1月30日(水)。
 
「……」
 とりあえずいつものように入れたお茶に口も付けず、結花はどてらに身を包んで考えていた。
 
『そいつは、有崎を入谷との約束の時間に遅刻させつつ、12時には遅刻させたくなかった。まあ、それが偶然でないとしたら、そういうことだな』
 
 他に聞きたいこともあったのだが、それが意味することに動揺して何も聞けず……いつもより早く目が覚めたのは、青山のその言葉が睡眠をひどく浅いモノにしたからだろうと結花は奇妙な冷静さでそう考えた。
 意図的に歪曲された報告書……が、自分とあの少年を接触させることが目的だとして、じゃあ、何故接触させるのかというと……それは、夏樹と、あの少年の架け橋にさせるため……だったのか。
「……ま、いいですけど」
 そう呟き、結花は冷めてしまったお茶をすすった。
 その推察が正しいとしても、別に、あの少年が悪いわけじゃない。
 自分も含めて、結局は誰かに利用されたと言うだけの話で……ちょっとばかり人智を越えた内容で、回りくどいことをのぞけば、どこにでも転がっている話の1つ。
 わざわざ、気がつくような言い方をした青山にしても、何らかの目的があってそうしたに違いなく。
 何かを強制されたわけでも、示唆を受けたわけでもないが、この先、自分がどう動いても、誰かにそれを利用されるような……嫌悪感がせり上がってくる。
 再びぬるいお茶をすすって。
 個人的な感情はさておき……夏樹が、あの少年に惹かれ始めていると結花は思う。
 だとすれば、夏樹もまた、誰かに利用されているのか……自分はいい、尚斗は多分そんなこと気にしないだろうと思う……でも、夏樹を、利用させたくはない。
「……私がそれを、言いますか」
 自嘲的な呟き。
 夏樹を利用している自分が、夏樹を利用させたくないなどと……吐き気がするほど偽善的だが、少なくとも感情面で嘘はついていないと結花は思う。
 夏樹を傷つけたくはない……これは、嘘じゃない。
 誰かに、そんな資格はないと指摘されたとしても……その想いは本当だから。
 そのままどのぐらいの時間が経過したのだろうか、いつもの起床時間を告げる目覚まし時計の音に結花が弾かれたように顔を上げ……ため息をついた。
 まだ日は昇っていないが、良く晴れているのがわかる。
 それとは対照的に、結花の心の中には……暗雲がたれ込めている。
 
「……っ」
 紗智はついに寝ることを諦め、カーテンを開けた。
 うとうとっとした記憶はあるが、結局、ほとんど眠ることが出来ず……体調は最悪だった。
 いや、正確にはひどい精神状態が体調に影響を及ぼした……というところか。
 青山との会話、その後の、みちろーとの電話。
「……」
『紗智さんのそれは優しさじゃなくて、ちょっとばかり薄情かも知れないわね』
 数日前、吉野に言われた言葉が頭の中でぐるぐるとリフレイン。
 紗智は、窓の外に視線を向けた。
 外は少しずつ明るくなっているが、視界良好とは言い難い状態。
 みんな、そうだ……と、紗智は思う。
 適度な距離と適度な曖昧さ……人を傷つけることのない距離は、自分が傷つけられない距離で。
 薄闇の中、ぶつからないように歩いていく……人影が近づいたら距離をとり、相手がどんな人間なのかはあまり関係ない……つまりはそういうことだ。
 もちろん、そんなことにもセンスとやらはあるのだろう。
 誰でとも…もちろんそれなりに相手は選んだが…仲良くなって、いわゆる友達つき合いへ移行するのに苦労を感じたことはない。
 人によって変化する距離感……そこを見誤ると何らかのトラブルが起こるし、物事をはっきりさせすぎると、敵を作る。
 いわゆる、バランス感覚……空気を読む能力が自分にはあるのだろうと紗智は思う。
『これ以上、麻理絵とは一緒にいられない……麻理絵を自由にしてやりたいとか、綺麗事を言ったけど、結局はそう思って……俺は逃げたんだ』
 みちろーは、みんなと仲良くやっていた。
 あれだけ女子に人気があれば、男子からは嫌われても良かったモノなのに……無かったとは言えないけど、うまくやっていた。
 そういう意味では、みちろーもまた他者とのバランス感覚には優れていた……ひいきめではなく、そう思うわけで。
「……麻理絵とだけ、うまくやれなかったって事?」
 思いつきをそのまま口にして……紗智は、眉をひそめた。
 だとしたら、皮肉な……皮肉すぎる話だ。
 そして……紗智は、自分を責めることで直視することを避けていた深刻な疑問に向き直る。
「麻理絵は……みちろーのこと、本当に好きだったの?」
 それは……目覚まし時計が鳴るまで、紗智の心と身体を縛り付けたのだった。
 
「……あら」
 朝食の準備に取りかかった弥生だったが、目の前の現実に少しばかり戸惑った。
「……昨日の夕飯の準備の時はもうちょっと残ってた様な」
 弥生がちょっと目を閉じる。
 がちゃ。
 勝手口のドアが開く音に、弥生は目を開けてそちらに振り向いた。
 まあ、当然入ってくるのは、全身から湯気を発する世羽子で。
「おはよう、弥生」
「うん、おはよう、世羽子……?」
 と、今度は別の意味で弥生は世羽子を凝視した。
「お米、ないでしょ?」
 と、世羽子がそれを1つ机の上に置き、もう一つを持ち直して……さっきまで空だったそれにざざぁーっと注いでいく。
「まあ、24時間営業のスーパーって、こういうときは重宝するわね」
「あ、うん…そうね」
 このあたりに、24時間営業のスーパーなんてあったかなあ……コンビニのことかしら……でも、コンビニで10キロの米は売ってないような……。
 などと、生活感溢れた事をぼんやりと考えながら、弥生は曖昧に頷いた。
 そんな弥生の様子に気付いているのかいないのか、それとも気付いていながら気にしてないのか……世羽子はもう一つの米袋を片づけて。
「じゃあ、シャワー浴びてくるから」
「あ、うん……お疲れさま」
 世羽子の後ろ姿を見送って……30秒経過。
 今の目の前で起こったことを整理し、納得するまでに要した時間である。
 米がないことに気付いて、走り込みのついでに、近所にはない24時間スーパーまで足を伸ばして、米20キロを購入し、走って戻ってきた。
 なんだ、まあ、世羽子だったら別におかしくないよね。
 と、納得できるところが……温子あたりに言わせると、『弥生ちゃんは大物だよねえ』というところかも知れない。
 しかし、炊飯器のスイッチを入れ、みそ汁の出汁を取り始めたところで弥生はふと気付く。
「……昨日の夜、まだ少しお米は残ってたよね?」
 米を買ってきた世羽子。
 それはつまり、残りを世羽子が使った……食べた。
 考えると、世羽子がトレーニングというか、増量を始めてから、お米の減りが早いような気がする。
「……朝、走る前に食べてるのかな?」
 などと、さっきの光景ではなく、そっちの方に疑問を持ってしまうあたり……やはり、弥生は大物なのかも知れなかった。
 
「……さて、と」
 洗いものをすませ、尚斗は背後を振り返った。
「そろそろツッコんでいいか?」
「う〜う〜」
 ちょっぴり涙目の安寿がぶんぶんと首を振る……もちろん左右に。
 父親が家を出てからしばらく……あるか無きかの気配と共に、台所の片隅で膝を抱えている安寿の姿を見つけたり。
「登校拒否希望です〜」
「まあ、義務教育じゃないから、休むのは本人の自由……以前の問題だろ、安寿は」
 と、尚斗はちょっと首を傾げ。
「つーか、そもそも学校に通わなきゃいけない理由があるのか?」
「……」
 きっちり1分経って、心の底から不思議そうに安寿が呟いた。
「私、なんで学校に通ってるんでしょうか〜?」
「まあ、高校生の半分ぐらいは、そう思ってるかも知れないけど」
 と、尚斗は苦笑しつつ。
「えっと、あれだろ?幸せになりたい波動を浴びたとか言ってたよな」
「あ、そうです〜すごかったんで〜……」
 ふと、安寿が首を傾げ。
「どうした?」
「あ、いえ〜『そこに行けばやるべき事がわかります』とか言われてたんですけど〜そもそも、私はやるべき事をやってるんでしょうか〜などという根本的な疑問をですね〜」
「まあ、学校に行けって指示されてるんなら…」
「あ、そうじゃなくてですね〜♪」
 天使長に指示されたあたりを飛んでいた(安寿主観)ら、幸せになりたい波動に引っ張られて、尚斗の上に落下した……と説明を始める安寿。
「えっと、天使長は何も言ってないんだよな?」
「はい〜ですから、ここで良かったんだと思ってましたが〜」
 安寿は再び首を傾げながら。
「だったら、何で最初からここにいきなさい〜って、指示しなかったんですかね〜?」
「……まあ、1から10まで指示されて、その通りに行動してちゃ、安寿がレベルアップしないからじゃないか?」
「おぉ…」
「ほら、期待してない相手にそれほど強く怒ったりもしないような気もするし……まあ、安寿は天使長に期待されていると言うことで、どうでしょうか?」
「そ、そうですかね〜♪」
 などと言いつつ、安寿は何やら嬉しそう。(笑)
「そうですか〜期待されてましたか〜ドラフト1位指名って事ですかね〜♪」
 ドラ1は、芽を出すことなく引退する割合が高いそうだが……と思ったが、尚斗は黙っておくことにした。(笑)
「で、どうする?一緒に学校に行くか?」
「有崎さんと一緒に登校ですか〜♪」
 ぶぶー。
「……どうかしたか?」
「いえ、なんだかものすごくイヤな予感がするのでご遠慮させてください〜」
 残念そうに言う安寿……当然、何故学校に行きたくなかったかの理由を、綺麗さっぱり忘れていたりする。
 
「勘か、推測か……どちらにしても、大したもんだ」
 冗談でもお世辞でもなく、青山が呟く。
 色々と事情があり(笑)、毎日、行きも帰りも気まぐれのようにルートを変える青山を待ち伏せる……学校の校門前とか、家を出てすぐの地点などを抜きにして、それが至難の技だという事は、青山の叔父というか…正確には腹違いの兄にあたるのだが…に依頼されて命を狙ったプロの連中が良く知っているはずで。
 もちろんそのうちの数名は既に(以下略)。
「それで、何か用か椎名?」
「……紗智に、何を言ったの?」
「一ノ瀬に聞け」
 にべもない返答に、麻理絵は言葉を変えて言い直した。
「なんで、紗智に余計なことを言ったの?」
「椎名にとっては余計だったかも知れないが、俺にとっては必要だったからな」
「……そう」
 ため息と共に。
「理由はわからなかったけど、そんな気がしてた」
「……と、いうと?」
「私が自由に動ける時間は少ないって……急いでたのは、そのせい」
 何かを諦めた……そんな表情で、麻理絵が空を見上げた。
 そして青山は、麻理絵の様子に心を動かすこともなくうっすらと笑みを浮かべて。
「一ノ瀬をどう利用したかったのか、今ひとつ理解しがたかったが」
「……釈迦に説法って気がするけど、嘘を見抜く人間を騙すにはどうすればいいと思う?」
「ふむ、嘘をつかないことだな」
「……とりあえず、私が紗智に求めたのはそういうことだよ」
「なるほど…」
 と、青山は一応という感じに頷き。
「有崎は、椎名が考えているよりもずっと、椎名のことを理解してると俺は思うが」
 ひどく冷めた視線を青山に向けながら、麻理絵が呟く。
「1つ……聞いていいかな?」
「なんだ?」
「青山君から見て、私には何が足りなかったの?」
「まずは運だな」
 空を見上げて、麻理絵。
「いろんな意味での力不足の間違いじゃなくて、運なの?」
「……一度目を失敗したという意味で、だな」
 青山の返答が予想外だったのか、麻理絵が息をのんだ。
「あはは…」
 麻理絵の視線は、空から足下へ……いや、単に俯いただけなのか。
「みちろーくんをね、見捨てられなかったんだよ。甘い、と言われたらそれまでだけど……多分、紗智のことも見捨てられないんだろうね、私は」
「一ノ瀬は、椎名の保護者気分だからな」
「……悪くは言わないで欲しいな。紗智が、私を守ってくれようとしたのは事実だし」
 冷めた口調の裏に微妙な熱を感じるのは、本音か、それとも演技か。
「ふむ、悪かった……まあ、そういう部分をひっくるめての、椎名の運というやつだ」
「……秋谷さんが、運に恵まれていただけっていう口調だね。それとも、慰めてくれてるの?」
「ふむ…」
 と、青山はちょっと微妙な表情を浮かべて。
「ひょっとすると……その件に関して、秋谷は椎名より運が悪いかも知れん」
「……?」
「証拠はもちろん、確証もない……ただの勘だが」
「……青山君の言う『勘』は、ただの『勘』じゃないと思うけど」
「さて、どうかな」
「ふうん……まあ、いいや」
 と、麻理絵が青山に背を向ける。
「色々と、悪あがきだけはするつもり」
「……気をつけろよ」
「……冴子先輩と、同じ事言うね」
「なるほど……礼を言う」
 与えられた情報に対し、青山は一応頭を下げて応えた。
「お礼なんて言うことないよ……嫌がらせだから」
「誰に対する?」
「尚にーちゃん以外の全員にきまってるよ、そんなの」
「ふむ」
 背中を向けたままの麻理絵に対し、青山は少し笑って。
「それは、椎名も含めて……と受け取っていいのか?」
「……」
 ぴくり、と麻理絵の肩が震えた。
「そうして有崎の同情を引く…か?椎名が欲しいのは、同情か?」
 からかいとも質問ともとれる青山の言葉に、麻理絵は何も答えなかった……。
 
「おはよーございます〜♪」
「おはよう、天野さん」
 などと、親しげに挨拶をかわしはするが……クラスメイトの、安寿に対する印象は、そのほとんどが曖昧だ。
 麻理絵や紗智にしたって……『天野さんって、どんな人?』と尋ねられたら、首を傾げるのは間違いない。
 尚斗の左隣の、自分の(笑)席に腰を下ろし……鞄から教科書を取り出して机の中に。
「おはよう、天野さん」
「あ、おはようございます、秋谷さ……ん」
「……気分でも、悪いの?」
「い、いえいえ、そんなことは〜」
 ぷるぷると首を振る安寿の額にはイヤな汗がにじみ始めている。
 もちろん、自分が何故学校にいきたくなかったのかの理由を、しっかり、くっきり、思い出したからである。
「そう?顔色悪いけど…」
「……?」
 ふ、と安寿が首を傾げる。
 昨日感じた、あの圧力が……ない。
「……」
 それ以上世羽子は何も言わず、自分の席へと腰を下ろす。
「……」
 そして安寿は、首を傾げるばかり。
 
「失礼します」
「……新顔だな」
「香月先輩を探してるんですが、ご存じないでしょうか?」
「香月を…?」
 水無月はちょっと不審そうな表情を浮かべたが、すぐにそれを消し……首を振った。
「いや、今朝はまだ見てないな」
「そうですか、お忙しいところ、失礼しました」
 と、礼儀正しく頭を下げ……ドアを閉める仕草も、かなり洗練された動き。まあ、それがすぐにわかる程度に、水無月も元はかなりいいところのお嬢様だったりするわけで。
「……ふむ」
 腕組みしてちょっと首を傾げる。
 あの男子校の生徒という偏見が強かった自分に対する反省が半分と、男子生徒があの香月に用事があるという違和感への疑問が残り半分だ。
 
 その一方で。
「なるほど、な…」
 保健室をでて、少し楽しげに呟いたのは、青山である。
「まあ、会おうとして、会えるような相手じゃない、か……さすがに椎名、見る目があるというか」
 もちろん、他の場所にも色々と足を運んで……最後にやってきた場所が、保健室だったわけだが。
「香月冴子……ね」
 いわゆる武家手前と呼ばれる茶道の流れである香月流の傍流にあたる家系だが、既に茶道家と言うより実業家と呼ぶ方がよっぽど正確だろう。
 その香月家の次女として生まれた冴子は幼い頃……ちょいとした事件に巻き込まれたことがきっかけで、対人恐怖症に…。
 などと、通り一遍の調べはとっくについているわけだが……青山は、そんな調査をこれっぽっちも信用していなかった。(笑)
 別に、冴子だけでなく……綺羅はもちろん、夏樹や弥生、無論宮坂や麻理絵なども含めて、尚斗に関わった連中に関しては、色々と調べがついていたりもする。
 そもそも、人を調査する上で、曖昧な部分が無い報告ほど怪しいモノはない……もちろん、宮坂のように曖昧な部分が多すぎるのもあれだが。
 青山はちょっと足を止め…。
「……面白くなってきたな」
 本音かどうかは不明だが、そう呟いた。
 
 昼休み。
 弥生と世羽子と温子の3人は、例によって昼食を共にしていたわけだが。
「ねえ、この曲なんだけど…演ってみない?」
 と、弥生が切り出した曲をしばらくも聞かないウチに、温子は顔をしかめて首を振った。
「無理」
「な、何で?」
 黙って曲を聴き続ける世羽子にちょっと視線を向けてから、温子は言葉を選びつつ言った。
「んー、この曲に限らず、最近は、打ち込みで作られた曲が多いのよね」
「打ち込み?」
「パソコンっていうか……まあ、楽器で演奏することを想定せずに、作曲された曲というか」
「……?」
 理解できなかったのか、弥生が首を傾げる。
「例えばさ……リコーダーで演奏する事を想定して曲を作るのと、ピアノ演奏を想定して曲を作るのだと、有効音階とか違ってくるのはわかるよね?」
「……そ、そーね」
 と、弥生はどこか曖昧に頷いた。
「弥生ちゃん、わかんないことは正直にわかんないって言おうよ」
「ごめん、わからない」
 温子は小さく頷き……ちょっと考えてから口を開いた。
「極端な話……普通、人間の指って10本しかないよね」
「そりゃ…そうでしょ」
「でも、こういう打ち込みの曲って……同時に12音を使ったりするの」
 弥生はちょっと戸惑ったように、指を曲げたり伸ばしたり……。
「それ、どうやって音を出すの?」
「だから、普通は無理なんだってば……プログラムって言うか、機械が定められたとおりに音を出して、曲を作るって言うか」
 温子はちょっと言葉を切り……肩をすくめた。
「音を追うだけで精一杯の曲の演奏は、人間をただの機械にしちゃうからね……」
「……」
「ゲージュツとかそういうのはともかく、音楽が1つの表現方法であるなら、むしろ演奏者は機械であることを否定するところからスタートするべきだと思うのよね」
「うん……それは、なんとなくわかる、気がする」
「こういう打ち込みの曲は、制作者の自己表現の手段であって、決して演奏者の自己表現とか、そういう事を考えて作られたわけではないのよね……良い曲とか、悪い曲とかは関係なく、演奏できないとか、演奏しても面白くないとか……聞くだけの曲かな、私の認識としては」
「ふーん…自己表現…か」
 と、弥生が呟くのを聞いて。
「自己表現って言っても……全部がそうとは言わないけど、ピアノの演奏会なんかで、どこか勘違いした自己陶酔のオーバーアクションはみてて滑稽以外の何物でも無いというか……心を乗せるとか、感情を込めるってのは、ただ音にだけ反映されるべきであって…」
 温子が不意に口をつぐみ、世羽子に視線を向けた……が、世羽子は礼儀正しく、それを無視して。
「弥生」
「え?」
「ちょっとアレンジしてもいいなら、弾いてもいいわよ」
「ホント?」
「厳しいけどね、何とかなると思うわ」
「……世羽子ちゃんが厳しいって事は、普通の人には無理って事のような…」
 ぶつぶつと呟く温子をちらりと見て。
「……温子は、随分と私を買いかぶってるわね」
「技術に関しては、買いかぶりじゃないと思うけど…」
 
 さてこの3人、昼食後に部室に向かい……世羽子の演奏の最中、その負荷に耐えかねて弦が切れたとだけは記しておく。(笑)
 
 そして放課後。
「じゃ、じゃあね、麻理絵」
「うん、ばいばい」
 と、HRが終わるやいなやそそくさと教室を出ていこうとする紗智の背中を見送りながら、尚斗がぽつりと呟く。
「なんか、今日の紗智って、おかしくないか?」
「おかしいって、どこが?」
「んー、何かよそよそしいというか…」
「そうかな?」
 と、麻理絵がちょっと首を傾げてみせる。
「いや、俺に対してじゃなく、麻理絵に対してな」
 そう言って、尚斗は麻理絵に視線を向け。
「……なんかやったか?」
「ど、どーして私が悪いみたいな言い方するのっ?」
 などと首を振る麻理絵にわざわざわかるような位置で、青山がうっすらと笑う。もちろん、尚斗はそれに気付かず。
「なんとなく」
「……私、尚にーちゃんのそーいうとこ、嫌い」
 そりゃ、証拠も何もなく勘で言われたら言い返せないからだろう……と、目で語る青山を控えめに睨みつけ、麻理絵はため息をついた。
「ところで青山」
「何だ?」
「お茶とか、花とか……そういう、宗匠だか、家元って、どういう仕組みになってんだ?」
「……古くは室町時代に」
「悪い。できれば、簡潔に頼む」
「ふむ」
 青山は小さく頷き、ちょっと腰を下ろした……その横を静かに世羽子が通り過ぎていき、教室を出て言ってから青山が口を開いた。
「簡単に言うと、金儲けのシステムだな」
「すまん、質問の仕方が悪いのはわかってるが、俺が聞きたいと思ってることに的確に答えてくれるとうれしい」
「家元が弟子に免許を与える……と、免許を与えられた弟子は、新しく道場というか教室っぽいものを開いて、弟子を集めることが出来る」
「そのぐらいは…」
 と、口を開きかけた尚斗に構わず、青山が言葉を続ける。
「ここで重要なのは、免許がない限り『〜流』という看板を掲げた教室を開けないことと、弟子が自分の弟子に免許を与える際に、家元に一定率で金が流れることかな」
「……は?」
「将棋や剣道なんかも同じだが、段位を認定してもらうためには、その元締めというか協会に金を払う必要がある……つまりは、そういうことだ」
「……」
「流派が大きくなり、弟子の数が増えれば増えるほど家元の元に流れ込む金は多くなり、それは同時に、自分の師匠筋に対して弟子が逆らえないというか、権力構造を強化するわけだ。まあ、上に睨まれて免許を取り上げられたら、もしくは免許がもらえなかったら、どうにもならないわけだからな」
「ネズミ講みたいだね」
 などと、さも興味がなさそうに麻理絵が呟く。
「基本は、そうだ」
「……なんか、話だけ聞くと、イヤな世界だな」
「ジャンルに関わらず、人が集まり、金が絡めばそんなもんだ」
「……むう」
「と、言っても…」
 青山はちらりと尚斗に視線を向け。
「九条流は、ちょっとばかり毛色が違う……第二次世界大戦が終わった事で状況が激変することをいち早く悟ったというより、元々のそういうシステムに嫌気がさしてたんだろう。20そこそこで宗匠となった先代が…有崎の言うところの九条の曾祖母だが、まあ傑物だったわけだが」
「えらく詳しいな…つーか、常識なのか?」
「いや、じじいと九条流の先代がちょっと知り合いでな」
「……それもそうか。弥生とも知り合いだったみたいだし」
 と、納得して頷いた尚斗の袖をちょっと引きながら。
「尚にーちゃん、それ、九条さんの話だよね?」
「ん、まあな」
「ふーん…」
「……麻理絵」
「なあに?」
 にこにこにこ。
「この前、言ったこと覚えてるよな?」
「うん、もちろん」
「……」
 ぽす。
「……え?」
 ちょっと戸惑った表情を浮かべた麻理絵の頭を、尚斗はゆっくりと撫でてやる。
「あ、あの…」
「何かあったのか、麻理絵」
「……」
「今更って言うか、俺に聞かれたくないかも知れないけど……こうして、俺と再会する前に、なんかあったのか?」
「……ほんと、今更だよ」
 ぺしっと、尚斗の腕をはらいのける仕草が、ちびっこそっくりで。
「私、帰る」
 鞄を手に、教室から出ていく麻理絵。
「……」
「……追わないのか?」
「今のは9割方演技だった気がする」
 尚斗の返答に、微妙な含み笑いを浮かべて。
「……残りの1割は?」
「気にならないと言えば嘘になるが、今日はちょっと用事がある」
「ふむ……いきなり九条家のことを知りたがったのと関係があるか?」
「ん、いやそういうわけじゃ……」
 と、言葉を濁したが……尚斗が思い浮かべていたのは御子の顔。
 いくらなんでも放って置きすぎたか……という、心の重荷とも言う。(笑)
「まあ、宗匠とか家元に求められる資質は、職人としての技術よりも経営者としてのそれが大きいんだが……九条流の場合、求められる資質はいろんな意味でかなり大きいな。なまなかな人材では、つとまらないことは確かだ」
「ふーん」
 
 かた、かたたた…。
「……」
 かた、かたた、かた、かた…
「……」
「……放課後の、特別教室。紗智は、周囲にだれもいないことを確認すると、少年の顔を思い浮かべながら右手を股間へと…」
「ちょっとっ!?」
「もう、紗智ったら、欲求不満なんだから」
「……っ!?」
 がこんっ。
「……よ、欲求不満なのは、紗智じゃなくて私です」
 と、両手を挙げて完全降伏の姿勢をとる澄香に、紗智が構えを解いた。
「わかれば、いいのよ…」
 机の上で粉々になったマウス(澄香の個人所有物)に合掌。(笑)
「……っていうか、今日はまた一段と変ね、紗智」
「別に…」
「話、聞いてあげようか?」
「その、『良いネタが見つかった』的な、キラキラする目をどうにかしてくれたら」
「大丈夫よ……時間をかけて、自分の中でこなれてからネタにするから」
「すんなっ」
「時間が経てば、みんな良い思い出」
 などと、もっともらしい事を口にする澄香だが、書かれた本人にしてみれば良い思い出どころか、真っ黒のコールタールをぶちまけられるようなものだろう。
「ストップ、やめてやめて、キーボードはやめてっ!」
 キーボード(澄香の所有物)の真上に振り上げられた紗智の拳に、澄香は慌てて首を振る。
「そもそもっ、私は女なんだから、澄香の守備範囲外でしょ?」
 と、拳を収めながら抗議する紗智に向かって。
「大丈夫、紗智ならじゅうぶん男の子で……やめてっ、そのキーボード、お気に入りなのっ」
「……次は、本気でつぶすわよ」
「いえす、いえす」
 こくこくと頷きつつも、怪しげに答えるあたり、澄香にはまだまだ余裕があるようで。
「……」
「……」
「……えっと」
「なに?」
「んーと、澄香から見て……こう、麻理絵は…どんな人間に見えるのかな…とか」
「……ふ、ん」
 澄香は指先で眼鏡の位置を調節し、姿勢を正して紗智と向き直った。
「それ、椎名の前で、私に聞ける?」
「……ごめん、忘れて」
「……まったく、人生がどうとか、そういう疑問は、小学生のウチに終わらせときなさいよ」
「いやいやいや、早すぎでしょ、それ?」
 びしっとツッコミを入れる紗智に、澄香はちょっと微笑んで。
「三つ子の魂百までって言うでしょ」
「違う、それ、何か違うっ」
「紗智、私やっとわかったの…女は腐女子になるんじゃなくて、腐女子として生まれてくるのよ」
「どこかの文豪に呪われそうなこと言うなっ」
「はいはい、どーどーどー」
「ぜーはーぜーはーぜーはー」
「で、ちょっとは落ち着いた?」
 平然と澄香。
「お・か・げ・さ・ま・で」
「まあ、椎名と何があったか知らないけど、青山君と普通に接してるだけでも、変わってるのは明らかじゃない。男子連中見れば、わかるでしょ」
「……」
「……紗智?」
「ごめん、澄香……もう一回」
 首を傾げつつも、澄香は紗智のリクエストに応えて、一言一句まで同じ言葉を繰り返す。
「え、あれ?」
「いや、青山君も、有崎君も……まあ、宮坂君も含めて、男子連中から思いっきり距離をおかれてるでしょ?」
 澄香は澄香で別の意味で腫れ物扱いされていたりするのだが……女子生徒からも。(笑)
「……えっと。それって…」
「例外はあるけど、周囲の人間がみんなして距離を置こうとするのは……いろんな条件をひっくるめた、変な人よ。類友って言葉、聞いたことはあるよね?」
「ま、麻理絵のどこが変なのよっ」
「うん、1ヶ月前までなら、私もそう思ってた。内向的とか、人見知りが激しいのかなとかはさておき、まあ割とどこにでもいる普通の子かなって」
「……は?」
「……んー」
 澄香はちょっと面倒くさそうに俯いて。
「やっぱ、紗智には理解しづらいのかな……人間って、気軽につきあえるタイプの範囲って割と狭いのよ。それを考えると、間違いなく青山君や……まあ、有崎君なんかも、いわゆる変な人の部類に入るんだろうなって推測できるわけだけど」
「……私も、変人って言ってる?」
「……自覚、ないんだ」
「いやいやいや、私、知り合いとか多いのよ?ほら、えーと」
 などと、携帯のアドレスをいじり出す紗智に対し、澄香が鼻で笑った。
「変な人って、言葉に抵抗あるなら言い換えようか?少数派とか、マイノリティとか」
「……」
「多分、だけど」
 そう前置きしてから、澄香が語り出す。
「紗智個人の知り合いは多いだろうけど、紗智の知り合いと知り合いは、あまり親しくなれないケースがほとんどじゃない?私と椎名なんかがよい例だけど」
「それは、趣味とか全然違うから…」
「その、趣味の違う知り合いが、紗智にはそれだけいるのよって話……つーか、普通は…って、それはいいか。とにかく、人付き合いという意味では、間違いなく紗智は変わった人なのよ」
「……?」
「あのね紗智……誰とでも仲良くなれるってのは、あんまり普通じゃないの。他人を拒絶しないこと、他人に拒絶されないこと……イメージで言うと、粘土のような柔らかさが必要不可欠」
「ね、粘土?」
「よく言えば柔軟……悪く言えば」
 澄香はじっと紗智を見つめて……言った。
「相手に合わせすぎて、自分がない」
 
「……あのですね」
「ん?」
「ほんとーに、今更ですけど……自分が部外者だって、わかってますか?」
 呆れたようなため息の半分は、自分自身に向けて。
 部室の入り口にやってきた尚斗の姿を見つけて、結花の心はいろんな意味で揺れた……が、逡巡はしたモノの結局はわざわざ自分から歩み寄って相手をしていたりするわけで。
「あ、いや、なんというか……すまん」
 などと素直に頭を下げる尚斗。
「……」
「……」
 手の届く位置に下げられた頭を見ていると、なんとなく仕返ししたくなって。
 なでなでなでなで。 
「……」
「……」
 なでなでなでなで……。
「……」
「……」
 やはり最初に耐えきれなくなったのは結花の方で。
「反応してくださいよっ!恥ずかしいじゃないですかっ!」
「ふはは、まだまだ青いなちびっこ」
 などとやり合う2人に、演劇部員数名が『またやってる…』みたいな暖かい眼差しを送っていたりする。(笑)
「……で?」
「で、とは?」
「今日は、何の用ですかと聞いてるんですっ」
「ああ、そうだったそうだった…」
 ぽんと手を打って、尚斗はきょろきょろと部室の中を見回す。
「…夏樹さんは?」
「……」
「……ちびっこ?」
「夏樹様に…用事ですか?」
「……?」
 すっと腰をかがめ、尚斗が結花の顔を真っ正面から見つめた。
「な、なんですかっ?」
 ぷいっと背けた顔を、尚斗の手が再び戻す……が、結花は尚斗の方を見ようとしない。
「ふむ…」
 しばらく結花の顔を見つめていた尚斗は、立ち上がって結花の身体を小脇に抱えた。
「え、ちょっ、ちょっと?」
 羞恥と困惑で足をばたつかせる結花だが、それほど強い力で抱えられているとも思えないのに、自分の足で立っているような安定感がある。
 早い話、びくともしないのだ。
「ちょっと、借りるね」
 と、尚斗は演劇部員に一応声をかけ。(笑)
「か、借りるって、私、モノじゃ…」
「あ、はい、どうぞ」「準備があるから、早めに返してくださいね」
 ノリの良い演劇部員数名に、結花はばっちり裏切られた。
「もごもごーっ!」
 もちろん、結花の口を尚斗の手がふさいでいたのは言うまでもない。
 
「……公演に向けて、忙しいんですけど」
「ま、たまには本当の苦労をさせないと、人は成長しないからな」
 結花の皮肉にも、尚斗は涼しい顔で言葉を続ける。
「だからといって、苦労が連続し続けるのもいいことはない」
「……知ったような口を、聞かないでください」
「ん、そうだな……悪かった、部外者が勝手なこといって」
 少し遅れて、ぽすっと頭の上に乗せられる手……それを、予想していた自分がひどく惨めな気がして、結花は慌ててその手を振り払おうとした。
「てい」
「おっと」
 結花の手をかわし、尚斗の手は再び頭の上に……もう一度、それを振り払おうとする気力が結花には湧いてこなかった。
「……」
 何度も何度も、払いのけても払いのけても……同じように、頭を撫でる少年の手。
 繊細で、なのに無遠慮で……他者との間に大きな壁を作って閉じこもる結花の心に、時に優しく、時にはハンマーで(笑)、根気強く合図を送り続ける手。
 5年前のあの日から、結花はそういう手をずっと拒み続けていた……いや、拒み続けるという行為そのものが、それを求めていたことの裏返しだったのかも知れない。
 頭を撫でられながら、結花は顔を上げ……尚斗を見つめた。
 こういう人がいる……それがわかっただけでも、多分今までより暖かな心持ちで生きていける。だったら別に、それが自分だけに注がれるモノでなくとも、構わないではないか。
 それは心の中に自然と浮かび上がった思いではなく、そう思い定めようと結花の意志が込められたモノ故に、その時点で……多少なりとも歪んだ何かを内包しているわけで。
「……夏樹様のいる場所まで案内します」
「……」
「夏樹様に、用事なんでしょう?」
「……」
 右手で頭を撫でつつ、尚斗は左手を伸ばし……結花の頬をつまんだ。
「……はんのまねでふか?」
「なんか、生意気なこと考えてないか、ちびっこ」
「はにが、なまひきでふか?」
「ちびっこの言葉を借りれば、今のお前って『転んで怪我をしたのに、笑ってる子供みたい』だぞ」
 ぱしっ。
 頬をつまんでいた尚斗の左手を、結花の手が振り払う……その直前に、尚斗は既に結花の頬を解放して痛みを与えぬようにしていた。
「転ばせた本人がそれを言いますかっ!」
「……」
 感情の爆発は瞬時に去り…結花は慌てて首を振った。
「あ、いえ…すみません。別に有崎さんが…悪いわけじゃ…あ、あれ…?」
 首をひねりながら、結花が手の甲で目元を拭う……二度、三度。何度拭っても、それは、後から後からわき出てきて。
「無理すんな…」
 尚斗の手は後頭部へ……撫でるためではなく、抱き寄せるために。
 頭を撫でる右手、ぽんぽんと優しく背中を叩く左手……それは、結花の中の遠い想い出につながった。
 あ、泣くんだ、私……あの時でさえ、泣かなかったのに、こんな事で…泣くんだ。
 そんな、さめた認識がさらに感情を高ぶらせて。
「ふぇ…」
 尚斗の身体との間に挟まれていた両腕を、背中に回してから……結花は、子供のように泣いた。
 
「……えっと」
 こそこそと隠れるようにして道場の中を窺う紗智の目が、目当ての人物を捜し当てた。
 稽古のために髪を後ろで束ねた少女は既に胴着に袖を通しており、黙々と受けの型をくり返している。
「あちゃ…もう、稽古始めてる」
 こちらの事情はどうあれ稽古の邪魔は出来ない……そのぐらいの常識を持ち合わせているだけに、紗智はため息をついた。
 ここで待つ、という選択肢も無くもないが、先生に見つかると……。
「……っ」
 あるか無きかの気配を覚え、紗智は飛び退がりながら振り向き……そこでにこやかに微笑んでいる男の姿を確認して、もう一度ため息をついた。
「やあ、久しぶりだな一ノ瀬」
「お、オス…ご無沙汰してます」
 最後に稽古にでたのっていつだったっけ……などという紗智の思考を読んだのか、男はあくまでも微笑みながら口を開いた。
「うむ、実に2ヶ月ぶりぐらいか」
「そ、そうでしたっけ…?」
「まあ、空手に限らず、全ての道というものは、それぞれが向かい合うモノだし、毎日の稽古など、他人が強制するモノでも…」
「オス、その通りであります」
「……俺はそうは思わんが、武道というのは教育の一環だとかいう輩もいることだし、何より、月謝をもらっておきながら、何も指導しないでいるというのも、少しばかり、良心が疼くというモノなんだ、わかるか一ノ瀬?」
「お、オス。先生はもう少し、商売っ気を出すべきだと思います」
「……」
「……」
 微妙な沈黙を経て、男と、紗智が同時に微笑みあう。
「まあ、一ノ瀬が空手の道を極めようなどという気持ちがこれっぽっちもないのは百も承知だが、月謝を払っているのなら、せめて1ヶ月に1回は顔を出すべきとは思わんか?」
「せ、先生の仰るとおりです」
「……なら、汗を流していけ」
 そんな気分じゃないんだけど、と心の中で呟きながら、紗智は頷いた。
 
「あの…なんというか…すみませんでした」
 既に日は落ちて。
 南天の、孤独に輝くシリウスの星に見守られながら、結花と尚斗の2人は夜道を歩いていた。
「何が?」
「何が…って」
 呆れたようにちょっと笑った結花の表情は、どことなく晴れやかで。
「前にも聞いた気がしますけど、有崎さんのお母さんって、どういう人でした?」
「んー?」
「別に、包括的な評価じゃなくて、こういうことがあったとか、そういうエピソード的なモノを聞いているだけなんですけどね」
 そう尋ねる結花の口調はもちろん、こうして歩いている動作の1つ1つに、心気の伸びやかさが感じられる。
「エピソードと言っても、あまり大きな声で言えないことがほとんどなんだが…」
 と、尚斗は比較的おとなしめの出来事を結花に話して聞かせた。
 世羽子と尚斗の2人を迎えに警察署にやってきたことの出来事(笑)とか、尚斗に殴られて怪我をしたなどと相手の親が騒いだときの出来事とか……結花は、驚きもし、笑いもし、最後には素直に感心してみせる。
「……それで?」
「まあ、母さんが食べたいとか言い出して俺に無理矢理覚えさせた料理は、たいてい親父の好物だったりするんだ、これが」
「あはは、素直になれない人だったんですね…」
「なのかな?」
「まあ、子供をダシに使うのはどうかと思いますけど」
 結花は苦笑を浮かべ……ふと、夜空を見上げた。
「夏樹様は、今の演劇部のあり方にあまり良い感情をお持ちではないと思うんです」
 突然の話題の転換……と、尚斗は思わなかった。
 それまで喋り続けた勢いを借りて、重い口を開いた……そんな印象を受けたが、結花の口調には切羽詰まったモノを感じなかった。
 何かを吹っ切った……そんな明るさがある。
「演劇部を立て直す……まずは人を集めること。私は、夏樹様に白羽の矢を立てました」
「何で?」
「夏樹様が裏方を希望しているのはわかってましたけど…最も演技力があり、舞台映えする、そう思ったからです」
「……」
「手っ取り早く人を集めるために今の路線を選び、夏樹様を選んだ……そう思われるのは仕方ありませんが、私はまず夏樹様を選び、夏樹様というキャラクターを最も活かす手段として、今の路線を選びました」
「そうか…」
「あの時、こういう役での芝居をして欲しいと相談したときの夏樹様の表情が…」
 足を止め、結花が俯く。
「頭にこびりついて、離れないんです」
「……」
「……イロモノですからね、夏樹様には受け入れがたかったんだと思います」
「ちょっと待て」
「……?」
「つらいかも知れないが、そこの話の順番というか……様子を出来るだけ詳しく聞かせてもらえないか?」
 結花に教えてもらうでもなく、なんとなくだが尚斗もそんな風に思っていた……が、今の結花の話を聞いて、微妙な違和感を覚えた。
 イロモノ云々はさておき……人が集まった後も今の路線を続けていることではなく、演劇部を立て直すための最初の段階からそれに難色を示すほど、夏樹が融通が利かないような性格だと尚斗には思えなかったから。
『結花ちゃんを、傷つけたりしないで』という夏樹のあの言葉の意味は、どこか別の場所にあるのではないか……。
 
 
                    完
 
 
 可愛いなあ、ちびっこ……って、自分で言ってりゃ世話無いですね。(笑)
 『愛情セーブ、愛情セーブ』などと自分に言い聞かせながら……いや、言い聞かせましたよ?
 何はともあれ、もうちょっとペースをあげたいです。

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