1月28日(月)。
 
「……無理か」
 洗濯物を干す手を休めて、尚斗は空を見上げた。
 天気が悪いというわけではなく、むしろ快晴なのだが……放射冷却による冷え込みとは裏腹に風は微かに感じる程度。
 ただ単純に、今日はこのまま気温が上がらず、洗濯物がきっちり乾かないのではないか……という疑問が、尚斗にそう呟かせたのである。
 今日はというか、今夜は父親が出張から帰ってくる……もちろん、旅行先で洗濯してくるなどというように気をきかせる(?)父親ではなく、むしろ余計な洗濯物を抱えて帰ってくる可能性が高い。
 この洗濯物が乾かないと、明日の洗濯(主に干す場所)が少しばかり面倒なことになるかも……まあ、言ってみれば些細なことに過ぎないが。
 というか、学生として今日、明日のテストのことを気にしろよ……というツッコミをいれる者は生憎といなかった。
 
「おはよ〜ん」
「……おはよう、温子」
 毒気を抜かれた感じで、聡美が挨拶を返す。
 例によって、乗り換え電車待ちの駅のホームのベンチ。
「……寝不足、温子?」
「夜中の3時頃まで、聡美ちゃんに貸してもらったアレを聞きながら、もうノリノリ」
「テスト勉強…じゃ、ないよね?」
「アレを聞きながら、勉強できる方がすごいと思う……もう、意識が全部持っていかれそうだし」
「うん、それはわかる…」
 と、聡美が微笑んだ。
「ところで聡美ちゃん」
「ん?」
「あれって、何年前の?」
「4年前よ…私達が中学1年の時のだから」
「……へえ」
 温子の『へえ』という呟きとその表情に、聡美は身体を強ばらせた。
「あ、あの…温子」
「そっか、4年前か……なんか、3年ぐらい前にデビューしたバンドが発表した曲とか混じってた様な気がするけど」
「あ、う…」
「聡美ちゃん、現実ってのは落とし穴がいっぱいだからね……もう少し気をつけた方がいいかも」
「……」
「っていうか、あのテープはともかく、MDの方って本格的なスタジオかなんかで収録したモノっぽいんだけど、違う?」
「……」
「聡美ちゃん、私の勘違いならアレなんだけど……いつから世羽子ちゃんのストーカーやってるの?」
 聡美の顔から血の気が引いていくのを見て、温子はため息をついた。
「あ、あの…なんで?」
「それは、初歩的な推理だよ聡美ちゃん」
「……」
「まあ……私があれこれいう筋合いじゃないけど」
 聡美は何も言わず、どこか疑わしげな視線を温子に向けた。
「……聡美ちゃん、何か勘違いしてない?」
「え?」
「いや、例えば……クラス分けの名簿見れば、男子生徒はまあ300人に、同じ名字は2、3人ってとこでしょ?青山君を本気で探そうと思えば、すぐにわかるんだよ?」
「……ぁ」
 言われてみれば……という感じに、聡美が手を口元にやった。
「ちなみに、これは聡美ちゃんの『同じ学校に…』って発言だけの問題ね」
「う…」
「あと、『世羽子が、自分がヴォーカルだって事を知られたくない気がする』とか……聡美ちゃん、自分で気付いてないかも知れないけど、ヒントこぼしすぎだから」
「……?」
 どういう意味……と首をかしげる聡美に、温子はちょっとため息をつき。
「だから……私が会いたいのは、ギターの青山君じゃなくて、ドラムの人なの。聡美ちゃんの態度からして、世羽子ちゃんに直接聞くとまずいのかなと思って、色々青山君のこと聞いてただけなのに」
「……そ、それなら」
「それを、わざわざ嘘ついて、せっせと墓穴を掘ったのは聡美ちゃん。まあ、それで大体のことはわかったんだけど」
「だ、大体……って?」
「まあ、世羽子ちゃんと、ドラムの人が付き合ってたのかな…ぐらいは」 
 ばさっ。
 聡美の手から落ちた鞄を拾いつつ。
「多分……聡美ちゃんが言ってた、世羽子ちゃんが、自分がヴォーカルだって知られたくないっぽいっていうのは、それがわかっちゃうからだと思う」
「な、なな、なんで?」
「あのスローバラードだけは、声というより、ノリが違うもん……後、聡美ちゃんの反応もコミで、あれが世羽子ちゃんなら、それしかないと思うけど」
 人の顔色って、まだ青くなるんだ……などと、聡美を見ながら温子が心の中で呟く。
「あ、ああ、あつ、温子っ」
「いや、別に世羽子ちゃんに何も聞かないし言わないけど……このぐらい言わないと、聡美ちゃん、自分が嘘つくのが下手とか、秘密を守れるような人間じゃないって自覚できないでしょ?」
「あ、あう、あぅ…」
 パニックに陥っているのに気付いて、温子はぽんと聡美の肩を叩いた。
「はい、落ち着いて聡美ちゃん……だから、別に世羽子ちゃんには何も言わないってば」
「……ほ、ホント?」
「……そこまで脅えるってのもどうかと思うけど」
「よ、世羽子が…怒ると…も、ものすごく怖いの…」
「そのぐらい私だって知ってるよ……だから、わざわざ怒らせるようなことはしないってば」
 などとなだめつつ、そこまで脅える相手に過剰な好意を寄せることの出来る聡美の精神構造に温子はちょっと思いを馳せた。
「ぜ、絶対…絶対、世羽子には…」
「くどいよ、聡美ちゃん……というか、怒りはするけど、嫌われたりはしないって思ってるんだね」
「うん……ものすごい怒ると思うけど、嫌われたりはしないはず」
 と、割と冷静に聡美が答えるものだから、温子はちょっと首を傾げ。
「……って事は、世羽子ちゃん、聡美ちゃんがそれを知ってるって事を…?」
「じゃなくて」
 聡美が首を振る。
「えっと……もちろん、私が、その…色々やってるようなことを知られたら、嫌われるかも知れないけど……その、あり…じゃなくて、ドラムの人と付き合ってたことを言うと、ものすごく怒ると思う」
「……なんか、聡美ちゃんの日本語がおかしいような気がする」
「……」
「まあ、それはそうと」
「…?」
 聡美が想定しているはずの防御とは別方向から、温子は斬り込んだ。
「あの、世羽子ちゃんが付き合ってた相手ってのは、ものすごく気になるの」
「そ、そんなこと私に言われても…」
「聡美ちゃん……いるんだよね?」
「え?」
「青山君と一緒で、今、同じ学校にいるんだよね?」
「な、なんで?」
「もっかい、最初から説明しようか?聡美ちゃんの言葉とか反応とか、1つ1つとりあげて」
「あ、う…」 
 聡美が目をそらす。
「で、聡美ちゃん……出来るだけ聡美ちゃんの意向を尊重したいし、私も世羽子ちゃんの逆鱗に触れるのはイヤだから、ドラムの人の名前を教えて。今更イヤとは言わないよね?」
「……」
 5秒、10秒……観念したのか、聡美は大きくため息をついて。
「あ、有崎尚斗君……同い年」
「ふむ、ありさきなおとくん。りょーかい。できるだけ、世羽子ちゃんを刺激しないように接触するから。ここから先は私の責任って事で」
「……」
「んん?ありさきなおと……って、なんかデジャブを感じる響き」
 と、首を傾げる温子に、もう隠すだけ無駄と判断したのか、聡美が呟く。
「ほら、この前の……弥生の妹さんを保健室に運んだ…」
「ああ、あの……って、すっごい偶然」
「……」
「どうしたの?」
「もう、聞かないの…?」
「うん……後は偶然というか、運任せで」
「え?」
「いや、名簿調べて……とかやったら、確実に見つかるでしょ。それじゃ面白くないから」
「お、面白く…ない?」
 怪訝そうに聞き返す聡美に向かって、温子は頷いて見せた。
「絶対とか、確実なものほど、世の中でつまらないことないからね……何があるかわからないから、生きるということには意味があるの」
 もしここに世羽子がいれば、温子の言葉と表情から何かを悟ったのかも知れないが、聡美は曖昧に頷くだけで。
 もちろん、それを悟られそうな相手の前で見せるほど温子は迂闊でもないが。
 
「……ふあ」
「眠そうね、紗智」
「おはよ、澄香…早いわね」
「私じゃなくて、紗智がね」
 と、澄香がからかうような笑みを口元に浮かべた。
 教室にはまだ生徒はほとんどおらず……電車通学の澄香は、大抵(執筆中でないときは)このぐらいの時間にやってくるが、紗智は後ろから何番目…レベルで登校することが多いからだろう。
「ん、いや…寝不足でね……布団の魔力にやられないように、さっさと出てきたのよ」
「寝不足になるぐらい、誰のことを考えてたんだか…」
「…っ!?」
 無防備なところへの強烈な一撃が、紗智に取り繕う余裕を与えなかった。
「あら、図星」
「ず、図星じゃないわよ、何言ってんのよ、澄香」
「うふふ、ちゃんと布団は干してきた?」
「……は?」
「ごめん、紗智にはちょっと早いネタだったわね」
 失敗失敗、などと呟きながら、澄香が指先で眼鏡の位置を調節した。
「……布団…てっ!?」
 赤面と同時に、紗智の顔が引きつる。
「リアクション遅すぎ」
「そんな、澄香の小説に出てくるようなキャラみたいにっ、一晩中…」
「紗智、声大きい」
「……ふーっ、ふーっ」
 ギリギリで理性を取り戻したのか、大きく肩で息をしながら紗智が澄香を睨みつける。
「もう少し、心に余裕を持ってた方がいいんじゃない?」
「だから、澄香が考えてるような理由で、考えてた訳じゃ…」
「これ、使う?」
 紗智に最後まで言わせず、澄香がレポート用紙の束を差し出す。
「なに、これ?」
「宮坂君……というか、じょにー君に調べてもらった、青山君のレポート……なかなか小説以上にミステリアスな人物なのよね。嘘かホントかはさておき」
「は?」
「人間関係って、鏡のような部分があるから……周りの人間のことを知ることも、無駄じゃないと思うわよ」
「……私のこと、小説のネタにしようとか考えてない?」
「大丈夫、ちゃんとほとぼりが冷めた頃に…」
「絶対イヤっ」
「ま、それは冗談だけど……類友って言葉が事実なら、紗智はかなりの覚悟が必要かも」
「……覚悟?」
 
 2限目を終えたところで、いつもとちょっとばかり様子の違う弥生の様子に不審を覚えたのか、温子が声をかけた。
「……弥生ちゃん?」
「……温子」
 振り返りもせずに弥生。
「私、今回のテストすごいかも」
「……と、いうと?」
 『すごい』と言っても、上か下かで意味が全然違うし……と心の中で呟きつつ。
「わかるの、わかるのよ…」
 と、ここでやっと弥生は温子に向き直り。
「問題の答えがね、すらすらわかるの」
「へえ」
 そのわりには、時間ぎりぎりまで粘ってたような……という疑問はおくびにも出さず。
「へえ、って何よ?すごいでしょ?問題がすらすら解けるのよ…あ、もちろん、全部が全部ってわけじゃないけど」
「私一応、学年2位なんだけど…」
 すらすら解けるのが当たり前の人間にとって、普段ダメな人間が、詰まることなく解答を書き込んでいけるあの爽快感はいかんとも理解しがたいモノらしく。(笑)
 ちなみに、世羽子と温子は全教科でミスが1つか2つ……答えがわからないのではなく、あくまでもミスというレベルでやり合っていたりする。
「やっぱり、アレね……勉強って大切なのね」
 しみじみと呟く弥生に、温子は首を傾げて。
「……あの、弥生ちゃん?」
「ん?」
「なんか、この前もちょっと思ったけど……家で勉強したこととか…?」
「ほとんどないわよ?」
「……」
「だって、そんな時間ないもの……中学を卒業する頃にやっと1通りはすませたけど、お茶に、踊りに……とにかく、習い事の時間が休みなくびっしり詰まってたし、授業の途中でも家の用事で呼び出されることなんかも珍しくなかったから、勉強に回す時間なんて、とてもとても」
「……なんでそんなに?」
「なんでって…」
 弥生はちょっと温子に顔を近づけた。
「華道って……ほとんどの人は正直花嫁修業の一環で、この道を極めようなんて志す人間は滅多にいないのよ」
 ひそひそと。
「だから、そういう人たちを教える立場の人間は、かなりのレベルのオールマイティさを求められるのよね。いわゆる、花嫁修業にありがちな教養というか……だから、通った先で『もう、教えることはありません』って言われるまで、色々と学ばなきゃいけなかったのよ」
「あぁ……なるほど」
 温子はいわゆる一般家庭の人間である。
 弥生の実家である、華道の九条流がどういう立場の家柄なのか……を正しくは理解できていない事はもちろんだが、他の女子生徒(特に内部進学生)が弥生に向ける敬意を少し取り違えていた事におぼろげながら気が付いたのである。
「そっか……世羽子ちゃんが、ある意味わかりやすくて強烈だから、余計に勘違いしてたわけか…」
「…?」
「結局、お茶とか、日本舞踊とか…習い事に通ったとこ全部、免許もらったんだ弥生ちゃんは」
「まあ、免許って言ってもピンキリだから……かあさまだって当然持ってるし、御子は……まだまだ途中だけど、早ければいいって話でもないし」
 別に特別な事でもないでしょ……とでも言いたげな弥生に、温子は自身の経験もふまえて頷いた。
「そうだね」
「それがいいことか悪いことかはともかく、九条家の人間はみんなしてきた事だから」
「なるほど、なるほど」
 うんうんと頷きながら、はたして本当に『みんながしてきた事』かなあと、心の中で温子は首を傾げた。
 もちろん、表情には出さない。
「それにしても…」
 温子自身の、弥生に対する評価をどうこうするわけではないが……目の前の少女が、世羽子とは別の意味で天才であることをあらためて心に刻みつつ。
「なのに……なんで、ギターだけ」
 全米はおろか、全世界が泣き出しそうな弥生のギターの演奏を思い出し、温子は人生の無常さをやりきれないように首を振った。
「ぎ、ギターは関係ないでしょ、今はっ」
「うん、そーだね……ギターだけが関係なさそーだよね」
 この世に神様というモノが存在するなら、なかなか罪作りだよね……などと思いつつ、温子は呟くのだった。
 
「くしゅんっ」
「風邪か、安寿」
「大丈夫です〜私は風邪をひきません〜♪」
「それ、別の意味でとられると結構つらい発言だぞ……つーか、休みの度に、ふきっさらしの人混みの中でいたら…」
 口を閉じ、尚斗は視線を右にずらした……少し遅れて安寿も。
「あの、どうかしましたか〜秋谷さん?」
「いえ、別に…」
 何でもなかったように、世羽子が安寿から視線を逸らす。
「……?」
「それより有崎さん〜椎名さんがまずいことになってるみたいですけど〜?」
 尚斗は黙って首を振り。
「とりあえず、今俺にできることはないにもないと言うか…」
 机の上に突っ伏したままピクリとも動かない麻理絵……は、もちろん体調不良というわけではない。
「……さっきのテスト中、ペンがほとんど動いてなかったからな」
「カンニングですか〜?」
「麻理絵の答案をカンニングしてもねえ」
 と、これまた重々しく紗智がため息をつく。
「つーか、ここを受験して、受かったんだろ、麻理絵は?」
「まあ、年に一度ぐらいは、全てがうまく日があるって事かしらね」
「さ〜ち〜」
 ギギッと、機械がきしむ音が聞こえてきそうな動きで、麻理絵が顔だけを尚斗達の方に向ける。
「っていうか、落ち込んでる暇があったら、次の教科の復習でもした方がマシよ」
「……今更、無駄だもん」
「椎名さん〜世の中に、無駄なこととか、必要でないことなんて存在しませんよう〜」
 と、安寿の純粋無垢な表情と言葉……から逃げるように、麻理絵がまた机に向かって周囲に暗黒オーラを振りまき始める。
 さて、こう書くと麻理絵だけが特殊な存在のようだが……他に目を転じてみると。
 麻理絵のように、机に突っ伏した状態の男子が、ひーふーみー……。(笑)
 授業のレベルから想像はしていたが、問題の解答以前に、問題の意味が分からない……というレベルの男子生徒は少なくなく。
 宮坂から『それ』を購入したはいいが、答えがきちんと覚えきれなかった者、そもそも模範解答が用意できなかった者(笑)……もちろん、そのあたりは男子生徒の間の人間関係も密接に絡んでくるのだが。
 それとは反対に、女子生徒にいいところを見せたいという一念だけで、自らの秘めた才能を開花させた男子生徒もいなかったわけではない。もちろん、それは別の話……またの機会に話すことにしよう。(笑)
 そして、宮坂は……土で汚れた制服を気にするでもなく、ポケットから取り出したチョコパンをもぐもぐと食べていたり。
 ちなみに、各教科の問題用紙と、解答用紙ではお値段がものすごく違ったり。(当然だね)
 
「さて、終わった終わった…」
 ぐっとのびをする尚斗に向かって、青山が軽くツッコミをいれる。
「明日もあるんだが」
「とりあえず、今日は、終わった…」
「ふむ…」
 青山は、最初に麻理絵、そして世羽子にちらりと視線を投げて。
「有崎、一緒に帰らないか?」
「ん、それは構わんが…」
 尚斗はちょっと構えるような気持ちで青山を見つめ。
「何かあったのか?」
「厳密に言えば、俺達が女子校にやってきてから、色々ありっぱなしなんだが」
「あー、そうなのか?」
 先週の、男子校工事の件の会話などを思い出しつつ、尚斗は言葉を濁して聞き返した……が、青山はそれには何も応えず。
「一ノ瀬」
「な、何よいきなり?」
「ついてくるなよ」
「……前フリ?」
 内心の動揺を押し隠しつつ、一応のボケ。
「忠告はした」
 と、青山は背中を向けて、もう気にもとめない風で。
「……?」
「紗智」
「なによ?」
 不満げな表情のまま、尚斗を見る。
「事情は良くわからんが、今のは青山の最大限の好意だと思うぞ。素直に聞いておけ」
「こういぃ?」
 などと、まだ納得がいかない様子の紗智に向かって、今度は麻理絵が口を開く。
「紗智、青山君の言うとおりにした方がいいと私も思うよ…」
「な、何よ、みんなして…」
 何やら自分だけ仲間はずれにされたような疎外感を覚え、紗智が口を尖らせた。
 
「……テスト中なのに、デートですか。さすが、学年2位の人は余裕よね…」
「どのみち、テスト勉強しない弥生ちゃんがそれを言うかな…」
 馬の耳に何とやらよろしく、温子はさらりと受け流し。
「というか……ここ1ヶ月ばかりちょっといじめすぎたせいか、すねてるっぽいのよね。こういうときにちょっとだけ優しくしてやると、これがまたころりと」
「なんか、そういう温子の言いぐさって、不純異性交遊っぽいのよね…」
「不純異性交遊ねえ…」
 もうすぐ高3になる人間が、何言ってるんだか……という表情を弥生に見せないように温子はそっぽを向いた。
 弥生のそれを幼いと軽んじるわけではなく、むしろうらやましく思うがためであろう。
「…ぁ」
「ん、どうしたの、弥生ちゃん?」
 いつもの表情で温子が振り返る……と、何故か弥生が自分を盾にするように身を縮こまらせていて。
「え、あ、あれ…?」
 と、自分が隠れようとした事にむしろ驚いたような表情を浮かべ、弥生は背を伸ばしてまっすぐに前を見つめた。
「……?」
 弥生の視線を追いかけて、温子もそちらに視線を向ける。
 男子生徒に女子生徒が、明日のテストのために、もしくは一時の息抜きを求めて……校舎から出ていく光景としか温子の目には映らず。
「……」
 ふっと、自分の背中で弥生が緊張を解いたの感じて、温子はもう一度目の前の光景を瞼に焼き付ける。
 あの、世羽子の姿にすら本当の意味で萎縮する事の無かった弥生が、はたして一体何に気圧されたのか……温子にはわからなかった。
 
「……失礼します」
「あら、いらっしゃい」
「香月、ここは保健室だ」
「まあまあ、堅いこと言わないで、センセ」
 水無月は、入り口で突っ立ったままの少女と、冴子の顔に視線を向け……。
「あー、ちょっと用事が出来た……香月、留守番頼むぞ」
「はいはい、行ってらっしゃい、水無月センセ」
 ひらひらと手を振って水無月の背中を見送り……冴子は、結花に目を向けた。
「どういう風の吹き回しかしら?」
「あの、試験は…?」
「ここで受けたわよ…水無月センセの監督で」
「そうですか…」
「とりあえず座って……お茶、入れるから」
 と、冴子は丸椅子を指し示し、立ち上がる。
「あ、ありがとうございます」
「……」
「なんですか?」
「以前の入谷さんなら、『結構です…用事が済めばすぐに帰りますから』って反応だったかしらと思って」
 結花はちょっとイヤな顔をしたが……渋々と頷き、冴子の言葉を肯定した。
「そうですね…多分」
「で、今日は、何のお話?」
 慣れた仕草でお茶を入れながら、冴子。
「いえ、夏樹様と有崎さんを近づけようとする理由を聞きたいと思いまして」
「私の前では、『夏樹様』って言わなくてもいいわよ」
「そもそも、香月先輩は、有崎さんのことを以前からご存じなんですか?」
「話をかみ合わせようという努力ぐらいはした方がいいと思わない?」
「そっくりそのままお返しします」
「あらら、嫌われちゃった…」
「嫌いじゃないです……苦手なだけですね」
「……」
「だから、なんですか?」
「いえ、『男子三日会わざれば…』という言葉を、ちょっとね」
「男子じゃないですから」
「さすがは、有崎君ってとこかしら…」
 ぎりぎり聞きとれる程度の呟きに、結花が敏感に反応する。
「どーいう意味ですかっ!?」
「さあ、どーいう意味なのかしら?」
 結花の前に湯飲みを置きながら、冴子は意地悪な微笑みを浮かべた。
「〜〜っっ」
「で、さっきの質問だけど……でっち上げも含めれば、20や30の理由は…」
「でっち上げは除いてくださいっ」
「あら、残念」
 大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出すちびっこを、冴子はにこにこと微笑んで眺めている。
「で、理由は?」
「そうねえ……とりあえず、ここを卒業すると夏樹には自由に恋愛する権利があるかどうかわからないからってのが1つ」
「……」
「ちなみに、有崎君と以前からの知り合いというわけではないわね……噂は多少耳にしていたけど」
「……」
 にこにこにこ。
「うまくいかないって事も…」
「それはそれで構わないわね」
「……?」
「別に、入谷さんを責めるわけじゃないけど……この2年間、夏樹はずっと失敗する事が許されなかった」
「……っ」
 冴子の視線から逃れるように、結花が顔を背けた。
「まあ、元々……夏樹は失敗の経験が極端に少ない生活をおくってきたわけだけど」
「……」
「そうね……真夜中、ふいにそれを思い出して、身悶えするような失敗の経験ってのは、若いうちしかできないから」
「……失敗した方がいいような言いぐさですね」
「今の夏樹は、がんじがらめだもの……それを壊してあげた方が良いと思ってはいけない?」
「……私のせいだって、言ってますか?」
「まさか」
 冴子が首を振る。
「どういう理由であれ、選んだのは夏樹だわ……そのまま流されたのも夏樹。だったら、全ての責任は夏樹にある」
「……冷たいんですね」
「冷たいかしら?」
 意外なことを言われたという表情で、冴子が問い返す。
「私が、それを言うなって、言ってますか?」
「人の価値観はそれぞれだもの……入谷さんが夏樹のことをちゃんと考えてることを疑ってはいないわよ」
「それは…」
「能力のある人間にはそれなりの責任が付随するってのが、私の考えなのよ……例えば、これから演劇部がどうなるかは、夏樹と入谷さんの2人だけの責任ね」
「……非民主的な意見ですね」
「ええ、そうね……正直、2人以外はカボチャみたいなモノだと私は思ってるし」
「カボチャ……ですか」
「まあ…」
 ふっと、冴子が哀しげに微笑み。
「能力がありながら、何の責任も果たしていない私が言う事じゃないけど…」
「……ひどく傲慢な言葉ですね」
「そうね……ごめんなさい、今日はもう1人にしてくれないかしら」
「あ、はい…」
 まだ聞きたいことはあったが、冴子の表情……というか、冴子の事情を知っているだけに結花は頷き。
「失礼しました…」
 と、保健室を出ていった後で。
「……このぐらいの演技は見抜いてもらわないと、張り合いがないんだけど」
 などと、つまらなさそうにせんべいをかじる冴子の姿があったとか。
 
「……で?」
「いや、今朝はちょうどタイミングが合ってな、有崎が登校する後ろ姿を見ることが出来たわけだが」
 てくてくと、この2人にしてはかなり遅いペースで……家とは逆の方向に向かって歩きつつ。
「声をかけてくれたら良かったのに」
「いや、そのつもりだったんだが…ちょっと面白そうだったからな」
「……と、いうと?」
「ふむ、有崎が気付いてないなら、一ノ瀬にくぎを差す必要もなかったか」
「……」
 尚斗はちょっと口を閉じ……『おお』と小さく呟いた。
「尾行けられてるな……朝からか?」
「さて、な……朝とは違う顔だが、ま、ちょっと確認してくるか」
 と、青山が尚斗を残して曲がり角で姿を消して……わずか数分後。
「……つまらん」
 尚斗の隣を歩きながら、財布の中の身分証明書やら名刺を確認しつつ、興味を無くした表情の青山が呟いていたりする。
「……財布は返してやれよ、青山」
「何の断りもなく、人のプライバシーを探る仕事だ……失敗の代償ぐらいは払うべきだと思うが」
 もちろん、財布の持ち主はそれをすられたことに気付くことなく、2人の後をさりげなくついてきていたりするわけで。
「つーか、まっとうな人間に尾行られる覚えはないんだが」
「聞いてきてやろうか?」
 などと、何でもないように青山。
 もちろん、この『聞いてきてやろうか?』の意味は、あまりまっとうな手段でないことは言うまでもない。
「と、いうか……この名刺とか、免許証、道にばらまきながら歩いたら、リアクションが楽しそうだな」
「ふむ、それは確かに面白そうだ」
「え、本気か?」
 などと尚斗が聞き返すよりも早く、青山が名刺やら、カードやらをぽろぽろとばらまき始めて。
「おいおいおい」
「後は小銭と…」
 ちゃりちゃりちゃり。
「そ、そこまで」
「まあ、風で飛ばされるから、札は勘弁してやろう…」
 と、財布をぽんと投げ捨てて……もちろん、2人がその場からダッシュで姿を消した後、それらを不思議そうに拾い集める男の姿があったとか。
 
「久しぶりに寄っていくか?」
 有崎家の前。
「いや、最近は割と忙しくてな」
 と、青山が首を振った。
「……やっぱ、男子校の工事とか、関係あるのか?」
「まあ、あることはあるんだが……」
 と、言葉を濁しつつ、青山が尚斗をちらりと見た。
「有崎は、男子校が無くなったらどうする?」
「は?」
「いや、たとえばの話……でもないか。誰かさんのせいで、ずいぶんと生徒数が減って、経営が苦しいようだし」
「青山先生、その話はどうか…」
 尚斗が頭を下げた。
「その事に関して、藤本先生に何か言われたか?」
「ん、ああ……あの馬鹿連中のバックとかも含めて知ってた様だったな」
「……」
「……青山?」
「いや、藤本先生は……何故、何年も有崎の前に姿を現さなかったのかな、などと。会いたくて仕方なかったという素振りが演技だとしても、反対に不自然だろう」
「犯罪予備軍の人間に理屈もへったくれもないと思うが」
 青山が少しため息をついて。
「有崎……本気でそう思ってるか?」
「いや、まあ、なんというか……正直、あの人には、あんまり関わりたくないってのが本音なんだが」
 尚斗に向かって何かを言いかけ……青山はそのまま口を閉じた。
「……?」
「気にするな」
「余計に気になるぞ」
「まあ、いつも通りお節介でもやってろ……こういうのは不向きだからな、有崎は」
「いや、しかし…」
「勝手にキレて暴走でもされたら、後始末が大変というか……倉庫1つぶっ飛ばされたときは…」
「青山先生、その話はどうか…」
 尚斗は再び頭を下げる。
「気にするな」
 青山に向かって深々と頭を下げつつ。
「わかりました、気にしません」
 
 家の前で車が止まった音を聞いて、尚斗は手を拭きながら玄関へと歩いていく。
「はっはっはっ、父がいなくて寂しかったか、マイサン」
「洗濯物は?」
「……おかえりなさい、ぐらい言っても罰は当たらないと思うぞ、息子よ」
「お帰り、洗濯物早く出せ」
「つまらんなあ、息子は……?」
 何かに気付いたように、尚斗の父がすん、と鼻をならした。
「……?」
「ふん?ふんふんふん?」
 くんくんくんと犬のようにあたりを嗅ぎまわり……尚斗の隣をすり抜けるようにして、奥の仏間へ。
「親父…?」
 チーン。
「母さんや…親のいない間に女の子を家に引っ張り込むまで息子が成長したよ、めでたいなあ」
「はあ?」
「おしとやかで、義理の父親をたてる心優しい娘さんだといいなあ…」
「いや、ちょっと待て親父」
「一日だけならまだしも、次の日も家に引っ張り込んで……いやいやいや、若いって素晴らしいなあ」
「ちょっと待て、親父っ」
 尚斗にぐいっと首根っこをつかまれながら、父親はアメリカのホームドラマに似合いそうな爽やかな微笑みを浮かべてぐっと親指をつき立ててみせた。
「心配するな息子よ…不純異性交遊、全然オッケー。そのぐらいでガタガタ文句を言う、父親ではないぞ」
 ごん。
「……母さん、息子が、息子が父親に暴力を…家庭崩壊だよ、積み木崩しだよ…ああ、母さんのお腹の中にいたときはこんな子じゃなかったのに」
「母さんがいなくなって、本当の暴力ってやつを忘れたみたいだな」
 固く握りしめた拳を、父親の目の前に掲げながら尚斗。
「冗談にきまってるじゃないか、息子よ……母さんに比べたら、そよ風に吹かれたようなものさ。親子のたわいもないスキンシップじゃないか」
 キラキラと澄んだ瞳で父親。
「うむ、わかればよし……っていうか、一体何を根拠にそんなことを言い出す?」
「息子よ、父を舐めるな」
「……?」
「匂いで分かる……いや、ホントだぞ」
「……」
「こ、この前の日曜日は、別の女の子がやってきただろう?父と息子、男2人の家の匂いと女の子の匂いは全然別物に決まっているだろう……お前とは経験値が違うっ」
「……この家、隠しカメラでも…」
「……母さん、息子が、息子がワシを信じてくれないよう…」
「つーか、匂いでわかるなら、不純異性交遊とか言わないだろ」
「……息子よ、きっかけがつかめないのか?女なんてのはじっと見つめながら指先でちょっと顎を持ち上げてやれば自然に目をつぶってくれる生き物…」
 がん。
「……嘘じゃないのに…」
「親父のアドバイスを信じて、世羽子に何回殴られた事やら…」
「あの娘は、母さんと同じ種類の生き物であって、女じゃ…」
 すと。
 自分の首筋をかすめた何かが背後の壁に刺さったのを感じて、父親がきりりと表情を引き締める。
「なんか、言ったか、親父?」
「いや、何か聞こえたのか、息子よ?」
「で、飯は?風呂は沸いてるぞ」
「うむ、先に風呂だな……と、忘れるところだった」
 と、父親がポケットから小指の先ほどの容器を取り出した。
「……?」
「土産だ……北海道の雪…が、入っていた」
 北海道の雪とやらは当然溶けて、ただの水となっており。
「そうか、ありがとな、親父」
 と、尚斗は素直に受け取った。
「……」
「……」
「母さん、この息子は、この息子はダメだよ…父親の気持ちをこれぽっちも理解してくれないよ…寂しいよ、ワシはひとりぼっちだよ…」
「いや、溶けたとしても、土産は土産だろ?」
「そんな中途半端な優しさで、女が口説けると思ったら大間違いだからなっ!」
「だから、なんでそんな話になるんだっ!?」
 
「いいなあ、やっぱり家はいいなあ…」
 風呂から上がり、身体からほこほこと湯気をたてながら、尚斗の作ったご飯を食べながらちびちびとビールをのむ父親。
「で、明日は?」
「うむ、朝一番で出社して…帰りは深夜だな」
「……親父」
「仕事だ」
「……」
「だがもしも、息子の彼女が『おかえりなさい、おじさま』なんて玄関で出迎えくれるというなら、速攻で帰って…」
「……」
「軽い冗談だ」
「うむ、そうか……つーか、俺の彼女とかそういうの期待するぐらいなら、再婚とか考えた方が早いだろ」
「はっはっはっ」
「……?」
「息子よ、母さんを甘く見るな……死んでからもワシを見張ってるというか、冗談抜きで見張られてるような気がして仕方がない」
「……骨の髄まで恐怖で縛られてるな」
「……母さんなら、そのぐらいやれると思わないか?」
「まあ、やれそうな気もするが……」
「だろう?」
「でも、親父が小遣いとかパーッと使ってるのって、綺麗なおねーさんがいる店で、酒とか飲んでるわけだろ?」
「息子よ、アレは浮気とかじゃなく、こう、男のロマンというか…わからないか?」
 かたん。
 尚斗と父親は、なんとなく顔を見合わせ……ゆっくりと、奥の仏間へ足を運んだ。
「か、母さんがっ、母さんが怒っておられるっ!」
「……むう」
 倒れた母親の位牌を起こしつつ、尚斗はうなるしか出来なかった。
 
 
 
 
 タイトルに使いましたが、高任はまともに読んでないです。(笑)
 まあ、『父帰る』の時代から『母帰る』の時代になり……今となっては、帰ってくるのが、息子だったり、母だったり、父だったり。というか、帰るべき家庭が崩壊している時代とすれば、『帰る』というのは、幸せな言葉なのかも。
 知人に言われたのでちょっと補足しておきますが、前半(最初の一週間ぐらい)は1周目で書かなかった裏の出来事を書いてる部分が多いですが、途中からは2周目の進行にあわせたイベントを書いてますので、1周目で書かなかった出来事が起こっているってわけじゃないです。
 温子と聡美のやりとりとか……1周目では、気を失った尚斗が世羽子に叩かれるシーンで、2人の関係を推測してるわけですので、2人のやりとりは2周目に書いたとおりではありません。
 ついでに言うと、2周目では、尚斗は綺羅との出会いの記憶(笑)が残ってます……故に、1周目のテストの解答の謎かけのイベントは発生しません。

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