「……親父、明日からの出張の用意とかちゃんとすませてるか?」
 尚斗の言葉に、父は少しきょとんとした表情を浮かべ。
「そういえば、出張は明日からだったか…」
 ぺしっと自分の頭を叩いたりする行動から、何の用意も出来ていないことは明らか。
 そのぐらい、今晩家に帰ってからやれば……と思うかも知れないが、いつもいつも帰りが遅いだけにそんな余裕があると思えず。
「……3泊4日だったな?」
「いつもすまないねえ…」
「そう思うなら、それぐらいは自分で用意しろよ」
「……つまらんなあ、息子は」
 すん、とわざとらしく鼻をすすりながら父が呟く。
 『それは言わない約束でしょう?』とでも返してもらいたかったのか、息子ではなく娘だったらなあと思っていたのかは不明だが、おそらくろくな事を考えていなかったことだけは確かで。
「つーか、出張先どこだよ?」
「最初が、〇〇で、次に…」
「日本縦断かよ…」
 縦断はオーバーだが、南から北へのブーメラン出張なのは確かで。
「つーか、南から北って風邪ひきそうだな……靴下とか多めに入れとくから、重ね履きしろよ。一応使い捨てカイロも…」
「別に、現地で買えばすむだけの…」
「そんなんだから、毎月、小遣いたりねえとか言い出す羽目になるんだ」
「話は変わるが息子よ」
 微妙に表情をあらためつつ。
「出張するにあたって、軍資金の補充を…」
「昨日、財布に補充してやったばっかりだろうがっ!?」
 1月24日木曜日、有崎家の朝は、平和だった。
 
「おはよう、聡美ちゃん」
「あ、おはよう、温子…」
 通勤客、通学客でごった返す朝のホーム……駅のアナウンスなども飛び交い、喧噪に満ちた空間だというのに、それほど大きな声を出さなくても温子の声は良くとおる。
 女子校最寄り駅まであと3駅……の、例の駅だが、温子と聡美は、それぞれ別の路線の電車でやってきてここで乗り換える。もちろん、それは2人だけではなく、周囲を見渡せば、同じ制服がちらほらと。
「まあ、冬だからしょうがないけど、今日も寒いよね」
「でも、電車の中は暖かすぎたりするから…」
 と、はにかむように微笑んだ聡美が、何か思い出したように顔を上げた。
「そうだ、忘れない内に」
「ん、なになに?」
「ほら、この前……世羽子の昔のテープ聞きたいって言ってたでしょ?一応MDと両方持ってきたの」
 と、鞄から取り出したテープとディスクを温子に手渡しながら。
「でも、世羽子には内緒ね……なんとなくだけど、世羽子、温子には聞かせたくないように思う気がするから」
「んー、それは私も思った……まあ、聡美ちゃんなら絶対にダビングしてると思ったし」
 でも、いいの…?という感じで、温子が聡美の顔を見る。
 少なくとも、世羽子が嫌がる可能性のあることを、聡美がする……というのは、非常に珍しい事のような気がして。
「温子が頼み込めば、世羽子も貸したと思うし……色々迷惑もかけたから」
「迷惑ねえ……じゃあ、今度サト君とお泊まりとかするとき、アリバイ係になって貰おうかな」
「おと……まり」
 聡美の顔が真っ赤になる。
「え、あ、温子って…その…」
「魔性の女って呼んで…」
「もう、からかわないで…」
 と、聡美が口を尖らせた。
「それは、別の意味で失礼な反応だよ、聡美ちゃん…」
「だって、私達…まだ、高2…なのに」
「早いか遅いかだけの違いだと思うけど……まあ、聡美ちゃんの家はアレだし、そんな気楽には考えられないか」
「……お父さんが社長というだけで、私が何かをやったわけじゃないから」
 と、聡美が少し寂しげに笑う。
「そういう風に考えられるだけで、大したモノだと思うよ……ちょおっと勘違いしてる子とかいるみたいだし」
 と、聡美がじっと温子の顔を見つめ……自嘲的な笑みを浮かべて呟いた。
「世羽子に会うまで、私もそうだったの……色々勘違いしてた」
「……そうなの?」
「ほら、私兄さんが3人いるって言ったでしょ……末っ子で、初めての女の子だったから、お父さんがすごく可愛がってくれて…自分が特別だと思ってた。多分、周りの人間にとってはすごくイヤな子だったと思う」
「へえ、そうなんだ…」
 特に深刻に受け取ったりせず、温子はただ単純に意外だという反応でそれに応え。
「じゃあ、世羽子ちゃんと会う中2の終わり頃まで、そんな感じだったの?なんか、弥生ちゃんの話を聞いてると、そんな感じは…」
「え、あ……うん、そんな感じ」
 あからさまにな動揺を示して聡美が頷き……チラチラと顔を窺うものだから。
「そうだったんだ……まあ、恥ずかしがることないんじゃない?私も、そんな聡美ちゃんより今の聡美ちゃんの方が好きだよ」
 などと、温子がさらりとスルーして話を続けてやると、聡美は明らかに安堵した気配をにじませた。
「うん、ありがとう…」
「(……聡美ちゃん、もっと前に世羽子ちゃんと出会ったのかな…)」
 だからどうしたというわけでもないが、温子はなんとなくそう思った。
 
「……たく」
 女子校に男子生徒が乱入し、それまでの取り澄ました雰囲気がカオスに呑みこまれ。
 次の瞬間には、何かが起こりそう……そんな学校に出向くのが楽しみで楽しみで仕方なかったこの一週間だったのに。
「なーにが、『一貫した学校生活を送っているのかなあ』よ……考えてみれば、幼なじみだってのに、5年も会いに来なかった薄情者って事じゃない」
 ぶつぶつぶつと。
「…っていうか、幼なじみがそんな目に遭ってたって聞いて、平然とそんなことが言える男ってどうなのよっ!?」
 それって、学校に行くのが楽しみだったんじゃなくて、誰かに会うのが楽しみだったんじゃ……。
 などと、冷静なツッコミを入れる人材が現代日本では不足しており、今の紗智もツッコミ不在によって己の不満をただ垂れ流すだけとなっていたのだが。
「紗智、おっはー」
「そんな挨拶、とうの昔に廃れたわよっ!」
「……君子危うきに近寄らず」
 と、冷静なツッコミを入れられる数少ない人材であるはずの澄香は、紗智の脇をすり抜けるようにして学校へ向かう。
 ちなみに澄香は電車通学で……温子達とは別の方向、御子と同じ方角からやってくる。
「誰が君子よ、腐ってるくせに」
「……離脱失敗」
 女子校においても運動音痴と称される澄香が、1つの競技に打ち込めば間違いなくかなりのレベルまで……と言われる紗智から、逃れられるはずもなく。
「……というか、徹夜明けなの、優しくして」
 同じ徹夜明けでも、今日はハイテンションではなく、ローテンションの澄香が顔を出しているようで。
「テスト前だってのに…」
「今のを書き上げたら、少しはするわよ」
「少しの勉強で、一桁順位ってわけ?」
「ここにくるまでずっとトップだったから、それはそれでショックだったんだけど……というか、今日はやけに絡むわね」
 澄香はため息をつき。
「あ、昨日からか…」
 などとわざわざ付け足すから、紗智のテンションがさらに上がる。
「もう、考えれば考えるほど、腹が立って眠れないのよ」
 何を考えたら腹が立つのか……そのことに関して、紗智は澄香に何も話してはいないだけに、本来は無茶な話と言えよう。
「寝不足は、女の敵」
「アンタが言わない」
「そう、私は腐った女だから平気…」
「あ、アンタねえ…」
 意識的なのか、無意識なのか、澄香は紗智のテンションを高め、受け流し、結果的に短期間での消火へと導いていく。
「おはよう、一ノ瀬さん、畠本さん」
「あ、おはようございますセンパイ」
「先輩……明日には、なんとか」
「そう、楽しみにしてるから」
 と、足早にその場から去っていったのは、パソコン部の前部長……早い話、澄香をこの道に引きずり込んだ先達の1人である。
 まあ、澄香と違って純粋な消費者の立場だが。
「……センパイ、受験とかあるはずなんだけど」
 と、遠ざかっていく前部長の背中を心配げに見つめる紗智に対して。
「優先度は、人それぞれよ、紗智」
 と、澄香が呟いた。
 
 澄香によって多少クールダウンした紗智だったが、教室に入ってすぐに尚斗の姿をみつけ……尚斗と目があったわけでもないのに当てつけがましく横を向いた。
 そのくせ、わざわざ麻理絵に挨拶をしに行く。
「おはよう、麻理…」
「……何か用?」
 澄香と会うまでの自分を富士山級だとすると、8000メートル級の不機嫌オーラを叩き付けられ、紗智はたじろいだ。
 麻理絵とのつき合いは4年半……かつて、これほどまで低気圧、いや熱帯低気圧の麻理絵を見るのは初めてで。
「や、朝の挨拶…」
「…おはよう」
 麻理絵を中心に180度回りこみ、紗智は昨日平手打ちをかましたことも忘れているのか、尚斗の腕をとって教室の隅へと連れて行った。
「何があったの?」
「朝からあんな感じ……理由は不明」
「不明って…」
 紗智は口をつぐんだ。
 昨日、麻理絵と一緒に帰ったのは自分だったことを思い出したのか……言われてみれば、駅までの道筋で、微妙に無口だったような。
「ごめん、ちょっと、こっちきて、こっち…」
 と、尚斗の腕をとったまま、紗智が教室を出ていった……のを確認して、麻理絵がため息をつく。
「一ノ瀬が、有崎を避けていると都合が悪いのか?」
 黒板の方を向いたままの青山の囁くような声が、何故か麻理絵の耳にはっきりと飛び込んでくる。
「とっっっっても機嫌が悪いのは、本当」
「ほう?」
 そこに本日は遅めの登校で、世羽子が現れる……と、もう麻理絵の口は閉じてしまい、開こうとしなかった。
 
 さて、テストを来週に控えて生徒も大変だが……問題を制作する教師は、ある意味それ以上に大変である。
 通常の勤務だけでもなかなかに過酷なのに、試験問題の作成が加わると……目元のクマを化粧で隠す羽目になる教師が続出する。
 え、そこまで……と思うかも知れないが、少し考えてもらいたい。
 女子校の生徒は、いわゆる良家の子女が多く集まっており……それはつまり、生徒の親は名士だらけと言うことで。
 名士となると、いろんな団体に名前を連ねたりすることが多くなるが……その団体に、教育関連が混ざることも少なくない。
 自分の娘が通っている学校の試験問題……学校の評判などと言うモノは、蟻の一穴というか、まさかそんなことでと思うようなことから崩壊してしまうわけで。
 と、いうわけで……この女子校に勤める教師にとって、試験問題作成はまさに戦争と言って差し支えないほどの負担を強いられる。
 その甲斐あってか……女子校中等部、高等部の試験問題は、教育関係者の間でも評判が高く、参考にしたい、問題作成のコツを聞きたい、などと、ますます注目されることになり……はっきり言って、泥沼である。(笑)
 さて、われらが藤本綺羅先生はどういう状況かというと……。
「……」
 目の間を指でしばらくつまみ……上を向いて目薬を差していたり。
 ただいま、問題完成率は70%というところか……これでも、他の教師よりは速いペース。
「……さすがに、疲労を感じますわね」
 教師としての職務に、理事長代理としての職務はまだしも……一時的に男子生徒を受け入れた事による雑務の増加および、その調整。
 演劇部における某ちびっこ程の割合ではないにしても、女子校における綺羅の仕事の量そのものはちびっこ以上で。
 そして、詳しくは言えないその他の行動が拍車をかける。(笑)
 多分、青山をのぞけばここ10日間でもっとも多忙な日々を過ごしているキャラと言っても間違いはあるまい。
「このぐらいで疲れを感じるなんて…」
 自嘲じみた呟きが綺羅の口から漏れる……が、自分でまいた種だから仕方がないと言えば仕方がない。
 ぶつぶつと呟きながら、栄養ドリンクのふたをあけてストローを差し………二口程飲んで、もう一度目薬を差し、そしてドリンクの残りを飲みほす。
 もちろん、音を立てたりはしない。
「……」
 朝のHRが始まるまで後少し……綺羅は椅子にもたれて天井に視線を向けた。
 
「失礼します」
 2限目終了後の休み時間、そう言って教室に入ってきたのはちびっこで。その声だけで演劇部部員の背筋が反射的にピンと伸びたのはご愛敬。
 そしてまっすぐ尚斗の席までやってくる。
「有崎さん、少しお時間よろしいですか?」
 普段より(尚斗主観)言葉遣いが丁寧なため、どうやら夏樹がらみの話と察して尚斗が頷く。
「いいぞ……ここじゃまずそうな話か?」
「そうですね…ちょっと廊下まで」
 廊下というからには、それほど気にするような話でもないようだ……と、尚斗はどこかのんびりした気持ちで結花の後について廊下へ出た。
「土曜日はお暇ですか?」
「予定はない……から、暇と言えば暇だ。一応、学校が終わってからの話だけどな」
 尚斗の返答に結花は首を傾げ、ちょっとためらうような口調で言った。
「あの……もしかして、今度の土曜日が休みって知らないんですか?」
「は?」
 と、今度は尚斗が首を傾げる番で。
「休みって…先週の土曜は、別に…」
「あ、なるほど…」
 完全に納得がいったのか、結花が小さく頷く。
「この学校、月の最終土曜日はお休みなんです。だから、明後日に学校来ても、授業やってませんよ」
「え、マジで……それ多分、男子連中知らないやつがほとんどだと思うぞ」
「……考えてみれば、私達には当たり前のことですし、教師も説明の必要があることに気がついてないのかも知れませんね」
「後で男子の連中に教えておく……というか、マジで助かった。ありがとうな」
「……というか、男子校の教師って今どこで何をしてるんですか?」
「さあ…」
 と、尚斗は首をひねり。
「男子校の校舎建設の現場で働いているとか、1ヶ月まとめて休暇を取ってるとか、色々噂は聞くが…」
「……まるで関心がないんですね」
「部活の顧問なんかはまた別だろうけど、基本的に男子校の教師と生徒は、食うか食われるかの間柄だしなあ。教師は、竹刀か木刀を常に装備してるし、友好関係はほぼ0だ」
「……それはまた、素敵な人間形成の場ですね」
 と、ため息混じりに結花が呟いた。
「で、土曜日は完全に暇になったが…?」
「あ、そうでしたね……早い話、土曜日のボランティア公演に有崎さんを招待したいらしいです」
 微妙な沈黙を経て。
「夏樹さんが?」
「ええ、夏樹様が」
「……養護施設での公演だろ?」
 それは、何かいろんな意味で間違ってないか……という尚斗の、声なき言葉を理解したのだろう。
「……演劇が好きで好きで仕方のない人間は、誰かにそれを勧めるのが最高のもてなしと思うんでしょうね」
 と、結花の口調はどこか冷めていて。
「それはつまり……俺が断ると、演劇が好きで好きで仕方のない夏樹さんは、落ち込んだりするかも知れないと?」
「勝手な言いぐさに聞こえるでしょうけど、断るならそれなりの理由、招待を受けるなら、ぜっっっっっったいに、つまんなさそうな素振りを見せないで欲しいんですが」
 またもや微妙な沈黙を経て、尚斗が口を開いた。
「夏樹さんはともかく……ちびっこ的には、今度の公演の内容にそれほど自信がないってことか?」
「……孤児院の子供達というか、周囲の大人が両親のいない子供達にこういう内容の芝居を見せたいと考える脚本が元ですからね」
 そう言って、結花がちらっと尚斗の顔を見る。
「ふむ……」
 結花の視線に気付いているのかいないのか、尚斗はちょっと考え。
「招待とか、大げさな話じゃなくて……えっと、舞台道具とかの力仕事の手伝いに行くってとこでいいか?演劇はほとんど知らないから、興味がないってわけでもないし」
「……良い落としどころですかね」
 と、結花は感謝するようにちょっと頭を下げて……。
「どうした?」
「……いえ、油断してました」
「……すまん、もう反射的というか」
 と、尚斗が手を引き。
「じゃあ、詳しい時間とか場所は、後で連絡します」
「おっけー」
「じゃ、失礼します」
 と、結花の背中が見えなくなってから……尚斗が呟く。
「……疲れてるようだな」
 頭を撫でる手を即座に払い落とすのが、いつものリアクションだというのに……。
「……?」
 鈍器をぶつけられるようなプレッシャーを感じて振り返ると、自分の座席に座ったままの麻理絵がじとーっと、カビの生えそうな視線でこっちを見つめており。
「……不機嫌なのは、間違いなさそうなんだが…」
 
「今日は、一人で食べるから…」
 青山と尚斗と3人……たまに紗智をくわえての昼食。
 そんな麻理絵が、今日はそう言ってさっさと教室を出ていったモノだから、紗智としても気が気でない……。
「あ、その卵焼き、キープね。後で食べるから」
 もとい、多少の余裕はあるようだ。
「朝から観察してたけど…」
 尚斗の弁当箱に手を伸ばし、唐揚げをつまんで口に放り込む。
「……」
「……ちょっと、じっと見られたら食べにくいじゃないの」
「他人のおかずをつまんで、言葉を中断させるな」
「ご飯をしっかり噛みしめて食べる……地味だけど、強くなる秘訣だもの」
「……そうかよ」
「……でも、尚斗って毎日お弁当作ってるのよね、えらいと思うわ」
「さっちゃんよ」
「さっちゃん言わないっ」
 ツッコミにも似た左ジャブ……毎度毎度尚斗が軽やかにかわすものだから、最近はほぼ全力(速度のみ)になっていて。
「……っていうか、ぜっっっっったい、尚斗が原因よ。私が何かやっちゃったかな、なんて考えて損したわ」
「……と、言われてもなあ」
 昨日、あの後の帰り道で、麻理絵はむしろ機嫌が良さそうに見えたぐらいで。
 あれが演技でないなら今の不機嫌さは演技で……あれが演技だとしたら、何故今更ナチュラルに不機嫌さを表に出す必要があるのか。
 昨日はああいったが、嘘かどうかを見抜くのならともかく、腹のさぐり合いに関しては尚斗はまったく自信がない。
「……青山君、それ、ちょっと食べてみたいんだけど」
 などと、既に紗智の視線は青山の弁当箱に向けられていたり。(笑)
「今、さっちゃんの優先順位はどうなってるんだ?」
「腹が減っては何とやらって言うでしょ……まずはご飯よ、当たり前じゃない」
 
 さて、尚斗と紗智のそんなやりとりをよそに、麻理絵がどこへ行ったかというと……。
 
「……麻理絵から会いに来てくれるなんて、初めてじゃないかしら?」
 などと、こぼれんばかりの笑顔を浮かべる冴子を目の前にしていたりする。
「今日は、有崎君と昼食じゃないの?」
「……何故、ですか?」
「何故、と言われると…」
 冴子は、ちょっと首を傾げて。
「卒業を間近に控えて、ここは1つ先輩らしく、目をかけている後輩に技術指導でもしてみようかと…」
「写真とは全然関係ないじゃ…」
 さりげなく突き出された手と、冴子の視線に麻理絵が口ごもる。
「確かにね、世の中にはお互いに関係ないことは存在するわ……でもね、ほとんどのモノは関係があるの」
 冴子は笑みを絶やさず、でも目だけは笑ってなくて。
「……冴子先輩が私の邪魔をしようとしてるんじゃなくて、私が冴子先輩の邪魔をしようとしてるって事ですか?」
「……麻理絵には、もう少し私のことを好意的に見て欲しいけど」
 麻理絵はちょっと俯き……10秒ほど考えてから顔を上げた。
「……冴子先輩じゃなくて、私が、他の誰かの邪魔をしようとしてる?」
 ふっと、それまで笑っていなかった冴子の目が表情に追いついた。
「有崎君は、良くも悪くも自分の身体を自分で守れるけど、麻理絵は違うでしょ?」
「……」
「それと、1つ誤解があるようだから言っておくわね……昨日私が、麻理絵について何か言ったと思ってるみたいだけど、私は何も言ってないから。もちろん、何らかのきっかけになった可能性は否定しないけど」
「だったら…」
「長いわよ、5年って……それだけあれば人は変わるし、成長するには十分すぎる時間だわ」
 先回りすることで反論を封じつつ……どんな風に体勢を立て直すかを観察するように、冴子は微笑みながら麻理絵を見つめて。
「1つだけ、いいですか?」
「なに?」
「尚斗君のこと…昔から知ってるんですか?」
「この辺りでは有名だもの……中等部に上がった頃から、名前だけは知ってたわ」
「そういう意味じゃ……いえ、いいです」
 諦めたことを伝えるように、麻理絵がため息をついた。
「麻理絵、写真と同じよ……過去を考慮しながら撮りたい未来を思い描き、今行動する。3つのうち、どれが欠けても良い写真は撮れないわ。私が思うに、今の麻理絵はちょっと偏ってる感じがするわね」
「……失礼します」
 聞く耳持たないといった感じで麻理絵が保健室を出ていった後……冴子は興味深そうに呟いた。
「会ったばかりなのに信用してくれた有崎君に、2年経っても信用してくれない麻理絵……幼なじみなのに、ここまで違うモノかしら」
 がららら…
「なんだ、一人か香月?」
「麻理絵が帰ったのを確認したから帰ってきたんでしょう、水無月センセ」
「なんで、アタシが香月にそこまで気を遣わなきゃならん?アタシは食堂で昼食を食べ終わったから戻ってきただけだ」
 と、図星だったのか水無月が怒ったように反論する……が、冴子はそれにも馴れたモノで。
「はいはい……じゃあ、お茶入れますね」
「あ、ああ…たのむ」
「なんか、新婚家庭みたいですね」
「アタシは女だっ!イヤなこと思い出すからそういうことは言うなっ、香月」
 保健室は、今日も平和だった。(笑)
 
「それではみなさん、ごきげんよう」
 声、表情、ピンと伸びた背筋……それはいつもと同じ、一分の隙もない美人教師ッぷりだったが、綺羅を蝕んでいる疲労に気付いた人間は何名か存在していて。
 その一人である、尚斗がぽつりと呟く。
「……大丈夫か、藤本先生」
「有崎が心配するのか?」
「それとこれとは話が別というか……過去のやりとりは抜きに、そりゃ心配にもなるぞ」
「そうか……有崎のその言葉で元気になるといいな」
「……いや、わざわざ追いかけていって声をかけようとは思わんのだが」
 と、尚斗は一旦言葉を切り。
「と、いうか……何であんなに疲れてるんだ、あの人は」
 優美な見かけとは裏腹に、綺羅の身体がかなり鍛え込まれているのがわかっているだけに、尚斗の疑問は当然か。
「テスト作成、高等部入学試験の準備、年度末に向けて教育関係の行事、来年度の予算をはじめとして…」
「わかった、もういい」
 と、まだまだ続きそうな青山の言葉を尚斗が強引にストップさせた。
「まあ、冗談抜きでかなり多忙なスケジュールを送ってるぞ、藤本先生は」
「なるほど…」
 そんな2人の側を通り抜けながら、世羽子が心の中で『調べたのね…』と呟く。
「そうだ、麻理絵」
「……何?」
 不機嫌そうに振り返る麻理絵。
「この後暇か?」
「……テスト前なのに、余裕だね」
「なんだ、テスト勉強するのか?」
「今度のテストの成績次第では、お小遣いを半額にするって言われたから」
「それだわっ」
 謎は全て解けた……と言わんばかりの紗智には見えないように、青山が空ツッコミを入れた。
「そっか、だから機嫌が悪かったのね…」
 ひとり納得したように頷く紗智に、そうかなあと首を傾げる尚斗、そして苦笑を浮かべつつも目が笑っていない麻理絵。
「大丈夫よ、麻理絵。私が勉強見てあげるから」
「あ、い、いいよ…紗智の脚を引っ張ると悪いし…」
「何、尚斗も混ぜた方がいいの?」
「そ、そうじゃなくて…」
「あ、そうしようよ……週末は尚斗の家に集まって勉強会」
「だから、いいってば…」
 一体誰に対する助け船だったのか、蚊帳の外にいたはずの青山が尚斗に声をかけた。
「有崎、客だぞ」
「え?」
「お取り込み中すみません、有崎さん」
「おや」
 気がつけば、結花が側に来ていて。
 尚斗だけでなく、紗智と麻理絵の視線も集め……1年生でありながら、先輩の教室で平然とそれを受け止めるあたりはやはりただの心臓ではないのだろう。
「土曜日の件ですけど…」
 ちらり、と紗智と麻理絵に視線を向けてから。
「大丈夫ですよね?」
 結花にどんな意図があったのかは不明だが、麻理絵はともかく紗智はそれを挑発と受け取ったらしく。
「ちょっと…」
「紗智、悪いがこっちが先約」
「……」
 じろりと尚斗を睨み、鞄を肩に担ぐ紗智……に、結花が馬鹿丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません一ノ瀬先輩、有崎さんをお借りします」
「ご勝手に」
 まさに火に油といった感じで、紗智は麻理絵の腕を引っ張るようにして教室を出ていった。
「紗智と知り合いか、ちびっこ?」
「いえ……というか、ああいう人が嫌いなだけです」
 すました表情でさらりと結花。
「珍しいな…」
「何がですか?」
「いや、紗智は大抵の人間に好かれるタイプだろうし」
「善人なんでしょうね……でも、転校したら、前の学校の友達と縁が切れるタイプの人だと思いますけど」
「……」
「別に悪いとはいってません……私は、嫌いってだけのことです」
「……」
「……何の真似ですか?」
「いや、何か疲れてるみたいだなと思って……」
「てい」
 結花が尚斗の手を振り払う。
「だったら、余計に疲れさせるような真似しないでくださいっ」
 しかし、尚斗は振り払われた手をもう一度結花の頭にのせて。
「いや、身体より心が疲れてるっぽいぞ……なんかあったか?」
「そりゃ、公演の準備で色々ありますからね…」
 ちょっと俯きながら呟く結花……今度は、尚斗の手を振り払おうとはしない。
「有崎、いや入谷の方かもしれんが」
「は?」
 尚斗はともかく、頭を撫でられている状態で青山の方を振り向いたものだから、結花のリボンが大きくずれた。
「あ…」
「な、なんですか?」
「いや、リボンがちょっとずれて…」
「てい」
 尚斗の手を振り払うと、結花はリボンの位置を確かめ……慌てて結び直す。
「……鏡も見ずに、器用だな」
「毎日やってますから、見なくても大体はわかりますっ……っていうか、有崎さんが頭撫でたりするからこんな事になるんですっ」
「……くすくす」
「何がおかしいんですか、夏樹様……って、夏樹様っ!?」
 反射的行動に認識が追いついたとでも言うのか、教室の入り口で笑いをこらえている夏樹の姿に結花がびっくりしたような声を上げた。
「ご、ごめんね結花ちゃん…面白かったから」
 それを後目に、尚斗が青山に視線を向ける。
「客だろ?」
「まあ……そうだな」
 そちらに視線を向けると。
「夏樹様、ちゃんと連れて行くって言ったじゃないですか…」
「それは、そうなんだけど……放課後だし、騒ぎにはならないかなって…」
 などと、結花と夏樹が話していて。
 確かに夏樹の言うとおり、教室に残っているのはもう尚斗達だけになっている。
 ふと、冴子の言葉を思い出し……尚斗は青山に聞いてみた。
「……そういえば、青山って割とこの学校に知り合いとか多いのか?」
「知り合いというほどでもないが、見知った顔ならそれなりに」
「夏樹さんは?」
「面識はない……上の兄弟2人には、会ったことはあるが」
「なるほど」
 などと、尚斗が頷いている間に、2人の間で話が付いたのか……結花と夏樹が、尚斗達の側までやってきて。
「有崎君、結花ちゃんから話は聞いたけど、演劇に興味のある人のお手伝いなら、大歓迎よ」
 尚斗は、『どういう風に話をねじ曲げて伝えたんだちびっこ』という視線で結花を見、結花は尚斗に向かって『それを説明する前に、夏樹様が来ちゃったんです。話を合わせてください』という視線を送る。
「どうかしたの、結花ちゃん?」
「いえ、なにも…」
 首を振りつつ、念を押すように結花が見るものだから、尚斗としてもそれを受けざるを得ない。
「……まあ、素人ですから、単純な力仕事ぐらいしか役に立てませんけど」
「ううん、助かるわ……なんだかんだ言っても、女の子だけだから」
 そう応える夏樹は本当に嬉しそうなのだが……それを見る結花の表情が、どこか心配そうで。
「じゃあ、夏樹さん…細かい説明は、ちびっこにしてもらいますから」
「え、そ、そう?」
「10分ほど遅れて行くと、部員に伝えておいてください」
 尚斗の言葉に乗っかるように結花。
「あ、うん……じゃあね、有崎君」
 と、夏樹が教室を出ていったのを確認して……尚斗は結花に目を向けた。
「それで土曜日ですけど、場所は……って、聞いてますか?」
 それには応えず、尚斗はぽすっと三度結花の頭に手をのせて。
「今ひとつ事情がつかめないんだが、思ってることをちゃんと夏樹さんに言った方がいいんじゃないのか?」
 尚斗に頭を撫でられながら、結花は、それをうまく言葉にすることは出来ないけど……何かを納得している自分に気付いた。
 昔、世羽子と付き合っていたということ、世羽子をして『あれ以上に信用できる人間は知らない』とまで言わせたこと……そして、じょにーの報告書に、尚斗の知人の名前がほとんどでてこないこと。
 しかし、理を積み重ねることによって答えを導き出すタイプの人間にとって、テストの問題を見た瞬間に答えがわかったとしても、その答えを書き込むことは出来ない。
 自分がどうやってその答えを導いたのか、納得できる理由が得られるまで身動きがとれなくなる。
 そして、結花が口にしたのは、尚斗を拒絶する言葉だった。
「……そんな資格、私にはありませんから」
「そうか…」
 気を悪くした風でもなく、むしろいたわるように優しく頭を撫で続ける尚斗の手……泣きそうになっている自分に気づき、結花は慌てて払い落とした。
「と、とにかく、土曜日ですけど……場所、わかりますね?遅れないでくださいね」
 口頭で伝え、念を入れて紙に描いたモノを尚斗に手渡し、結花は逃げるようにして教室から去っていった。
「……相変わらず、手際がいいな有崎」
「なんだよ、手際って?」
「ん…」
 青山は自分の顎をちょっと撫で、窓の外に視線を向けた。
「俺が見たところ……ある部分において椎名と似てるんだな、入谷は」
「……それが、何の手際とつながるのかよくわからんが」
「言葉ってのは便利ではあるんだが、時に間違った指向性を与えたりもするからな……多分、有崎はわからないままの方がいい」
 
 
 
 
 教師は大変です。
 知人から話を聞くたびに、高任はそう思います。

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