なおとくん」
「なに?」
「なおとくんは……毎日毎日、こんなことをしてるの?」
「だって、困ってたり泣いてたりしたら助けてあげなきゃいけないというか……放っておけないよ」
 少女はちょっと疲れたような表情を浮かべ、小さくため息をついた。
「……それは正しいですが、何やら遭遇率が高すぎるような」
「……あ」
 尚斗に手を引っ張られ、少女はうんざりしたような口調で呟く。
「……今度は迷子ですか、それとも誰かいじめっ子にいじめられてるのですか、それともお使いのお金を落として困ってるのですか?」
「ううん、夕日が綺麗だよ…ほら」
 尚斗が指さす方向に、少女がちょっと視線を向けた。
「あら、本当に…」
「らっきーだね」
「……おねーさんとどっちが綺麗かしら?」
「父さんが、そういう意地悪な質問をするひととはつき合うなって言ってたけど…」
「……立派なお父様ですのね」
「俺はあんまりそう思わないけど、みんなはそう言ってる」
「……違う意味で、なおとくんのご両親のお顔を拝見したくなりました」
 尚斗がちょっと少女に視線を向けて言った。
「それより、おねーさんはどこに行くつもりなの?」
「……私としては、なおとくんがどこに行ってしまうのかが心配で」
「……家に帰るけど?」
「いえ、そうではなくて…」
 少女が疲れた表情でちょっと首を振る。
「こう……家庭環境があまり良くない気がして仕方がないのですが」
「……?」
「幼いながらもこんな素敵なナイトがねじくれて成長してしまうぐらいなら、いっそ今のうちに私が……」
 少女はちょっと口をつぐみ、尚斗に視線を向けた。
「……それも、アリですわね」
 首をひねりっぱなしの尚斗を無視して、少女はぶつぶつと呟き始めた。
「そうですわね、私の手元で純粋培養させた方が確実に……父親はともかく、母親はかなり問題ありそうですし…虐待の証拠を集めた上で、私の家でひきとるいう形にすれば……」
「あ、あの…おねーさん?」
 何やら得体の知れない不安を感じて、尚斗はしっかりと握られている手をブンブンと振るのだが、どうやら腕力的には尚斗よりも少女の方が上回っているようで。
「問題は……なおとくんが、ご両親ではなく私にひきとられたいという意志を見せられるかどうか…」
 少女は小さく頷くと、尚斗に向かってにっこりと微笑んだ。
「なおとくん、おねーさんとちょっといいことしましょうか?」
「おねーさん、俺、もう帰るから…」
「大丈夫…怖がることはないのよ」
 尚斗はつかまれている手を一度フェイクを入れてからぐっと回転させて逆の方に抜く事に成功した……が、つかまれた手を外すことに集中していたせいで、少女に背後を取られてしまう。
「これはなおとくんのためを思ってのことなの…」
 耳元でそう囁かれ、尚斗は反射的に後ろを振り返った……瞬間、催涙スプレーをふっかけられた。
「うわっ…」
「おとなしくしてね……」
 尚斗はバックステップで距離をとり、自分の手のひらに唾を吐いてそれでごしごしと目を擦り始めた。
「慌てずにそれをやるなおとくんもなおとくんだけど……そういう対処法を教えているあなたのお母様は、教育の仕方を間違ってると思うの」
 呆れたように呟き、少女は音もたてずに再び尚斗の背後に回りこむ。
「ど、どこに…?」
 微かに戻った視界を頼りに、尚斗の目が左、右と動いた……が。
「なおとくん…つーかまえたっ」
「うわわわっ」
 左右両腕を背中方向にねじ上げ、自分の左腕で両腕をロックしながら少女は尚斗の顎をつまんで後ろを振り向かせる。
「うふふ……」
「んーっ、んーっ!!」
 その瞬間、尚斗の力に合わせて抑え込んでいた少女の腕が弾かれる。
「え?」
 そんなはずはと、尚斗に視線を向けた少女はとんできた右手を慌てて受け流す。
「……っ?」
 追撃が跳んでくるより早く、少女は弾かれたように後ろにさがった。
「な、何…この子、いきなり強く…?」
 まだきちんと視界も戻っていないのに、尚斗は素早く少女の懐に潜り込み、右、左、右と、拳を突きあげる。
「……全部下からですから、ちょっと受け流しがやっかいですわね…」
 少女は華麗に連打をさばきつつ、尚斗がへばるのを待っていたのだが……連打の回転および、威力そのものがどんどんとあがっていく。
「ちょ、ちょっと……」
 根負けしそうになったのか、少女は無防備に見えた尚斗の下半身に足をとばした……が、尚斗はそれをさらりとかわし、反対に少女の足をかって体勢を崩させた。
「…っと」
 倒れるのはなんとか堪えた少女だったが、顔の位置が尚斗でも十分届く場所まで下がってしまい。
「…ぁ」
 死角から襲いかかる撃ちおろしの右肘を受けて少女は意識を失い……そして、尚斗はそれを確認することもなく駆け去っていった。
 
 ガタン、バタバタ、ガタタッ…
 玄関から聞こえてきた騒々しい音に、尚斗の母親が眉をひそめた。
「……尚斗?」
「……」
「帰ったらただいまを……何があったの?」
 玄関の片隅で膝を抱えてガタガタと震える尚斗を見て、母親がちょっと表情をあらためて問いただす。
「……」
「尚斗…?」
「な、なななんか……綺麗だけど変な女の人が、助けてからずっとついてきて……でも本当は強くて…」
「……ちょっと落ち着きなさい」
 そして10分後。
 母親は眉をひそめ、そして言った。
「尚斗……つまりアンタは女性に暴力を振るったんだね?しかも顔に向けて」
「だ、だって…」
「だってもへちまもないっ!」
 ぱあんっと、母親の平手が尚斗の横面を張り飛ばす……尚斗の身体が壁際までとばされるほどの尋常ではない打撃。
「どこに出しても恥ずかしくない男になるようにしつけてきたつもりなのに……」
 母親は大きくため息をつき、肩を震わせた。
「まだまだ甘かったって事なのね」
「……か、母さん。もっと話を聞いてよ…」
「アンタが手を出さざるをえなくなったのは、アンタが弱かったせいよ」
「で、でも…」
「アンタがもっと強かったら、手加減も出来たし、手を出さずにすませられた……違う?」
「そ、そう…だけど」
「じゃあ……歯を食いしばりなさい」
 母親の指がめきめきとイヤな音をたてはじめる……。
 
「う…うあ…」
「……青山君」
「なんだ、秋谷?」
「尚斗がうなされてるのって……全身を縛りつけられてるせいじゃないかしら?」
 全身を拘束したうえでロープでベッドに固定された尚斗にちょっとだけ視線を向けると、青山は首を振った。
「有崎が目を覚ましたとき、まだ大魔人状態だったらどうする?」
「そう……なんだけどね」
 世羽子はほおづえをついたままちょっとため息をつく。
「それより、青山君はこんなとこでぼんやりしてていいの?」
「……と、言うと?」
「さっきの話が全てじゃないだろうけど……このまますますつもりはないんでしょ?」
「ああ、その事なら……」
 青山がにやりと笑った。
「もう、仕込みはすんでるよ……そうだな、明日の昼休みあたりに、藤本先生の顔が真っ青になると思うが」
「……ちょっと、同情するわね」
「いや、必要ないな」
 何でもないことのように呟く青山にちらりと視線を向け、世羽子は探るように呟いた。
「女子校……潰したりしないでしょうね」
「それも考えたが…」
 青山がちょっとため息をつき、尚斗に視線を向ける。
「……避けられる危険は避けるに越したことはない……有崎の怒りの対象が俺個人に向けば、さすがにあしらえる自信はないな」
「そういえば……宮坂君…は、ほっといていいの?」
「あのぐらいで反省するタマじゃない……元々、付ける薬のないヤツだから」
「……ああ、逆手に取るのね」
 世羽子がちょっと頷くのを見て、青山が微笑んだ。
「逆手に取る……とは?」
「横領だか着服だか知らないけど、一旦取引に使ったネタをそのまま放置しておくほど青山君が間抜けだと思ってないわ……下手をすれば、自分達の弱味になりかねないし」
「……」
「男子校では公然の秘密なんでしょ?宮坂君が藤本先生にネタを売ったとすれば……それは物的証拠であるべきよね?青山君が1つのネタでずるずると脅迫を繰り返すとは思えないもの……取引に使ったネタは、保険をかけてから学校側に返した……それを知らずに、宮坂君がまた盗み出して……」
 世羽子の言葉を遮るように、青山がちょっと右手を挙げた。
「もういい…多分、秋谷が思ってるとおりだ」
「じゃあ……私そろそろ帰るから。夕飯の用意とかあるし」
「……結局俺が有崎のお守りか」
「おばさんとの約束でしょ?」
「あれは……約束というか、脅迫というか」
 手のひらで顔を覆う青山を見て、世羽子の目が柔らかくなる。
「……変わったわね、青山君」
「3年経った……それに、有崎とつるんでると確かにそれほど退屈はしない」
「まあ……人あたりが良くなった分、毒は強くなった気がするけど」
 そう言って立ち上がった世羽子に青山がちょっと声をかけた。
「秋谷」
「なに?」
「余裕があればでいいんだが、一ノ瀬に気を遣ってやってくれるか?なんかほっとくと破裂してひと騒動起こしそうだし」
「そうね……一ノ瀬さんは嫌いじゃないからいいわよ」
「……昔、椎名と何があった?」
「言わない」
 
「……はっ」
「なんだ、やっと目を覚ましたのか…」
 世羽子が帰ってから約1時間。
「おお、青山か……って」
「ふむ、落ち着いてるな…なら、今外す」
 青山がちょっと手首をひねり、銀色の筋を走らせた。
「……手で解けよ、青山」
「手で解けないぐらい固く結んでたんだが」
 解放された尚斗が身体を起こし……大きくため息をついた。
「……えらく夢見が悪そうだったが…というか、やつれてるぞ」
「夢見が悪いも何も…」
 尚斗はちょっと言葉を切り、ため息をついてから続けた。
「俺、やっぱ藤本先生と初対面じゃないな……髪型こそ違うが、多分あれは藤本先生だ」
「何を今さら……で?」
「いや……なんというか、高校生や藤本先生にやられたんじゃなくて、母さんにぼこぼこにされたんだな……記憶が混濁してたというか」
「すまん、詳しく聞かせろ…」
 そして15分後。
「……良かったな、生きてて」
「怪我や病気で学校休んだのは、あの時だけだからな……親父が帰ってこなかったら、まだ続いてたんだろうけど、母さんは怒るとまわりが見えなくなるというか……」
「お前が言うな、有崎」
「……で、あの馬鹿(宮坂)は」
「免罪符になるとは思わないが、あの馬鹿、後のことを全く考えてなかったようだ」
「……考え無しにも程があるだろ」
「ところで有崎……何故藤本先生の話がブラフと気付いた?」
 尚斗はちょっと瞬きし、首を振った。
「……青山、お前ひょっとして理事長室に」
「理事長室だけじゃないぞ」
 青山は、ほんの少し、と指先で示して笑った。
「まあ……有崎が藤本先生にああ言ってくれたおかげでやりやすくなった」
「別に……大袈裟な事を言ったつもりはない」
「有崎も随分とえげつない事を考えるもんだと感心したぞ」
「……青山、女子校の生徒は関係ないからな」
 尚斗の視線を青山は平然と受け止めた。
「少なくとも、生徒に実害は与えない……多少、騒がしくなるかもしれんが」
 そう言って青山はちょっと首を傾げた。
「しかし……藤本先生は、逆恨みの線は捨てがたいな」
「……結局、藤本先生は小学生ぐらいの男の子が好みって事だよな?」
「どう……だろうな」
 
「……ねえ、紗智」
「なに、麻里絵?」
「もう、帰ろうよ…」
「何言ってるの……尚斗の部屋で、気を失った尚斗と青山君が2人きり……そう、2人きりなのよ…」
 紗智が一瞬で遠くへと旅立ってしまう。
「……はあ」
 明かりのついた尚斗の部屋を眺める2人を、黒猫が避けるようにして通りすぎていった……。
 
 
                      完
 
 
 いやもう、綺羅先生ファンの人にはごめんなさいと言うしか。(笑)
 いや、俺はむしろのこっちの綺羅先生が好きだ……とか言ってくださる人がいないとは限らないかも知れないですが。
 高任的には、『……それもアリですわね』の台詞が割と気に入ってるんですが。

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