2月2日(土)。
 
「……1つ、聞いてもいいかな?」
 母の再婚相手が勤める会社のそばの喫茶店で……みちろーは、父と同年代の男性の、誠実そうな顔を見つめつつ頷いた。
「どうぞ」
「父親と…ともに暮らすつもりもないのかね?」
 『キミさえよければ、一緒に暮らしても…』という申し出を断ったとき、そのことは告げていた……が、納得できなかったというより、それは多分、男性の優しさが言わせたのか。
「はい」
「キミはその……やはりまだ、いわゆる扶養家族と呼ばれる年齢だし」
 ストレートに、心配しているとも、一緒に暮らそうとも言えないところに、2人の関係の微妙さがある。
 そもそも、本当ならこの場にはみちろーの母がいなければいけなかったのだ。
 どうしても外せない用事が……と、再婚相手である男性1人がやってきたのだが、どうやらそのことに対して、みちろーではなく男性自身が納得のいってない気配で。
「……母は」
 微笑みを浮かべて。
「なんていうか……一途な人ですから」
「……」
 どこか戸惑ったように、男が口ごもる。
「自分が好きになった相手の全てを受け入れ……好きになろうとする。僕は、母がそういう女性だと思ってます」
「……?」
「当然、逆も…です」
「どういう意味…かな?」
「自分が嫌いになった相手に関係するモノ……に対して、嫌悪感を覚えるというか」
 ちょっと俯き……微笑みをキープできていることを確認してから、みちろーは顔を上げ。
「自分の子供という認識がないわけでなく……父の息子、という意識の方が強く働くんだと思います」
「それは…」
「今ここに、母がいないことを僕は予想もしてましたし……なんというか、本当にわだかまりみたいなモノを感じたりはしてないんです」
 微笑みは絶やさない。
 だって、その方が……男性は、申し訳なく思うだろうから。
 ごく自然に、そんな計算をしてしまう自分自身に対する嫌悪を抱きつつも……やはり、この目の前の男性が自分とは赤の他人であるという意識を忘れることなく。
 少なくとも大学を卒業するまで……自分に対する申し訳なさが続けばそれでいいという、きわめて現実的な計算を止めようとは思わなかった。
「……強いね、キミは」
「いえ、そんな…」
 首を振った。
「母を幸せに…いえ、母と幸せになってください」
 微笑みの下で、みちろーは自分を唾棄するように呟く。
 強いんじゃなく、ずるいだけだ…と。
 この後、少し早いが昼食を一緒に……と誘われたが、父と会う時間が迫っているのでと断ったみちろーは、男と別れてから空を見上げた。
 母が、再婚相手と住む街。
 空はどこでも同じ空……というが、多少の苦い思いと共に懐かしく思い出す空とはやはり違う気がして。
 自分と、麻理絵と、尚斗……あの頃、みちろーにとって空はただ見上げるだけのものだった。
 尚斗がいなくなり、麻理絵と離れて……空は、みちろーにとって違う意味を持ち始めた。
 どこに行っても、遠く離れても……そこには空がある。
「……と」
 時刻を確認し、みちろーは駅へと向かう。
 みちろーの両親は、離婚が決まってから、2人示し合わせたようにみちろーが生まれ育ったあの街から離れた。
 だから、みちろーが次に向かうのは、父が再婚相手と暮らす街だ。
 今度は反対に父だけと会い、再婚相手は顔も見せずに……という事になるだろう。
 
「……香月冴子がいなくなる、というと?」
 尚斗の疑問に、冴子は微笑みで答えた。
「ええ、言葉通りの意味よ」
「……」
「……」
「……そうですか」
 そう呟いたきり、黙ってしまった尚斗に……冴子はかえって困ったような表情を浮かべて。
「……キミは時々物わかりがよすぎるから、つい、余計なことまでしゃべってしまいそうになるわね」
「余計も何も……」
 と、尚斗は真面目な表情で冴子を見つめ。
「いなくなるんでしょう?」
「ええ」
 冴子は、穏やかとも思える笑みで尚斗の視線を受け止めて。
「……と、ここで話を切ったら、普通はわけがわからなくて、疑問を発するモノなのだけど」
 『香月冴子がいなくなる』と冴子は口にしたわけで……『自分がいなくなる』と言ったわけではないし、そもそも、冴子が香月冴子になりすましているとすると……『香月冴子がいなくなる』という表現はなかなかに意味深なはずなのだが。
 尚斗は……『香月冴子がいなくなる』という表現を、そのまま『冴子がいなくなる』とダイレクトに受け取った。
 それも、ただ単純に姿を消すことを意味するのではなく、その存在そのものが消えてなくなるという意味で、だ。
 それは、理屈ではなく直感に近い。
「理由を知ることに意味があるのは……それを回避できるときだけじゃないんですか」
「……」
「……俺の言ってること、変ですか?」
「それらしい理由は、時として誰かを慰めることもあるわ」
「それは……まあ」
 曖昧に頷く尚斗。
「そうね、私を慰めるためと思って…キミには、聞いて欲しいわ」
 少し目を伏せた冴子の静かな言葉に……尚斗は、ほんのわずかに油断の出来ない気配を覚え、黙って頷くにとどめた。
「多分、あの娘……安寿から何かしら聞いたとは思うけど、『私達』は人の記憶に残らない存在なの」
「……残さない、じゃなくて?」
 尚斗の疑問に対し、冴子は『良くできました』という感じに微笑み。
「ええ、目立たないように心がけるのは、人の記憶に残さないためと言うより、残らないから」
 微笑み、そして冴子は目を閉じた。
 それは、人生の終わりを間近に迎えた老人の仕草に似ていて。
「理由はわからないというか、経験則みたいなものと思ってちょうだい」
「……」
「何か質問?」
「いえ……とりあえず、続きを聞きます」
 冴子はちょっと息を吐いて。
「ちょっと話が飛ぶように感じるかも知れないけど、私達の意志で記憶を消す事について話すわね」
「はい」
「記憶を消す……それには、おおまかにふた通りの意味があるの」
「……」
「1つは、記憶の封印……これは、封印を解く、もしくは何らかの形で封印が解けることによって回復するというもの。そうね、強いショックを受けた人間が、防衛本能から記憶を封印してしまう……それと同じようなモノと受け取ってもらっても構わないと思うわ」
 冴子が、尚斗の方に顔を向ける……目は閉じられたままだったが、その視線は痛いほどに感じられ。
「じゃあもう一つは…言葉通り、消すって事ですか?」
 尚斗が感じたわずかな逡巡……は、躊躇いなのか、それとも時間稼ぎか。
「ええ……そして、二度と元には戻せない」
 冴子はちょっと口をつぐみ……何かを振り切るように言葉を続けた。
「ただ、消した記憶をきちんと把握している者なら、それに似た記憶を埋め込むことは可能ね」
「……?」
 尚斗はちょっと首をかしげた。
 大雨になった土曜日の……安寿のいう『サービス』をちょっと思い出したからだ。
 というか……今になって思うとあれは、『世羽子の中の別れた記憶そのもの』をなかったことにする、などという単純な話ではないはずで。
 中学2年の冬から、今に至るまでの3年近くの空白を……安寿は、どうやって埋めたのか?
「それ、簡単な話じゃないですよね?」
 疑問と、確認……尚斗の言葉の裏に潜む感情を見抜いているのかいないのか。
「そうね、かなり高度の能力が最低限必要……ただ、ちょっとした記憶ならともかく、その人の、まさに人格を形成する元になった記憶だと、全ての記憶にその影響を及ぼしていると言っても言い過ぎではないから…」
 冴子が……おそらくは、敢えて言葉尻を捨てたように感じられ、尚斗はやや曖昧な形でそれを拾い上げる。
「つまり……出来る限り、記憶は消したくない?」
「そういうことね……どういう影響が出るかわからないから」
「……たとえば、医者になりたい、とその人間に強く決意させた記憶が消えると、その決意までもが揺らいでしまったり……とかですか?」
「……無責任な言い方に思えるでしょうけど、それこそ、やってみなければわからないとしか言えないわ」
「……」
「どうかしたの?」
「あ、いえ…ちょっと」
 あの時、世羽子の異変に気づいてすぐの、『今すぐ元に戻しなさい』……ってのは、結構無茶なリクエストだったのではないだろうか。
 などと、尚斗は何も知らないことの恐ろしさを感じると同時に……天使長とやらにいつも怒られているらしい安寿が、実際は、駆け出しとか下っ端とか、そういうところから遠く離れた存在なのではないか……と考えたわけで。
 もちろん、安寿の立場がどうだろうと、態度を変えるようなことはないが。
 気がつくと、閉じていたはずの冴子の目が開かれていて。
「本来、『私達』は何者でもあるが故に、何者でもない存在なのよ……」
 と、冴子はちょっと右手を持ち上げて。
「……『天使』は、あくまでも人間が私達に与えてくれた名前の1つに過ぎないわ」
「え…?」
「……『天使』に『天女』、『死神』、『人魚』……名前を与えられることで、『私達』は断片的ではあっても、形を変えた存在として人の記憶の中で語られるようになった。それは、人が文字を編みだすことで、記録することと同時に知識の共有を可能にして……知識を積み重ねてきた事にも通ずるのかもね」
「……」
「まあ、これは知識の積み重ねというより、想いの積み重ねなのかも知れないけど……『天使』が登場する昔話を聞く事で、心を捕らわれる者が出てきたの。四六時中『天使』のことばかり考えたあげく、その実在を疑わなくなる…」
 冴子はちょっと笑って……言葉を続けた。
「そんな1人がね、ある時、本当に出会ってしまったの……そして、この人は『天使』という存在をごく自然に受け入れた」
「……」
「『私達』は昔からずっと、少なからず人間と関わってきたから…その時は、それが大きな問題であるとは考えていなかった……」
 元々明るくもなかった冴子の声が、沈んだ。
「結局は、時の流れと共に、『私達』の記憶は薄れて、あらたなおとぎ話が作られる……そう思ってたのよ」
「そうは…ならなかった?」
「気が触れて、死んだわ」
「……」
「もちろん、最初はそれが『私達』に関係のある事象とは思ってなかったけどね」
 そう前置きし、冴子は再び目を閉じた。
「1人、また1人と……私達と関わった後、喪失感と不安に襲われ、精神を病み、時には自ら死を選ぶ人間が出て……もちろんそれは、私達と関わった人間全体からすればごく少数に過ぎないのだけれど…」
 あるかなきかの間をおいて。
「でも、『私達』は、人に関わりすぎることによる危険性に気づいてしまったし、人の幸福を願うどころか、不幸をもたらすとすれば捨て置くことも出来ず……なのに、理由はわからない。関わった人間が死ぬまで関わり続けるか、それともいっそ人と関わることをやめるか…」
 冴子はちょっと言葉を切って……口元を歪めるような笑みを浮かべた。
「そんなこと、出来るはずもないのにね」
「……『天使』は、人の幸福を願うためにあるから…ですか」
 自分自身を笑うような、見ていて辛くなるような冴子の笑みが、別の笑みに変じた……少なくとも、尚斗にはそう見えた。
「……ええ、そうね」
 冴子がすっと顔の位置まで右手を持ち上げる。
 なんとなくなくだが、尚斗は冴子のその動作が照れ隠しではないかと思った。
「『私達』の1人……彼女は、人の記憶を修正したり、消去することがとても得意だったのだけれど、何故そうなるのか理由をしらなければ何も出来なくなる、と……少々の犠牲は覚悟の上で、積極的に人に関わることを始めた」
 冴子はちょっと口をつぐみ……。
「『私達』が分裂するに至った最初の齟齬ね、あれは」
「分裂…ですか?」
「目的は同じだったはずなのに、道が分かれる……そういう意味で、『私達』は人間と何ら変わりがない」
 冴子の口元が歪んだのは、自嘲か。
「『私達』が自我と信じた心が、人間のコピー……心のかけらをつなげたモノだったとすれば、それも当然だけど」
「……」
「少し、話が逸れたわね…」
 逸れたのではなく、それ以上話したくないのだろう……そう思ったが、尚斗は小さく頷いておいた。
「少なからぬ犠牲を出した上で、『私達』は、得体の知れない力によって忘れ去られていくのではなく、自らが人間の記憶を操作して忘れさせることを選んだ……それと同時に、出来るだけ正体を明かさないよう、人間と同じように振る舞い、目立たず、ただ静かに姿を消していく……そんなやり方ができたのよ…」
「……えっと、呪われる危険性とか…」
「そういう認識はなかったわね……そういうやり方を始めたことで、『私達』が人の記憶に触れる回数は飛躍的に増えて……さっき言った彼女が、最初に呪われた」
「……」
「……彼女が呪われたせいで、またいろんな事がわかったわ。人の記憶は、それぞれ単独で存在しているのではなく、様々な形で結びついて成り立っていることとか……邪魔な記憶を消す、それがそれだけで収まらないこととか…」
「……」
「……何か気になることでも?」
「え、あ、いや……」
 と曖昧に答える尚斗に、冴子は優しく笑って。
「あの子は…まだ子供というか、赤ん坊のようなものなのよ……」
 どうやら、安寿のことを考えていたのはばれていたらしい……と、尚斗は苦笑を浮かべ……。
「……?」
「なに?」
「冴子先輩は、『一方的な認識を知り合いとは言わない』って言いましたよね」
「ええ、そうね」
「それはつまり…」
 と、尚斗はちょっと言葉を切って。
「安寿は、記憶を失ったって事ですか?」
「……」
「……ノーコメントで、逃げないんですか」
「……」
 尚斗の視線が、冴子のそれと重なる。
 正直というより、むしろ愚直さを思わせる冴子の瞳が……尚斗に、悟らせた。
 『はい』とも、『いいえ』とも、答えられないのだ……と。
 それを説明しようとすれば、おそらくは話したくないことに触れてしまう……だから、何も言えない。
 『ノーコメント』で逃げないこと……それが、冴子なりの誠意なのだろうと。
「…すみませんでした、話を戻しましょう」
「……」
「……冴子先輩?」
「キミのそういうところ、長所じゃなくて短所よきっと」
 そう言って、冴子はちょっと笑ったのだが……すぐに、どこか思い詰めた表情を浮かべた。
「ここまで話せば、もう察しがつくと思うけど……」
「夏樹さん…ですね」
「ええ…」
「……冴子先輩は、夏樹さんに関わりすぎたって事ですか」
「多分……おそらくは…そう、ね」
 頷くというより、うなだれる冴子。
「……夏樹は、なんというか……社交的な性格ではなかったから」
「……香月冴子としては、夏樹さんが困っていると放っておけなかった?」
「だから……呪いなのよ。これ以上は…と思っても…感情が先走って、頭の中がぐちゃぐちゃになって…気がつけば、私は夏樹のそばで、声をかけている…それの繰り返し」
 ため息……そして囁くように。
「正直……2年、いえ、2年半程前ね、入谷さんが夏樹に絡んできたのを私は歓迎した」
「……」
「それが、彼女が口で言うような単純な目的ではないと知っていても……ね。夏樹の世界が広がれば、相対的に、私の存在を小さくしてくれるはずだから」
「なる…ほど」
 青山と比べたら……いや比較対象に青山を選ぶこと自体におこがましさを感じてはいるのだが、尚斗は青山ほど頭も良くなければ鋭くもない自分をきちんと理解している。
 あくまでも直感だが、青山と冴子は……そういう意味で多分良い勝負のはずで。
 そして、今冴子が語った話の内容。
 青山や冴子より遙かに劣るであろう自分にして、いくつもの疑問が浮かぶのだ。
 冴子が、その疑問に気づかないはずがないのに……いや、頭が悪いからその正しさを理解できないだけなのか。
 自分がいなくなることで、夏樹にどのような影響を及ぼすかわからない……それはわからなくもない。
 呪われたにしても、何故今まで何もしてこなかったか。
 いや、そもそものはじまりというか、何故、香月冴子になりすまさなければいけなかったか……多分、これは敢えて話さないだけなのだろう。
 冴子が、嘘をついているという感じはほとんどしない……だが、同じ言葉でも違う意味を持つわけで……話したくないこと、話せないことを含めて、冴子が敢えてそういう言葉を多用した話し方をしているぐらいは、やはり気づくわけで。
 冴子なら……嘘を話しているという意識を持たぬまま、言葉の使い方でこちらを誤解させることぐらいは簡単なのではないか。
 さっきの…『香月冴子がいなくなる』なんて表現も、自分の確信とは別に、違う解釈のしようはいくらでもありそうだ。
「……」
 尚斗は、冴子を見た。
 疑問はある、聞きたいこともある……が、冴子から伝わってくる哀しみが尚斗にそれをさせない。
 それすらも計算尽くなのかも知れないが……わかっていても、尚斗に出来ることは1つだけだった。
「……っ?」
 うなだれていた冴子には、尚斗の動きに気づけなかったのか…。
 頭をなでられる感触……とんとんと、優しく背中を叩かれる感触。
 そして、言葉はない。
 冴子は、手で目を覆って……呟いた。
「ごめんなさい…少し、泣くわ」
 尚斗は、そこに冴子の演技を感じることはできなかった……。
 
「……誰かの胸で泣かせてもらったのは、何百年ぶりかしら」
「さらりと、すごい単位が…」
「……」
「と、女性を前に年齢を口にするのはマナー違反でしたか」
「妬いてくれないんだ」
「何をですか?」
 と、尚斗が首をかしげる。
「……キミが望むなら、髪でも解きましょうか?」
 と、冴子が髪留めに手をかけた。
「いや、何の話ですか……」
「キミと付き合っていた頃、秋谷さんの髪は長かった……そういうことよ」
「長かろうが短かろうが、世羽子が世羽子であることに、何の曇りもないと思うんですが……?」
「0と1の間には、大きな隔たりがあるわ」
 尚斗はちょっとため息をつき。
「結局、冴子先輩は俺に何をさせたいんですか?」
「……それを、私が言ったら意味がなくなるの」
 と、苦笑気味に冴子。
「麻理絵みたいなこと言いますね」
「……へえ、麻理絵が同じようなことを言ったんだ。どういう状況で?」
「なんか食いつきましたね?」
「そりゃあ……ね」
 と、冴子は片目をつぶって見せて。
「麻理絵は、可愛い後輩だもの」
「……」
「どうかした?」
「それは、何というか天使として麻理絵に無関心ではいられないってことですか?」
 尚斗の言葉に、冴子は……少なくとも表情と口調だけは申し訳なそうに。
「何を聞かれても、麻理絵についてはノーコメントよ」
「……麻理絵は、なにやら俺にして欲しいことというかさせたいことがあるらしいんですが、それを直接俺に頼むと意味がなくなるそうです」
「わざわざありがとう。でも、麻理絵についてはノーコメントだから」
 にこ。
 はい、これでおしまい…という冴子の笑顔。
「そうですか、仕方ないですね」
 と、尚斗が素直に引き下がると、冴子はちょっと残念そうに…。
「……と」
「どうしました?」
「いえ、どうやら私は北風には強くても太陽に弱いみたい…と言うより、やられかけてるのかもね、キミに」
 と、冴子がちょっと首を振った。
「……?」
「ところで、何か質問はない?」
「そうですね……だいぶ、いつもの冴子先輩に戻ってきたみたいだから、聞いてみてもいいかな、とは思ってます」
「……」
 冴子がちょっと真面目な表情で尚斗を見つめた。
「そう、あらためられると……少し、怖いわね」
「とはいえ…正直、何を質問していいのかわからないんですよ」
「そう、何でも聞きたいことを聞けばいいんじゃないかしら?」
「……それに、意味があるなら」
「どういう…意味かしら?」
 冴子の疑問に答えず、尚斗は目をつぶった。
「ちょっと、考えます…」
 
 四時限目終了後のHRにて、綺羅は簡単な連絡事項を伝えると……どこか戸惑ったような表情で青山に問いかけた。
「青山君」
「何でしょう、藤本先生?」
「その…尚斗君は、今日…どうかしたのかしら?」
「学校には来ていると思いますよ」
「……そのようね」
「なら、学校のどこかにいるんでしょう」
 『藤本先生、今HR中です』……などとツッコミをいれる生徒は皆無。
 と、いうか……このクラスにおいて、尚斗に対する綺羅の反応というか行為そのものに対してスルーする空気がすっかりできあがってしまっている。(笑)
「校内放送でも流してみたらどうです?」
「さすがに、私用ではちょっと…」
 と、形ばかりに微笑んで見せた綺羅に、心の中でツッコミをいれた生徒は果たして何人いたか。(笑)
 
「ねえ、世羽子…この問題だけど」
「弥生ちゃん、人にすぐ聞くのは…」
 第二音楽室……というか、軽音楽部部室にて。
「珍しいわね、弥生がテストについて聞いてくるなんて…」
「だって、温子が気になるような言い方をするから…」
「だから、自分で調べなって」
 そりゃそういう言い方を敢えてしたもの……と、やや不満そうに温子。
「まあ、いいわ……で、なに?」
「いや、これこれかくかくしかじかで…」
 と、温子とのやりとりを説明する弥生。
「……なるほど」
 小さく頷き、世羽子はちらりと温子を見た。
「温子の言いたいことはわからないでもないけど…」
「え、やっぱり温子ってば私をだまそうと…」
「…やっぱりって」
 どういう意味なんだか…と、温子が弥生を見る。
「じゃなくて」
 と、世羽子は弥生を視線で、温子を言葉で遮った。
「え?」
「そもそも弥生の基礎知識が足りないんだから、この状況で自分で調べろっていうのは、太平洋に落ちたごま粒を探させるようなものね」
「そこが楽しいんじゃない」
「……まあ、温子はそうでしょうけど」
「な、なんか地道に馬鹿にされてる気分…」
 と、むくれる弥生を取りなすように。
「義務感なり、ある程度達成感というものが与えられないと、ほとんどの人間は作業に耐えられないって言ってるの」
「……」
 多分、フォローになってないよ…と、温子が心の中で呟いた。
「ちなみに、私も温子と同じ問題で間違えたわ」
「え?」「それは意外」
 どういう意味?……と言いたげに、世羽子が温子を見た。
「いや、世羽子ちゃんなら出題者の性格とか、そういうことまで考えて『ちゃんと』答えるかなって」
 つまり、温子は『ちゃんと』答える気がなかったのね…と、世羽子は心の中でため息をつきながら。
「……ちょっとね、この問題に関しては訳ありなのよ」
「だから、私も話にいれてってば」
「あー、はいはい…」
 『どうする』……と世羽子が温子に視線を向けると、『んー、世羽子ちゃんに任せる』……という感じに温子はそっぽを向いた。
「中国古典の知識の有無がポイント」
「え?」
「漢字というか、熟語の成り立ち……という問題の意図からすれば、弥生の言う答えよりも、温子や私の答えの方がより正解に近いと個人的には思うわ」
 と、世羽子はちょっとため息をつき。
「『恋愛』の『恋』と『愛』について、両者の違いに言及してる書物がいくつかあるのよ」
 弥生は椅子に座り、ごく自然に姿勢を正し……いや、誰かに教えを請うにふさわしい姿勢をとった。
 それは、おそらく無意識の動作で……育ちの良さ、よりも家庭環境というか、弥生がこれまで師事してきたであろう人間の上質さをうかがわせた。
「そうね、それらを要約すると……『恋』は『恋うこと』……すなわちそれは、相手を求めることであり、自分の行為に対して代償を求めることにつながる…」
「……」
「対して『愛』は『あたうこと』……すなわちそれは、ただ相手に与えること。相手を思うが故に与えるため、自分のための代償は求めない…」
「……」
「両者の違いは、つまるところ何を思うかの違い。前者は自分を思い、後者は他人を思う……自分を思うが故に、代償を求める。他人を思うが故に、自分を顧みない……それ故に、『恋』と『愛』は、真逆の感情なり……こんなところね」
「……」
「テストの答えはどうでもよいけど……これは、大事なことだと思うわ」
「うん、そうね…」
「私も、これを教えてもらっただけだから……本当は、弥生にえらそうなことを言える立場じゃないのよ」
 温子の視線を感じつつも、世羽子はそれを無視して……弥生を見つめたまま、言葉を続けた。
「ただ求めるだけの姿を歪(いびつ)に感じると同様、与えるだけという姿もきっと同じように歪なはずよ」
 弥生はちょっと顔を上げ、自分を見つめる世羽子の視線に微かにたじろぎ……しかしそれを受け止め、小さく頷いた。
 弥生が御子を思い浮かべたのと同様……世羽子は世羽子で、尚斗のことを思い浮かべていたのだが、弥生はそれに気づくことなく。 
「ありがとう、世羽子……すこし、考えてみる」
 そう、口にしたのだった…。
 
 どのぐらいそうしていたか、尚斗は閉じていた目を開けた。
「質問は決まった?」
「すみません、時間かけて」
「気にしないで、お互い様だし…待つのには慣れてるから」
 
 『自分の勘を信じよう』
 
「……記憶を消すというか、封印したり、別の記憶を埋め込むことも出来るって言ってましたよね」
「誰でも、と言うわけではないけど」
 尚斗は、冴子の目を見つめて。
「それ、自分自身にも出来ますか?」
「それはつまり…」
 と、ちょっと目を伏せて。
 5秒、10秒と過ぎ……ようやく、冴子が口を開いた。
「キミは、私のことを何も信用していないって事よね…」
「何も、とでまでは言いませんが…そう受け取ってもらってもいいです」
 冴子は椅子の背もたれに身体を預け……疲れ切った感じで目を閉じた。
「結論から言うと、可能ね……ただ、それを封印するということは、その存在そのものを忘れてしまうことを意味するわ」
「……というと?」
「封印した記憶…その封印を、自分では解除できなくなるでしょうね。封印を解くということは、その存在を知っていなければならないもの」
「なるほど…」
「仮に、キミに知られたくないことを首尾良く封印したとして……それがどういう現象を引き起こすか想像できる?」
「……いえ」
「たとえば、今日、ここでキミとこういう話をしていること……少なくとも、1週間前まで、私は想像もしていなかった」
 この一週間で、そうさせる何かがあった……などと口は挟まず、尚斗はただ冴子の言葉の続きを待った。
「たった1つの情報でさえ思考や行動を覆す事が出来る……キミに与えたくない情報という判断を下す私が、その情報を……それらの情報を封印された時、そこで私が下す判断が同一であるとはとても思えないわ」
「リスクが高すぎるってことですか」
「そうね……キミに与えたくない情報があるのは事実、キミの嘘を見抜く力をごまかしきれる自信がないのも事実だけど……その判断がぶれる方を、私は……少なくとも、今ここにいる私は恐れるわね」
「でも、出来ないことはない…と?」
「……」
 冴子が目を開け……尚斗を見た。
「正直に言うと、ショックね…その反応」
「すみません」
「そうね、ひょっとしたら、自分で施した記憶の封印も簡単に解除できて、それとは異なる記憶を自分自身で埋め込んだのかも知れないし」
「安寿は、本人がその場にいなくとも、記憶を元に戻してました」
「そんな芸当が出来るのはっ…」
 腰を浮かせかけた冴子が、口を閉じ、目も閉じて。
「今のは、聞かなかったことにして」
「……」
「少なくとも、私にそれはできないわ」
「そうですか…」
「……キミが私を信じてくれないなら、質問の意味はないんじゃないのかしら」
 どこかなげやりな冴子の言葉には応えず。
「母さんに何をされたかは知りませんが、恐怖そのものを忘れようとはしなかったんですか」
「私が私であるために必要なモノよ……キミのお母さんが与えてくれた恐怖は」
 冴子は、恨むような、怒っているような、そんな視線で尚斗を見て。
「……私が言うのも何だけど、キミは、この後用事があるんじゃなかったかしら」
 と、打ち切りの言葉が発せられた。
 これ以上は話していたくない、という冴子の意思表示と判断して、尚斗は腰を上げた。
「じゃあ、帰ります……と、言いたいところですが」
「なに?」
 出口(壁)を指さして、尚斗。
「外に、青山がいるようなんですけど」
「そうね…別に構わないわ。『ここに何かある』という事を確認できたなら、彼の性格的にそれで良しとするでしょうから。キミにそれを口止めをするつもりもないし」
「……そうですか、わかりました」
 頭を下げ、背中を向けて……言おうか言うまいか、ちょっと躊躇ってから、尚斗は冴子を振り返り。
「呪い……なんですかね、それって?」
「……?」
「冴子先輩が夏樹さんのことを心配するのは……呪いじゃなくても、いいんじゃないですか?」
「どういう…意味?」
「香月冴子の記憶とか気持ちとか抜きにしても……冴子先輩は、夏樹さんのことを心配したと思うし、何かしてあげようとしたんじゃないかと俺は思います」
「……出てって」
「……失礼します」
 尚斗はもう一度冴子に向き直り、頭を下げてからそこを後にした。
 
「よう、青山」
「ああ」
 と、返事をしつつ……青山は、尚斗が出てきた場所に視線を向けて。
「なるほどな」
 とだけ呟いた。
「……それで納得できるのがすげえよな、青山は」
「別に、口止めされたわけでもないんだろう」
「まあな」
「ここに何かあることに興味はあっても、中に何があるかはさほど興味がない」
「……青山」
「なんだ?」
「冴子先輩と、何か話したのか?」
「俺の母親と、仲の良い知り合いだったそうだ」
「ふーん」
「……」
 青山が、呆れたようにため息をついた。
「何だよ?」
「いや、そこで『ふーん』と本気で流せる有崎の方が、俺はすごいと思うが」
 そういって青山は尚斗に背を向け……ちょっと振り返り。
「そういえば、有崎に聞いてなかったな」
「何を?」
 青山は、尚斗が出てきた本棚を指さして。
「そこの主にどういう印象を持っている?」
「……聞かれるぞ?」
 青山は口元を歪めて笑い。
「いや、有崎さえよければ、むしろ聞かせてみたい」
「まあ、俺は構わないが……」
 ちらり、と尚斗は青山が指さす先を見た。
「……止めに来ないということは、聞いてみたいと解釈するのが妥当だろう」
「そうかあ?」
「もしくは……『今すぐ、そこから出られない理由がある』とかな」
 2秒ほど間を置いて、尚斗は首を振った。
「……そういうの、やめようぜ、青山」
「俺は、『有崎さえ良ければ』と言ったさ」
 肩をすくめると、青山は軽く右手を挙げてそこから立ち去った。
「ふう……じゃ、俺も行きます、冴子先輩」
 そういって、尚斗がいなくなってから……冴子は、ため息をついて椅子の背もたれに身体を預けた。
 10分、20分と時間は過ぎたが、冴子はそのまま身じろぎもしない。
 そして1時間が過ぎ……冴子の右手だけが、別の生き物のように動き出した。
 右手は、そのまま冴子自身の額へ近づいていき……それを見ているはずの冴子の瞳は焦点が合っていない。
 額に当てられる右手……と、冴子の頭部が微かに後方へ弾けた。
 そしてまた、10分、20分と、時間が過ぎて……微かな笑い声が、冴子の唇から漏れ始める。
 意識をはっきりさせるためなのか、ちょっと頭を振り。
「ふ、ふふ……甘くないのはわかってたけど、ここまでとは…」
 ため息をつき、目を閉じて……また、首を振って。
「麻理絵……あなた、子供の頃からずっとあんなのを相手にしてきたの……屈折せざるを得ないわね、それは…」
 そう呟いた冴子の声は……憐憫に満ちていた。
 
 さて、少し時間は前後する。
 
「あれ、夏樹ねーちゃんだ」
「本当だ」
 わらわらと集まる子供達。
「どうしたんだよ、いつも1ヶ月ぐらいの間隔を開けるのに」
「あ、うん…今日はちょっとだけ用事があって」
 『1ヶ月ぐらいの間隔を開けて』などと、子供達にも見抜かれている事にドキッとしつつ、夏樹は視線を左右へ。
「というか、夏樹ねーちゃん、今日は、あいついないのか?」
 『あいつ』に反応して、子供達が背伸びするように夏樹の背後に視線を向けたが……すぐにそれをやめた。
「べ、別に『あいつ』を待ってたわけじゃないぞ」
「そ、そうだよ。夏樹ねーちゃんがいればそれで十分だぜ、な?」
 すごいな、有崎君は…という複雑な感情を笑顔の裏に押し込め、夏樹は何でもない風に子供達に尋ねた。
「マリエちゃんは、いる?」
「マリエなら、いつも通り1人でなんかやってるさ」
「あいつ、誘っても遊ばねーもん」
「はなしかけても、ろくに返事もしないし」
「そう…」
「……ちょっと用事って、マリエに?」
「うん、ちょっとね」
 また後で……と言い残し、子供達が教えてくれた場所へと向かう夏樹。
「マリエちゃん」
 マリエと呼ばれた女の子が振り向く……が、その表情はすぐに曇った。
「ごめんなさい…有崎君、今日はちょっと用事があったみたいなの」
「……」
 マリエは、夏樹の顔をじっと見つめて。
「私が会いたいから…って言った?」
「ううん、それは…」
「じゃあ、おねーさんが頼んだけど、断られたってこと?」
「あ、うん…」
「……」
「……」
「ふうん、付き合ってるってわけじゃないんだね」
「え?」
「だったらいいよ、変なこと頼んでごめんね」
 そう言って、女の子はててててっと、その場から走り去った。
「……?」
 今の、どういう意味……と首をひねる夏樹に、岬園長が声をかけてきた。
「こんにちわ、橘さん」
「あ、こんにちわ…挨拶もせずお邪魔してしまって…」
 気にしないで、という感じに園長は首を振り……女の子が走り去った方角へと目を向けた。
「あの子に…何を頼まれたのかしら?」
「その、先週……帰り際に、『また来いよ』って子供達に言われた有崎君が、『次は来られるかどうかわからないぞ』って答えたこと、覚えてます?」
「ええ…」
 と、園長がちょっと目を閉じ。
「正直で、誠実な子だな、と思いました」
「あ、あれは別に彼が薄情とかそういうわけではなくて…」
 などと慌てて弁明を始めた夏樹にちょっと微笑んで見せ。
「わかってますよ……子供は、約束を守られることよりも、約束を破られることの方を強く記憶しがちですから」
「いえ、あのっ、そういうわけでもなくて…」
 と、夏樹はあの時の『会いたいから会いに行く事と、約束したから会いに行く事』……それをはじめとした、あの日の会話を話して聞かせた。
 それを聞いた園長は、小さく頷き……そう、と呟いた。
「……有崎君のご両親は?」
「4年前に母親を亡くして、父子家庭です。彼が生まれる前に姉が病死したみたいで、他に兄弟はいません」
 この場に結花がいたなら、『なんでそんな詳しいですか』とツッコミをいれたかも知れないが……園長はそれを夏樹と尚斗の関係の深さと受け取ったに違いない。
 あるかなきかの躊躇い……に、夏樹は園長が切り出すであろう話の内容をいち早く察知し、心の準備をした。
「それで、橘さんは、すこし彼にコンプレックスを感じている…というところかしら?」
 夏樹は、少し思い詰めたような眼で自分の足先を見つめ……ぽつり、と呟いた。
「……ない、と言えば嘘になります」
「……」
「私の方が年上なのに、何もわかってない気がして……自分が、人として大事な何かを欠いた存在なんじゃないか…と、不安になります」
「真面目すぎるのね…橘さんは」
「……そうでしょうか?」
 夏樹の問いかけに、園長は何も答えず……柔らかく微笑んだ。
「それで、あの子の…マリエの話の途中だったわね」
 話をそらされた事による不満と安堵……夏樹はそれを表に出すことなく、先のやりとりを簡潔にまとめて伝えた。
「……どういう意味なんでしょう?」
「えっと…それは…」
 珍しく、と言うべきか……園長は苦笑を押し殺しつつ、困ったような表情を浮かべて、言葉を探した。
「その、つまり……多分あの子は、有崎君を気に入ったか、少なくとも興味を持ったということね」
「……?」
「だから、その…有崎君と仲の良い橘さんに、ちょっと揺さぶりをかけようとしたのよ、きっと」
「揺さぶり……ですか?」
 やや、オウム返し気味に呟く夏樹。
 5秒ほど過ぎて、ようやく言葉の意味が夏樹の心に届いたのか。
「…え、揺さぶりって…え、ええっ?」
 かあああっと、赤くそまった顔を、夏樹は両手で覆った。
「ち、違います…そ、そんな…私は…彼とは…別に…」
 夏樹を見つめる園長の目は優しく。
「……でも、少し妬けるわ」
「な、何がですか?」
 顔を覆っていた手を離し……夏樹が、園長に目を向ける。
「たまにいるの、マリエみたいな子供が」
 そう呟いて、園長が目を閉じる……それは、何かを思い出す仕草にも似て。
「親ないし、親に等しい存在を信じること……そこから子供は人間関係を学んでいくものなのだけど」
「……?」
「一度、自転車に乗ることを覚えたら、それはずっとスキルとして自分の中に残る……両親に死なれたり、何らかの事情で裏切られたと感じたショックによって、心を閉ざしてしまった子供達は、少なくとも心を開くという経験をしている」
 園長が何を言いたいのか……それを悟って、夏樹は口を開いた。
「あり得るんですか…そんなこと?」
 誰かを信じたことがない…などと。
「覚えてないだけかも知れないけど……周りに人の気配があると、眠れないのよ、あの子。朝、昼、夜……気がつくとふっと姿を消していて、時間が経ってから戻ってくる。近くに人がいるだけで、ストレスを感じるのね、多分」
「虐待…ですか」
「虐待程度なら、最近は珍しくもありません」
「ぎ、虐待程度…って」
「……いろんな事情を抱えた子供がいる。それだけのことね」
 いつもとは違う、どこか突き放した口調。
「で、でも…」
「有崎君が言った『いつでも笑ってることが不自然』っていうのは、多分そういう意味でもあるんじゃないかしら」
 夏樹は、園長をじっと見つめた……が、園長は庭を眺めるだけ。
「あの…さっき、『有崎君のご両親は?』って聞いたのは…?」
「橘さんぐらいの年齢で、ごく自然にそういった考えが出来る人は、やはり珍しいから……何か事情を抱えているとしたら、まずはご両親について尋ねてしまうわね、やはり」
「……」
「橘さん」
「はい?」
「彼は…有崎君は、多分特別な人よ」
「それは…」
 なんとなく、夏樹自身も感じていたこと。
「と、いうか…」
 くっと、園長が笑いをかみ殺して、口元を手の甲で隠す。
「あの、人間嫌いといって良いマリエが、物陰からこちらをうかがうなんてね……」
「え?」
 夏樹が顔を上げた瞬間、走り去っていく足音が聞こえた…。
 
「安寿」
「……」
「いや、気配を殺してもわかってるから…俺の真上だろ」
「に、にゃー」
 と、尚斗の真上から、猫の鳴き声を模した声。
「いや、猫は空飛ばないから」
 川沿いの道……いわゆる堤防の上。
 そこを歩いている、尚斗の頭上にポジショニングできるような建物はおろか、建築物もない。
「な、なんでわかるんですか〜♪」
 と、不思議そうに……安寿が、尚斗の目の前に降り立った。
「いや、なんとなく気配で」
「わ、私、天使ですよぉ〜」
「つーか、空を飛んでる姿を見られたら、まずいんじゃなかったのか?」
「いや、だから…姿も消してましたよ〜」
「あ、そうなのか」
「そうなのかって……上も見ずに天使の気配を察知って…どこの達人様ですか〜♪」
 などと、何故か安寿は嬉しそうに言う。
「いや、上を見て安寿がいたらまずいだろ」
「まずいって…何がですか〜♪」
「いや、スカート」
「スカート…」
 安寿はちょっと首をかしげ、スカートの裾を指先でちょっと持ち上げた。
「だから、見えちゃうって。持ち上げるなよ」
「……あぁっ」
 納得がいったのか、安寿がぽんと手を叩き。
「有崎さんのえっち〜♪」
「まあ、健全な男子高生として否定はしないが」
「……有崎さんのえっち〜」
「だから、否定はしないと言ってるだろうが」
「椎名さんや、入谷さんや、秋谷さんや、藤本先生や……多分青山さんも、否定しないという有崎さんの言葉を否定すると思います〜♪」
 と、何故かため息をつきながら安寿。
「で、何か用事か?」
「用事がなかったら、一緒にいちゃいけないんですか〜♪」
「いや、それは別に構わないんだが」
「だったら、問題ないです〜♪」
「つーか、姿なんか消さずに、俺の横を歩けばいいだろう…」
「……椎名さんや、入谷さんや、藤本先生や、秋谷さんや秋谷さんや秋谷さんに目撃されたくないというか〜」
「何で世羽子だけ、3度繰り返す?」
「言わせるつもりですか〜」
「と、言うか……誰かに見られると、なんか問題あるのか?」
「……それがわからない有崎さんに一番問題があるような気がしてきました〜」
「……?」
 首をかしげる尚斗……に、安寿はため息をついて。
「それはそうと、今日はちょっと、焦ってしまいましたよ〜♪」
「なにが?」
「今朝方、いきなり有崎さんの気配をロストしまして〜もう、ドキドキそわそわで、授業なんか全然耳に入らなくて〜」
「待てい」
「はい?」
「なんだ、その『俺の気配をロストした』ってのは…?」
 ふっと、安寿は口元に笑みを浮かべつつ。
「ぱぱらぱっぱぱ〜♪」
 と、あまり詳しく説明するとまずい効果音(笑)を口にしながら、手帳(?)のようなモノを取り出した。
「えーと」
 ぺらぺらと、手帳のページをめくり。
「幸福強化指定選手です〜♪」
「……は?」
「天使は、人の幸せを願うために存在しますが〜なんというか私は〜全ての人を幸せにするには能力不足というか〜」
「……それは」
「そこで私は考えました〜周囲の人を幸せにする人間を幸せにすれば、1人の幸せは大勢の幸せにつながるのではないかと〜♪」
「えーと…?」
「名付けて、『みんなで広げよう、幸せの輪』大作戦〜♪」
 ぱちぱちぱち。
 安寿につられて、尚斗も何となく手を叩く。
 いや、言ってることは決して間違ってないように思えるのだが……なんというか、このほのかに漂ってくる現実感のなさが、尚斗を一種の虚脱状態に置いたわけで。
 ぱちぱちぱちぱ…ち…。
 ふっと、安寿がため息をついて。
「6時間ぶっ続けで説教されました〜」
「……」
「それも、『安寿、最近のあなたはおかしい』とか、変人扱いですよ〜ひどいと思いませんか〜?」
 最近というか、ある意味最初から変だった……という言葉を、尚斗は飲み込んだ。
 考えてみると、最近は気がつけばそばに安寿がいるような気がする。
 屋上の、最初の出会い。
『今日のお礼は必ずいたしますので』
 お礼…なのか、これ?
「有崎さんは、大勢の人を幸せにする希有の人材に決まってます〜有崎さんを最優先で幸福にすることが〜天使としての使命ではないかと〜」
「待てい」
「いや、待ちません」
「むう」
 いつになく、安寿が強い。
「有崎さんを幸せにするんです〜それが、私の〜最優先事項です〜」
 ひたと、自分を見つめる瞳……それは、世羽子のそれと似ていて。
「…あ」
『サービスのつもりだったのですが…』
 つまり、あの時……安寿は、世羽子の記憶を……見た。それも多分、隅から隅まで。
「どうかしましたか、有崎さん?」
「ん、いや、ちょっとな…」
 まだ、そうと決まったわけでもない……と、尚斗は首を振った。
 あの時、安寿は数分で帰ってきた……少なくとも長い時間ではなかった。
「有崎さん〜?」
「ん、あ、いや…その強化指定選手とやらは置いといて」
 多少動揺が残っていたせいか、『置いといて』に合わせて、荷物を置く動作をするという古いネタをかましてしまう尚斗。
 そして当然、安寿はその置かれた荷物を元に戻す動作をして。
「大事な話です〜天使長様に否定されても〜私は1人で頑張って、正しさを証明するつもりです〜」
「いや、そうじゃなくて、俺の気配をロストしたとか、そっちの方」
「愛の力です〜♪」
「ロストしたのか?」
 いかん、ツッコミ方間違えた……と思ったが遅かった。
「だから心配したんです〜有崎さんに限ってとは思いましたが、心配で心配で心配で〜」
 などと、胸で泣かれたら……もう出来ることは1つしかないわけで。
「……心配かけて悪かった」
「ホントですよう〜有崎さんの気配をロストするなんて、初めてだったから、びっくりして〜」
「……って、眼鏡。眼鏡つぶれるぞ」
「大丈夫です〜」
 本当に大丈夫なんだろうか……と思いつつも、尚斗は安寿の身体を抱くようにして、ぽんぽんとあやすように背中を優しく叩いてやった。
 その体勢のまま、尚斗は空を見上げる。
『人に呪われたって言うのよ…』
 冴子の言葉。
 はたして安寿は……どうなのだろう。
 ふっと……これを計算して、冴子は自分をあの場所へと連れて行き、あんな話をしたのではないか……そんな事を考え、尚斗はちょっとばかり背筋に冷たいモノを感じた。
 
 
続く
 
 
 なにいっ、安寿が主人公に寄せてくれた好意は…。
 などと、これを読み終えた安寿ファンは、冴子やら夏樹やらの事情をほったらかして慌ててこれまでの話を読み返しているのではないのでしょうか。(笑)
 1周目8話の『私…何が残念だったんでしょうか?』とかの安寿の台詞は、いろんな意味でかなり深いものになるでしょう……くくく。(ものすごい悪人の笑み)
 1周目は伏線を潜ませるだけで、それはそれで楽しい作業でしたが、伏線を発動させるのも、それはそれで楽しい作業で。(笑)
 まあ、なんというか、話を書くのは、基本的に楽しい作業なんです……時間さえあれば。(苦笑)
 余談ですが『高任君、テストは学力だけでなく、制作者の意図をくみ取るという人間観察も含んだ試験なの。高任君の言うことが正しいとしても、やはり高任君の答えは間違っている』などと詭弁で逃げたY先生は、今もお元気でしょうか。
 
 いや、大地震で大津波で原発で……なんというか。
 このHPを訪れる人の数は微々たるモノですが、何らかの被害に遭われた方もいるでしょうし、親族や知人まで含めると、本当に他人事ではないとしか。
 天使が総出で、人間の幸福を祈っていると信じたくなります。

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