1月31日(木)……早朝。
 
「……言いたいことは、他にあったんですけどね」
 ぽつりと呟かれた結花の言葉を聞く者はもちろんいない。
 決して広くはない……むしろ、中等部からのもちあがりで女子校に通う女子生徒の大半は狭いと感じるであろう部屋なのだが、大した荷物もない空間は、がらんとしたという表現がぴったりに思える。
 昨日の朝と同じような状況だが、昨日と違って結花の心境はかなり晴れやかだった……とはいえ、雲一つない晴天というわけでもない。
 夏樹のことを話して、何故自分がそういう事をしたのか……そこに話がいたる前に遮られ、尚斗に色々と聞かれるままに答えた。
 何故、そんなことを聞くのか……という疑問はもちろんあったし、夏樹のことがそんなに気になるのかという気持ちも手伝って……最初に話そうと思っていたことを結局は話せなかった。
 そういったことが、結花の心に薄い雲を広げさせているのだが……。
 ただ昨日の夜、アパートの近くまで送ってくれた尚斗の後ろ姿を見送りながら……結花は、おそらくこの先、尚斗が自分の傷口をえぐるだろうという強い予感を覚えた。
「……」
 右手を……ギュッと握りしめる。
 その苦痛から逃げないという決意を固めるために、尚斗からもらった暖かい何かを確かめるように、握りしめた右手を胸に当てて。
「……よし」
 そう呟きながら小さく頷く……結花の視線が、机の上のカレンダーへと移動した。
「……」
 ふっと結花の脳裏をよぎった、微かな不安。
 今日は1月の31日で、もう1月が終わる。
 バレンタイン公演まで……尚斗が、自分なり夏樹のために何かをしようとしても、ほとんど時間がのこされてはいないのでないか。
 もちろん、公演がどうとか演劇がどうとか……それが問題の全てではないにしても、夏樹がああいうお芝居をしたくないと思っていることに関して、結花には確証があったし、尚斗にもそう告げた。
「……後、2週間…ですか」
 呟いて、結花はふっと気がついた。
「たったの…2週間ですか」
 そうだった、少年と出会ってからまだ2週間しか経っていないのだ……と、結花は小さく頷く。
 あの日から5年……誰も出来なかったことを、タイミングとか、幸運とか、そういうモノもひっくるめて、あの少年はたったの2週間でやった。
 それを思えば……2週間という時間は、決して短くはない。
「……ふふ」
 なんだかおかしくなって、結花は小さく笑った。
「たった、2週間……会ったばかりの人間に、なんでここまで心を許してますか、私は」
 それが滑稽で、少し悲しくて……だがそれ以上に嬉しくて。
 自分が笑い続けている限り、それは消えてしまわないような気がして……結花はしばらく笑い続けたのだった。
 
「……あれ?」
「おはよう、弥生」
「おはよう、世羽子……今朝は…?」
 などと言いつつ、弥生の視線は勝手口へ。
「もう、すませたわよ」
「あ、そう…なんか手伝える事、ある?」
「大丈夫よ……最近、朝食は弥生に任せっきりだったからたまにはね」
 と、背中を向けたまま世羽子が言うのを聞いて、弥生はちょっと恥じらいを浮かべつつ、口にした。
「……わかるものなの?」
 微かな沈黙。
「……体調の変化がわかるほどには、つき合いが長くなったって事ね」
 弥生が気付いたのなら隠すこともないと判断したのか、世羽子は先の理由がただの名目であることを白状した。
「恥ずかしいなあ、もう…」
「……そう?」
 と、どこか間延びした感じの世羽子の返事に、弥生がちょっと首を傾げ……。
「……ぁ」
「……」
「なんていうか……気に、なってるなら、一度…」
 弥生の言葉を遮るように、世羽子が口を開く。
「なってないと言うと嘘になるけど、病院に行くつもりは無いわ」
「……世羽子って、あまり病院にいい印象持ってないよね」
「そうね」
「……」
「別に、母さんが死んだからとかじゃないわ……もっと昔からだもの」
 弥生は、空気を和ませるためだけに明るい口調で言った。
「注射が嫌い…とか?」
「好きではないわね」
「あはは、それは…」
「そもそも、私は人間という生き物を信用してないもの。注射の中身が致死性の毒薬じゃない事を、無条件に信じられないとでも言うのかしらね」
「あはは…はは…」
 弥生の笑いは、どこかひきつったモノへと変化。
「薬や器具を自分で用意して、それを自分で……なら、平気」
「……そこまで懐疑的にならなくても」
「そうかも知れないわね……と、いうか」
 世羽子は料理の手を止め、淡々とした口調で言葉を続けた。
「多分私は、他の人より欲望とか願いとか、そういうものが強すぎるんだと思うわ」
「そ、そうかな…」
 弥生が首を傾げなら呟く。
「むしろ世羽子は、他のみんなよりそういうのは淡泊な気がするけど」
「欲望の種類が少ないことに関しては、多分そうね……みんなみたいに、いろんなモノが欲しいとは思わないけど、本当に欲しいモノにはかなり強く執着する性質よ」
「それは…」
「さっきの、医者とか病院もそう……死にたくないという気持ちが多分必要以上に強いのね。自分自身か…自分が信頼する相手以外に、自分の命を預けたりすることが出来ない」
「……私が、作る料理は平気なの?」
「ええ」
「ふーん…そっか」
 と、弥生はちょっと嬉しそうに微笑み……首を傾げた。
「え、でも…外食とかする時って…?」
「毒には鼻が利くの…食べ物ならね」
「……」
 世羽子ってこういうところが無神経なのよね……などと弥生は心の中でため息をつく。
「あと、なんらかの危険は肌が教えてくれるし」
「だったら……病院だって平気な理屈にならない?」
「……」
「……」
 しばしの沈黙の後、根負けしたように世羽子がため息をついた。
「理由はうまく説明できないけど、何かいやなのよ……自分の身体を調べられるとか、検査されるとか考えるだけで鳥肌が立つというか。正直に言うと、学校の身体検査も嫌いよ、私は」
「……別の意味で、嫌いな子は多いと思うけど」
 そういう意味じゃないよね……という弥生の視線に、世羽子は頷き。
「そもそも、私って、いわゆる医者にかかったことないのよ。風邪をひいたこともないし」
「え、そんなはずは…だって、赤ちゃんの時に定期検査とか…」
「……多分、受けてないわね」
「……それは、忘れてるだけだと思うけど」
 弥生はもう一度首をひねると……ちょっと笑って言った。
「案外、世羽子って人間じゃなくて、その正体を知られないようにしてるだけとか?」
「……」
「……冗談よ?」
「……」
「よ、世羽子?」
「あ、いえ……そういう可能性は考えたこと無かったから」
 と、いたって真面目な表情で世羽子が呟くものだから。(笑)
「考えないっ、ふつーは、そういう可能性を考えたりしないからっ!」
 などと弥生が声を荒げたのも仕方がないと言えよう。
 
「さて…」
 朝のHR終了後、腰を上げた尚斗に向かって青山がさらりと言った。
「有崎、香月先輩に会いに行くなら、伝言を頼まれてくれるか?」
「……」
「違ったか?」
「いや、そのつもりだったが……ま、いいか」
 何故わかったのかと質問したところで意味がない事に気付き、尚斗は青山に向き直っていった。
「で、どんな伝言だ?」
「時間と場所」
「……」
 尚斗の困惑を読みとったのか、青山が付け足した。
「そう言えば、多分伝わる」
「そ、そうか…」
「ああそれと、別に答えをもらう必要はない」
「……?」
「そうだな、『都合が悪い』と向こうが言った時だけ、『だったら非常手段をとる』と言ってくれ」
「……」
「気にするな」
「いや、気になるぞ」
 よりによって、青山のいう非常手段であるからして。(笑)
「頼む」
「……」
「……」
 時間にしてわずか数秒の沈黙を経て、尚斗はため息をついた。
「わかった。そう伝えればいいんだな」
「すまんな」
 そうして尚斗が出ていった後、窓の外に視線を向けたままの世羽子が、指先でトントンと自分の机を叩き始めた。
「……」
 が、青山はそれを無視。(笑)
「……〜♪」
 と、何か世羽子にも伝わったのだろう……世羽子のそれは、自分の鼻歌に合わせたリズムへと違和感なく移行する。
 それを珍しそうに紗智が見つめ、麻理絵は無表情であらぬ方角に視線を投げ、安寿は世羽子の作るリズムに身体をうずうずと揺り動かし。(笑)
 ふっと青山が息をはいた瞬間、ここしばらく姿を見せなかった宮坂が教室の入り口に姿を現した。
「……え?」
 中心は世羽子の背中だったとはいえ、視界の中に捕らえていた青山の姿が消えたことで紗智は狼狽えた。
「どうしたの、紗智?」
「え、あ、いや、青山君がいきなり消え…」
 自分に話しかけてきたのが麻理絵であることに気付いて、紗智が微妙に表情を強ばらせる。
「……なんか、昨日から変だね紗智」
「わ、私はどこもおかしくないわよ」
「……そうかな?」
 などと麻理絵が首を傾げて見せた頃、既に青山は宮坂を拉致して屋上への階段を駆け上がっていたのだった。
 
「こんちゃーす」
「あら、有崎君、久しぶりね」
 などと、にこやかな微笑みで冴子が返す。
「いや、久しぶりも何も、一昨日会ったじゃないですか」
 そう応えながらドアを閉め、尚斗はそう広くもない保健室の中を見回した。
「で、水無月先生はいないんですか?」
「……」
「……冴子先輩?」
 問いかけにも答えず、冴子は珍しく狼狽を隠さぬ表情で尚斗をじっと見つめていて。
「あ、あの…?」
「一昨日……会ったかしら、私達?」
「え?」
 と、今度は尚斗が首を傾げ。
「……」
「……」
 冴子にとっては永遠とも思える時間が過ぎてから。
「あ、言われてみれば会ってないですね…勘違いッス」
「そ、そうよね…」
「でもなんか、一昨日…ここで会ったような…いや、会ったというか…なんか」
 などとまだちょっと納得できない感じで遠い目をする尚斗の後頭部を、冴子は頬を薄く染めながらぺしっと叩く。
「はいはい、気のせい、勘違い。それ以上深く考えないの……私達が会ったのは、約1週間ぶり」
「あー、1週間も前でしたっけ?」
 と、尚斗は冴子に叩かれた後頭部を手でかきつつ。
「……なんか、顔が赤いですけど、風邪ですか?」
「いたって健康よ」
 と、冴子の表情、口調は完全にいつも通りに。
「というか、何か用事があったんじゃないの、有崎君は?」
「あ、そうですね……じゃあ、忘れないうちに青山からの伝言を」
「あーはいはい」
 あらためて聞く必要もないという感じに冴子は右手で尚斗を制した。
「前向きに検討するって伝えておいて」
「……」
「どうしたの?」
「いや、『いざという時は非常手段をとる』とも言ってましたが」
「だから、前向きに検討するってば」
 と、冴子が右手をふる。
「……遠回しな断りの返事としか思えないんですけど?」
「そもそも、返事なんかもらう必要ないって言ってなかった、彼?」
 数秒間の沈黙。
「ああ、フェイントですか」
「半分はそうね、残りの半分は秘密」
 と、冴子は微笑む。
 3流が相手では、1流も存分に腕を振るえまい……などと、どこかで聞いた言葉を思い出しながら尚斗もちょっと笑った。
「まあ、2人で1流のやりとりを繰り広げてください」
「……自分の話より友人のそれを優先するところがキミらしいなとは思うけど、そろそろ本題に移ってくれる?」
 と、冴子的には青山のそれより尚斗のそれが気になったのか、わざわざ水を向けてくれたのだが。
「本題ですか…んー、本題と言っていいのかどうか…」
 と、首を傾げる尚斗に、冴子は楽しげな眼差しを向けて。
「とりあえず座って。立ち話も何だし」
「あ、ども…」
 そうして、冴子のいれたお茶をすすりつつ、尚斗はここまで来たんだから仕方がないという感じに切り出した。
「夏樹さんって、歴史のあるかなりいいところのお嬢さんって言ってたじゃないですか」
「そうね」
「多分、小さい頃からきちんと躾られて育てられたはずですし……実際、そう見えるんですよ」
 例の、誤解(ぬいぐるみ)の時の反応なんかは良い例で。
「……続けて」
「……なんというか」
 一旦言葉を切って、尚斗はちょっと頭をかき。
「しばらく考えてたんですが……相手が演劇に興味があるかないかもわからない状況で、演劇部の催しに招待するような不作法をやらかすような人とは思えないんですよね」
「…へえ」
 と、何故か冴子は楽しそうに相槌を打った。
「……」
「あ、ごめんなさい、私の反応は気にしなくていいから」
「はあ…」
 すこし話の腰を折られた気分だったが、尚斗は続けた。
「で、夏樹さんとはそれなりにつきあいの長いはずのちびっこがですね、言ったんですよ。『演劇が好きで好きで仕方のない人は、誰かにそれを勧めるのが最高のおもてなしだと思うんでしょうね』って」
「ふうん」
「つまり、ちびっこにとって夏樹さんは、そういう事をやらかしてもおかしくないぐらい演劇にのめり込んでるという風に見えてるわけです」
「……キミは違う、と?」
「うまく説明できないんですけどね……だとすると夏樹さんは、ちびっこに対してそういう自分を演じてるというか、演じる理由があるんじゃないかと」
「……その心当たりを、私に聞くの?」
「いや、それは夏樹さんの問題でしょう、冴子先輩に聞こうとは思いませんよ」
 と、尚斗は首を振って。
「つーか、冴子先輩が言ってた、『昔のことを調べてみて』ってのは、こういう事だったんじゃないんですか?」
「……」
「冴子先輩?」
 冴子は含みのある微笑みを浮かべ。
「さっきの件について私からは何も言えないけど、結局、キミの聞きたい事って何?」
 などと、反対に質問する。
「ん、まあなんというか……夏樹さんにとって、ちびっこはどういう存在なのかな、と」
 『結花ちゃんを傷つけたりしないで』……夏樹にとって、結花が演劇部云々を越えた大事な存在であることが痛いほどに伝わる言葉。
 それと同時に……あの懇願するような響きは、夏樹自身における問題が絡んでいるようでもあり。
「……難しいわね」
「答え、がですか、それとも答えることが、ですか?」
「その両方よ」
「そうですか……だったら、いいです」
 特に怒りは覚えなかった。
 冴子には冴子の事情がある……それがわからぬ尚斗でもなかったし、そもそも母親の教育によって『自分がやりたいことに関して誰かの助力を仰ぐ』という概念がほとんど欠落しているせいもあるだろう。
「ごめんね、役に立てなくて」
 そう言ってちょっと頭を下げる冴子の姿が、尚斗の意識のどこかに引っかかった。
「……」
「……何?」
「……やっぱり、一昨日ぐらいに会ってませんかね?」
 と、じろじろと視線を向ける尚斗をいなすように冴子はにっこりと微笑んで。
「保健室の外で、水無月センセがうろうろしてるから、そろそろ終わりにしましょう」
 
「いつもいつもすみませんね、センセ」
「別に、アタシは用事があってここをあけてただけだぞ?」
 などと、尚斗の去った保健室でいつもの会話。(笑)
「いえいえ、何やら今日は良いタイミングだったといいますか…」
「タイミング?ま、まさか有崎に何か…?」
「有崎君って水無月センセの目にそういう風に見えます?」
「……いや、全然」
「でしょう、何も心配することはありませんよ」
 などと、冴子が微笑んでみせる。
「そっか……大丈夫、なんだよな?」
「……センセには、色々とご迷惑をおかけしました」
「怒るぞ」
「たとえ怒られたとしても、言うべき事はきちんと言う……それが礼儀作法でしょう、センセ」
 水無月に向かってそう言いながら、自分ほどの礼儀知らずもそうはいないでしょうね……などと冴子が心の中で苦笑したかどうかを知る術はない。
 
「さて、まだ授業中なんだよな…」
 このままおとなしく教室に戻るか、それとも休み時間までどこかで時間を潰すか…。
 何気なく、窓の外へと視線を移す。
 1月も今日で終わり……いわゆる最も寒さを厳しく感じる頃ではあるのだが、かつての男子校のそれと違って女子校校舎の中はほんのりと暖かい。
 それなのに……時折聞こえてくるのは教師の声だけという、静まりかえった空間から尚斗が受ける印象は、やはり寒々しいモノで。
「……つーか」
 コンコンと壁を叩きつつ。
「建て直す意味あったのか?」
 世羽子がここに編入してから、あまりこっちに近づかないようにしていたが……女子校の校舎が建て直しを始めたぐらいの話は当然耳にしていたわけで。
 しかし、尚斗の疑問はそこではなく……そもそもここに女子校の中等部と高等部が移転したのが、自分が生まれる少し前、20年ほど前に過ぎないと言うことである。
 つまり、自他共に認めるぼろ校舎だった男子校のそれとは違い、女子校のそれは比較的まだ新しい建物だったにもかかわらず…。
「経営方針というモノですわ」
 尚斗の思考を遮るかのように、声がかけられた。
 顰みに倣う……の故事成語にもなった西施のそれ、とまでは言い過ぎか。
 なんにせよ、憂い顔で窓の外を見つめる姿がこれほどまでに様になる美人を、尚斗はほとんど記憶にない。
 綺羅は尚斗に視線を向けることなく、ため息をついた。
「中等部を全寮制に……というプランがあることは、この前話しましたか?」
「少し」
 ここで初めて、綺羅はちょっと尚斗に視線を向けた。
「20年ほど前、中等部と高等部をこの地に移転したのも、そのプランに沿ってなのですが…」
「私鉄沿線活性化とかの話ですか?」
 途中経過をすっ飛ばした尚斗の物言いに、綺羅はちょっと苦笑して。
「……当時のグループ内では、多少お荷物扱いだったようですからね。そういう側面があったことは否定しません」
「はあ…」
 難しい話をしているようで、結局さっきの自分の呟きに対して何も答えていないことに気付かない尚斗ではないが……綺羅が何故そんなことを話すのかがわからない。
「で、全寮制にするんですか?」
「……実現に向けていくつも問題点はありますが、その内の1つが、お隣の男子校の評判の悪さですわね」
「……なるほど」
 別に怒りもせず、尚斗は頷いた。
 一部の例外を除けば、自分の子供を……それも娘となれば、両親が心配するのはごく当たり前のことだから。
「……ここの治安は、近辺で最も良いというデータもあるんですけどね」
 そう言って、綺羅が尚斗をじっと見つめる。
「表に出てないだけでは?」
「裏の部分も含めて……というデータですよ」
 にこりともせずに、綺羅は尚斗の目を見つめたままで言う。
「とすると……藤本先生的には、男子校がなくなって欲しい?」
「まさか」
 綺羅が笑った。
「悪いモノを…悪いと思われているモノを取り除く。それだけでうまくことが運ぶなら、世の中は味気ないモノじゃないでしょうか?」
「それについては、賛成です」
「……」
 きーんこーん…。
 何かを言いかけた綺羅の唇はチャイムの音で閉じられ……再び開いたときに紡ぎ出されたのは教師としての言葉。
「……次の授業は出てくださいね、尚斗君」
「そのつもりです」
 
「あれ?」
 教室に戻ってきた尚斗は、ちょっと首をひねった。
「どうかした、尚にーちゃん?」
「いや、青山がいねーな、と」
「ああ」
 麻理絵はちょっと頷き。
「宮坂君を捕まえて、どこかに行っちゃった。多分屋上じゃないかな」(注…いやがらせ)
「……」
「……」
「……」
 ちなみに、麻理絵の言葉によって発生した世羽子、尚斗、紗智の3人の沈黙は、それぞれ中身が違う。(笑)
 大まかにわけて、驚嘆、心配、不安というところか。
「あー…麻理絵」
「なに?」
 そう答えながら麻理絵がほんの微かに頭を引く。
「……」
 『頭を撫でる』ことを想定しているのか、それともそう思わせることでこっちの行動を制限しようとしているのか……考えてもわからなかったので尚斗は諦めた。
「今更だが、テストはどうだった?」
「な、なんでいきなりテストの話題になるのっ?」
「なんとなく」
 どうやら意表をつくことだけは成功したようだが、これだと話が続かない。(笑)
「すごいよな、青山は…」
「……青山君がすごいのは認めるけど、尚斗くんの方がもっとすごいと思う」
 皮肉半分、本音半分という感じに麻理絵が呟く。
「俺なんかより、青山の方がよっぽどすごいと俺は思うけどな……はともかく、あのバカを捕まえて屋上となると…」
「……」
 尚斗はちょっと後ろを振り返り。
「なんだよ、世羽子」
「別に…」
 ふいっと、世羽子が視線を逸らす。
「……なるほど」
 世羽子の態度からして、青山が宮坂を捕まえて云々は、微妙な隠密行動の気配があった事を尚斗は察した。
 とすると……今まさに、宮坂は青山によってあまり口に出来ないことをされている可能性が大なわけで。
 
 『バカの顔でも見に行くか…』
 
「……はて?」
 青山はちょっと首をひねり……ため息をついた。
 それから十数秒遅れて、屋上のドアを開き、尚斗が姿を現す。
「なんか、久しぶりに宮坂が姿を出したと聞いたんだが」
「おおっ、心の友よっ」
 何らかの形で拘束されているのか、宮坂がもぞもぞと身体をよじって尚斗の方に顔を向けた……が、微妙にその方向がすれている。
「助けてくれぇ、有崎」
「……」
 尚斗がちょっと青山に視線を向けた。
「ああ、ちょっと視力を奪って、(以下略)」
「鬼っ、悪魔っ、人でなしっ!」
 などと、宮坂の口からこぼれる罵声は、内容とは裏腹にボリュームは随分と控えめで……実際の所、囁く程度だったり。
『喉にも細工してる?』
『もちろんだ』
 などと目で会話を交わしてから、尚斗はあらためて青山にたずねた。
「……視力を奪ってって、戻るのか?」
「戻る」
「だったらいいか」
「有崎尚斗くんっ?今、青山は『すぐ』とか、どのぐらいの時間をかけて戻るのか全然言明しなかったぞっ!気付いてるっ!?」
「いや、生きてりゃなんとかなりそーだし、お前」
「お前も鬼かっ、悪魔かっ!?」
 どうやらある種の絶望を感じたのか、宮坂がそれっきり動かなくなり、ぶつぶつと青山と尚斗の2人に対する呪詛めいた言葉を呟き続けるのみとなる。
「……青山」
「……」
 もうこのぐらいで……と言いたげな尚斗の視線に、青山がため息をつく。
「有崎は、何故ここに?」
「いや、麻理絵が青山なら宮坂のバカを捕まえて多分ここだって」
「……侮れんな、椎名の嫌がらせは」
「は?」
「いや、こっちの話」
 と、青山が再びのため息。
「有崎には内緒で、こいつからちょおっと聞きたいことがあったんだが」
「すまん…邪魔だったか?」
「いや、別に有崎に聞かせたところで俺はさほど困らないが…」
 と、青山が宮坂の背中を踏みにじり。
「多分、本当に困るのはこのバカだ」
 ぐいぐいぐりぐり……と、青山に踏みにじられながらも、宮坂は口を開かない。
 その、『口を開かない』という態度そのものが、さっきのアレが演技だったことを示しているようなもので。
「まあ、椎名がわざわざそう言ったって事は、有崎がここに来てくれて助かったとも言えるんだがな」
「……?」
「そうだな、そろそろ有崎にも教えておくか」
「何を?」
「あの教室というか、有崎の席のまわりは、隠しカメラやマイクで狙われていてな。正直、迂闊にモノも言えない状態だ」
 
 ……1周目24話を参考にしつつ、しばらくお待ちください。(笑)
 
「……つーか、青山」
「なんだ?」
「その、マイクやらカメラの存在を知ってるって、このバカに教えて良かったのか?」
「まあ、それを逆手に取る時期は過ぎたからな」
 とかいいつつ……多分、わざわざこの情報を宮坂に伝えてるんだろうと尚斗は心の中でため息をつく。
「……宮坂」
「……」
「お前、悪いことはしてないよな?」
「……」
 それでも宮坂は、いつもの軽口すら口にせず、何も言わない。
 青山がちょっとため息をつき。
「有崎、その沈黙は悪いことをしているという意味じゃないぞ多分」
「……」
「そうだな……俺が思うに、このバカは『俺と有崎が2人そろっている状態でその質問に答えることができない』んだろう」
 宮坂の首根っこを掴んだまま、尚斗は訝しげに青山を見た。
「同じ答えを聞いても、俺と有崎では『悪いこと』に対する解釈が違うし、答えそのものに対する解釈も違ってくる」
「……意味がわからん」
「……誤差の少ない測定器2つで、何かを測定すると、浮き上がるモノがある。2元方程式のイメージという方がわかりやすいか」
「……?」
「要するに、だ」
 青山は、尚斗の手を宮坂の首から外しつつ。
「悪意から来るモノではないにせよ、こいつは俺や有崎に『本当のこと』を教えるつもりがない……もしくはそれが許されてないって事だ」
「……」
 青山が、指先で宮坂のこめかみのあたりをいじりながら。
「まあ、こいつが『本当のこと』を知ってるかどうかに関して、俺は疑問だが」
「……今更だが、聞いていいか青山」
「なんだ?」
「今、何を追いかけてるんだ?」
 青山はちょっと笑い。
「それこそ、このバカの前で俺が何も答えられない質問だな」
 と、応じた瞬間。
「見えるっ、見えるぞっ!」
「…え?」
「いや、このバカの視力を戻しただけだが」
「なるほど…」
「私は戻ってきたっ!」
「しばらくじっとしてないと、またシャッターが降りるぞ」
 の青山の言葉が終わらぬうちに。
「うおおっ、世界が真っ暗闇だぁ」
 と、宮坂の悲鳴とも冗談ともつかぬ言葉が響く。
「……言わんこっちゃない」
 と、青山が再び宮坂のこめかみに指先をあてた。
 ある種の安心感を覚えたのか、宮坂は青山のされるがままにおとなしく。
「あ、そうだ青山」
「言うな」
 普通の口調だが、有無を言わせぬ圧力を覚え、尚斗は口を閉じた。
 理由も、聞き返すことも不要だと青山の目が語っていて……尚斗としては、おとなしく屋上を去るしかできなかった。
 そして、尚斗がいなくなってから青山が宮坂に話しかけるともなく呟く。
「……ヒントを与えても、あの驚異的なスルー能力はいかんともしがたいな…」
 
 そして昼休み。
「青山は帰ってこねえし…」
 そう呟きながら、尚斗は麻理絵に視線を向けた。
「ごめんね、尚斗くん。今日は可愛い1年生の娘と、約束しちゃったの」
「そうか」
 にこにこにこ。
「……何だよ?」
「何だろうね?」
 と、麻理絵は弁当袋を片手に教室を出ていった。
「……」
「……」
「……」
「……ちょっと待て、さっちゃん」
 少し遅れて、麻理絵の後を追いかけていこうとした紗智の襟首を掴んで引き戻す。
「な、なに?」
「出歯亀根性丸出しで、何するつもりだ?」
「出歯亀って、いつの時代の言葉よ…」
「意味が通じれば問題ないだろ……つーか、何するつもりだ?」
「きっ、昨日今日の短い間で、あの引っ込み思案の麻理絵が、誰かと昼食と約束するなんてあり得ないに決まってるでしょっ!?」
「……」
「……何よ?」
「あ、いや……嘘ついてまで1人になりたいなら、1人にさせてやればいいし、本当だったら、のぞきは失礼だろ」
「でも…」
 紗智はちょっと口をつぐんで、きっと尚斗を睨みつけた。
「大体、尚斗は心配じゃないわけ?5年も会わずにほったらかしにする、今だってのほほんとして緊張感のかけらもない……なんで、なんでそんなに麻理絵に対して薄情になれるのっ!?」
「心配してないわけじゃないんだけどな……」
「だったらっ」
「つーか…」
 尚斗は紗智の目をのぞき込む。
「な、何よ?」
「俺としては、思いっきり自分を見失ってる感じの紗智がちょいと心配なんだが」
「な、何よそれっ?」
「あからさまに麻理絵を避けたり、心配したり……端からみてて、すげー危なっかしいぞ、今のお前」
 尚斗の言葉に、教室の後ろで澄香がうんうんと頷いていたりするのだが。(笑)
「〜〜っ!」
 声にならない声をあげ、紗智は尚斗の手をふりほどいて教室を出ていった。
「……ふむ」
 1つため息をつき、尚斗が教室内を見回すと……女子生徒数人が慌てて目を伏せた。
 まあ、昼休みの教室でこれだけ騒げばイヤでも聞こえるわけで。
 別に聞かれて(尚斗自身が)困るわけでもないが、多少気持ちにひっかかりが残るのも……。
「……ぁ」
 午前中に青山に言われたことを思い出し、尚斗はちょっとイヤな気分になった。
「1人だし、俺もどっかよそへ行くか…」
 マイクとカメラに狙われているらしい自分の席に敢えて固執する理由を見出すこともできなかったので、尚斗は言い訳じみた独り言を呟いて教室の外へ。
「……で、どこ行く?」
 などと、ゲームの主人公のような呟き(笑)を発し、尚斗はちょっと考える。
 正確に言うと、『どこに行くか』ではなく、『どこで昼飯を食べるか』である以上……座る場所があるのが望ましい。
 普通に考えれば学食で、冬という季節を無視すれば中庭や屋上も……さすがに、教会などというひねた解答は遠慮したいが。
 
 『無難に中庭』
 
「……自分で言ってこれじゃあ世話ないな」
 などと思わず呟いた尚斗の視線の先には、温室のそばのベンチで仲良く(?)昼食を取っている2人の姿があったりするわけで。
 会話が弾んでいる……という感じではないが、端から見るとずっと昔から友達づきあいをしている2人というか、いわゆる収まるべきところにきちんとはまっているイメージを見る者に与える感じで。
 無論尚斗には『麻理絵が完璧に相手に合わせている』のがはっきりと透けて見えたため……慌てて周囲を見渡した。
 それは、この光景を紗智に見せてはいけないと思ったからだったが……。
 
『麻理絵は…まあ、さっちゃんが見たとおりの麻理絵だし、俺が願うとおりの麻理絵だよ』
 
 それは、かつてみちろーが言った言葉。
 目の前の光景がどのように作用したのか……紗智は、その時のシーンを、言葉を、鮮やかに思い出したのだった。
「……え?あれ?」
 口元を押さえつつ、紗智はあの時のみちろーの苦笑いを思い出す。
 影のある、苦笑い。
 おのろけは聞きたくないよとばかりに『理想の彼女ってわけね』と言った紗智の態度ではなく、言葉に対しての苦笑い?
 理想の彼女?
 紗智の見たところ……欲目でも何でもなく、みちろーは誠実だった。
 普通に、『俺が願うとおりの麻理絵だよ』の一言ですむところを、わざわざ『さっちゃんが見たとおりの麻理絵』という言葉を付け加えた……としたら。
 
 『麻理絵を、自由にしてやりたい』
 
 自由?
 自由って、何?
 意識の深いところで、それを拒否している自分がいた。
 自分にとって、みちろーと麻理絵は『理想のカップル』だった。
 みちろーにとって、麻理絵は『理想の彼女』だった。
 『理想の彼女』である麻理絵をおいて、遠く離れた学校に進学先を決めたみちろーは、自分にとってある種の裏切り者で、麻理絵は被害者で……みちろーがいなくなってからも、自分にとって『理想に近い友人』であり、『被保護者』であり……。
「……ぅ」
 胃の奧から、何かがこみ上げてくる。
 我慢できずに、紗智は吐いた。
 吐きながら、紗智は力無く首を振る。
「何なの…」
 短く、シンプルで……それ故に、深い闇を感じさせる問いかけ。
「麻理絵って…何なの?」
「俺とみちろーの幼なじみだよ」
 声と同時に、優しく背中をさすられた。
「……」
「麻理絵は、俺とみちろーの幼なじみだ」
「……ごめん…なさい」
 背中をさする尚斗の手から、暖かい何かが伝わってきて……心の中に充満しそうになった闇をどこかへと追い払っていく。
「……紗智」
「…なに?」
「悪かった…」
「だから、何が?」
 自分でもイヤになるぐらい声が尖っているのを感じたが、紗智はそれをあらためようとする気がおきなかった。
「何も知らないくせに、何が悪かったって言うのよ」
 吐き気が収まった代わりに涙がこぼれる。
 麻理絵に聞こえないように小さい声のまま……などという計算を働かせつつ、八つ当たりとわかっていながらそれを尚斗にぶつけている自分がどうにもやりきれなかったから。
「麻理絵が、紗智のことを気にもしないぐらい自棄になってるのは、多分俺のせいだからな」
 淡々と、背中を優しく撫でる手はそのままに。
「だったら…」
「何というか…」
 尚斗が苦笑を浮かべる気配を、紗智は背中で感じた。
「麻理絵の扱いは難しいっつーか」
 尚斗の言葉はとぼけたものだったが、それが偽らざる想いだということが何故かよくわかって。
「何よ、それ…」
 呟くように、もう一度。
「何よ、それ」
「頭撫でてりゃ機嫌が直った子供の頃とは……いや、あの頃も、機嫌が直った振りをしてただけかもな」
「……ごめん」
「ん?」
「私……麻理絵のこと、何も知らない」
「……」
「だから、私と麻理絵は友達じゃない」
「……真面目だな、紗智は」
 怒るでもなく、尚斗が呟く。
 ただ、背中をさする手が一層優しくなったように紗智は感じた。
「だって、友達っていうのは…」
 にじむ視界に、仲良しとしか思えない2人の少女の姿。
「友達ってのは…」
 その先の言葉が、自分自身に突き刺さる。
 みちろーの幼なじみ。
 中学時代、紗智が麻理絵に近づいたのは……そんな、打算的な理由だったから。
「真面目だな、紗智は」
 それを聞きながら、紗智は、ふと気付いた。
 背中をさすっていたはずの尚斗の手が、いつの間にか自分の頭を撫でていることに。
「それ、やめて」
「あ、悪い…なんか、最近癖になっててな」
 尚斗の手が離れる。
 別に不快だったわけじゃなく、癖になりそうだったから拒絶したのだったが。
 涙がおさまるのを待って、紗智と尚斗は音もなくその場を後にしたのだが……少女2人はそのまま時間を過ごし。
 きーんこーん…。
「あ、もう、こんな時間だったんだね」
「……びっくりです」
 驚いたように呟く御子に、麻理絵は穏やかな微笑みを向けて。
「私…九条さんと話してるとすごく楽しいな…」
「わ、私も…です」
「迷惑じゃなかったら、また一緒に…」
 と、内気な少女らしく(笑)、うつむいて後の言葉を濁す麻理絵に、御子は柔らかな笑顔を浮かべて言った。
「私も、椎名先輩が迷惑でないなら…是非」
「本当?嬉しいな…私、お友達とか、あまりいないから…」
 そんな麻理絵の微笑みと言葉に、御子が淡雪のような儚さを感じることはなかった。
 
 5時限目。
 尚斗達のクラスを訪れた女教師は、呆れたように呟いた。
「この辺の生徒がいない事が多いのは、何か理由でもあるのですか?」
 ちなみに、青山と尚斗、世羽子、安寿、紗智の5人の席が空席……宮坂は席が離れているので除外。
 女教師が、ちらりと麻理絵を見る……が、麻理絵は困惑の表情でそれに応じるだけ。
 それは、いつも通りの麻理絵の姿であったが、クラスでただ1人……畠本澄香が眼鏡を光らせてそれを観察している事に麻理絵が気付いていたかどうか。
 それはそれとして、この場にいない5人のうち安寿以外(笑)がどこで何をしていたかというと……。
 
「……椎名さんに、何をしたの?」
「と、いうと?」
「普通じゃないわよ、彼女」
「俺の記憶が確かなら、『普通に見える』などと秋谷は言ったような気がするが」
「言葉遊びをする気分じゃないの」
 世羽子は目と口調を尖らせて、青山に詰め寄った。
「青山君が、何かしたんでしょ?」
「ふむ」
 青山は1つ頷き、楽しげな口調で呟いた。
「俺は、有崎のまわりの問題を簡略化してみようと思っただけだが」
「は?」
「1つ1つ絡んだ糸をほぐそうと思って、まあ、今度は椎名という糸に手をかけてみたんだが……いや、これがなかなかに、有崎の幼なじみだけあって一筋縄ではいかないと言うか」
 そういって、青山が浮かべた微笑みは、いつもの……どこか冷笑めいたモノとは微妙に違ったモノだった。
「……」
「……それで、秋谷は俺に何が言いたい?」
「……今になって思えば、青山君が私を焚きつけたのは……危険の存在を感じていたからよね?」
 今更気付いたのか……と、青山が呆れたようにため息をつく。
「まあ……それだけじゃないが、秋谷あたりには、自分の身体は自分で守ってもらわないと、俺と有崎の手が回らない部分が出てくるかも知れないからな」
 今度は、世羽子は大きくため息をつき。
「だったら、あんな椎名さんは巻き込まれる可能性があるって事じゃないの?」
 はっきり言って、私は彼女の面倒みるのはイヤよ……とあからさまに表情に出しつつ、世羽子が青山の目を見つめた。
「……秋谷」
「何よ?」
「秋谷と椎名が殴り合いの勝負をすれば、それはもちろん秋谷の圧勝というか、そもそも『殴り合い』の形にすらならないのは火を見るより明らかなんだがな」
「……」
 青山の口元に、いつもの冷笑が浮かび。
「俺はさっき、中庭でアレを見て思わず拍手しそうになった」
「拍手…?」
 そう呟き、世羽子が少し考える素振りを見せた。
 いわゆる、『さっきの中庭のアレ』を、一部始終ではないにせよ、世羽子もまた見ていた。
 果たしてアレは、青山が拍手するほどのものだったか?
「やれやれ……これほど観客が少ないと気の毒だな、椎名が」
「つまり、青山君はこう言いたいわけね……今私は、椎名さんに別の形の殴り合いで一方的にやられている、と」
「まあ……椎名が、秋谷個人に殴り合いを仕掛けているわけじゃないが、そういうことではある」
 ふう、と世羽子はため息をついて。
「正直……私の目には、猫をかぶってたのがちょっと自棄になってるようにしか見えないのだけど」
 世羽子の言葉に対して青山はちょっと口を開きかけ……結局、何も言わずにその口を閉じたのだった。
 
「そう、わかったわ……一ノ瀬さんは早退、と」
「じゃ、お願いします…すみませんでした、遅くなって」
「……大丈夫?」
「何が…ですか?」
 そう言って笑った尚斗から、綺羅はちょっと目を背けて。
「いえ、ちょっと疲れてるような印象を受けたから」
「疲れてるわけではないです…ただ」
「ただ…?」
「……どう扱ってやるのが一番良いのかわからなくなって、途方に暮れてるだけで」
「……難しい子よね、椎名さんは」
「……」
「これでも教師ですから」
 と、何故か得意そうに綺羅が言う。
「……」
「教師です」
「……」
「なんで、尚斗くんは私にだけ冷たくするんですかっ!?」
「拗ねたふりをしたって騙されませんよ」
「まあ、この程度で騙されるとは思ってませんけど…」
 と、綺羅は1つ頷いて。
「では、他言無用のとっておきの裏情報を尚斗くんにプレゼントします」
「……」
「……高等部、外部受験の話だけど、入学試験には面接があるの」
「別に、それは珍しくも…」
「そうね」
 と、綺羅は尚斗の言葉を遮り。
「ただ、面接において例外なくある質問をするの……他の学校の先生達と話をすると、かなりこれは珍しい質問みたい」
「……?」
「『試験の結果に自信はありますか?』って」
「それは……」
 尚斗は苦笑した。
 意地悪い質問といえばいえるが……受験生にとって、それも頭の回転がよい人間ほど頭を悩ませる質問ではあるだろうから。
 そして、この女子校の高等部の受験者はほとんどが成績優秀者である。
「椎名さん、なんて答えたかわかる?」
「……少なくとも、自信があるとは答えないでしょうね」
「うん、半分正解」
 綺羅はちょっと笑って、言葉を続けた。
「『自分のベストを尽くしましたが、合格基準という意味で筆記試験の結果にはまったく自信がありません。でも、矛盾するようですが私は入学できると思います』……ってね」
「むう…」
「正直、椎名さんはこの回答だけで合格したと言えるわね」
 それと、あの表情……という言葉を綺羅は呑みこんだ。
「それは……筆記試験のに関して言えば…」
「ごめんなさい、教師として私の口からはそれ以上…」
「麻理絵のことが嫌いですか、藤本先生?」
「教師にそんな質問をしてはダメよ、尚斗くん」
 と、にこやかに答える綺羅のそれは、まさしく氷の微笑と呼べるモノで。
「……」
 綺羅のその氷の微笑は一瞬で溶け、優しい微笑みに変貌する。
「じゃあ一ノ瀬さんが早退するという報告はきちんと受けたから、授業にお戻りなさい」
 そういって、綺羅は教官室のドアを指さした。
「わかりました…」
 と、ドアノブに手をかけたところで尚斗はちょっと首をひねった。
「どうしました?」
「麻理絵の面接の時…藤本先生はその場にいたんですか?」
「いましたよ…春から教師になることが決定してましたので、まあ…特別に」
「……なるほど」
 小さく頷き、尚斗は教官室を後にした。
 
 そして、放課後。
 足早に教室を出ていくクラスメイトとは対照的に、尚斗と麻理絵は席から立ち上がることもなく人が少なくなるのを待っていた。
「麻理絵」
「なに?」
「紗智が忘れていった鞄、届けてやる気はあるか?」
「あるけど…」
 麻理絵はちょっと笑って首を振った。
「無理かな」
「……そうか」
「怒らないんだね」
「……」
「尚にいちゃんにとって、私がやってることは悪い事じゃないし……私が自棄になってるとも思ってくれないんだ」
「……紗智には、そう言ったけどな」
「難しいな、尚斗君の基準は……昔は、もっと単純だったのに」
「別に、紗智を傷つけようとしてやった事じゃないだろ、あれは」
「でも紗智はっ」
「傷ついたんじゃなく、混乱してるだけと思うがな、俺は」
 尚斗はちょっとため息をつき。
「紗智は多分……うまく言葉にできないような、心の深いところで麻理絵の優しさに気付いてると思う。だから、みちろーがいなくなっても、麻理絵のそばにずっといた」
「何を…」
「それが理由の全てじゃないとは思うけど、麻理絵がここを受験したのって……『紗智の志望校にここが入っていなかった』からってのもあったんじゃないのか?」
「……やめてよ」
「……」
「幼なじみだからって……そんな、見てきた風なこと、言わないでよ…」
 視線を合わせることなく、麻理絵は尚斗に背を向けた。
「帰る」
「そうか…」
 逃げるようにして麻理絵が帰ってしまった後、尚斗の手元には紗智の鞄が残されて。
「ふむ…」
「有崎君」
「ん?」
 眼鏡をかけた……いつも眠そうにして、どこか他の女生徒から距離を置かれているという印象を持っていた少女が、尚斗に向かって手を伸ばしてきた。
「私が届けるわ、それ」
「そっか、よろしく」
「……」
「ん?」
 少女……澄香が、呆れたようにため息をつく。
「少しは、素性を疑ったりしないの?」
「いや、紗智とよく話してただろ。名前まではちょっと覚えてないけど」
「まあ、いいけど…」
 そして、紗智の鞄を届ける役目は澄香に託された。
 
「……ありがと」
 澄香から鞄を渡され、紗智は礼を言った。
「優しそうなお母さんね…つーか、若い」
「まあね」
 どうやら澄香が麻理絵と同じ勘違いをしてる……と微笑みかけた紗智だったが、表情を曇らせた。
 それに気付いているのかいないのか、澄香が言う。
「正直、紗智は両親とうまくいってないと想像してたから、予想は外れたけど」
「何よ、それ」
 澄香は指先でちょっと眼鏡の位置を調節しながら苦笑した。
「ああ、柄にもなく嫉妬してるのかもね、私」
「は?」
「人はみな、自分が一番でありたいと思う業の深い生き物なのよ、きっと」
「……?」
 澄香の言葉に首を傾げる紗智。
 何はともあれ、麻理絵を連想させることのない澄香とのやりとりは、紗智にとって悪くないモノだったに違いなかった。
 
「結花ちゃん」
「はい?」
 振り返った結花に対して、言っていいのか悪いのかちょっとためらった夏樹だったが……結局それを口にした。
「今日は、ちょっと落ち着きがないのね?」
「…そうですか?」
 夏樹に指摘されるまでもなく、それを自覚していた結花は努めて冷静に切り返した。
「まあ、いつもならそろそろ有崎さんが邪魔しに来る頃かなと思いまして」
「……」
 先に言葉を奪われた夏樹としては沈黙する他はない。
「……後、2週間ですね」
「そうね…」
 しばらくの沈黙の後、結花が言い訳じみた台詞を口にする。
「その、公演までって意味ですよ?」
「え…あ、あぁ、そうね」
 『それ以外にどんな意味があるの?』などと聞き返さなかった時点で、夏樹もまたそれを認識しているのだろうと結花は判断した。
 そして結局、この日尚斗は2人の前に姿を現さなかった……。
 
「大輔様」
「なんだ?」
 そちらには顔を向けず、青山の視線はディスプレイに向けたまま。
 もうそろそろ、日付が変わろうかという時刻……青山家の敷地の一角に建てられたプレハブの中で、青山は自分専属のメイドと2人きりだった。
「新しいメイド服が欲しいんですけど、経費で落ちますか」
「……好きにしろ」
「いえ、自分で作りますから、結局布の代金だけなんですが…」
「…好きにしろ」
「……余った布を、勝手に使っても良いですか?」
「だから、好きにしろと言ってるんだが」
 と、ここで初めて青山が視線をメイドに向けた。
「あ、いえ……高いお給金いただいておいて、この上横領となると、多少良心が疼くと言いますか…」
 などととぼけた事を口にするこのメイド、青山家で働く人間のほとんどがこの地方の出身……というか、いわゆる青山家が大名だった時代から青山家に仕えてきた血筋なのに対して、彼女は全くの無関係で、いわゆるよそ者である。
 大学進学を機に、この地方にやってきた女子大生で、この春には4年生になる。
 ごく普通の……と言っても、平均点以上の容姿をもち、自らの通う大学の中で平均以上の学力を持ち(以下略)……まあ、どこからみてもごく普通の女子大生なのだが、彼女は高校生の頃から秘密の趣味があった。
 そう、彼女はレイヤーさんだったのである。(笑)
 彼女が大学生になり、新しい生活に馴染み始めた頃……この地方では、ちょっとした事件があった。
 そう、青山鉄幹の死、である。
 本人はそれをまったく気にしていないのだが、少なくとも、周囲からはそれを機に青山の生活が一転したと思われている。
 敷地の一角に建てたプレハブで生活する事を強いられたことに始まり(以下略)……なのだが、この時青山に仕えるメイドが募集されたわけだ。
 そもそも、この状況でよそ者を雇うこと自体が不審なのだが、彼女がそれに気付くはずもなく……というか、彼女はこの『メイド募集』を思いっきり勘違いしていた。
 一言で言うと、いわゆるメイド喫茶のそれと思っていたのである。
 
『いや、ガチでメイドだと思わないわよ、普通』
 
 などと、趣味仲間に漏らした彼女だったが……ちょっとした事件(笑)がおこってからというもの、高い給金はもちろん、いろんな意味でそれは彼女にとって魅力的な仕事となり、こうして今も青山家のというか、青山の専属メイドとして日々を過ごしていたりする。
 まあ、それはさておき……自分の(メイド)服を自作し、青山の世話をする彼女によって、一時期屋敷の人間から青山が変な目で見られたのは言うまでもない。(笑)
 ちなみに、今は青山ではなく、彼女自身が変な目で見られているだけである……いや、ごく一部では好評だったりするが。
 まあ、ちょっとした事件なども含めて、これは別の話、またの機会に語ることにしよう。(笑)
 
「じゃあ、大輔様。夜更かしも程々にしてくださいね、お身体にさわりますから」
 と、彼女が去ってから数分……1月31日から、2月1日へと日付が変わる瞬間、青山は手を止めて顔を上げた。
「……待ってましたよ」
「そう?」
 部屋の影から滲み出るように……香月冴子が姿を現す。
「夜分、恐れ入ります……と挨拶すべきかしらね」
 
 
                 完
 
 
 まあ、青山専属のメイドさんはお遊びの範疇ですので、突っ込まないでいただきたい。まだ、名前も考えてない状態ですから。(笑)
 それにしても、麻理絵の扱いは難しい……それは、高任の台詞だったりする。

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