「ま、こんな感じだろ」
 出はけ(人の舞台への出入り)の関係から、やはり左右両側に出入り口が欲しい……のは山々だが、ここはそれ専用のための舞台でも、体育館でもない建物のわけで。
 あらかじめ用意してあったカーテンと段ボールで作った仕切……は、結花の目から見て精一杯の手段であったのだが、口には出さなかったモノの夏樹にはちょいと不満だったらしく。
 それに気付いた結花が尚斗の袖を引き、説明を受けた尚斗が、あるモノでそれなりに何とかするまで精々10分というところ。
「……有崎さんがいて良かったと素直に思いましたね、たった今」
「そうか、それは良かった」
「……怒ってもいいと思いますよ、今のは」
「……なんで?」
 なんか、怒る部分あったか……そう問いかけるような尚斗の表情に、結花はため息をついた。
「それにしても……」
 何かを諦めたのだろう、結花は新しくできた出入り口に目を向けながら呟いた。
「窓枠を取っ払って、出口にする発想は思い浮かばなかったですね」
 近くをカーテンで遮り、段差をつけて……実際の出入りは多少窮屈ではあるが、観客席の方からはさほど不自然さを感じることもないだろう。
「ちょいと狭いが……まあ、あれ以上を望むなら、壁をぶち抜くしかないしな」
「……まあ、そこまでしなくても」
「……なるほど」
 結花の視線の先には、イキイキした表情で台本片手に後輩達の世話をする夏樹がいる。
「で、次は何を?」
「次は、と言われても…」
 微妙な表情を浮かべ、結花が尚斗に台本を手渡した。
「読みます?」
「それはいいが…」
 尚斗は、ちらりと周囲に視線を向けた。
「無理に俺の相手をする必要はないぞ…」
「こうなると、私のポジションは裏方の裏方ですからね……このまま昼行灯で終わってくれるに越したことはありません」
「なるほど、ハプニングが起こったときが動く時ってわけか」
 尚斗が頷くと同時に、それぞれ別の方向から2人の少女が近寄ってきた。
「入谷さん」
「右隅の箱の中です」
「あの…」
「屋城さんに渡しました」
 少女が2人離れていく……のをみて、尚斗は結花の顔を見つめながら言った。
「エスパー?」
「別に、必要なモノは決まってますからね……経験と、計算です」
 照れるでもなく、胸を張るのでもなく……当たり前のことを、当たり前にこなしただけという表情と口調で。
「まあ、俺の相手してくれそうなのはちびっこしかいないしな……正直、ありがたい」
「こっちの都合で休日に引っ張り出して、そのままほったらかしってのは、さすがに気が咎め……ちょっと失礼」
 結花が尚斗のそばを離れ……何人かに指示を出し……戻ってきた。
「お疲れ」
「2年生なんですけどね、あの人達」
「多分、ちびっこを基準にして考えたらかわいそうだと思う」
「それに頷いたら、ひどく傲慢な人間って事になりそうですけど」
「なるならないじゃなくて、そう言われるかどうかだけって気もするけどな」
「……」
 尚斗の言葉に、結花は何も言い返さなかった。
 
 精々20人ほどを相手に、倍以上の人間が芝居を演る(関わる)……結花の表情をみていると、それはどこか皮肉なモノを感じさせ、夏樹の表情をみていると、何か大事なことを目の当たりにしているような気にさせる。
「……どうかしました?」
 尚斗の肘に指先で触れながら、結花が呟く。
「いや、夏樹さんが演劇が好きなのはみればわかるんだが……」
「目玉焼きは好きだけど、スクランブルエッグは嫌い……そんなもんですよ」
 尚斗の質問を先回りし、結花がどこか頑なさを感じる口調で呟いた。
「卵料理にも色々ある…か」
 ちらり、と結花に視線を向けると……結花の視線は、舞台より観客である子供達に向けられていて。
 夏樹の視線はというと、舞台が主でそちらは時折といった頻度……他の部員に至っては、舞台と夏樹だけしかみていない。
 そんな尚斗に気付いたのか、結花が小さく囁いた。
「見入ってるんじゃなくて、行儀良く見させられている……としか思えないんですけどね」
「子供だからな…本気でつまらなかった、騒ぐだろ」
 舞台に動きがあり、夏樹だけでは間に合わないと思ったのか、結花が側に控えていた人間にいくつか指示を出した。
 トラブルという程のことが発生するということもなく、芝居は終わり……子供達は周囲に合わせるように手を叩く。
「……優しい人ですね、有崎さんは」
 裏方に回っていた人間のほとんどが前に出て、子供達のお礼を聞いている……それを、結花は裏から眺めながら、尚斗に向かってそう呟いたのだった。
 
 後かたづけと、教室というか大部屋を元通りにする手伝い……そのついでに、尚斗はちょいと建て付けの悪くなっていたドアや窓枠をきちんとしてやった。
 親切心と言うよりも、2人でちょっと話をしたいという結花の気配を感じてそうしたのだが……何故か、夏樹がそれをじっと見物するように見守っていて。
「ありがとうございます、こんな事までしていただいて…」
 穏やかな、初老の女性が尚斗達に頭を下げる。
「いや、素人仕事ですから、応急処置に毛が生えたようなもんっすよ」
 女性は尚斗に向かって何かを言いかけ……微かに微笑んだ。
 どこか寂しい印象を与える……そんな微笑みで。
 こういった施設の例に漏れず、応急処置すらままならない状況……そんな現実を口にすることにためらいを覚えたのか、口にせずとも理解していると判断したのかはわからない。
 ほどなくして、女性と子供達数人に見送られながら、尚斗と夏樹、そして結花の三人は施設を後にした。
「あの…結花ちゃん」
 最初に口を開いたのは夏樹だった。
「なんですか、夏樹様」
「明日…なんだけど、有崎君を借りても構わない?」
「有崎さんの身体は、有崎さんのモノです……聞く相手が違いますよ」
「あ、そ、そうね…あの?」
 どこか慌てた感じで、夏樹が尚斗に視線を向けた。
「一応暇ですが……せめて、何をするかとか、行き先ぐらいは」
 苦笑しつつ尚斗。
「えっと…」
 言いよどむ夏樹の様子をまったく気にもとめない感じで、結花が携帯をとりだした。
「ちょっと失礼します」
 一言断りを入れ、結花が2人から離れていく。
 さすがに、偶然ではなく結花が気を利かせたという事を理解したのだろう……夏樹は、結花の背にちょっと目を向けてから言った。
「ちょっと遠い場所……車で1時間ぐらいの養護施設なんだけど」
「いいですよ」
「それでね、明日の午前中なんだけど…付き合ってもらえたらって…」
「だから、いいですってば」
「……いいの?」
「暇ですから…テスト勉強って柄でもないですし」
「あ、でも…」
 ちょっと困ったような表情を浮かべ、尚斗と、こちらに背を向けている結花の姿を交互に見やる夏樹。
 一体何がしたいのか今ひとつ不明だが……夏樹の目に、仕草に、切実なモノが漂っていた。尚斗としては、理由はそれだけで十分だったわけで。
「……結花ちゃんには悪いとは思うんだけど、有崎君にしか聞けないし」
「……は?」
 夏樹がちょいと頬を染め、照れたように俯いた。
「ゆ、結花ちゃんと…付き合ってる…のよね?」
 殺気。
 突っ込んできた結花の勢いを吸収しつつ、軌道を上に逸らしてやる。
「……と」
 回転しながら落ちてきた結花の身体を受け止めた。
「夏樹様っ、どこをどう見たらそんなおかしな考えが浮かぶんですかっ!?」
 目を回すこともなかったのか、結花が尚斗に抱かれたまま声を荒げた。
「い、今も、そんな風に見えるんだけど…」
 そう呟く夏樹の顔が赤い。
「今…?」
 結花は口を閉じ、今、自分の置かれている状況を確認するために視線を動かした。
「てい」
 顎に向かって突き出された右手を避け、尚斗は結花の身体を下ろした。
「だ、誰の許可を取って、お、お、おひ……抱っこしてますかっ!?」
「そう思うなら、もうちょっと考えてからタックルしろな……後ろに転がすと、ちょうど車にひかれそうなタイミングだったし」
 と、尚斗が背後の車道をあごの先で示すと……なるほど、確かに遠ざかっていく車が見えて。
「そ、それとこれとは話が別ですっ…っていうか、全然違います」
 顔を真っ赤にしてきーきー騒ぐ結花を見て、夏樹がくすりと笑う。
「だからっ、何でそこで笑うんですか、夏樹様っ」
「ご、ごめんね…でも…」
 口元を押さえる夏樹の顔が赤い……もちろん、さっきとは別の理由で、だろうが。
「私と有崎さんは、ただの知り合いですっ」
「おお、ケダモノから知り合いにランクアップか…頑張ったな、俺」
「顔と名前を知ってる程度の知り合いですっ、学校に行く途中に合う野良猫とか、犬と同じレベルで舞い上がるなんて、悲しい人ですね」
「結花ちゃん」
 声が大きいというわけではなかったが、無視することを許さない強い口調で夏樹が結花に呼びかけた。
「はい…?」
「そういう言い方は…良くないと思うわ」
 どこか窺うような視線を夏樹に向ける結花。
「……結花ちゃん」
「わかりました」
 そう言って、結花は尚斗に向かってほんの少しだけ頭を下げた。
「すみませんでした、有崎さん」
「いや、俺は別に…」
 そもそも言葉のあやというか、そんな風に注意するような言葉遣いでも……と言いかけ、尚斗は一旦口を閉じた。
 夏樹が、お嬢様と呼ばれる人種であることを思い出したというか……下手に言葉を重ねても夏樹が困惑するだけのような気がしたからだ。
「それはさておき、付き合うとかそういう関係じゃないのは確かですよ」
 と、軽い口調で微妙な雰囲気を和らげる努力を。
「そ、そうなんだ…」
 そう呟く夏樹を、結花はじっと見つめ……口を開いた。
「妙なこと吹き込んだの、香月先輩ですね?」
「な、なんでっ…?」
 狼狽気味の夏樹の問いには答えず、結花がため息をつき……尚斗に目を向けた。
「……知りあいですか?」
「冴子先輩か?2、3度顔を合わせた……程度の関係、のはずなんだが」
「ち、違うの…冴子は単に『あの2人、そうなるかもね…』って言っただけで……私が勝手に色々想像しただけというか…」
 自分の勘違いで冴子が責められるとでも思ったのか、夏樹が慌てたように弁明を開始する……が、結花と尚斗はほとんど聞いておらず。
「……巧妙に責任を回避する言葉を選んでるあたりがいっそうタチが悪いんですけど」
「まあ、あの人にはあの人なりの考えがあるんだろ……適当な理由で、適当なことする人じゃないのは間違いないだろうし」
 結花が、じろりと尚斗を睨む。
「……どうした?」
「夏樹様の良き友人であることだけは間違いないとは私も思ってますけどね……あの人って、それ以外は謎の人ですよ、色々と」
「それは、何となくわかる」
「……気にならないんですか?」
「別に」
「……」
「そりゃ、ちびっこ的には不愉快かも知れんが……どうせ、夏樹さんにそう言っただけだろ。今誤解は解けたし、何か問題あるのか?」
 結花がため息をついた。
「……妙なとこで鈍いですね、有崎さんは」
「は?」
「だからね、私が勘違いしただけで、冴子は悪くないから…って、2人とも聞いてる?」
 空回りする夏樹の言葉が、冬の風に紛れて消えた……。
 
「……今日は終わりましょ」
 世羽子がそう言った瞬間、弥生は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
 普通、目の前で人がそんな風に倒れたら大騒ぎをするものだが、世羽子は平然と表情で弥生を見下ろし……
「弥生は、私が思ってたよりずっと厳しく育てられてるみたいね……体力の不足分をそれだけ精神力でカバーできれば大したものよ」
「……」
「…なに?」
 何を呟いているのか……と、世羽子がしゃがみ込んで弥生の口元に顔を近づけた。
「……に、2時間ぐらいって…言ったのに……世羽子の…鬼…悪魔…」
「体力的に2時間ぐらいで限界……と、見くびっていたことについては謝罪するわ」
「……ど、どのみち、限界まで……やらせるつもりだったのね…」
「まあね……甘やかすだけじゃ友人とは言えないでしょ」
 などと言いながら、世羽子が服の袖をまくった。
「……?」
「このままだと、明日ちょっとばかりつらいことになりそうだから」
 倒れたままの弥生の身体を抱き上げ、ベッドの上に転がす……が、本来あってしかるべき反応が弥生の身体から返ってこない。
「……本気で限界ね、弥生」
「……鬼」
「いや、誉めてるのよ……本当の限界まで頑張れる人間は珍しいから。まあ、それはそれで限界越えて大騒ぎになるタイプとも言うけど」
「……」
「と、いうか……精神力に比べて体力なさ過ぎというか。バランスが悪すぎるのも考えものだし……訓練メニューとか考えた方がいいかしら?」
「……恨んでやるぅ…呪ってやるぅ…」
「……ちょっと黙ってなさい」
 すうっと息を吸い込み、世羽子がマッサージを開始した。
 5分、10分……。
「あ…よう…こ…」
「寝てもいいわよ…まだ、1時間以上かかりそうだから」
「……すぅ」
 世羽子の声に誘われるように、弥生は穏やかな寝息をたて始めた。
 弥生が眠りについたせいだろう、世羽子のマッサージが一見荒っぽくなる……もちろん、本当に荒っぽいわけではないのは、弥生の寝息が穏やかなままの事から明らかで。
「さて……針も使おうかしら」
 もちろん世羽子は資格など持っていないが、必要と判断すれば父親の身体に針を打つことは珍しくない……人間の壊し方を徹底的に叩き込まれる過程で、当然のように治し方の知識も身に付けさせられたのだ。
 母の病気に対しては無力だったが……。
 
「……なんでこうなったんですかね」
 両手に買い物袋を提げた尚斗の後をついていきながら、ため息混じりに結花が呟く。
「交換条件まで出しといて、今更ぐだぐだ言うな」
 結花に背中を向けたまま、尚斗がちょっと空を見上げた。
「つーか、スーパーの総菜売り場で、値引きシールが貼られるのをじっと待ってるより、よっぽどマシな提案だと思うが」
「……人を荷物のように小脇にかかえながらの言葉は、提案じゃなくて強迫って言うんです」
「ま、強迫なら強迫でもかまわんが」
 結花がもう一度ため息を……皮肉っぽく、大きくついた。
「金はかからない、後かたづけの必要もない……上げ膳据え膳ってやつだろ。何をそんなにこだわるか」
「家に有崎さん一人って聞けば、普通は後込みします」
「ああ……言われてみると、そうか」
 なるほど、それは気付いてなかった……という感じの尚斗に、結花が三度ため息をつく。
「言われる前に気付いてくださいよ…」
「心配するな、もしその気ならちびっこが抵抗しても無意味だから」
「……警察官の前で、同じ台詞言えますか?」
 などと毒づきつつも、結花は尚斗に対してそういう危険性をまったく感じていない。
 じゃあ、一体何が引っかかっているかというと……それはもちろん『なんでこうなったのか?』の『何故』の部分に冴子の思惑が大きく関わっているような気がして仕方がないからだ。
 尚斗がそういう事に関して無頓着に見えるため、余計に気になってしまう部分もあるだろうが……冴子に対する拭いがたい苦手意識故の過剰反応が、大部分を占めている。
「というか、普通は俺の料理の腕前とか気にしねえか?」
「総菜に値引きシールを貼られるのを待っている人間の舌ですからね……数年間、真面目に家事やってる人に勝てるとは思いません」
「……一人暮らし、長いのか?」
「特待生ですからね……遠いんですよ、実家」
「じゃあ、小4からか……大変だな、そりゃ」
 のほほんとした、いつもの口調で答える尚斗の背中を、結花はじっと見つめて。
「それより、ちゃんとじょにーさんのレポート見せてくださいね……約束破ったら、テーブルひっくり返して暴れますからね」
「そういうことできるタイプとは思わんが……つーか、じょにーの報告書読んで、なんか意味あるのか?」
「……」
「……どうした?」
「あのですね……有崎さんは、じょにーさんというか、宮坂さんをどこまで信用してます?」
「信用という言葉の定義にもよるが……まあ、悪いやつじゃないのは確かだな」
「悪気がなくても悪いことが出来るのが、人間って生き物だと思いますけど…」
 尚斗がちょっと足を止めて、後ろを振り返った。
「な、何ですか?」
「もし、ちびっこが絶対に許せないと思うようなことを宮坂がやったなら、俺に言え」
「……」
「どうした?」
「ちょっと怖かったので」
「あ、すまん」
 謝る尚斗に向かって結花がちょっと笑った。
「秋谷先輩とは怖さの質が微妙に違いますね、有崎さんは」
 
「ほれ、こいつだ」
 椅子にちょこんと座った結花に、尚斗がじょにーの報告書を手渡した。
「……どうも」
 ちょっと頭を下げ、結花はそれに目を通し始める。
「……」
「……夕食の準備、始めないんですか?」
「へいへい」
 結花に背を向け、尚斗は夕食の準備を始めた。
「……寒くないか、ちびっこ?」
「さっきも言いましたけど、へーきです。どうせ、これから火も使うでしょうし、わざわざ暖房つける必要ありませんよ」
 報告書に目を落としたまま、顔も上げずに結花が答える。
「そっか、まあ寒かったら言ってくれ」
「……」
 無視されたのではなく、結花が報告書を読むことに集中し始めたのを悟り、尚斗は口を閉じた。
 それから5分ほど経って、結花が声をあげた。
「有崎さん」
「なんだ?」
「報告書、これだけですか?」
「確か、全部で10枚だった……そこは、信用して貰うしかない」
 尚斗の返答に対して、どこか困ったように結花が俯いた。
「いえ、そういう意味じゃないんですけど…」
「……ま、とりあえずお茶でも飲め」
 と、タイミングを計っていたように、尚斗が結花の前に湯飲みを置く。
「ありがとうございます…」
 頭を下げ……結花がちょっとキッチンに視線を向けた。
「前も思いましたけど、コンロが3つあったりして本格的っぽいですよね、ここのキッチン」
「昔は1つだったんだがな……俺が小学生の頃、母さんに頼んで2つにしてもらって、高校に上がる直前、青山が……そっちの、一番プロっぽいコンロを設置して3つになった」
「……なるほど」
「つーか、他に聞きたいことあるんだろ?」
 そっちの方が聞きやすいかと判断したわけではなく、あくまでも料理の続きのために尚斗が再び背を向ける。
「……そうですね」
 と、曖昧に同意したものの……そのまま結花は沈黙してしまい、尚斗の料理の音だけが台所に響く。
「……手際いいですね」
 などと、時折思い出したように結花が口を開くが……そんなことを聞きたいわけではないのは明らかで。
「ちびっこ」
「な、なんですか?」
「こっちとこっち、どっちの味付けが好みだ?」
 と、多少身構えていた感じの結花に、尚斗が味見用の小皿を2つ差し出す。
「……こっちです」
「そっか……じゃあ、そっちで」
「……なんか、楽しそうですね?」
「まあな……誰かのための料理って、わりと好きだし。さっきも言ったけど、親父がいるならともかく、自分だけの食事のための料理なんて面倒くさいだけだしな」
「……誰でも良かったって感じですね?」
「んー、そういうわけでもないが……まあ、そこにちびっこがいたからな。縁ってやつだ」
「縁ですか…」
 結花がちょっと口を尖らせた。
「最初は、誘拐でもされるのかと思いましたよ」
 スーパーの店員が時間の経った総菜に値引きシールを貼っているのを見ていたところを、いきなり捕まえられた……というか、小脇にかかえられた。
 結花を小脇にかかえたまま、尚斗は『なんか嫌いな食べ物はあるか、アレルギーとかないよな?』などと尋ねつつてきぱきと買い物をすませ、店員の好奇の視線を感じながらもそのままの体勢で(笑)レジをすませ……父親がちょうど出張中でな……などと、説明されたのはスーパーを出てからだ。
「そう思ったなら、もうちょっと抵抗した方がいいぞ」
「……誘拐ってのは冗談ですけどね、抵抗しても無駄かなって、半分ほどは諦めましたから」
「……残りの半分は?」
「……うまく、隙をつかれたって感じですね」
 多分、あの時、あの場所でなければ拒絶した……タイミングが合ったというより、隙をつかれたという表現の方が近いと思って、結花はそう言った。
「まあ、ちびっこはただで飯が食えるし、俺はちびっこのお陰でちゃんとした飯が食えるし……大岡裁きってやつだろ」
「……大岡裁きの意味、わかってますか?」
 苦笑しつつ結花。
 さっき、世羽子とは微妙に怖さの質が違うと言ったが……優しさの質も微妙に違う。
 尚斗と世羽子の組み合わせは悪くないはずだと結花は思い、だからこそ余計に気になった。
「……藤本先生と、いつ知り合いました?」
「知り合いっていうのか、あれは…」
「あ、もういいです、わかりましたから」
 尚斗のクラスにも演劇部員はいて、他の部員達と綺羅と尚斗のやりとりに関して話していたことを結花は耳に挟んでいるし、例の、一部の女子生徒の間で噂になっている映像に関しても知っており……少なくとも、尚斗が綺羅に対してあまり友好的でないのは今の反応でも明らかだった。
「何がわかったんだ?」
「いえ、有崎さんが藤本先生にあまり好意を持ってないって事が」
「まあ、最初の出会いが出会いだけにな……とはいえ、悪い人じゃないとは思うんだが」
「……宮坂さんに対する評価が、今の発言でまた一段と下がったんですけど」
「……」
 料理の手を止め、どこかあらぬ方角をみつめる尚斗に結花が声をかけた。
「……気を悪くしたなら申し訳ないですけど」
「あ、いや…」
 振り返り、結花に向かって首を振ってみせると……尚斗はぽつりと呟いた。
「言われてみるまで気がつかなかったが……確かに、藤本先生と宮坂って、どこか似たイメージがあるな」
「……それはまた、新鮮な意見ですね」
「んー、外見とかそういう話じゃなくて……こう、外面と中身のギャップの雰囲気というか……うまく説明できんが」
「うまく説明できないことは、無理に説明しない方がいいと思いますよ。言葉って、一人歩きしますから」
「……」
「……なんですか?」
「んー」
 再び料理を始めつつ尚斗。
「頭のいいやつって、やっぱり言うことが似てくるもんだな……そう思った」
「……秀峰を受験する予定だったんなら、有崎さんだって…」
「俺は頭悪いよ……テストで点数がとれるとか、そういうのは関係ねえし」
「……だとしたら」
「ん?」
「私、頭悪いですよ……きっと」
「それはない」
「……言いきりますね」
「ま、青山には負けるだろうが……頭のいいやつはいいやつで大変だからな、むやみやたらと胸を張る必要もないだろうが、負い目を感じる必要はもっとないだろ」
 しばしの沈黙の後、結花が口を開いた。
「有崎さん」
「本題か?」
 相変わらず、背中を向けたままで尚斗。
「食事の後で、です。せっかくですから、楽しい食事にしたいですし」
「そっか……なら、俺も腕を振るおう」
「……ま、一応は楽しみにしてあげます」
 お金のやりとりのない、誰かが自分のために作ってくれる料理。そんなモノを食べるのは何年ぶりだっただろうか……そんなことを考えながら、結花の意識は少しずつ朦朧としていくのだった。
 
「おーい、起きろ、ちびっこ」
「……っ!?」
 テーブルから顔をあげ、きょろきょろと周囲を見渡す結花……今の状況が認識できていないのは明らかな仕草で。
「ここは有崎家の台所。演劇部のボランティア公演の帰りに、ちびっこは俺に拉致された」
 ぱちぱちっと数回瞬きし、結花は尚斗の顔をじっと見つめて言った。
「……ね、寝てましたか、私」
「うむ、それについては少々謝らなきゃいけないことがあって…」
「な、なんですかっ!?」
 無意識に自分の身体を抱きしめ……自分の身体に、肩掛けと膝掛け、そして足元に電気ストーブが置かれていることに気付く。
 もちろん、その下の学校の制服は自分が着ていた状態のまま……を認識したところで、結花は失礼な事を想像した自分を恥じるような気持ちで、尚斗に向かってひとまず頭を下げることにした。
「わざわざ、ありがとうございます……っていうか、起こしてくださいよっ!」
「いや、他人の家で寝てしまうほど疲れてるみたいだし、しばらく寝かせておくついでに、手間のかかる料理にチャレンジしてみようと思って……つい」
「つい……なんですか?」
「うむ、今9時半」
 尚斗の指さす方向……壁に掛かった時計を見て、窓に視線を向け、結花はため息をついた。
「1月の26日ですよね?」
「さすがに、それは起こす」
 結花がちょっと疑わしげな視線を向けて。
「……寝かせておいた方がいいなと判断したら、起こしませんよね?」
「それは…そうだな」
 思わずといった感じに、結花が苦笑した。
「……さっきも言いましたが、一人暮らしですし問題ないですよ。私の気持ちの問題だけです」
「そうか、それなら良かった……まあ、帰りは送るから心配するな」
 そう言いながら、尚斗がテーブルの上に料理を並べ……。
「……パーティでも始めるつもりですか」
「いや、メインはともかく、色々おかずの種類があった方がたのしいか、と思って……心配しなくても、俺の明日の分も込みの量だからな。適当に好きなもんつまんでくれればいい」
「……明日、夏樹様との待ち合わせに遅刻したらタックルですよ」
「断っておくが、俺の個人的な理由で待ち合わせに遅れたことは……2回ぐらいあるな」
「……有崎さんの、個人的な理由じゃない理由で遅れたことは?」
「それこそ、数え切れないと言うか……つーか、世羽子との待ち合わせに限っては、ほぼ全滅だったような気もする」
「……いただきます」
 唐突に手を合わせて結花が言う。
「……おう」
 小さく頷き、残りの料理を並べる尚斗。
「……む」
 シチューに口を付けた結花がちょっと動きを止めた。
「おお、そういう反応されると、自信がつくなあ」
「……」
 結花はちょっと尚斗に目をやり、もう一口食べてから口を開いた。
「所詮、総菜が値引きされるのを待ってるような人間の舌ですけどね……まあ、私は素直に美味しいと思いますよ」
「ふむ、それは良かった……毎日だと、親父も何も言わなくなるしな。紗智の反応も今ひとつだったし、ちょいと不安だったんだが」
「……秋谷先輩には、食べさせてないんですか?」
「料理じゃなくて、ケーキならあるが……殴られたからなあ。結構自信作だったんだが、あれはちょいとショックだった」
 結花は少し納得いかないように首を傾げたが……スプーンを置いて箸を取り、テーブルの上に並べられた他の料理に手を伸ばした。
「私が言うのも何ですが、冷めない内に食べましょう」
「それもそうだな…」
 と、テーブルを挟んた2人の夕食は、そこそこ会話も弾み……やがて、結花が箸を置いた。
「ごちそうさまです」
「食細いな」
「いつもより食べたんですけどね」
「むう、いつもより食べてそれか……つーか、何を聞きたいんだ?」
「……不躾な質問なのは承知ですけど」
 結花はちょっと言葉を切り、尚斗の視線を見返すようにして言葉を続けた。
「秋谷先輩と別れたのって、何でですか?」
「ふむ、俺がガキだったってとこかな。それ以上は、俺だけの話じゃないし、聞かれても困る」
「なるほど…」
 結花はちょっと居住まいを正して。
「私も…秋谷先輩と同じ特待生です」
「……」
「だから、もうちょっとつっこんだ理由を聞いても、有崎さんの気持ち以外の問題はないと思います」
「むう、本気だな、ちびっこ」
「結構本気ですね……まあ、こっちが本気なら有崎さんは真面目に向き合ってくれる、みたいなイメージがあるんで、そこにつけ込んでいるわけですけど」
「……」
「背がちっちゃいってだけで、有崎さんは私の頭撫でますよね?おあいこですよね?ちがいますか?」
「うむ、怒ってもないし、気分を害してもないから、別に自分を責めんでもいいぞ」
 不躾な質問しているという負い目が作用しているのか、子供じみた言い訳を始めた結花をなだめる尚斗。
 世羽子とは対照的に、誰が相手であろうとも傷つけるという事に関して割り切ることが出来ないのだろう……などと思いつつ。
「世羽子の場合、母親の病気がらみでちょいと物入りだったというか…」
 尚斗は一旦言葉を切り、目を逸らさずにじっと自分を見つめている結花を窺うような感じで言葉を続けた。
「つーか、俺も人のことは言えんが、世羽子もかなり世間知らずだからな……学校経営のための特待生なのは承知だが、ちょいと不自然な額の金が動いたわけで」
「そうですね、秋谷先輩に関してどれだけの金額が動いたかは知りませんが、私の場合、小4からの総額を計算すると……」
 ここで初めて結花が視線を逸らした。
「まあ、今はそれはおいとけ」
「……」
「何で別れたかと言われると、正直、世羽子に聞かなきゃわからん……聞かなきゃわからないなんていう事が、俺がどうしようもなくガキだって証明だとは思うが」
「……どういうことですか?」
 料理に箸をのばしつつ尚斗。
「まあ、その前から色々あったんだけどな……俺の母親が死んだり、世羽子の母親が倒れたり……女子校に転校することになったんだけど……って言われて、そうかって頷いたら……まあ、何というか」
「……」
「転校つっても、近所だしな。引っ越しするわけでもないし、引っ越ししても会いには行けるし……俺としては、それだけだと思ったんだがな、多分世羽子にとっては、それだけじゃなかったんだろ」
「……」
「それをわかってもらえない事で、世羽子は俺に腹を立てた……というか、どこかで絶望した……俺はそう思ってる」
 尚斗がちらりと結花を見た。
「世羽子が怒った理由、わかるか?」
「……秋谷先輩が、特待生とかそういうこと口にするとは思えないんですけど」
「言わなかったな……でも、俺は知ってた」
「……」
「自分に何か出来ることはないか……色々考えたがな、仮に、俺が何らかの手段で金を稼いで、それを世羽子に渡したとすると……世羽子はもっと傷ついたと思う」
「……」
「……ぶっちゃけた話、俺というか世羽子が青山に頼めば、どうにでもなった金額だったと思うけどな、多分、それは世羽子の性格を考えたら最悪の手段だったはずで……俺としては、何もせずに見守るのが一番世羽子を傷つけずにすむと判断した」
「……言わなきゃわかりませんよ」
 ぽつりと。
「ん?」
「何の事情も知らないと思っている相手に、『転校することになった』て言って、『そうか』で頷かれたら怒りますよ、普通」
「……」
「あの人は、秋谷先輩は……きっと、ギリギリのギリギリまで、弱音なんか吐かない人ですよ。有崎さんは、その秋谷先輩がギリギリで吐いた弱音を無視したんです……いや、無視されたと思ったんです。だからですよ、だから、あんな優しく笑ってた人が……氷のようになって…」
 世羽子との再会を思い出しながら……別人としか思えなかったあの日の世羽子を思い出しながら、結花は立ち上がっていた。
「誰にでも優しい人が、自分にだけ優しくないなんて…それが、自分の付き合ってる人だなんて思いたくないですよ、絶対」
 何でこの人を責めてるのか、そもそも責める理由も、資格もないことをわかっていながら、結花はとまらなかった。
「どう考えても、有崎さんのせいじゃないですか」
 あ、言い過ぎた……と、結花の興奮すら一気に冷ました言葉に、尚斗はただ静かに頷いて。
「なるほどなあ……やっぱ、ガキだな、俺は」
「……」
 怒りもせず素直に納得する尚斗を見ながら……結花は、自分が夏樹に同じようになじられて素直に受け止めることが出来るかどうか自問した。
「……すみませんでした、えらそうなことを言って」
「え、何が?」
 そう聞き返してきた尚斗に、結花は思わずふきだしてしまう。
「え?」
「なんでもないですっ」
 先のことはどうなるかわからない……が、冴子の思惑通りに、夏樹とこの少年がつきあい始めるのも悪くないと思いつつ。
 もちろん、世羽子に対する微妙な罪悪感を覚えながらだが。
 
「……なんですか、それ?」
「ん、保温タイプの弁当箱……明日の朝飯にでも食ってくれ」
「そ、そんなことまでしてもらっては…」
「もう詰めちまったからな……ここで断られた方が手間になると言うか」
「……仕方ないですね…って?」
「いや、元々親父のために買ったんだけどな、鞄に入らないし、格好悪いからイヤとか言って、埃かぶってたやつだから、気が向いたときに返してくれ」
「はあ、そうですか…」
 ため息をつき、結花は空を見上げた。
 もうすぐ11時になろうかという時刻……夜空にオリオン座が映えている。
「んじゃ、行くか…」
「はい……って、自転車とかじゃないんですか?歩いて返ると、結構な距離ですよ?」
「自転車…」
 暗くて表情は確認できなかったが、それはどこか曖昧な呟きで。
「ええ、別に2人乗りがどうとか、うるさいこと言いませんよ」
 
 『自転車で送る』
 
「そうか……そこまでの覚悟があるなら、自転車を出そう」
「え、私、覚悟の話なんてしましたか?」
「納屋から取ってくるから、ちょっと待ってろ」
 と、尚斗が姿を消し……すぐに、自転車を押しながら帰ってきた。
「……なんか、やけに重々しい音が気になるというか、シルエットが妙にごついというか」
「うむ、母さんが俺のために特注で作ってくれた自転車でな……なんか名前はごーてん…とかなんとか言ってたがはっきりとは覚えてない」
「よくわかりませんが、そのまま忘れていた方がいいような響きですね」
「まあ、ほとんど乗らなかったんだけどな……走った方が楽だし」
「なんか、さっきから聞き捨てならない言葉がポロポロこぼれてるんですが、一応つっこんだ方がいいですか?」
「さて、後ろに乗れちびっこ」
「ちょ、ちょっと待ってください……とりあえず、乗れるんですよね、自転車?」
 結花の腰が微妙にひけている。
「馬鹿にするな……つーか、そもそも麻理絵を乗せて遠くに行くために、作ってもらった自転車だっつーに。ほら」
 と、結花の身体を抱え上げて後ろに乗せた。
「えーと、一応ベルト止めて……んじゃ、いくぞ…」
「え、ちょっ、ちょっと待…」
 結花の思惑とは裏腹に、2人の乗る自転車は普通に走り出した。
 いや、自転車とは思えないライトの光量とか、ペダルの回転数がかなり多めとかいう、些細な部分をのぞけば、だが。
「あの、有崎さん…?」
「どうした?」
「その、左手で何やってます?」
「これはダイナモ回してるんだが……夜は、ライトつけるために片手運転にならざるを得ないと言うか、まあ、速度出さないから心配するな」
「……」
「何故黙る」
「いえ、別に……シートベルトついた、自転車って斬新ですね」
「ないと危ないからな」
「……その理論で言うと、バイクにもついてなきゃダメな気もしますが、バイクにつけると余計危険ですよね?」
「……まあ、細かいことは母さんに聞かなきゃわからんのだが」
 有崎さんのお母さんって死んでるじゃないですか……という言葉を結花がぐっとのみこんだのは、尚斗に対する気づかいと言うより、今晩死ぬ事になるんだろうかという恐怖が先だったからで。
「……」
 ふと前を見れば、尚斗の背中。
 なんとなく、腰に手を回してみたりしたのは、一人で死ぬのはイヤだと思ったからなのか。(笑)
「お」
「え?」
 結花の頬が、尚斗の背中に押しつけられる。
「いや、猫が横切ったから止まったんだが」
「……なんか、異常にブレーキの効きが良くありません?」
「スポーツカーのブレーキがどうこう言ってた。シルエットがごついのはそのせいだ……青山は、『ブレーキの性能上げてもあんまり意味ないと思うが』とか言ってたが、速度を上げない限り、なかなか便利ではある」
「……」
「だから、何故黙る?」
「いえ、ベルトがついているのって、『ロケット発射』を防ぐためなのかなと思いまして…」
「……?」
「いえ、わからなきゃ別にいいですが」
「つーか、ちびっこの家まで送った方がいいのか?それとも、近くで降ろした方がいいか?」
「え?」
 きょろきょろと周囲を見渡し、電柱に記された番地を確認して結花は目をぱちぱちさせた。
「い、いつの間にこんなとこまで?」
 自転車に乗って、ちょっと会話していた……ぐらいの感覚でしかなかった結花が、思わず声をあげる。
「いつの間に……って、もう5分は経ってるぞ」
「まだ5分ですっ」
「で、どうする?」
「……せっかくですから、家までお願いします。わかります?」
「じょにーのレポートに住所書いてあったからな。番地だけでどこかはわかる」
 と、再び走り出し……。
「ここだろ?」
「早っ」
「まあ、自転車だからな」
 と、呟いた尚斗の額に微かに浮く汗に結花が気付いたかどうか。
「……ありがとうございました」
 自転車を降り、礼儀正しく頭を下げた結花に伸ばそうとした手を引っ込めて。
「まあ、早く寝ろとは言わんが、ほどほどに休めよ……と、忘れるとこだった」
 と、荷台に乗せていた弁当箱を結花に渡して。
「んじゃ」
 クッと腰を上げると、尚斗の乗る自転車が結花の視界からあっという間に消えた。
「……」
 肌を突き刺すような寒気の中、結花はほんのりと温かい弁当箱をかかえて、尚斗の姿が消えた方向をしばらく眺めていた。
 それがどういう表情だったか……知るのは、夜の闇のみである。
 
『なおにーちゃん……ここどこ?』
『さあ?』
 後ろに乗った麻理絵に向かって朗らかに。
『……』
『ちゃんと、道は覚えてるから大丈夫』
『別に……帰れなくなってもいいけど』
 
 納屋に自転車を片づけつつ、尚斗は麻理絵と2人で目的地もなく遠くに出かけたことを思い出していて。
「……そういや、あの時みちろーは一緒じゃなかったな」
 こっそり着いていこうとして、尚斗の自転車に着いていけなかったとも言う。(笑)
 麻理絵が何を考えていて、自分に何をさせようとしているのか……そもそも、今みちろーは、麻理絵のことをどう思っているのか。
 と、いうか……何故、付き合っていた麻理絵をおいて、遠くの学校に進学したのか。
『言わなきゃわかりませんよ』
 さっきの、ちびっこの台詞が頭をよぎり、尚斗は麻理絵に教えてもらったみちろの番号を確認し……。
 
『もしもし?』
「…みちろーか?」
『…尚斗か?』
「久しぶりだな、寝てたか……というか、今大丈夫か?」
『まだ、11時過ぎじゃないか……というか、久しぶりだな』
「そうだな……5年ぶりか」
『4年だろ』
「なんだ、気付いてたか」
『そりゃな』
「麻理絵に聞いたが、なんか頭のいい学校に進学したんだって?」
 多少の沈黙。
『別に、サッカーでも良かったんだ……遠くの学校なら』
「……何があった?」
『それは、俺のことじゃなくて……麻理絵のことだよな?』
「俺の勘違いならいいんだが、麻理絵は今追いつめられてる……なんか、心当たりはないか、みちろー」
『心配なのか、今更?』
「一発貸しな、みちろー」
『ははっ』
 みちろーが笑った。
『安心したよ……変わってないな、尚斗は』
「背が伸びた」
『え?』
「180近くある」
『……175』
「俺の勝ちだな」
 昔を懐かしむと言うより、今の立ち位置を確かめるような会話。
 このままではらちがあかないなと思って、尚斗は腹を決めた。
「みちろー、お前明日は…」
 
 『明日は、夏樹さんとの待ち合わせがあったっけ』
 
 ちょっと口ごもった尚斗に、みちろーが引き取るようにして言った。
『俺、来週そっちに戻るから……その時じゃダメか?』
「来週?」
『ああ、春から3年だからな、進路とかで色々な』
 離婚したみちろーの両親が、今どこで何をしているか……それを知らない尚斗は、頷くしか出来ず。
「そうか、わかった…」
『ああ、また連絡入れる…』
 
 
 
 
 むう、なんか妙に長くなったな。(笑)
 仕方ないよね、ちびっこだし。
 いや、後半(飯の場面とか)暴走したのを、必死で書き直してこれだけの量に収めたとか、だまってればわかりませんよね。
 1周目の失敗を繰り返さない……うむ、高任は成長しています、多分。(笑)

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