「……いないです」
 尚斗達の教室をのぞき込んで、御子はぽつりと呟く。
 微かな失望と、安堵の気持ち……もう一度会いに行こうと一度は決めたけれど、会いたいような、会いたくないような、気まぐれな風に翻弄される風見鶏のように、御子の心はくるくる回る。
 教室の中の人間に尋ねることも出来ず、御子はそっとその場をあとにした。
 昼休みも半ば、教室で、廊下で、男子が女子が思い思いの時を……女子生徒はいつもよりにぎやかに、男子生徒は普段より静かに感じながら過ごしている。
 無論、御子の場合は……その騒がしさにプレッシャーを感じているタイプ。
 廊下の隅を、男子生徒と目があったりしないように俯きながら……それでも、見る人間が見れば、御子の足運びや身体の動きから日本舞踊のたしなみがあることを見抜くであろう。
「あ、有崎〜っ!」
 御子が弾かれたように顔を上げた。
 姉の……声。
 姉の、そういうしゃべり方は……もちろん今も不自然には感じているが、多分、以前より自然に近い姿なのだろうと思えるようになった。
 弥生と尚斗、と青山が何か語らうのを見つめながら、御子は何年か前の出来事を思い出していた。
 
 ぱちん、ぱちん、ぱちん…。
『あ、あの、おねえさま…?』
 ぱちん…。
 どこか怖い目をした弥生が、花の葉を全部切り落として……それを、ただ一本活けた。
『花が可哀想……御子はそう思わない?』
 
 その時、何も言えなかった自分を思い出すたびに、御子は自分を恥じるような気持ちに襲われる。
 確かに花が可哀想だとは思った……が、多分姉は、何か別のことを伝えようとしていたはずで。
「……」
 弥生と尚斗達2人が別れ……なんとなく、御子は2人のあとを追った。
 昨日今日ではなく、姉とはずっと以前からの知り合いだったのだろうか……今朝の様子から、そんなはずはないとはわかってはいるのだが、何故かそんな風に感じてしまう。
 そして、2人の姿が教官室に消えて……御子はやっと気づいた。
 尚斗に会って……それからどうするつもりなのかと。
「……ぁ」
 その答えを出す前に、2人が教官室から出てきたモノだから、御子は慌てて後を追う……端から見るとのんびりした動きなのだが、本人は割と真剣である。
 と、青山と話していた尚斗がいきなり振り返り……御子の生まれて初めての尾行はここで一旦終了することになる。
 
「で、どうかしたの?」
「あ、あの…その…」
 そんなことを聞かれても、御子としてはただ俯くしか出来ず。
 ふわり、とした感覚の後に、頭を撫でるその手から何とも言えない優しさが伝わってくる。
 普通の人の手とは違うのか……そんな気がして、御子は頭を撫でていた尚斗の手を取り、指先で揉むようにしながらじろじろと眺め始める。
「えっと…御子ちゃん?」
「普通の…手です」
「……」
 御子の好きにさせようと思ったのか、尚斗はくすぐったさを耐えるような表情を浮かべつつ右手をそのまま預け……1分ほど経っただろうか。
「……ぁ」
 自分が何をしているのかに気づき、御子は顔を真っ赤にして尚斗の手を放した。
「も、申し訳ありません…」
「どっちかと言えば、いきなり頭撫でてる俺の方が…」
「べ、別に、嫌じゃないです…から」
「そう、俺も嫌じゃなかったよ……と言うことで、謝る必要はなし…だよね?」
「……あは」
「ん、お互い様…で、片づけてくれると助かる」
 と、御子の微笑みを受けて尚斗も笑う。
「で、どうかしたの?」
「……」
 尚斗の顔を…いや、目をじっと見つめた。
 家の話を初対面とも言える人に……そんな気持ちはどこかへいってしまっていた。
「お姉さまの…事です」
「……家出がどうとか言ってた件?」
「プチ家出…です」
「ふむ、プチ家出の件」
「父も母も、おねえさまも……そして、私もですが……距離を置いて、冷静に見ることができていないような…気がするんです」
 これを知ったら、怒るだろう……と、心のどこかでわかってはいたが。
 御子は、ただまっすぐに尚斗の目を見つめて。
「おねえさまは、聡明な方です……有崎さんが思うことを、それとなく伝えてくだされば…今の、袋小路から抜け出す手段が見いだせるかも知れません…」
 厚かましいお願い……にもかかわらず。
 ぽんと頭に手を乗せて。
「ん、何とかすると約束は出来ないけど、気にかけておく…それでいいかい?」
「ありがとう…ございます」
 
「朝、みなさまにお伝えしたように、来週は試験が…」
 帰りのHR……教師の話を最後まで聞かずに半分以上が教室を飛び出していたはずの男子生徒は、おとなしく、従順に綺羅の言葉に耳を傾ける。
 もちろん、女子生徒に関して言うまでもない……もちろん、男女ともに例外は存在するが。
「あ、それと…尚斗君」
 よりいっそうの輝きを増した微笑みを尚斗に向けて……尚斗だけを名前で呼ぶことに関してはもう誰もつっこもうとはせず。
「例の資料ですが、後でお渡ししますね……教官室で」
 『教官室で』の部分にアクセントをつけたにもかかわらず、尚斗がなんの反応も見せなかったので、綺羅はつまらなさそうに目を伏せた。
 そしてHRが終わり……。
「尚にーちゃんは、用事があるみたいだから、先に帰るね」
 と、拗ねたように教室を後にした麻理絵は……校門を過ぎ、駅に向かう生徒の流れから分かれて、やっとその歩調を緩めた。
「やりにくいな…」
 ぽつりと。
 左前方へとのびる自分の影を車のタイヤが踏んでいく。
 最初に出会ったときから、青山の視線が気になっていた……そう、冴子のそれとそっくりなのだ。
 ふっと、気がつくと見られていて……いや、冴子もそうだが『ちゃんと見てるよ』という意志表示をされているようで、なんとも息苦しいというか。
 もちろん、見られることが目的なのだが……見ていることを悟られないようにするのが普通なのに、敢えて見てることをわからせる……のは、こちらの意図を見透かされているようで落ち着かない。
 もう1週間になるのに、未だに麻理絵は青山という人間を見きれていなかった……それは、わずかな例外を除いて、これまでにないことで。
 多分、というかおそらく、青山が自分の邪魔はしないだろうとは思ってはいるのだが。
 ふっと、尚斗の母親に言われたことを思い出す。
『例えばボクシングのチャンピオンが麻理絵ちゃんに向かって、ボクシングで勝負だ、とか言い出すのは論外なのはわかるわね。勝負のやり方は、勝負をふっかけられた方が決める…これが、最低限の決まりなの』
 麻理絵の知る限り、尚斗の母親は周囲の人間から疎まれていた……尚斗と遊ぶことに良い顔をしなかった自分の両親もそうだったし、みちろーでさえもそうだった。しかし麻理絵は、尚斗の母親が好きだった……尚斗の母親だからと言う意味ではなく、自分の両親なんかより、ひょっとすると尚斗よりずっとずっと好きだったかもしれない。
『で、勝負をふっかけられた麻理絵ちゃんは……絶対に自分が勝てるやり方を選んだりしちゃいけない。どっちが勝つかわからない……そういう方法を選ばなきゃいけない。それが、公平ってことよ』
 正しいとか正しくないではなくて、いつも納得できる事しか言わなかった……のに、周囲の人は、いつも陰に回って理不尽がどうのこうのと言っていた。
『まあ……それを守るやつはほとんどいないけどね。だから、麻理絵ちゃん……このやり方なら、大抵の相手には勝てる……そういう力を持たなきゃ、今の世の中では生きていけない。理不尽に勝負をふっかけられ、ただ奪われるだけさ』
 そう呟いたあの人の目はどこか寂しげで。
 あの時はわからなかったけど……あれは多分、何かを諦めた目。自分がそうだったし、みちろーくんもそうだったから。
 まだ4時にもなっていないのに、既に紅く染まりつつある空を、麻理絵は肩越しに振り返った。
「おばさん……今の私、公平かな?」
 もちろん、その問いに答えるモノはなく……。
 麻理絵は1つため息をつき、今理不尽な戦いをふっかけられているのか、それとも理不尽な戦いをふっかけているのか……それを、考え始めた。
 
「さて…」
 夏樹が去り、夏樹の忘れ物を持って尚斗が去り……そこに残されたのは、冴子と青山の2人。
「これで、誰にも聞かれないけど?」
 なんの話かしら……という視線を青山に向ける冴子。
「大した用事じゃないですよ……礼を言いたかっただけで」
「…と、いうと?」
「母が死んだ夜、来てくれたでしょう……あの時は挨拶も出来ませんでしたが」
「お母さん…いつ、亡くなられたの?」
 冴子は、不思議そうに問い返した。
「5年前ですが」
 10秒ほどの沈黙を経て、冴子が口を開いた。
「つまり……5年前、あなたのお母さんが亡くなったとき、私に会った…と?」
「まあ、勘違いかも知れませんが」
「勘違いでしょうね…」
 困惑しつつも、どこか面白げに冴子は青山を見つめて。
「ちなみに、5年前の私は、どんな格好で現れたのかしら?」
「見た目で言うなら、藤本先生より少々年上という感じでしたが」
 再びの沈黙……は5秒ほど。
「医者を……紹介してあげるべきかしら?」
「医者が経験を積むと、人が骨格標本のように見えることがあるという話をきいたことはありませんか?」
「……それで?」
「俺もそうでしてね……まあ、大抵は身体がどういう状態か見ればわかるんですよ」
「それはつまり……5年前に現れた人と、私の身体が、外見はともかく同一人物の様相を呈している」
 と、冴子はここで一旦言葉を切り……青山の目をじっと見つめて、再び口を開いた。
「そういう事かしら?」
「そういう事です……まあ、少なくとも関係者だろうと思いましてね。礼を言ってた…と、心当たりの相手にでも伝えてくれれば」
「面白い話ではあったわ…」
「ま、それだけのことです…」
 と、青山が腰を浮かせかけた。
「ちょっと待って」
「まだ、何か?」
「あなたの話に付き合ってあげたんだから、私の話にも付き合ってくれないかしら?」
 と、冴子は変わらぬ表情で青山を引き留め。
「…そういう事なら」
 素直に青山は腰を下ろした。
「あなたのお母さんは……どういう人だったのかしら?」
「俺は、嫌いでしたよ」
「そんなとりつく島もない…」
 と、冴子は苦笑を浮かべ。
「いいわ、また今度にしましょう…」
 承知した、と言う感じに席を立ち、青山が図書室を出ていく……それを、冴子はじっと見つめていた。
 
 話は少し前後するが、夏樹の忘れ物を持った尚斗が図書室を出てどうしたのかというと。
「……はて?」
 廊下に落ちていた、ピックを手に首をひねっていた。
 
  『気にしない』
 
「ま、いいか……」
 気にならないといえば嘘になるが、今は夏樹さんに忘れ物を届けるのを優先すべきだろう……と、そのまま捨てるのもアレなので、ピックを制服のポケットにしまい込む。
「えーと、第2視聴覚室だったか……」
 と、そこで尚斗の足がピタリと止まる。
 確か演劇部には、宮坂が忍び込んだはずの部室というモノが存在したはずで。
 なんとなく周囲を見渡し、『ナイスタイミング』と声をあげた。
「おーい」
「えっ、あ…有崎…さん」
 近寄ってくる尚斗を見て、結花がちょっと狼狽えたように後ずさる。
「……どうした?」
「あ、いえ…」
 結花は気を取り直すように軽く頭を振り、すっと尚斗にむけて顔を上げたときはもういつもの表情に戻っていた。
「何か用ですか?」
「ん、ああ、さっきまで図書室にいたんだが、夏樹さんの忘れ物」
 ほら、これだ…と、封筒を掲げて見せた。
「…夏樹様、1つのことにしか集中できない人ですから」
「……なるほど、言われてみればそんな気もする」
 読書に、ぬいぐるみに……と、尚斗がなんとなく頷く。
「で、どうする?」
「……どういう意味ですか?」
「いや、俺が直接夏樹さんに渡していいのか?これからすぐ会うなら、渡してくれてもいいし、忙しいなら…どこにいるか教えてくれれば俺が渡すし」
「だったら…」
 結花はちょっと口ごもり……ちらっと尚斗を見上げた。
「さっきまで、図書室にいらっしゃったんですよね?」
「ん、ああ…」
「多分……教室ですね。そこじゃなければ、部室です。私はこれからちょっと用事がありますので、申し訳ありませんが……」
「……」
「てい」
 結花が尚斗の手を払いのけた。
「今の会話の流れで、頭を撫でる必然性がありますかっ!?」
「いや、なんか今日は風向きが違うというか」
「信用してあげてるんですっ!」
「そっか……と、ちょっと手出せ」
 と、結花より早く尚斗の手が左手をとって。
「ふむ…」
 とんとんとん、指先で手首を触診していく。
「うん、大丈夫だな…もう、普通に動かしてオッケーだ」
「医者みたいな事言いますね」
「内科はともかく、そっちに関しては専門医に負けない自信があるぞ」
「……元々は、有崎さんのせいで痛めたんですけどね」
「すまんな、ちゃんと避けられれば良かったんだが」
「……」
「どうした?」
「いえ…別に」
 結花はちょっと俯き……顔を上げた。
「じゃあ、お願いしますね。教室の位置は……」
「おう、さんきゅ」
 と、封筒を抱えてその場を離れる尚斗の背中を見つめて……結花が、ぽつりと呟いた。
「少なくとも……変わった人ですね」
 
「おっと、ここか…」
 結花の指示通りに、まっすぐとやってきた夏樹の教室をそっとのぞき込む……放課後になってからそれなりの時間も経っているため、がらんとしているのは当たり前。
「……」
 尚斗は微妙な表情を浮かべ、そこから3メートルほど後退した。
 教室には女子生徒が一人で、明らかに夏樹ではない……いや、それは別に問題ないのだが。
 そもそも、普通に図書室を出ていれば今頃は教室ですね……という話で、照れたように図書室を逃げ出した夏樹が、ちびっこの言ったとおりの行動をとるかというのは別の話なのだから。
 尚斗は、再び前進し……窓からそっと教室内をのぞき込んだ。
 さて、なんと形容すればいいのか……。
「多分……あれって、あの人の鞄じゃねえよな?」
 本人のいないところで、椅子や机に細工をしたり、鞄を傷つける……なんてのは、わりと経験してきている尚斗だが、鞄の中身の1つ1つをぎゅっと胸に抱きしめたりするのを見たのは初めてというか。
『現実のムサイ男どもに幻滅した私達の心に安らぎと潤いを与える魅惑の麗人にして、学校創立以来最高の才媛、全てを最高レベルで備えた夏樹様に向かって『ちゃん』とはなんですかっ!』
 良くもまあ、舌も噛まずに言い切れるもんだと感心した、結花の言葉が脳裏に甦る。
「えっと、つまり…アレは、ああいうこと…か?」
 尚斗本人としては理解できないが、幸いというか……男子校の生徒に、ちょいと危ない奴らもいるわけで。
「あれが……夏樹さんの、なら……戻ってくるよな」
 尚斗は1つ頷き、静かにその場を離れ……わざと足音をたてて、教室へと近づいていった。
「すいませーん」
 声をかけ、がらりとドアを開ける……と、そこをすり抜けるように走り去ろうとした女子生徒が胸に抱えているモノをめざとく見つけ。
 尚斗は指先で素早くそれを抜き取った。
 それに気づかなかったのだろう、女子生徒はそのまま走り去っていく。
「ふむ…」
 小さな、携帯のストラップと言われても納得できるような、ひも付きのふかふかした感触のウサギのぬいぐるみを眺めて。
「ウサギ…好きなのかな?」
 これで、このぬいぐるみがあの女子生徒のモノ……だったら、よろしくない状況だが、それは大丈夫と本能が告げていた。
「さて…」
 取り戻した(尚斗主観)のはいいのだが、どうやって戻せばいいのか?
 先日の感じからして、外から見える位置にぶら下げていた……わけではないだろう。
「有崎…くん?」
 背後からの声を耳にした瞬間、素早くそれをポケットにしまい込み。
「ああ、夏樹さん」
 と、尚斗は振り返って微笑んだ。
 何らかの武術心得があるのは当然わかっていたが……妙に気配を感じさせないのは、訓練されたからなのか。
「どうした…の?」
「いえ、夏樹さん、図書室に忘れていったでしょ」
「あ」
 尚斗の差し出したそれを、まさに奪い取り……夏樹はちょっと警戒するような表情で尚斗を見つめた。
「み、み…見た?」
「いえ。図書室を出て、ちびっこに多分ここだろうって聞いて」
「そ、そう…」
 ふっと、夏樹の緊張がゆるむ。
「わざわざ、捜してくれたんだ…ありがとう」
 と、夏樹が頭を下げたのに合わせて、尚斗もまた頭を下げ。
「暇です…しっ?」
 止める間もなくというか……ぬいぐるみを手にしていたのを見られていたなら止める意味もないと思い、夏樹の指先がポケットからそれをとっていくにまかせた。
「……何で?」
 怒っている……と言うより、傷ついた目で尚斗を見つめ、ウサギのぬいぐるみをギュッと握りしめながら。
「……夏樹さんのですか?」
「悪い?」
「いえ、そういうわけでは…」
 ぱんっ。
 乾いた音が響く。
 避けられないことはなかったが、避けなかった。
 それがわかったのかどうか……夏樹はちょっと困惑したような表情を浮かべ、またすぐに尚斗をにらみつけ、自分の鞄を手に走り去っていった。
「……はて?」
 赤くはれた左頬を指先でひっかき尚斗が呟く。
 さほど面識もない男子生徒に自分の鞄の中を……怒ったり、気持ち悪がったりするのならわかるのだが。
 あの小さなぬいぐるみが夏樹にとって大事なモノだから……というのとは、ちょっと違うような気がして。
『似合わないのはわかってるけど、好きなのっ!しょうがないじゃないっ!』
『この子ね、背が高いって事がコンプレックスなのよ……昔は、ちっちゃく見えるように猫背で歩いたり…』
 昨日の夏樹の言葉を、そして、さっきの図書室での冴子の言葉を思い出す。
「……冴子先輩、まだ図書室にいるかな?」
 
「……あら?」
 図書室の戸を開けた瞬間に、冴子の目がこちらを向いた。
「青山君なら帰ったわよ?」
「あ、いえ、ちょっと冴子先輩と話がしたかったので…時間、大丈夫ですか?」
「そうねえ…」
 冴子はちょっと目を細めて。
「そのほっぺについた、手形の訳を聞かせてもらえるなら」
「……まあ、その話です」
 と、尚斗は椅子に腰を下ろした。
「……というか、予想してました?」
「まさか」
 冴子は首を振り、尚斗の左頬に指を伸ばした。
「何らかの形でトラブルが起こるんじゃないか…とは思ったけど」
「なるほど…」
「痛くない?」
「別に何とも…10分もすれば、手形も消えますよ」
「そうね…」
 少し名残惜しいような素振りで冴子は指を離し……尚斗の目をじっと見つめた。
「それで、何から聞きたいの?」
「いや、逆でしょ」
「それもそうね」
 冴子はちょっと笑って、尚斗が先の事情を話すのに耳を傾け……聞き終えて小さく頷いた。
「なるほどね…一種の才能というか」
「才能…ですか?」
「夏樹じゃなくて、キミの…ね」
「よく…わかりませんが?」
 尚斗が首を傾げるのに、冴子が微笑みながら言う。
「結果として、夏樹と今以上に親しくなるじゃない……普通なら、もっと時間がかかるところなのに」
「親しくも何も……今、まさに最悪だと思うんですが」
「そんな誤解、すぐに解けるわよ…」
 気にすることないわ、と冴子がなんでもないように。
「第一、キミ、誤解を解こうと思ってここに来たわけじゃないでしょ?」
「まあ…そうですね。なんというか、夏樹さんの様子がせっぱ詰まってるというか…気になりまして」
「……とりあえずヒント」
 尚斗に向かってウインクしながら、冴子が指を一本立てた。
「演劇部について調べた方がいいわね」
「……」
「別に意地悪してるわけじゃなくて、キミにある程度の予備知識を持ってもらわないと、説明のしようがないの」
「はあ…」
「夏樹が何故『夏樹様』、なのかも詳しく知らないわよね?」
 真意を探ろうとして、尚斗がじっと見つめる……が、冴子は軽やかにそれをかわして。
「夏樹は私の友人……それだけは信じてくれないかしら?」
「……わかりました」
 と、尚斗は頷くのだった。
 
 さて、その頃の夏樹が何をしていたかと言うと…。
「……なるほど、それで叩いて逃げたわけですか」
「ど、どうしよう、結花ちゃん…」
「あのですね夏樹様…図書室で別れたばっかりの有崎さんが、どういう理由で夏樹様の教室で、夏樹様の鞄の中を探ったり…」
「だ、だって…持ってたし、慌てて隠したし…」
 などと、身長差が35センチある結花の前で身体を縮こまらせていたりするのだが。
 何故にこれほど早く誤解が解けているのかというと、尚斗から取り返した(夏樹主観)ウサギのぬいぐるみを鞄の内側に設置し直そうとしたところ、夏樹はそこに寸分違わぬモノを見つけてしまったのである。
 早い話、あの女子生徒は夏樹のそれと同じモノを手に入れ……それを、夏樹のモノと無断で交換しようとしたわけだが、プチパニック状態に陥った夏樹がそんなことを思いつくはずもなく。
 一昨日に引き続き、またも誤解で……。
 恥ずかしさと申し訳なさに顔を真っ赤にした夏樹が、おろおろしながら結花のところへ現れ……こうなったわけで。
「まあ……謝るしかないんじゃないですか?」
「で、でも、これで、二回目…なのよ?許してくれるはず…」
「……大丈夫のような気がしますけど」
 と夏樹をなだめつつ、心の中で結花が呟く。
「(……誤解はともかく、ぬいぐるみがどこから出てきたか気になりますね)」
「許してもらえる…かしら?」
「大丈夫だと思いますよ…」
 もしこれが夏樹でなければもっと強い態度をとる……が、結花にはそれが出来ない。
 それは、『夏樹様』という理由だけではなく、結花が夏樹に対して負い目を感じているからだ。
 夏樹を、夏樹様にした……それが結花の負い目。 
 
「……で?」
 弥生の冷ややかな視線を感じつつ。
「えっと、だからね……計画は完璧だったと思うの。ただちょっと、時期が悪かったかなあって」
「……」
「放課後じゃなくて、昼休みとか……なら、きっと」
「……」
 いつもとは立場が逆というか、ことバンドの練習に関しては世羽子よりも弥生の方が厳格で。
 もちろん、昼休みに青山と再会したことで弥生の心が微妙にささくれていたのも、原因の一つではあろうが。
「弥生、さっさと練習しましょ」
 と、取りなすように世羽子。
「そうね、今日はドラムもいないし」
「弥生ちゃん、私、ドラム、ドラム」
「2人で練習かあ…」
「あ〜ん、弥生ちゃんが意地悪言う〜」
「弥生も、いい加減にしなさい。温子だって、ちゃんと考えがあったわけなんだし」
「そ、そうそう」
 と、世羽子が2人には聞こえないぐらいにぽつりと呟いた。
「てっきり……尚斗がやってくると思ったけど」
 まあ、そういうこともあるわ……あり得ない事だが、青山がここにやってくることを考えたら、大抵のことは許せると世羽子は思った。
 あの時も3人だったし、温子が来るまでも3人だった。
 尚斗がドラムを叩き、青山がギター、世羽子がベースで……兼ボーカル。
 かつて、弥生と聡美に聞かせた………あのテープ。
 弥生は今もアレが4人組のバンドだと信じているだろう……が、聡美はあのボーカルが世羽子だったことに気づいていたのではないか。
 なんとなくだが、そう思った。
 
「こんな出番はあんまりだと思うんです〜♪」
「なんの話ですか、安寿?」
「いえ〜来週はテストがあるので〜そろそろ正座もお終いにしていただかないと〜♪」
「すっかり女子高生になりきって……というか、今日は随分と余裕がありますね、安寿」
 よくぞ聞いてくれました、とばかりに安寿がぱちんと手を叩き。
「昨日〜極意を掴みました〜♪」
「なるほど、極意ですか」
「はい〜♪」
 にこにこ笑い、羽根をパタパタさせながら安寿が言葉を続ける。
「流れるように〜形を変えながら〜と来れば住職さんです〜♪」
 天使長は何も言わずに安寿を見つめ。
「正座し続けて何十年の、プロフェッショナルです〜その人の記憶をのぞいてみれば、もう宝の山でした〜♪」
「なるほど」
 天使長は1つ頷き。
「それで安寿、今日は何故正座させられているか、わかっていますか?」
「わかりません〜でも、つらくないから平気です〜♪」
 天使長はちょっと振り返り、そこに控えていた一人の天使に声をかけた。
「抱き石をもってきなさい」
「な、なんでここにそんなものがあるんですか〜♪」
「おや、抱き石を知ってるのですか?」
 意外そうに天使長。
「住職さんが子供の頃に、悪いことをしたんです〜それで、罰を〜」
 ふっと、何か気づいたかのように安寿が顔を上げた。
「天使長様ぁ〜なんで私は正座せられているんですか〜♪」
 天使長は、何かを諦めたように遠い目をして。
「昨日、見られましたね?」
「ちゃんと、記憶は消しました〜♪」
「消すなら手抜かりのないように、きちっと消しなさいと言ってるんですっ!この前も、あなたのお陰で、どれだけの天使がフォローに回ったかわかっていますかっ!?」
「そ、そうだったんですか〜」
 安寿はぱちくりっと目を見開き……ふっと首を傾げた。
「あの〜天使は人手不足と聞いてますが〜私のフォローに人を回すぐらいなら〜」
 そもそも自分を働かせなければいいのでは〜の言葉を言わせることなく、天使長が安寿の顔を優しく両手で挟み込んだ。
「あ、あの〜?」
 天使長の顔を間近に見て、安寿が困ったように声を出す。
「早く…一人前になりなさい、それだけです」
「……はい〜」
 天使長の心のこもった囁きに、安寿は静かに頷くのだった。
「それと…」
 安寿に背を向け、天使長は呟くように。
「人の記憶をのぞいたり、消したりするのは控えなさい……よっぽどの場合をのぞいて」
 
 
                  完
 
 
 さて、やっと違う話をごろんごろん回すことが……違いすぎ、などと突っ込まれそう。(笑)

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