1月26日(土)から27日へと日付が変わり、麻理絵の携帯が鳴った。
「……もしもし?」
『さっき、尚斗から、連絡あったよ』
「……それで?」
『……来週そっちに戻るから、その時に会おう、と』
「……本当に?」
『……どういう、意味だよ』
「明日というか、もう今日だけど……すぐに会おうとか、会いに行くとか、尚斗君なら言うと思うけど」
しばらく沈黙を経て、みちろーが言った。
『今日は…なんか、用事があったんじゃないかと思う。そのタイミングで、俺が来週戻るからって話を切り出した…』
「……みちろーくんは、いつもそうだよね」
『……』
「何も…言い返さないの?」
『何か……あったのか?』
「尚にーちゃんが、そう言ったの?」
『……』
「尚にーちゃんならともかく、『何かあったのか』って、今更、みちろーくんが、それを、私に、言うの?」
『……』
「ごめんね、いまちょっと不機嫌だったから……おやすみ、みちろーくん」
みちろーの返事を聞くことなく麻理絵は携帯を切り……少し泣いた。
「……」
さわやかな目覚めだった。
真っ暗な部屋の中、時計の音が響き……新聞配達だろうか、バイクの音が動いたりとまったり。
あまり物音を立てぬようにして、弥生は部屋の電気をつけた。
時計を見る……もうすぐ4時。
「ん?」
時計にはメモが貼られており……自分の行動および思考が全て見透かされているような……もちろん不愉快というモノではないが、微妙な想いを抱きつつ世羽子の字を目で追った。
「そっか……あの後寝ちゃったのね、私」
身体の前で腕を交差させ、手のひらと手のひらを合わせてそのまま頭の上に上げて大きく背伸びをする。
「んっ…」
身体の中心軸を意識しながら、ゆっくりと左右にねじる……と、背骨が乾いた音をたてた。
元々、弥生の起床時間は早い。
小学校に上がる頃から、大抵は5時過ぎ、どんなに遅くとも6時までには起きる(もちろん寝る時間は成長に伴って遅くなったが)……だから、朝の4時という時間にとまどいはしなかったが、10時間も寝ていたという事にむしろ驚きがあった。
くぅ…。
「あ…」
可愛いお腹の音に少し顔を赤らめたのは、己の不作法を恥じたためである。
背伸びをやめ、弥生は世羽子のメモに再び目をやった。
『まさか、ね…』などと呟きつつ、台所に……。
「……」
かちん。
弥生が台所に来てから約1分、炊飯器が炊飯から保温へと切り替わる。
「……」
ふたを開け、しゃもじでご飯を起こし、またふたを閉じる。
「……なんで、私が目を覚ます時間までわかるわけ?」
無人の台所で1人ツッコミを入れつつ、みそ汁を温め直し……ポットに用意されていた湯でお茶を入れた。
「……ん?」
弥生の視線が勝手口の方に向き、5秒、10秒……。
「え、世羽子ってこんな時間から走りに行ってるのっ!?」
仮に、ついさっき家を出たとしても……。
「……マラソン?」
弥生はしばらく遠い目をして……首を振って立ち上がった。
世羽子が用意してくれていた(もしくは昨日の夕飯の残り物か)おかずを冷蔵庫から取り出し、ご飯、みそ汁、漬け物、とともに食事。
「ごちそうさま…」
と、手を合わせたところで……弥生の動きが止まる。
『今日は終わりましょ…』
確か、昨日世羽子はそんなことを言わなかったか?
「え……今日も、やるの?」
弥生の背中を、冷たい汗が流れて落ちた…。
『……起きてますか?』
「多分、寝たまま電話のやりとりをするスキルは持ち合わせてないんだが」
『そうですか……あ、おはようございます、有崎さん』
「おはようさん……挨拶の倒置法はどうかと思うぞ」
日曜の朝7時……さて洗濯でもするかと思ったところに、かかってきた電話はちびっこからで。
『じゃあ、先に言いますけど、ごちそうさまです』
「は?」
『昨日もらったお弁当です……これから食べますから』
「そうか、俺は洗濯がすんでからだな」
『じゃあ、8時前ってとこですか』
「なんだ、同じタイミングでいただきますとかやらかすつもりか?」
『なっ…』
受話器をテーブルの上に置いて約1分、きーきーと騒ぐ声が静かになったところで、尚斗は再び受話器を手に取った。
「朝から元気だな、ちびっこ」
受話器を再びテーブルの上に。
きーきー。(笑)
「大きな声を出して喉がかわいただろう。お茶でも飲んだらどうだ?」
そう言って、またテーブルの上に置こうとした受話器から、電話の切れた音がした。
「おや…」
10秒、20秒……。
ぷるるる…
「はい、有崎です」
『いきなり電話が切れたら、かけ直しませんか普通っ!?』
「昔、同じタイミングでかけ直そうとして、延々話し中になった経験がある」
『……なるほど』
と、答えた結花の口調は割と冷静で。
「で、結局用件は何だ?」
『……遅刻とかしたら』
「善処する」
『……っていうか、私の携帯番号ちゃんと覚えてますか?』
「……えーと、確か…鞄の中にメモが…」
しばしの沈黙。
『……有崎さんの携帯の番号教えてください』
「昨日もいったが、ほとんど持ち歩かな…」
『いいですから、とっとと教えてくださいっ!』
「へーい」
と、尚斗は口答で番号を告げた。
『……で、間違いありませんね?』
告げた番号を二度繰り返し、尚斗に確認を求める……尚斗はそれを結花の几帳面さと受け取った。
「うむ」
『……』
「……」
『……』
何かを待っているような気配に首を傾げつつ。
「どうかしたか、ちびっこ?」
『……もういいですっ!』
怒ったように告げ、電話は切れた。
その直後、階上から微かに聞こえてきたのは、尚斗自身も忘れかけていた携帯着信音。
「……何故、わざわざ携帯に…?」
と、首を傾げながら階段を駆け上がり、机の上の充電器にセットしっぱなしだった携帯を取り上げる尚斗。
「もしもし?」
『着信履歴、わかりますね?暗記しろとはいいませんから、とっとと登録してくださいっ!』
プツッ。
切れた電話を数秒眺め……尚斗はおとなしく結花の番号を登録したのだった。
「おはよう、弥生さん、世羽子」
「おはようございます、おじさま」
「おはよう父さん、また仕事?」
「いや」
世羽子の父は、少し心配げな感じの娘の問いに首を振った。
「ほら、今月末で終わる展示の…」
「ああ、あれね……いいんじゃない」
「?」
何の話?…という表情の弥生に向かって、父親より先に世羽子が口を開いた。
「美術館で水墨画展示がやってるの…そういうの好きなのよ、父さん」
「はは、自分では描けないけどね」
「一見敷居は高そうに見えますけど、描くだけならそう難しくはないですよ」
などとさらりと答える弥生に、父親と世羽子の視線が向いた。
「あ、その…私もかじった程度ですけど」
「興味があるなら教えてもらったら、父さん。弥生の言うかじった程度なら、かなりのレベルよ、きっと」
「あ、いや、ほんと大したこと無いですから…」
頬を微かに染めて再び首を振る弥生に、父親が穏やかな笑みを浮かべて言う。
「はは、私は見るのが好きなだけでね…自分で描こうと思ったことは一度もないんだ」
「真面目すぎるものね、父さんは」
「そうだな…そうかもしれん」
世羽子の言葉に、父親は苦笑にしては…やや苦すぎる微笑みを浮かべた。
「……じゃあ、お弁当作ろうか、父さん?」
「え?」
どこか間の抜けた声で世羽子を見つめる弥生。
「ああ、その美術館って隣の県なのよ……電車で片道2時間半ってところね」
「うわ」
「で、どうする父さん?」
「そうだな、じゃあ、お願いしようか…」
「弥生、父さんの朝食の支度お願い、私はお弁当の用意するから」
「ん、わかった…」
そして1時間後、娘の弁当を手に父親は家を出ていった。
「……さて」
「……っ」
「……弥生?」
「は、はいっ」
「今朝から少し変ね…どこか痛いところとか、違和感を覚えるところでもある?」
などと世羽子が一歩近づけば、弥生は一歩下がり。
「あ、あのね世羽子…きょ、今日は私ちょっと用事があってね」
「そう、行ってらっしゃい」
「だからね、今日は勉強は無し……え?」
「……言っておくけど、昨日と同じ事やったら、明日はひどいことになるわよ?限界を超えるような無理は、2日続けちゃいけないの」
そんなことを昨日はやらせたのね……という言葉をぐっとのみこんで、弥生は曖昧に頷いた。
「え、えっと…じゃあ、今日は、私…好きにしていいの?」
「……身体がくたびれてるって事を忘れさえしなければ、ね」
「あ、あの…急に予定を変更したりして、ごめんなさい」
「いえ、俺の方は別に……まあ、ちょっとばかり驚きはしましたが」
朝食の後かたづけを終え、そろそろ出かけるかというタイミングで、夏樹が迎えにやってきた……運転手付きの車を従えて。
「と言うか、『待ち合わせするより、迎えに行った方が確実ですよ』などと、ちびっこに言われましたか?」
「あ、そ、それは…有崎君の事を信用してないとかじゃなくて…」
どこか困ったように夏樹が呟く。
「や、待ち合わせに関して俺のことは信用しない方がいいのは確かなので」
「そ、そうなの?」
「ええ、まあ…」
色々とトラブルに巻き込まれることが多くて……などと説明する気になれず、尚斗は曖昧に言葉を濁して頷いた。
「そんな風には…見えないけど」
「光栄です……と言うか、俺の家、すぐわかったんですか?」
「結花ちゃんから聞いた住所で、唐沢さんがすぐ…」
夏樹の言葉を受け、運転席で微かに頭を下げる初老の男性……唐沢という名前なのだろう、表情には出さないが、ほんの微かに肌を刺すモノを尚斗は感じていて。
もちろん、そりゃ無理もないか……と、尚斗は納得をしている。
異性交遊はおろか、同年代の男子と関わったことすら数えるほどではないか(尚斗主観)……の夏樹が唐突にこういう行動に出たとすれば、両親の反応はあまりよろしくないだろうと想像はつく。
「……相手も相手だし」
「え、なに?」
「あ、いえ、なんでもないッス」
『ほら、この前大雪で校舎が壊れた男子校の男の子…』などと夏樹が説明したとしたら、よろしくない反応が引き出される可能性はさらに倍である。
まあ、自分が悪く言われるのは今更なんでもないが、そのせいで夏樹が何らかのストレスを抱えるようになるのはなあ……と、尚斗の呟きの理由はそんなところ。
このあたり、青山家での経験(笑)が多少尚斗の想像をネガティブにしているのは否めない……無論、夏樹個人の印象を損なうモノではなかったが。
「……」
「……」
沈黙に耐えられないのは庶民の証という言葉があるが、口を開いたのはやはり尚斗だった。
「そういえば」
「えっ、なに?」
ビクッと、堅い動きで尚斗に顔を向ける夏樹。
「あの…夏樹さん?」
「は、はい」
「俺が緊張するならまだしも、夏樹さんが緊張してどうします?」
「だ、だって…慣れて、ないから…」
消え入りそうな声でそう呟く夏樹に、尚斗はちょっと首を傾げて。
「……普段は、あんまり車とか乗らないって事ですか?」
「そ、そうじゃなくてっ」
夏樹は顔を赤らめ、背中を丸めながら俯き……ぽつりと呟いた。
「お、男の子と…2人で…車に…」
「いや、唐沢さんも、数に入れましょうよ」
「あ、こ、後部座席で…2人…」
「お父さんとか、兄弟とか…」
「家族は別…もう、いじめないで…」
ぷくっと頬を膨らませる幼い仕草で、夏樹が尚斗をじろりと睨み……無言で運転を続けていた男の気配が微かに緩んだのを尚斗は感じた。
「……有崎様は、こういう事に慣れておられるので?」
「すいません、様付けはちょっと。普通にガキ扱いでいいですから」
「夏樹お嬢様のご友人に、それはちょっと…」
「あ、いや、そうかも知れませんが…」
それだけは勘弁してくださいと頭を下げる尚斗にではなく、運転手が敢えて口を挟んできた行為そのものに夏樹は驚いているようで。
少なくとも、この会話をきっかけに雰囲気が和んだことだけは確かだった…。
「うん、昔は電車通学だったんだけど……その、周囲の迷惑になるから…」
と、後半はちょっと言葉を濁す夏樹。
公共の場で、『夏樹様〜』は確かに迷惑だろうな、と尚斗は頷く。
「ん?」
尚斗が背後に目をやる。
「どうしたの?」
「いや、知り合いが……」
「戻らせましょうか?」
「あ、いやいやいいです……というか、こんなとこにいるとは、行動範囲広いなと思っただけで」
「友達の友達は、みんな友達。5人繋げば日本制覇……とはよく言ったモノよね」
一ノ瀬紗智……基本的に行動力に溢れた少女である。
昨日の吉野の言葉に触発されて、というか挑発されて(笑)……尚斗と同じ学校出身の知り合いがいる相手を探して虱潰しに連絡を取りまくり。
まあ、麻理絵がらみで中学の時代の知り合い……が、ほとんど使えないのがネックだったが、空手道場の仲間、小学校の時通っていた塾の知り合い、高校になってから遊びに行った場所で知り合った連中……あたりから、該当者を何人かヒットさせたわけで。
今現在、同じ高校に通っている知り合いのつてを頼らなかったのは……紗智なりの思慮を働かせた結果で、後になってこの判断がファインプレイとなるのだが、それは別の話である。
午前中は尚斗と同じ小学校出身の相手と、午後は青山中学出身の相手と会う予定……もちろん、直接の友人を挟んで、だが。
今自分の目の前を通り過ぎた黒塗りの高級車に、尚斗が乗り合わせていたなどともちろん紗智は気付くはずもなかったが。
「みんな、こんにちわー」
門の入り口で、大きく手を振って声をかける夏樹。
立派な建物とはお世辞にも言えないが、郊外に位置しているせいか敷地だけはなかなかに恵まれていると思える広さがあった。
その広い敷地内のあちこちで遊んでいた子供達が、夏樹の姿に気付き……全員ではないが、数人が駆け寄ってくる。
夏樹の名を呼びながら……あたりに、ここを訪れるのが初めてではなく、半ば習慣化しているのだろうと尚斗は見てとった。
「有崎君、それ持ってこっちに来て…」
「はい」
と、小さな段ボールを肩に担ぎ上げ、尚斗は夏樹の後をついていく。
「あら、橘さん」
「園長先生、お邪魔します」
40を過ぎた感じの女性が、穏やかな微笑みを浮かべて夏樹の礼を受け……背後の尚斗に目を向けた。
「そちらは?」
何気ない、というよりそれは当然の質問だったはずだが、夏樹の手を引っ張っていた2人の子供の顔が強ばったのに気付いているのかいないのか。
「ども、有崎です。今日はお邪魔します」
「はじめまして有崎君、園長の岬です」
穏やかに、しかしちょっと不思議そうな表情で園長は尚斗を見つめ……説明を求めるように夏樹に視線を向けた。
「……?」
スルーではなく、園長の視線の意味に気付いていないのだろう……夏樹がちょっと首を傾げる。
園長としてはそれ以上口にする事をためらい、尚斗はどう説明すればいいかわからず……この状況で、未来を切り開くのはいつも子供達というか。(笑)
「…にーちゃん、夏樹ねーちゃんのなんだよ?」
「え?」
夏樹の頬に朱が差す。
「さて、何だろう…当ててみな」
にやりと笑い、尚斗が少年の頭をポンポンと叩く。
「荷物持ち」
「うむ、正解だ」
「そ、そんなことっ」
園長と子供達の視線を受け……夏樹は恥ずかしげに俯き。
「と、友達……有崎君が、迷惑でなかったらだけど」
子供達が安堵の表情を浮かべたのに対して、園長は口元を手で隠した。
「と、いうか夏樹さん。この荷物って…?」
「え、あ…あ、あの、園長先生…」
「いつもありがとう、橘さん」
「い、いえ…そんな…」
30分後。
「ふむ、これからとっておきの手品を見せてやろう」
「えらそーに」
「どーせ、種も仕掛けもあるんだろ?」
などと、子供達にすっかり馴染む尚斗の姿があったりする。
手にしたトランプを子供達に示し……合図と共に別のカードに切り替わるという、一見ありふれた手品ではあるのだが。
実際は、子供達の目に留まらぬほどの速度でカードをすり替えるという力技である。
「おおー」
「すげえ……っていうか、服の袖に隠してるんじゃ…」
などと、感嘆しつつ、尚斗の身体を探ったりする子供達。
それとは別に、夏樹も別の意味で感嘆していたり。
「あ、あの…有崎君、今のって?」
「ああ、さすがにいい目をしてますね夏樹さん」
「……?」
もちろん、2人の会話は周囲の子供達には理解できず。
体を張って遊ぶ……ある意味時代遅れの遊びに関して、尚斗にかなう人間がそうはいないというか、独壇場である。(笑)
首を傾げるよりも、ただ感心する方が先なのか……子供達は時には空を飛び(笑)……もちろん、怪我などはさせないが。
もちろん、目が点になっている人間はいる。
「あ、あの橘さん…有崎君って?」
「不思議な人ですよね…」
「え、まあ、不思議な人ではあるでしょうけど…」
ちょっと気を取り直したのか、それとも深く考えないことにしたのか……園長先生は、自分を納得させるように小さく頷き。
「と、いうか……本気で楽しんでるわね、彼」
「……私には、出来ないことです」
ぽつりと夏樹。
いや、私も何も誰にも出来ないですよ……などと、ちびっこがこの場にいたら、少しずれたツッコミを入れただろうか。
敢えて聞こえなかったフリををする事にしたのか、園長先生が口を開いた。
「本気で楽しんでいるけど、彼、きちんと目配りが出来てるから安心していられるわ」
「え?」
「……私がこういう言い方をするのも何ですが、みな同じような立場の子供達だけど、愛情なり関心を注ぐべき順番をね、わかってるように思えるから」
それは静かで、微妙な諦観を思わせる口調で。
「よーし、次は3回転な」
「いや、それはちょっと待ってっ!」
子供の身体を抱えて後は投げるだけ……の尚斗に向かって、夏樹と園長先生が同時に立ち上がって待ったを入れた。
「ふふ、有崎君、本気で楽しそうだった…」
と、夏樹が楽しそうに笑い。
「いや、すんません……っていうか、子供の頃、あんまりああいう感じに遊んだこと無いんですよ、俺」
「そうなの?」
「ええ、まあ…」
と、尚斗が曖昧に言葉を濁し。
「そういや、ここってなんかちっちゃい子供ばっかりですね……中坊、じゃなくて、中学生ぐらいの…」
「……ここの子供達って、中学生になると、新聞配達とかバイトを始めるから」
「なるほど」
建物の中にまだ人がいるかどうかはわからないが、この人数規模だと本来は後何人か大人がいなければいけないはずで。
もちろん、何らかの援助を受けて運営している私的な施設ならまた話は違ってくるが。
「えっと、有崎君は、手話ってわかる?」
「ハンドサインなら、子供の頃に少々母親に仕込まれましたが」
「はんどさいん?」
「すみません、忘れてください」
「え、ええ…」
首を傾げつつも、夏樹は曖昧に頷いた。
「で、手話がどうしました?」
「あ、うん……これって、どういう意味か、わかる?」
と、夏樹が左手の親指を立て……それを、右手の平で転がすようにくるくる回す。
「……はて?」
「えっと、これって、『可愛い』って意味なの」
「へえ、そうなんですか」
「で、その……私、有崎君が結花ちゃんの頭を撫でるのを見るといつも笑っちゃうでしょ?それって、これを連想しちゃうから…なの」
「……」
左手の親指、右手のひら……ちびっこの頭、尚斗の手。
「おお、なるほど」
尚斗がぽんと手を打った。
「というか、結花ちゃんが頭を撫でられているのを見ると、ああ、多分こういうイメージでこの手話は出来たんだろうなって……」
「そうですね……ある程度意味をイメージしやすい動きの方が、色々と便利で…」
尚斗はちょっと口を閉じ……首を傾げて呟いた。
「手話って、世界共通なんですか?」
「え、それは……どうなのかしら?」
と、そんなことを考えたこともなかったのか夏樹が首を傾げる。
「いや、子供の頭を撫でるなんてとんでもないって国もありますし、ある動作から受けるイメージが世界共通ってのは、難しいかなと」
「あ、そうね。『可愛い』って意味と結びつかないどころか、負のイメージがあると…」
と、夏樹が考え込むような素振りを見せ。
「でも、そのものに含まれる文化や価値観を抜きにして、言語が伝わっていくってことは珍しくないから……どこかで発祥したのが、日本でも使われているって可能性が高いような気もするけど」
生真面目に語る夏樹に、尚斗はちょっと苦笑した。
「な、何?」
「いえ、ちょいと肩に力が入りすぎてるような感じがあって、少し微笑ましく思っただけです」
二秒ほどの間をおいて。
「そ、それは、結花ちゃんじゃなくて…私の…こと?」
「ちびっこは、ちょいとじゃなくて、かなりです」
「も、もう…有崎君ったら」
尚斗を睨みつつ、優しい夏樹の表情……が、不意に寂しげなモノに変わった。
「私は……有崎君みたいに、結花ちゃんの肩の力を抜いてあげられなかった」
「別に肩の力を…」
何か言おうとした尚斗の言葉にかぶせるように。
「結花ちゃんの力にもなれなかったし、そもそも頼りにされなかった」
「そんなことはないでしょう」
「私、そこまで鈍くないわ…」
寂しげに笑ったまま。
「私は、結花ちゃんがやろうとしたことの役には立ったけど、結花ちゃんの力にはなれなかったもの」
「すみません、偏差値に難があって、難しい表現はどうも…」
困ったように頭をかく尚斗をじっと見つめ……夏樹は、視線を空に転じた。
「そうよね……冴子には先輩って呼ぶのに、私はそう呼んでくれないものね」
「……拗ねてます?」
「少し」
そう言って、ぷくっと頬を膨らませたりするから……余計にアレなのだが。
もちろん、夏樹のそんな仕草を女子校の連中が見れば違う意味で驚くであろうが……尚斗にその自覚はない。
「夏樹さんは、冴子先輩とは長いんですよね」
「幼稚舎からずっと一緒だもの」
「夏樹さんの家が元公家とか聞きましたけど、その理屈なら、冴子先輩の家もかなりのもんなんでしょ?」
「さ、冴子ったら、そんなことまで?」
顔を赤くして夏樹が振り向いた……どうやら、尚斗に質問されたことは意識にないらしい。
「か、家系なんて、古ければ古いほど当てにならないし……第一、その……五摂家って知ってる?」
「……ごせっけ」
尚斗の表情からそれを察したのか、夏樹が説明を始めた。
「公家の世界も階級社会だったらしいわ……武士で言うところの征夷大将軍みたいな身分というか、摂政・関白になれる家柄ってのが決まってて……近衛家、二条家、一条家、鷹司家、九条家の5つ……奈良時代ならともかく、橘家なんて2流以下の家柄で、そもそも本家ですらないわけだから」
「はあ、なんか面倒なんですね…」
「そうよ……家が古いってことは、普通以上に余計なしがらみが増えるって事だもの」
「まあ、そういう意味だと、俺の家はまったくしがらみがないですね……毎日気楽にやってます」
と、のほほんと語る尚斗に、夏樹はちょっと笑い。
「もう…それはわざとなの?」
「いや、夏樹さんが多少なりともこだわらざるを得ないほど大変なんだな…とは、思うんですが」
「……」
夏樹はちょっと尚斗を見つめ、小さく頷いた。
「少しはね…」
そして尚斗は……表情には出さなかったが、少し戸惑っていた。
これまで何度も会話をし、ちびっこが語った言葉や、じょにーのレポート……はっきりと言葉に出来るモノではないが、自分が思っていた姿も含めて、他人が語る夏樹の姿と、今の夏樹のそれに、どこか違和感を覚えるのだ。
「どうか、したの?」
「いえ…」
ちびっこと夏樹は、精々3年になるかならないかのつき合いだろう。
そして、幼稚舎からのつき合いだという冴子は……『もうちょっと昔のことを調べなさい』というだけで、何も語ろうとしない。
そして宮坂は……冴子の名前を出すと、あからさまに動揺し。
理詰めで考えることが苦手なだけに、尚斗はそこで思考を止め……どうせ今の目の前に本人がいるのだからと、あらためて夏樹の顔を見つめた。
「そ、そんなにまっすぐ見つめられると、すこし恥ずかしいんだけど」
と、夏樹が視線を逸らす。
「あ、すみません……というか」
なかなか本題を切り出せないでいるらしい夏樹に、尚斗は敢えて切り出した。
「それで、夏樹さんはなんのために俺をここに連れてきたんです?」
「……中等部の授業にね」
施設の庭の一角……日当たりの良いベンチに腰掛けてすぐ、夏樹は口を開いた。
「奉仕活動があるの……ほら、カトリックだからって言うのも変だけど」
「まあ、そういう学校じゃなくても奉仕活動を取り入れてるガッコは珍しくないみたいですし」
「うん……で、何人かのグループに分かれて、ボランティアというか、奉仕活動をするのね…」
「……ここだったんですか?」
「ここは、2年の時……最初は別の所」
地域清掃などとは別に、夏期、冬季休暇などを利用して、この手の施設に学生が赴きボランティア活動を……などと説明した上で、夏樹は語り出す。
「両親がいない……今もそうだけど、あの頃の私にとって、それは想像もつかない状況で、だから最初は怖かったの」
「怖い…ですか?」
「自分が、どういう顔をすれば…どう振る舞えばいいかわからなかったから。ううん、本当は今もよくわからない」
微かに首を振り、夏樹がちょっと俯いた。
「そんな風に思ってたから……子供達が、みんな明るく笑ってて、私はただそれにびっくりしたわ。ここの子供達も、みんな明るいし」
と、夏樹が尚斗に向かって微笑んだ。
「……そうスね」
と、どこか曖昧に同意した尚斗の顔をじっと見つめ……夏樹は、再び俯いた。
「……やっぱり、冴子と同じ」
「…?」
「初めての奉仕活動の後、冴子にそれを話したの……そうしたら、今の有崎君と同じような表情を浮かべて、『そうね』って言った」
夏樹が尚斗の反応を窺うように一旦言葉を切った……が、何も返ってこないので再び口を開く。
「あの時は何も感じなかったけど……ここ1年ぐらいかな、あの時の冴子の表情と、『そうね』って言葉に……責められてる気がして」
「……責める?」
夏樹が浮かべた寂しげな微笑み……それは多分、素顔に近いモノなのだろうと、尚斗はわけもなくそう思った。
「ううん、それは別の話」
そう言って首を振った夏樹は、もういつもの表情で。
「結局……説明しても、どうせ私には理解できないって事?」
「いや、そうじゃないですよ……そうですね、なんと言えばいいのか」
言葉を選ぼうとする素振りが夏樹を傷つけるとわかってはいたが……曖昧な言葉で、ごまかしが利くとも思えなかった。
「俺は冴子先輩じゃないですからあれですけど…」
と、前置きし……こういうところ、青山に影響を受けてるんだろうなと、尚斗はなんとなく思いつつ言葉を続けた。
「正直、俺にも正解なんてわからないのに……夏樹さんが、間違ってることだけはわかるというか」
「……どういう意味?」
「あの子供達、明るく見えました?」
「……違う、の?」
今度は反対に、尚斗が夏樹を見つめて。
「『子供達全員がいつも明るく笑ってる』って、そもそも不自然なんですよ」
「…え?」
戸惑ったような表情で、夏樹が首を傾げた。
「学校とか、クラスとか……夏樹さんの感覚で言うと、ここの子供達よりよっぽど恵まれた立場にいる人が多いと思いますが、自分のまわりにいるみんなが、全員が明るく笑ってた事って、そんなに多くないですよね?」
「……上から見下ろしてるってこと?」
「いや、そういう話でもなくて…」
思っていることをうまく伝えられない……そんなもどかしさ。
「夏樹さん、好きな食べ物は何ですか?」
「な、何、いきなり?」
むう、切り出し方が悪かったか……と尚斗は思ったが、やはり真面目な性質らしく、疑問の表情を浮かべながらも夏樹が答える。
「どちらかといえば……程度でよければだけど、イタリア料理が好きよ」
「なるほど……夏樹さんが好きでも、それが嫌いって思う人がいるのもわかりますよね」
「それはもちろん……好みなんて人それぞれだもの」
そう頷いてから2秒……夏樹がちょっと顔を上げた。
「でも、それは…」
「すみません、うまく説明できなくて……ただ、『何を』食べるのが好きかってのは、毎日きちんと食べられる事を前提としてるというか。欲求のハードルの高低によって、『ただ食べること』で満足する人もいれば、『何を食べるか』でしか満足できない人もいるというか……むう、何か違うような気がする」
「……」
真剣な表情で悩む尚斗を見る夏樹の眼差しに、感謝の色が滲む。
「えっと……もちろんそんな単純な話じゃないんですけど……あくまでも、夏樹さんの目から見て『みんながいつも明るく笑ってる』って事だけなんですよ」
「……?」
話の流れが今ひとつ理解できなかったのか、夏樹の表情が少し曖昧なモノになる。
青山はもちろん、その気になればだが、冴子も、もっと上手に説明することが出来るだろうに……と、自分を恥じるような気持ちで尚斗は言葉を続けた。
「えーと、早い話……夏樹さんが来たから、明るく笑ってるって部分があるんです」
「え…?」
夏樹の浮かべた表情によって、微かなためらいを覚えた……が、尚斗はそれを口にした。
「多分、夏樹さんじゃなくて、俺が来ても……全員とは思いませんが、今日と同じように笑ってくれると思います」
ふっと浮ついた感じが消え、夏樹は続きを促すように尚斗を見つめる。
「少ないんですよきっと……誰かに構ってもらえるチャンスが」
「…ぁ」
夏樹が、口元を手で覆った。
思っていること全てではないにしても、何かが伝わった……夏樹の仕草から、尚斗はそれを感じて少し安堵した。
「この施設に限った事じゃないですけど……明るくて元気な子供の方が、構ってくれる可能性が高いですからね。少ないチャンスをモノにするために、自分の、良いところを最大限にアピールする……とまでは言い過ぎかも知れませんが」
口元を手で覆ったまま、夏樹が俯く。
「もちろん、完全に心を閉ざした子供とかは話が別ですけど……そういう意味では、ここの施設は、園長さんとか、いい人に恵まれてるんだと思います」
「……」
「あ、でも……笑えるって事は、悪い事じゃないと思いますよ。人間って、1人だと絶対に笑えませんから……笑えるって事は、どんな形であれ、他人との交流があるって事でもありますし」
尚斗の言葉に、どこか慰めるような響きがあることに気付いたのか……夏樹が、少し強ばった笑みを浮かべて顔を上げた。
「ありがとうね……ちゃんと、言ってくれて」
子供達への同情と、おそらくは自分を恥じる気持ちが入り交じった……複雑な想いが、夏樹の目を潤ませていた。
「別に、俺の考えが正解だとは思いませんよ」
「うん……有崎君が正しいかどうかわからないってこともだけど、私が間違ってたこともわかったから」
指先でちょっと涙を拭うような仕草をみせて。
「……有崎君は、こういう施設とか…詳しいの?」
「施設というか…」
と、今度は尚斗が困った表情を浮かべ、耳の下を指先でひっかいた。
「子供の頃、正義の味方になりたいと母親に宣言したんですが…」
「正義の味方って……あの、『へんっ、しーん』の…」
いわゆる、イケ面ライダーの変身ポーズらしきモノを取る夏樹の姿に、尚斗の目が点になる。
それをどう受け取ったのか、夏樹が顔を赤らめた。
「あ、あれ、違ってた…?」
「いや、夏樹さんがそれを知ってるって事が、ものすごく意外で」
「あ、うん…子供達の会話についていこうと思って、ちょっと勉強したの」
「……とことん真面目ですね、夏樹さん」
「そ、そんなっ、笑わなくても…ひどい」
「いえ、別に馬鹿にしてるとかじゃなくて、マジで感心しただけです」
「ホントに?」
などと、拗ねたように呟く仕草がやけに可愛く……というか、少しずつ頭の位置がさがっていくのは無意識なのか。
「えーと…?」
ここは1つ、頭を撫でておくべきか……などと思った尚斗をはぐらかすように、夏樹がすっと背筋を伸ばし。
「ごめんね、ちょっと話が逸れちゃった…」
「え、あ、まあ……色々あったんですが、『ガキのお前に世界の現実を見せてやる』とか言って、アフリカとか、東南アジアとか、中東とか、中央アジアとか……連れ回されまして……すみません、冗談ですから」
「あ、そ、そうなんだ…」
と、夏樹があからさまにホッとした表情を浮かべた。
電車で帰りますから……と、唐沢さんを先に帰らせ、駅への道を夏樹と2人。
「ごめんなさい、少し遅くなっちゃって…」
「いえ、別に都合もないので……どうしました?」
「え、あ…なんかね、意外だったから」
尚斗の視線からちょっと顔を背けて夏樹。
「……『次は来られるかどうかわからない』って、そういう言い方をするとは思わなかった」
「約束したから、また今度……って好きじゃないんです」
「……」
「会いたいから会いに行くのと、約束したから会いに行くって……俺は、別物だと思ってるんで」
わずかな沈黙を挟んで、夏樹がぽつりと呟いた。
「……なんとなくだけど、わかるわ」
そして視線を空に。
「私のこれも……惰性かもしれないから」
風は冷たかったが、良い天気だった。
青い空が、どこまでもどこまでも、抜けるように続いていて。
「全部を否定はしませんけど…仮に惰性だったとしても、あいつらは、夏樹さんのそれに救われてると思いますよ」
「だといいけど…」
と、夏樹が尚斗に微笑みかける。
「……夏樹さん」
「……何?」
夏樹らしからぬ、どこか間延びした返事。
「本当は、他に聞きたいことあったんじゃないんですか?」
「うん……あった」
再び視線を空に。
「でも、それはその場凌ぎにしかならないから……有崎君にヒントはもらったから、後は自分で考えて……」
夏樹がちょっと口を閉じ……尚斗に視線を向ける。
「……まだ2年生の有崎君が、ちょっとうらやましい」
そして、どこか構えるような表情で夏樹。
「あのね、有崎君……結花ちゃんを、傷つけたりしないで」
ほのかに見え隠れしていたと思えた夏樹の素顔が、完全に隠れて消えた。
この前、1周目の話を読み返していて……『青山と尚斗が同じ町内に住んでいる』という記述があって、飲んでいた麦茶を吹きました。(笑)
まあ、この頃はものすごい勢いで書きまくってたからなあ……などと苦笑しつつ、色々筆が滑るというか、指先が滑って、意図しないウチに矛盾した部分をいっぱいこしらえているような気がして仕方ありません。
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