「……ふむ」
 昨夜から未明にかけて雪を降らせた雲が残る西の空はともかく、太陽が昇り始めた東の空にはほとんど雲もない。
 雪もかろうじて積雪と呼べるレベル……もちろん、この地方ではそのレベルでも珍しいのだが、先日の大雪に比べると……である。
 ローカル局のニュースでも、道路の凍結による事故をとりあげてはいたが、交通網に乱れはなさそうだった。
「ま、なんかあったら、ちびっこから連絡来るだろ」
 家の門の前の雪を綺麗に取り除き、尚斗は大きくのびをした。
 今日は、午後から演劇部のボランティア公演……と言っても、集合は午前11時。のんびりと家事をこなしてから家を出て充分間に合う計算だ。
 そう、確かに余裕のあると言えよう……妙な邪魔さえ入らなければ。(笑)
 
 台所のテーブルに頬杖をつき、どうでもいいような口調で紗智が呟く。
「ま、いいんだけどね…」
 なんとなくというか……吉野の純粋さにあてられたとでもいうのか、朝早くから、教えられたとおりの手順で雑炊を作ってみたのだが。
 昨日は深夜に帰ってきたにもかかわらず、今朝もまた7時前に『急いでるから』と紗智が作った朝食に見向きもせずに会社に向かった母親。
 父親にいたっては、そもそも家に帰ってこなかった。
 子供が一人でご飯を作り、親がそれを食べる……冷え切った家庭に、少し暖かさが生まれたりするのは所詮フィクションの世界のことなのか。
 今日から毎日毎日それを続けたとして……時には、そんなことが起こりうるかも知れないが、元々の原因が原因だけに、それは一時のぬくもりにしかならないだろう。
 みちろーのように我慢強くもないし………そもそも、自分の中にその方面に対する熱量がまるで残っていないことを紗智はイヤになるほど自覚しているのだ。
「……というか、仕事とはいえ、吉野さんは何年もこれをやってるわけよね」
 それを思えば、ほんの一日、気まぐれのような好意を無視されたからといって、怒るのは間違っているような気がして。
 少なくとも、両親の収入は必要以上に自分に還元されている……それを忘れてしまうほど、紗智は不公平でもなかったから、余計に心のもやもやの持って行き所がない。
 何はともあれ、1月26日(土)の朝7時30分。
 紗智は、一人ではちょっと……という量の雑炊を前にして、途方に暮れていた。
「……すごく美味しいってわけでもないのよね」
 学校での調理実習をのぞけば、ある意味初めての料理でそこそこポイントを押さえて完成させられるのはセンスがある証拠……などと、自分で評価できるはずもない。
 結局は、昨日の鍋のだし汁のうまみだけ……などと、冷めた事を考えてしまうのは、家庭の事情から、長年の習慣と言ってしまえばそれまでか。
「……一人でどうしろってのよ、この量」
 そう口にしながら、自分が作ったんだけどね……などと、心の中で呟きつつ。
「……」
『先週はご馳走して貰ったからね、今日はちょっとお裾分け』
「いやいやいやいや…」
 突如頭の中に湧いた妄想を振り払うべく、紗智がぶんぶんと首を振る。
 どう考えても無理がある……っていうか、鍋抱えて数十分かけて訪ねるのは不自然きわまりない。
「……って、なんで尚斗っ!?」
 照れ隠しのための一人ツッコミを決め、あんなやつ知るかっ……と、しばらく紗智は雑炊を食べることに集中した。
 5分…10分……15分。
「な、なんか、雑炊が、別の何かにレベルアップというか、レベルダウンしたような…」
 そもそも、だし汁の量に対してご飯の量が多すぎたのだが……もちろん、熱々の状態でささっと食べ終えれば問題はなかったのだが、時間の経過と共に米がだし汁をぱんぱんに吸ってしまい……味はともかく、食欲を減衰させる外見になり果ててしまい。
「確か…ご飯って、冷凍できたのよね。これは…」
 ブブーッ。
「……なんか危険な気がする」
 例によって、紗智の勘は高性能だった。(笑)
「……どっちかと言えば、猫まんまよね、犬にはきついか」
 飼い犬であるラックに押しつける案も却下……最近あまり散歩に連れていってないことを紗智は思い出す。
 かつて麻理絵を引きずったまま走り回ったラックだが……高校1年の終わり頃から急激に老いた印象があり、最近は紗智に向かって散歩をねだる事もない。
 と、いうか……昔のように散歩させると息切れを起こす。(笑)
 冗談抜きで、今なら麻理絵のいい散歩相手というところだろう。
「とりあえず、食べなきゃ片づかないし……」
 あんまりゆっくりしてると、吉野が来てしまう。
 一人で食べきることが出来ない量を作った事を吉野に知られるのは、何となく気恥ずかしいというか……ついでに言うと、吉野の教育のたまものとも言うが、『食べ物を粗末にする』という概念が同年代の少年少女には珍しく紗智にはほとんどない。
「……休み休みで、食べるしかないか」
 ため息混じりに紗智は呟くのだった。
 
「いらっしゃいませ…」
「2人、禁煙席でお願いします」
「かしこまりました」
 温子とは顔見知り状態なのか、営業スマイルとは思えない微笑みを浮かべて、ウエイトレスが2人を席へと案内する。
「さってと……朝ご飯食べたばっかりだし」
 それなら、何故ここに来る……とでも言いたげに、ウエイトレスが苦笑しながらオーダー端末をポケットから取り出した。
「海鮮パスタと、グリーンサラダ、デザートは三色ババロアで」
 朝ご飯食べたばっかりと違うの……などと、聡美の目が点になり、ウエイトレスはなんとか無表情を貫いたようだった。
「聡美ちゃんは、どうする?この店のお勧めは…」
「お、オレンジジュースを」
「えー」
「……ご注文繰り返します…」
 バイトだけにあまり商売っ気を出そうとも思わなかったのだろう、温子の抗議をシャットアウトすべく、ウエイトレスがオーダーを繰り返す。
 頭を下げたウエイトレスが立ち去ってから、聡美が口を開いた。
「ここ、良く来るの、温子?」
「というか、さっきのウエイトレスと知り合い」
「そ、そうなの…?」
「美味しい店を知るためには、そういう人脈が必要なのよ……同じチェーン店の噂とか、色々聞けるしね」
「じゃなくて、学校が同じだったとか…?」
「……っていうか、あの人もバンドやってるから」
「そ、そうなんだ…」
 聡美の視線が束の間店内を巡り……思い出したかのように、温子に舞い戻った。
「あ、あの…温子、今日は大丈夫なの?」
「大丈夫…というと?」
「ほ、ほら…先週も、デートの邪魔しちゃったから…」
「あ、へーき、へーき」
 なんだ、そんなことか……という感じに、昨晩のやりとりをちらりとも伺わせることなく、温子がひらひらと手を振った。
「テスト前って知ってるし、先週ちょっと脅しをかけたから、多分2ヶ月ぐらいは大丈夫だよ」
「脅し…?」
「いや、こっちの話」
 温子が首を振る。
 世羽子にモーションをかけようとした……なんて話を、聡美に出来るはずもない。(笑)
 そもそも、かるーい恋愛感情などというモノを、世羽子はもちろんのこと、聡美もまた理解(納得)できる性格だとは、温子は思っていない。
「というか、聡美ちゃんはへーきなの?」
「ん、友達と会うだけ、だもの」
「あ、そうじゃなくて…」
 温子は聡美の言葉の意味を瞬時に理解し、それ以上触れないように聞き直した。
「テスト前に、テスト勉強とかするのかなって…?」
「それは大丈夫…1学期、2学期の内容だから、ちょっと見直しするぐらい。偶然の点数が意味を持つテストでもないもの」
 と、聡美もまた優等生らしくさらりとそんなことを言う。
「ふむ……慌てているのは弥生ちゃんだけか」
「……ひょっとして」
 チラリ、と聡美が温子を見た。
「世羽子に、テスト勉強させられるとかいう話にでもなったの?」
「……世羽子ちゃんのことになると鋭いね、聡美ちゃん」
「そ、それは…その…」
 微かに頬を染め、聡美が俯いた。
「弥生は、成績とか気にしないもの……その弥生が慌ててるっていったら、そのぐらいしか考えられなくて」
「なるほど…」
 温子が小さく頷いた。
「というか、世羽子ちゃんの教え方ってスパルタなの?」
「……」
「……聡美ちゃん?」
「な、なんて言ったらいいのか……全然難しいこととかしないんだけど、すごく疲れるというか」
「……?」
 
 などと温子が首を傾げた頃。
 
「弥生」
「は、はいっ?」
「もう一度最初から」
「……はい」
 何の反論もせず、弥生が教科書のページをめくった。
 部屋の真ん中に立って教科書を朗読し、詰まったり間違えたら最初からやり直す……世羽子が弥生にやらせているのはそれだけだ。
 難しいも何も、ごく簡単なこと……のはずだが、暖房の入っていない部屋にも関わらず、弥生の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「2時間とは言ったけど、終わるまでやるわよ」
「はい」
 普段ならもう少し軽い返答になるはずだが……ぴいんと張りつめた空気が、それを許さないのだ。
 もちろん、その空気を作り出しているのは世羽子だが。
「(……さすがというか)」
 弥生の様子を観察しながら、程良い(世羽子主観)緊張を……長時間に渡って微妙なコントロールを加えながらプレッシャーを与え続ける世羽子が、本当は一番大変なはずなのだが、自分自身に対する訓練と割り切っているのか平然としたモノだ。
 もちろん、かつて自分が味わった本当のスパルタ教育に比べれば、なんと言うこともないのだろうが。(笑)
「…弥生」
「は、はいっ」
「5分休憩」
 張りつめた空気がすうっと弛緩するのを感じて、弥生は思わず膝をついた。
「よ、世羽子…何、やってるの?」
「弥生に、軽く敵意を向けてるだけ」
「て、敵意っ?」
「のほほんと勉強するより、危険を感じながらの方が身に付きやすいもの」
「そ、そういう勉強方法は、初耳…」
 もう、どう反応したらいいのかわからずに途方に暮れて……弥生はため息をついた。
「耳に優しい言葉を使えば、緊張感ね……華道でもなんでも、レベルの高い人に師事すれば、今みたいな緊張感がついて回るでしょ、それと同じよ」
「…同じ…かしら…?」
 そう言われてみるとそんな気もするが、心のどこかで『絶対違うっ』と叫んでいる自分がいるのも事実で。
「……後、4分。お茶ぐらい飲んだ方がいいわよ」
 飲もうが飲むまいが、時間が来たら再開する……と、宣言するような世羽子の言葉に、弥生はぽつりと呟いた。
「す、スパルタ以外の何物でも…」
 
「……ん」
 結局、吉野が来るまでに食べ終えることの出来なかった雑炊……というより、おじや……を、一口食べて、吉野が小さく頷いた。
「上出来ですよ、紗智さん」
「……」
 微妙な不信の眼差しを向ける紗智に苦笑しつつ、吉野はあらためて言った。
「何十年も料理してきたんですから、作ったときがどうだったか……ぐらいは簡単に想像できます」
「……っていうか、言われたとおりにやっただけだし」
 ちょいと照れるように視線を背ける紗智に向かって、吉野は首を振った。
「言われたとおりに出来ない人の方が、世の中多いんですよ……というか、これを簡単って思える紗智さんは、絶対にセンスあります」
「……」
「それに、ちゃんと味見して、味付けを調節したでしょ……私が教えたとおりの味付けだと、この味にはなりませんから」
「それは…失敗してるって事じゃ…?」
 吉野が……我が子を見守る母親のような微笑みを浮かべた。
「美味しいは、1つじゃないんですよ紗智さん……私の考える美味しいが、紗智さんの美味しいと完全に一致してる必要もありません」
「でも、それって……吉野さんにとっては、美味しくないって事よね?」
「美味しいですよ……ただ、私の好みとはちょっと違うと言うだけで」
「……」
 紗智の沈黙に吉野は苦笑し。
「紗智さん、お昼までは出かけませんよね?」
「あ、うん…」
「この話の続きは、お昼の後でしましょう」
 
「……なるほど」
 聡美の話を聞き終え、温子は小さく頷いた。
「一応忠告しておくよ、聡美ちゃん」
「な、何?」
「聡美ちゃん、別に責めるわけじゃないからね…」
 と、温子は前置きし……デザートのババロアを一口食べた。
「ふむ、ここのババロアは今ひとつ…」
「……」
「んー、最近いろんな店でババロアを食べてるんだけど…」
 温子はちょっと口を閉じ、コホン、と小さな咳をしてから、あらためて口を開いた。
「言いたくないことは、素直に言いたくないって言えばいいのに……それを嘘で固めようとするから、色々と話が破綻しちゃうんだよ」
「……」
「今更だけど、軽音部に関しても同じというか……同じ事を繰り返さないためにも、聡美ちゃんは、自分に嘘をつくセンスがないって事を自覚した方がいいかも」
「せ、センス?」
「まあ、それに関してはまた今度ね…」
 今日はそんな話をしに来たわけじゃないし……と、温子は再びデザートを一口。
「結局、アレだよね……聡美ちゃんは、世羽子ちゃんが転校してくるずっと前から、世羽子ちゃんの事知ってたんだよね?」
「な、何で?」
「んー」
 温子が困ったようにうなだれた。
「聡美ちゃん……とりあえず、私が聞きたいのは世羽子ちゃんの昔のバンド仲間のことだから、そんなに警戒しないでほしいな」
「……」
 少し俯いた聡美の表情から、頑ななモノを感じ取ったのだろう。
「なるほど……そのあたりに、聡美ちゃんが絶対話したくない部分があるのね…」
 さあ困った……と、温子がデザートを食べる。
「……ごめん」
「んじゃ、とりあえず1つだけ」
 器用にも、というか、お行儀悪く(笑)温子はスプーンをくわえたまま言った。
「聡美ちゃんとしては、その、青山君を、世羽子ちゃんと会わせたくないの?それとも、2人を会わせるとろくな事が起こらないと思ってるの?」
「あ、う…」
 今度は聡美が困り果てる番だった。
「そ、それは……どういう…意味?」
「いや、まあ、その……バンドのメンバーが喧嘩別れするパターンって、色恋沙汰か、音楽の方向性でもめてってのがセオリー(温子主観)だし」
「……」
 別に無理矢理話を聞き出そうとは思っていない温子なのだが、聡美の反応を見ればある程度推測できてしまうわけで。
 これは、目の見える人間に見るなと命令する方にそもそも無理がある。
「わかりやすく言うと、その2人の仲が極端に悪かったりすると、私としてもちょおっと接触の仕方を考えなきゃいけないわけだし」
「せ、接触するのは、決定事項なの…?」
「うん」
「……」
「後は、聡美ちゃんなり、世羽子ちゃんの事を考慮して、どういう接触の仕方をするか……までかな」
「……」
「聡美ちゃんが、それすらもやめさせたいって言うなら……これは残念だけど、それなりの理由が必要」
「……会うのは…やめた方が」
 歯切れの悪い聡美の口調に、想定していた以外の理由が込められているような気がして、温子はちょっと首を傾げた。
 聡美にとってはものすごく居心地の悪い沈黙がしばらく続き……。
「ひょっとして、その、青山君は人間的に問題ある人なの?」
「わ、悪い人じゃないとは…思うんだけど…私は、ちょっと耐えられなくて」
「…?」
「その、青山さんはものすっごい性格悪いの……能力の低い人間を人間として認めてないような、そんな感じの人かな」
「……なのに、『悪い人じゃない』?」
「あ、それは……ゴメン、言いたくない」
「なるほど」
 温子はちょっと頷き……ふっと思いついたような素振りで、口を開いた。
「そういえば、世羽子ちゃんと青山君、後の一人は男の子?」
「え、あ、うん…そう…だけど」
「……」
「……ぁ」
「なるほど、あのヴォーカルは世羽子ちゃんか」
「あ、う…」
 敢えてそれを口に出した温子の真意に気付くことなく、聡美はただおろおろと狼狽える。
「しかし、世羽子ちゃんも器用だねえ」
 曲によって……というか、その曲にあわせて声を変化させる、よく言えば七色の……だが、実質は技術に特化した歌い方というだけで。
 並のバンドならともかく、あのメンツの音を支えるだけの力がない……とは、温子の評価。
「んー」
 温子は聡美に助け船を出すため、何気ない素振りで時計に目をやった。
「そろそろ出よっか?」
「え?」
「ほら、もう11時……聡美ちゃん、お昼までには帰る、みたいな様子だったし」
「あ、うん…」
 腰を上げながら、もう他に聞きたいことはないの……聡美がそんな視線を向ける。
 それは聡美の性質である善良さが半分、今の会話でどれだけのことを知られてしまったかという恐れが半分という感じで。
「聡美ちゃん」
「な、なに?」
「嘘をつくってね、悪いことばかりじゃないと思うよ」
 その言葉は、温子なりの優しさだったのだが……聡美は不思議そうな表情を浮かべたのだった。
 
「……まずい」
 余裕を持って、10時前に家を出たはずなのに。
 まず手始めに、足をくじいて歩けなくなったおじいさんを……以下略。(笑)
 次から次へと、誰かの助けを求めている人に遭遇することを繰り返す……最近はそうでもなかったが、そういう日が昔は割と……。
 ちなみに、尚斗がさっきまでいたのは病院で。
 微かな積雪が妙な具合に凍結していたらしく、スリップによる交通事故直後の現場に出くわしてしまい、救急車の到着を待っているとまずそうなレベルの怪我人がいたので、血止めなどの応急処置を施しつつ、救急指定の病院までひとっ走り。
 患者の受け入れで少しもめたが、そこは、持つべきモノは友人というか何というか。
 青山に連絡を入れて口を利いてもらい……気がつけば、11時30分。
 冷静に考えると、それだけのトラブルに巻き込まれてまだ11時30分……なのだが、事情を知らない待ち合わせの相手にとっては、もう11時30分でしかない。
 と言うわけで、尚斗は風のように走っていた。
 その前に、ちびっこに連絡を入れたら……などと思うのだが、青山の連絡先ならいざ知らず、教えてもらったばかりの番号など覚えていられるはずもなく。
 もちろん、尚斗がどんなに急ごうとも、時間が巻き戻ることはないわけで。
 
「……すまん、色々あって遅れた」
「ま、12時前に来てくれたならいいです」
 予想外の反応に、尚斗は今更のように周囲を見渡した。
「……あれ?」
 演劇部員勢揃い、ではないのが明らか……というか、仲間と雑談している表情から、時間前のゆるみがうかがえた。
「部員の集合時間は12時です……私は色々準備があって10時半に来ましたけど」
「……」
「時間通りに来れば、何かしら手伝って貰おうとは思ってましたし……一応、11時過ぎに、家に電話したら、誰も出ませんでしたから、向かってはいるんだろうなと」
「それは、要するに……遅刻するのを予想して、本当は12時だけど、11時集合と?」
「早い話、そうですね」
「そっか、気を遣ってもらって、サンキューな……それと、遅れて悪かった」
 結花はちょっと苦笑しつつ。
「普通は、怒るところだと思うんですけど…」
「実質が何時でも、11時って言われて、その時間に遅れたら謝るのが普通だろ?」
「そうですね……というか」
「…?」
「有崎さんは、携帯持ってないんですか?」
「持ってるけど基本的に使わない……持ち歩くのは、多くて月に2回か3回ってとこだな」
「……使わないなら、解約したらどうです?無駄ですし」
「ま、そのあたりはちょいと事情があってな…」
 結花はちょっと目を伏せ……話題を変えた。
「……一応、遅れた理由とか聞いていいですか?」
「ああ、とりあえず……」
 と、尚斗が家を出てからの事を説明すると。
「波瀾万丈の休日ですね」
 などと、落ち着いた言葉が返ってきたり。
「……普通のやつは、まず信じないんだが。変わってるな、ちびっこ」
「有崎さんに、言われたくないです」
「つーか、最初は世羽子ですら……『妙な言い訳しないっ!』などと」
「なんですか、今の微妙な間は」
「いや、いきなり手と足が出たんだ。正確には、左手、右手、左足から、踵落としの順番で」
 尚斗としては敢えて冗談っぽく言ってみたのだが、結花は心配げに尚斗を見つめたりする。
「良く、無事でしたね…」
「……」
「だから、なんですか、その沈黙は」
「いや、なんつーか……」
 困ったように頭をかき……尚斗は、あらためて結花を見つめた。
「不躾な質問で悪いが、ちびっこって、世羽子とどの程度の知り合い?」
「秋谷先輩にその自覚があるのかは疑問ですが、命の恩人ですよ」
「……とすると、ちびっこの鬼タックルは世羽子直伝か」
「秋谷先輩に言わせれば、『なんとか形になったレベル』らしいですけどね」
「いや、世羽子にそこまで言わせたら大したもんだ」
 などと、頷く尚斗に、結花はため息を混じりに呟いた。
「……というか、『命の恩人』って言葉を、華麗にスルーしましたね」
「別に、言葉通りの意味だろうし……でも、ちびっこがそう言うって事は、妙なのに絡まれてたとかいうレベルの話じゃないな。車にひかれそうなところを助けてもらったとか、強盗の人質になってたとか、そんなとこか」
 微妙な沈黙を経て、結花が口を開く。
「……あの、私相手だからいいですけど、基本的にものすごくシュールな会話って事を自覚してますか?」
「まあ、それなりには…」
「……ちなみに、郵便局強盗というか、私が小6年というか、有崎さん達が中学1年の秋の事ですけど」
「中1の秋…郵便局強盗……」
 どこか遠い目をして、尚斗が呟く。
「ああ、あの日か」
「え?」
「いや、体育祭の次の日というか、振り替え休日に待ち合わせしててな……その日も例によって遅刻したんだが、世羽子が何も言わなくて、聞いてみたら『強盗に出くわして、今日は私も遅刻したの。だから、怒る権利なんか無い』って……多分、その日の事じゃないかと思うんだが?」
「……っていうか、秋谷先輩との待ち合わせに、度々遅刻してたんですか?」
 なんて命知らずな……とばかりの結花の表情に気付いているのかいないのか、尚斗はちょっと苦笑して頭をかくのだった。
「んー、世羽子との待ち合わせの時は、今日みたいに助けを求める人にやたら出くわす日が多かったと言うか……ま、言い訳にもならんが」
「……」
「どうした?」
「それ…ちょっとおかしくないですか?」
「と、言うと?」
「いえ、そういう日が度々あるという前提で考えてみてもですね……今日は、病院を出てこっちに向かってから、そういうトラブルは無かったんですよね」
「まあ、そうだな」
「実際は12時ですけど、11時集合って私が言って……11時を過ぎたら、ぴたりとトラブルが止む……って、ものすごく不自然じゃないですか?」
「……は?」
 今ひとつ意味が分かりかねます状態の尚斗に向かって、結花は噛んで含むような口調で言った。
「そもそも、そんな風に困った人に出会いまくることが不自然と言えば不自然なんですが……それだったら、待ち合わせの時間を過ぎても継続する方が自然じゃないですかね」
「あぁ…」
 なるほど、そういう意味か……と、尚斗は一旦頷き、首を振った。
「いや、今日はたまたまだと思うぞ……つーか、気がついたら日が暮れたとか、日付が変わってたとかもあったし」
「……」
「……反省のポーズ?」
 手を塀についたまま、結花が顔をだけ振りむいて。
「呆れてるんですっ!」
「いや、でもほっとけないというか……」
「そうじゃなくて…」
 結花は大きくため息をつき。
「それで、高校入試の日も遅刻したんですか?」
「……それ、誰に聞いた?」
 そう聞き返した尚斗の表情がちょっぴり真剣だったことに少し戸惑いつつ、結花は今更隠す必要も覚えなかったので素直に答えた。
「じょにーさんの報告書にありましたよ……秀峰の入試に遅刻したって」
「……ほう」
「なんですか、その微妙な間は」
「いや……どーやって、調べたのかな…などと」
「……」
 尚斗の呟きに、今度は結花が考え込む。
「どうした?」
「……いえ、そろそろ部員も集まったようですし」
 周囲を見れば……なるほど、周囲には演劇部部員が勢揃いのようで。
 結花の側に人が寄ってこないのは、尚斗がいるせいか……と、近づいてくるのは…。
「おはよう、結花ちゃん」
「おはようございます夏樹様」
「ごめんなさい、ちょっと家の方で用事があって、ギリギリになってしまって…」
「大丈夫です、もうほとんど準備は整ってますから」
「そう、ありがとう結花ちゃん」
 と、夏樹は尚斗の方を振り返ってにこっと微笑んだ。
「おはよう有崎君、今日はよろしくね」
「あ、いえ、こちらこそ足手まといにならないように努めます……と言っても」
 ちらりと結花に視線を向けて。
「なんか、準備はもう終わったような発言だったが」
「後かたづけには期待してますから」
「とか言いながら、もうとっくに手はずは完了してるんじゃないのか?」
「どうですかね」
 そんな2人のやりとりに、夏樹は少しばかり寂しそうな表情を浮かべるのだった。
 
 いつもの半分ほどの量の昼食をテーブルに並べながら、吉野が微笑んだ。
「あんまりお腹空いてないだろうから軽めにね…」
「抜く、という選択肢はないんだ」
 紗智の表情は対照的に苦笑いといった感じで。
「それだと、多分3時頃にお腹がすいて……夕飯がおかしな具合になるでしょうね」
「……そうかも」
 その時はその時で……とは言わず、紗智は苦笑を浮かべたまま、吉野の言葉の正しさを認めた。
「じゃ、いただきます」
「はい」
 一口食べたところで、紗智は吉野の顔を見た。
「多分、紗智さん好みの味付けになったと思うけど」
「え、あ、いや…そうだけど、なんで?」
「朝の雑炊ですよ……味付けの濃い薄いならともかく、言ってさえくれたら味付けの調節ぐらいできます」
 吉野はぽんと自分の胸を叩いてみせる。
「あ、いや…別に美味しくないとかじゃなくて、ちょっと違うかな、ぐらいだったし」
「紗智さんは、若いのに気を遣いすぎ」
「んー」
 紗智がちょっとめんどくさそうな表情を浮かべて頭をかいた。
「大人っていうか、テレビや新聞で最近の若い子は周囲に気を遣わないとか言ってるけど…私に言わせれば逆だと思うけど」
「……私、もう若くないから」
 拗ねたようにそっぽを向く吉野。
「いや、そうじゃなくてっ……っていうか、吉野さん、全然若いってば」
「何を基準にして?」
「……」
「……」
「とっ、とにかくっ、大人が思ってるよりよっぽど気を遣いまくってるの。広く浅くで他人と深く関わらない事なんかも、結局は周囲と摩擦を起こさないための処世術としか思えないし。会話じゃなくてメールとかもそうで……そりゃ、妙なのもいるけど、いつの時代だってそうでしょ?」
「……紗智さん」
 静かな口調と表情に、紗智はちょっとたじろいで。
「な、何?」
「紗智さんが、私のことを何も聞こうとしなかったのは……だからなの?」
「……」
「私がそう思うのは、若くないからかも知れないけど……紗智さんのそれは優しさじゃなくて、ちょっとばかり薄情かも知れないわね」
「……なんか、離婚してこっちに戻ってきたぐらいは知ってる。それ以上は、聞いちゃいけないかなって…」
「なるほど…」
 吉野は1つ頷き……言葉を続けた。
「まあ、2回結婚失敗した人間のアドバイスと思って聞いてね……知り合って何年も経つのに、初対面の人間と同じ気の使い方をされるってのも、相手にとっては微妙なものよ」
「……2回も失敗したの?」
「そこは聞き流すのが優しさかもね」
 苦笑しつつ、吉野が呟いた。
 
 
 
 
 まあ、尚斗が温子と顔合わせしてない場合……こういう感じに、聡美というキャラを通じて外堀が埋まっていく設定です。
 

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