この春をもって男子校が廃校になる可能性が非常に高くなった……綺羅の言葉からきっちり十秒経って、尚斗は口を開いた。
「……続きはないんですか?」
「あまり、驚いていないように見えますが…?」
「いや、驚いてますよ……ただ、わざわざ俺1人を理事長室に呼びだして告げる内容なのかなという疑問がひっかかりまして」
「普通は…何故廃校になるのかという質問を口にすると思いますよ」
綺羅はちょっとため息をついて説明を始めた。
助成金やら交付金の横領の発覚によって多額の返済金を求められ……いろいろと細かい説明をはしょって結論から言うと、債務過多……情緒のない言い方をすれば倒産。
「廃校となれば……男子校の生徒の受け皿をどうするかという事で、近在の学校関係者によって話し合いをしなければいけないという事で、その情報が我が校にも回ってきたのです」
「……ここ、女子校っすよね?」
「学校経営に携わる人間の世界は結構狭いんです…」
「なるほど…」
尚斗は小さく頷き、綺羅に続きを促した。
「こういう事を申し上げるのは心苦しいのですけど……有崎君は、素行に問題ありということで、編入を受け入れてくれる学校があるかどうか」
尚斗は苦笑を浮かべ、指先で頬をちょっとひっかいた。
「いやあ、そう言われると反論のしようがないです」
「いいえ、有崎君の素行に問題ありなどと私はちっとも思いません……」
綺羅がとんでも無いという風に首を振った。
この時ばかりは、綺羅の表情も真剣そのものだったので尚斗はとりあえず頭を下げた。
「……はあ、どうも」
「この前行われた試験では男子校の2年の中ではトップ、我が校の生徒の中に入っても上位20番以内に入ってますから学力的にも優秀……」
「……なるほど」
尚斗はある種の思いを込めて頷いた。
『もうちょっと頑張ってもらえないでしょうか……全体で20番程度』
自分の身体に蜘蛛の糸が巻き付いてくるような錯覚に陥り、尚斗はため息混じりに呟いた。
「……そんな事言ってましたね」
尚斗の胸中を知ってか知らずか、綺羅がちょっと微笑んだ。
「ただ、俺に対して非常に理解が深いといっても……女子校が男子生徒を受け入れるわけにはいかんでしょう」
「そうなんです……こればっかりは私としても…」
綺羅が心底残念そうにうなだれた。
「それで私、考えたのですが…」
「何を……ですか?」
「袖すり合うもなんとやらと申しますし……短期間とはいえこうして同じ学舎で過ごした皆さま方が行き場を失う姿も見たくありません」
「……」
「ですので……我が校から男子校に資金援助をしても良いかと」
2秒ほどの沈黙を経て、尚斗が口を開いた。
「条件は?」
「学校経営というものは、綺麗事だけでは回らないことがあります……ですので、こうして条件を出すというのは少々心苦しい事なのですが」
「まあ、慈善事業やってたらこの女子校がつぶれちゃいますからね」
「そう言っていただけると、多少気が楽になります…」
綺羅は尚斗に向かってちょっと頭を下げ、そして尚斗の目をじっと見つめて言った。
「有崎君に……我が校の広告塔としてスポーツの分野で活躍していただきたいのです」
「は?」
「そうですね……多少裏技を使わなければいけませんが、学生の身分のまま我が校をスポンサーとしてプロ契約を結ぶというのが私のプランなのですが」
尚斗の脳がちょっと飽和状態に陥った。
「はい?」
「宮坂君からは、既に了承の返事をいただいています……そうですね、有崎君の場合、陸上、水泳、格闘技方面がよろしいでしょうか」
「い、いや、その…」
「出来ることなら青山君とも契約したいのですが……それはさすがに。弱味をつかむことはおろか、連絡さえとれません」
残念そうに首を振る綺羅。
「……質問があります」
「なんでしょう?」
「男子校への資金援助の条件なのに、何故俺や宮坂、青山という個人の問題にすり替わっているんですか?」
「あら?」
綺羅がちょっと意外そうに呟き、口元に手をやった。
「有崎君がはいと言えば…男子校のみなさんは、今まで通り学校に通う事が出来るんですのよ?」
「……」
「ですから……二つ返事かと思っていたのですが…」
「……なるほど」
これで何度目の『なるほど』だったか……尚斗はまずそれを考え、次に、一昨日青山がわざわざ自分に宮坂を呼び出させた理由に気がついた。
「プロ契約したあかつきには、私が尚斗君のマネージャーをしますから…」
綺羅はにっこりと微笑んだ。
「今よりずっと一緒にいられますわね」
「……色々とツッコミたい事はありますが」
尚斗は一旦言葉を切り、視線を天井に向けてぽつりと呟いた。
「……なんというか、芸術的なタイミングですね」
「芸術的……と、おっしゃると?」
「いや、校舎がつぶれて……新校舎建設で資金が大量に出ていって財務体質が赤字に転換した時期に……横領が発覚して多額の返済金を求められた……と、細かいことはわかりませんが、大体こういう構図なんですよね」
「何を……おっしゃりたいの?」
そう呟いた綺羅は笑っていて。
尚斗は複雑な表情を浮かべて呟いた。
「本当は、今の時点で横領そのものは発覚していないけど……ウチの理事長と校長あたりが藤本先生に首根っこを押さえられている状況なんじゃないですか?」
「首根っこを押さえられている……と言いますと?」
「……この学校というか、藤本先生の言いなりにならざるを得ない状況という事ですが」
「興味深いお話ですわね」
「つまり……藤本先生が、時と場合によって、横領の情報をしかるべき筋にリークするんですね……多分、返済金だのそのあたりは政治力こみで」
「さあ、私には何のことだか…」
口ではそう言ってるものの、綺羅の微笑みがそれを肯定しているように尚斗には思われた。
「えっとですね……男子校が廃校になった場合、先生にはメリットないですよね」
尚斗が探るように呟くと、綺羅は心持ち頬を染め、瞳をキラキラさせながら口を開いた。
「うふふふ……私、昔から男子校にはちょっと憧れを持ってまして」
「……」
「その時は、新しく男子校が出来るだけのこと……考えただけでもワクワクしますわ」
尚斗の知る限りでは、一番イヤな微笑みを浮かべて綺羅がちょっと遠くへ旅立ってしまう。(笑)
「あの……もしもし?」
「……と、お話し中に失礼しました」
口調は丁寧だが、楽しくて楽しくて仕方がないという表情の綺羅とは正反対に、尚斗の表情は沈鬱で。
「藤本先生……作用反作用の法則はご存じですか?」
「専門……ではありませんが、一般教養レベルには」
「俺は……青山のことを理解しているなんて自惚れるつもりはありませんが、多少はわかっているつもりです」
綺羅がちょっと首を傾げた。
「えっと…例えば俺がこの壁を押す」
ソファーから立ち上がり、尚斗が右手でちょっと壁を押した。
「押した力と同じ力で、壁が俺の手を押し返すわけですが」
「……?」
「青山は……そういうヤツです。誰かの頼みをきいてやったなら、後でそいつに試練を与えるんです……とにかく、他人との関係をプラスマイナス0にするというか」
綺羅はちょっと考え込み、ぽつりと呟いた。
「他人との貸し借りを嫌う……という事ですか?」
「それはそれでそうなんですけど……なんというか、上手く言えませんけど……」
尚斗はちょっと困ったように頭を掻きむしり、真剣な表情で綺羅に告げた。
「下手をすると……この女子校が潰されます」
「……は?」
綺羅がちょっと惚けた。
「青山はやります……というか、確実にやれます」
「……」
「少なくとも、藤本先生が使ったのと同じ程度の事はやらかして、この学校だか藤本先生を追い込みにかかります」
「私がやった……と、言いますと?」
「……俺の頭ではいまいち理解できないんですけどね」
尚斗は言葉を切り、一語一語選び出すようにゆっくりと続けた。
「今回の件……どこからどこまでが偶然なんですか?それとも、偶然はひとつもないんですか?」
「尚斗君は……時々難しいことを仰いますね」
綺羅がちょっと笑った。
「……信じてもらえないとは思いますが、今回の件に関して偶然が少ないほど、青山は手段を選ばないと思います」
「青山家は……動けませんよ」
「恐いのは青山家じゃなく、青山本人なんですけど……」
「……心配してくださるの?」
「藤本先生がそこまでやったとしたら、めちゃめちゃ心配です」
「……心配してくださるのは有り難いですが」
綺羅はにっこりと微笑み、尚斗の手を握った。
「先の申し出、返答はお早くお願いしますね」
「あ、それなら多分……近いうちに答える必要がなくなると思いますから…」
ふっと、綺羅の瞳の奥で何かが揺れた。
「有崎君は……青山君を過大評価してるのでは?」
「自分を青山に例えるのも恐れ多いんですけど、俺が青山ならまずこの女子校の生徒の個人情報を盗み出して各方面にばらまきます」
ちょっと息を吸い込み、尚斗は流暢に言葉を続けた
「後は、ここの入試も近いですし、願書を出した人間の登録データを全部消去して願書そのものも全部燃やして入試そのものを成立させないとか……まあ、ウチの男子校と違ってこういう学校だとその手の醜聞で十分じゃないですかね」
「ちょ、ちょっと待ってください、生徒は関係ない…」
「それを言うなら、男子校の生徒だって関係ないでしょう……」
腰を浮かしかけた綺羅に向かって、尚斗はぴしゃりと言い捨てた……が、気持ちを落ち着けるように小さくため息をつき、言葉を続けた。
「俺程度でさえそのぐらいの事は考えつきます……確かに俺には決行は出来ませんけど、決行できる状態までもっていく自信はありますよ……ただ、これが青山となったら」
綺羅の表情が微かに強ばった。
「宮坂もそうですが、青山の本当に恐い所は、『考えたことをそのまま実行できる』ことですから」
そう言って、尚斗は立ち上がった。
「結局、藤本先生がどこまでやったか……ですね」
「……?」
「藤本先生が大したことをしていないなら多分大丈夫です。ただ、それなりの事をやったのなら、それと同じぐらいのことは青山がやります……それ以上は、男子校の理事長や校長から話を聞いた方が早いですよ……では」
理事長室を出て、尚斗はぺちぺちと頬を叩き、強ばった表情をちょっと緩ませた。
「さて……」
表情こそ多少緩んだモノの、尚斗の視線はより険しくなり、廊下を歩きながら両手にテーピングを巻いていく。
「……宮坂の馬鹿はどこかな」
既に次の授業が始まっていた教室のドアを開けると、何か問いたげな教師に目もくれず宮坂の席に視線を向けた。
「……まあ、いないよな」
明らかにいつもと雰囲気が違う尚斗を見た男子生徒がざわつき始めた。
「お、おい…有崎のやつ」
「か、完全に戦闘態勢に入ってる…」
「殺(や)る気まんまんだ…」
「誰だよ、あいつ怒らせたの…」
そんな囁きを無視し、尚斗が何も言わずに教室から出ていった……瞬間。
「先生」
「は、はい、何ですか秋谷さん」
「気分が悪いので、保健室に行って来ます」
と、教師の許可も得ないまま、世羽子は緊張した面もちで教室を出ていく。
「先生」
と、今度は紗智と麻里絵がほぼ同時に手を挙げた。
「気分が悪いので……以下略です」
「……先生」
今度は安寿。
「な、何ですか、次から次へと…」
安寿はにっこりと微笑み、教師の目の前で手を叩いてから出ていった。
「……う…」
「……まる1日は目を覚まさないと思ったが、さすが宮坂と言うべきか」
青山はイヤホンを外しながらため息をつき、古来の捕縛術をベースに、青山オリジナルで改良した方法で動きを封じてある宮坂の背中に視線を向けた。
「依頼人が…おれを…呼んでいる…」
「……まあ、あそこまで話されたら有崎も気付くよな」
「我が名は…じょにー…お呼びとあらば…即参上…」
宮坂の身体がもそもそと動き、捕縛術の要である部分の1つが少しずつよじれだしたのを見て青山が小さくため息をついた。
「……やはりこの男は侮れんな」
宮坂の体の動きを観察し、動きの支点となる部分を見抜いて素早く固めてしまう。
「依頼人が呼んでる…行かねば」
「宮坂…」
「我が名は…じょにー…」
「……じょにー……行かない方が良いぞ」
「待ってろ〜今、いくぞ…」
「だから、今行くとやばい……本気で殺されかねん」
「じょにーの名にかけて…」
「……とりあえず、向こうをなだめてみるか」
青山は再度ため息をつき、ポケットから携帯を取りだした。
プルルル…。
尚斗の部屋で、携帯がむなしく着信音をならしたり。
「これは、出ないんじゃなくて持ち歩いてないな……」
ため息混じりに呟き、青山は携帯を再びポケットにつっこむ。
「じょにーとしての…誇りが…男は、誇りに生き、誇りのために死ぬ……」
「……愛のために死ぬんじゃなかったのか」
「……」
突然、宮坂が黙り込んだ。
「……じょにー?」
「愛とは決して後悔しないこと……」
「……じょにーの方がマシだったか」
青山は頭痛を振り払うように頭を振った。
「……あれ?」
宮坂の言葉に力が戻る。
「ちょっ…これは…青山、青山だな?はずせ〜」
宮坂がもそもそと暴れ出した。
「……そりゃ、有崎に殺されてもいいなら外してもいいがな」
「そっちか…」
ごろんと宮坂の身体が転がり……首をひねった。
「……何故俺が有崎に殺されなきゃいけないんだ?」
「おや、藤本先生の為なら死ねる…ってのは、そのあたりを自覚しての発言じゃなかったのか?」
「……あんな学校、つぶれたところでどうってことないだろ」
「それについては同感だが、その後他の連中はどうなるか考えてるか?元々、あの男子校ってのは他に行き場のない奴らが集まったようなところだぞ?他の学校に編入出来るヤツなんて多分半分もいない」
「……」
「有崎の価値観だと、お前は自分一人の都合で学校の連中全員を裏切ったってとこか」
青山の説明を受けて状況を認識したのか、宮坂の身体がガタガタと震えだした。
「青山…助けてくれ〜死にたくないよぅ」
「お前が死ぬのは全然構わないが、有崎にそれをさせたくなかったからこうしてるんだが……」
「た〜の〜む〜縄を解いてくれ……誰よりも速く、ほとぼりが冷めるまで俺は世界の果てまで逃げるから…」
「……いや、それはそれでこっちの都合があるからダメだ。お前には、ちょっと俺のために働いてもらう」
「裏切り者〜自分さえよければそれで良いのか」
「あまり否定はしないが、お前に言われるとは思わなかったなあ、宮坂……とはいえ、このままではらちがあかないな」
青山はちょっと首をひねり、再び携帯をとりだした。
「……さて、昔と同じ番号だといいんだが」
プ…
『青山君?』
ワン切りに勝利を収めそうな速度で世羽子が出た。
「相変わらず察しがいいな……秋谷」
『いいから、今どこ?』
「有崎は?」
『……って事はやっぱり状況がわかってるのよね?止めようかと思ったんだけど、今の私じゃ絶対無理、早く来て』
「すまん、ちょっと動けない……というか、話せるだけの事情は後で話すが有崎の怒りの対象がすぐ側にいて目を離せない」
『じゃあ……青山君が確保してるのね?』
「一応は」
『……尚斗、指をパチパチ鳴らしながら多分体育館の方に向かってるけど、そこじゃないでしょうね』
「一旦切るぞ」
青山が珍しく狼狽し、足下でもそもそと暴れる宮坂に視線を向けた。
「逃げるぞ」
「なら縄を解いてくれ〜」
「それはダメだ」
「面白そうだからついてきたんだけど……ちょっと様子が変ね」
尚斗を追う世羽子の姿を観察しながら、紗智が不思議そうに呟いた。
「多分……尚斗君、すごく怒ってる」
「そのぐらいは私にもわかるけど……なんかものものしいというか」
「例えるなら……オームが、怒りに我を忘れているような感じです」
状況にそぐわない呑気な声で安寿が2人の間に割り込んだ。
「……おーむ?」
不思議そうに首をひねった麻里絵を見て、安寿がちょっとうなだれた。
「やはり、ネタが古いですか…」
「大丈夫、私はわかるから」
と、これは親指をビッと立てながら紗智。
「良かったです」
「うう、わからないの、私だけ?」
安心する安寿とは反対に、麻里絵がちょっと俯く。
「それはそうと、怒りで我を忘れてるって?」
「あれを見てください」
安寿が指さした先……重そうな紙束を持ってよろよろと歩いている女生徒の側を、尚斗がそのまま通り過ぎていくのを見て、麻里絵が信じられないものを見たかのように激しく首を振った。
「あり得ない、あり得ないよ…尚斗君が困ってる人を無視するなんて」
「そうね、あり得ないわね」
重々しく頷く紗智に向かって、安寿が呟いた。
「無視するというか、多分見えてないんです…」
そんな3人を睨み付け、世羽子が言った。
「アンタ達、邪魔」
「邪魔とは何よ邪魔とは…私達はただ見物してるだけで」
「紗智、それは言い訳になってないよ…」
「秋谷さん」
安寿が一歩踏み出して言った。
「有崎さんの怒りを鎮めるなら、私もお手伝いします」
「あ、うん……気持ちは嬉しいけど」
ちょっと困ったように世羽子が視線を泳がせた。
プル…
「青山君?」
『有崎は今どこだ?』
世羽子がはっと顔を上げ、あたりを見渡した。
「……ごめん」
『おい?』
「しばしお待ちを〜」
歌うように囁き、安寿が胸の前でそっと手を組んだ。
「……中庭を移動中です」
世羽子は不思議そうに安寿を見つめ……小さく頷いた。
「中庭を移動中だって」
『……何やら伝聞形式なのが気にかかるが』
「天野さんがそう言ってる」
『……なんとなく秋谷の気持ちがわかった』
「……とりあえず、青山君が来るまで話し掛けるなりなんなりで時間を稼ぐ、いいわね?」
麻里絵、安寿、紗智の3人が頷いた。
「じゃあ、まずは私が…」
世羽子は小走りで、ゆっくりと歩み続ける尚斗の前に回りこんだ。
「尚斗、ちょっといいかしら?」
「……」
そこに誰も存在しないかのように、尚斗は世羽子の側を通り過ぎていく。
「うわ、元彼女で今も何となく周囲にそれっぽい意雰囲気を振りまいている秋谷さんを空気のように」
「……紗智、言葉にちょっと棘があるよ?」
「麻里絵だって笑ってるじゃない」
「そ、そうかな…?」
えへへ、と愛想笑いを浮かべた麻里絵の耳をちょっと引っ張り、世羽子が低い声で囁いた。
「じゃあ、幼なじみが行ってきなさい」
「は、は〜い」
すたたたた……と、尚斗の側に駆け寄って、麻里絵は会心の微笑みを浮かべながら尚斗の制服の袖をつかんだ。
「な〜おと君…」
「……」
ノーリアクション……というか、袖をつかまれたことも気付かなかったのか、そのまま歩き続けたので麻里絵の身体がちょっとよろけてしまう。
「うわ、幼なじみまで撃沈された」
「じゃあ、次は……幼なじみの友人」
「……え?」
「……」
「わかったわよ、行けばいいんでしょ、行けば」
紗智は腕まくりしながら尚斗の元に向かい……すごすごと帰ってきた。
「笑ってごめん、秋谷さん」
「……わかればよろしい」
「しかし、アレはちょっと異常じゃないの?」
「なんというか……今の尚斗は極端に集中してる状態なのよ。ほら、スポーツ選手なんかが言うでしょ……自分に必要な情報以外をシャットアウトして反射速度を高めるとか」
「……じゃあ、今の尚斗君にとって秋谷さんは必要ない情報って事なんだ」
「あなたもね、椎名さん」
「ま、まあまあまあまあ…そんな場合じゃ」
紗智が慌てて2人の間に入る。
「じゃあ、ちょっと天使が行って来ます…」
「行ってらっしゃい…」
そう呟いてから、世羽子、麻里絵、紗智の3人は顔を見合わせた。
「……天使?」
そして、3人揃って安寿の背中に視線を向ける。
「えっと…?」
「いや、天野さんそういう人だから…」
「ほら、名前が安寿だから……多分、この場を和ませようと」
「そ、そう……ね」
まるっきり冗談として流した紗智と麻里絵とは対照的に、世羽子はどこか納得がいかないのか曖昧に頷いた。
「それより……あれは、何の真似?」
「さ、さあ…?」
ぱちんぱちんと二回手を叩いてから、次は背中をぱたぱたと叩く……もちろん歩きながら。そして、尚斗の後ろをついて歩きながら胸の前で手を組んで祈りを捧げ……安寿が帰ってきた。
「……私にできることはやりました」
「あ、うん……お疲れ」
3人が3人揃って安寿にどう対応すればいいか悩んでいたところ、ついに青山が姿を現した……珍しいことに額に汗を浮かべて。
「待たせた、秋谷」
「……大丈夫、なの?」
「20分は保つ、その間になんとか……うお」
青山が、尚斗の両手に巻かれているテーピングを見て眉をひそめた。
「……これは」
ちょっと腰がひけたようになった青山に向かって、紗智が不思議そうに首をひねった。
「またいつぞやみたいに、関節とか外してお終いじゃないの」
「……一ノ瀬、普通人間ってのは怒れば怒るほど隙が増える」
「……隙と言えば、隙だらけだけど、今の尚斗」
「じゃあ、試して見ろよ」
「おことわり」
「で、有崎の場合……普段は相手のことを気遣って力を出せないと言うか……相手への気遣いがぶっ飛べばぶっ飛ぶほど本来の力を発揮する」
「青山君でも……まずいの?」
世羽子がぽつりと呟く。
「……武器使っていいか?」
「それはダメ」
「なら……6分4分だな」
青山の言葉の意味を理解したのか、紗智と世羽子が沈黙する……ちなみに、麻里絵は事の重大さがわかっていないだけ。
「あの、青山さん…」
「ん?」
安寿は青山の耳に顔を寄せ、ぼそぼそと呟いた。
「……」
「……信じてください」
「前から少し気になっていたんだが…」
「はい?」
「天野は……何者だ?」
「私は、天野安寿です〜♪」
理事長室で1人、綺羅は物思いに耽っていた……少し、手段が強引だったのが若者特有の潔癖さを刺激したのかと。(笑)
そんなところに…
どかぁっ!
世羽子が鍵のかかった理事長室のドアを蹴破って現れた。
「な、何ですか秋谷さん」
多少の狼狽をみせながらも、立ち上がると同時に隙のない構えをとった綺羅を見て世羽子は認識を改める必要を感じた。
「藤本先生にお願いがあって来ました」
「……ノックぐらいしなさい」
「急いでいたので」
綺羅は構えを解き、聞いた。
「一体、何でしょう?」
「……」
「……?」
「な、尚斗に……ですね」
「有崎尚斗君がどうかしましたか?」
「……キス…」
「はい?」
「キスしてくれませんか?」
「な、ななな何を仰ってますか?」
「わ、私だってこんな事頼みたくありませんっ!」
世羽子と綺羅、濃淡はあれど二人して顔を赤くしながら。
「そ、そういうことはやれと言われてやるものでは…」
「じゃあ、私がしますから」
心中の感情を押し殺して世羽子が会心のブラフをかました瞬間、勝負は決まった。
「……何やら、近寄りがたい雰囲気ですが」
明らかに雰囲気の違う尚斗を見ても綺羅はいつもと同じで……まるでそんな尚斗を以前に見たことがあるような態度で呟く。
「じゃ、藤本先生……ひとつ、お願いしますっ」
世羽子と麻里絵、そして紗智の3人が深々と頭を下げる……3人が3人とも頭を下げたまま唇を噛みしめているのだが。
「では遠慮なく……ふふ、何年ぶりかしら〜」
尚斗の側に近寄った綺羅が唇を寄せた瞬間、3人はそっぽを向き……尚斗の心の奥深くに封印されていた記憶が弾けた。
「……う」
尚斗は綺羅の身体を軽く突き飛ばし、口元を押さえて吐き気を堪えるように下を向いた。
「今です、青山さんっ!」
「承知っ」
左手で口元を押さえながらも、本能の赴くまま駆け寄った青山に向かって尚斗の右拳が唸りをあげる……が、青山は頬の皮一枚でそれを外して右フックを尚斗の顎に、そのままの勢いで右肘、さらに右肩で胸に当て身を食らわせ、身体をひねりながら真空跳び膝蹴りで容赦なくつきあげた。
「……どうだ?」
青山が鮮やかに着地をきめた瞬間、白目をむいた尚斗の身体が音をたてて倒れた。
「よし、撤収っ!」
青山、世羽子、紗智の3人が尚斗の身体を抱え、麻里絵はその後を必死で追いかけ、安寿は綺羅に向かってちょと頭を下げてからこれまた走り去っていく。
そして、その場に1人取り残された綺羅は、ただ呆然と見送るだけで。
「……一体…何ですの?」
完
えー、本来は学校経営母体は財団法人というか、企業とはちょっと違った形態をとらなきゃいけないんですけど……まあ、あまり突っ込まないように。(笑)
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