「親父、タクシーが待ってる、急げ」
「はっはっはっ、待っててもらえるウチが華だぞ、息子よ」
「だから、急げっていってんだ」
 と、尚斗は父親の手に鞄を持たせて、玄関から送り出す。
 帰宅したのは夜の1時、そして朝の6時前に出張へと出発……尚斗の父親も、なかなかに厳しい生活をおくっていると言えよう。
 まあ、あの青山をして『仕事に関しては間違いなく有能』と言わしめるのだからかなりのものなのだろう……かなりのモノだろうとは思うのだが。
 日常生活における、生活力の破綻っぷりからどうも想像しにくいと言うか。
「……つーか、宮坂タイプなんだよな親父は」
 そう呟き、尚斗はため息をついた。
 父親の3泊4日の出張……それは、25日(金)、26日(土)、27日(日)の週末に、尚斗一人きりという事を意味している。
 まあ、同年代の少年少女の一部にとっては小躍りするようなシチュエーションなのだろうが、尚斗に言わせれば特に珍しくもなく『だからどうした?』というレベルの出来事に過ぎないが。
 ふっと、タクシーが去った東の方角に目を向ける。
 時刻はまだ朝の6時……1月も終わりとはいえ、朝日が昇るには早すぎる。
 
 香神温子、17歳………彼女の朝は早い。
 もちろん弥生や御子の朝は問答無用で早いし、母が入院してから家事をするようになった世羽子の朝だって早い……ごく標準的な女子高生と比べて、という意味合いだ。
 まあ、朝が早い理由はごく単純。
 女子校の始業時間が8時10分と他の学校よりに比べて早い事に加え、通学時間は約1時間半……単純計算で、6時20分までには家を出なければ間に合わない。
 1月も終わりに近づき、少しずつ日が昇るのが早くなっているとはいえ……電車に揺られながら朝日が昇るのを眺める生活はそれなりに厳しい。
 こんこんこん…。
「温子ちゃん、もうすぐ6時よ〜今朝はお寝坊さんかしら〜?」
 がたっ、ばさばさばさっ、ずどどっ。
 がちゃり。
「さ、さっきまで11時ぐらいじゃなかった?」
 ドアを開け、それが温子の第一声……手にはドラムスティック。
 さあ、温子は一晩中時間の経過を忘れるほど何に熱中していたのか?
 
 女子校方面へと向かう電車を待つホーム……いつもの時間にやってきた聡美は、ベンチに腰掛けている温子に気付いて声をかけた。
「あ、おはよう、温子」
「……」
「……温子?」
「……」
「温子、世羽子が呼んでる」
「っ!?」
 いきなり立ち上がり、寝ぼけ眼できょろきょろと周囲を見渡す温子……に、怒ることなく、聡美はため息をついた。
「……って、ここ駅のホームだし」
 今の状況を把握したのか、温子がため息をついて振り返る。
「おはよー、聡美ちゃん…」
「……ひょっとして、一晩中聞いてた?」
 聡美の呟きに、温子はがしっと手をとって。
「聞いた、っていうか、何あれっ!すごすぎだよっ!?」
 温子らしからぬ要領を得ない物言いが、衝撃の強さを何よりも物語っており。
「弥生ちゃんが転ぶのも無理ないよね……っていうか」
 ふっと、温子のテンションが急降下。
「世羽子ちゃん……満足できてるのかな」
「……満足できてないなら、世羽子はやらないと思う」
「んー、それもそうだね」
 と、温子は小さく頷き。
「対抗できるのは弥生ちゃんの声ぐらいかなあ……正直、あのメンバーでヴォーカルだけが2枚か3枚格下って印象だったし」
「……」
「ん?」
「……別に」
「まあ……あれ聞くと、世羽子ちゃんが私達に合わせてるのがよくわかってね……テープ聞きながら、ドラムの動きについていってみようと熱中してたら、朝になってて…」
「……ついていこうと思うだけですごいね」
 聡美がちょっと寂しげに微笑んだ。
「私は…少し、ほんの少し音楽の事を理解した時に諦めたから。私に、青山さんの真似は出来ないって…」
「……青山さん?」
「えっ?」
「何、あのギターの人は青山って言うの?っていうか、聡美ちゃんは、知ってるの?ドラムは?ドラムの人は?」
「えっ、いや、あのっ…その…」
 聡美は視線を右へ左へと彷徨わせ。
「そ、その…お父さんの会社の取引先に関係のある人で…あ、青山さんのことだけど……で、でも、ドラムの人の事は知らないから。全然知らない」
「そっか…残念」
 寝不足のせいだろう、温子は聡美の言葉をそのまま受け取り、残念そうにうなだれ……ふっと顔を上げた。
「ちなみに、その青山さんって今どこにいるの?」
「どこも何も、この前から同じ学校に…」
 反射的な動きだったのだろうが、聡美はさっと自分の口元を手で隠してしまい……いくら寝不足とはいえ、そこまでされたらどんな鈍い人間でも気付く。
「……聡美ちゃん」
「……べ、別に、温子に隠そうとかそういうことじゃ…」
 わかってる、という風に温子はちょっと手をあげて。
「聡美ちゃん、後で聞かせてもらうけど……どこまで私に話していいか、ちゃんと整理しておいてね。話したくないことを無理に聞こうとは思わないから……それで、いい?」
「うん…」
 聡美は観念したように頷いた。
 
「悪いわね、弥生」
「……と、いうか……これが、いつもの世羽子の…歩くペース…よね?」
 かなり苦しそうだが、弥生の呼吸音は抑えめだ。
 食事の際に、箸先1センチほどしか濡らさなかったり……本人は自覚しているのかいないのか、行為の端々に育ちの良さというモノがやはり顔をのぞかせる。
 まあ、呼吸音を乱さないだけの余力はあるのだろう……と、世羽子は好意的に解釈することにした。
「……なに?」
「いえ……弥生は少し、体力不足かなって」
「で、できれば…世羽子じゃなくて…温子や、聡美と、比べてね…」
 端から見れば、世羽子の姿は歩いているようにしか見えないのだが、弥生のそれは小走りに近い。
 それに加えての会話である……多少息が切れても仕方が無いというモノだろう。
 ちなみに、弥生の鞄は世羽子が持っている。
「聡美はともかく……温子はかなり体力あるわよ」
「そうかも…しれないけど…」
 弥生はちょっと首を傾げ。
「というか……何かあったの?」
 元を正せば、昨日、そして今日と、『ちょっと走ってきた』世羽子の帰りが遅かったせいでこういう状態になっているのだ。
 それを恨む気持ちはさらさらないが、さすがに二日連続ともなれば弥生としても気になる。
「別に…交番を探すのに手間取っただけ」
「……」
 弥生の沈黙を別の意味に受け取ったのか、世羽子が言葉を足した。
「昔と違って、最近は警官のいないとこが多いのよ……一応関節外して縛りあげてはいたけど、放置して逃げられるのもまずいし」
「……」
「……弥生?」
「いや…今日の夜…から、ちょっと、雪になるかもって…言ってたから…気になって」
 弥生らしからぬ強引な話題転換ではあったが、世羽子が空を見上げた。
「ふうん……先々週は大雪、先週は冬らしからぬ大雨で、今週は雪……ねえ」
 空を見上げながらも、世羽子の歩く速度は変わらなかったため……弥生としては、やはりついていくので精一杯。
「よ、世羽子…もうそろそろ…間に合うペースに、なったと思うけど…」
「……そうね」
 と、世羽子の歩調が弥生に合わせたモノになり、弥生はやっと一息ついたのであった。
 
 朝のHR終了から、1限目の授業までのわずかな時間……週明けにはテストが控えているからと言うわけでもなく、教室の中はいつもの通り静かなモノで。
「……宮坂は今日も休みか」
 廊下側の、宮坂の座席を見ながら呟く尚斗に、椅子に横掛けた青山が答えた。
「テスト前だからな、忙しいんだろ」
「それはあるかもしれんが…」
 苦笑しつつも、尚斗はちょっと首を傾げ。
「どーも、この前から俺と顔を合わせないようにしてる気配が…」
「なるほど……俺が思うに、仕掛けのタイミングが早すぎたのかもな」
「……」
 淡々とした口調でそう言った青山の横顔をちょっと見つめ……尚斗が申し訳なさそうに頭を下げた。
「……青山の都合があるなら、先に言ってくれたら良かったのに」
「有崎に、そのあたりの器用さは最初から期待していない」
 そう答える青山は、相変わらず横を向いたまま……正確にはちょっと斜め方向か。
「そ、それは反論できんが…」
「有崎はな、余計なこと考えずに、感じたことを思った通りにやればいい……お前を、小賢しい計算で思い通りに動かそうとするのは、傲慢の極みとしか俺には思えん」
「……思いっきり、馬鹿にされてるような気もするが、多分誉め言葉なんだろうな」
「もちろんだ」
 小さく頷きつつも、青山はやはり横を……斜めを向いたまま。
 その視線の先には、こめかみのあたりをひくつかせている麻理絵がいたりするのだが。
『邪魔をするつもりはないって言ったよね?』
『言ったな…今は、が抜けているが』
 と、麻理絵と目で語りあい、ここでやっと青山は尚斗に視線を向けた。
「まあ、どうしても…の時は有崎に頼むかもしれん。心配するな」
「そうか…」
「尚斗君、もう少し静かにして」
 机の上に広げられた教科書を軽く叩き、麻理絵がじろりと尚斗を睨む。
「すまなかったな、椎名」
 ほんの少しもすまないと思ってなさそうな表情で謝る青山を、麻理絵がじとーっと見つめ。
「別に、青山君には言ってないよ…」
「そうか、それは良かった」
 などと、これほど心のこもらないやりとりも珍しいのだが、尚斗はちょっと首を傾げるだけで。
 もちろん、その斜め後ろで紗智もまた首を傾げていたりするのだが。
 
「おはようございます、水無月センセ」
「おう香月…」
 ちょうど1限目の授業が半分ほど過ぎた頃、当たり前のようにやってきた保健室にやってきた冴子に、水無月は微妙に眉をひそめつつ囁くように言った。
「今朝は、2人ほど客がいてな…」
「……みたいですね、風邪ですか?」
「いや、寝不足……休憩所かなんかと勘違いしてやがる。テスト前なのはわかるが」
「どれどれ…」
 勝手知ったるなんとやらで、冴子が机の上のノート……先週の土曜に尚斗も名前を書いた例のノート……を手に取った。
「……テスト前とは、関係なさそうですけど」
「そうか……片方は特待生だし、もう1人だってかなりの成績だって、綺羅が話してた生徒なんだが」
 少し声が大きくなった水無月をたしなめるように、冴子が唇の前で指を立てた。
「……と」
「出ましょうか…?」
「そうだな…」
 水無月は冴子に押されるように保健室を出て、大きくため息をついた。
「……息が詰まる」
「気を遣いすぎですよ…」
「いや……アタシ自身が、睡眠を邪魔されるのがだいっ嫌いだからな」
 そんな水無月の呟きは、半分は本音、半分は照れ隠しというところか。
「そういえば、最近保健室に男子生徒は来ないんですね?」
「……言われてみればそうだな」
 ちょっと考えるように俯き……苦笑混じりに呟いた。
「まあ、憧れの女子校だ……わざわざ年上の女を追いかけ回す必要も…」
「藤本先生は、ハーメルンの笛吹き並に引き連れてますけど」
 などと、水無月に向かって冴子がにこっと微笑むものだから。
「それは、何か?アタシはもう女としての旬を過ぎたとか、終わってるとか、そもそも魅力に欠けてるとか言いたいわけか?」
「まさか」
 とんでもないとばかりに冴子は手を振り。
「全校生徒憧れのお姉さまだったセンセが、魅力に欠けてるなんてありませんよ……もっとも、私はその頃初等部の生徒でしたけど」
「橘には負けるさ……というか、アタシみたいな生徒が珍しかっただけと思うがね」
「ふふ…無理矢理、ここに転入させられたらしいですね、水無月センセ」
「あー、もう、その話はやめろ…思い出したくもない」
 実家のことなど考えたくもない……ふいっとよそを向くことで、水無月はそれを冴子に伝えた。
「あ、すみません…」
「いや、まあ……気にするな、アタシの問題だ」
「でも……この学校の生活も悪くなかったんじゃありません?」
 冴子の問いかけに、水無月はしばらく考え込み……。
「……微妙」
「そこは、嘘でも、『まあな』とか答えましょうよ、センセ…」
 
「ふっふっふっ、畠山澄香、ふっかーつ…」
「……」
「……友情なんて脆いモノね、朝から具合が悪くて保健室で休んでたのに、そんな蔑みの目で見られるなんて」
「……理由が理由だし」
 大きくため息をつく紗智。
「というか…いくら続きが読みたいって言われてるからって、そこまで…」
「ノンノン」
 ぴっと指を立て、澄香が首を振った。
「私は書きたいから書いてるの。本音を言えば、読者はどうでもいい」
「余計ダメじゃん…」
 
 などと、紗智と澄香が会話を交わしている頃。
 
「あ、大丈夫なの、温子?」
「ま、ただの寝不足だったからね…」
 自分の席に座り、鞄から弁当袋を取り出す温子。
「……面白い本でも見つけたの?」
「いや、面白い本というか何というか……気付いたら、朝だったと言うか」
 まだ聡美から詳しい話を聞いていないため、世羽子の質問に対して曖昧に答えるしかできない温子だったり。
「……むう」
「どうしたの、弥生ちゃん?」
「うん……考えてみたら、2人って学年1位と2位じゃない。テスト勉強とか、どうしてるのかなって」
「…テスト勉強」
 ほぼ同時に呟き、温子は世羽子を、世羽子は温子に視線を向けた。
「…温子、したことある?」
「ないよ、全然……テストに関係なく、したいときに教科書なり、参考書を読むぐらいかな。あ、本屋さんで面白そうな問題の載ってる問題集を探して、立ち読みしながら解くのも勉強のうちに入るかも」
「……よね。普段から普通にしてれば、必要性感じないし」
 周囲に敵作りまくりの会話だが、それを聞いていた教室内の女子生徒の中では、1名だけが奥歯が軋むほど噛みしめる反応を見せるにとどまった。
「……まあ、出来る人ってそんなもんなのよね」
 深い深いため息と共に弥生が呟く……が、御子はともかくとして、内弟子がそれを聞けば『弥生様がそれを言いますか』などとツッコミを入れただろう。
「というか……授業中や、普段からの勉強時間の質と量が、弥生ちゃんに劣ってるとは思えないけど」
 温子の反論に、世羽子が頷きつつ。
「そうね……ウチに転がり込んできてからも、勉強してる姿は見たことないし」
「あ、う…」
「そうなの?弥生ちゃん…そりゃ、向き不向きがあるのは認めるけど、全然しないってのとは別問題だと思うよ…」
「えと、その…」
 何やら思わぬ方向に風向きが変わり、たじろぐ弥生。
「そりゃ、朝から晩まで勉強勉強、『みなさんには、灰色の学生生活をおくってもらいたい』なんて、学校長がのたまうガッコも、どうかと思うけどね…」
「……そういえば、温子は秀峰だったわね?」
 あ、話題が変わった……と、弥生が心の中でため息をつく。
「まーね……『10年に1人ぐらい、お前のように宇宙人みたいな生徒が出る』とか教師に言われてね、もういろんな意味で居心地が悪いったら」
 温子にしては珍しい、愚痴じみた口調に……世羽子が心の中で『あの2人が進学してたら大騒ぎになってたでしょうね…』と呟いたり。
「宇宙人って……それ、一応誉め言葉じゃ…」
「んなわけないでしょ、弥生ちゃん」
「でしょうね…」
 温子の反論に世羽子が頷き。
「教師も人間だもの……自分の理解の外にいる生徒の相手をしたくないのよ」
「や、そこまでクールに考えてたわけじゃないんだけど…」
 一体この少女はこれまでどんな人生を歩んできたのか……そんな視線で、温子は世羽子を見る。
「ま、それはそれとして、弥生」
「なに?」
「せっかくだから、この週末はテスト勉強とやらをやってみましょうか」
「え、え?」
「まあ、弥生のお母さんが成績をあまり重視してないのは知ってるけど……今の状況で成績が下がったなんて思われるのも、イヤでしょ?」
「いや、その…そもそも、子供の頃から、習い事で勉強する時間が、ほとんど無かったから…それに、世羽子の邪魔をしたく、ないし…」
 じりっ、じりっと世羽子から距離をとろうとする弥生に向かって、卵焼きを食べながら温子が言った。
「弥生ちゃん、人間諦めが肝心」
「た、他人事だと思って……聡美が言ってたけど、世羽子の教え方ってもんのすごいスパルタなんだって…」
「……スパルタ?」
 温子がチラリと世羽子を見た……が、当の本人は涼しげに呟く。
「本当のスパルタ教育を知らないから、そんなことが言えるのね」
「……」
「……」
 これ以上この話題はつっこまない方がいいと思う。
 そうね、話題変えて、話題を。
 馬鹿馬鹿しいほどに深刻な視線を交わしあい、温子が世羽子に話しかけた。
「……世羽子ちゃん、弥生ちゃんの成績ってどのぐらい?」
「え?」
 それ、全然話題が逸れてないんじゃ……そう言いたげな弥生に気付いているのかいないのか、世羽子がさらりと答える。
「……確か、弥生は内部生の中で、真ん中ぐらいだったわね」
「なんだ、全然勉強してなくてそれなら、弥生ちゃん頭いいよ。このガッコ、レベル高いし……というか、ここのテストは面白いし、やりがいあるから楽しいのよね」
「ちがう、テストを楽しいとか思う時点で、温子と私は全然違うからっ」
 ぶんぶんと首を振る弥生の姿にため息をつき、世羽子が妥協するように呟いた。
「ま、2時間ぐらいで勘弁してあげるわ」
 
 ボランティア公演を明日に控えて、放課後の演劇部部室は……意外にもひっそりとしていた。
「おや…?」
「……公演前日まで、ばたばたしてるのは計画性がないっていうんです」
「なるほど…」
「週明けはテストですしね……来月にも公演を控えてますから」
「ふむ…」
 尚斗は小さく頷き、ちょっとかがむようにして結花の顔をのぞき込んだ。
「そのしわ寄せが、ちびっこにのしかかった……だけでもなさそうだな」
「……かがんでしゃべるのって、頭を撫でる次ぐらいに失礼だと思うんですけど」
「そうかあ?」
「背の高い人間にはわかんないんでしょうけどね」
「俺は中学生になった頃150だったから、低い方だったぞ」
 結花の視線が尚斗の顔に向き……足下へ移動。
「……今は?」
「178」
「ていっ」
 必殺の高速タックル。
 本来なら、攻撃の前に相手の重心より低い位置へシフトするために、一旦沈み込む予備動作を必要とするのだが……ちびっこの場合、その予備動作を必要としない。
 もちろん、下から上へと持ち上げるようにして倒す事で受け身をとらせない本来のタックルに比べ、直線的なちびっこのタックルは、受け手が来ることを予測し、またそれに反応できる能力さえ有していれば……。
「……気が焦って、ちょっとばかり踏み込みが浅かったな」
「だから、何でノーダメージなんですかっ?」
 尚斗に抱き起こされながら、結花が声を荒げる。
「いや、俺の身体の上をちびっこが転がっていっただけだし。マット運動のマットみたいなもんで、ダメージなんてあるわけないだろ」
「よけるのずるいですっ」
「無茶言うな…避けないと、怪我するのはちびっこの方だっつーに」
「何を…」
「あ、来てくれたの、有崎君……あれ、結花ちゃんは?」
 回り込むようにして、結花が夏樹の視界へと飛び出した。
「ここにいますってば」
「あ、ごめんね……」
「……」
 多分、『見えなかった』って言いかけたんだろうな……と思いつつ、微妙な沈黙に包まれる2人に尚斗が声をかけた。
「明日の準備でばたばたしてるだろな…と思ったんですが、心配無用でしたね」
 あ、なるほど……という表情で、結花が尚斗を見る。
「そういう段取りに関して、結花ちゃんは天才的だから」
 まるで自分が誉められたかのように夏樹が微笑みながら答えると……結花はちょっと顔を背けた。
 それは照れていると言うより、どこかいたたまれないといった感じにも見えて。
「んじゃ、今日は…」
 とりあえず帰ります……と、言いかけた尚斗の手を、結花がぎゅっと握った。
「一応、明日の打ち合わせとかしておきたいんですけど」
 尚斗に向かって目をぱちぱち。
「……ああ、打ち合わせか」
 結花に向かって小さく頷く。
「別に、荷物のセットとか、運び出しなら明日でも…」
「明日混乱しないために、前もって一度話しておくんです」
「そ、そうね…」
 夏樹は、結花と尚斗に視線を向け……少し寂しそうに微笑んだ。
「じゃあ、私も用事があるから……後は結花ちゃんにお願いしていいかしら?」
 
「すこーし、気になったんだが、聞いていいか?」
「何をですか?」
 夏樹が去り、残っていた部員が帰り、誰もいなくなった演劇部の部室で結花と尚斗の2人きり。
「いや…なんか、夏樹さんが楽しそうにしてると、心配そうな素振りを見せるよな?」
「そりゃ、夏樹様に男が近づいてますからね…ふつーに心配ぐらいします」
「まあ、話したくないなら、それはいいけど」
「だったら、最初からそれを察して質問なんかしないで欲しいですね」
「いや、それは無理」
「なんでですかっ!?」
 窓の外を見ていた結花が、怒ったように振り返る。
「かなり気配りとか出来る人のくせに、そこでどうして無神経になるんですかっ」
「……世羽子から、何か聞いたんじゃないか?」
「な、なんで、いきなり秋谷先輩が出てきますか…」
 どこか狼狽えたように結花。
「そりゃあ、この学校に俺の知り合いは2人しかいねえからなあ……俺に対するちびっこの態度が変わったのって、それぐらいしか思いつかねえし」
「……」
「まあ…なんだ」
 次の言葉を待つように、結花がじっと尚斗を見つめている。
「俺は俺で勝手にやるけど、なんか力を貸して欲しいときはちゃんと言えよ…頼りなさそうに見えても、一人よりは多分マシだ」
「何で……ですか?」
「何で…だろうなあ?」
 そう呟きながら尚斗が浮かべた苦笑に……いろんな意味を込めた『何で?』に、満点とは言わなくとも納得できるだけの答えを返しておらった気がして、結花はちょっとだけ笑った。
「お節介なんですね、有崎さんは」
「よく言われる……じゃ、また明日な」
「……転んで」
「ん?」
 足を止め、肩越しに顔だけちょっと振り返る。
「転んで怪我をしてる子供が……泣いているより、笑っている方が余計に心配になりませんか?」
「……なるほど」
 それはつまり……結花の認識としては、今夏樹は楽しそうに笑えるような状態ではないと言うことか。
 重そうな結花の口をここまで開かせただけで充分だろう……そう思って、尚斗はそれ以上は聞かずに部室を出ていった。
「……何で、ですかね」
 部室に一人残った結花が、ぽつりと呟く。
 初めて会った時、再会した時、そして今……あの落差の原因が、結花には分かるような気がして。
「なんで、別れたんですかね…あの2人」
 なんとなく口に出した結花の疑問は、じょにーの報告書には記載されていなかった…。
 
「……む」
 校舎を出た途端に、身を切るような冷たい空気が尚斗を襲う。
 空を覆う雲によって、それほどの時間でもないのにあたりは既に暗くなっていた。
「雪かな、これは…」
 天気予報が晴れで、周りの人間もほとんどが晴れと思っている……そういうときの雨の予感は間違いなく当たるのだが、こういう予感はほとんどあてにならない。
「…ん?」
 足を止め……また歩き始める。
 それは予感と言うより、確信に近いモノで。
「……早かったね」
「そうでもないだろ」
「6時ぐらいまでは、頑張ろうって思ってたから…」
 あはは、と麻理絵がちょっとだけ笑う。
「……」
「な、なに?なになになに?」
 尚斗にじっと見つめられて、麻理絵が慌てたようにあちこちに視線を彷徨わせる。
「別にな、普通に頼んでいいんだぞ」
「……」
「何かしてくれって……それでダメなら、色々策を練って考えるって順番が普通だろ」
 麻理絵がちょっと複雑な表情を浮かべ……ため息をついた。
「それじゃあ、意味が無くなるから」
「……と、言うと?」
 麻理絵はしばらく尚斗の顔を見つめ……微笑んだ。
「尚斗君は……そのままでいいんだよ」
「……?」
「ついでに言っちゃうと、私が尚斗くんにさせたいと思ってることはいくつもあるから……普通に頼めばいいなんて単純な話でもないよ」
 また微妙に、尚斗の知らない麻理絵が顔をのぞかせている。
 写真部じゃなくて演劇部に入った方が良かったんじゃないか……束の間浮かんだその考えを、尚斗は苦笑でうち消した。
 多分、麻理絵にはそういう演技は無理なのだ……理屈ではなくそう思う。
「な、何?」
「いや、ちょっとな」
「ふうん…」
 そのまま、2人は歩き出す。
「みちろーくんは、大変だったと思う」
「何が?」
「家が遠いから……ふつう、幼なじみってもっと近所同士の集まりだもん」
「まあ、そうだな」
 麻理絵と尚斗の家にしても500メートルほどの距離があるが……みちろーの家は、駅が1つ違うレベルで普通の子供にはつらい距離だ。
 しかし、みちろーはほぼ毎日麻理絵のためにその距離を通い続けた。
 その麻理絵をおいて……遠くの学校に進学したみちろー。
「……なに?」
「いや……あの頃は、そういうの考えたこと無かったからな」
 往復30キロを平然とこなしていた当時の尚斗にとって、みちろーの行動の意味を理解するまでには結構時間を要した……というか、中学にあがる直前まで良くわからなかった。
「…っていうか、尚にーちゃんの行動範囲が広すぎなのっ。秋谷さんとか、付き合ってた頃、何も言わなかった?」
 尚斗はちょっと考えて。
「約束の時間を守らないとかは別にして、そういうのは別に……海から走って帰ったこともあったし」
「海って……うみっ!?」
 麻理絵の顔が引きつる……それは、間違いなく演技ではなくて素の反応だ。
「今、ちょっとだけ秋谷さんに同情した…」
「他人と遊びに行くときは、5キロを超えたら絶対に交通機関を利用しろと親父に厳命されてたからな、誤解するなよ」
「……おじさんにも同情するよ」
「同情って、あの親父…待ち合わせに遅れたときは花束を用意しろとか、嘘ばっかり教えるんだぞ?」
「何時間?」
「え?」
 じとーっと、麻理絵が横目で尚斗を睨みながら繰り返す。
「15分や30分ならまだしも……2時間3時間だと、逆効果だよ、きっと」
「……むう」
「……自信はないけど、こんな感じじゃない?」
 と、麻理絵が立ち止まって、きっと尚斗をにらみつけた。
「花束買う暇があったら、一秒でも早く来なさいっ!」
「……ぶらぼー」
 多少言葉は違うし、手と足が出なかったとはいえ、まさにその通りの反応というか。
「ちなみに…」
「私なら、尚にーちゃんと待ち合わせなんか馬鹿なことはしません。直接家に迎えにいって、一緒に出かけますっ」
「……?」
「なに?」
「いや…」
 何か微妙に麻理絵の機嫌が悪いというか……今の会話の流れで、何か気に障るようなことを言っただろうかなどと。
 昔話をしたり、来週のテストの話をしたり……それは、5年ぶりにあった幼なじみらしい会話のはずだが、これまでそういう会話をほとんどしてこなかったことに尚斗はあらためて気付く。
 それは、麻理絵に対する微妙な罪悪感となって尚斗の心に落ちた。
 
「冷えると思ったら雪ですよ、紗智さん」
「今年は良く降るよね…」
「降る年はこんなもの……と言っても、あれだけつもったのは紗智さんが生まれる前ですから…」
 にこにこと笑いながら、吉野があらかじめ調理してある鍋をテーブルの上の簡易コンロにセットした。
「そういえば……吉野さんっていくつなの?」
「今年の誕生日で素数になりますよ」
「……ここは、23とか答えておくべき?」
「さすがに、それはちょっとイヤミに聞こえるかしら……紗智さんの母親に見える年齢としても無理があるし」
 にこにこと微笑みを絶やさぬまま、吉野が鍋のふたを開ける……と、白い湯気がテーブルの上を包み込んだ。
「……吉野さん、これ何人分?」
 鍋の中身だけならまだしも、皿に盛られた追加の食材から『いっぱい食べてくださいね』というメッセージが聞こえてきそうで。
「お鍋の材料は、余るぐらいがちょうどいいんです」
「そ、そっかな…」
 紗智は苦笑しつつ、吉野が父や母の分もきちんと用意していた事をわかっている。
 『今日は遅くなるから(帰らないを含む)』『今日は食べて帰ります』……そういう連絡をあらかじめもらっていても、吉野は紗智の両親の都合が変わって一緒に食卓を囲むことを想定して用意する。
 吉野が一ノ瀬家に通い初めてから8年……娘である紗智がとうの昔に諦めた何かを、彼女だけは信じ続けているのか。
「余った分は、明日雑炊にでもして食べてね……作り方はメモしておきますから」
「自慢じゃないけど、料理には自信ないから」
「ホント、自慢にもなりませんよ……まあ、必要があればイヤでも覚えますし、紗智さんがその気なら、私もちゃんと仕込んで上げます」
 ご飯をよそった茶碗を紗智に渡しつつ、吉野がちょっと笑った。
「必要というと…大学進学で一人暮らしとか?」
「……」
「吉野さん?」
「……まあ、必要になったら言ってね」
「……?」
 紗智は首を傾げつつ、鍋に箸を伸ばした。
「じゃ、いただきまーす」
「はい」
 
『……次のニュースです。本日早朝、〇〇警察署に、手足を縛られた男が投げ込まれるという…』
「……」
 食事の手を止めて、テレビ画面を弥生が凝視する。
『この男は強盗事件の容疑者として指名手配されており…警察では余罪を追求するとともに………』
 弥生の視線は当然のように世羽子へと。
「なに、弥生?」
「べ、別に…」
 別にすっとぼけているのではなく、世羽子にとっては何でもないことなのだ……そう頭では理解しているのだが、気持ちの方がついてこない弥生である。
『なお、昨日の早朝投げ込まれた男も、取り調べの結果、先日の××市の事件に……』
「お、おじさま…遅いわね」
「そうね……雪があまりひどくならないといいけど」
「積もってもほんの少し…とは言ってた」
 
 
 
 
 ふと気を緩めると、某キャラにのめり込んでしまいそうな自分を戒めつつ。(笑)
 ちなみに、1月25日(金)のお話……って、まだ3分の1なのか。

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