1月最後の日曜日である27日の午後2時過ぎ。
例の女子校の最寄り駅から3つ離れた駅のホームで夏樹と別れ……尚斗は、1分ほど考え、そのまま改札口をでた。
好天で風は弱く……道行く人はみなコート等の防寒具に身を包んでいるとはいえ、あまり冬を感じさせない人出である。
もちろん、夏だろうが冬だろうが、この街はいつも人で賑わってはいるのだが。
特に目的があったわけではなく、そのまま帰っても中途半端な時間になるだけ……と、尚斗は繁華街をブラブラすることにしたわけで。
ちなみに駅そのものは女子校の南の方角にある。
駅の西口からの正面と、線路に沿った左手側(南に向かっての方角)が、ショッピング通りと呼ばれる道路で、待ち合わせによく使われる忠猫にゃんぱち像は、西口正面の通りを少し行った場所にある。
で、明るく開かれた印象のある西側とは対照的に、東側は駅前から外れるとちょいと不健全な雰囲気が漂いだす。
雑多な建物というか、いわゆる歓楽街のイメージで……それとは違う意味で怪しい店も多く、歓楽街とは無関係の未成年連中の間でも、東と西どちらを好むかは人それぞれで、西側が表、東側が裏……と地元の人間は呼ぶことが多い。
なお、大きく広がった西に比べて東の区域はそれほど広くない……駅から北に向かっての方角に街が発達していないことも含めて、青山家が、直接および間接的に所持している土地がその方角への発達を妨げているという見解が一般的である。
「さて……どうするかな」
『表通りをブラブラする』
「ま、長居するつもりもないしな」
買い物をするでもなく、適当にブラブラして適当に帰る……裏通りの、多少マニアックな店に顔を出して、何らかのトラブルに巻き込まれて気がつくと真っ暗だった……みたいな事態はさすがに避けたい気分で。
駅前の時計に目をやり、尚斗はゆっくりと歩き出し……足を止めた。
噴水広場の一角で、ギターを抱えた男が1人……時折人が足を止めるが、それ以上のことにはならず、そのまま立ち去っていく。
尚斗はもう一度時計に目をやった。
通行の邪魔だとかいろんな理由を付けて、大体正午過ぎと夕方の4時頃に、警官がどこかよそへ行け……と注意しに来る事を知っているのだろう。
もちろん、追い払われないと言うことと通行人が聞いてくれるかどうかは別の話だ。
聞いてもらうことだけを目的とするなら、昼間ならショッピング通りの裏手に位置する公園などの方がよっぽど好条件……もちろん、10時、11時の夜間になると公園なんかより、駅前であるここの方がよっぽど良いのだが。
ただ、悪い条件の中で通行人の足を止め、なおかつ聞いてもらえるかどうか……という腕試しの意味なら話は違ってくるが、その男はそういうレベルでもなかった。
「まあ、世羽子の場合は、演奏する前から人が集まってきたからな…」
私服の世羽子はとても中学生には見えず……まあ、外見的には4年前と今と、ほぼ変化がないと言って差し支えない。
その世羽子の側にいたのが……当時、外見的には、子供子供していた尚斗である。
世羽子の容姿に加え、組み合わせの不自然さ……は通行人の目を引く大きな材料になっていたはずだった。
まあ、イチャモンをつけてきた連中ともめて、警官に追われたりした過去は愛嬌というか何というか。
駅前の噴水広場を離れ、店が立ち並んだショッピング通りを歩いていく尚斗。
テナントを詰め込んだビルに人が吸い込まれ、吐き出され、ファーストフードや、映画館……人の流れは複雑で、周囲ではぶつかったりする人間が後を絶たない。
が、尚斗はショーウインドウをのぞき込んだりしながらもスムーズに足を進め……忠猫、にゃんぱち像まで辿り着いた。
『あなたの幸せ…』
聞こえてきた鈴のような声にちょいとため息をつき、尚斗はそちらに目を向けた。
『……って、なんでしょう?』
『い、いや、何でしょうと言われても…』
困ったような安寿の前で、実直そうな青年がこれまた困ったような表情を浮かべて。
『えっと、宗教も、アンケートも興味ないから…』
と、これ以上関わるとまずいと判断したのか、そのままそそくさと立ち去っていく。
「ふう…」
青年の背中を見送りながら、安寿がため息をつく。
「……安寿」
特に驚くこともなく振り返り、安寿はにっこりと笑った。
「こんにちは有崎さん〜♪」
「よお、良く会うな」
「そうでしょうか〜」
と、安寿はちょっと表情を曇らせた。
「出番が少ないと、好感度をチェックするだけの存在になってしまいそうです〜」
「出番?」
「……」
「……」
安寿がぱちぱちっと瞬きして、不思議そうに呟く。
「私、今何を言ったんでしょうか〜?」
「いや、それを俺に聞かれても…」
尚斗はちょっと口を閉じ……あらためて口を開いた。
「で、今日も朝からここで…か?」
「いえ〜今日は午後からです〜午前中は別の用事がありましたから〜♪」
「ほう、誰かを幸せにするプロジェクトが発動でも…」
「天使長様に怒られてました〜」
しょぼぼんと、安寿。
「むう…」
「毎日毎日、飽きたりしないんでしょうか〜私はもう、飽き飽きなんですけど〜」
「そういうこと口走るから、説教が続くのではないかと」
「嘘は良くありません〜♪」
「本音だだ漏らしってのも問題あると思うけど」
「それでも、嘘は良くありません〜♪」
安寿はじっと尚斗の目を見つめて。
「違いますか〜?」
「ん、そうだな……でも俺は、ついていい嘘もあると思う」
「それは、そうですねえ〜♪」
にっこり笑って、安寿がぱちんと手を打った。
「……?」
「先週の、お返しです〜♪」
と、安寿が取り出したのは缶コーヒー。
「……」
「どうしましたか〜?」
「いや、お返しという言葉の使い方はともかくとして、今の『ぱちん』がこの缶コーヒーとどうつながっているのかちょっと疑問が」
「気にしないで飲んでください〜♪」
「ものすごく気になる言い方をしないでくれ」
「……まあまあ」
「いや、まあまあじゃなくて…」
「有崎さんに迷惑はかけません〜♪」
「かけてもいいから説明しろっ!」
「実は〜有崎さんに出会うのが何となくわかってましたから、前もって買っておいたんです〜♪」
にこっと笑って、安寿があらためて缶コーヒーを差し出した。
「なるほど、そういう事なら……」
と、尚斗は冷たいコーヒーを受け取って。
「…いつ買った?」
「1時間程前でしょうか〜」
「えーと…」
「……?」
「ちょっと待ってろ、すぐ戻るから」
「温かいですねえ〜」
ほわんとした笑みを浮かべて安寿。
「それは良かった」
「そうですよねえ〜寒いから、1時間経てば、ホットじゃなくなりますよねえ〜」
「別に俺は平気だけど、ここで立ちっぱなしの安寿にはそっちの方がいいだろ……つーか、手に持った時点で気づけ」
尚斗は苦笑しつつ、安寿の買った冷めたコーヒーを口に含む。
安寿が飲んでいるのは、尚斗があらためて買ってきた缶コーヒーだ。
「今度は、胸元にでも入れて温めておきます〜」
「火傷するぞ、多分」
「冷えたらですよ〜♪」
と、安寿が少し恥ずかしそうに呟く……自分の発言に照れてしまったのか。
「ところで安寿」
「何でしょう〜?」
「先週といい、今日といい……何故この街に?」
安寿はちょっと真面目な表情をして、道行く人々を眺めた。
「ここは、満たされない人が多いですから〜」
なんとなく、安寿の視線を追って、尚斗も通行人に視線を向ける。
「まあ、そんな気もしないでもないが……あのカップルは幸せそうだぞ?」
尚斗の言うカップルにチラリと視線を向けて。
「……そうでしょうか?」
「いや、ここは一応頷いておけよ、てん……安寿として」
「……幸せって、何なんでしょうか…?」
「なんか色々と行き詰まっているというか、悩んでるっぽいな」
「元々よくわかっていませんでしたが、ここ数日でさらにわからなくなりました…」
通行人に目を向けたまま、どこか遠い眼差しの安寿。
「……ひょっとして、俺のせいか?」
尚斗の問いに、安寿は何も答えない。
「安寿?」
「流れる雲のように、形を変えながら…で、いいんでしょうか?」
安寿の呟きの真意を測りかね、尚斗は首を傾げた。
「受け取る人によって色々だけならともかく、時間の経過と共に、その人の幸せの形が変わっていくとしたら……それは、だれも幸せにはなれないと言うことではないでしょうか?」
「むう…」
「何かに満たされた瞬間、別の満たされない想いに囚われるとしたら……幸せは、ただの幻想なのかも…」
「いや、待て待て待て」
テンションのデフレスパイラルに陥っている安寿を無理矢理にでも引き戻すべく、尚斗が強引に割り込んだ。
「……」
「第一回、幸せについて考える会議を始めます」
「……」
「というか、まずは前提として幸せは存在するかしないかが今回の議題です」
「……」
「どれだけ短い時間であろうと、それが感じられるなら、幸せは幻想ではなく実際に存在するモノとかんがえますがどうでしょうか?」
「ぱちぱちぱち」
「ぱちぱちは口で言わない……で、どうでしょうか?」
「異議なしです〜♪」
「はい、では幸せは存在すると言うことで、第一回会議を終了します」
「もう終わりですか〜?」
ちょっと不満そうに安寿。
「ずっと続けて悩んでると、わけわからない答えに辿り着いたりますので。とりあえず、幸せは存在する……ここから一歩一歩議論を深めていきたいというのが、この会議の目的ということで」
「では、ただいまより第二回〜」
「早いなっ」
「善は急げです〜♪」
「いや、急がば回れという…」
安寿と尚斗の2人は、ほぼ同時にそちらに視線を向けた。
人混みの中に埋没した……後一押しで、泣いて自分の存在を主張するという状態の子供の前に辿り着いたのは、その数秒後である。
「こんにちわ〜♪」
と、安寿が男の子の額に手をあてて。
「お母さんとはぐれたみたいです〜」
と、尚斗に告げるものだから。
「なんで、わかる…の?」
と、男の子はきょとんとした表情を浮かべた。
「プロですから〜♪」
にっこりと微笑む安寿に、男の子は安心したように笑い……わけもわからず、おそらくは本能的に小さく頷いた。
「で、プロの安寿さん。母親が、どこにいるかわかるのか?」
「プロにも限界はあります〜一度接触した人なら、気配でなんとなく分かりますが〜」
「なるほど…」
と、尚斗がきょろきょろと辺りを見回し……安寿に向かって手を差し出した。
「その子の母親の外見的記憶とか、やりとりできない?」
「個人情報は保護されるべきです〜」
「え、冗談だったんだが、出来るのか?」
だったら、四の五の言わずによこせ……と、いう感じに手を動かす尚斗に、安寿がしょぼんとうなだれた。
「すみません、無理です〜天使同士なら、ほんの少しなら可能ですけど」
「てんし?」
「いえいえ、なんでもないですよ〜♪」
男の子に向かってぶんぶんと手と首を振る安寿に、尚斗がぽつりと呟いた。
「また、怒られそうだな」
「不幸な事故です〜♪」
まだ会ったこともない天使長に、尚斗は少しだけ同情し。
「俺の勘だと、この近くにはいないな……まだ、はぐれたことに気がついてないのかも知れないけど」
ぱたぱたぱた。
「……ついてないですねえ〜」
「慌てた人間の気配ぐらい、普通はわかるだろ?」
「そうでしょうか〜?」
と、本題を忘れかけたと思える2人の手を、男の子がくいっと引っ張った。
「あそんでないで、お母さん、さがして」
ある意味、図太い神経をしているとも思える男の子の発言に苦笑するでもなく。
「ふむ……迷子になったとき、人に見せろとか言われたモノはないか?」
「ない」
「家の住所とか、電話番号は、わかるか?」
男の子は黙って首を振った。
「ふむ、探すしかないな…」
「とはいえ、この人混みでは〜」
「上から探すか?」
ぱたぱたぱた。
「ついてないぞ」
「でも、上から探すって〜」
「いや、だから…こいつを、ぽーんと上に放り投げて」
「却下です…」
ため息混じりに安寿が呟く。
「つーか、周囲の注目を集めた上に、母親が気付きやすいというメリットが…」
「昔、それで秋谷さんに怒られませんでしたか〜?」
「……個人情報は保護されるべきだったんじゃないのか?」
「どこにいるんですかね〜♪」
と、尚斗の視線から逃れるように周囲を見渡す安寿……だが、いかんせん目線が低い。
「じゃあ、オーソドックスに探すか…」
と、尚斗は男の子を抱え上げて肩車。
「で、お母さんとはぐれるまではどこにいた?」
「でぱーと」
「むう」
それが何故、この路上に……という尚斗の疑問に気付いたのか、それとも子供らしい無意識なのか。
「トイレをさがして、もどろうとしたらわからなくなった」
「じゃあ、デパートに…」
「安寿、この駅前に、いわゆるデパートはない」
「……と、言いますと〜?」
「多分、ショッピングビルのどれかだろうな。きちんと説明するのが面倒だったんだろ……というか、デパートでお母さんは何を買ってた」
「ばーげん」
「バーゲンは商品じゃないです〜」
と、安寿が律儀にツッコミをいれる。
「ま、多分服だろ……つーか、車で来たのか、それとも電車で来たのか?」
「でんしゃ」
「ふむ……駅から降りて、どのぐらい歩いたか、覚えてるか?」
「えきからおりてすぐだったよ。トイレをさがす方が、遠かった」
「ふーん……ってことは」
「わかりますか〜?」
「大体な…地元だし、迷子のパターンもある程度決まってる」
「プロですねえ〜♪」
などと、尚斗達は駅前の噴水広場に向かって歩き出す。
落ちついているのは何よりだが、尚斗に肩車されている子供は今ひとつ危機感にかけていて……周囲を見渡して母親をさがそうという素振りもなく、全てを2人に委ねきったような感じでいる。
「ところで、名前はなんていうんだ?」
「もりしたやすおくんです〜」
「おねえちゃん、なんで」
「天使ですか…いえ、何でもないです〜」
安寿が再び手と首を振り、尚斗が小さくため息をついた。
「俺が言うのも何だが、安寿が怒られるのは仕方がないような気がする」
「ええ〜なんでですかぁ〜?」
「いや、わからないならわからないで、なかなかのモノだと思うが……と、多分、あの建物だと思うんだが、見覚えはあるか」
と、尚斗が指さした建物を見て男の子が首をひねる。
「ふむ、子供は建物の外見なんか気にしないからな…」
「あ」
「どうした、安寿?」
「いえ、今その子のお母さんらしき〜ああ〜通行人が邪魔で見えません〜」
「それなら…」
と、男の子の身体を抱えて発射準備をする尚斗を安寿が制し。
「それにはおよびません〜♪」
胸の前で手を組み、安寿が目を閉じる。
「……?」
「〜♪」
安寿が口を開き、ただ1フレーズだけで周囲の喧噪がやみ……人の動きが止まった。
この世のモノならぬ歌声に、全てを忘れたように。
歌い続けながら、安寿が尚斗に目で語りかける……見れば、その場にいる全ての人間が心を奪われているのではなく、ごくわずかな人間が、安寿の歌声そのものが聞こえていないかのようにして歩いていて。
「あ、お母さん」
「あの人か?」
「うん」
尚斗がそれを確認したのを見て、安寿が口を閉じる……と、通行人が我を取り戻したのか、めいめいに動き出す。
「後はお任せしました、有崎さん〜♪」
「……大丈夫か、安寿?」
「何が、ですか〜?」
噴水広場の、噴水の縁に腰掛けて。
「いや……あの歌、ものすごい疲れたりするんじゃないかと」
「まあ、少し…ですね〜」
尚斗が子供の母親を追い、くどいぐらいに礼を言われ……そこに戻ってくるまで、安寿は同じ場所にずっと突っ立っていた。
「まあ、安寿がそう言うなら…」
「大丈夫ですよ〜♪」
「しかし、あれだな……天使の歌声という形容は、実際に天使の歌を聞いた誰かが作った言葉のような気がする」
「そうかも知れませんね〜天使はほぼ例外なく歌や音楽が好きですから、人を惑わす歌声とかの昔話は、大抵は天使の事だと思いますし〜」
「なる……なるほどな、あんまり上手な歌は、人間にとってはよろしくない事もあるか」
「そうですね〜一度聞いた歌声を求めて、家族を捨てたり、命を縮めてしまったり〜人を不幸にする歌声…と、妖怪のように形を変えて伝承されたんでしょうね〜」
「……」
「大丈夫です〜私の歌は、そこまでのレベルではありませんから〜♪」
「あ、いや、そういう意味じゃなくてな」
尚斗はちょっと頭をかきつつ。
「歌うのが好きなのに、歌う事で人に悪影響を与えたりするってのは…天使って、ちょっと気の毒だなと思って」
「……優しい人ですね、有崎さんは」
そう呟いて、安寿は……何とも言えない微笑みを浮かべて、じっと尚斗を見つめる……がそれもわずか数秒。
「あ」
安寿が小さく口を開け……困ったように俯いた。
「安寿?」
「また、お説教です〜」
「いや、それは違うだろ?だって、あれは迷子の…」
「他のやり方があった…ですし」
「安寿、ちょっと天使長とやらを俺の前に連れてこい」
「無茶言わないでください〜♪」
と言いつつ、安寿が微笑んだ。
「いや、しかしな……?」
救急車のサイレンが、風に乗って尚斗の耳に届いてきた。
「……事故、でしょうか?」
「事故なら、ここから見える程度には騒ぎになるはずだけどな……病人かな?」
ぴーぽー、ぴーぽー……
尚斗や青山と中学時代の同級生だった少女3人を乗せて、救急車が遠ざかっていく。
「……何それ?」
どこか呆然とした紗智の呟きに、紗智の直接の友人……同じ空手道場に通っていた少女が、肩をすくめながら言った。
「ん?心的障害とか言ってたじゃない…よーするに、紗智の話題が、まずかったって事じゃないの?」
「……ってことは」
紗智は、のろのろとした動作で振り返り……ぽつりと呟いた。
「私のせい?」
「さあ……そんなのがあるなら、最初から言っておけって気もするけど」
少女は腕組みし……紗智の顔をしばらく見つめてから口を開いた。
「ところでさあ、紗智の聞いてた有崎って…アンタの学校に間借りしてる男子校の有崎のこと?」
「……は?」
少し冷静さを取り戻したようだが、紗智の反応はまだ鈍い。
「えーと、2年の青山、有崎の2人組の有崎?」
「多分……っていうか、何か知ってるなら最初から」
まあ、落ち着いて……という感じに、少女は紗智の肩を押さえ。
「紗智んとこと違って、ウチの学校って基本的にバカ校でしょ……だから、まあ、男子とかもやばい生徒が結構いるのよ」
「やばいって意味なら、アンタんとこより1年前までの男子校の方がよっぽど…」
「いや、だから…」
話は最後まで聞いてよね……と、少女が顔の前で手を振った。
「その、男子校の……いわゆる、卒業後の就職先が既に決定済み…みたいなやばい連中を、全部まとめて……これは多分、大げさな噂だと思うんだけど、その2人組が就職先も含めて全部ぶっつぶしたって話してるのを聞いたことあるけど」
「……」
「まあ、うわさ話だけどね……ただ、青山と有崎の2人に関しては、こっちが何人いても、仮に拳銃を持ってたとしても目を合わさない方が賢明だって、ウチの学校で肩で風きって歩いてる男子連中が話してた」
「……」
「……紗智?」
「あ、ううん…ごめん」
少女に謝りつつ……男子校の生徒の、尚斗や青山に対する反応を、紗智はあらためて思い返していて。
「……え、あれは…恐怖…なの?」
と、無意識の呟きをうち消すように紗智は首を振った。
そんなはずはない……もしそうなら、例の綺羅の騒動に男子生徒が参加するはずがないではないか。
考え込む紗智の素振りに気を遣ったのか、少女が明るく自分の言葉をうち消した。
「あ、ただのうわさ話だし……それに、さっきの3人の内の1人はあんまり覚えてないような感じだったし、後の2人は懐かしそうに話してたじゃない。そんな噂になるような人間なら、あの反応はないよね」
「うん……そう、よね」
紗智の返事は曖昧だ。
同意しかねるという意味ではなく、1人の『有崎君…って、どんな人だったっけ?』の言葉に対しての残りの2人の反応があらためて気にかかったからである。
「っていうか、その……秋谷さんって何者?」
「私の同級生」
「……で、あの反応?」
「あの反応だけ見せられたら、恐怖の大王とかいっても信じちゃう?」
「一人は、わりと冷静だったけど……」
少女は腕組みしたまま首をひねり……救急車の走り去った方角に視線を投げた。
「何かあったのか……とも、今更聞けないしね」
「私が知る限りでは、成績は学年トップ、運動神経も良くて……まあ、ちょっと無口だけど、誰か困ってる人がいたらさっと助ける……みたいな美人」
「あ、私はそういうタイプはパス」
少女は大げさに顔をしかめて、顔の前で腕をクロスさせた。
「いや、全然イヤミとかじゃないのよ……まあ、その人と、尚斗っていうか、有崎が中学の頃付き合ってたような感じで…それで聞いてみようかと思ったんだけど」
「え、なに?元カノと急接近ってわけ?そりゃあ、紗智も気になるよね」
「ちょ、別に私が尚斗を調べてるのは、そういう理由じゃ…」
「わかってる、わかってるから」
「わかってない、ぜんぜんわかってない、その顔はっ」
「いーんじゃない?紗智の人を見る目は、わりと信用してるし」
「だからっ、違うって言ってるでしょっ」
と、わりと本気で紗智が右手を突き出す……が、少女は冷静にそれを左手で受け。
「鈍ってるね」
「え?」
「先生も、道場に顔見せろって言ってたわよ」
「別に、空手の道を極めようと思って通い始めたわけじゃないし」
「ま、私の目から見てももったいない…とは思うけどね」
少女は少し寂しそうな笑みを浮かべ、紗智の額を人差し指でつついた。
「10年通って、全国大会でもいいとこまでいく人間を、たった1年ちょっとで追い抜いていったんだから、紗智は」
「追い抜いたって…五分五分だったでしょ?」
「経験の差で誤魔化しただけよ……ま、いまなら私の勝ちかな」
「別に悔しくない。前にも言ったけど、空手より恋愛の方がよっぽど重要」
「はいはい…私だってカレってのが欲しくないわけじゃないけどね」
苦笑しつつ、少女は肩をすくめ……西の空に視線を向けた。
「なんか中途半端になったけど……この後、って気分じゃないよね?」
「ごめん…わざわざ紹介してもらったのに、こんな事になって」
「別に、紗智のせいとは思ってないし、彼女たちとそんなに親しいってわけでもないから……じゃ、私は道場にでも行くわ」
と、背中を向けた友人に向かって軽く手を振り……紗智はため息をついた。
「結局……何もわからなかったって事よね」
空を見上げて。
さっきの3人にはもっと色々聞きたかったし、あの感じだと色々聞けた気はするが……ひょっとすると、午前中に会った2人と同じだったかも知れないのだ。
話を聞いても何もわからないというか、彼女たちの話と、今の尚斗の姿がつながらないと言うより……つながりはするが、彼女たちの反応と彼女たちが語る尚斗の人柄がつながらないのか。
『でも、有崎君のこと知ってる人に会うと何かホッとするね…』
『私も…なんか、みんな不自然なぐらい彼のこと忘れていくんだよね……だから、アレは夢だったんじゃないかって、心配になってくるし…』
別の知人を介して、午前中に会った尚斗の小学校時代の同級生……会話の途中で、2人が言った言葉である。
『有崎君…って、どんな人だったっけ?』
『え、ちょっと何言ってるの?有崎君よ、ほら、あの有崎君』
『……?』
『……覚えて、ないの?』
さっきの、3人組の言葉と反応。
世羽子の名にもっとも敏感に反応した少女は、『尚斗のことを忘れたなんて信じられない』という態度を示したし、一番冷静だった少女のそれは……それが初めてではなかったように思えて。
そもそも、世羽子のことを3人が3人とも鮮明に覚えていることだけは確かなのである……それと関わりがあった(と紗智が確信している)尚斗のことを、綺麗さっぱり忘れていると言うことが普通あり得るのだろうか。
人当たりは良く、弱きを助け、強きをくじく……勉強とか運動という要素が加わるとしても、それはみちろーの様に周囲に人が集まってしかるべきなのではないかと紗智は思う。
彼女たちも、多分尚斗に対して好意は持っていただろう……なのに、遠慮とかそういう意味ではなく距離を取っていた事は間違いない。
誰かのことを調べるのは初めてというわけではないが、大抵は……『誰それと、仲が良かったよね…』的な言葉が聞けるモノなのだが。
「……わっかんないなー」
などとぶつぶつと呟きながら、首を傾げる紗智。
ごく普通に考えれば、世羽子の名を耳にした瞬間に少女の1人が嘔吐を始め、1人は顔を青ざめ、もう一人がわりと冷静に……慣れているとは考えたくないが、救急車を呼び、症状のひどい1人を落ちつかせようと(以下略)……その後、少女がやってきた救急車で運ばれた(2人は付き添いでそのまま乗っていった)事の方が、よっぽど印象的なはずなのだが……紗智の興味はそっちの方には向かっていない。
もちろん、空手道場に通っていたせいで、怪我人には慣れているという一面もあったかも知れないが。
「……?」
「ああ、お帰りなさい、弥生」
「え、何か…あったの?」
弥生の目の前で……というか、初老の男性と青年の2人が、秋谷家の居間の窓ガラスを付け替えているのだ。
「ちょっと割っちゃったのよ」
弥生の視線が動き、庭の隅に転がっているテーブル……元はテーブルだったモノに目を向けたのに気付いたのか、世羽子が何でもないように呟く。
「ああ、ちょっと壊しちゃったの……修理のしようもなさそうだから、後できちんとまとめて、粗大ゴミの日に出すわ」
「……強盗でも、きたの?」
「強盗って言うか…」
瞬間、世羽子の口元が憎々しげに歪み……気を取り直したと言うより、冷静であることを自らに律したのだろう、いつもの表情に戻って淡々と呟いた。
「強盗よりよっぽどタチの悪い、知り合いが訪ねてきたのよ」
「知り合い…」
今まさに付け替え作業を終えようとする居間の窓ガラスと、破壊されたテーブルに視線を向け……それは一体どんな知り合いなのか、などと弥生はぼんやりと考えた。
「それより、弥生」
「え、なに?」
「何があったの?」
「え?」
何で…という感じに弥生の口元が動き、やがてそれは微笑みに変化して。
「ごめん、後で話す…」
「そう」
「……遅かったですね」
塀に背中を預けた体勢のまま、尚斗に向かって言った結花の口調は、疑問でも非難でもなく、ただ確認するような口調で。
「いや、夏樹さんと別れた後、街でちょっとぶらぶらと…というか」
「お弁当箱、返しに来ました」
と、尚斗にみなまで言わせることなく結花が大きな保温タイプの弁当箱を……まあ、結花が持っていると余計に大きく見えるのだが(笑)……を持ち上げて見せた。
「いつでもいいと、言っただろうが…」
「まあ、これを学校に持っていくのはちょっとアレでしたので……とすると、直接返しに来るしかないんですよ、実際」
何か問題ありますか、という表情と口調で結花。
「むう、ちびっこまで親父と同じようなことを…」
「お、男の人はまだいいかも知れませんけどっ、女の子が、こんな大きな弁当箱持ってるとやっぱり恥ずかしいですってば」
と、何故か結花がムキになって言い返す。
「いっぱい食べないと成長しな……まて」
「なんですか?」
タックル1秒前の体勢で、結花が顔を上げた。
「いつからここで待ってた?」
「……5分ほど前ですかね」
「ほう、高々5分で、お前の鼻の頭や耳はこんなに赤くなるのか?」
「歩いてきましたから…冬ですし」
「……とりあえずあがれ」
「はい」
頷いた結花は、尚斗があけた安っぽい門を抜け……玄関の前でピタリと足を止めた。
「どした?」
「……こうして、家の中にあがることに何の抵抗も覚えなくなってる自分がちょっとまずいような気がしたんですけどね」
「何か問題あるのか?」
と、不思議そうに聞いた尚斗の顔を、結花はただじっと見つめて。
「……お邪魔します」
そう呟いてから、靴を脱いだのだった。
約45分後。
「あのですね…」
「ん?」
「餌付けしようとか、思ってませんか?」
と、テーブルの上に並べられた夕食を前にして、結花は微妙に肩を震わせながら……口調だけは淡々と。
「……食べ物につられるタイプか?」
「つられませんっ!」
くわっと、角と牙が生えそうな口調と表情でちびっこ。
「なら、問題ねえじゃん……つーか、作っちまったもんは仕方ねえだろ、食っていけ」
「……こういうの、のれんに腕押しって言うんですかね」
「何をぶつぶつと……つーか、弁当箱以外にも用事あるんだろ?」
「そりゃ、まあ、そうですけど…」
「5分や10分ですむような話じゃないだろ……ついでに言えば、俺もちょっと聞きたいこともあるし」
「はあ」
「まあ、正直腹が減ってるんだよ俺は……で、ちびっこを前に、俺1人食うわけにもいくまい」
「……」
「昼飯食ってないんだよ……2時過ぎに缶コーヒー飲んだだけで」
まだどことなく疑わしげな表情を見せている結花に向かって、尚斗は断言するような口調で告げた。
「つーか、飯につきあえ。あきらめろ」
「わかりました。わかりましたよ、もう…」
などと口を尖らせながらも、自分がどんな表情をしているのかおそらくはわかっていない結花である。
「で、どうする…飯を食いながらか?それとも食ってからか?」
「食べてからでいいです」
「そっか、じゃあ、いただきます」
と、手を合わせた尚斗の姿に戸惑ったような表情を浮かべ、結花もまた慌てて同じように手をあわせて頭を下げた。
「い、いただきます…」
「おう、おかわりもあるからな」
「昨日も言いましたけど、あんまり食べないんですってば」
「そうか?例によって、ダイエットがどうのこうの…」
「違います……っていうか、秋谷先輩だって、そんなには食べなかったんじゃないですか?」
なんせ、あの体型ですし……と、口の中でもごもごと呟く結花だったが。
「え、世羽子はかなり食べるぞ……今は知らないけど、昔は俺より食ってたし」
「え?」
「ちなみに、俺の食う量は昔も今もそれほど変わってないからな」
「ごちそうさまでした…」
きちんと手を合わせ、結花が頭を下げ……かけて。
「……なんですか?」
自分を見つめる尚斗を見上げつつ。
「いや、それは腹八分目なのか…それとも、お腹いっぱいなのか?」
「別に、私が小食なんじゃなくて、女の子はみんなこんなもんですよ…男子と同じ大きさの弁当箱とか持ってる人の方が少ないはずですよ?」
「ふむ、言われてみれば……麻理絵の弁当箱とかちっちゃいな」
尚斗はちょっと首をひねり。
「基礎代謝量がそんなに違うってわけでもねえのに…」
「……というか、これってちゃんと私の食べる量に合わせて分量を加減してくれたように思えたんですけど」
「そりゃ、まあ…昨日のアレを目安にはしたが」
結花はちょっとため息をつき……微妙にそっぽを向きながら呟いた。
「美味しかったですよ」
「そっか、お世辞でも悪くない気分だ……ちょっと待て、俺もすぐすませるから」
と、尚斗は茶碗に残ったご飯とおかずをかき込み……結花の分の食器も抱えて、流しへと持っていった。
そして、そのままテーブルへと戻ってくる。
「片づけ…しないんですか?」
「ん、後でいい……2日連続で、夜遅くに帰らせるわけにもいかんだろ」
「そうですか…」
結花はちょっと俯き……鞄からそれを取り出して、尚斗に差し出した。
「……?」
「じょにーさんのレポートです……まあ、目を通してもらえますか?」
誰の……と、聞くほど鈍くもない尚斗だけに、それを黙って受け取り、10枚ほどのレポートを、ほぼ流し読みの感覚で。
「……ふむ」
「どうですか?」
「どうですかと言われてもな…」
尚斗はちょっと頭をかいて。
「なんつーか、これだけ読むと俺ってすげーいいやつみたいで、ちょっと背中のあたりがかゆいというか」
「……」
「いや、つっこめよ」
「え、つっこむところありましたか?」
しれっと結花。
「……」
「と、いうか……高校に入ってからですよね、じょにーさんとのつき合いは」
「ん、まあ…」
「で、そのレポートが、依頼からほぼ半日なんですよ……昨日、有崎さんに見せてもらったのも、そのぐらいだったんじゃないですか?」
「別に外堀から埋める必要ないから、ずばっと話せ」
「……藤本先生に、何か頼まれたんですか?」
「すまん、やっぱ、外堀と内堀を埋める方向でお願いします」
結花の話の展開についていけず、尚斗は頭を下げる。
「誰でも良かったんですけど……適当な男子生徒の名を挙げて、じょにーさんに調査を頼んだんですよ。有崎さんの時と同じレベルでって」
「ほう」
「3日、かかりました」
「……」
「まあ、直接問いつめても、他の仕事と並行してた……とか言い抜けられそうですけど」
と、結花が少し冷めたお茶を飲む。
「つまり何か、俺らが受け取ったレポートは、前もって作成されてた可能性が高いと?」
「……」
結花は黙ってお茶を飲み、どこか落ち着かない様子で、右に、左にと、視線を投げ……そのくせ、そこにあるモノを見ていないのは明らかで。
「トイレなら…」
「違いますっ!」
ぎっと、音を立てて結花が椅子から立ち上がる。
その勢いのままに、どこか顔を赤らめた状態でマシンガンのように尚斗に向かって言葉を投げつけ始めた。
「か、勘違いしないでください。別に、私がどう思ってるとかそんなんじゃなくて、じょにーさんなり、このレポートに手を加えた人が、私と有崎さんが接触することを望んでるって推測できるってだけの話ですからっ」
「……」
「……」
「ああ、なるほど」
「なにが、なるほどなんですかっ?」
「まあ、おちつけ」
「てい」
尚斗の手が頭を撫でるより早く、結花がそれを払いのける。
「頭撫でてる場合でも、撫でられてる場合でもないですっ」
「いや、ちびっこの推測は理解したが、今ここで、俺らに何が出来るよって話で……まあ、おちついて、すわって、お茶でも飲むぐらいのもんだろ」
「なっ、なんでそんなに落ち着いてるんですかっ!」
不条理だ、という視線と口調で結花。
「と、いうか、なんでちびっこがそんなに慌てているのかがよくわからんと言うか」
「なんで、わからないんですかっ!?」
「……えーと」
「ずるいですよ、有崎さんはっ!」
「てい」
びしっ。
「いたぁーい」
額を赤くした結花が涙目で尚斗を見つめる。
「うむ、多少落ち着いたな」
「お、落ち着いたって…」
「脳天チョップにしようかと思ったんだが……間違って頭撫でてしまいそうだったから、でこピンに変更した、許せ」
「……」
何かいいたそうな表情だったが、結花は何も言わずに頷いて椅子に腰を下ろした。
「つーか、どういう形であれ、俺はちびっこと知り合えて楽しいぞ」
びくっと、結花の肩が震え……俯いたまま、何も言わない。
「まあ、ちびっこも多少なりともそう思ってくれると幸いだがな……つーか、命が狙われてるとか、そんなんじゃないなら、深く考える必要はないと思うぞ」
「お、おトイレ借りますっ」
と、脱兎の如く台所からでていった結花の表情は、さて、どうだったのか。(笑)
「他に聞きたいことがあったような感じだったが…?」
「き、今日はもういいです」
「ふむ」
「……なんか、ご飯だけご馳走してもらったみたいで申し訳ないんですけどね」
「ご馳走って料理じゃなかっただろ」
「……そうですかね」
と、どこか間延びした結花の返事に気付かぬ尚斗でもなく……空いた間をごまかすために空を見上げて。
街の方に行けば、街灯やら何夜らで見える星は限られるが、このあたりは夜になればもうおとなしいモノで……氷のかけらに豆電球の明かりを反射させたような頼りない星の光が夜空一面に広がっていて。
「今日は、自転車じゃないんですね」
「んー、あれだと落ち着いて話もできんからな」
「はあ…」
と、どこか曖昧に結花が頷き。
「そういえば、なんか私に聞きたいことがあるって言ってましたね」
「ん、まあ、そうなんだが…」
「悪趣味な質問以外で、答えられることならいいですよ」
「んー…」
悪趣味な質問とは思わない……が。
何故、演劇部だったのか……何故、夏樹さんだったのか……聞きたいことではあったが、はたしてそれは今質問して良いモノなのか。
『結花ちゃんを、傷つけたりしないで』
夏樹の言葉を思い出しつつ、尚斗が呟く。
「あれは、くぎを差されたって事かな、やっぱり」
「は?」
「いや、こっちの話」
「感じ悪いですよ、そういうの」
といいつつも、結花の声は明るい。
「ところで、明日からテストですけど、大丈夫ですか?」
「ん、ちびっこからみれば大丈夫じゃないかもしれんが、テスト前だからって勉強したのは1回だけだしな」
「そう言われると、反対に気になりますよ?」
「小学校の3年ぐらいまで、『腕白でもいい、たくましく育って…』のガキだったんだよ、俺は」
「……というか、今もそんなイメージ与えてますけど」
「母さんと学校の先生との間で何があったか知らないけど、『今度のテストで満点とらないと、お前を殺す』と脅されてな」
「……コメントに困る話題ですね」
「まあ、人間死ぬ気になれば大抵のことは出来るな、うむ」
「否定はしませんけど……どういう人だったんですか、有崎さんのお母さんは?」
「んー?」
「あ、いえ、その…」
「あ、いやいや、そういうのじゃなくてな」
と、慌てる結花をなだめて。
「その質問、俺からすると巻き尺で地球の外周を測ってこいって言われるようなもんでな……何百年単位のレベルで付き合ってようやく、少し理解できる……ぐらいにぶっとんだ人だったかなあ」
「ぶ、ぶっとんだ人…ですか?」
「それ以外に言いようがない……俺の親父にしたって、遠い目をして『あの人は…』と呟くだけだと思うぞ」
「はあ…」
「俺のアルバム、子供の頃とか白目向いて真っ裸の写真とか並んでるからな、それだけでもふつーじゃないのはわかるだろ」
「は?」
「つーか、そんな写真を、世羽子に見せるんだぞ、にこにこ笑いながら……ちなみに、それを止めようとして、気がついたら夜中だったとか」
「すみません、私の中でどんどんろくでもない母親像が構築されていくんですけど」
申し訳なさそうな結花の言葉に、尚斗は首を振った。
「いや、いい母親だったよ……周囲の評価はともかく」
「そうですか…」
ぽつりと。
「……うらやましいですね」
結花の呟きは、吐く息のように夜気に紛れて消えて……2人はそのまま無言でしばらく歩き、街灯の下でふっと結花が足を止めて尚斗を振り返った。
「……変なこと聞いていいですか、有崎さん」
「なんだ?」
「秋谷先輩の、どこを好きになったんですか?」
「世羽子は世羽子だからな、全部としかいいようがないぞ」
尚斗の言葉に、結花は不満そうに口を尖らせた。
「……少しぐらい照れてくださいよ、わざわざ街灯の下で聞いたんですから」
「ちびっこが、携帯を俺に向けてなきゃな」
「いえ、貴重な表情が撮れるかなと思いまして」
「撮れるかなと思いまして、じゃねえよ」
「というか、そういう優等生な答えじゃなくて……顔が美人だったからとか、頭がいいからとか、強いて言えば、みたいな部分を望んでたわけなんですけどね」
「確かに美人だが、そういうと怒るからな、世羽子は」
「……?」
「顔の造形は単に両親の遺伝。私自身が得たモノじゃないことで、誉められても不愉快なだけとか何とか」
「……結構な数の人間を敵に回しそうな発言ですね」
「容姿に関して、ちびっこがそれを言う資格はないと思うが」
「……なっ、何言ってますかっ!?」
と、顔を赤らめる結花の頭をぽんぽんと軽く叩きながら。
「うむ、大きくなったら、間違いなく美人になるぞ、ちびっこは」
「小学生ならともかく、高校生には侮辱としか思えないんですけどね?」
肩を震わせながらも、そもそもこんな話題をふったのが自分という意識があるのか、結花はひたすらに耐えているようで。
「でもまあ、なんつーか…」
「なんですか?」
応じた結花の口調はやや尖り気味だったが、それを意にも介してないように尚斗。
「世羽子が美人で無かろうが、背が低かろうが……とにかく、どういう外見であったとしても、世羽子は世羽子だろうな、というところにとりあえず俺は惹かれたな」
「……わかるような気がします」
それは、そのまま有崎さんにも言えるんじゃないですか……という言葉の代わりに、結花はそう呟いた。
そして、歩き出し……街灯の光が遠くなったところで、ぽつりと、呟くように問いかける。
「別れる必要……無かったと思うんですけどね、私は」
「かもな……でも、別れちまったし、3年経った」
ちらりと、尚斗の顔を見る結花……表情が確認できないことに失望し、そして安堵する。
「あっさりしてますね…」
「別に、世羽子は死んでいなくなったわけじゃねえし……付き合ってようが、付き合っていまいが、世羽子は俺にとって大事な知り合いだからな」
「後悔……してます?」
「んー、正直、別れたことについてはそれほど後悔してないな」
「……」
「あの時、世羽子に対して何もしてやれなかった事を後悔はしてるけどな」
「……そうですか」
「……で、いつまでちびっこの攻撃は続くんだ?」
「べ、別にそういう意味で聞いてた訳じゃないですっ」
「そうか、次は俺の攻撃の番か…」
ぺきぺきと、尚斗が手の骨をならす。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ」
「冗談だ、冗談」
落ち着けよ、とばかりに結花の頭を軽く叩いて。
「興味半分で聞かれても、絶対答えねえよこんな事」
「……?」
「どーせ、今の会話ポケットの中にしのばせたモノで拾ってるんだろ?俺と世羽子を仲直りさせようとか考えてたんだろうが、気持ちだけもらっとくな」
「あ、う…」
「つーか、世羽子にどう話を持っていくつもりだったんだ……よっぽどうまく切り出さないと、睨みつけられて終わりだぞ多分」
「で、でも…有崎さんと、秋谷先輩って…」
「と、いうか……俺と夏樹さんがどうにかなることでも心配してるのか?」
場を和ませようと……あるいは怒らせてうやむやにしてしまおうと尚斗が叩いた軽口に対して、結花は言葉に詰まったように黙り込む。
「……おい?」
「そ、そんなことあるわけないじゃないですかっ」
それは、バネが弾けるようなという表現がぴったりで。
「お、おう…」
「大体、有崎さんが夏樹様に惹かれるのはともかく、女子生徒の憧れで…(以下略)…であるところの夏樹様が有崎さんを相手に…」
立て板に水を流すような、結花の台詞はまさに芝居がかっており。
「いや、もう夜だから、もうちっと声量を抑えてだな…」
「ええいっ、言い訳無用っ!」
「いや、だから…」
「そもそも…」
結局、尚斗は結花の身体を小脇に抱えて、その場から逃走することになった。
「ねえ、世羽子」
「なに?」
「今夜、世羽子の部屋で一緒に寝ていい?」
「別に構わないけど、布団は自分で運んでね」
「うん」
布団を抱えて、いそいそと(笑)世羽子の部屋までやってきた弥生は、楽しげに世羽子の隣にそれを並べて。
「〜♪」
そんな弥生を、世羽子はどこか心配そうに見つめ。
「弥生」
「ん?」
「その……誰かが、弥生に何かしたなら言いなさい。事と次第によっては、生まれてきたことを後悔するような目に遭わせて…」
「こ、怖いこと言わないでよ」
「半分は冗談よ」
じゃあ、半分は本気なのね……と、世羽子の知り合いという立場は、軽々しくトラブルに巻き込まれることを許されないことをあらためて意識しつつ。
「と、いうか……私、楽しそうでしょ?何を根拠に…」
「無理してるようにしか見えないわよ」
ため息と共に世羽子。
それでもまあ、誰かに直接的な危害を加えられたとか、そういう話ではないことに確信を抱いたのだろう。
「まあ、無理に聞き出そうとは思わないけど……きっかけがつかめないなら、何か適当に話でもする?」
と、少し砕けた口調に戻った。
「あ、うん……なんというか」
弥生の目が天井の片隅に向けられ……約10秒。
「……ところで世羽子、増量するとか言ってけど?」
「……」
世羽子の表情に微かな不快感がよぎったのに気づき、弥生は慌てて首を振った。
「あ、無理には聞かないけど」
「ごめんなさい、そうじゃないの……タチの悪い知り合いに、今日もそう聞かれたのを、ちょっと思いだしただけ」
「へ、へえ…」
と、弥生がどこか曖昧に頷く。
『タチの悪い知り合い』と言いながらも、増量のことを知っているのだからかなり親しい関係にあるのだろうけど……友人知人が極端に少ないはずの世羽子を知っているだけに、弥生としては該当する人物が誰なのか疑問に思ったからだ。
「ちなみに、今のところは3キロってとこね……60キロに届いたのは久しぶりだけど」
「え、意外と重……くもないわね。世羽子は身長あるし」
「体脂肪率は6%だけど」
「ごめん、聞きたくない」
「別に弥生が気にする必要はないわ……女性でそれは、ある意味異常なレベルだから」
「……」
「と、いうか…姿勢がいいからでしょうけど、弥生の身体は何の問題もないぐらい健康だし」
世羽子はほんの一瞬だけ弥生の胸元に目を向けて。
「うらやましいのはこっちよ…」
「え?」
「別に、なんでも」
かつての、尚斗の部屋での記憶を苦々しく思い出しながら、世羽子はそれを表情には出さずにため息に紛らわせた。
「……?」
あらためて世羽子と会話することで多少自分を取り戻したせいだろう……今さらながら、弥生はそれに気付いた。
つい、先日の……世羽子の両肩からやけに力が抜けていると感じたあの日の朝……もちろん、午後にはいつもの通りモリモリと力みが戻っていたわけだが。今日の、というか、今の世羽子はアレにはおよばないモノの、重い荷物を降ろしたときのようにどこか力が抜けている。
「……なに?」
「え、あ、いや……世羽子も、何かあったのかなって」
「……タチの悪い知り合いに、お節介をやかれたわ。少しばかり、気が楽になったのは確かね」
「……ふーん」
「弥生……私は、それほど気が長い方じゃないわよ」
本題を話せという圧力をかけたのではなく、その話題にはもう触れて欲しくない……という世羽子の口調に、弥生は曖昧に頷き。
「え、あ、うん…世羽子はさ……絶対この人には勝てないって思ったことある?」
「あるわよ、何度も」
「そうよね、だったら…話してもわかってもらえないかも知れないけど」
答えが『ない』と決めてかかって弥生が言葉を続けているのに気付き、世羽子はもう一度繰り返した。
「だからあるわよ、何度も」
「……え、あるのっ!?」
言葉の意味を正しく理解したのか、ゴムが弾けるように、弥生が顔を上げる。
「その、自分より背が低いとか、物理的にどうにもならないとか、そういう話じゃないのよ?」
やや失礼な弥生の発言には取り合わず。
「例えば、さっき言った『タチの悪い知り合い』に、私はほぼあらゆる面で決定的に劣るわね……正直、かなう部分がないと思えるぐらいに」
「……」
「それと、弥生が知らない人だけと……『私の尊敬する人』」
自分が知らないという事は、世羽子の言う『あの人』は、母親のことではないんだ……と、弥生は思った。
弥生は、世羽子の母親と病院で顔を合わせたことがある。世羽子はもちろん、弥生がそれを望んだわけではなかったが、聡美と弥生の2人に会ってみたい……と母親にいわれたらしく、申し訳なさそうに世羽子が切り出したそれを、断る理由は特になく。
この人が世羽子の母親なのかという思いと、ああ、この人が世羽子の母親なんだという、相反する想いを同時に抱いたが……物静かで、笑顔がびっくりするほど素敵な女性だった。
「あの人と……自分を較べようなんて考えそのものが、不遜だと思えたわ」
世羽子の表情に微かな哀しみがよぎったのを弥生の目はとらえたが、礼儀正しくそれに気付かなかったフリをした……が、それすらも気付かなかったのか、世羽子は少し遠い目をして呟いた。
「後は、細かい分野に限れば正直キリがないわよ……そもそも、弥生には絶対かなわないって思ってることもあるわけだし」
と、世羽子は一旦口を閉じ……苦笑を浮かべて言葉を続けた。
「まあ、ギターの腕で弥生には絶対に負けないとは思っているけど」
「そりゃ……世羽子は、うますぎるから」
思っていたほどの反発が見られなかったことで、世羽子としては弥生の感情の沈みの根が深いことを悟ったのだが……弥生はそれには気付かなかったのか。
「聡美も言ってたわよ……本当は、世羽子がギターの方がいいって」
「でも、聡美はずっとギターの練習を続けた……最初は、ひどいモノだったけど」
「どーせ、私はうまくならないわよ」
「……」
「なに?」
「いえ……弥生にそこまで思わせる歌なら、私も聞いてみたかったわね、と」
「な、なんでっ?」
今の会話のどこにそんなヒントが……と驚愕する弥生に、世羽子は何でもないように呟く。
「弥生にとって、自信があり、かつ大事なモノ……なら、選択肢は限られてくるもの」
弥生が大きく息をつき……笑った。
「うん……すごかった」
そう呟く弥生の顔に……ある種の恍惚と、微かな哀しみが浮かぶ。
「時間が止まったっていうか……周囲の人間の、全意識がその歌に引き寄せられるのがわかったわ」
「ふ、ん……そこまでのレベルなら、多少なりとも噂になっていいはずなのに」
と、世羽子は少し首を傾げ……何かに気がついたように弥生を見つめた。
「弥生」
「なに?」
「まさか……ギターもって、歌いにいったんじゃ」
「まさかってなによ、まさかって」
抗議の口調を気にした風もなく、世羽子がため息混じりに。
「温子も、聡美も、多分そういうと思うわよ」
「いや、えっと…他人に見られることで集中力が…」
「弥生のギターはそれ以前の問題……言ってくれれば、ついていってあげたのに。音楽じゃなくて、ナンパ目当ての男とか結構いるのよ、あそこは」
「それは大丈夫」
「弥生は、自分が美人って自覚が希薄だから…」
「よ、世羽子はどうなの…」
弥生が反論しようとするのを遮るように、世羽子が左手をぐっと握り込んでみせる。
「そんな命知らずがどうなるか……知りたい?」
「し、知りたいも何も、どうなるか知ってるわよ……実際に見たことあるし」
あの時、敢えてそれを見せることで自分が側から離れていくと世羽子は思っていたのではないか……弥生は今になってそう思う。もちろん、はっきりと世羽子の動きが目で追えたわけではなかったが、弥生は世羽子の動きの中に美を見出したせいで、あまり恐怖を感じたりはしなかった。
「まあ、それはそれとして…」
世羽子はちょっと微笑み。
「その歌に興味があるわね……どんな人が歌ってたの?」
「どんな人って言うか…」
弥生はちょっと口ごもり……微妙な感情の入り交じった表情で呟いた。
「えっと…この前、御子を助けてくれた男子がいたって話したでしょ。その、有崎に聞くのが一番早いと思う」
「尚斗に?」
「……」
弥生の視線の意味に気がついたのか、世羽子は何でもないように、さらりと言葉を付け足した。
「有崎尚斗……って名前だったはずよね?」
「そ、そうだけど…」
世羽子の口からでた『尚斗』という言葉があまりにも自然すぎたから……弥生はそれで誤魔化されはしなかった。
「……世羽子」
抵抗を諦めたかのように、世羽子がため息をついた。
「話を切り出すタイミングがつかめなくてね。彼、青山中学出身……要するに、私が女子校に転入するまで同じ学校だったのよ。2年間同級生だったってわけ」
「ああ、なるほどね……言われてみれば、割と近いし」
と、納得したように頷いた弥生に……世羽子は、顔にも態度にも出さずに完全なポーカーフェイスで『そうね』などと頷き返してみせる。
まあ、これで誤魔化されるのは弥生ならではだろう……というか、そもそも純粋というか無頓着であるからだが。これが温子だったなら……昨日の聡美のように、世羽子はかなりまずいことになっていたに違いない。(笑)
「でも、世羽子が普通に名前で呼ぶって事は、割と親しかったのね?」
「そうね……他の男子と違って感じのいい人だったから」
「あ、世羽子もそう思う?」
もとい。
世羽子は少しずつ窮地に追い込まれていく自分を感じていた……もちろん、自分のミスが招いたことなので、誰にも文句の持っていきようはないのだが。
「ほら、男子生徒がやってきた日……屋上で歌を歌ってたのを聞かれた話とかしたでしょ?あれって…」
などと語り出す弥生を、世羽子は微笑を浮かべたまま見守り……もちろん、春の微風を思わせる微笑みとは裏腹に、心の中では『まずい』のシュプレヒコールである。。
「でもね…」
ふうっと、弥生がため息をついて。
「『私の歌がいいと思う』って言ってくれた有崎だけど、あんなすごい歌が歌える人と知り合いって……それって、なんか」
「それは、弥生の勘違いよ」
「え?」
「弥生の歌がいいと思ったから、いいって言ったのよ、尚斗は。少なくとも、本人のためにならない嘘をつくような人間じゃないわ」
「……」
何も言わず、じっと自分を見つめる弥生の視線に耐えかねて、世羽子が口を開く。
「なに?」
「……ひょっとして」
「ひょっとして、なによっ?」
不自然に語尾が跳ね上がる世羽子。
「有崎と世羽子って…」
「別に弥生が考えているような関係じゃないわよ」
と、世羽子は弥生の言葉を遮るように。
「え、同じバンドを組んでた仲間じゃないの?」
世羽子にとって、永遠とも思える沈黙が過ぎ。
「あ、えっと……ちょ、ちょっとね、音楽の方向性で意見が合わなくなって、その……そう、仲が悪いの。そう、仲が悪いのよ。そうね、顔を合わせたら険悪な空気が流れるぐらいにっ」
「そ、そうなの…」
饒舌になればなるほど、墓穴を掘っているようなモノだと理解してはいるのだが……心が体を裏切っているのか、体が心を裏切っているのか、何故か止まらない。
「で、でも……こう、多分、お互い認めあってはいるのよ…認めあっているから、余計に、意見の相違が耐えがたくって……えっと、だから……あんまり、私の前で尚斗の話題は出さないで」
「うん、わかった…ごめんね、世羽子」
などと素直に弥生が頭を下げたりするモノだから、世羽子としては微妙な罪悪感を覚えてしまい。
「まあ……気にしないで」
「ううん……私が無神経だった」
「……」
「でも、無神経ついでに言わせてもらうけど……仲直りした方がいいと思う」
「……」
「世羽子が認めるほどなんでしょ」
「お、音楽の話よ」
「……感じのいい人って言ってたじゃない。というか、個人的にかなり好感の持てる相手なんだけど」
「ふ、普段は感じがいいけど、音楽に関しては妥協しない奴なのよっ。そ、そうね……だから、そこでぶつかったのよ」
「う、ん…」
さすがに、これ以上この話題を続けてもらいたくないという世羽子の気持ちを読みとったのか、弥生は曖昧に頷くだけに留めた。
「明日はテストだし、もう寝ましょ」
「うん…」
まだ何か納得できないのが明らかな弥生の仕草だったが、それを押し切るように世羽子が電気のスイッチを切った。
それから5分ほど経って、暗闇に向かって弥生が呟く。
「世羽子…起きてる」
「何?」
5分という時間は、世羽子が冷静さを取り戻すのには十分だった。
「この人には勝てないって何度も思ったことがあるって、世羽子は言ったよね?」
「ええ」
「考えてみると……私、これが初めてもしれない」
「……」
「何というか、自分の中で大事なモノというか……そういう分野で、そう思ったこと、私はこれまでなかった」
それはおそらく、弥生の中で『大事なモノ』の存在がごくわずかだったことにも起因するであろうが。
「……そうでしょうね」
お世辞でも何でもなく、世羽子は弥生の言葉を肯定した。弥生は今、自分の土俵を出て戦っている……それは、安っぽい言葉を借りていえば自分探しの旅なのだろうが、ほぼ全てが自分の思い通りになるフィールドを放棄して、まっすぐに前を見つめる強さ……才能を支える強靱な精神力がそれを可能にしている。
「私……御子の気持ちを、ちゃんとわかってあげようとしてなかったかも」
「そういえば聞いたこと無かったけど、妹さんの……華道の腕前はどうなの?」
「……実力はある。ただ、気持ちがそれに追いついていない……自信のなさが、作品を必要以上に萎縮させてる感じ」
「弥生と較べて……という意味よ」
「……」
弥生の沈黙を答えを受け取り、世羽子は確認するように呟いた。
「なるほど」
「……姉バカと言われたらそれまでだけど、普通の人なら悩むことを諦めるところで、あの子はまだ悩み続ける」
「……」
「そこに至るまでに答えが出せることが、優れているとは私は思わない……普通ではない悩みの深さが、いつかあの子を、普通ではたどり着けないところに飛躍させる……そんな気がするの」
「つぶれる可能性はあるわね」
「つぶさせない……それだけは、私が守るって決めてるの」
「弥生が初めて家出した時、弥生のお母さんに会いに行ったのよ」
「かあさまに?」
暗闇の中、弥生がちょっと身体を起こした気配が伝わってきた。
「弥生のお父さんはちょうど留守でね……まあ、こちらから聞いたわけじゃないけど、催促するような形だったのは確かね。ある程度の事情は、話してもらったわ」
「……」
「悪かったわね、黙ってて」
「ううん、それは別に…」
「弥生は優秀すぎるって……えっと、弥生にとっては曾祖母にあたるのかしら?その人の話をしてくれたわ」
「大ばば様の?」
「ええ……すごい人だったらしいわね」
「だった……じゃないけど」
「え?」
「まだ生きてるわよ……隠居して、自分の道を極めるとかなんとか言って、自然豊かな田舎で悠々自適ってのも、変な言い方だけど」
「そうなの?」
「宗匠とか家元って、大抵は死んでから相続されるモノなんだけど、大ばば様は10年ぐらい前に自分から身を引いたの」
「……もめたらしいわね」
「私は小さかったから……ただ、ちょうどその頃におばあさまが死んだりしたのも重なって、稽古の最中も周囲の空気がざわざわしてたのだけは良く覚えてる」
「……」
「御子の事も……聞いたの?」
探るような弥生の口調。
「妹さんの事…?」
沈黙と、微かな呼吸音。
「世羽子ならいい……疑問のまま過ごすぐらいなら私から話す」
「…?」
「御子はね、養子なの」
「……なるほど、それで合点がいったわ。悪かったわね、そこまで話させて」
「ううん……多分、世羽子なら薄々気付いてたと思うし」
ふーっと、弥生が大きくため息をつく音が響いた。
「誤解しないで欲しいんだけど、御子のためとか、そういう意味じゃなくて、私は…」
「聞けばわかるわ。自分を偽ってる人の歌は、ただの音にしかならないから……私、の前のバンドのボーカルがそうだった」
「……」
「正直ね、弥生は」
「あ、いや、その……でも、あのスローバラードの曲のボーカルはいいと思ったのよ。あ、それ以外はダメとか、世羽子の仲間を軽く見てるとか言う意味じゃなくて」
どうやらあのボーカルが自分だということが、まだ弥生にはばれていないようだと安堵しつつ。
「そう、それをきけば喜ぶと思うわ…ありがと」
世羽子のそれを聞いていたのかいないのか、弥生がぽつりと呟く。
「……華道が嫌いってわけじゃないの」
「……」
「ただ、私には合わない、と気付いただけ…」
「大抵の人間は、自分に合わない事を受け入れることを強制されるわ……逃れられる人間は、それだけで恵まれてる」
世羽子はちょっとため息をつき、『タチの悪い知り合い』の顔を思い浮かべた。
お節介などという行為から最も遠いと思っていた人間の……あれはお節介なのか、それとも何らかの計算尽くの行為なのか釈然としないまま。
「もし、どうにもならないと感じたら……尚斗に頼りなさい」
「え?」
「尚斗は……私と違って、人を勇気づけたり、背中を押すことに関しては天才だから。だからといって、むやみやたらに甘やかすってわけでもない」
「世羽…」
「もう寝るわ、おやすみなさい」
完
長っ。(笑)
ええ、ちょっと色々ありまして……主に高任の心の葛藤が。
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