『演劇部について調べた方がいいわね』
 冴子の言葉を思い出しながら、尚斗は洗濯物を干していく。
 女子校の始業時間は男子校のそれより30分早い……それはすなわち、尚斗にとって朝の時間が30分ほど削られるという事を意味していて。
 とは言っても、そこは父と息子の2人暮らしである。
 いわゆるきちんとした掃除は週に一度、季節にもよるが洗濯は二日に一回で……家事に関して無能な父親だけに、いくらでも融通は利く。
「……うし、これで終わり」
 洗濯かごを抱え、尚斗は勝手口へ……向かいかけて、くるりと門の方を振り向いた。
「おはようございます、有崎さん」
 などと、頭を下げる結花がいたりする。
「そうきたか…」
 まあ、間違いなく昨日の件が夏樹から伝わったんだろうな……などと思いつつも、尚斗は洗濯かごを抱えたまま、一応の弁解を始める。
「えーと、昨日の件に関しては…」
「あ、一応誤解は解けてますから」
 機先を制するように結花が言うものだから、尚斗はいろんな意味で不思議そうに結花を見た。
「……えっと、夏樹さんをなだめてくれたわけか?」
「詳しくは、学校へ向かいながら……と言うことで」
「いや、まだ洗い物があって……お茶ぐらいは入れるが、入るか?」
 結花はちょっと考えるような表情を浮かべ。
「…じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
 
「すまんな、台所で」
 物怖じすることなく家の中へと入り、結花は尚斗のいれたお茶をすすった。
「いえ、時間は貴重ですから…洗い物すませちゃってください」
「そっか、悪いな……」
 と、尚斗は結花に背を向け、朝食の食器を流しで洗い始める。
「しかし……どうやって誤解を解こうか悩んでたんだが」
「まあ、鞄の中に同じぬいぐるみがあるのに気づけば」
「……て、事は」
 尚斗の手がとまる。
「誰かの落とし物を有崎さんが拾ったんだろう…と言うことにしておきました」
「……」
「まあ、私の推測は……夏樹様のファンが、こっそりとぬいぐるみを交換しようとしてたところに、有崎さんが教室に現れた……あたりじゃないかと」
「……例のチケットの時も思ったが」
 尚斗は大きく息を吐いて。
「すっげえ、察しがいいな」
「……そうですかね」
 秋谷先輩には負けますけど……といいたげな表情で、結花は再びお茶をすすり。
「夏樹様はご存じないですが、そういうことが以前になかったわけでもないですので」
「……?」
「夏樹様が心安らかに学校生活を過ごされるように、親衛隊を作ってますから……一応、私がまとめ役です」
「何か問題が起こる前にって事か……それはそれで、えらく手回しがいいな」
 尚斗の呟きに、結花は自分が少しばかり喋りすぎたことに気付いて小さく舌打ちし……それを隠すために湯飲みを傾けた。
「……だとすると、ちょっと意外だ」
「何が…ですか?」
 お茶をすすりかけた体勢で、結花が尚斗の背中に視線を向ける。
「いや、俺が見たところ……誤解だとわかった時点で、夏樹さんは直接自分で謝りに来る…みたいなイメージが」
 結花は湯飲みに視線を落とし、お茶をすすった。
「朝っぱらから、運転手付きの高級車がやってきて欲しかったですか?」
 5秒ほどの沈黙を経て、尚斗が口を開く。
「さんきゅ、助かった……あんな事で菓子折とか持ってこられてもな。反対に気まずいというか」
「まあ、そうでしょうね……」
 洗い物をすませた尚斗が、濡れた手をタオルで拭きながら振り返る。
「制服の色は1年…髪は肩まで、身長は154か。できれば、穏便にすませてやってくれ……」
 穏便に…という言葉に結花は鋭く反応して。
「身長が妙に詳しいのが気になりますが……察しの良さに関して、人のこと言えますか?」
「夏樹さんに聞いてみろ……多分、身長に関しては、ある程度鍛えれば、姿勢に関わらず一目でわかるようになる、とか言うはずだから……後、本当に察しがよければ、昨日みたいな事はおきねえよ」
 尚斗の言葉に、結花が微妙に姿勢を正した。
 それに気がついているのかいないのか、尚斗が言葉を続ける。
「ま、身長に比べて体重はむずかしくてな……」
「……見ただけでわかるもんなんですか?」
「わかるらしい……俺は無理だが」
 と、尚斗が壁の時計に目をやって。
「さて、行くか……後の話は、歩きながらでいいか?」
「元々そのつもりでしたし」
 残っていたお茶を飲みほし、結花が立ち上がった。
 
 すたすたすた…
 てってってってっ…
 昨日の御子とは違い、尚斗が歩調を緩めようとするのを拒否するかのように、結花は前へ前へと出ようとする。
 と言っても、別に呼吸を乱したりはしていないから、これが結花にとっては普通のペースなのかも知れないが。
「……ところで、夏樹さんがぬいぐるみを好きで何か困ることでもあるのか?」
「……一言ではちょっと」
 その話題にはあまり触れられたくない……という気持ちが滲み出たというより、敢えて示したという感じだった。
 どちらにせよ、尚斗としてはそれを引っ込めざるを得ない。
「まあ、私が悪いとだけは言っておきますが」
 そんなことを呟きながら、結花は目の動きだけで尚斗の反応を観察している。
 昨日、このまま放っておくと、冗談抜きで菓子折を抱えて朝の訪問へとなだれ込む……と思って、色々と理由を付けて夏樹を思いとどまらせたのは確かだが、こうして朝一番に自分が出向こうなどとは全然思っていなかった結花である。
 家に帰ってから、例の報告書を全部読み……違和感を覚えてもう一度読み返し、やはり首を傾げた。
 その疑問は、もう一つの……『あれ以上に信用できる人間は知らない』とまで言い切った世羽子の態度に対する疑問と結びつき、それが気になって、わざわざここまでやってきた……と言っていいだろう。
「そういや、公演の準備はどんな感じだ?」
「いつも通りですね…この土曜の公演の準備はほぼ仕上がってますし」
「……年に何回もあるのか?」
「養護施設で夏と冬の2回、秋は演劇コンクール…で、本来はイレギュラーなバレンタイン公演……基本的にこの4つです」
「そっか、大変そうだな」
「好きならどうってこと……撫でなくていいです」
 撫でられる前に、ぺしっと尚斗の手をたたき落とし。
「頭フェチですか…」
 汚いモノを見る目。
「いや、なーんか…最近癖になったというか…」
 などと、尚斗は右手をじっと見つめて。
「……つーか、撫でてやらなきゃと思っちゃうんだよな…ふぉっ」
 わずか一歩の踏み込みで、結花のタックルが尚斗をなぎ倒す。
「なっ、撫でて欲しいなんて一度でも私が口にしたことありますかっ!?」
「……いいタックルしてるよな、ちびっこ」
 体重の乗せ方、タイミング、角度、狙う場所……それは自身の身体の小ささを活かした、見事な技としか言いようがなく。
「……その割に、殴り方はめちゃくちゃで」
 慌てず騒がず、尚斗は結花を抱き起こし、ズボンと制服に付いた汚れを払い落とす。
「ノーダメージですかっ!」
「ん、もう覚えたから」
 夏樹なり演劇部の部員なりが、そんな2人の……いや、結花の様子を見れば、おや、と思うことは間違いないのだが、尚斗は何も思わない。
 結局、あまり大した会話をするでもなく2人は学校に着いたのだった。
 
「じゃあな」
 と、軽く手を挙げてそのまま教室へと向かった尚斗とは対照的に、結花はまず掲示板のクラス編成の紙に目を向けた。
 別に、誰かを探すというわけではなく……早い話、男子生徒なら誰でも良かったのだが、無作為に3名ほどピックアップする。
 そして……周囲に誰もいない場所へと移動し、念のために辺りを見回して再確認。
 大きく息を吸い込み。
 ぱちん。
「かもん、じょにーさん」
 ……10秒……20秒。
「お、お呼びとあらば疾く参上…」
 と、さほど息を切らすことなく現れた宮坂を、結花はじろじろと見つめ。
「私のこと、尾行けたりしてませんよね?」
「依頼があれば、是非もなし」
「……誰か、そんな依頼でも」
「依頼人の名を明かすことは出来ないんだ、すまない」
「……なんか、この前とは微妙に人格が違ってるような気もしますけど」
「男という生き物は、1日で…いや、時と場合によっては、1時間や1分で成長するものさ」
「……まあ、別にいいですけど、依頼です」
「おうけいっ!」
 びっと、サムアップする宮坂を相手にすることなく。
「……のことを調べてください」
 さっきピックアップしたうちの一人の名をあげると……じょにーこと宮坂は、不思議そうな表情を浮かべた。
「有崎さんの時と、同じ程度の調査で構いません。明日までで大丈夫ですよね?」
「いや…それは……2日か3日」
「……有崎さんの時は、調査期間がほぼ半日でしたよね?」
「それは、元々知り合いだったせいさ」
 5秒ほどの沈黙を経て、結花が口を開いた。
「じゃ、お願いします…早いにこしたことはないですが、3日以上は待ちませんよ」
「承知した」
 と、窓を開けてためらうことなく外へ飛び出すじょにー……まあ、一階だから結花はちょっと眉をひそめただけで。
 開けられた窓をきちんと閉めつつ、じょにーが姿を消した方にもう一度目を向けて、ぽつりと結花が呟いた。
「……前もって、調べてあったということですかね」
 だとすると……。
 
 さて、一方尚斗達の教室では。
「……なにかあったのかしら…」
「…ちょっと、あなた演劇部でしょ…声かけてみてよ…」
 などと女子の間でひそやかに囁かれる言葉から想像がつくであろう。
 『夏樹様』が、教室の入り口で何か思い詰めたような様子で静かにたたずんでいるものだから、女子生徒の多くはそちらに向かって好奇の眼差しを向け、男子生徒はいつもと違う女子生徒の様子に首を傾げる。
 そんな周囲のざわめきに気付いていないわけではなかったが、今の夏樹にとってそれは遠いモノで。
『あのですね……朝一番に、高級車に横付けなんかされると、一般庶民としては反対に心苦しく感じたりするモノなんです……ちなみに、歩いていけばいいなんて話でもないですからね。普通に、学校で謝ればいいと思います』
『……入谷さんの意見に従った方が賢明なように思えるけど。まあ、私の見たところ……そういうことでは怒らないわね、彼は』
 結花と冴子の意見を取り入れたのは、尚斗に対して合わせる顔がない……という気後れが手伝った事もある。しかし、謝罪をせずにすませられるような夏樹ではなく……それが、教室で待ち受けるという手段をとらせた。
 『だから、そういう事をやると騒ぎになるのは決まってるじゃないですか…』と、結花ならば言ったであろうが、今の夏樹はそこまで頭が回らない……と言うより、この学校での自分の立場を未だ正確に把握していないと言う方が正しいだろう。
「……あ」
 待ちかまえていた分だけ、気付くのは夏樹の方が早かった。
「あ、あの、昨日はっ」
「おはようございます、夏樹さん」
「え…」
「もう、なんともないすよ、ほら」
 と、頬を指差し、屈託のない笑みを向けられたモノだから……夏樹としても、もうそれ以上の言葉が口に出来ず。
 ちょっと気の利く人間なら、何故誤解が解けている事を知っているのか……まで気が回るであろうが、尚斗の気づかいに夏樹はただ安堵して。
「ありがとう…」
 穏やかな……普段は決して見せないであろう、無防備な笑顔を浮かべたのであった。
「……と」
「え、な、何かしら?」
 右手首を左手で掴み、何かを耐えている……そんな尚斗の様子に気付いて、夏樹が問いかける。
「あ、いや…さすがにそれはまずいな、と」
 苦笑を浮かべながら、ぺしぺしと右手の甲にしっぺする尚斗……を夏樹は不思議そうに見つめるしか出来ず。
「じゃ、じゃあ…またね」
 尚斗にこれ以上気を遣わせないように、夏樹は軽く告げてその場を去った……顔に浮かぶ感謝は消しようもなかったが。
 そして尚斗は。
「……大丈夫か、俺の手」
 つい反射的に夏樹の頭に伸ばしかけた右手をたしなめるように、力を入れてぎゅっと握った。
 
「……おはよう、尚斗君」
「昨日もそうだったが、朝っぱらからご機嫌斜めだな」
「別に……ぁ」
 ぽすっと、尚斗の手が頭に乗せられる。
「尚にいちゃん…」
「……なんか、こうやって頭撫でられるの好きだったよな、麻理絵は…」
「違う…よ」
「そうか?」
「尚にいちゃんに、撫でられるのが好きだったの……他の人は別に…おばさんに撫でられるのはあまり好きじゃなかったし」
「えっ、麻理絵って、母さんに頭撫でられたことあるのか?」
「な、尚にいちゃんはないの…?」
「いやあ、ないない」
 頭を撫でるのをやめ、尚斗は手を振って否定した。
「麻理絵も知ってるだろうけど、殴られるか、蹴られるか、投げられるか…」
「ちょっ、ちょっと待って」
 さりげなく2人の会話に耳をすましていたらしい紗智が、耐えかねたように尚斗の肩に手をかけた。
「な、なに…尚斗はお母さんに、殴られたり、蹴られたり、投げられたりしてわけ?」
「おばさんがね、尚にいちゃんを投げるとすごく飛ぶの……手品みたいに」
「あ、あの…麻理絵?」
 価値観の相違に初めて気がついたみたいな表情で、紗智が麻理絵を見る……が、麻理絵はにこにこと微笑んだままで。
「なんというか…幼稚園の頃」
 ちょっと照れくさそうに、尚斗は頬を指先でひっかいた。
「大きくなったら、正義の味方になりたい…って言ったんだよ」
「せいぎのみかた…」
 言葉の意味は理解しても、実感がわかなかったのか……紗智は、どこかぼんやりとした感じで呟いた。
「だから、仕方ないだろ」
「ごめん、いまちょっと論理がすごく飛躍したような気がする」
「私も、おばさんに聞いたことがあるよ……殴られる痛みをちゃんと教えてやるのは大人の義務だって言ってたけど」
「へ、へえ…」
 自分の理解を超えた物事に対して受け流す精神の防御反応が働いたのか、紗智は曖昧に頷くだけで。
 そんな3人のやりとりを背に、青山はちらりと世羽子に目を向け……世羽子は射抜くような目で青山をにらみつける。
「あ、そうだ…この購買って、チョコパンとか売ってるのか?」
 尚斗の言葉に、麻理絵はきょとんとした表情を浮かべて2秒ほど沈黙し。
「う、売ってると思う…けど?」
 と、不安そうに尚斗を見上げた。
 そして、紗智は……気を取り直したのか笑みを浮かべて、尚斗の耳元で囁いた。
「ねえ、誰のことを調べるの…?」
 
 3限目が終了し、例によって4限目はさぼろうか……と教室をでた尚斗の前に、ぜいぜいと息を喘がせた宮坂が現れた。
「お、およびとあらば…と、疾く…さ、参上」
「……」
「……」
「……は?」
「よ、呼んだだろ俺をっ!?」
「ああ、そういえば…」
 思い出したように頷く尚斗。
 ぱちんと指を鳴らしてから、既に3時間……あきらめを通り越して忘れても仕方ないともいうが。
「いや、学校休んでるのかと」
「用事があったんだっ、用事がっ」
「ふむ、それはすまない……依頼だ、じょにー」
 余計な言葉は口にせず、宮坂ことじょにーはサムアップして見せた。
 
 じょにーへの依頼をすませてから行った屋上には誰もおらず……冬だからではなく、授業中だからという理由の方がもちろん重要で。
「……ん?」
 何気なくポケットにつっこんだ指先に触れたそれを取り出す。
「あ、そっか…昨日拾ったっけ」
 削れ具合からしてまだそれほど使い込んではいないであろう水色のピックを指先で弄ぶ。
『…入れてくれるクラブがないなら、作るしかないでしょ』
『2人でか?』
『何か問題でも?』
『……ない』
『じゃ、決まりね…先生への届け出とかは私に全部任せて』
 そう言って、なんのクラブを作るともいわずにふいっと顔を背けた世羽子を思い出しつつ。
「やっぱ、ここの軽音部も世羽子かなあ…」
 弥生が部室と言ってた第2音楽室の様子を見た限りでは、明らかに積み重ねた時が薄かった。
「……返しておいてやるか」
 尚斗は屋上を出て、軽音部の部室である、第2音楽室へと向かった。
 授業中……という事を抜きにしても、校舎の中は静まりかえっている。
 防音が考えられた作りなのかも知れないが、生徒の騒ぐ声が聞こえるでもなく、生徒達を怒鳴りつける教師の声が響いてくるでもない。
 女子校にやってきて早一週間……どう見ても、新しくクラブを作る……的なバイタリティのある生徒は希少であるように思えるし、それが軽音部となると、もう間違いなく世羽子が絡んでいるとしか思えず。
「……と」
 第2音楽室を行きすぎて、尚斗は慌ててバックした。
 どうせ鍵が開いているわけでもないだろうし、ドアのところに挟んでおけばいいだろう……と尚斗の伸ばした手が止まる。
 薄く開いたドアから、微かにギターの音が漏れていた。
「弥生と世羽子で2人……」
 弥生と会った日の、部屋の中の様子を思い出しつつ。
「全部で4人ってとこか……弥生はこういう落とし物はしない感じだし、世羽子は絶対にギターには手を出さないだろうし」
 自分のギターの腕に関してそれなりの自負があったはずだが、ミジンコ以下と称された尚斗よりかなりマシな評価だったとはいえ、あれだけこき下ろされた上に腕の違いを見せつけられてはなあ……と、尚斗がため息をついた。
「誰っ?」
 尚斗のため息に、というよりはおそらく気配に気付いたのか。
 とりあえず、その声のお陰で世羽子でも弥生でもないことがわかったが……さて、と尚斗はそのまま静かにドアを開けた。
「……ぁ」
 少女が口元に手を当てる。
「悪い、邪魔するつもりじゃなかった……このピックを拾ったんだけど、多分ここのメンツの落とし物かな……と?」
 気がつけば、髪を腰まで伸ばした少女が、さっきとは微妙に雰囲気の違う尖った視線を向けていた。
 邪魔をされた……というのではなく、それは気にくわない知人に向ける視線のように思えて。
「有崎君……よね?」
「会ったこと…」
 尚斗に最後まで言わせず、少女……聡美はすっと右手を出した。
「それ、温子のだわ……返して」
「ああ…」
 聡美の手にそれを落とす。
「じゃあ、部外者は出てって」
「ああ、悪かった」
 聡美の声は冷たくはあったが鋭さに欠けていて……それでも、尚斗は素直に部屋を出て、ドアをきちんと閉めた。
「……はて?」
 見覚えはない……が、少なくとも向こうは見覚えがあるとしか思えず。
 綺羅のことを考えると、髪型1つでわからなくなっている可能性もあるが……はたして、いつ、どこで会ったのか……尚斗は首を傾げながら歩き出した。
 
「尚にーちゃん、あんまり授業サボっちゃダメ」
 昼休み、教室に戻るなり麻理絵が尚斗にかみついた。
「と、言われてもなあ…」
 教室に残る女子生徒が麻理絵に向ける視線に気づき、尚斗はちょっと首を傾げた。
「聞いてる、尚にーちゃん?」
「紗智、ちょっといいか?」
「尚斗くんっ」
「また、後でな」
 麻理絵の頭をぽんっと叩き、尚斗は紗智が座る席へと歩いていく。
「椎名」
「えっ?」
 背後から不意に青山に話しかけられ、麻理絵は狼狽えた。
「な、なに?」
 ついさっきまで自分の席に座っていたはずなのに、いつの間に教室の入り口近くまでやってきたのか……そんな動揺が、口調に滲み出る。
「大変だな」
 皮肉ともいたわりともとれる青山の言葉に、麻理絵はその真意を測るようにじっと青山を見つめ……呟くように言った。
「放課後……いいかな?」
 了解したというように、青山は小さく頷く。
 そんなやりとりがあったことに気付かず、尚斗は紗智の机に手を置いて…。
「お弁当のおかず一品で」
 尚斗が何か言うより早く、紗智が交換条件を提示する。
「……これからは、女子校の宮坂と呼んでやる」
「私は私…そういうの不愉快」
「じゃあ、宮坂を男子校の一ノ瀬と呼ぼう」
「それも嫌」
「わがままだな…」
「そんな決まり切った会話はいいから、何が聞きたいの?」
「いや、何というか…」
 肩越しに振り返って、麻理絵の立ち位置を確認してから。
「麻理絵って、普段はどんな感じ?」
「薄情な幼なじみね…」
「それは否定しないが……紗智は、ここ数日の麻理絵の様子に違和感を覚えてはいないんだな?」
「違和感…って」
 紗智はちょっと微妙な表情を浮かべて、尚斗の顔を見つめた。
「アンタといると……明るいわ」
 微妙な表情そのままの、微妙な表現。
「……中学、高校と、紗智の中では麻理絵は変わってない?」
「……何が言いたいの?」
「いや…いい」
 と、その場を離れかけた尚斗の腕を紗智が掴む。
「お弁当」
「……ほれ」
 ごつっと音を立てて、尚斗は弁当箱を机に置いた。
「全部くれって言うほど図々しくないわよ」
「やる……一度、ここの学食にいってみたかったし」
「あっそ…じゃあ、ありがたくいただく」
 と、紗智もまた特にこだわることなく、素直に受け取った。
 
「あら、尚斗君」
 後少しで学生食堂……の地点において、尚斗は綺羅に見つかった。
 見つかったと言うよりは、発見即接近、即捕獲……で、気がつけば腕をとられ、綺羅に引っ張られる状態だったりするから、油断がならない。
「あの、先生…?」
「尚斗君、こんな時ぐらい先生はやめ…」
「こんな時も何も、思いっきり学校の敷地内です」
 ぴしゃりと言ったが、堪えているのかいないのか……綺羅は、楽しくて楽しくて仕方がないといった表情で、尚斗の手を引っ張っていく。
 客数に対して座席数にかなり余裕があるのか、男子生徒の姿もちらほらしているというのに、混雑しているという印象はない。
 最初からどこに座るか決めていたのか、綺羅はまっすぐに窓際のテーブルへと向かい……わざわざ尚斗のために椅子を引いてさえしてみせた。
「……俺が先生に対してしてあげるべき事だと思うんですが」
「ふふっ、男女の区別なく、誘った方がそうするのがマナーだと私は思いますわ」
 そういってくすりと笑う綺羅の表情は、夢見る十代の少女のようで。
 ここまで来て席を立つのもなあと、尚斗は妥協せざるを得ず、綺羅の勧めるまま、ほうれん草のパスタとコーンスープ……などという、普段の食生活からかけ離れた昼食を向かうことになった。
「藤本先生、割と注目されてるみたいですけど…いいんですか?」
「光栄ですわね」
 意に関せず……とばかりに、綺羅は優雅な仕草でスープを口に運びつつ。
「ここには慣れましたか?」
「慣れるというか……正直馴染めないですね」
 と、割り箸を使ってパスタを食べる尚斗。
「あら…」
 それは、どうしてかしら……と目で語る綺羅に向かって、尚斗はちょっと言葉を選びつつ答えた。
「全体的に活気を感じませんから……印象としては死期の迫った病人みたいな感じで」
「なるほど…」
 怒りもせず、否定もせず……綺羅はただ静かに頷き。
「そういえば、このガッコって教会とかないんですか?」
「中等部の校舎に隣接する建物がそうですわ……授業でお祈りとかありますし、そうそう、他校の教師から珍しがられますが、宗教委員なんてモノもありますのよ」
「宗教…委員?」
 尚斗の表情から読みとったのか、綺羅が微笑しつつ説明する。
「教会の清掃とか、儀式の準備をしたり……まあ、そんなところですけど」
「……高等部は?」
「外部生が増えますもの……あまり、閉鎖的な印象を与えるのも経営的にはちょっと」
 そう語る綺羅の表情は、少女から大人の…経営者としてのそれにとってかわり。
「……大変すね、学校の経営とやらも」
「そうですね……仮に少子化で生徒の数が半分になるとすると、各学校の生徒の数が半分になるのではなく、学校の数が半分になると言うことですから」
「……?」
「……平たく言うと、教育も商売なんです。費用と収入を見据えて、生徒数を決定してるわけですので……生徒数の減少は、そのまま学校経営が成り立たなくなる事を意味しますもの」
「……なるほど」
 尚斗が頷いた……青山と知り合いであるが故に、普通の高校生に比べれば、こういう話に関しての理解度は優れていると言えるだろう。
「じゃあ、ウチの男子校やばいですね」
「そうですね…」
 綺羅はちょっと笑い…。
「誰かさんのせいで、100名以上の生徒がいなくなりましたし」
「……」
 綺羅のいう誰かさん本人として、さすがに尚斗は何も言えず。
「でもそれは、産みの痛みですわね……誰にも真似が出来ない方法で全てのしがらみを根っこから叩きつぶし、膿を吐き出したわけですもの」
 そんな綺羅の口調は、咎めるというより、むしろ良くやったと賞賛するような響きがあり……尚斗は少々戸惑った。
「……えっと?」
「尚斗君が思っているよりも、私は本気ですわよ……色々と」
 そう言って、綺羅は微笑んだ。
 
「では皆様方、ごきげんよう」
 HRの終わりを告げた綺羅が教室の外へ出ていくと、教室内は生徒達の帰り支度のせいで多少騒がしくなる。
「有崎」
「すまん青山、ちょっと用事があるから…」
 と、そそくさと教室を出ていく尚斗が目指したのは……。
 
 『演劇部部室』
 
『そっち、資材あまってない?』
『衣装係、こっち集まって…』
 わいわいがやがやと……HRが終わってそれほどの時間も経ってないというのに、演劇部の部室は雑然とした活気に満ちていた。
「……そういや、土曜に公演とか言ってたな」
 今日は火曜日で、来週には試験を控えている……学生としては、なかなかにつらいスケジュールだろう。
「……夏樹様のことが気になるんですか?」
「まあ、気にならないと言えば嘘になるな」
 振り返ることなく尚斗が答えると、背後からため息が1つ。
「少しぐらい、驚いてもいいんじゃないですか?」
「夏樹さんと違って、お前は気配が消せてねえもん」
「……その割には、鈍いときと鋭いときがありますね、有崎さんは」
 そう呟きながら尚斗の隣をすり抜け、結花が部室に足を踏み入れる……と、室内の気配が一変した。
『入谷さん、舞台装置の…』
『スケジュールだけど…』
 ぴりっと空気が引き締まり、そのかわりさっきまでの雑然とした感じは失われ……てきぱきてきぱきと、人が、モノが動き出す。
「ふむ、大したもんだ」
 そうして5分ほど経っただろうか、ある程度指示を出し終えて結花が出てきた。
「誉めても、何も出ませんよ」
「聖徳太子か、ちびっこ…」
「……というか、夏樹様を捜しているわけじゃないんですね」
「いや……正直、じょにー待ちというか、今のところ何をどうしようという明確な目的はないからなあ…」
 結花が不思議そうに尚斗を見上げる。
「まあ、何となく気になった…としか」
「……変わった人ですね」
 呆れたように呟く結花。
「ところで、じょにーさんに、何を調べてもらってるんですか」
「いや、ここ2年程の演劇部のことと、夏樹さんとちびっこを中心に」
「ほ、本人を目の前にして、それを言いますか?」
 怒ると言うより呆れた口調……なのに、結花の表情には何故か納得したような雰囲気がある。
「と言っても、本人に直接聞くわけにもいかないこともあるし」
「それは…そうですね」
 結花がちょっと口ごもった。
 なんと言っても、先に相手のことを調べたのは自分なのだから……しかし、そのまま黙っているのもしゃくだったので、ちょっとやり返す。
「そういえば、有崎さんは夏樹様に似てるんですね」
「は?」
「いえ、男子校の生徒にモテモテじゃないですか、有崎さんは」
 多少唐突だったせいか、尚斗がその言葉の意味を理解するまでに10秒ほどの時間を要した。
 
『モテモテも何も、俺は男子校の中では間違いなく鬼っ子扱いだ』
 結局なんのために部室までやってきたのか……そのまま帰っていった尚斗の言葉が、結花は気になっていた。
「……鬼っ子ですか」
 じょにーによる尚斗の報告書で気になった点というか、疑問がそれだった。
 出会いこそああだったが……もちろん、世羽子と付き合っていたという事で点数が甘くなっている可能性もあるが、報告書の中で語られる尚斗の交友関係が異常なほど狭いこと……それが結花には納得できなかったのだ。
 幼なじみが2人、そして世羽子と青山、おまけでじょにーこと宮坂の計5人。
 幼稚園から、高校2年の現在に至る過程で……たったそれだけしか出てこないのはどういうことか?
 そういう結花にしてもあまり人のことは言えないのだが……演劇部だったり、クラスメイトだったり、友人はともかく、知人程度のつき合いならすぐに10人20人ぐらいの名前は出てくる。
 世羽子は……周囲に対してわざと心を閉ざしている気配があるからわかるが、結花の見るところ、尚斗の振る舞いはむしろ周囲に対して開かれて過ぎている程で。
「私も……じょにーさんの報告書待ちですかね」
 元々そういう報告書なのか、それとも尚斗の交友関係が本当に狭いのか……もしくは、報告書そのものが、誰かの意図の元に改竄されているか。
 ふっと、結花は苦笑を浮かべた。
「……他人のことは言えませんね、私も」
 何となく気になった……としか言いようがないのに、尚斗のことを色々と調べようとしているのだから。
 
 
                   完
 
 
 これを読んで、『あの選択でここまで話が変わるのかっ?』などと思っていただけるとありがたいです。(笑)
 まあ、2周目ということで尚斗に綺羅の記憶(?)が残っているという条件が付加されているせいもありますけど。

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