1月29日(火)……午後。
 
 紗智が、青山に指定されたファミリーレストランに到着した頃、軽音部の部室には温子と世羽子という、高等部2年の成績2トップがいて。
「……世羽子ちゃん、何かあった?」
「ちょっとね…自己嫌悪」
 軽音部部室……それほど広くない部屋だが、温子と世羽子の2人きりとなると、さすがに少々空間をもてあますような感じがある。
「で、弥生に聞かれたくない話なの?」
「ん?」
 温子は右手の人差し指をこめかみにあて……ちょっと考えてから言った。
「まあ、そうかな」
「と、すると……」
 世羽子はちょっと言葉を切り、床に視線を落とした。
「聡美の事かしら」
「まあ、おおむね」
「そう……温子には感謝してるわ」
「ん?」
「私はもちろん、弥生にも相談できなかったでしょうから……」
 温子は微苦笑を浮かべて。
「弥生ちゃんは、ちょっと不満そうだったけどね」
「温子や聡美に、相談できない自分に気付いてないのかどうかはわからないけど」
「だよねえ。弥生ちゃんは、世羽子ちゃんにしか相談しないよね、基本」
 うんうんと頷き、温子はちょっと探るような視線を世羽子に向けた。
「質問というか、確認なんだけど……世羽子ちゃんは、聡美ちゃんを引き留めようとは思ってなかったよね?」
「ええ」
 平然と……聞きようにとっては、冷酷とも思える世羽子の言葉。
「それは、世羽子ちゃんの側にいる事が、聡美ちゃんのためにならないから?」
「そうね、昔はともかく……ここ1年ほど、私の存在は聡美にとって害にしかならなかったとしか思えなかったから」
「そっか…」
 安堵とも、落胆とも、どっちにもとれるため息をついて。
「そういう自覚はあるんだ、世羽子ちゃん」
「高い代償を払ったけど、ね」
「……」
 世羽子の口からでた『高い代償』という言葉につられて、ほんの少しばかり温子が思考を巡らした瞬間。
「……温子」
「な、何かな、世羽子ちゃん?」
「聡美から、何を聞いたの?」
「ストップ、世羽子ちゃん」
「今温子の想像した『高い代償』は、きっと間違ってるわよ」
「いや、だから、ちょっと待って」
 ぶんぶんと首を振りながら、わざわざ『高い代償』などと口にした言葉が、世羽子なりの撒き餌というか、探りだったことにようやく気付く温子。
「別に怒ってるわけじゃなくて、単に聞いているだけよ、私は」
「いやいやいや、怒ってるとしか思えないんだって、世羽子ちゃんのそれはっ」
 無数の小さな刃物が全身を突き抜けていくような感覚に耐え、温子は自分の精神を守る強固な壁を構築する。
 とはいえ、過剰としか思えない反応から、世羽子の男嫌いはそもそもここにあるのでは……などと考える程度の余裕がまだまだ温子にはあった。
 
 さて、青山と紗智、世羽子と温子という、違う場所での違う組み合わせによる対話が始まった事とは関係なく、学校に残っている生徒達の表情は明るい。
 もちろん、ちょっとばかしよろしくない明るさを感じさせる生徒もいるが、それはそれとして……これから採点が待っているとはいえ、教師達の表情も一応明るい。
 まあ、いってみれば学校中がある種の開放感に包まれている……そんな中で、例外が1人。
 場所は購買。
 購買……と言っても、文房具やその他授業に必要なモノを取り扱う購買部そのものではなくて、業者の出店のような形で、パンやサンドイッチを売る、特別売店の事である。
 もちろん、生徒達の間で『購買』というと、大体はこっちを指すのだが。
「……」
 既に、販売のピークを過ぎたこともあり……それを眺めながら、何度目かわからないため息をまた1つ。
 彼女の名は、山際純子……明るく、多少無神経で、朝の連続ドラマを愛し、お笑い番組で口元を隠さずに歯を見せて笑う……一人の息子と、2人の娘を持つ、どこに出しても恥ずかしくない、いわゆるおばちゃんである。(別名、おかん)
 とはいえ、この女子校が新校舎になる前から……3桁を超える生徒の群を、たったひとりで迅速にあしらってきた、スーパーなおばちゃんだ。
 パートという立場だが、業者側の信頼は厚く……毎日の発注量などは、全て彼女が決定し、伝票チェックから、売り上げデータまで……新人担当者の頭を小突きながら指導していく程であり、業者側も『山際さんに仕込んでもらってこい』などと送り出す事がほとんど。
 先月からの男子生徒数百名……この大きな不確定要素にも関わらず、彼女は、業者の担当者が舌を巻くほどの神業じみた発注をだしていた。
 ただ、1つの……というか、1種類の例外を抜きにして。
「すみません、メロンパンください」
「ああ」
 と、高等部の生徒でありながら、中等部の生徒と間違えて……いや、下手をすると初等部の生徒と勘違いしてしまいそうな小柄な少女からお金を受け取り、売れ残っていたメロンパンを手渡す。
 世間一般的にはわりと人気のあるメロンパンだが、この売店においてそれは当てはまらない。
 この少女にしても、メロンパンが好きと言うより……その体格のせいで、遅れてそれを買っているウチに、習慣となってしまったという所が真実だろうと、山際さんはにらんでいる。
 と、いうか……中等部の頃から、いつもいつも買っていくのはメロンパン1個で、外見の愛らしさや、愛想の良い対応とは裏腹に、微妙に危うげなモノを感じ……。
「あの、どうかしたんですか?」
「え?」
 山際さんは、ぱちぱちっと目をしばたたかせ、心配そうに自分を見ている少女にあらためて目をやった。
 別に、この少女に限らず……儀礼的な言葉のやりとりを抜きにすれば、自分の方から進んで山際さんに話しかける女生徒はほぼ皆無と言っていい。
 むしろ、居候の男子生徒の方が『おばちゃーん、今日のお勧めは?』などと、気軽に話しかけてくれたりするわけで。
 そんな中で、こちらから話しかければきちんと返してはくれるものの、まずそういう会話は成り立つまい……そう思っていた少女から、声をかけられたと言うことが、多少山際さんを狼狽させたとも言える。
「なんか、ひどく困っているように見えたので……」
「まあ、困っているというか、途方に暮れていたというかねえ…」
 目でそれを示すと、少女がちょっと背伸びするようにして、背後の番重(商品の納品に使われる専用かご)の中にもりもりと残っているそれに目をやった。
「……」
 何か言いいかけて口をつぐんだ少女の仕草に気付かなかったのか、山際さんは、いかにもおばちゃんらしい口調で愚痴をこぼした。
「何で今日に限って、こんな、チョコパンばっかり売れ残ったんだか」
 そもそも、『何でチョコパンばっかりこんなに売れるのか』というのが、原因と結果の重要な要素(笑)なのだが、生憎山際さんも神様ではなく。
 と、いうか……イヤな予感を覚えてチョコパンの発注を抑えようとした山際さんを、業者の担当者が『いや、売れてるじゃないですか、強気でプッシュですよ』などと、具体的な根拠のない山際さんの反論を押し切ったわけだから、厳密に言うと山際さんには罪はない。
 まあ、冷静に考えたら……中等部の生徒および男子生徒も含めて1000人の人間しかいないところに、チョコパンを100個以上納品する異常に気付きそうなモノだが(笑)、少なくとも昨日は100個以上売り切ったわけで。
 余談ではあるが、女子校最寄り駅付近のコンビニ2店における、チョコパンラッシュもまた(以下略)。
 遠慮がちに、少女が問いかける。
「あの…今日は、何個…?」
「5個」
 ごごごごご…。(空気が重くなる音)
 そりゃあ、山際さんでもなくても、ため息をつきたくなるという状況で……少女もまた、途方に暮れたような表情でそれを見つめ。
「あの…今更ですけど」
「ん?」
「ここしばらく、その…チョコパンが売れてたのって、なんというか、おまじないみたいなものと思った方が…」
「……おまじない?」
「べ、別に食べ物を粗末にしてるわけじゃ……無いです」
「そういや…」
 少女がうなだれているのを見て、『最初に買い始めたのは…』などという言葉を飲み込み、山際さんはすっとぼけることにした。
「ま、理由がわかれば対応も出来るし……で、そのおまじないだか、なんだかは、峠を過ぎたの?」
「……多分、ですけど」
「ふーん、ならアンタ、1個持っていきなさい」
 山際さんが、少女に向かってチョコパンを1つ放った……それは無造作ではあったが、食べ物を粗末にする事を感じさせない動作。
「え、で、でも…」
「いーの、いーの。私のおごり。アンタ、いっつもメロンパン1個でしょ?もっと食べないと、おっきくなれないわよ」
 そういって山際さんは、苦笑を浮かべて自分のお腹を叩く。
「私みたいに、横幅に成長するのも考え物だけど」
 これが一ヶ月前の事だったら、おそらく少女はそれを叩き付けるように戻してその場を立ち去ったかも知れない……が。
「……ありがとうございます」
 多少複雑な想いを抱いたのであろうが、少女は素直に礼を言った。
「……あ」
「なんだい?」
「……これはこれでありがたくいただきますが、これとは別に5個ください」
「別に、アンタが気に病む必要はないんだよ?」
「いえ、新しいおまじないと言いますか…必要になりましたので」
 と、お金を置く少女の表情は、いたって穏やかで。
「ふう…ん、なんだか、反対に悪いことしたかね」
「……焼け石に水って感じですけど」
 少女が背後のチョコパンの山を見て……苦笑した。
「……さて」
 少女が帰った後、山際さんはあらためてそれを見つめ。
「どうするかね、これ」
 
「……はー、生き返ります〜♪」
 教会のマリア像を前にして、安寿が気持ちよさそうに目を細めた。
 青山が世羽子を連れだしてくれたお陰で、安寿はなんとかここまで逃げ延びてきた……というのは大げさか。
「……あれ〜♪」
 と、まったく緊迫感のない感じで安寿が首を傾げる。
 とりあえず、今日は逃げてきた……じゃあ、明日は?
「……」
 にこにこと微笑んだまま、安寿の額に汗が1つ2つ3つ…。
「ど、どうにかしないと、私どうにかなっちゃいませんか〜?」
 今になって、今日のようなことが続けば、誰かを幸せにするどころではなくなってしまう事に気付く安寿。
「えっと、秋谷さんの意識に、私が有崎さんにとってごくごく平凡な知り合い関係という認識を〜」
 安寿の動きが止まり……唐突に、というか、ぽつりと、安寿は呟いた。
「そもそも〜私と有崎さんは、どういう関係なんでしょうか〜♪」
 自分が天使であるという事を知られずに行動する事が基本なのだから、本来、人間と自分の関係なんてモノは存在しない。
 だが、今回に限って……安寿は天使として尚斗に接し、尚斗もまたちゃんと、安寿を安寿として接してくれているわけで。
 尚斗がどう思っているかはさておき、自分にとって尚斗という存在は……と、安寿はあらためて考える。
 幸せになって欲しい相手。
 幸せにしてあげなければいけない相手。
「…って」
 と、いきなり安寿は何もない空間に向けてびしっとツッコミを入れた。
「天使の使命は、特定の個人ではなくみなさんの幸せを祈ることです〜♪」
 うんうんと頷きながら、安寿は言葉を続ける。
「そうです〜そもそも有崎さんは…」
 安寿が首をひねった。
 今、自分は……何かおかしな事を考えていたような。
 と、いうか……『幸せにしてあげなければいけない』って、一体どこからそういう義務感めいたニュアンスがでてきたのか?
 ずきっ。
 こめかみのあたりに強い痛みを覚えて、安寿はうずくまった。
「あ、あれ…おかし、い…です…よ」
 思考がまとまらず、拡散していく。
 暗くなっていく視界、そして、何かが、頭をよぎった。
 赤い色…いや、視界いっぱいに広がる赤い羽…
 それが、なんだったのか……考えることも出来ないまま、安寿は意識を失った。
 
 さて、ここで場面は軽音部部室に戻る。
 中学時代……4年前、世羽子のいたバンドが演奏していた曲(アレンジあり)で、3年前にデビューを果たしたグループがいたこと。
 その疑問に対する世羽子の答えは短かった。
「……あの曲は、売ったのよ」
「……なるほど」
 と、『なんのために』などという余計なことは言わずに、温子はただ頷いた。
 そのデビュー曲はそこそこ売れたものの……その後、そのグループは(以下略)。
「違う名前でデビューしてたのかな……などと、ちょっとだけ思ったのよね」
「もう少しでさせられるところだったけどね、そのつもりはなかったから」
 苦笑を浮かべる世羽子。
 世羽子と尚斗の2人で作ろうとした新しい部活……は、3人いないとダメなどと教師に強硬に(でも逃げ腰)反対されたため(おそらくは別の理由で)、結局世羽子は青山を引き入れることにした。
 世羽子や尚斗と違って、青山はそれなりに(笑)クラブ活動が出来ていたのだが……まあ、なんというか。
 『とりあえず、8曲は俺が作ってやるから、2曲は2人でどうにかしろ』などと、一体何を急いでいるのかと首を傾げつつも、尚斗と2人で曲を作り、スタジオを借りてデモテープを作った後でようやく、世羽子が青山に問いかけたわけだが。
 この問いかけがもう少し遅れていたならば、正体不明のバンドが鮮烈なデビューを飾っていただろう……と、世羽子は思う。
 このとき作った曲の1つ(青山作)を、世羽子の母親が倒れた後に青山が権利を売って……どういう交渉があったのか、それなりの金額が父親に渡され……世羽子は、その経緯を父親から知らされた。
 3人で共有したモノを売って、それを平等にわける……それは、世羽子がギリギリ受け入れられる理由の金だった。
「……と、すると」
 世羽子の回想を、温子の声が破る。
「世羽子ちゃんは、弥生ちゃんにどこまで付き合うつもり?」
「……弥生がプロになりたいというなら、まあ、私を必要とするならだけど、付き合うわよ」
「……ふむ」
「音楽そのもので私を必要としなくても、弥生の目的のために、多分私は出来ることをやるわね」
「……わかるような気もするけど、それはちょっとばかり聡美ちゃんに対して残酷ではないかなあ」
「弥生は聡美とは違う」
 表情も口調も淡々と。
「弥生は、自分で判断した道を歩こうとしているけど、聡美は私の真似をしているだけで……そもそも、聡美が私になろうと思っても不幸になるだけね」
「いや、まったくその通りだとは思うんだけど…」
 世羽子が冷たい人間だと温子は思っていない。いや、むしろ自分よりも情に厚い人間だろうと思っている。
 でも、その情のかけ方を少し考えた方がいいんじゃないかなあ……と、温子の曖昧な口調がそういう感情からきていることを察したのだろう。
 世羽子がため息をつきながら呟いた。
「……幼なじみがいたのよ、昔」
 そりゃ、誰でも幼なじみの1人や2人……と思いかけ、温子は心の中で否定した。
 世羽子という少女の、幼なじみという役をきっちり勤め上げられる人材が世の中にそれほど転がっているとは思えなかったから。
 ついでに言うと、『過去形』で語っている事実が、温子により強く沈黙を守らせた。
「父親の転勤で引っ越しするのがわかったとき……彼女は、私のためを思って大きな嘘をついたわ」
 珍しく世羽子の表情に苦悩が浮かぶ……それを温子は、厳粛な面もちでただじっと見守った。
「私はそれにまんまと騙されて……その子がいなくなった後で、私は、私自身に欠けている大きなモノに否応なしに気付かされた」
「その、幼なじみが……『高い代償』?」
「そうよ」
 温子の視線を避けるように、世羽子は窓の外へと目をやり……ぽつりと呟いた。
「彼女が壊れたのは、私のせい」
「……世羽子ちゃん」
 目の前の少女が単純に弱音を吐いているわけではなく……わざわざ自分のために、それもおそらくは好意から心の傷をさらけ出してくれている事に気付かない温子ではない。
「弥生に情をかけるのは、彼女がとても強いから。温子にこんな話をするのは、他人との距離感覚が極めて優れているから。聡美を遠ざけるのは、むき出しの弱い心のまま私に近づいてくるから」
「りょーかい。この話はもう二度としない」
 少なくとも今、ちょっとだけ世羽子ちゃんは弥生ちゃんに関して嘘をついたな……と思いつつ、温子はそう言った。
「そう、ありがと」
 感謝のこもった短い返事の後……世羽子は、ふと思いついたように口を開いた。
「温子は…プロになるとか考えてる?」
「んー、難しいところだね…」
「……別に、温子の心の中の事情に踏み込むつもりはないから、そんなに警戒しなくてもいいわ」
「わぉ…」
 ホントに、世羽子ちゃんだけは油断も隙もないという感じに温子が大げさに肩をすくめて見せた。
 実際の所、そのオーバーアクションは心の平穏を保つための努力だったのだろうが。
「……そんなにばればれ?」
「なんとなくね…」
 世羽子はちょっと温子の視線から顔を背け、言葉を続けた。
「まあ、弥生が直面するであろう薄汚い障害をね、適度にどうにかしてやろうと思っているわけなのよ」
「適度に…ね」
 温子が笑う。
 信用できないのは音楽ではなくて、それに関わる人間達なんだけど……と心の中で呟きながら。
「私は……音楽というモノを、そこまで信用は出来無いなあ」
「私の見たところ、力は足りると思うけど」
「力があるからプロになる……なら、世羽子ちゃんを含めた他の2人は、絶対にプロになってなきゃいけないよね」
 世羽子はちょっと目を閉じ……呆れたように呟いた。
「全然想像できないわね、正直なところ」
「多分、力以外の何かが必要なんだよ……弥生ちゃんにしても、たくさんの人に歌を聴いて欲しいとか、そういう気持ちだけだよね、今のところ」
「ああ、それがね…」
 と、世羽子がちょっと含むところのある表情で。
「どうも壁を感じたみたいね、弥生」
「……へえ、それはそれは」
 と、温子も何故か嬉しそうな表情で。
「しばらくは、見守る方向で」
「りょーかい、判断は世羽子ちゃんに任せるから、何かあったら言ってね」
 世羽子がちらりと温子を見た。
「……なに?」
 問い返した温子にむかって、世羽子はため息をついた。
「多分……私達に出来ることはほとんどないと思うわよ」
「いやいや、そんなことは…」
 と、温子は首を振りかけて……ちょっと俯き。
「でも、確かに……弥生ちゃんは、他人の助けを拒絶するようなところがあるかもね」
「それもあるけど…」
 世羽子はもう一度ため息をつき。
「私達以外のだれかが、何とかしてしまう可能性が高いというか…」
「……は?」
 どういう意味……と、顔を上げた温子の視線の先で、世羽子が少し眉をひそめてあらぬ方角を見つめており。
「……世羽子ちゃん?」
「……温子、悪いけど、今日は帰ってくれない?」
「え?」
「今ひとつ、程度をはかりかねるんだけど…」
 そう前置きしてから、世羽子は真剣な表情で呟いた。
「イヤな予感がするの」
 
「ありがとう、夏樹」
「それは、いいんだけど…」
 と、夏樹は保健室のベッドの上で眠る少女に視線を向けた。
「大丈夫よ……時間が経てば目を覚ますわ」
「……冴子がそういうなら」
 今ひとつ納得がいかないけど……という感じで、夏樹が頷く。
「それはそうと、夏樹は、この子知ってる?」
「え?」
 知り合いじゃないの…という表情で、夏樹が冴子を見た。
「たまには神様にお祈りでも……と教会に立ち寄ったら、この子が倒れてて」
「そう…なの」
 冴子がお祈り……という疑問をのみこんだのだろう、夏樹のそれはどこか曖昧な頷き方で。
「ただ、有崎君の知り合いではあるのは確かなんだけど」
「そう、なんだ…」
 夏樹はちょっと考え、冴子に向かって言った。
「冴子は……有崎君のこと、平気?」
「ええ、彼にはなんのストレスも感じないわ」
「そう、良かった…」
 本当に、心の底からそれを感謝するような夏樹の微笑み……に、冴子がため息をついた。
「優等生にも程があるわよ、夏樹」
 何も応えず、ただじっと冴子を見つめる夏樹の目の奧に……微かによぎるもの。
 相手が冴子であると同時に、観察者が冴子であるからこそ、ようやく読みとれる程度の微かな感情の揺らめき。
「どうかした?」
 冴子の問いかけでそれは綺麗に消え失せて……夏樹は、穏やかな微笑みを浮かべながら首を振った。
「ううん、なんでもない」
「そう?じゃあ、1つ頼んでいいかしら?」
「なに?」
「有崎君を呼んできてくれない?」
「ど、どうして?」
 夏樹が慌てて聞き返す……が、冴子は平然と。
「どうしても何も、彼女の知り合いみたいだから」
 と、ベッドで眠る安寿に視線を向ける。
「わざわざ先生を呼んで、彼女の連絡先を調べてもらったりするのは、余計な手間がかかるでしょ?」
「あ、有崎君を呼んでくるのと…」
 どこが違うの……という夏樹の言葉を遮るように。
「そっちのほうが、夏樹は楽しいでしょ?」
「…っ!?」
「あら、教師を呼んで、色々と事情を聞かれた挙げ句、悪いけどあの子が目を覚ますまでいてちょうだい、などと言われるのと比べても、楽しくない?」
「そ、それは…楽しいと言うより」
 何か、比べてはいけないモノを、無理矢理比較されてるような……という感じに、不審そうな表情を浮かべた夏樹を見ることなく。
「有崎君と、どういう知り合いなのかしらね…」
 などと、夏樹に余裕を与えないように呟く冴子。
「……」
「それはそれとして、目が覚めたときに知り合いがいるのといないのとでは、安心感が違うでしょ?あの子のためにも、有崎君を呼んできてあげて」
「……わかったわ」
 ため息混じりに呟き、夏樹が保健室を出ていった……そして、残された冴子は。
「……間に合うかしら」
 と、先ほどまでの余裕綽々の表情はどこへやら……ベッドの上の安寿に、心配そうな視線を向けるのであった。
 
 指を鳴らしてから約5分……結花はため息をついた。
「まあ、現れる方が異常であって、これが普通なんですけどね」
 そう呟きながら、もう一度ぱちんと指をならす。
 さらに数分、やはり宮坂というかじょにーは姿を現さず。
「当てが外れましたね…」
 と、ため息をつきながら……結花は、先ほど購入したチョコパン5個の使い道に思いを馳せた。(もらった1個は、自分で食べた)
 まあ、それはそれとして……と結花は表情を切り替え。
 もうすぐ、届くであろう木材の処置……助っ人無しで、果たしてどうなるモノか。
 純粋な力仕事となると、結花も他の演劇部員と戦力的に大差ない存在なのは明らかで。
「……そうじゃなくて」
 などと、一体誰に対しての言い訳なのか、結花が首を振りながら呟く。
 別に、大道具の作成など……これまでにも、女子部員だけで四苦八苦しながら作業を進めたことがなかったわけではない。
 何が問題かというと……『誰かに手伝ってもらえば、楽に進められる』という自分の心の動きがどこから来たかと言うことで。
 自分から尚斗に助けを求める……という選択肢を拒否しつつも、実際に尚斗がやってきて『手伝おうか?』などと言われたら多分頷いてしまうであろう自分に対して……心の奥の、どうしようもなく醒めた部分が冷笑を浮かべているのがわかる。
 依存に対する恐怖……などとひとくくりに出来ない複雑な感情。
 多分、それを一番というより、唯一理解し、気にかけてくれたのは綺羅なのだが、信用はしても心を開いてこなかった。
 もちろん、夏樹に対しても本当の意味で心を開いたことはない。
 ひょっとしたら……と、今になって結花は思う。
 自分は、秋谷先輩にそれを求めていたんだろうか……。
 
 さて、夏樹が冴子に促されて(そそのかされて)保健室を出たころ、尚斗がどこにいたかというと……。
「……これは、ここでいいの?」
「はい」
 などと、御子の指示に従って、温室の植物達の位置をせっせと移動させていたりする。
 いや、御子が話しかけてきたメインの目的が『それ』ではないことを承知で、尚斗はついてきたわけなのだが……御子がなかなか本題を切り出さずにずるずると。(笑)
 まあ、そもそも尚斗が学校内をうろうろしていた理由は……このまままっすぐ家に帰ったらまずいことになりそうな……そんな不確かな予感だったりしたわけで。
「あ、あの…有崎さん」
「ん?」
 微妙な沈黙の後。
「……あ、いえ……この子の移動を、お願いできますか?」
「りょーかい」
 まあ、こんな事の繰り返しである。
 弥生のことはどうなってるのか……を聞きたいんだろうなとわかってはいても、話す材料がない尚斗から口を開くわけにもいかず。
 そして……温室内の植物の移動をあらかた終えてしまった頃、御子がゆっくりと頭を下げた。
「あの、その…ありがとうございました」
「あ、うん…」
 じぃっ。
 上目遣いに、聞きたいけど勇気がでない……そんな感じで尚斗を見つめる御子。
 そんなタイミングで。
「あ、ここにい……えっと…」
 温室の入り口で、夏樹が口をつぐみ……ちらちらと、尚斗と御子の2人に視線を向けたり逸らしたり。
 夏樹の誤解の方向はさておき、夏樹の姿を見たことで、尚斗の中の『イヤな予感』がはっきりと形を取った。
「何かありましたか、夏樹さん?」
「あ、その…邪魔するつもりじゃ…」
 などと、夏樹のすっぽ抜けた発言に反応して御子が微かに頬を赤らめるのも気付かず、尚斗はさらに夏樹に問いかけた。
「何か、あったんじゃないですか?」
「あ、その、私…冴子に言われて…」
「冴子先輩が?」
 冴子が、他人に頼んでまで……それは、『イヤな予感』を加速させこそすれ、緩和させるモノでは決してなく。
「俺を呼んでるんですか?」
「う、うん…」
「わかりました、行きます。保健室ですか、図書室ですか?」
 が、事情のわからない御子はもちろんのこと、夏樹もまた何もわかっていないものだから……尚斗の反応が、今ひとつ理解できなかったのだろう。
「保健室だけど…」
 なんでそんな真剣に(夏樹主観)……と首を傾げながら夏樹は呟き、やはり迷惑だったんですね(御子主観)……と御子は悲しそうに俯いた。
「ごめん、御子ちゃん…ちょっと用事が出来たからまた後でね」
「はい…」
「で、夏樹さん…何があったか…わかります?」
「あ、その…2年の子が、教会で倒れてたらしくて、今保健室で寝てるんだけど…」
 『教会』という単語が、尚斗に安寿を連想させると同時に……冴子らしからぬ直接的な行動が、2人のつながりとか、そういうものをひっくるめて尚斗の心に1つの指向性を与えた。
 
 『走って保健室へ』
 
「あ、そんなに走らなくても…」
 尚斗は中庭から校舎へと走った……戸惑いながらも追いかけてくる夏樹の気配を感じながら、人気のない廊下を駆け抜け、保健室のドアを開けた。
「冴子せん…」
 側頭部に押しつけられたそれが、冴子の手のひらである事を知るより先に……尚斗の上体が弾け飛ぶ。
「……ふう」
 気を失った尚斗を見下ろし、冴子が額の汗を拭う……と、そこに夏樹が現れ。
「……えっ?」
 床に倒れている尚斗、左手を突きだした冴子……現状の認識が出来ず、どうやら思考がストップしたらしい。
「ありがとう、夏樹」
「え、えっ?」
「私が直接呼びに行くと、妙な警戒をされそうな気がしたから」
「え、なんで…冴子…え?」
「大丈夫、彼を傷つけるつもりは全然ないし……第一、あったとしたら、私が返り討ちにされるだけだから」
 そう呟きながら冴子は微笑み夏樹に手を伸ばす……修練のたまものか、動揺しながらもそれを受けようとした夏樹の動きはさすがと思える速さだったが、冴子の手はまるで実体が無いかのようにそれをすり抜け。
「……っ」
「おやすみなさい、夏樹」
 優しく声をかけ、倒れかける夏樹の身体を冴子がそっと受け止める。
「さて、と…」
 夏樹の身体を椅子に座らせ、冴子は安寿の眠るベッドに視線を向けながら尚斗の身体を抱き上げた。
「秋谷さんを守るためだもの……文句はないわよね」
 冴子の呟きは、果たして誰に向けられたモノだったのか……。
 
「……今日は、これでいってみるか」
 と、読んでいた漫画(笑)を放り出し、母親が尚斗に視線を向ける。
「……」
「いいかい、馬鹿息子」
 目は口ほどにものをいい……という事だろうか、母親は真剣な表情で疑わしげな尚斗を説得にかかる。
「人間の想像力ってのはね、そんなにたいしたもんじゃないんだよ……(以下略)……つまり、人間が考え出した格闘技の技なんてのは、実現させようと思えば実現させられるものなの」
 などとのたまう母親が先ほど放り出した漫画のタイトルは…(笑)
「じゃあ、母さんやってみてよ」
「母さんは、そんな技使えなくても、充分強いもの……技ってのは、アンタみたいに、弱っちい奴が覚えるもんよ」
 などと語る母親の目の奧が笑っていて。
「そう…かなあ」
「まあ、とりあえずやってみる…だめなら、出来るまでやってみる、そうすれば大抵のことはうまくいくからね」
「……」
「出来るまでやってみるんだから、ちゃんと出来るってことでしょ?」
「ホントだ」
 この頃の尚斗は、呆れるほど素直(馬鹿)だった。
 そんな光景を眺めながら……尚斗の意識は、これが『夢』だという事をきちんと認識しており。
『なんか、母さんの夢見るのは久しぶりだなあ…』
 などと首を傾げ。
『つーか、母さんはもっと強いよな……』
 ぴりぴりと肌に感じる、強大ではあるが母親の足元にも及ばないそれに苦笑し……再び首を傾げた。
 今自分は夢を見ている。
 ……じゃあ、自分が今感じているこの気配はなんだ?
 世羽子よりは遙かに上で、青山のそれとはちょっと違うような……そもそも、俺って、何してたんだっけ?
 温室、御子ちゃん、夏樹さん、保健室……。
 尚斗の意識は一気に覚醒へと向かう。
「あら、彼が目を覚ましそう…」
「……ああぁ、有崎さんは見ちゃダメですっ!」
 身体を起こしたところで、いきなり、両目がふさがれた。
「あ、安寿?」
「見ちゃダメですっ、見ちゃダメですっ、ぜーったいに、見ちゃダメです〜」
「……よかった、戻ったのね」
 と、安堵混じりの呟き……は、冴子先輩か。
 つーか、さっき一瞬だけ目にした光景は……その、なんというか。
「おやすみなさい…@:”&」
 一部良く聞き取れない冴子の言葉とともに……両目をふさいでいた安寿の手から力が抜け、尚斗の視界が開けた。
「……むう」
 やはり、さっきのは見間違いではなかったか……と、尚斗が頷く。
「……目を背けるのが、一応の礼儀じゃないかしら?」
 と、肌も露わな上半身を隠そうともせず冴子。
 ちなみに、下半身は下着一枚に、破れかかったスカートが申し訳程度に引っかかっているという状態で。
「目を背けた瞬間、何をされるかわかりませんからね」
 抜けるような白い肌……じゃなくて(笑)、冴子の口元を見つめたまま、尚斗が言葉を続けた。
「つーか、俺の上着でよければ」
 と、尚斗が投げた制服を、冴子は素直に受け取り……はにかむような微笑みを浮かべて羽織った。
「ありがと」
「それより、何があったのか、教えてもらえるんですか?」
「まあ、端的に言うと、ちょっと世界が滅びかけたってとこかしら」
「……なるほど」
 曖昧とはいえ、一応は頷いて見せた尚斗に向かって冴子は微笑み。
「……世界は大げさにしても、この校舎ぐらいは確実に…かしら?」
 ふと、気付いた。
「冴子先輩……ものすごく消耗してません?」
「してるわよ、今にも座り込んでしまいそうなぐらい」
 微妙な沈黙。
「……えーと、俺は何をすればいいんでしょうか?」
「そうね……」
 冴子はちょっと考え。
「お茶でも入れてくれるかしら?」
 
 尚斗のいれたお茶を一口飲んで……冴子は、再びベッドの上で眠り姫となった安寿に視線を向けた。
「結論から言うと、何も聞かないで欲しいの」
「はあ、まあ、そんな気はしてましたが…」
 尚斗はちょっと言葉を切ったが……結局はそれを口にした。
「安寿と知り合いですか、冴子先輩は?」
「難しい質問ね」
「答えたくないなら…」
「そうじゃなくて……有崎君の言う『天野安寿』は『香月冴子』のことはもちろん、私のことも知らないから」
 少し寂しげな表情で、そして少し悲しげな口調で冴子が意味深な言葉を呟く。
「一方的な認識を、知り合いとは言わないわよね…」
「……」
「……だけじゃ納得できないわよね」
 そういって冴子は立ち上がり、尚斗に背を向けて……羽織っていた制服を床に落とした。
「……っ」
 尚斗の目の前にさらされたしみ一つない白い肌の……背中に2つ、醜くよじれたような痕がある。
 ちょうど肩胛骨のあたり、そこにあった何かをもぎ取られたような……。
「…ぁ」
 左側の傷痕に……本当に小さな羽根が1枚だけ残っているのに、尚斗は気付いた。
「これ、翼の痕……ですか」
「ええ…もちろん、普段は見えないようにしてるけど」
 5秒ほどの沈黙を経て、冴子が呟いた。
「それね、自分でもぎ取ったのよ、2つとも」
「え?」
「まあ、それこそ色々事情があって…ね」
 そう言って、冴子は床に落ちた制服を拾い上げ……羽織った。
「昔の事よ…20年ほど前の、ね」
 もういいよね、という感じに冴子の手が額に押しつけられ……。
 
 『受け入れる』
 
「ありがとう…ね」
 冴子の微笑み……それを忘れてしまうのが、尚斗は少し惜しいような気がした。
 
「……何だったのかしら」
 周囲の人間を巻き添えにしかねない程のイヤな予感は一瞬だけ大きく膨れあがり……また曖昧なモノとなり、そして消えた。
 首をひねりながら、世羽子は昇降口を抜け……ため息をついた。
「尚斗なら……放っておかないんでしょうね」
 などと、かつての幼なじみに対する罪悪感によって衝き動かされていることを認めたくないがゆえの言い訳を口にし……そっちへ歩いていく。
「……大変そうね」
「あ、秋谷先輩っ?」
 結花とは別に、手のひらにまめを作って涙目になっている女子生徒が2人、丸太の真ん中で動かなくなってしまったのか……向きも何も考えずにノコギリを引っ張ろうとしているしている女子生徒に……以下略。
「……切るの?」
「あ、いえ、その…」
 結花の顎を指先でついっと持ち上げ、世羽子はちょっとすごみながらもう一度。
「切るのね?」
「は、はい…」
「長さは?」
 手伝ってもらうと決めたからか、結花の説明は簡潔で要点を押さえ、説明される側が世羽子と言うこともあって、精々1分程度。
「そこ、どいて」
「あ、はい…」「はいっ」
 この人、誰だろう……という感じの女子生徒はおそらく外部生で、好意的な緊張状態でその場を離れたもう一人の女子生徒は内部進学生か。
「あ、あの…ノコギリが…」
「……力任せに引っ張ったから、ちょっと歪んじゃってるのよ」
「あ、だったら別の…」
「いらないわよ」
 結花の言葉に首を振り……世羽子が足幅を開いて腰を落とす。
 がこんっ。
 多少切断面は荒いものの、丸太の一方が地面に落ちたことで、解放されたノコギリが乾いた音を立てて転がった。
「……今、何が?」「さ、さあ…」
 と、顔を見合わせる女子生徒達。
 それを気にした風もなく、世羽子はノコギリを拾い上げ……歪みを戻していく。
「どうですか?」
 ただ1人目の前の光景を冷静に受け入れた結花が世羽子に尋ねる。
「……ちょっと休ませた方が良さそうね」
「そうですか…」
 ふっと、世羽子は残りの丸太に視線を向け……独り言にしては多少大きな声で呟いた。
「……青山君がいれば、話は早いのに」
「呼んだか」
 音もなく現れた青山に視線を向けることもなく。
「あら、いいところに」
「いいところもなにもないだろう…」
 と、苦笑を浮かべた青山が、ちらりと結花に視線を向ける。
「……な、何か?」
「いや…で、秋谷、何の話が早いんだ?」
 世羽子から説明を受け、1つ頷いた青山の手元から何かが光って飛んだ……と思ったときには、残りの丸太は綺麗に切り分けられた。
 結花をはじめとして、女子生徒達は目の前の光景に現実味を感じることが出来ずに、ぼうっと惚けた表情を浮かべるだけだったが、世羽子はごく当たり前のように口を開いた。
「ところで青山君」
「なんだ?」
「さっき……何かあったの?」
「いや、俺もちょっとここを離れていてな……気になって戻ってきたところだ。用事もできたしな」
「……これ以上は聞かないわ」
「そうしてくれ」
 世羽子はため息をつき、結花の方を振り返った。
「これで…いいのよね?」
「……はい」
「じゃあ、私は帰るわ」
 と、世羽子は青山の邪魔をしないためなのか、その場を去った。
 残されたのは青山と結花、そして演劇部の「あ、あの人…青山様だわ…」などと囁きあう女子生徒数人。
「さて、入谷」
「な、なんですか?」
「少し話があるんだが、時間は大丈夫か?」
「話……ですか?」
 あれだけ散々自分たちの手を焼かせた丸太をあっさりと解体されて、ちょっとばかり惚けていた結花の意識がクリアになる。
「なんのお話でしょうか?」
「3日前の土曜日の……有崎の遅刻と、その状況について」
「……」
 結花は解体された丸太にちょっと視線を向けた。
 多分、尚斗なら……次に同じ事があったときのことを考えて、女生徒と一緒に、アドバイスを含めながらノコギリを使って解体していったはずで。
 まあ、そもそも……好意から手伝ってくれたのではなく、自分と話をするためにそうしただけなんだろう……という事が奇妙なほど良くわかった。
 それはお金を払って物を買うような……とてもシンプルな人間関係。
 少なくとも、物を買うために先に金を払ってみせる……あたりは、非常に公平で、結花には好感が持てた。
 ただ……多分この人は、根本的な部分であの人とは価値観が異なる人だろう……と、心の中でため息もつく。(笑)
「わかりました、ちょっと待っててください」
 解体した丸太を部室に運び込むように……マジックで数字を書き、何番と何番を手前にして積んでくださいとまで細かい指示を出してから、結花は青山と向き直った。
「それで、どこで話しますか?」
「できれば、学校の外がいいんだが」
「……?」
「壁に耳あり…と言うだろう」
「ああ、なるほど…」
 と、おそらくは青山の真意に気付かずに、結花は演劇部員にちらりと視線を向けてから頷いた。
 
「……夏樹、夏樹ってば」
「……ん?」
 身体を揺すぶられる感覚に、夏樹が目を開ける。
「…もう、夕方よ」
「……」
 周囲を見回し……図書室であることを確認。
「あ…」
「また、本を読みながら寝ちゃったのね…ふふっ」
「もう、冴子の意地悪…」
 恥ずかしげに夏樹が手で顔を隠す。
 
 さて、その一方保健室では。
「はわわわっ!」
 目を覚ますやいなや、安寿がベッドから飛び起きていた。
「ど、ど、どどど…どーきんですか」
 胸、足、腰……に手をやる安寿の顔は真っ赤。
 ベッドの上で健やかな寝息を立てているのは当然尚斗。
「……ちょっ、ちょっと、失礼…」
 と布団をめくりあげ。(笑)
 尚斗の服装がこれぽっちも乱れていないことを確認して、安寿は安堵のため息をついた。
「びっ、びっくりしました〜♪」
 どうやら、間違いをおかしたわけではないらしい……と思った瞬間に、何がどうなってそういう状況に陥ったのかはどうでも良くなったらしい。
「……ん」
 もうすぐ尚斗が目を覚ます事に気付いて……何を思ったか、安寿は再びベッドの上へ。
「私だけびっくりするのは不公平です〜♪」
 などと、狸寝入りを開始する安寿だったが。
「……むう」
 目の前の、安寿の顔に驚いた素振りも見せず……尚斗は、手を伸ばして安寿の耳をつまんだ。
「狸寝入りはやめて、この状況の説明をしてもらおうか?」
「……もうちょっとびっくりしましょうよ〜」
「目の前で狸寝入りしてる人間が犯人に決まってるじゃねえか」
「え、私が犯人だったんですか〜」
 と、驚いた安寿だったが……そう言われると、そうだったような気もしてきて。
「あれ、私が犯人…でしたっけ?」
 テストが終わって、教会に行って、そのあと温室で九条さんと有崎さんと会って……ああ、そうそう、それで九条さんがちょっと指を怪我して保健室に行って……。
「……隣のベッドに九条さんが〜♪」
「うん、御子ちゃんがいるな……」
「眠ってしまった九条さんが目を覚ますまでここでいようって話になった……ですよね〜♪」
「…だったっけ?」
 頭をかきながら尚斗。
「寝起きは頭が働きませんからねえ〜♪」
「まあ、確かに…」
「めでたしめでたし〜♪」
 と、安寿は幸せそうに笑い……尚斗に告げた。
「じゃあ、彼女が目を覚ます前に私は〜♪」
「え?」
「天使ですので〜」
 少し寂しそうな口調から、天使として必要以上に人間に接しない方がいいとか、そういうあれなのかな……と、尚斗は曖昧に頷いた。
「ではでは〜♪」
 などと、安寿が保健室を去ってからものの数分、御子が目を覚ます。
「……?」
「おはよう、御子ちゃん」
 目の前に現れた尚斗を見て、御子は状況を認識しかねたらしく(そりゃそーだ)しばらくぽかんとした表情で……突如、真っ赤になって布団の中に潜り込んだ。
「な、な、何がどうなっているのでしょうか?」
「いや、温室の植物の世話の途中で御子ちゃん、指に怪我しちゃって…」
 そんな台詞が尚斗の口からすらすらと。(笑)
 やがて御子は、恥ずかしげに目のあたりまで顔を出して。
「あ、あの…ずっと、見守っていてくださったんですか?」
「あ、いや、何か眠くなって、俺もさっきまで寝てただけ」
 という発言を、御子はどう受け取ったのか……身を起こし、ベッドの上できちんと正座した上で、深々と尚斗に向かって頭を下げたのである。
「み、御子ちゃん…?」
「……申し訳ありませんでした、有崎さん」
「な、何をいきなり…」
「元々は、勝手なお願いでしたのに……私は、少し、有崎さんを恨んでいたように思います…」
 すまなさそうに、目にじわりと涙をにじませて。
「あ、いや…何も、力になれてないのは事実だから…」
 などと、尚斗も頭を下げ。
 お互いが微笑みあうまで、それほどの時間はかからなかった。
 
 ……御子ちゃん無関係なのに巻き添えかよ……などと、全ての事情を知る者がいたならば、冴子に向かってそうツッコミを入れたかも知れないが。
 ここで御子を巻き込んだことがどういう意味を持つか……今のところ、それを知るのは冴子だけである。
 ただ少なくとも、悪化しかけていた御子との関係が多少改善されたことだけは間違いない。
 
「紗智さん、具合でも悪いの?」
「あ、ううん…ちょっとね、今日は学校帰りに寄り道して、買い食いを」
 にへら、と力の抜けた笑みを浮かべた紗智に、吉野さんが仕方ないわねえという感じに肩をすくめる。
 もちろん、紗智の微笑みが演技であることを吉野さんは見抜いていたし、紗智もまた見抜かれているだろう事を知りつつ。
「ごめんね、明日の朝に食べる」
「はいはい、冷蔵庫に入れておきますから…面倒くさがらずに、ちゃんとレンジで温めてね」
「はーい」
 返事だけを残して、階段を上がっていく紗智の足音は軽快だ……それだけに、吉野さんは紗智の心中を察して大きなため息をついた。
「……心配ね」
 そして、部屋に戻った紗智は……時刻を確認してから、携帯を手に取る。
『はい』
「……聞きたいことがあるの、みちろー」
 
「……考えてみたら」
 部屋の電気を消し、窓を閉めたまま星空を見上げつつ温子が呟く。
「世羽子ちゃんと、まともに会話したのって今日が初めてだったのよね…」
 ちなみに、ここでいう『まともな会話』とは、『さらす必要のない本音を交えた会話』という意味である。
 強くて優しい人間にも、それなりの苦悩はつきまとうのだな……と言うことを再認識した会話。
 それでも多分、世羽子が人との出会いに恵まれている……と温子は思う。
 もちろん、それがうらやましいというわけではなく、むしろ当然……と受け入れられる、優しい感情のそれだが。
 温子には、幼なじみという存在がいない。
 学校、ピアノ教室、塾……自分が自分であろうとするだけで、人が離れていく……もちろん、小学校に上がる頃には、自分を隠すスキルを身につけてはいたのだが。
 人間関係とか、その他色々で息苦しい日々を送っていた温子に……『特待生お得プランはいかが?』などと、いきなり声をかけられたのは去年の夏のことで。
 まあ、それもいいか……と、想像以上に物わかりの良かった両親の承諾を得て、秀峰から女子校へ。
 秀峰の教師の方が温子のことを煙たがり、各方面に『成績優秀な生徒いりませんか?』などと働きかけた結果なのかも知れないが(温子主観)……そこはそれ。
「まあ、藤本先生に感謝かな……今ひとつ信用できない感じがする人だけど」
 生徒思いの優しい先生……という一般的な評価に反して、温子もまた、何故か綺羅に対してうさんくさいモノを感じていたり。(笑)
「それにしても…」
 と、温子はちょっと今日の世羽子との会話を思い出して苦笑を浮かべた。
 いや、会話そのものではなくて……いわゆる、『あの』世羽子が、彼氏といったいどういうおつきあいをしていたのか……に、思いを馳せての苦笑である。
 多分、いついかなる時も世羽子は、世羽子である自分を変えないだろうから、彼氏は苦労したんだろうな(温子主観)……などと。
 もちろん、当事者および、当時の関係者がこの場にいたなら、そんな温子に対して、苦笑を浮かべたかも知れないが。(笑)
「……と、世羽子ちゃんの前では、表情に出さないようにしないと」
 自戒のために、温子はぺちぺちと頬を叩く。
 聡い世羽子のことだ、ふとした表情だけでこちらが何を考えているか見抜いてしまうだろうから。
「今日は良い日だったよね」
 朝日が綺麗で、世羽子と会話は有意義で、夕日が綺麗で、今は夜空が綺麗。
 明日は悪いことでも起きるんじゃないか……と反動が心配だったが、温子は今日一日をなにかに感謝し。
「あ…」
 すっと、夜空を走った光……認識したときにはもうそれはなく。
 多少の気恥ずかしさを覚えながら、温子は友人3人の幸せを祈ったのだった。
 
 
                  完。
 
 
 ふむ、最初は冴子のあれを書くつもりはなかったのですが。(笑)
 安寿編とか、冴子の昔話とか、いつになったら書けるのかわからないなあ……などと思って、ちょっと話のバランス悪いですが、書くことに。
 さすがに、『え、冴子ってそうだったんですか?』などと今更言う人はいませんよね?(笑)
 それはそうと、花粉が飛ぶと想像以上に頭が働きません。設定ミスをおこさないためにも、この時期は続き物じゃなくて、短編を書いた方がいいのかも。あ、山際さんは実在の人物とは関係ありません…昔、同人誌で書いたメロンパンのネタをちょっと盛り込みたかっただけです。

前のページに戻る