2月1日(金)……深夜、青山家敷地内。
 
「それで、何のお話かしら?」
 青山にすすめられた椅子に腰掛け、冴子はちょっと微笑んで見せた。
「……話をする気にさせる方が先決ですかね」
「と、言うと?」
「俺が何かを聞いたところで、まともに答えるつもりもないんでしょう?」
「質問の内容によるわね」
「じゃあ、何故に今になって……ですか?」
「質問の意味が分からないわ」
 と、冴子が肩をすくめて見せた。
「ふむ……電気でも消しますか?」
「何のために?」
「表情が読まれないとなれば、多少口が軽くなるかも知れませんし」
「もしそうするなら、そこの…」
 冴子がすっと壁を指さして。
「隠しカメラの電源も忘れずにね」
「ほう」
「……なに?」
「だとすると、あの保健室の出来事は、あえて盗聴させてくれたわけですか?」
「なんのこと?」
 青山が冴子を見つめる……が、冴子の表情はピクリとも動かない。
「橘先輩とはどういう関係です?」
 それ以上踏み込むことはせず、青山はいきなり矛先を変えた質問を発した……が、冴子の返答はあくまでもよどみない。
「友人ね」
「水無月先生は?」
「香月冴子のカウンセラーの1人…かしら」
「藤本先生は?」
「間接的な、教師と生徒ね」
「ふむ」
 青山は口元に笑みを浮かべて言った。
「無意味ですね」
「そう、私は割と楽しいし……こうやって言葉を交わすだけでも、キミにとってはプラスになってるんじゃないかしら」
 と、これまた同じように口元に笑みを浮かべる冴子。
 確かに冴子の言に一理ある事を認めつつも……この件に関してできる限り短期決戦を望んでいた青山は、牽制の言葉を放つ。
「では、九条御子に、しばらく学校を休んでもらいますか」
「あら、無関係な相手を害するなんて、らしくないわね」
 と、冴子は表情も変えずに言い返す……表情だけではなく、その口調にも深刻さは一切うかがえない。
「無関係?あなたにとってきわめて使い勝手のいい道具の間違いでは?」
 青山の皮肉な口調に対し、冴子はやわらかな微笑みを浮かべ。
「それ、有崎君の前で、同じ事が言える?」
「別に、俺がやっていることではないですし」
「しばらく学校を休んでもらう…の方よ?」
「言う必要がどこにあります?」
「それもそうね」
 と、冴子が小さく息を吐き。
「……問題は、キミがわざわざそれをやらなくても…ってことよね」
「椎名曰く『有崎以外の全員に対する嫌がらせ』だそうですよ」
「なるほど…ね」
 冴子は苦笑を浮かべた。
「何も知らないはずなのに、急所だけは押さえる……やっかいな子よね」
「まあ、椎名に嫌がらせをされるだけの資格はありますよね、お互いに」
 青山の問いには答えず、冴子はちょっと笑って。
「面白いでしょ、あの子」
「ええ、確かに」
「そうねえ…」
 冴子は、顎の先に指を当てつつ。
「麻理絵には、私に対する嫌がらせという認識はほとんどないと思うわ」
 質問に対する答えになってませんよ……などと、無粋な発言をする青山ではない。
「だから面白いんでしょう?」
「そうね。多分麻理絵は、有崎君と違って自分を信用し切れてないから」
「ほう、それにしては…」
 そう呟いた青山に向かって、冴子が微妙な視線を向けた。
「麻理絵の哀しみを理解しがたいでしょうね、キミには」
「必要ありませんね、俺の役目とも思えませんし」
「あら、冷たい」
「その言葉、そのままお返ししますよ」
「ごめんなさい、いらないわ」
「……」
 軽口……というより、その冷えた口調に青山がちょっと口をつぐむ。
「お気に入りではあるんだけどね、私があの子にしてあげられることは何もないの」
 と微笑む冴子……を、青山がじっと見つめ。
「むしろ邪魔ですか?」
「と、いうと?」
「有崎と椎名にくっつかれると困るのでは?」
「さて、どうかしら?」
 微かに、青山と冴子の視線が絡み合う……と、冴子はちょっと目を伏せて静かな口調で言った。
「有崎君と出会ったことは麻理絵にとって不幸だったかも知れないけど、世界全体でいうなら幸運な事よ、多分ね」
「椎名が有崎と出会ったことは……不幸ですかね?」
 と、ここで初めて冴子がちょっと言葉を選ぶような間を取った。
「……麻理絵は、自分の想いに妥協できないところがあるから」
「……」
「有崎君に助けてもらいたいのに、有崎君では自分を救えない……多分、麻理絵は本能的にそれに気付いてる」
「……ほう」
「……というのは、私の推測だけど」
 冴子は一旦言葉を切り……ちょっと笑った。
「とにかく、ものすごく屈折してるから、あの子は」
「なるほど」
 と、青山は小さく頷いた。
「有崎との出会いが、椎名の中に屈折をうむきっかけとなった…と?」
「そこまでは言わないけど…有崎君と出会わなかったら、今頃麻理絵は、悪意の塊みたいになってたかも知れないわね」
「『悪意』、ね…」
 青山の皮肉な呟きに、冴子はちょっと眉を寄せ。
「自分の欲望のままに…と言い直す方がお好みかしら?」
「1人が不幸になることで他の全員が幸せになるなら、その1人は当然不幸である状態を受け入れるべきという理論は、人間社会でありふれた意見ですが……それと同じ理屈で、椎名が不幸である状態が望ましいと?」
「……そうなるわね」
 そう答える冴子の表情が微かに曇る。
「ふむ…」
 青山は一呼吸置き。
「……1つ確認しておきたいんですが」
「何かしら?」
「いざというとき、九条御子を守るつもりはあるんですよね?」
「……」
 冴子のそれは意表をつかれての沈黙ではなかった。
「ほう」
 嘲るような青山の呟きに、冴子は何も言わず、ただじっと青山を見つめるのみ。
「互いに利用し合うというならまだしも、俺ですら利用した相手にはそれなりの対価を与えますけどね。九条御子を、ただ利用するだけですか」
 自分自身の感情を全て押し殺した能面のような表情で、冴子が呟くように答えた。
「……その通りよ」
「……天使らしい、薄汚い言いぐさですね」
「仕方ないわ」
 冴子はちょっと言葉を切り……微笑もうとして失敗したような微妙な表情で、言葉を続けた。
「天使って存在は、薄汚いモノだもの……でも」
 『でも』の後に、さて、何らかの言い訳がでてくるかと思いきや、冴子の口からでたのは意外な言葉だった。
「あなたの母親は別よ」
「……例外が存在するなら、そう決めつけたモノでもないでしょう」
 その言葉に、冴子はじっと青山を見つめ……口を開いた。
「……何も、聞かされていないの?」
「天使云々どころか……母は、最後に『自分が人間ではない存在だと示しただけ』ですよ……ただ」
「ただ…?」
「$¥*%#&、@:”&」
「っ!?」
「母が俺を……俺と認識して言ったのかどうか怪しいですが、それが最後の言葉です」
「そう…」
 冴子は……息をはくように呟いた。
「そうだったの…」
「……」
 やがて、ぽつ、ぽつっという音と共に……冴子の足下に、黒いしみが現れた。
 そうして俯いたまま微かに肩をふるわせ続ける冴子を、青山はただ黙って観察し続け……どれほどの時間が経過しただろうか……冴子がぽつりと呟いた。
「言葉の意味そのものは、大したことじゃないわ…」
「……」
「この先、あなたと共に幸運があるように……そういった類の祈りの言葉のようなものだから」
「……なるほど」
 なおも涙を流しながら、冴子は……それを拭うこともなく、ぽつぽつと呟き続ける。
「ただ……その言葉は…その言葉を口にするということには、天使にとって特別の意味が…あるの…だから」
「別に、説明はいらないですよ。興味もないですし」
 青山の言葉を額面通りに受け取ったのか、それとも好意と受け取ったのかは不明だったが、冴子は小さく頷いた。
「……そうね。少し、言い訳させてもらえば、私とあなたの母親は……仲が良かったの」
「いいんですか、そんなことまで俺に言って?」
「いいのよ」
 音もなく、すっと冴子が立ち上がる。
「私に残された時間も、もうそれほど長くないから」
「……」
 青山が口を開こうとした瞬間、冴子は顔を上げて青山をじっと見つめた。
 それは、何か祈るような表情で……青山から言葉を奪う。
「……帰りますか」
「ごめんなさい、本当はもっと他の話をしたかったんでしょうけど…」
「話す気もないのに?」
「……ごめんなさい」
 もう一度その言葉を残して……冴子は闇に溶け込むように姿を消した。
 そして青山は1人、しばらく沈思し……小さなため息と共に首を振った。
「……最期まで仲が良かったのか、かつて仲が良かったのかで、随分とニュアンスが違ってくるんだが」
 青山はちょっと目を閉じ……背もたれに身体を預けた。
 天使、もしくは天使という存在に対する嫌悪感……冴子から感じたそれが、演技であるとは青山には思えず、ブラフをかけたのだが。
「……別のカードを切るべきだったか」
 青山の呟きからは、期待も失望も、感じ取れはしなかった……。
 
「あ。麻理絵…」
「あれ、紗智。何か用?」
「え、あ…その子、誰?」
「ん、友達だよ、私の」
 それが何か?という表情で麻理絵が見つめてくる。
「……」
「そういうわけだから、もういいよ、紗智は」
「え?」
「だって、紗智ってつかえないんだもん」
「ちょっ、ちょっと?」
 麻理絵の微笑みは邪気がないだけに、より一層酷薄な印象を与えた。
「そもそも、私と紗智はギブアンドテイクな関係だったわけだし、お互いに相手の役に立たないなら、友達でいる必要もないじゃない」
「な、何言ってるの?友達ってのはそんな…」
 紗智の言葉を遮るように、麻理絵が手で口元を隠しつつ、くすっと笑った。
「今回のことは良い機会じゃないかな。紗智はそういうとこ臆病だから、私が切り出さないといつまで経っても言えないでしょ」
「ちょっ」
「もう、みちろーくんもいないしね。私と友達でいても、紗智にはメリットないよね」
「…っ!?」
「ごめん、図星だった?でもね、最初から気付いてたよ、私はもちろん、みちろーくんもね」
 麻理絵は再び笑い、隣にいた少女の手を取って紗智に背を向けた。
「じゃあね」
「まっ、待って…麻理絵っ」
 手を伸ばす……が、2人の背中はびっくり卓雷の速度で遠ざかっていく。
「待って、待ってってば、麻理絵っ!」
 
 がばあっ!
 虚空に向かって突き出された己の手が、補助灯でぼんやりと浮かび上がって……紗智は、一拍遅れて、それが夢だったことに気付いた。
「……さいってー」
 夢の内容と言うより、それは自分自身に向けての呟き。
 携帯を手に取って、時間を確認……午前3時40分。
 紗智はふうっと一息つき、再び布団に背中から倒れ込む……と身を切るような寒気を覚えて身体を震わせた。
「寒っ…って、うわ…」
 全身がいやな汗に濡れている。
 このままだと間違いなく風邪を引く……と、紗智は部屋を出て一階へと向かった。
「…ふう」
 冷えた肌にあたって弾けるシャワーの感触が心地よかった。
 ただ、その熱が心にまで届いてこない。
「……」
 きゅっ。
 シャワーを止め、身体を拭う。
 洗面所は既に暖房で暖まっていた……下着を身につけ、紗智は鏡に映った自分の姿を見つめる。
 表情が微妙に暗いのを除けば、いつもと同じ、自分の姿。
 まあ1つだけ違うのは、濡れた髪が素直にのびている所ぐらい……もちろん、乾かすとくせのある猫っ毛性質を露わにするのだけど。
 この、扱いにくい自分の髪の毛が紗智はあまり好きではなく……麻理絵のような、癖のない、柔らかな長髪をうらやましく思っていた。
「……」
 トレーナーの上にガウンを羽織り、キッチンに足を踏み入れた瞬間、紗智はぎょっとした。
「ま、ママ?」
 補助灯が点っているとはいえ、薄暗いなか1人グラスを傾けている姿はなかなかに怖いものがある。
「あら、紗智だったの…」
 グラスを手に、紗智の母が振り返る。
「あの人かと思ったわ」
「あ、今帰ってきたの…?」
「ええ、そうよ……さてと、私もシャワー浴びて少し寝るわ」
 と、紗智の母がグラスを置いて立ち上がる。
「え、お酒呑んですぐは…」
「大丈夫よ」
「……明日も、早いの?」
「大丈夫」
 そういって、紗智の母はキッチンから姿を消した。
「……疲れてるのはわかってるけど」
 ぽつりと。
「話したいこととかないわけ?」
 紗智の呟きは、キッチンの闇の中へ。
 
 さて、九条家の朝は……とても早い。(笑)
 青山家のそれと比べるわけにもいかないが、敷地はなかなかに広大で、平屋建ての建物はいくつものはなれの建物とつながって、慣れない人間にとっては迷路の如き有様だ。
 当然、九条家の4人だけが住んでいるわけではなく(弥生は家出中だが)、住み込みの内弟子が数人に、茶道や日本舞踊やら親交の深い別ジャンルからの修行というか、預かっている子弟も数人、そして使用人やら何やらである意味大家族。
 少しずつ日が長くなっていく時期とはいえ、まだまだ2月になったばかり。
 朝の5時という時間は、当然真っ暗なのだが……御子は、いつもと同じくそんな時間に目覚めた。
 身を切るような寒気の中、御子は寒さに身を縮こませるでもなく洗練された動きで着替えを終える。
 テレビ部屋云々はさておき、九条家にはあまり文明の利器がない。
 いや、ないというと語弊があるが……内弟子や使用人は別として、九条家の人間は文明の利器をあまり使用しない。
 夏の暑さ、冬の寒さ……それらをごく当たり前に受け止めるためなのかどうか、いわゆる冷暖房器具が各部屋に常備されてはいない。
 つーか、母屋そのものがなかなかに歴史ある建物というか、歴史的文化財指定によってエアコンを設置するために壁に穴をあける等もってのほかという事情も影響しているかも知れないが。(笑)
 ちなみに、はなれの建物には文明の利器がほぼ完全装備されており、別ジャンルから修行でやってきた人間および、使用人の半分ほどはそちらで寝起きしていたり。
「あ、おはようございます、御子お嬢様」
「おはようございます、静さん」
 はなれの建物へと向かう廊下の途中で内弟子の1人と挨拶を交わす。
 まだまだ暗闇であるから、御子は声で判断し、内弟子は御子のシルエット……主に背の高さ(笑)から判断したものであろう。
「…と」
 内弟子は身体を震わせ、御子にもう一度頭を下げてから急ぎ足で去っていく。
「……」
 それが何を意味するのかに気付き、御子はちょっと恥じいつつ歩き始めた。
「おはようございます」
「あらぁ、御子さん。おはようさんです」
 と、この地方では聞き慣れないイントネーションの返事。
 彼女は九条流の内弟子ではなく、ある日本舞踊の家元の息女で……まあ、いわゆる花嫁修行というか、見聞を広めるために九条家で預かって(以下略)。
 御子は彼女に華道の基本を教え、彼女は御子に日本舞踊を教える……まあ、言ってみれば、九条家はある種の教育機関の役割を果たしていると言ってもいい。
「……何か良いことありました?」
「え?」
「御子さん、すぐに表情にでますから」
「そ、そう、なんですか?」
「御子さんも年頃やし、なんやええ人でも……って、女子校やから、そういうわけにもいきまへんか」
 と、手を振って自分の言葉を自分でうち消す彼女。
「あ、その…お友達が、できました」
「え、お友達?」
 それは少し意地悪く……が、御子は気付かなかったようで。
「はい、1つ年上の方なのですが……話していると、すごく落ち着きます」
 こりゃ、本当にただのお友達だわ……と、少し落胆しつつも、そこは年上の貫禄をみせて。
「良かったですねー(棒読み)」
「はい」
 と、花開くような微笑みで御子が応じるモノだから。
「……ほんま、御子さんは可愛いお人やねえ…」
 ……彼女に限らず(笑)、御子は周囲の人間に愛されているのだった。
 ただ、心の中にある巨大な闇の存在が……御子をある意味縛り付けているのである。
 
「おお、霜柱」
 靴の底から伝わるザクザクとした感触を楽しみながら、尚斗は洗濯物を干した。
 例によって、父親は日の昇る前に出社したため、一人きりの朝食、一人きりの朝の支度である……いや、そう思っていたのだが。
「……珍しいな」
「まあな」
 と、尚斗が門を開けるまで、敷地内に入ってこない青山はある意味礼儀正しい存在と言えるだろう。
「ま、ちょっと待っててくれ」
 と、再び洗濯物を干し始めた尚斗に『まめだな』と青山が呟く。
「まめも何も、俺がやらなきゃこの家おわるんだっつーの」
「確かに…」
 尚斗の父親が、家事をやらないのではなく、できないということを知っているだけに、青山は同意するしかない。
「……で?」
「いや、特に用事というわけじゃないが……まあ、たまには俺にも朝飯を振る舞ってもらおうかと」
「また、食事に毒でも混ぜられ始めたのか?」
「いや、そういう事でもない」
 と、青山が薄く笑い。
「いいかげん、俺に毒が効かないことは理解しただろうし」
 数年前、青山家の使用人が(以下略)。
「いや、そうじゃなくて。毒が混ざるとまずいだろ、飯の味が」
「そういう問題でもないと思うが…」
 と、青山の薄い笑いが苦笑へと転じ。
「まあ、ここが一番気楽に飯が食えるのだけは確かだ」
「大変だよな、金持ちってのも」
「……有崎程じゃないと思うが」
 呆れたような青山の呟きに、『何言ってんだ』という感じに尚斗は青山をちょっと見つめ。
「まあ、青山にしてみたら苦労と言うほどのことでもないかもしれんが…」
「……幸せだな、有崎は」
「生まれとか育ちに関して、俺を責められてもな…」
 ちなみに、会話がかみ合ってないことを尚斗は理解していない。(笑)
「まあ、あがれよ…」
 と、勝手口のドアを開いた瞬間。
「突撃〜隣の朝ご飯〜♪」
 と、陽気なかけ声と共に、巨大なしゃもっじっぽい物体を持った安寿が出現し、尚斗は慌ててドアを閉めた。
『な、何で青山さんが〜気配とか全くなかったですよ〜』
 などとドアの向こうで慌てているらしい安寿の声が聞こえてきたモノだから、尚斗はわざとらしく『ごほん、ごほん』などと空咳をしてごまかそうと試みてみた。
「どうかしたか?」
「いや、えーと…」
 さて、ここからどう青山が絡んでくるのか…。
「別に俺は、何も見なかったし、何も聞かなかったぞ」
「その言いぐさからして、思いっきり見たし、聞いてるじゃねえかっ!」
「……」
「……青山?」
「いや、違うな……何故だ?」
「は?」
 困惑する尚斗をよそに、青山はちょっと首を傾げて何かを考えているようで。
「椎名にはなくて、橘にはあり、秋谷にはなくて…」
「何のなぞなぞだ…」
 等と呟きつつも、尚斗としては動揺状態から回復しつつあった。
 実は親戚とかいう言い訳が通用する相手でもないし、朝早くから遊びに来ましたという言い訳も思いっきり嘘臭いわけで。
 表だって追求されなくとも、青山が色々調べて何らかの不自然さに気がつくのは火を見るより明らか。
 もちろん、青山の母親が天使だった……などという事情を知らない尚斗にとって、そもそも、安寿的に自分の正体をばらしてはいけないという縛りがあるから事態は微妙に複雑で……つーか『じつはこいつ、天使なんだ』などと説明したところで、さすがの青山といえど納得してくれるかどうか疑問に思うのは仕方があるまい。
 まあ、安寿の正体を話すわけにはいかないだけに、正直に話すという選択肢は最初からない。
 と、すると……『聞くな』と頼むか、安寿のポテンシャルに期待を託すか。
 
 『ここは、ダメ元で安寿の機転に期待してみるか』
 
 いくら青山が相手とはいえ、こういう状況を覆す必殺技が安寿にある事を思い出し、尚斗はちょっと咳払いし……微妙に大きな声を出した。
「あ、いや隠すつもりじゃなかったんだが…いきなりでびっくりしたというか」
 と、青山に向き直りつつさりげなく右手で青山の肩をおさえ、左手でドアを開けた。
「安寿」
「あらためまして〜尚斗さんの許嫁で、安寿と申します〜♪」
 ぺこり。
「あぁ、これはご丁寧に」
「違うっ!」
 と、尚斗の手は青山から安寿の肩へ。
「いいのかっ、そもそもそれで安寿はいいのかっ!?」
「有崎さんなら〜♪」
 恥ずかしげに頬を染める安寿を、尚斗の手ががくがくと揺さぶった。
「そ・う・じゃ・な・く・てっ!」
「この言葉を出せば、大抵の道理が引っ込むと聞いたのですが…?」
「そりゃ引っ込むけどっ、別の無理が突き出るだろっ?」
 私、間違えましたか…と、ここで初めて安寿がうなだれる。
「許嫁がいたとはな、初耳だぞ有崎」
 と、口元に含み笑いを浮かべつつ青山。
「…って、嘘って気付いてるよなっ!?気付いてるだろ、青山っ!?」
「もちろんだ」
「だったら…」
「聞いていいのか?」
「……え?」
「そこにいる天野が何者か、俺が聞いていいのか?」
「……すまん」
「俺は何も見なかったし、聞かなかった……それが一番良いと思うんだが」
 違うか?……という表情で青山。
「そりゃ、そうなんだ…けど…な」
 ひょっとしなくても、安寿の正体ってバレバレなんじゃないのか……と、尚斗の言葉は自然と歯切れの悪いモノになる。
 尚斗の表情やら口調に、何らかのフォローの必要性を覚えたのか、青山がちらりと視線だけを安寿に向けて呟いた。
「まあ、正直……それが演技とも思えんし、自分の中のイメージが微妙に破壊されたのは事実だがな」
「…本人を前にして、同意を求めるような表情はやめてくれ…」
「あの〜」
 おそるおそる、安寿。
 どうやら、今自分がものすごい侮辱を受けたことには気付いていないらしい。(笑)
「それで〜青山さんは納得できるのですか〜?」
「誰しも、秘密の1つや2つ抱えているもんだろう」
「……ありがとうございます〜」
「……邪魔をしたな、有崎」
「え、おい、青山…」
「またの機会に、な」
 そう言い残すあたり、やはり朝飯云々は口実で、何らかの話があったんだろうな……と尚斗は申し訳なく思うのだった。
 そうして青山がいなくなってからしばらくして、安寿がぽつりと呟いた。
「今朝の青山さん〜気配をまったく感じなかったです〜」
「ん?青山ぐらいになると、気配なんて自由に消せるぞ」
「そうじゃなくてですね〜なんといいますか〜?」
 人の気配と言うより…何か別の…。
「う〜?」
 納得がいかないというより、何かが意識にひっかかって気になって仕方がないとう感じに、安寿は首をひねりひねり。
「つーか、安寿」
「はい〜?」
「何か用事があったんじゃないのか?」
「?」
「いや、わざわざやってきたわけだろ?」
 ひょこ。
 尚斗の目の前に突き出された巨大なしゃもじ。
 どうやら段ボールを切り抜いて作ったらしく、黒マジックで書かれた『突撃隣の朝ご飯』という文字がとても綺麗なのが微妙に場違い感を演出している。
「……?」
「いつもお世話になってますし、今日は私が腕を振るおうかと思いまして〜♪」
 などと、少し恥ずかしそうに安寿がしゃもじで顔を隠す。
 何やらもう、色々ツッコム所が多すぎる事による脱力感が、尚斗に苦笑を浮かべさせ。
「んじゃまあ…頼もうかな」
「はい〜♪」
 しゃもじの影から、安寿の良い笑顔が現れた。
 
「……はい、一ノ瀬さんと、宮坂君が欠席、と」
 綺羅がぱたんと出席表を閉じた。
「風邪が流行っているそうですから、みなさんも注意してくださいね」
 綺羅の言葉に、男子生徒の大半が大きな声で元気に返事。(笑)
「まあ、一説によるとバカは風邪をひかないはずなんだがな」
「紗智はバカじゃないよ、尚にーちゃん」
「いや、紗智じゃなくてバカの方」
「宮坂君は、風邪じゃないと思うよ」
「紗智だって風邪じゃないだろ、多分」
「そーだね」
 端から見ると、2人のそれは幼なじみらしい会話なのだが、青山に言わせると、自然すぎて不自然だという感想を漏らすかも知れない。(笑)
「あ、そうそう尚斗君」
「はい?」
 にこにこ……とはちょっと違う微笑みを浮かべ、綺羅はわざわざ教卓から尚斗のそばまでやってきた。
「明日の放課後、時間あるかしら?」
「時間、ですか…?」
 言うまでもなく明日は土曜日。
 どの程度……にもよるが、時間はある。
「……ぁ」
 ふっと、『来週そっちに戻るから、その時…』というみちろーの言葉を思い出し。
「なにか?」
「いや、2、30分ならともかく、多分用事あります」
「……そう」
 と、残念そうに綺羅が呟くが……何か考えるところがあるのか、食い下がる気配は全くなかった。
 
「…青山君……有崎尚斗君…」
 女子から始まったテスト返却が男子の順番に。
 綺羅に呼ばれて、尚斗は教壇へ。
「……」
 綺羅の手から答案用紙を受け取って半回転……したところで、動きを止めた尚斗の背に、綺羅が問いかける。
「……何か?」
「あ、いや……いいです、別に」
 と、そのまま席に戻った尚斗に向かって、今度は青山が。
「どうかしたか?」
「んー」
 解答用紙に目を近づけながら、とりあえず生返事の尚斗に。
「……監視されてるって、実感が湧いたか?」
「つーか、わけわかんねえ」
 間違えたり、わからなかった部分はそのまんま……なのに、正解していながら消した解答欄は正解扱い。
「……まあ、『試験は真面目に受けましょう』的な抗議と思えば良かろう」
「……そうかあ?」
 と、首をひねり……尚斗は、青山に視線を向けた。
「ちなみに青山は?」
「俺はそもそも、答えを書いてから消すなんて事はしないからな」
「むう……じゃあ、賭になんねえじゃん」
「無効…だな」
 暇つぶしのネタが1つ消えた……程度に残念ではあるのか、それともそれすらも演技なのかはわからないが、青山がため息をつく。
 
 さて、午前中は、全てテスト返却と残りの時間で解説……という、判で押したような授業で、そのまま何事もなく昼休みに。
「……今日はいいのか、椎名」
「別に、約束はしてないから」
「まあ、一ノ瀬もいないしな」
「そうだね、そうとも言うね」
 などと、青山の言葉をさらりとかわし、麻理絵は尚斗に視線を向けた。
「みちろーくんから、連絡あったの?」
「いや」
 尚斗が首を振ると、麻理絵はちょっと首を傾げ。
「え、でもさっき藤本先生に…」
「この週末に、一度帰ってくるみたいなこと言ってたからな……みちろーの性格からして、後はいきなりやってきて驚かす……って感じだろ、多分。さすがに、訪ねてきたのに留守ですって状態は避けたいしな」
「……」
「……どうした、麻理絵?」
「尚…にーちゃんはさ…知ってるの?」
「何を?」
「色々」
「まあ……あいつの両親が離婚した、ぐらいは」
「……」
「有崎、少し用事を思い出したから俺は行くぞ」
「ん、ああ…」
 席を立ち、教室を出ていった青山の背中を見送りながら……麻理絵がちょっと笑った。
「青山君って…基本的に、自分から他人に関わりたくない人なんだね」
「まあ、そういうところがあるのは否定しないが…あれは、青山なりに気を遣ってくれただけだと思うぞ」
 そう言ってから、尚斗がじろりと麻理絵を睨む。
「で、何が言いたいんだ?」
 尚斗の視線を、真正面から受け止めて。
「……最初の日、みちろーくんが遠くの学校に通ってるって言ったら、『それは意外だ』って言ったよね?」
「……ああ」
「あのね、私もちゃんと話すから……嘘は無し…だよ?」
「……ここでか?」
「うん、今…ここで」
 一旦床に視線を落としてから、麻理絵はつっと顔を上げ。
「あの日…尚にーちゃんが逃げたのは、みちろーくんが私を好きだって事に気付いてたから?」
「いや」
 尚斗は首を振った。
「正直、それに気付いたのはもっと後だったな。無意識レベルでどうとか言われると自信はないけど、俺の意識としては、みちろーは関係ない」
「……」
「後づけの理由なら色々言えるけどな……意味が分からないとか、なんかおかしいとか、とにかく混乱したというか…まあ、『逃げた方がよい気がした』ってのが、多分一番正確だと思う」
「……」
「……麻理絵?」
 そんな無責任な……という非難の言葉がでてくるかと思いきや。
「そっか……すごいなあ、尚斗君は」
 麻理絵の口からでたのは、意外にも感嘆の言葉だった。
「……?」
 不思議そうな尚斗の様子には構わず、麻理絵は………切羽詰まった感じのない、真面目な表情で言った
「じゃあ、私も言うね……あの時の言葉、半分ぐらいは嘘だから」
「それは…」
「……」
 自分を見つめる麻理絵の表情が、尚斗にこの前の放課後のことを思い出させ……あれは麻理絵の『好意』を、全否定するような言い方だった、と気付かせた。
「……この前は、悪かった」
「ん、わかればよろしい」
 と、腰に手をあて、麻理絵がちょっと威張ったように言う……ただ、椅子に座ったままでそれをやったから、傍目にはおかしなポーズにしか見えなかったのだが。
「……それで?」
 本題はまだなんだろ……と、麻理絵に目で問いかける。
「みちろーくんのこと……頼むね」
「……麻理」
「幼なじみだからだよ」
 尚斗の言葉にかぶせるように。
「みちろーくんのこと、どうでもいいなんて思ってない……」
 ぽつりと。
「紗智のことだって…同じ」
「……ん、そうだな」
 ごく自然に、尚斗の手は麻理絵の頭へ伸びて。
「昨日、尚斗くんに『紗智を傷つけようとしてやった事じゃないだろ、あれは』っていわれて、すごく嬉しかった」
「……」
「多分、尚斗くんはそれを理屈では理解してないとは思うけど…本当に嬉しくて、涙が出そうになった」
「なんか、微妙に引っかかる物言いだな…」
「おばさんも言ってたけど…尚斗くんはね、やっぱり『理性より、本能の人』なんだよ」
「ただのバカって言われてる気もするが」
「あはは、そうかも」
 ちょっと笑って、麻理絵は自分の頭を撫でる尚斗の手首を掴んだ。
「尚斗くん」
「ん?」
「……ごめん、やっぱりいい」
 そう言って尚斗の手首を放す麻理絵の表情は明るい。
「結局……麻理絵は、俺にみちろーの事を頼みたかったのか?」
 そんな尚斗の問いかけに少し間をおいて……明るい表情とは対照的に、麻理絵はどこか冷めた口調で答えた。
「違うよ」
 
「……今日は何の用事ですか?」
 ぶっきらぼうな結花の対応に、尚斗はちょっと首を傾げて。
「特には、ねえなあ…」
「……」
 大げさに過ぎる感じのため息をついてから、結花が口を開く。
「あのですね、ここ、演劇部なんですよ」
「うむ」
「で、再来週に迫った公演に向かって、普段以上に忙しく活動中なわけですね、見ればわかると思いますけど」
「つーか、あのあたりもたついてるぞ」
「ちょっと失礼」
 と、一旦場をはなれた結花が、しばらくしてから戻ってくる。
「なんか、あの娘達、お前の指示を待ってるっぽいぞ」
「……ったく」
 と、再び場を離れる結花。
「あっちで呼んでる」
「美術部から客が来たぞ。なんか、大道具の件でって」
「なんか、体育館使用の件で話がしたいっていってるぞ」
 
 以下同様繰り返し。
 
「ほい、お疲れさん」
 とりあえず一段落した結花に、尚斗は隙を見て買ってきておいたこーひーみるくの紙パックを手渡した。
「……」
 何か言いたげに結花がじろりと尚斗を睨んだが……どうやら、それを飲んでからにしようと思ったらしく。(笑)
 ちうー。
「つーか、演劇部で一番忙しいのって、ちびっこじゃね?」
「だから、用事もないのにここに来るなって言ってんですよっ!」
 紙パックは左手に保持したまま、右手で尚斗の制服を掴む結花。
「あ、すまん。邪魔するつもりはこれぽっちもなかったんだが…」
「その気がなくても邪魔になるんですよっ!大体…」
『……くすくす』『別に邪魔じゃないよね、私達には』
 尚斗の制服を掴んでいた手を放し、笑い声の聞こえてきた方に結花が視線を向ける。
「……なんですか?」
「……」
 誰も何も答えない……が、口元を手で隠しつつ、まわりの人間と意味ありげな視線をかわし合う部員達。
 何はともあれ少しクールダウンしたのか、結花はあらためて尚斗に向き直り。
「……だから、用事がないなら帰ってくだ…」
『……昨日なんか、来てくれないから反対にそわそわしてたのに』
 ぎぎぎ…っと、ロボットのような仕草で『雑音』が聞こえてきた方角に振り向く結花。
「なにか、言いましたか、今?」
 世羽子と比べるのは無茶な話だが、外見などの二次的な要素は抜きにして、ちびっこの存在感は並ではない。
 その気になれば、少女の口をつぐませる程度の凄みというか心理的な圧力は出せる……などというと大層な表現になるのだが。
 普段おとなしい人間が、いきなり教室で机に拳を叩き付ける……それだけの行為で、周囲はたやすく萎縮するのだ。
 そう考えると、それほど特別なことではない。(笑)
 まあ、それはさておき……もちろん、その場で口をつぐませる事に何の意味もないし、結花だってそれがわからないわけはないはずで。
「……言いたいことあったら、はっきり言ってみたらどうです?」
 尚斗はちょっと首を傾げた。
 事情はよくわからないが(笑)、何やらちびっこがすすんで騒ぎを大きくしようとしているように思ったからだ。
「……ってことは、止めると反対にまずいのか?」
 ぎろり。
「そこ、何ぶつぶつ言ってますか?」
「ふむ…」
 もちろん、ちびっこ程度の圧力に屈するような尚斗ではない……が、この状況でどういう手を打つべきかと、しばし悩む。
 だがしかし。
「有崎君、きてくれたんだ」
 などと、その場に現れた『夏樹様』の威力ときたら。(笑)
 それはまさしく、登場するだけで場の雰囲気を塗りかえる女優にふさわしく。
「あ、夏樹さん、こんちわ」
 とりあえず救われたかな……などと夏樹に挨拶しつつも、尚斗はちびっこが安堵したようにため息をついたのを見逃さなかった…。
 
「お疲れ」
「結局、最初から最後まで……」
 ちらりと目の動きだけで夏樹を見てから、呆れたような表情で尚斗を見上げて。
「暇なんですね、有崎さんは」
「まあな。特に用事もないし、今夜はっつーか、今夜も親父は遅いしな」
「む、そーいや、有崎さんのお父さんは何やってる人ですか」
「さらりーまん」
「……大抵はそうですよ」
「まあ、正直どういう会社で何やってるのかは良く知らんというか……」
「〇×商…」
「……」「……」
「……な、なんでもない」
 尚斗と結花の視線を同時に受け、どこか慌てたように首を振る夏樹。
 と、いうか……残っている演劇部部員が少なくなり、そろそろ結花の仕事も一段落しそうになった時から、夏樹は微妙にそわそわと、落ち着きのない状態が続いていたりする。
「そっちの戸締まり、確認してもらっていいですか?」
「ん、大丈夫だ」
「じゃ、電気消します……夏樹様、忘れ物とかないですね?」
「……ぁ…の」
「……夏樹様?」
「あ、有崎く…ん」
「はい?」
 背中を丸め、尚斗ではなく床(誤字じゃないよ)を見ながら夏樹。
「えっと…明日の放課後…お暇…ですか?」
「え?」
「……暇なら…ちょっと、付き合って欲しいところが…」
 朝に同じような事を綺羅に言われていたため、尚斗はさらっと断りの言葉を口にすることができた。
「あ、すんません。明日は、多分人が訪ねてくると思うんで、夕方までには帰ろうと思ってるんで…」
 げし。
「……」
「すみません。足下が暗くてちょっと滑りました」
「そうか、ケガはなかったか?大丈夫か?」
 電気がついてて暗いも何も……などとツッコム事はせず、敢えて優しく声をかけてやると、ちびっこは気まずそうに目をそらした。(笑)
 とはいえ、ちびっこのキックを『断るだけじゃなく、ちゃんとフォローしろ』という風に解釈した尚斗は、夏樹に向き直って言葉を付け加えた。
「えっと、幼なじみに4年ぶりぐらいで会うんですよ」
「4年ぶりに会う幼なじみって事は……」
 言葉だけでなく、夏樹の動きが止まり……2秒ほどの間をおいて、夏樹はどこか取り繕うように微笑んだ。
「4年ぶりの再会なら、懐かしいよね。ごめんなさい、困らせて」
 今なんか、言葉のつながりがおかしくなかったか……などと思いつつ。
「あ、いえ、多分、大事な話とかあるんで」
「うん、わかってる…気にしないで」
「有崎さん、4年ぶりに会う幼なじみって、中島って人のことですか?」
「……中島」
 ちびっこの言葉に、どこか自信なさそうに尚斗が呟く。
「あ、そーいや、みちろーのやつ、そんな名字だったか」
「幼なじみが、聞いて呆れますね」
「といわれてもなあ……基本的に俺は、名字で呼ばないんだよな」
「いきなり名前は、失礼ですよ」
「つーか、名字って家の名前じゃん。みちろーはみちろーだし、麻理絵は麻理絵だし、中島とか、椎名とか呼ぶのは違うだろ。椎名家とか、中島家と付き合ってるわけじゃねえし、一人一人、名前があるんだからそっちで呼べばいいじゃないかよ。何かややこしいケースとかはともかく」
「……」
 夏樹の強い視線を感じて、尚斗はそっちを向く。
「変ですか?」
「ううん」
 夏樹は首を振り……少し間をおいてから、もう一度首を振って否定した。
「ううん、変じゃないと思う」
「でも、青山さんと、じょにーさんは名字で呼んでるじゃないですか」
 と、今度はちびっこ。
「あいつらは例外。青山は名前で呼ばれるの基本的に嫌がってるし、宮坂はなあ…」
 頭の後ろをちょっとかきながら。
「なんつーか、宮坂は、宮坂つーか、幸二よりも、じょにーつーか、でもじょにーは、宮坂じゃねえっつーか」
「なんですか、それ……ぁ」
 余計な口を挟んで、夏樹をのけ者にしていたことに気付いて結花が慌てて尚斗の足を蹴る。
「……また、足が滑ったのか」
「なんか、文句ありますか?」
「あ、あの…」
「あ、なんすか、夏樹さん」
 夏樹はちょっと顔を赤らめ……視線を、右へ左へ泳がせ、最後は俯き、呟いた。
「あの、私も……えっと、有崎君じゃなくて、尚斗君って、呼んだ方がいい?」
「どっちでもいいですよ、俺は。そもそも、こっちは最初から『夏樹さん』ですし、夏樹さんが呼びやすい方で」
「……最初は、『さん』じゃなかった」
 拗ねたように、夏樹が呟く。
「……なのに、冴子には『先輩』」
「えーと」
「……ずるい」
 と、可愛く拗ねる夏樹をみながら……結花は、心の中で『そもそも、私なんか名前ですら呼ばれませんけどね』と呟いた。
 
 学校の近くで待たせていたらしい車に乗って夏樹が帰ると……尚斗と結花は、自然と2人で歩き始める事になり。
「……あのですね」
「ん?」
「夏樹様、有崎さんを誘おうとして、わざわざ遅くまで残ってたんですよ、多分」
「そーか、悪いことしたな」
「まあ、用事があるなら仕方ないですけどね……」
 結花はちらりと尚斗に目を向けて。
「……えらそーなこと言えるほど、人間を知ってるってわけじゃないですけど、女の子って基本的に噂好きなんですよ」
「そうらしいな」
「有崎さんは、気にしないでしょうけど……今日みたいに、相手が私じゃなくて夏樹様の噂だったら…」
 その言葉で、あの時の結花の反応の意味が腑に落ちた。
「……なるほど」
「できれば…そこまで考えた上で、演劇部に寄るかどうか、決めて下さい」
 そして、結花の視線は空へ。
「欺瞞といわれても仕方ないですけど……夏樹様に、傷ついて欲しくないんです」
「……親衛隊、か」
「おかしいですよね、夏樹様を傷つけてる張本人が、傷ついて欲しくない…だなんて」
「例えば仮に……夏樹さんが、『夏樹様』なお芝居を嫌がってないとしたら…」
「嫌がってる決まってるじゃないですかっ!」
「うん、だから、仮に、の話な」
 夏樹が嫌がってることをする……その事に対する嫌悪感というか、罪悪感が、何故ここまで過剰なのか。
「ありませんよ、そんな話……仮にでも」
「いや、もしそうなら、ちびっこはそれでいいのか?」
「……どういう意味ですか?」
「夏樹さんは、今の演劇部路線に特に反対ってわけでもなく、今度の公演を無事終える…」
「……?」
「そうしたら、夏樹さんはすぐに卒業だ」
「……ですね」
「夏樹さんがいなくなって……残された演劇部で、ちびっこ、お前は何がしたいんだ?というか、何がどうなっていたら良いと思ってるんだ?」
 結花の足が止まった。
「この前、言ってたよな…『演劇が好きで好きでたまらない人は…』って。あれ、逆を言えば、お前はそれほど演劇が好きじゃないって事になるぞ」
「……」
「だったら、当時中学生でありながら高等部の演劇部に乗り込み、建て直しをはじめた動機は別の所にあるという話になっちまうんだが」
「……」
 周囲の人間が『入谷さんは、演劇が大好きだから』などと思っているとしたら……多分、夏樹とちびっこは、どこかで決定的にすれ違っているのではないか。
 尚斗はそれ以上の追求を止め、空を見上げた。
 
 『結花ちゃんを傷つけることはしないで』
 『夏樹様に、傷ついて欲しくないんです』
 
 夏樹は結花を、結花は夏樹を……事情はどうあれ、そう口にした2人の気持ちに嘘がないことははっきりとわかる。
 そしてこれは予感だが、どちらも傷つけることなく事態を好転させることができないであろうということも。
「……どうか、したんですか?」
「俺は……場合によっては、夏樹さんを傷つけるようなことをやるかもしれん」
「……」
「夏樹さんじゃなくても、ちびっこを傷つけるような事を…」
「いいですよ、別に。有崎さんが考えて、そう決めたなら」
「……」
「……この前言ったこと、訂正しときます」
「は?」
「きっと、有崎さんだけが悪いんじゃないです。多分、同じぐらい秋谷先輩にも責任があると思います」
 結花の言葉に、気負いのようなモノは特に感じられなくて。
「自分にとって都合の良いことだけじゃなく、都合の悪いことも含めて受け入れる……誰かを信じるってのはそういうことですよね」
「んー」
「信じてたのに裏切られた…とか腹を立てるのは、自分にとって利益をもたらす部分だけを認めているだけに過ぎなくて…」
「……」
「誰かを信じるって事は、もっともっと…重い行為だと思うんです…」
 結花のそれは、尚斗に対してというより……自分自身に言い聞かすような響きがある。
「……まあ、そこまで考えると、信じられる人なんて滅多にいませんけどね」
 そう言って、結花が再び歩き出した……遅れて尚斗も歩き出す。
「ところで、中島……みちろーさんって、どんな人だったんですか」
「ん、みちろーか、そうだなあ……まあ、元々は麻理絵の幼なじみって言うか、母親同士が昔からの知り合いらしくてな、なんつーか、まあ、『麻理絵の遊び相手になってくれないかしら』などと麻理絵の母親に頼まれたのが始まりだったみたいだが」
「……じゃあ、近所ってわけじゃないんですね」
「ああ。頼まれたとはいえ、毎日毎日、何キロも歩いて麻理絵に会いにくる……そういうやつでな」
「律儀なんですね…」
「いや…」
 尚斗はちょっと言葉を切り……空に光る星を見あげて言った。
「優しいやつなんだよ」
 別の何かが混ざり始めたのは、それからずっと後の事のはずだから……それは多分純粋に、みちろーの優しさだったはずで。
「……有崎さんとは、どういう?」
「あの頃俺は、正義の味方になるべく、困っている人を捜し出してはその手助けをする事を繰り返していて、遊び相手なんて存在は皆無だった。それが、公園だったか、どこだったか……とにかく、麻理絵のやつがちょっと離れた場所でずっと俺を見つめるというか、睨みつけるというか」
「はあ、なるほど……結局、そこは椎名先輩が働きかけたんですね」
「……まあ、そういう事になるか」
「多分、それ以前に出会ってたとは思いますけどね…」
「え?」
「なんでもないです」
 そう言って、ふいっと顔を背ける結花。
「……なんつーか、俺の母さんは悪い意味で近所で評判というか」
「はあ…」
「つーか、俺だって評判がよいってわけじゃなかったけどな……まあ、いつも喧嘩ばっかりしてたし、麻理絵の両親も、みちろーの両親も、俺とは遊んじゃいけませんってな感じに、いつも叱ってたみたいだし」
「なんですか…それ」
「つーか、俺と一緒に遊ぼうなんて考えるやつの方が特殊というか……そういう意味で、麻理絵のやつは、俺の母さんにまで懐いてたし、ものすごく珍しい存在だったと言える」
「……」
 ちびっこの沈黙は、どう反応していいか悩んでいるというより、もう一人の幼なじみがどうだったのか……という事に気付いてのモノだろう。
「その点みちろーは、俺の母さんのことを怖がってたし……といっても、嫌いとかじゃなくてな、ただ怖がってたという感じか」
「……」
「それでまあ…」
 尚斗はちょっと言葉を切り……隣を歩く結花に視線を向けてから、言葉を続けた。
「好意は持ってくれてたけど、みちろーは俺のことも怖がってたな、多分」
「それは…」
「そりゃ、無理もないと思うぞ。俺と一緒にいるってだけでとばっちりは食うし、親には怒られるし、挙げ句の果てに、俺にやられた連中が手を出してくる…みたいなこともあったんじゃないかな」
「あの…」
「でもな、親に怒られたり、俺にやられた連中に殴られたりしても、みちろーは絶対俺にはそれを言わなくて……何事もなかったように『俺と遊んでくれた』やつなんだ」
「……そういう人が、明日、何のために来るんですか?」
「気になるだろ?」
「それは…まあ」
 曖昧に頷くちびっこ。
「俺はな、ちびっこ。じょにーのレポートに書かれていたようなすげー良い人間なんかじゃないぞ。そもそも、明日みちろーと会うことを優先するのは、みちろーがすげーいいやつだからってだけで」
 ぽすっと、結花の頭に手を乗せて。
「お前のことも、なんとかしてやりたいとか、力になってやりたいなーと思ってるのは、ちびっこがすげー頑張りやで、いいやつだからだ」
「わ、私は、そんな…別に…」
「はいはい、俺がいいやつって言ったら、誰がなんと言おうとそいつはいいやつなの」
「ゆ、唯我独尊ですかっ」
「……ちなみに、今、俺は1つ嘘をついた」
「はい?」
「明日、みちろーと会う約束はしてない。会いに来るような気がしてるだけで」
「ちょ、ちょっと…」
「と、まあ……このぐらいいいかげんなやつだぞ、俺は」
「……」
「……あれ?」
 暴れ出すかと思ったら、意外にもちびっこはじっと尚斗を見つめて。
「有崎さんがそう思うなら、きっと会いに来ますよ、みちろーさんは」
「むう」
「だから、有崎さんは、いいかげんな人じゃないです」
「いや、だから…」
「私がそう思うからそうなんですっ!文句ありますかっ!」
 ちびっこの勢いに押されて、尚斗は微妙にずれた礼を言う。
「えーと…さんきゅ」
「……」
「……」
「……今日は特別に、頭を撫でることを許可します」
「……え?」
「い、いつもいつも勝手に撫でまくってるじゃないですかっ!今、撫でていいって言ってるんですから、とっとと撫でればいいですっ」
「お、おう…」
 
 などと、暗い夜道で尚斗とちびっこが微笑ましいやりとりをかわしていた頃。
 
「……何かあったのか?」
「いえ……別に何も」
「……」
 何か言いかけて……水無月はテーブルの上に視線を落とし、口をつぐんだ。
 うまい鍋、うまい酒、しかも無料。
 冬の夜の食卓にこれ以上の何かを求めるのは野暮だし、それらを失うような行為は慎むべきだと判断したからだ。
 とはいえ……一緒に鍋をつつく相手の、杯を干すペースが異常に早いのはやはり気がかりで。
 さて、どうしたもんかな……と、水無月がタバコをくわえ。
 ぴしっ。
 くるくると回転しながら落ちてきたタバコを右手で受けとめ、綺羅が底光りする瞳で水無月を見つめる。
「食事中にタバコ?」
「……失敬」
 顔にはでてないけど、もう手遅れか……と、水無月はため息をついた。
 というか、今自分が何をされたか目で捕らえられなかった事からもわかるように、水無月の力量は綺羅のそれに遠くおよばない。
「……そもそも、未熟だったんだよな」
 うちこんでいた剣の腕はもちろん、他の武術にもそこそこ自信があって、じゃじゃ馬というか、姉御肌というか。
 両親の言いつけで無理矢理編入させられたこの女子校で、2学年下の……綺羅と出会った。
 可憐とか、清楚という言葉が問答無用で似合う美少女の外見に騙された……とまでは言いたくないが。
 頼られること自体は嫌いじゃなかったし、周囲が一目も二目も置く美少女に『薫おねえさま』と懐かれるのも悪くはなかったが。
「……アタシが守るまでもないじゃん、そもそも」
 今になって思えば、相手の力量を見抜けない時点で、腕が立つもへったくれもあるはずがない。
「まあ……」
 ものすごく好意的に判断すると、綺羅のお陰で反吐がでるほど嫌いだった実家から脱出できた……とも言えなくも。
 いや、好意的に解釈しなくても……今、目の前にいる綺羅が、同性愛とは無縁であることはもはや疑いようもなく。
 だとすると……周囲の好奇の目にさらされる事を恐れず、敢えてああいう行動をとって、水無月家のくびきから解き放ってくれた……のか?
「……酔ってるな」
 水無月は首を振った。
 もしそうだとしても、やり方が悪趣味すぎるというか。
 手酌の酒をくっと飲みほして……ふっと、冴子にいわれた言葉を思い出す。
『センセは、藤本先生を度々悪く言いますけど、他の人が藤本先生の悪口をいったら腹を立てますよ、きっと』
「……」
 手酌で酒をつぎ、さらに呑む。
 アルコールが回り始めた意識の中、そうかも知れない……と水無月はため息をつく。
 ただ、幸か不幸か……藤本綺羅という美女を悪く言う人間が、水無月の周囲にはいない。(笑)
「……寝てるし」
 日頃の激務にくわえて、ちょうど今は入試準備等で特に忙しい。
「つーか、風邪ひくっての…」
 一旦こたつからでて、水無月は綺羅の背中に羽織るモノをかけてやる。
「さて…と」
 あまり食べずに綺羅が寝てしまったことだし、ここからは酒はほどほどにして、食べることに専念するか……と、水無月は、あらためて箸を手に取るのだった。
 
 
                 完
 
 
 長い。(笑)
 つーか、先日『チョコキス』がアニメになった夢を見ました。
 『偽』じゃないので、当然青山なんかいません。
 1クールもので、ヒロインは安寿……前に日記で書きましたが、高任は基本的に『これは夢だな』と意識している夢しか見ません……ので、それを見ながら『え、ヒロイン安寿なん?俺の深層意識には、そういう願望があるのか?』などとツッコミを入れたり。
 多分、『幸福の王子』をベースにしたストーリーで、天使が人間を幸せにするときに羽根を一枚使う(その後羽根は消滅する)という設定。
 周囲の人間の願いを叶えるたびに、安寿の背中の羽根が1枚、また1枚と減っていき……もう、泣ける展開なのは途中でみえみえ。(笑)
『羽根がなくなった天使はどうなるんだ?』
『さあ〜どうでしょうか〜♪』
 などとはぐらかしていた安寿ですが、羽根がラスト1枚になったところで主人公に告げるのです。
『天使は、人を幸せにするための存在ですから〜その力を失ったときは、消えるだけです…』
 ……と、ここが最終話1つ前のヒキ。
 ここから先は……まあ、機会があれば少し修正していつか。(笑)
 
 ……自分で考えた(はず)の話に泣かされると、なんか負けた気がします。(笑)
 つーか、安寿のあの決め台詞は……何かのパロディだった気がするんだが。 

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