1月29日(火)。
 
「これはなかなかの朝焼け……眼福眼福」
 乗客もまばらな電車の窓から朝日を眺め、温子は満足そうに呟いた。
 おそらく上空はかなり風が強いのだろう、所々に浮かぶ層雲が朝日に照らされる様は、温子にとってなかなかにポイントが高かったようで。
「うむ、今日はいいことありそう…」
 
 結論から言うと、今日は『温子個人としては』平和で良き日となった。
 
 駅から女子校へと向かう道筋まで後少しというところで、尚斗はパタパタと自分に向かって走り寄ってくる足音を聞いた。
「おはよー、尚にーちゃん」
 後ろを振り向く。
「おう、おはよ……?」
「……顔に何かついてる?」
「あ、いや……なんというか」
 尚斗は何となく空を見上げた。
 抜けるような青い空……に合わせたわけでもないだろうが、麻理絵の表情は晴れ晴れとしていて。
 もちろん、それは悪いことではない……テスト2日目でさえなければ。
「なに?」
「いや、昨日とは表情が別人というか……大丈夫なのか?」
「大丈夫って…何が?」
 麻理絵が、可愛く小首を傾げる。
「いや、テストとか…」
「ああ、そのこと」
 小さく頷き、麻理絵が微笑む。
「諦めたから」
「おい」
「別に、お小遣いが半分になっても死ぬわけじゃないし……なら、勉強するよりマシだから」
 あくまでもさわやかな表情で麻理絵。
「死ぬのか?お前は勉強すると死ぬのか?」
「死ぬよ。知らなかったの?」
 幼なじみなのに、そんな事も知らないの……そんな表情と口調で麻理絵が言うモノだから、尚斗としては、なるほど、そうだったのか…と納得してしまい。
「いや、すまん、知らなかった…」
「これから気をつけてね……気軽に、『勉強しろ』なんて、言ったらダメだからね」
「……いや、待て」
 ここにいたり、ようやく尚斗の理解が本格的に(笑)おいついた。
 少なくとも、あのレベルの高い女子校の高等部入試を突破したという事実がある限り……麻理絵の成績云々は、外部生の中で最下位クラスにしても、全体でみれば……そんな風に思っていたのだが。
「……半分冗談だと思ってたんだが、まずいのか麻理絵?」
「まずいって、何が?」
 よくよく眺めてみると、さわやかさの向こうに海が見える笑顔だったりする。
「おーい…」
 尚斗の背中に、冷たい汗が流れて落ちた。
 
「ふむ…」
 自分の席に座ってため息……テストだからというわけではなく、今日の放課後、演劇部の大道具の準備というか、その材料となる丸太の事についてである。
 材木の取引と言っても、色々と種類がある。
 大量生産というと言葉が悪いが、どこにでもある丸太の取引とは別に……樹齢何百年とかいうモノは、あまり市場に出回らない。
 まあ、そういう商品を効率重視の資本主義が生み出すはずもなく、なんらかの形で保護されているモノが、災害などの形ででてくるということがほとんどだ。
 そのくせそれだけのモノとなると、寺や神社などの建築だとか、いわゆる伝統芸能に携わる職人が必要だとか……切実な需要が多く、かつ使用目的が大きく違う。
 それが何を意味するかというと……『中身がどうなっているかが不明なまま』セリにかけられるという事である。
 建築目的の場合、いざあけてみると中にうろ(空洞)がありました……では、笑い話にもならない。
 モノにもよるが、何百万、何千万という単位で競られる世界である……それが、高い金を出して買ったはいいが、使えませんとなると…。
 もちろん、そこには長年の経験で養った目利きの出番となるが、それも、絶対ではない……もちろん、これは一昔前の話である。
 最近は音波探査というか、中にそれがあるかどうかわかる方法が確立しており、ここぞという貴重なモノに対しては、それだけの費用をかける価値があるわけで……その反面、それだけの費用をかける価値がないようなモノに関しては……。
 つまり、今回演劇部が……というより、結花が手を尽くして手に入れたこの丸太は、それだけの手間と費用をかけるほどのすごい価格のモノではなく。
 まあ、競り落としたはいいが……当初の目的に使えないことがわかった木材を、結花が学生という立場を活用して、二束三文で業者から買い取ったわけである。
 じゃあ、何故ため息なのか……というと。
 丸太を適当な大きさに解体し、それを部室に運び込む……早い話、どう足掻いても力仕事の気配が漂う作業と、部員である少女達との接点を見いだせないということであった。
 二束三文で買い取った手前というか、商人が裸足で逃げ出しそうな駆け引きをやらかした(笑)だけに、それは自分たちでやるしかなく。
「……ダメです」
 呟きと共に結花が首を振った。
 こういうことに関してものすごく頼りになりそうな人間が瞬時に1人脳裏に浮かんだのだが……頼りにするという行為そのものではなく、頼りにすることが当たり前と思ってしまうことに対する恐怖心がその主な理由である。
 ただ、尚斗の手を借りないとすると……。
「……むう」
 ちなみに、今日はテスト2日目である……出来る者の余裕と言えよう。(笑)
 
「……麻理絵は仕方ないとして」
 最後の抵抗をするでもなく、おだやかすぎる表情でただ遠くを見つめている麻理絵の事はひとまず棚上げし、尚斗は一昨日からちょいと気になっている事に思いを馳せた。
 テスト前だってのに余裕があるという意味では尚斗もあまり人のことは言えない。(笑)
 さて、尚斗の気になっていることというのは……例の、夏樹の一言。
 
『結花ちゃんを、傷つけたりしないで』
 
 ……である。
 もちろん、それは言葉通りに『結花を傷つけるようなことはしないで欲しい』という意味であるだろうが。
 あの、夏樹のどこか構えるような表情と、哀願するような口調……そして、わざわざあのタイミングで口にしたのである。
 極端な話、『よう、ちびっこ』などと頭を撫でられることだって、多少は結花の心を傷つけていると言えなくもない(笑)……が、夏樹はそれを微笑みさえ浮かべてみていたわけで。
 夏樹が結花のことを大事に思っているのは間違いないが、それは結花をあらゆる災厄から完全に守り通すような、そういう過保護じみたモノとは一線を画しているのもまた間違いない事実だろう。
 人間、生きているからには多少傷つくのが当たり前で、致命的な、そういうモノからきちんと守ってやる、もしくはそれに耐えられるように支えてやる……基本的に、尚斗の思想および行動にはそういうモノが根っこにあるわけだが……あの時の夏樹に、少なくとも結花に対する夏樹の想いに尚斗はそれを感じた。
「……」
 何とはなしに、尚斗は視線を上に向けた。
 おぼろげに、だが……夏樹の言葉そのものではなく、『それだけしか伝えなかった夏樹の行為』から、見えてくるモノがある。
 夏樹は結花を傷つけたくないというか、それが真実であるかどうかはさておき、『その事で傷つけられたら、結花は深いダメージを負う』という事をわかっていると言うこと。
 そして、それを尚斗に告げることが出来ない(もしくは告げたくない)ということ。
 さらに……結花が思っているよりも、夏樹は結花のことを良く知って…
「……あれ?」
 尚斗がちょっと首を傾げた。
「どうした、有崎?」
「あ、いや……昨日のアレ、誰の差し金か、何となくわかったかも」
「ふむ、少し違うな」
「え?」
 まだ何も言ってないぞ、と尚斗は青山を見つめた。
「本人の意志じゃなくて、まわりが勝手に調べさせてるだけだ」
「……なんか面識あるって言ってたな」
 誰のことを言ってるか何でわかったんだ…などと、愚問を口にすることもなく、尚斗は頷きながら呟いた。
「え、じゃあ、昨日の時点で…?」
「まあ、名刺を確認したときに橘家と関係の深いとこなのはわかったし……昨夜は、俺の所に非公式の謝罪が来た」
「ほう…恐れられてるな、青山」
 感心したように呟く尚斗には取り合わず、青山は皮肉っぽく口元を歪めて笑った。
「俺の所には謝罪に来るくせに、有崎の所は知らんぷり……まあ、どう取り繕ってもそういう連中だ」
「まあ、大事な一人娘に近づくどこかの馬の骨だからな……その気持ちは分かる」
「……どうかな」
「……」
「……聞かないのか?」
 と、どこか楽しげに青山。
「いや、青山にそれを聞くのは、なんか悪いような気がする…」
「どこかの誰かに聞かせてやりたいな、その言葉」
 と、青山が皮肉をたっぷりのせて呟いた言葉……は、どこかの誰かに届いたのかどうか。(笑)
「あ〜おはようございます、有崎さん〜青山さん〜」
 いつもの表情で、しかしいつもの『♪』が抜けた口調で挨拶し、安寿が席に座る。
 それによってなんとなく会話が途切れ、青山は前を向き……尚斗は、安寿のことが気になって声をかけた。
「何かあったのか、安寿?」
「……何と、言いますか〜」
 暗い表情で、はふぅ、とため息をつく安寿の姿に、尚斗は先日のことを思い出し。
「えーと、例のアレで、アレされたのか?」
「それもあるんですけど〜」
 と、安寿が再びため息をつき……窓の外に視線を向け、首を傾げた。
「……?」
「いえ、その……」
 ちらっと、尚斗を見て……視線を教室の前と後ろに向け、また窓の外へと。
「……?」
「なんといいますか……昨日、学校から帰ろうとしたら…こう、誰かに尾行けられてる気配がですね〜」
「え?」
 尚斗が眉をひそめると同時に、青山が微かに……そこを注視していた人間でも気付くかどうかわからない程度に肩を動かした。
「それは、確かなのか?」
「確かというか、不確かというか〜」
 安寿は小さく頷いて。
「あれは〜プロの仕事です〜」
「プロといってもなあ…」
 昨日の連中を例に挙げるまでもなく、ピンからキリまで…という尚斗の表情を読みとったのか、安寿がぶんぶんと首を振る。
「ただのプロじゃありません〜だって、私が気配を見失う程の〜」
「安寿…ここ、教室だから」
 あまり迂闊な発言はしない様に……と、目と表情で語る尚斗。
 さて、それとは別に……我関せずという感じに窓の外に視線を向けたままの世羽子を、じっと青山が見つめ続けて。
「……」
「……」
「……」
「……秋谷」
「わかったわよ」
 怒ったように呟き、世羽子はわざわざ立ち上がって後ろを向き……深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、天野さん」
「は、はい?」
「昨日、天野さんの後を尾行けたの私だから」
「な、なにゆえ?」
 気が動転したのか、安寿の言葉遣いが妙に芝居がかったモノになる。
「理由は…その…」
 どこか困ったように言葉を濁す世羽子に、安寿はあまりよろしくない想像をしてしまったのか。
「ひょっ、ひょっとして狙われてますか〜狙われてるんですか〜私〜?」
「いや、世羽子は理由も無しにそういうことは…」
 尚斗の弁解に対して、『理由があったらする人なの…?』……と、心の中で呟いたのは尚斗の左後ろに座る少女。(笑)
「わかった…言うわ」
 ちょっと照れたように顔を背け、世羽子がぽつりと呟く。
「昨日、昼までだったから……その、街に歌いに行くのかなって思ったの」
「……」
「……」
 安寿と尚斗の視線が交差し、世羽子はそれをじっと、青山はさりげなく見つめて。
「えーと」
「尚斗が口を出す必要があるとは思えないけど」
 口を開きかけた尚斗に向かって、世羽子が微妙にトゲを感じさせる口調でくぎをさす。
「あ、あの〜秋谷さんは、私が歌うのを聞いてたんですか〜?」
「……」
「何故黙る」
「だから、何で尚斗が一々口を挟むの?」
 口調だけでなく、表情まで厳しくさせて世羽子。
「あ、あの〜」
 なにやら話が違うところに転がっていきそうな気配を感じたのか、安寿が困ったように立ち上がった瞬間。
「はいはい、皆様方、席についてください」
 と、どこか慌てた感じで綺羅が登場し……その直後に、チャイムが鳴った。
 
「……うーん」
「どうしたの、弥生ちゃん?」
「え、ああ……やっぱり勉強してない科目は、全然ダメというか、いつも通りだなって」
「……全教科、勉強したんじゃなかったの?」
「ううん……土曜1日だけだったし」
「ふーん」
「……これからは、ちょっと勉強しようかな…」
「うーん、まあ、それもいいんじゃない…」
 曖昧に頷きながら、『勉強した科目と勉強しなかった科目の差を敢えて体感させることで、自発的に勉強させようと狙ったのか…』などと、温子は考えた。
「ところで、温子はどうなの?」
「ん?いつも通りだよ…今回の試験問題もなかなかに力作揃いで、解いてて楽しいというか」
「……その境地に至るまでには、時間かかりそうね」
 と、ため息混じりに弥生。
「……んー」
 聞いてもいいのかな……という感じに、温子がちょっと頭をかいた。
「弥生ちゃんってさ……お茶や踊りの稽古って、楽しくなかったの?」
「……そう、思えた時期はあるわよ」
「華道は?」
「華道…と、ひとくくりに出来る世界ではないし、私は道を極めたわけではないもの」
 さりげない返答に、温子はかえって弥生の中の頑なさに気付いたのか。
「なるほど、そのあたりに弥生ちゃんのロックの心があるのだねえ…」
「……は?」
「ロックは音楽じゃなくて、生き方である……というのは有名な言葉」
 独り言めいた温子の呟きに、弥生は首を傾げるだけで。
「……」
「……全てが報われる人生というモノは、味気ないモノだと思うのよ」
「……なんか、温子って難しいことを言ってごまかそうとする癖がない?」
「それでごまかせる相手なら、そうすることもあるかなあ…」
 そう呟きながら温子は1つ頷いて。
「ところで弥生ちゃん」
「なに?」
「今日、部活はどうする?」
「どうするも何も…?」
 別に、テストも終わりだし普通に……と言いかけて、弥生は口をつぐんだ。
 そんな分かり切ったことを、わざわざ温子が確認することはない。
「うん、ちょっと……今日は、世羽子ちゃんと2人で、語り合いたいことなどがあってね……いいかな?」
「あ、そうなんだ…いいわよ」
 と、弥生はあっさりと了承する。
 正直、安寿の歌声を聞いてから……多少、歌うことに恐怖に覚えていただけに、温子の提案はある意味渡りに船で。
 そのあたりを、温子が見抜いていたかはどうかは……。(笑)
「さて、話は決まったし、学生らしく次のテストに立ち向かおうか、弥生ちゃん」
 
 中学校時代、その場にいた人間はみな等しく青山によって暴発させられた世羽子の殺気を浴びたわけだが……わずかな光を増幅する暗視装置に大量の光を浴びせると焼き付くのと同じで、それを受け取る側の性能のレベルの違いによって、被害は人それぞれになったわけである。
 もちろん、鋭敏であることそのものは、本人の自覚および使いようによって非常に役に立つ事が多いのだが。
 カタ…カタカタカタ…。
 その微かな音は、テスト中という事を差し引いても、周囲の人間が何とか聞き取れるほど小さい。
 それはもちろん、安寿が全身全霊を込めて、身体のふるえを最小限に抑えようとしている努力の証でもあるのだが。
「(こ、こ、怖いです〜)」
 それは世羽子や青山からすれば、殺気などと呼べるモノではなかったが……日曜日の『誰かさんのお節介』に加えて、今になって『冷静に考えると、この娘、一体何者?尚斗とどういう関係?』などという今更ながらの疑問も重なり、微妙に攻撃的な気が世羽子から安寿個人に向かって叩き付けられていたりするわけで。
 いまさらだが、安寿は天使である。
 人の想いとか、そういった感情を察知する能力といったらもう…人間離れしているわけで。(笑)
「(あ、あう、あう…あ、有崎さぁ〜ん)」
 などと、ちょっぴり涙目で尚斗の方に視線を向けようとすると、世羽子から放たれるそれが威力を増す。(注・世羽子は無意識)
 というか、ここで尚斗に助けを求めたらさらに状況が悪化しそうなことに気付いているため、安寿としてはひたすらそれに耐え続けるしかないのである。
 ちなみに、性格とか、そういうモノを抜きにして、世羽子の周囲に人が集まってこないのは、大抵の人間が世羽子の出す拒絶オーラを察知し、本能的にそれを回避しようとするからである。
 つまり、世羽子に声をかけられる……のは、相当鈍いか、相当に神経が太いか、相当の覚悟を決めているか……という人間に限られる。
 あ、他人の感情を受け流すスキルが相当に高い人間もなんとかなるが、わざわざ世羽子に声をおあけようとするのは、そこにそれなりの意図がなければならないだろう。
 もちろん、世羽子のその場面における状況なり、好き嫌いによってレベルが変化するため……男子の場合は、女子に比べて、異様にハードルが高くなるのは言うまでもない。
 今のところ世羽子のそれは安寿個人のみに向けられているため、安寿の様子がおかしいな、ぐらいは気付いている尚斗を含めて、他の人間はそれに気付かず……と言いたいが、1人例外がいた。
 もちろんというか、青山大輔、その人である。
 これが1週間前……の話なら、テスト中とはいえ、それとなく世羽子を牽制したであろうが、今の青山は冷徹に安寿の様子(気配)を観察していたり。(笑)
「(あう〜テストに集中出来ません〜)」
 姿勢だけは正しく、安寿が心中で悶えまくる。
 もちろん、安寿の精神力だって並ではない……が、あれからずっと世羽子のそれを浴び続けているのだ。
 筋肉が疲労するように、精神だって疲労する。
 最初は普通に耐えられたが、最後のテストともなると積み重なった疲労のせいで抵抗もままならず、安寿の手元をのぞいてみると、ほぼ真っ白。
「(赤点は〜赤点だけは〜回避しなければ〜)」
 などと、別のトラウマを発動させそうな勢いで、安寿は文字通り最後の気力を振り絞った。
 右前方で、「(ほう…)」などと感心したように息を漏らす青山の様子に気付く余裕もなく、解答欄を適度に埋めていく。
 その執念めいた気力は、『赤点』『低成績』『落ちこぼれ』などといった言葉に対する拒否反応なのかどうかは不明だが。(笑)
 そして、テストの終わりを告げるチャイムが鳴り……教室内には、どっと弛緩した空気が流れる。
 あ、一部除く。(笑)
「…秋谷」
「何よ」
「そのぐらいにしておけ」
「…は?」
「……無意識か」
「だから、何が?」
「……」
「……?」
「……ちょっとこい、秋谷」
「え、え、ちょっと…?」
 と、青山に連れられて世羽子が教室を出ていくと……机に突っ伏していた安寿がようやくといった感じに顔を上げた。
「有崎さん〜」
「ん?」
「中学時代、勇者が少なかった理由がわかりました〜」
「は?」
「最強のガーディアンです〜」
「すまん、意味がわからん」
 などと首を傾げる尚斗の隣で、何故か麻理絵が小さく頷いていたり。
 
「……我ながら、才能のなさには感心するな」
 などと、らしからぬ呟きをこぼしながら廊下を歩く青山……テストの後、ちょっと時間を食ったせいで、既にHRなどを終了して放課後になっているのだが。
 自分が蒔いた種……というか、世羽子の、尚斗に対する誤解を多少なりとも解いておいた方がいいだろうと判断して取った行為が、まさかああいう形で裏目に出るとは思いもよらず。
 ふっと……あまりにも唐突に、青山の中である記憶が甦る。
『あの子はね、ちょっとばかり、劣等感とか負い目を持っていた方がいいんだよ……ウチのバカ息子とか、アンタみたいなのばっかりがまわりにいるならいいんだけどね』
 4年以上も前……尚斗の母親に強要されたちょっとした悪戯の理由を尋ねたところ、返ってきた答えである。
 何故急に、そんな記憶が甦るのか……と疑問に思うよりも先に、それと似たような言葉を、世羽子の母親からも聞いたことがあった事を思い出す。
『そうね……世羽子は、世間に遠慮しながら生きていかなきゃいけないから…』
 病室のベッドで……少し悲しげに目を伏せ、彼女が続けた言葉を聞き取ることは出来なかったが。
 あの2人の言葉は……とても大事なことだったのではないか。
 鬼籍に入った2人に、それを問い正すことは出来ない……もちろん生きていたところで、本当に問い正せたかどうかは不明だが。(笑)
「……ふむ」
 廊下の壁により掛かり……青山は微かに眉をひそめる。
 その記憶の正誤ではなく、何かがおかしい……と。
 ゆっくりと目を閉じ、女子校にやってきた日から……いや、大雪で休校となった1月12日の土曜日……尚斗や宮坂と3人で酒を飲んだ時から、自分の中に残る記憶を順番に引き出し、吟味し、歪みなりひずみを感じる部分を探索する。
 5分、10分……15分を過ぎたところで、青山は目を開けた。
「……戻るか」
 何かを見つけたのかどうか、それを素振りにも出さず……青山は教室へと戻っていく。
 
 もう、待ちくたびれたわよ……そんな表情と口調で、紗智が机の上に頬杖したまま呟いた。
「あ、やっと戻ってきた…」
「何か用か、一ノ瀬?」
「美少女が、誰もいない放課後の教室で、少年を待っていた……もう少し、味のあるリアクションはとれないの?」
 青山は無言で、自分の席の鞄を手に取り。
「いやいやいや、ここは『自分で美少女言うな』とか、もうちょっとノリの良いリアクションを求めても罰は当たらないわよね?」
「絶世の…という形容詞かつくかどうかさておき、あながち間違ってもないだろう」
「うわ、すっごくムカツク」
 椅子から立ち上がり、紗智が肩を怒らせて睨んだ……が、どこ吹く風といった様子で青山はドアへと向かい。
「ちょっ、ちょっとちょっとっ!青山君って絶対、小学校の通信簿で『他人の話を聞かないところがあります』とか書かれたでしょ!?」
「用事があるなら早く言え」
「……青山君って、尚斗がいないと、結構キツイ?」
「印象ってのは、観察眼が周囲の環境に左右される程度のものならあまり当てにしない方が良いな」
「さりげなくひどい事言ってない?」
「……」
「あーもうっ」
 教室を出ていった青山を、紗智は慌てて自分の鞄を掴んで後を追う。
「…って、もういない?」
 廊下の左右に視線を走らせたが、青山の姿はない。
「青山〜っ!」
 怒りのあまり『君』付けすることも忘れ、紗智が50メートル7秒フラットの俊足で昇降口に向かって無人の廊下を走り出す。
 昇降口……いない。
 校門、その周囲……いない。
「……って、瞬間移動でも使えるのあいつっ!?」
 紗智が髪の毛をかきむしった……瞬間。
 ヴヴヴヴ…と、ポケットで携帯が振動を始める。
「……はい?」
『青山だが』
「はぁ?」
 しばらく思考停止……5秒、10秒。
「何で、アタシの番号知ってるのよっ!?」
『細かいことは気にするな』
「気になるわよっ!」
『とりあえず、(……)の(……)で待ってる』
 と、青山が例の繁華街駅前にある、ファミレスの名を挙げる。
「ちょ、ちょっとっ?」
『昼飯はまだだろ、おごるからこい……なんなら、交通費も出すが』
「……行く」
 基本的に紗智は、『もくひた』に弱かった。(笑)
 
 ちなみに、『もくひた』の『た』は、ただ(無料)の頭文字。
 
「ご注文はおきまりですか?」
「えっと、このハンバーグステーキセットと、海鮮パスタサラダ、オレンジジュース、デザートに……あ、フォークじゃなくて、お箸でお願いします」
 注文を聞き終えたウエイトレスが軽く頭を下げて奧に消えた後、紗智が挑発するような口調で青山に言った。
「なんか文句あるの?」
「いや、こういう時に割と人間性ってのは現れるもんなんだが、なかなかに」
 と、楽しそうに青山。
「どういう意味?」
「いや、ただ単純に高いモノを注文する奴とか、2番目に高いモノを注文する奴、反対に安い物を注文する奴なんかは、基本的に値段にとらわれる価値観を有しているわけだが」
「そんなの、自分が食べたいもの頼むわよ……おごりって言われている時点で、高いか安いかで選ぶなんて馬鹿馬鹿しいじゃない」
「確かに」
「第一、予算に制約があるなら、最初にそれを伝えるべきでしょ……っていうか、そういう話じゃないわよね?」
「いや、自分の食べたいものを素直に注文できる人間ってのは、あんまりいないんだ、これが」
「……こう言ったらなんだけど、青山君友達少ないでしょ」
 そんな人間が、何でそういうこと言えるの……という紗智の疑問を、青山は平然と受け流して。
「俺には良くわからんが、多いとか少ないとかで判断できるモノなら、それほど重要なモノじゃないだろう、一ノ瀬の言う友達とやらは」
 微かに間をおいて……紗智はぽつりと呟いた。
「そうね」
 そしてもう一度。
「そうね、その通りよ…きっと」
「それで?」
「それで……って?」
「いや、何か話があったんだろ」
「え、あ、うん…まあ、その…」
 などと、紗智の態度は一転して煮え切らなくなり……かと思えば。
「っていうかっ!何でわざわざ、こんな所まで足を運ばせたのよ?別に、教室で……って、なんでアタシの携帯ナンバーっ!」
「落ち着け」
 突き放すような口調と、周囲を指さす青山の行為が、紗智の感情を急速に冷えさせた。それがわかったのだろう、青山は……男子校の連中が見れば首を傾げだだろうが、紗智の疑問に答えてやる。
「教室で話さなかったのは、俺の都合だ……それが申し訳ないと思ったから、ここで飯をおごっている」
「あ、うん…」
「で、一ノ瀬の連絡先に関しては……まあ、気にするな」
 もとい、全然答えになってなかった。(笑)
 当然、一悶着あったが……所詮、紗智が青山にかなうはずもなく。
「……もういい」
「そうか、わかってくれて嬉しいよ」
 と、まったく感情のこもらない言葉を青山が口にする。
「それで、話はなんだ?」
「そうっ…とう、面の皮厚いよね、青山君」
「ふむ、有崎本人に話を聞くことなく、また本人に了承もとらずに色々と情報を集めて回ってるらしい一ノ瀬といい勝負だと思うが」
「…っ!?」
 驚愕の後……紗智の頬にさっと朱が走った。
「な、なっ、何でっ!?」
「人を呪わば穴2つというだろう……他人に話を聞いて回るという行為だけならまだしも、救急車を呼ぶ騒ぎまで起こせば、それとなく俺の耳にまで話は届く」
「あ、い…」
 言葉を無くした紗智の背後から、ウエイトレスが声をかけた。
「お待たせいたしました、こちらハンバーグステーキセットに…」
 と、デザート以外の料理が並べ終わって、ウエイトレスが軽く頭を下げる。
「ごゆっくりどうぞ」
 まあ、端から見れば、高校生のカップルなのだろうが……ウエイトレスが紗智に向ける視線には微妙な嫉妬が見えていたり。(笑)
 早い話、黙ってさえいれば青山は人目をひく青少年だから。
「さて、冷めない内に食べようか…」
「……うん、いただきます」
 くしゃくしゃに丸められたちり紙のような様子で、紗智が手を合わせた……が、やはり若いということは素晴らしく。
「で、聞きたいことがあるんだけど」
 料理を口にしたことで、精神的に立ち直ったのか……紗智が切り出した。
「ふむ、答えられることなら」
「尚斗って……その、なんというか」
「……」
「あー、そうじゃなくて…」
「もう少し、質問内容をまとめたらどうだ?」
「……ヤクザの事務所、ぶっつぶしたって噂は本当?」
「まあ、噂っては基本的にあてにならないな」
「あ、そうなんだ……まあ、でも喧嘩とかはする人なんだよね?」
「……ふむ」
 青山は紙ナプキンで口元を拭い。
「去年というか、ちょうど1年ほど前……某組が解散届を提出したというのがニュースになったと思うが」
「いや、あんまり興味ないから…」
 と、答えつつも……紗智は何故か不安を覚えた。
「男子校の、ラグビー部の全国大会出場取り消しの話は…?」
「あ、それは知ってる……なんか、登録してないメンバーがどうのこうのって…」
「……簡単にいうとな、男子校の卒業生にはわりとそっちのほうの関係者が多くてな。まあ、そこに至るまでの過程は抜きにして、素行不良の生徒が集まっていた現状では仕方ないともいうが」
「ごめん、なんか話が今ひとつつながってないような気がするんだけど…?」
 と、紗智が首を傾げる。
「……全員とはいわないが、ラグビー部とそっち方面のつながりが…」
「え?」
「カンパと称した集金とか……体力が余って、バックにはヤクザ。まあ、色々あったわけだが、そいつらが有崎の逆鱗に触れた」
「え、ちょっ、ちょっとちょっと…さっき、噂はあてにならないって…」
「ああ」
「だったら…」
「事務所じゃなく、その上部組織も含めた組全体を…」
「いや、ごめん、聞きたくないっ、聞きたくないっ!」
 耳をおさえて、ぶんぶんと首をふる紗智。
「とりあえず、アンダーグランドの賭場や色々な手段で資金的に追いつめ、準構成員を含めた連中を有崎がまとめて…」
「言うな〜っ!?」
 5分後。
「……ねえ、私って命を狙われたりする?するよね、とんでもないこと知っちゃったもんね?」
 震える声で、紗智が問う。
「さあな」
「……ごめん、嘘でいいから、今の全部冗談だって言って」
「今のは全部冗談だ」
「……」
「……」
「嘘よ、絶対嘘よ……」
「……というか、良く今の話を信じる気になれるな」
「普通に考えたら絶対使用できないけど……その、なんか尚斗と、青山君って絶対違うもん、普通と違うっていうか…」
「その、普通でない有崎のことを調べて、どうするつもりだったんだ?」
「そうじゃなくて、調べてみたら、普通じゃないって事が…」
 ぶつぶつと呟き続ける紗智に向かって、青山は口元を歪めて笑い。
「椎名がな」
「麻理絵が…何?」
「いや、有崎に女が近づくと、椎名がわかりやすく嫉妬してただろう?まあ、半分は演技だろうが」
「……それで」
 そう答えながら、紗智は今更ながら気がついた。
 麻理絵は……尚斗のことを、ちゃんと知った上で、ああいう態度をとっているのかと。
「なのに、一ノ瀬が近づいても、椎名は全然平気だっただろう……あの意味が分かっているのか?」
「いや、それは…」
 青山の言葉の意味が理解できないながらも……紗智は、少し困ったように呟いた。
「私…他に、好きな人……いるから」
「……」
「ま、麻理絵もっ、それ…知ってるから…だから…」
「他に好きな相手がいる、それが、何か保証になるのか?」
「それは…」
 紗智の視線が、思考が、迷走する。
 そこに容赦なく、青山の言葉が叩き付けられる。
「一ノ瀬という人間は、有崎という人間に耐えられない」
「……っ?」
「おそらくは無意識なんだろうが、椎名はそう理解してるんだろう……有崎という人間を知れば知るほど離れていく。そんな人間を警戒する必要は全くないってな」
 麻理絵がそう思っているだけという含みを残した青山の言葉だが、紗智にはそれに気付くだけの余裕がない。
「一ノ瀬が椎名のことをどう見てるのかは知らないが、少なくとも俺から見た椎名は、おそろしく強靱でしなやかな精神の持ち主で、頭の回転も速く、自分の判断に全てを委ねる潔さ等……称賛に値する能力の持ち主だぞ」
 ここも当然、青山が紗智のことをどう見ているかについては言及していないのだが……紗智にとっては、気付く気付かない以前にどうでもいいことだったのか。
「……はは」
 乾いた笑い声をあげ、紗智が手で顔を覆った。
「……良かった」
「…ほう?」
「私、決定的に麻理絵に劣るんだ……だったら、納得できる…やっと…良かった…」
 そんな紗智を、青山は興味深そうに見つめている。
 顔を手で覆ったまま……懺悔のような口調で、紗智が呟き始める。
「私…いやな人間なのよ」
「懺悔ならよそでやれ、俺にそういう趣味はない」
「うるさい」
「…」
「アンタには責任がある。私の懺悔を聞く義務がある……その覚悟がないなら、あんな言葉を口にすることは許されないもの」
「……」
「多分、アンタにはそういう人間的な感情が欠如してると思う…だから、理解できないとは思うけど…ただ聞くだけで…ううん、聞いているフリだけでいいから…」
「勝手にしろ…」
 ……それはそれとして。
 ファミレス、少年少女のカップル、少女は泣き、少年は平然と食事をとる……周囲からかなり好奇の視線を浴びていたりするのだが、それに気付いていない紗智はともかく、青山の精神力はいまさらながら相当なモノである。(笑)
 
 
 
 
 ん、まあ……麻理絵がね。(苦笑)
 矛盾は承知でいくしかないか、と。
 うああああ〜(七転八倒)
 なんだろう、ツエッペリンさんは生涯孤独に過ごした云々でつっこまれたときの某先生はこんな気分だったんでしょうか。

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