さて、1月23日(水)の昼休み。
 例によって昼食の準備を始めようと後ろを振り返った弥生の目が……温子の指先へと吸い寄せられた。
「……温子?」
「ん、どうしたの弥生ちゃん?」
「何で温子がピックなんか持ってるの?」
「あ、これ?」
 と、実際は4限の授業中から指先でもてあそんでいた水色のピックを弥生に示すと、温子がため息をついた。
「まさか聡美ちゃんに拾われるとはねえ…」
「……?」
「ふむ、ワトソン君に説明してあげなければいけないかな」
「ワトソン君って誰?」
「……」
「……温子?」
「……若年層の活字離れが進む現実の中、私達は生きているのよねえ」
 はふう、とため息をついた温子に、弥生がピクリと眉を上げ。
「香神様、江戸後期に書かれた茶道記について当然ご存じですわね?」
「自分の読んだ本を相手が読んでないからと言って、軽んじるのはいけないこ……あれ、弥生ちゃんってお茶もやるの?」
「まあ、たしなみ程度にね……日本舞踊とか、琴なんかも一通り」
 琴と聞いて、温子がちょっとびっくりしたように弥生を見つめた。
「弥生ちゃん、琴、弾けるの?」
「そりゃ、もちろん」
「……それで、なんであんなにギターが破壊的なんだか」
「何か言った?」
「ううん……えっと、琴といえば……楽譜が漢数字で書かれてるってホント?」
「楽譜とは言わないけどね…まあ、本当よ。弦というか、弾く糸の番号の数字が並んでるの」
「へえ…」
「……じゃなくて、温子がなんでピックなんか持ってるのよ?」
 弥生からすれば、温子は教室の中でもくるくるとドラムスティックを回している程の生粋のドラマーという印象が先走っているため、温子とピックがどうしても結びつかないのだ。
「それは、私が子供の頃、天才ピアニストと呼ばれていたから」
「……あっそ」
「軽口に反応できないのは、心に余裕がない証拠だよ弥生ちゃん…」
「……呼ばれてたの?」
 温子の口調に何かしら感じるモノがあったのか……弥生の口調は幾分真面目で。
「……軽口って言ってるのに、真面目に受け取るかな。まあ、ピアノを習ってたのはホントだけど」
 と、温子の返答はため息混じり。
「……世羽子程じゃないけど、なんとなく温子も冗談が冗談にならないイメージがあるのよね…」
 弥生はちょっと言葉を切り…口調だけではなく、表情もあらためて。
「世羽子のせいで2番だけど……温子って、秀峰でトップだったんだよね?」
「3回に2回ぐらいのレベルだけど……話したことあったっけ?」
「特待生の噂ぐらいは聞こえてくるわよ」
「なるほど…」
 温子はちょっと納得したように頷き……ふと思いついたように言った。
「じゃあ……世羽子ちゃんの時は?」
「世羽子の時は…なんというか」
 弥生が微妙に視線を逸らしつつ。
「論より証拠というか」
「なるほど……どんな噂よりも、現実の方がすさまじかったのね」
 そう、その通り…と、手を叩きかけた弥生の背後から。
「……待たせたわね」
「…っ!?」「…!?」
 音もなく現れた(弥生と温子主観)世羽子は、弁当箱の入った巾着袋を机の上に置き……呟くように言った。
「……で、何が論より証拠なの?」
「……よ、世羽子ちゃん、いつから聞いてたの?」
「今、来たばかりよ」
「ふ、ふうーん…」
 温子と弥生が曖昧に頷きあう。
「と、いうか弥生……私がここに編入するとき、どういう噂が流れてたの?」
 聞いてる、絶対最初から聞いてるよ……と、弥生と温子は目で語り合い、これは無条件降伏するしか、と決心した瞬間に、世羽子がさらりと呟く。
「……別に怒ってるわけじゃないけど、ちょっと声が大きいかしら」
 温子と弥生それぞれが、教室の廊下側と窓際の方に視線を向け。
「はい…」「はい」
 同時にうなだれる。
 女子生徒のみで構成されるクラス……いわゆる学校側にとってお客様である生徒がそろってるゆえに、さっきのようなようなやりとりをしていた2人はさりげなく注目を集めてしまうのも当然で。
 もちろん、2人に対して眉をひそめたりしているわけではない。
 と、いうのも……軽音部当初のメンバーの3人は、世羽子、弥生、聡美で、去年の9月に温子が加わって4人となったわけだが……実はこのメンツ、恐ろしいほどに偏ったというか、注目を集める構成といえるのだ。
 世羽子(1位)、聡美(一桁)、弥生(中の中)から…世羽子(1位)、温子(2位)、聡美(一桁)、弥生(中の中)へ……世羽子と温子は特待生だから当たり前と言えば当たり前だが、教師の間では、『軽音部に2年の頭脳が集結している』と囁かれていたりもするほど学業の面では充実したメンツ。(笑)
 弥生は華道の名門九条流の次期宗匠として、実際中等部の頃には既に宗匠代理として稽古を付けたりもしているから、女子校生徒の中でも飛び抜けたサラブレッドのような存在で……世羽子は世羽子で本人は気付いてもいないが、夏樹の陰に隠れてはいるものの、特に中等部からの内部進学生の一部では同学年の誇りとして見られており、いろんな意味で近づきがたい存在だったり。
 ついでに言うと、聡美の家は学校への寄付金の額が全学年を通じて10本の指に入り……いろんな意味で、軽音部は学校側にとってアンタッチャブルな存在だったりする。
 ……っていうか、そりゃ、そのメンツで部を作ると言われて、学校側というか教師連中は反対出来るわけもなかったり。(笑)
 さて、話を戻そう…。
「それで…ピアノはもうやめたの、温子?」
 世羽子には珍しく、どこか遠慮したような口調。
「んー、面白くなくなったから」
「それじゃあ、仕方ないわね…」
「まあね」
「……世羽子?」
「なに?」
 世羽子が弥生に視線を向けた。
「なんか、あったの?」
「ちょっと、教室の空気が悪かったのよ…」
「うんうん、冬場は特に換気とか注意しなきゃね」
 わかっているのかいないのか、温子が脳天気に頷いて……その話題は、そのまま立ち消えになったのだった。
 
「……尚にいちゃん、紗智と何があったの?」
「と、言われてもなあ…答えようがないというか」
 麻理絵と尚斗と青山の三人で昼食……一緒だったりそうでなかったりの紗智は、今日は昼休みになると同時に当てつけがましくとっとと教室を飛び出していってしまい。
 余談だが、尚斗と青山の2人と一緒に昼食をとったりしてる麻理絵に対して、男子生徒は可能な限り関わりを持たないようにしているのは言うまでもない。当然世羽子に関しても、あの一件が光の速さで男子生徒連中に伝わっているから…以下略。(笑)
「答えようがないって事と、わからないって事は意味が全然違うよね?」
 2人に気付かれない程度に……もしかすると気付かれて欲しかったのかも知れないが、青山が微妙に眉をひそめた。
「ところで、麻理絵…」
「ごまかそうとしても無駄です」
 今度はわかりやすく、青山がため息をつく……当然、尚斗と麻理絵は視線を向ける。
「何だよ、青山?」
 青山は2人のどちらを見るでもなく、ぽつりと呟く。
「椎名、今有崎は少し機嫌が悪い」
「……尚斗君の機嫌が悪い?」
 不思議そうに、麻理絵が聞き返し……青山の答えを待たずして、尚斗に視線を向けた。
「冴子先輩に、何かされた?」
 期待していた生徒の試験の結果が凡庸だったことを聞かされた教師のような表情で、青山がもう一度ため息をつく。
「だから、何だよ青山?」
「……別に」
「……」
 結局尚斗は麻理絵を相手せずに昼食を終えると、立ち上がって教室内を見渡した。
「宮坂なら、近くにはいないぞ」
 尚斗はチラリと青山に視線を向け……そのまま教室を出ていく。
「……椎名、何を焦っている?」
「……焦りたくもなるよ」
 そう答える麻理絵の表情は頑なで。
「まあ、事情を知らないから俺としては何とも言えないが」
 どうでもいい…そんな感じに呟き、青山は窓の外に視線を向けた。
 ここで話すこと全てが綺羅に筒抜けになる……などと、青山は教えてはいないし、麻理絵も気付いてはいないだろう。
『別に、今のところ椎名の邪魔をするつもりはない』
 昨日の放課後、青山は麻理絵が口を開くより先にそう伝えたわけだが……今朝、尚斗を保健室へと連れ込んだらしい冴子の行動が、それに対するリアクションなのかどうか。
 現時点において、青山の興味は綺羅から冴子へと……。
 
 さて、教室を出た尚斗は……屋上に出て、周囲に人がいないことを確認してから指を鳴らした。
「ふむ、二日連続かね…」
 ありもしない前髪をかき上げるようにして現れる宮坂。
「すまんな、無理を言う」
「お得意さまとあれば、多少の無理は聞くさ」
 ダウンタウンの路地裏か、場末のバーのカウンターならそれなりに似合う台詞かも知れないが、冬の屋上、2人とも学生服ときた日にはバカ以外の何物でもなく。
「それで?」
「いや、昨日の調査の掘り下げというか……」
『結局有崎君は、中等部や初等部の頃の夏樹のことをまったく知らないわけよね』
『夏樹に興味があるなら、もうちょっと昔のことを調べてみてね』
 冴子の言葉を思い返しつつ、尚斗はちょっと首をひねった。
 『昔のことを調べろ』とは言ったが、『夏樹さんの昔のことを調べろ』とは言っていない事にあらためて気付いたのだ。
 尚斗から見ると、冴子は間違いなく青山と同じタイプとしか思えず。
 だとすると、そのアドバイスをきちんと理解さえすればこのうえなく有益なのだが……1つ間違えると、迷路を彷徨う事になるだろう。
「もうちょっと昔のこと……か」
 もうちょっと昔のことを知らないから、夏樹のことを話せない……と解釈すると。じゃあ、夏樹以外の何を調べればいいと言うのか。
 冴子先輩?ちびっこ?その他?
 目の前では、宮坂ことじょにーが依頼を待っていて。
「それで、どうするブラザー?」
 
『冴子先輩のことを調べて貰う』
 
「……え?」
 意外な依頼をされた……そんな感情をもろに出したじょにーの表情は、既に宮坂の顔に戻っていて。
「何だよ、『え』って?」
「あ、いやいやいや…」
 どこか慌てたようにその場を取り繕うとする宮坂をじっとにらみ。
「宮坂?」
「じょにーと呼んでくれ」
「……そう、言えば……えらく早かったな、今朝の報告は」
「お得意さまですから」
「……宮坂?」
「じょにーと呼んでくれて、結構」
「ふむ、ならばじょにー」
 尚斗の右手が宮坂の肩をがっしりと掴み。
「何か、隠し事というか……調査を頼んだ依頼主に対して、恥じるような行いはしてないと宣言できるか?」
「ノーコメントで」
「今、じょにーじゃなくて宮坂だよな、思いっきり?」
「人を多重人格みたいに言うなっ」
「……自覚ないのか」
 ため息をつきながら、尚斗はぎりぎりと宮坂の肩を締め上げていく。
「折りはしないけど、砕くぞ」
「余計ひどいじゃねえかっ」
「なら、しゃべれ……言っておくが、いまちょっと機嫌が悪いぞ俺は」
 キイ…
 屋上のドアが軋む音に気を取られた瞬間、宮坂は素早くそこから脱出……出来ない。万力で締め付けられているような状態からそうそう抜け出せるはずもない……が。
「有崎さんみ〜つけた〜♪」
 などと、にこにこと微笑みながら安寿がやってきたものだからさすがの尚斗も力が抜けて。
「誰かは知らないが、さんきゅー」
 まさに脱兎の勢いでその場から宮坂が逃げ出し。
「……人から感謝されるって素晴らしいです〜♪」
 安寿がどこかすっぽ抜けた言葉を口にする。
「うん、まあ、そーだな」
 どこか投げやりな尚斗の言葉に反応して、安寿は首を傾げた。
「私〜何かまずいことをしましたか〜♪」
「いや、まずいというかなんというか……ま、いいんだけど」
 尚斗はちょっとため息をついて。
「……あのバカ、誰かは知らないがって言ったか?」
 『天野さんだろ、あーまーのー』などと、説教した本人がどの口で……と、ツッコミを入れようとも、もちろん宮坂の姿はあるはずもない。
 そんな尚斗のリアクションから察したのか、どこかしょんぼりした感じで安寿が呟く。
「私〜ここに来てから〜色々やらかしてますので〜」
「……やらかしてるの?」
「やらかしてるみたいなんです〜♪」
 伝聞形式なのが、安寿らしいと言ってしまえばそれまでだが。
「それはつまり、あちこちで、ぱちん、ぱちんと?」
「えっと、それはあまり関係ないですがやっちゃってます〜♪」
 ぱちん、と尚斗の目の前で手を叩き。
「でも〜有崎さんには、効き目ナシです〜♪」
 と、これは何故か楽しそうに。
「なんか、あの時に比べて、全然悲壮感がないな?」
「ああ、それはですね〜♪」
 と、安寿はちょっと言葉を切り……『天使長様が、有崎さんにしられるのは構わないと仰ってくださったんです〜♪』などと言った場合、後でものすごく怒られるのではないか……などと、頭の中でぐるぐるとシュミレーションを繰り返し。
「企業秘密です〜♪」
 どうやら、石橋を叩いて渡ることにしたようだった。
「まあ、安寿が困ってないならいいけど」
「というか……天使って目立っちゃダメですし〜基本的に目立たないようになってますので〜♪」
「……と言うと?」
「言われれば思い出す〜でも、言われなきゃわからない……そんな風に、人の記憶に残らない力が働くようです〜♪」
 なるほど……と頷きかけ、尚斗はじっと安寿の顔を見つめた。
『忘れたい事って、ないんですか…?』
 記憶を、無用なモノとしてただ切り捨てるような安寿の言葉を思い出し……少し寒気がしたからだ。
「な、何でしょう〜?」
「いい…よな?」
「な、何がですか〜♪」
「俺は、安寿をちゃんと覚えていて…いいよな?」
「はい?」
 安寿はきょとんとした表情でちょっと首を傾げた。
 忘れられることが当たり前の天使にとって、言葉の意味はもちろん……その言葉に込められた尚斗の気持ちも理解できなかったのか。
 人の幸せを願い、そのために尽力する事が全て……にもかかわらず、誰の記憶にも残らず、誰にも覚えていてもらえない。そんな安寿にとって……人の、辛い記憶や悲しい記憶は、無駄なモノとしか思えないのか。
 だとすると安寿は……誰からも忘れられていく自分のことを、どうとらえているのだろう。
「あ、あの〜有崎さん?」
「あ、すまん」
 安寿は、穏やかに……いや、穏やかすぎる微笑みを浮かべて。
「『何もないのが一番イヤ』……そういう事でしょうか〜♪」
「……ああ」
 どこかぎこちなく頷いた尚斗を見ても、安寿の穏やかすぎる微笑みは動かず。
「『何もない』のと『何かをなくした』のとは……違いますよね?」
「そう…だな」
 たとえ、誰からも忘れられたとしても……自分がそれを知っている。自分の記憶すら失うのと、他人から忘れられるのは確かに違う。
 そう思って尚斗は頷いた……が、さっき安寿が尚斗の言葉を理解できなかったように、尚斗は安寿の言葉の意味を理解できていなかった。
 それが2人の勘違いだったとしても、微妙に張りつめた空気は一掃され……尚斗は、肩の力が抜けたように感じて空を見上げた。
「いいお天気です〜♪」
「そうだな」
 安寿の言葉に素直に頷く。
 いわゆる、雲一つない晴天ではないが……青く澄んだ冬の空は雲がないと反対に寒々しい印象を与えたりするから、このぐらいがちょうどいいのかも知れない。
「こんな風の穏やかな日は、雲の上を、羽をいっぱいに広げて飛ぶと楽しい気持ちになります〜♪」
「……」
「でも〜それは有崎さんにとっては、幸せではないですよね〜?」
「まあ、そもそも人間は空を飛べないから、判断のしようがないとも言うな」
「ですよね…」
 しょぼん、と安寿が肩を落とす。
「でも、なんかそんな風に安寿が飛んでる所はちょっと見てみたいような気はするな…」
「そう…ですか〜♪」
「ところで……安寿は、何か用事があったのか?」
 『みーつけた〜♪』というからには、探していたと考えるのが妥当なはずで。
「あ、はい〜さっき、聞き忘れたことがあったんです〜♪」
 ぱちん、ではなく安寿がぽんと手を打った。
「何を?」
「しあわせは〜人によって流れる雲のように形を変えるモノである〜♪」
 歌うような節回し。
「そう、有崎さんは仰いましたよね〜?」
「うん…人によってというか、同じ人でも状況によって変わると思うが」
「はい〜だとすると、今の有崎さんにとって〜幸せとはどういうものでしょうか〜?」
「……むう」
 尚斗は首をひねった。
 あらためて切り込まれる事で、自分の中にその答えがないことに初めて気がついた。
「むむう〜?」
 安寿も首をひねる。
「……」
「……」
「……悪い。えらそうな事言ったのに、自分の幸せってなんかピンとこない」
「そうなんですか〜?」
「幸せか……こうなったらいいなと思ってるのは…」
 まず夏樹と結花の顔が浮かび、そして麻理絵と世羽子の顔が浮かび……御子に弥生のことを頼まれていたのを思い出し……。
 ふっと、安寿に視線を向けて。
「ちなみに、安寿はどうだ?」
「天使の幸せは〜誰かの幸せそうな顔を見ることです〜♪」
「なるほど…」
「……ですが〜」
 ぽつりと……尚斗に聞こえなかったなら、それはそれでいいという感じに呟かれた安寿の言葉。
「……」
 尚斗の視線に気がついたのか。
「私〜天使ですから〜♪」
 安寿にしては珍しい……どこか悲しそうな微笑みを浮かべてそう言った。
 
「……何をイライラしてるんだか」
「ほっといて」
 そんな紗智の様子に、澄香がため息をつく。
「現実との折り合いの付け方が下手よね、紗智は」
「妄想しっぱなしの澄香に言われるとはね」
「私は、現実と妄想はちゃんと分けてるわよ……仮に、青山君がいきなり教室の中でどじょうすくいを始めたって、全然平気」
「思いっきり妄想じゃないっ!?」
 紗智は澄香をにらみつけたが……青山がどじょうすくいを踊るシーンを想像して机の上に突っ伏した。
「ふっ、くっ…くくっ…」
「……現実に不満があったり、変化を求めるから妄想するんであって、自分の妄想を現実に求めたら本末転倒でしょうに」
 キーボードを叩き、ディスプレイを目で追いながら……澄香の言葉にはぶれがない。
 多少人付き合いに難はあっても、寝不足でさえなければ澄香は論理的な思考の持ち主である。
 ちなみに普段とは微妙に言葉遣いが違っているのは、創作活動に意識がシフトしてしまっているせいだ。
「……とか言って、またキラキラ青山君を描写してたりするんでしょ?」
 笑いから復活した紗智がディスプレイをのぞき込んでも、澄香は隠しもしない。
「来週テストだってのに…」
「昼休みだもの」
「……家に帰ったら、続きを書くんじゃないの?」
「書くけど?」
 それがどうしたの……という澄香の口調に、紗智はため息をついた。
「私は美しいモノが好き」
「……唐突にそんなこと宣言されても」
「でも、現実には現実の、妄想には妄想の美しさがあるでしょう。だから、妄想の美しさを現実に求めようとしている紗智は、正直愚かしいと思うわね」
「……澄香、ひょっとして観察してる?」
「お話の中に、紗智も登場させてあげようか?」
 ここで澄香は初めて紗智に視線を向け、にやりと笑った。
「……遠慮しとく」
「……有崎君の登場する話を読みたくなくなったときは、ちゃんと教えなさいよ。紗智の希望を優先するぐらいの友情は覚えてるから」
「は?」
 何言ってるの……という表情を浮かべた紗智を鼻で笑い、澄香は再びディスプレイへ目を向けた。
「まあ、愚かしさの中にも美しいモノはあるわね…」
 
 きーんこーんかーん…
「それでは皆様方、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「……」
「いい加減慣れろ、有崎」
 首筋のあたりをかきむしる尚斗に、青山がため息混じりに呟いたのだが。
「……『ごきげんよう』なんて思ってるやつ、ほとんどいねえだろ、あれ」
「だから、慣れろと言ってるんだが」
 と、青山はもう一度ため息をつく羽目になり。
「尚にーちゃん、今日は一緒に帰る?」
「いや、ちょっと用事がある、悪いな」
 麻理絵はちょっと足下に視線を落とし。
「待ってていい?」
「んー、いつ終わるかわからないからな……というか、冴子先輩に会おうと思ってるんだけど?」
「……あの人、会おうと思って会える人じゃないけど」
 一緒に帰るための方便……ではなく、麻理絵としての本音であることに気づき。
「ああ、そんな感じだな確かに…」
「冴子先輩に……何の用事?」
「いや、宮坂と知り合いなのかなあっと」
 その瞬間、青山が静かにため息をつき……それに気付いた世羽子は、笑いをかみ殺しながら教室から出ていく。
「麻理絵、そんなのほっといて私と一緒に帰ろ」
 紗智の『そんなの』を表面上はさらりとスルーして、麻理絵がやんわりと釘を刺すように呟いた。
「一緒も何も、逆方向じゃない…」
「だから途中まで……ちょっと遠回りだけど、駅の近くでお別れルートってとこで」
「……そうだね、そうしようか」
 今の紗智に逆らうだけ無駄だと考えたのか、麻理絵はおとなしく紗智と連れたって教室を出ていき……それを見送ってから、尚斗が鞄を手に取った。
「……どうかしたか、青山?」
「宮坂と何かあったか?」
「いや……なんかその場の流れで、宮坂に冴子先輩のことを調べてくれって頼んでみたんだが、えらく動揺してな……宮坂だけに、ちょっと気になってな」
「なるほど、宮坂だけに…な」
「んじゃ、俺は行くけど…?」
「そうか、頑張れ」
 と、青山は尚斗が教室から出ていくのを見送り……今度は隠そうともしないでため息をついた。
「相変わらず、過程をぶっ飛ばすな、有崎は…」
 
『……あの人、会おうと思って会える人じゃないけど』
 その麻理絵の言葉に反して、尚斗はあっさりと冴子に会えた……いや、会えたことは会えたのだが。
「こ、こんにちは…有崎さん」
 ゆっくりと下がっていく頭が、再び持ち上がり。
「……」
 御子の、何かを期待するその眼差しに対して、尚斗は首を振るしか出来ず。
「ごめん、まだ弥生とは話してない……というか、会ってもない」
「そう……ですか」
「えっと、忘れてたわけじゃないから」
「はい……元々は、私が厚かましいお願いをしていますので」
「あら、2人で秘密の相談?」
「秘密というか…」
 冴子に話しても……と、尚斗が御子を見ると、何を想像したのか赤面していたり。
「……というか、冴子先輩と御子ちゃんは知り合いですか?」
「まあ、何というか…」
「香月先輩のご実家は、茶道の流れをくんでいまして……道は違えど、狭い世界ですから、家同士のつき合いが多少あるんです」
 御子の発言を受けて、冴子が尚斗を見る。
「……と言うわけなのよ」
「なるほど」
「あ…出過ぎた真似を致しました。申し訳ありませ…」
「あーもう、そんな堅苦しく考えないの」
 御子が頭を下げかけるのを押しとどめ、冴子は言葉を付け足した。
「まあ、私の家は分家なのよ……九条家みたいに、有名でも、大きな流派でもないというか、むしろマイナーなうえに、一子相伝に近いというか」
「はあ、なるほど」
 曖昧に頷く尚斗。
 しかし……夏樹と幼稚舎から一緒と言うことは、冴子もまた少数精鋭のメンツの一員であることは間違いなく。
「それで、有崎君は何の用かしら?」
「用事というか…」
 御子の視線。
 御子本人はもちろんそんなことを思ってはいないが、『自分の頼みを後回しにして、他のことに時間を費やしてるんですね…』と責められているような気がして、なんとも切り出しにくく。
「どうしたの?」
 全部承知の上で、計算して御子ちゃんと一緒にいたんじゃないだろうか……そんなことを考えてしまいそうな冴子の微笑みで。
「いや、冴子先輩は宮坂と知り合いだったりします?」
「宮坂というと、最近一部の女子生徒の間で噂になってる男の子?」
「……噂になってますか?」
「男子生徒ほどではないにしても、それなりに浮かれてる娘もいるみたいだから」
 冴子の言葉に、御子が頬を染めて俯く。
 自分が浮かれている……というのではなく、そういう話題に耐性がないのだろう。
「……花も咲かない男子校と言っても、既に彼女持ちのやつは割といますけどね」
 尚斗の言葉に御子は俯き、冴子がちょっと微笑んだ。
「……一番注目されてるのは、青山君らしいけど」
「なるほど……それは、できるだけ早く情報を売り切らないと」
「そうね、時間が経つと価値がなくなるでしょうし」
「……?」
 どうやら、一部で噂になっている宮坂という少年が、そういう意味で噂になっているわけではないのだとおぼろげに理解できたようだが……やはり、御子は2人のやりとりを本質的な意味では理解できなかったようで。
「えっと…例えば、お茶のことは冴子先輩に聞くし、花のことは御子ちゃんに聞くわけで……まあ、男子生徒のことを知りたかったら、宮坂というやつに聞けばいいという話で」
 尚斗の説明に、御子はちょっと俯いて。
「……つまり、宮坂さんはお知り合いの多い方で、その宮坂さんに、青山さんのことを教えてくれるように頼む女子生徒が一番多いということなんですね…」
 打てば響くという感じではないが、御子の言葉に、ゆっくりとだが確実に前へ進んでいくねばり強さを尚斗は認めた。
 そんな御子が、尚斗に弥生のことを頼むのだから、これはもう自分一人の手に負えない状態なのだろう……と、両肩に背負わされた責任も微妙に増加した事も認めざるを得なかったが。
 ただ、理解できました……と、ばかりに微笑む御子を見て冴子が目尻を細めていたりするが、これでやっと尚斗と冴子の会話に取り付いた状態だったりする。(笑)
「あのね九条さん、彼……青山君は、大多数の女の子にとって絵に描いたご馳走なのよ」
「……?」
「冴子先輩、御子ちゃんを混乱させようと思ってません?」
 というか、わざと話を脱線させようとしているんじゃ……。
「あ、あの…そもそも、絵に描いた餅の餅という言葉は、ご馳走という意味合いで使われているのではなかったのでしょうか?」
 餅ではなく、ご馳走という言葉を使ったのは深い意味があるのでしょうか……と、助けを求めるように御子が視線を向けるものだから、尚斗としてもそちらの対応に力を注がざるを得ず。
「多分、今はお餅がご馳走とは認識されづらいからニュアンスを強めるために敢えてご馳走という言葉を使ったんだと…」
 御子の目に理解の色が広がった瞬間。
「あら、それだけ?あと2つは難しいとしても、もう1つぐらいは理解してくれないと、ちょっと寂しいけど」
 と、冴子が混ぜ返し。
「言葉の、表面の意味だけを追ってはいけないということですね…」
 感服したように御子が頷いた瞬間、多分青山と同じで、今はまだ話したくないか、話せる状況にないのだろう……と自分を納得させて、尚斗はきちんと冴子と話をすることを諦めた。
 そんな尚斗の気持ちが伝わったのか、冴子が微妙に目を細めて。
「というか、この学校には割と青山君のことを知ってる女の子も多いと思うけど」
「え?」
「ほら……良家の子女が通う学校だから」
「…そういや、弥生も顔見知りとか言ってたな…」
 ただし、友好的とは言えない雰囲気だったが。
「……ひょっとして、あの時有崎さんと一緒にいた方は、青山家の大輔様でしょうか?」
 青山家の大輔様と聞いて一瞬、誰だそいつ……と思いかけたが、それは間違いなく青山のことである事に気付き。
「あれ、御子ちゃんと面識はない…って聞いたけど?」
「じ、実際にお会いしたことはありませんが、内弟子の方にお話を聞いたことが…」
 ふと、御子は口をつぐみ……ぽつりと呟いた。
「そうですか……あの方が…」
 御子の納得の仕方に微妙に引っかかるモノを覚えたが、まあ先日のあの対応からして良い印象というわけにもいかないだろう……と、弁護を諦める尚斗。
「しかし…あの方が青山さんだとすると、何故絵に描いたご馳走なんでしょうか?」
 結局そこに戻るのか……と、尚斗が冴子を見る。
「もう一つの意味は……絵に描いてもご馳走なのよ、彼の場合はいろんな意味でね」
「……」「……」
 尚斗と御子は冴子の言葉を吟味するように黙り込み……ほぼ同時に頷いた。
「なるほど、わかるような気もします」
「……もう一つの意味が、気になります」
 そう呟いた御子のおでこを人差し指でちょんっとつつき。
「1から10まで、答えを教えられたらつまらないと思わない?」
 視線は御子だけに、しかし言葉は自分にも向けられていることを感じ取り。
「……さて、俺はそろそろ帰ります」
 冴子に話を聞けない以上、この場にいても仕方がない……と、尚斗は声を上げた。
「……有崎君は、写真のモデルに興味ある?」
「……と、言われても、モデルの名前なんか一人も知らないっすよ?」
「そうじゃなくて」
 冴子がちょっと笑い……カメラを構えるポーズをとった。
「被写体そのものじゃなくて、被写体になることに関してという意味で」
「……撮りたいんですか?」
「興味はあるわよ」
 と、おそらくは尚斗が気付くようにだろうが、冴子が目を細めて笑う。
 尚斗はその冴子の表情をじっと見つめ……青山がもう1人いる、そう思うことにしよう、と決めた。
 それも、ある程度気心の知れた青山ではなく、知り合ったばかりの青山だ。
 ただ……自分に向けられている好意だけは、何故か無条件に信じていいような気がして。
「時間が許せば前向きに考える…と言うことで」
「そう、楽しみにしてるわ」
「じゃあね、御子ちゃん」
「あ、はい…」
 深々と頭を下げる御子と、微笑む冴子に見送られ、尚斗はその場を立ち去った。
「あ、あの…」
「どうしたの?」
「香月先輩は…有崎さんの写真を…」
「ん、撮影したら、九条さんにも焼き増ししてあげるわね」
「そ、そういう意味では……その…」
「いらない?」
 ちょっと意地悪に微笑む冴子に対して、御子は顔を真っ赤にしながら俯くように呟いた。
「……欲しいです」
 
「被写体…か」
 誰かに観察されている、誰かが自分の思い通りに動かそうとしている……深読みすれば、それは暗示に富んだ言葉で。
「……麻理絵じゃあ、ストレートすぎるし」
 そんなわかりやすいヒントをくれるような相手とは思えない。
 それはそれとして、『興味はあるわよ』という事は、冴子もまた何らかの形で自分を利用したいのか。
「……実際、単純にモデルになってくれってだけだったりしてな」
 1対1ならまだしも、相手が2人、3人となって、思惑が複雑になってくると……考えるだけ無駄なような気がして。
『お前は頭悪いから考えても無駄だよ。勘で決めな、勘で』
「……今思うと、ひどいこと言われてるよな、俺」
 今は亡き母の言葉を思い出しつつ。
 勘を頼りにするならば、冴子のアドバイスには耳を傾けろ……と出ていて。
「さて…」
 校門にまっすぐ向かわず、ちょっと遠回りをするように回り込んで塀を乗り越え……音もなく着地する。
「……」
 やはりというか、予想通りというか、校門の前で麻理絵がチラチラと中を窺っていたりする。
「麻理絵」
「きゃ」
 背後から声をかけられて、滑稽なぐらいに麻理絵が驚く。
「な、ななな、尚斗君?」
「待たせたな、帰ろうぜ」
「え、あの…?」
「ほら、来いよ」
 まだきちんと状況が把握できていないらしい麻理絵に向かって、右手を差し出してやる。
「……」
 おずおずと、差し出された右手に自分の手を重ねる麻理絵の仕草には、何の作為も感じられず……。
「一度家まで帰って戻ってきたのか?」
「ううん、紗智と駅前で別れて……そのまま、こっちに」
 尚斗に手を引かれながら、麻理絵が不思議そうに呟く。
「なんで、待ってるって思ったの…?」
「なんとなく、だな」
「なんとなく、なんだ…」
 ため息混じりだが、それは決して失望ではなく。
「紗智、すっごい怒ってるよ」
「麻理絵が心配なんだよ」
「……そうかな…っ!」
「100%の心配じゃないかも知れないけど、そこは素直に感謝しとけ」
「……尚斗君が、ぶったよぅ」
 右手で頭を押さえ、左手は尚斗の手を握ったままで、麻理絵が涙目になる。
「大人がきちんと怒ってくれた子供の頃と違うんだ……麻理絵が悪いことをしたと思ったら、俺は怒るぞ」
「……」
「……今、『だったらばれなきゃいいんだよね』とか考えてなかったか?」
「そ、そそそそんなこと考えてないよっ」
 麻理絵が必死で首を振る……しかし、表情は笑っていて。
「麻理絵……もう一回だけ言うぞ。お前が悪いことをしたと思ったら、俺は怒るからな」
 おそらくは、尚斗の『怒る』という言葉の意味をきちんと理解できる数少ない一人である麻理絵は、神妙に頷いて見せた。
「でもな…」
「……?」
「それ以外なら、麻理絵が思うようにやっていいから……他人を騙してもいい、悪いことさえしなきゃ、な」
 それは、尚斗の母親と接した人間にしかわからない言葉。
「……尚斗君を、騙してもいい?」
「だませるならな」
「尚斗君を、利用してもいい?」
「利用できるならな」
 麻理絵は子供がするようにちょっとほっぺたを膨らませて、そっぽを向いた。
「尚にーちゃん騙すのなんか、簡単だよ」
「……言っておくが、5年経ったからな。あの頃と同じと思うなよ」
「わ、私だって5年前とは違うもん」
「そうか……じゃあ、ちょっと文句言ってもいいか?」
「え、な、何を?」
 尚斗は麻理絵の頭をがしっとつかみ、ちょっとかがみ込むように麻理絵を見つめた。
「『好き』でもないのに、『好き』とかいいやがって……結構、悩んだんだぞ」
「……っ」
 麻理絵がちょっと息をのんだように尚斗の顔を見つめ……2秒ほどで気持ちを立て直したのか、猛烈な勢いで抗議を開始した。
「あ、あれはっ、尚にーちゃんが悪いんだからねっ」
「ほう」
「お、幼なじみなのにっ、いつも一緒に遊んでるのにっ、全然私は尚にーちゃんの特別じゃなかったもんっ」
 それはまさに、ほとばしるようなという表現にふさわしく。
「私だって困ってたのに、泣きたいのを我慢してたのに、会ったばかりの女の子ばっかり優しくして、いつもいっつも、私のことは後回しで……そうだ、今思い出したけど『麻理絵のことは信用できないから』なんてひどいこと言われたこともあったっ!」
 と、尚斗につけ込む隙も与えぬまま、麻理絵の文句(?)は5分以上続き……最後には尚斗が謝らざるを得ない状態まで詰め寄られたのだった。(笑)
 
「……で、麻理絵」
「なに?」
「今……というか、ここ数日、何をたくらんでる?」
「教えませんっ」
 などと、麻理絵と尚斗が帰っていくのを見送るように……物陰から音もなく青山が姿を現す。
「俺には縁のない感情だが、椎名のそれは『好き』という感情じゃないのか、有崎」
 そんな青山の呟きは、冬の風に紛れて消えた。
 
 
 
 
 さて、対談読んでる方なら想像ついてたでしょうが……高任からのお願いです。
 逃げとか、責任放棄とかの批判は甘んじて受けますが、麻理絵に関しては目をつぶっていただきたい、大きな心で。(笑)
 なんと言われても仕方ありませんが、面白い話に仕上げる……と言うことで罪滅ぼしにしたいと思います。

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