カタン…。
「…ん?」
 ドアの郵便受けが鳴る音で結花は目覚め……まるで計ったかのように、その数秒後に鳴り響いた目覚まし時計のベルで意識が完全に覚醒した。
「…寒」
 身震いしながらどてらを羽織り……玄関へと向かう。
 結花は新聞をとっていない。それ故にその程度の小さな物音で目覚めたのだが、朝早くから何かのチラシ配布ってこともないはずなのに……そんな疑問が、顔を洗うよりもまず確認を結花に優先させたのか。
 小さな郵便受けの中に押し込んだのだろう、B5サイズの茶封筒は角が少し曲がって……宛名はないが、きちんと封がされている。
「……?」
 間違いかも……とひっくり返した封筒の裏に、ひらがなで小さく『じょにー』。
 なるほど、夢じゃなかったんですね…と、結花は何となく頷く。
「……と、冷えますね、今朝は」
 とりあえず机の上に茶封筒を置き、顔を洗い、やかんをコンロにかけ……とりあえず靴下をはいた。
「さて…」
 茶封筒を手に取り、薄いプラスティック定規で封を開けてみると……10枚程度の用紙が入っていて。
 それも、手書きではなくきちんとしたプリンター印刷。
「……これでチョコパン2個ですか?」
 仮に内容がでたらめだったとしても……の手の込みよう。
 結花は少し首を傾げ、その報告書に目を通……その前に湯が沸いた。急須に湯を注ぎ、残りをポットにいれて。
「……はう」
 熱いお茶を一口すすって、ほっと一息ついた。
 味も香りも素っ気ない、単に色が付いている……というだけのお茶だが、寒い冬の朝には、熱さを味わうだけで結花には充分で。
「……それにしても」
 少し目を通しただけでそう結花が無意識に呟いてしまうほど、報告書はしっかりとしていた……内容が、ではなく、文章の書き方やレイアウトなどに、確かな知性を感じさせるのだ。
 じゃあ、あの冗談としか思えない振る舞いは演技ですか……などと思いつつ、結花の眼が報告書の文字を追い……母と死別しているという部分でしばし動きを止めた。
「……ふうん」
 曖昧な呟きと共に、また視線が動き出す……そして。
「え?」
 驚きの声と同時に結花の視線が再び止まった……いや、止まったなどと言う生やさしいモノではなく、報告書がしわになるほどに手に力を込めてその部分を凝視している。
 そうして……1分ほども経っただろうか。
「……そうですか」
 まだ全部読み終えたわけでもない報告書を無造作に机の上に投げ、結花は天井の隅を見上げた。
「……秋谷先輩と付き合ってた人でしたか」
 もちろん……それが本当か嘘かを今確かめることは出来ないが、何となく……納得できるような気がするのが不思議と言えば不思議で。
「そうですか……あの、秋谷先輩が、付き合った人ですか」
 自分自身に納得させるように、もう一度呟く。
 長々とした報告書なんか関係なく、結花にとっては、それだけで……尚斗という人間は信用するに足りるのだった。
 
「……ほら、あの家よ」
 世羽子が指さす家は……いうまでもなく有崎家。
「さすが地元よね。住所を聞いただけで、迷うことなく道案内できるんだから」
「まあ…ね」
 弥生の視線を無視するように、世羽子はそっぽを向いている。
「朝早くから、本当にありがとうございました」
 と、深々と頭を下げるのは御子。
「別に……ちょっと遠回りして学校に向かうだけのことだし。あなたの遠回りに比べたら…」
 と、さすがにそっぽを向いたままでもいられず、御子に向き直って世羽子。
 世羽子の言うとおり、今朝の御子はまず女子校の最寄り駅で降り、そこから歩くこと50分(ちょっと迷った)で世羽子の家に……で、世羽子の家から歩いて尚斗の家へ……だから、既に家を出てから2時間が経過しているのだ。
 ちなみに、世羽子の家の最寄り駅となると……女子校の最寄り駅から南へ3駅行くと例の繁華街があることは何度も述べた……その駅から別の路線に乗り換えて2つめの駅で、一般人が歩いて25分〜30分ほど。
 男子校の最寄り駅は、そこから1駅先になる。
「御子、本当に身体は何ともないのね?」
「はい、大丈夫です、おねえさま」
「今日一日、大事をとっても…」
 と、なおも言いかける弥生に、御子はにこっと微笑んで首を振った。
「大丈夫です……それに、香月先輩からその時の様子を聞いて……一日でも早く、お礼を言うべきだと…そう、思いました」
「そう……あなたが決めたなら、思うようにしなさい」
 と、さりげなく世羽子は電柱の陰へと移動した……もちろん、弥生や御子が不思議に思うような動きではなかったが。
「…ぁ」
 小さな声と同時に弥生の視線が御子から尚斗の家の門へ……御子もそれにつられて目を向ける。
 大きさからしておそらくは弁当箱の入った袋を鞄へと押し込みながら、40すぎの男……もちろん尚斗の父親だが……が門を開けて出てきたのだ。
「……ありさきさんの、お父様でしょうか」
「じゃ、ないかしら?」
 と、御子と弥生。
 弥生達がいる方向……麻理絵の家がある方向は逆……に向かって歩き始めた尚斗の父は、世羽子の姿に気づかなかったのか……2人に軽く頭を下げ、2人が礼を返したのを見てもう一度頭を下げてから通り過ぎていった。
 道行く人間に挨拶する……のは、御子と弥生にとって当たり前の礼儀だから、2人は当然のように頭を下げたのだが。
「……弥生、今の人知ってるの?」
 と、通り過ぎた尚斗の父の背中を見送りながら世羽子が尋ねる。
「ううん?」
 と首を振り、弥生は御子を見る。
「いいえ、知らない方です」
 と、御子も首を振った。
「……」
「……世羽子?」
 遠ざかっていく背中からふっと視線を逸らし、世羽子は2人に向かって首を振った。
「気にしないで…」
「そ、そう…?」
 弥生はちょっと首を傾げつつも納得し……その一方で、御子は世羽子と尚斗の父親が歩き去った方角に交互に視線を向け、世羽子に向かって口を開きかけ、そのまま黙った。
「じゃあ、御子…私達は行くから」
「はい…ありがとうございました、秋谷先輩」
 頭を下げる御子に見送られ……弥生と世羽子は、尚斗の父親とは逆方向に歩き出す。
「世羽子、わざわざありがとう」
「だから、ほとんど通り道でしょ…」
「親しき仲にも…よ」
「はいはい…」
 と、ため息をつく世羽子……ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、さっき妹さんが言ってた香月先輩っていうのは…?」
「ああ、御子が運び込まれたとき保健室に居合わせた人……というか、九条家とちょっと関わりがある茶道の家筋の人なの」
「ふうん…」
「冴子さんって言って3年生。私は顔見知り……の程度だけど、御子は割とつき合いがあったみたい。昨夜、色々と話を聞いて、すぐにお礼を……と思いこんだみたいで」
「……」
「私も御子からのまた聞きだけど、御子を運び込んだときに、すごい勢いだったらしいわ……なんか、滅多なことでは慌てない、みたいなイメージを持ってたんだけど」
「……そう」
「……世羽子?」
「別に、なんでも…」
 すっと、世羽子が歩調を早め……弥生がそれについていこうとすると、自然と口数が少なくなる。
「よ、世羽子…ちょっと速くない?」
「寒いから」
「…それもそうね」
 と、それで納得したのか、弥生は口を閉じて歩くことに専念した。
 
 さて、2年と3年については男女半々の混合クラスが4つに、女子生徒だけの女クラが2つだが、1年生に限っては男子校の生徒が3クラス相当のため、混合クラスが6つに、女クラが1つ……の、構成となっている。
 これまで何度も述べたように、女クラの生徒は女子校にとって重要なお客様が大半を占めており、女クラが1つしかない1年の場合……九条家の息女である御子と、結花は当然のように同じクラスとなっていた。
 身長こそ学年で……いや、学校全体で1,2を争う結花と御子だが、前者に比べて後者が3センチ程大きい。
 もちろん、争っているのは身長ぐらいのモノで……勉強、運動能力については比べるまでもなく結花が大きく勝っている。
 誰からも頼りにされる結花に対して、御子はいつも引いた場所で、人知れず教室に花を飾ったり……と、今さらそれはくどくど述べるまでもないことか。
 そんな対照的な2人であったが……今朝は2人して、何か考えに沈んでいるようで。
「……」
 自分の席に座って頭の上に手をのせたまま……何か考え込んでいるのは御子。
 頭を撫でられることは慣れていた……というか、弥生とは年の離れた姉妹と思われることが多く。
 九条家を訪れたお客様……あまり親しく付き合っていない人ほどその傾向があるが、挨拶する御子の頭を……以下略。
 子供扱いされても仕方がない……しかも、比べられる対象が弥生なのだから…と、御子はごく当たり前のように、頭を撫でられるという評価を受け入れ、特に反発も喜びも感じなかった。
 でも……。
 あの人がしてくれたように……それを再現するように、自分で自分の頭を撫でる。それを眺めるクラスの女子数人が、和んだ微笑みを浮かべていたりするのだが、御子はそれに気づかない。
「(……あれは、なんだったのでしょう?)」
 ひどく懐かしいような、それでいながらちょっとだけ哀しいような……胸の中がぽっと暖かくなる……不思議な感覚。
 御子は、実の両親を知らない……物心ついたときにはもう、弥生が姉で、義母が母で、義父が父だった。
 それを知らされたのは御子が5歳の時……ごく普通の感覚から言うとそれは早すぎる、と感じるだろう。
 が、そこは九条家である。
 特に何歳からなどと決められてはいないが、弥生が華道の稽古を開始したのは3歳になる直前である。
 母や父が、もしくは内弟子の一人が稽古を付けるのを部屋の隅で正座したまま数時間も、ただじっと見ていなさい、と言いつけられるままに背筋を伸ばして見続けることを1年続けることから修行は始まる。
 ちなみに、弥生の見学が2ヶ月に達した頃のことだが……ちょうど弥生の母が少し席を外して、弟子がここからどう活ければいいか……と悩んでいるのを見ると、弥生は弟子の袖をすっと引き、こうすれば良いのです……とでもいうように、手本を示して見せ、またそれが目を引くような出来映えであった。
 もちろん、戻ってきた母は弟子からそれを聞き、また手を加えた作品を見た上できつく叱りつけ、弥生もまた、『出過ぎた真似をしました』…と3歳とは思えぬ言葉で素直に罰を受けたものだから、その出来事は弟子から弟子へと語り継がれ、半ば伝説化していたりする。
 そんな弥生を娘にもった母もまたひとかどの人物であるから……大抵の人間は自分を基準にモノを考えてしまうゆえ……5歳にしてそれを告げるという事になったのだろう。
 ちなみに、弥生がそれを知ったのはそれよりずっと後のことになる。
 それはそうと、ふとした拍子で他人の口からそれを聞くより……という考えはわからないでもないが、人それぞれの資質というモノがある。
 ある程度の自我が芽生えた上の話ならまだしも、その前に自分の存在を揺らがす話を聞かされては……肝心の、自我を芽生えさせるための土台づくりが難しくなる。
 御子にとっての悲劇は……御子の、というより人間が当たり前に持つ弱さを、父も母も弥生も本当の意味で理解できないところにあった。
『御子さん…あなたを産んだ人は私の幼なじみで、子供の頃は…いえ、大きくなるまで一緒に稽古していたのですよ』
 懐かしげにそう告げた義母の目から、つうっと涙が流れ……言葉よりも先に、母がこの世の人ではないということを御子は悟った……。
 聞けば話してくれるのかも知れないが、義父、義母、そして姉である弥生の優しさをいたいほどに感じるだけに、御子としてはそれを聞けなかった。
 自分は満たされている……それはわかっていた。
 しかし……と、御子は思うのだ。
 義母の幼なじみで、一緒に稽古した。それもおそらくは九条流で……それはすなわち、子供の頃から稽古事に通うだけの家柄であるはずで。
 父も母も死んだ……じゃあ、祖父は?祖母は?叔父は?叔母は?
 自分は……父や母の親戚から引き取ることを拒否された……そうなのですか?
 そんな御子の叫びは外に向かって発せられることもなく、ただ中へ中へ……自分の心の中の深い穴を掘り返すように。
 義母も、義父も……中でも、弥生のことが大好きで、尊敬していて……それとは別の割り切れない思い。
「…ありさき、なおと…さん」
 ぽつりと呟く。
 あの時感じた暖かな気持ちが甦る。
 自分でもばかげているとわかっていながら……ひょっとして、父や母に何か関わりがある人なのでは……そんな思いを胸に、御子はまた後で尚斗に会いに行こうと決めたのだった。
 
 さてその一方で。
 結花は自分の席ではなく、廊下の側の教室の後にもたれる格好で、小学6年生だった頃の……4年前の、初めて世羽子と出会った時の事を思い浮かべていた。
 あの日は良く晴れた、10月の、月曜日のことだったか。
 教師に許可を貰って、結花は郵便局にいた……初等部校舎は幼年部と同じ敷地内にあり、大学のキャンパスとは隣り合っている。
 中等部と高等部の校舎は、これまで何度か触れたが、尚斗や麻理絵が住む地区にあって、この2つは遠く離れて……と言っても、電車で一時間程度のモノだが。
 まだ実現してはいないが、以前から中等部を全寮制にしようという動きがあり……中等、高等部の新校舎建設は、その計画の一環であり……少し話がそれたようだ、元に戻そう。
 平日の午前中はこんなモノなのか、それとも何か事情でもあったのか、それほど大きくもない郵便局の中は割と混んでいた。
 番号札を発行する機械が現在10人待ちであることを示し、2台のキャッシュディスペンサーにはそれぞれ2人ほどが順番を待っている。
 ぱんっ。
 多分、それをきちんと認識した人間はほとんどいなかったのではないか。もちろん、結花自身もわからなかった。
 そしてもう一度。
 少し時間の流れが緩やかになったような不思議な感覚の中で、結花は拳銃を持った2人組の男に視線を向け……拳銃の音って、カタカナじゃなくて、ひらがなっぽいですねなどと考えた。
 客があげかけた悲鳴……は、再びの発砲と『静かにしろっ!』の怒声がかき消した……が、まだ事態を認識できてないのか、窓口で札を数える格好のまま、おばさんが一人ぽかんと口を開けていうのが目に留まる。
 落ち着いているのか、ただ単にパニックに陥った際の防御反応が働いているのか、結花は冷静だった。
 男2人のうちの一人が拳銃を見せびらかすように窓口に詰め寄り、もう一人がこいつは手頃だと判断したのか自分の身体を抱き寄せるようにして拳銃を突きつけたときも、正しくそれを認識していた。
 強盗である2人も含めて、郵便局の中にいる人間は通常の精神状態ではなかった……もちろん、結花にしたって冷静ではあったが、普通ではなかった。
 しかし……結花は、何故かそれに気がついた。
 キャッシュディスペンサーの順番待ちをしていた……すらっと背が高く、光沢のある黒髪を腰まで伸ばした女性が、早くお金をおろしたいんだけどという感じに、ため息をついたのだ。
 そして、肩をすくめ、くるりと振り返る。
 平日だし、大学生か……と結花は思った。
『動くなっ!』
 金の準備をしている局員の他は、誰もが息を殺し、首をすくめていたのだ……当然目立つ。
 強盗の怒声に誰もがビクッと身体を震わせる中で、彼女だけが平然と……そして、結花に向かって、安心しなさいとでも言うかのように微笑んだ。
 それで……何故か、結花は安心できたのだった。
 怪我人が出ることもなく……強盗2人は除く……『小包用のガムテープください』と局員から受け取ったテープで、両肩を外された男2人を手早く縛りあげ、男の持っていた拳銃2丁を触らないように指示し、『悪いけど急いでるから代わってくれませんか』と、キャッシュディスペンサーでお金をおろし、そのまま出ていこうとしたところで、それまで呆気にとられていた局員の一人が声をかけた。
『す、すみません、警察が来るまでいてください』
 と、女性はさっきと同じようなため息をつき。
 親子ほども年の離れた局員は『これから、彼とデートなの。既に犯人も捕まった事件の、警察の現場検証とデート、どっちが大事?』……と詰め寄られたものだから『デートです』と答えざるをえず。(笑)
 あ、この人本気で警察を無視してデートに行くつもりだ……と悟り、結花は慌てて女性の側へとかけより、『ありがとうございました』と頭を下げた。
 その頭をぽんっと叩いて。
『一番落ち着いてたわね、あなた』
 と、心に残る微笑みと共に消えた……後で、あの局員はもちろんその場にいた人間全員が警察に怒られたのは余談だが。
 結花にとって忘れようにも忘れられない出会いだったが、次の出会いはそれから1年以上後になる……世羽子が1つ年上と知り深く激しく落ち込んだそれは…。
 と、そこまで記憶をたどったところで、結花の目が宮坂の姿をとらえた……窓の上から下へ。(笑)
「……」
 そのまま10秒ほど何も考えられずにいたのだが。
「……チョコレートパン、買いに行かなきゃ」
 と、教室を出ていったのだった……ある種の逃避行動とも言うが。
 
「おはようございます」
「あら、おはよう」
 購買のおばさんがにっこりと微笑んで。
「どうしたの、今日は早いのね」
「はい、ちょっと用事がありまして……それで、えっと、チョコレートパンを」
「おや、珍しい…」
 この購買でチョコレートパンは不人気商品……以前に、結花が好んで買うのはメロンパンという認識を持っていたせいもあるだろう。
「2個…じゃなくて、5個ください」
 おばさんはちょっとびっくりしたような顔をして、念を押した。
「5個…でいいのかい?」
「はい」
 
「……本気ね、澄香」
 1時間目が終わってから学校に現れた、高校からの腐れ縁(笑)の澄香を見つめ、紗智は渡された新作……中身は言うまでもない……を手にとった。
 麻理絵の友人として、尚斗の登場はもう少し遠慮した方が……という気持ちは嘘偽りなく確かなモノだが、それとこれとは話が別であった。
「いいわね、彼……知れば知るほどゾクゾク来るわ」
 また徹夜明けなのか、澄香の目はちょっと赤く……それ以上に妖しい光をたたえて。
「何でも彼、例の青山家からはつまはじきにされてるって話じゃない……きっと、くじけそうになる心を隠して、虚勢を張った生き方を強いられているに違いないわ」
「……そうかしら?」
 紗智の本能がそれは間違いだと告げている……が、澄香の腐変換を訂正することは、作品の勢いを殺すことになる。
 ここは、現実において害が出ない限り、野放しにするのが正しい編集者の心得と言えよう。
 と、いうか……昨日今日の話で、どうやって青山のことを調べたのか。
 紗智の脳裏に当然の疑問が浮かぶ……さて、教室の片隅で宮坂が口にくわえたチョコパンは、果たして誰からの報酬なのか。(笑)
「……じゃあ、早速」
「だから、書いた本人の目の前で読まないでって言ってるでしょ」
「そういうものなの?」
「そういうものなのっ」
「じゃあ、また後で…」
「よろしく……というか、データにしてあるから適当に回して」
 と、澄香が差し出すディスクを受け取り、紗智はもうすぐ2時間目の授業が始まるというのにパソコン教室へとダッシュ。
「……ふふ、ふふ」
 自分の席に座り、妙な含み笑いをしながら、青山の背中を見つめる澄香…は、もちろん、女子高生徒の中では異質の存在に含まれる。
『あの人…なんかおかしくない?』
 普段はともかく、ひとたび執筆を始めるや奇行が目立つ……ため、あまり近寄りたくない者がほとんど。
 もちろん、あの人と知り合いなの……という風に見られるのを避けるためだ。
 しかし、その道に一歩足を踏み入れた連中にとっては、澄香の作品はなんとも心ひかれるモノらしく……早い話、澄香の作品を紗智がそういった連中に回し、感想を集めて澄香へ伝え、それがまたフィードバックされる、という形を取っているのだ。
 まあ、紗智と澄香が所属するパソコン部の部員(総勢14名)の大半は……以下略。
 さて、これだけを見るなら澄香がこの道に足を突っ込んでから長い……と感じるかも知れないが、実はこの畠本澄香、高校デビューだったりする。
 パソコン部の先輩に押しつけられた文庫の裏のあらすじを読んで『…先輩、私今まで読解力がある方だと思っていたんですが、このあらすじの意味が分かりません』などと、可愛いことを言ってたのも束の間、半年ほどで剛の者になり、さらに半年経って……『自分で書いた方がマシっ』などと、自ら執筆活動を始め……今に至る。
 来年、卒業間近になってデビューを果たすことになるのだが……もちろん、今の澄香はそんなことを知るはずもない。
 深く深く、今は情熱のままに……それが、畠本澄香17歳の冬。
 
「珍しいわね」
「すみません…あまり、話しかけられたくないのはわかってるんですが」
 そう言った結花を見て、世羽子はちょっと笑った。
「……そのあたりの分別があると思ったから携帯の番号を教えたのよ」
「すみません」
「そういう意味じゃないわ……何かあったのって意味」
「……」
「……難しい話?」
 何か面倒なことがあり、結花が切り出せずにいた……と思った世羽子だったのだが、その時の結花の心境はというと。
「(……しまった、考えてなかったです)」
 そう、とりあえず世羽子に会って、例の報告書の件が真実か否か……を確かめようと思っていたのだが、いざとなると話の切り出しようがないことに気づいたのである。
 『秋谷先輩は、有崎さんと付き合ってたんですか?』
 などと直接聞けるはずもなく。
 今付き合ってないのは確かだろうし……だとすると、別れた理由によっては世羽子に不快感を与えてしまうだろうし、そこまで突っ込んだ話が聞きたいわけでもない。
 とにかく、世羽子が自分の意に添わぬ相手と付き合う等と言うことはあり得ず、世羽子と付き合っていたならば、それは自動的に世羽子の眼鏡にかなうだけの人物である事を意味するわけで。
 世羽子も一目置く、結花の頭脳がフル回転。
「(…これ…しかないですか)」
 口にする決心が付きました……という表情を浮かべ。
「あの、有崎尚斗…という人をご存じですか?」
「…どういう意味かしら?」
「(う……知り合いなのは間違いなさそうですけど…?)」
 などと、心の動揺を顔には出さず。
「いえ、ちょっと知り合ったというか…関わりになったんですが」
「…それで?」
 噴火する直前の火山……を思い浮かべつつ、結花は言葉を続けた。
「この近所に住んでるみたいですし、ひょっとしたら秋谷先輩が通っていたのと同じ中学だったんじゃないか…と思いまして」
「……まあ、ここには同じ中学の生徒もいないしね」
 ため息混じりに世羽子が呟いたのを聞いて、結花は心の中でほっとため息をついた。
 世羽子という人間を深く信用していると同時に、人間嫌いというか……気むずかしい部分や、恐ろしさをも結花はよくわきまえている。
 世羽子はしばらく沈思し……ふっと、優しい視線を結花に向けた。
「何か、困っていることがあるのね?」
「え?」
「尚斗と知り合うって事は……自覚がなくても多分そういうこと」
 と、そう言った世羽子の目に突如怒りが現れたものだから、結花は慌てた……が、世羽子は首を振った。
「気にしないで、あなたを怒っているわけじゃないの」
「(だとすると……有崎さんが、怒らせているわけですか…命知らずな)」
 と、すると……世羽子と付き合っていたという話は?
「尚斗に任せなさい」
「…え」
 世羽子は目に複雑な感情を浮かべていて。
「入谷さんには難しいかも知れないけど、尚斗を無理に拒絶しないで、普通にしてなさい……きっとうまくいくわ」
「あ、あの…」
「一言で言うと、お節介なのよ」
「いえ、えっと…」
 世羽子はちょっと視線を背け。
「前に付き合ってたし、あれ以上に信用できる人間は知らないわ……これでいい?」
 その言葉を残した世羽子の後ろ姿に向かって、おそれいりました……と、結花は深々と頭を下げるのだった。
 
「あ、あの…」
「あら」「おや…?」
 保健室の戸を開けて現れた御子に、冴子と水無月の視線が向いて。
「もう、大丈夫か身体は?」
「はい」
 御子はゆっくりと頭を下げて。
「先日は、色々とご迷惑を…」
「仕事だ」「まあ、成り行きだし」
 味も素っ気もない2人の返答に、御子は柔らかく微笑んだ。
「本当に、ありがとうございました」
 再び、深々と頭を下げる御子に、水無月がちょっと照れたように視線を逸らし。
「それで、何か別の用事があるようだけど?」
 冴子は、マイペースに水を向けた。
「あ、その…」
 いざそれを切り出そうとして、御子は頬を染めて俯いた。
 尚斗が女子生徒……というならともかく、男子生徒のことを聞くのは、ちょっとばかりはしたない行為としか、御子には思えないわけで。
「……クラス編成なら、掲示板にまだ貼ってあったんじゃないかしら?」
「あ…」
 御子はぱっと顔を上げたが……さっき以上に顔を赤らめて俯いた。
「あ、あああ、ありがとうございました…」
 恥ずかしさに頭もあげられなかったのか、そのまま後ろ向きに御子が保健室を出ていった後……水無月が冴子に視線を向けた。
「通訳」
「あの日助けてもらった有崎君にお礼を言いたいけど、どこにいるかわからない……ってとこじゃないですか?」
「……姉に、名前は伝えたぞ?」
「名前だけじゃ、現在地のわからない地図みたいなモノですよ水無月センセ。教室を1つ1つ回って聞いていく……なんて、できる娘じゃありませんから」
「そりゃ……初々しいことで」
 どこか懐かしげに呟く水無月。
「センセだって、若い頃は…」
「アタシはまだ若いっ!」
「お茶入れますね、水無月センセ」
 水無月の怒りをさらりとかわし、冴子はお茶の用意を始めた。
「……香月は、卒業できるのか?」
「保健室で授業を受けてるってことになってますから……一応、成績は上位ですし」
「そうか……」
 安堵の、ではなく後悔のため息。
「すみませんね、水無月センセ」
「何で香月が謝る?」
「理由もなく謝ったりはしませんよ、センセ」
 と、冴子は水無月の前に湯飲みを置いた。
 
「えっと、聡美ちゃんからの伝言だけど、5限の授業が終わったら部室に集まってって」
「……」
 温子の言葉に、弥生はちょっと俯いた。
「放課後じゃなくて、5限が終わったら……なのね?」
 と、それを予期していたのか……静かな口調で世羽子。
「うん、休み時間で…」
 昼休みでもなく、放課後でもない……それは、長い話にはならないと言う意味に違いなく。
「えっと…世羽子ちゃん?」
「ありがと、温子」
「えっ?」
 礼を言われ、反対に温子は狼狽えた。
「聡美が、一緒に昼食をとらなくなってから…ずっと、相談に乗ってあげてくれたんでしょ」
「あ、いや…その…そうだけど」
「温子がいてくれて助かったわ……弥生はともかく、元々私はちょっと聡美に避けられてたふしがあるし」
 友人として、またバンドの仲間として礼儀正しく温子は沈黙を貫く。
「むう、私は頼りがいがないって事なのね…」
「いや、そういうわけじゃ…」
 ちょっと拗ねた感じの弥生をなだめようと温子が口を開…。
「家出してる人間が、他人の相談もないでしょう」
「……その通りです」
 ぴしゃりとやりつけられて弥生が俯き……温子は、心の中で『世羽子ちゃん、それフォロー違う』と、ツッコミをいれる。
「……」
 世羽子は無言で箸を動かし、弥生はただうなだれ……そんな沈黙に耐えきれなくなった温子が口を開いた。
「そ、そういえば……世羽子ちゃんは、何でバンド始めたの?」
「私には聞かないの、温子?」
「聡美ちゃんから聞いたもん」
 と、温子が微笑む。
「弥生ちゃん、イヤホンも知らなかったんだって?」
「しっ、仕方ないでしょっ!テレビもろくに見られない家なんだから」
「『あ、あの…耳が不自由なのですか?』って、いつの時代の人間なのよって話で…」
「誰とも喋らず、耳に何か付けてたら補聴器かしらって思うのが自然でしょっ!?」
「ちょっと待って」
 エキサイトしかけた温子と弥生に割ってはいる形で世羽子。
「弥生、聡美にそれ話したの?」
「えっ……言われてみると、記憶にない…わね?」
「なるほど……」
 何か自分は余計なことを喋ったのでは……と思いつつ、温子が世羽子に視線を向けた。
「えっと?」
「……私が弥生に話しかけられたとき、目に見える範囲では誰もいなかったから」
「そ、そうよ…誰もいなかったから、私、世羽子に話しかけたのに…?」
「ふ、ふーん……じゃあ、弥生ちゃんがいなかったら、聡美ちゃんがそうしてたのかもね…」
 と、温子は敢えて世羽子の顔を見つめ。
「で、話が逸れたけど…世羽子ちゃんは何でバンドを?」
「そういえば、聞いたことなかったわね」
 と続ける弥生に、温子が心の中で『ナイス弥生ちゃん』と歓声を上げる。
「何故と言われても…元々音楽は好きだったし」
 あまりこだわりもなかったのか、それとも聡美の話題を敢えて避けたのか……世羽子が素直にそれを受けた。
「青中…ここにくるまでいた中学だけど、3年になるまで生徒は全員何らかのクラブに入ることってのが義務づけられていて、まあ、最初はバレー部に入ったの」
「へえ…」
 世羽子の昔話自体が珍しいものだから、温子と弥生は相槌をうった。
「で、なんというか……まあ、その…しばらくして、いられなくなったのよ」
「は?」
 温子はそこで何となくいやな予感を覚えてためらったのだが、弥生が『どうして?』という表情と口調で続きを促す。
「『私と一緒のクラブはイヤ…』と、部員全員が言い出して、まあ、全員やめるぐらいなら私一人がやめればいいわけで……でも、クラブにはいるのは義務なのよ。だから他のクラブに入ろうと思ったんだけど…」
「ごめん、世羽子ちゃん。もういいから」
 と、温子が首を振ると、世羽子はちょっと頷いて。
「……まあ、色々あってそれまでなかった新しいクラブを作ったの。それが、軽音部」
「な、なるほど…」
 と、これでこの話は終了……と、温子が頷いたのだが。
「で、でも、メンバーは4人いたわけでしょ?」
 フォローのつもりか、弥生がそれを引き戻し。
「え?4人じゃなくて3人…じゃなくて、4人、4人よ」
 珍しく、どこか慌てたように世羽子が言うのを聞きながら……温子は考えた。
 世羽子ちゃんと一緒のクラブでもいいと思った音楽好きが他に3人集まったのか、それとも……世羽子ちゃんみたいに、どのクラブにも拒否された人間があと3人いたのか。
 もし後者なら……一体どんなクラブだったのか?
 ちょっとばかり怖い考えになったので、温子は頭を振ってそれを追い払った。
 そりゃ、怖いことは怖いけど…そこまで拒絶することはないよね。
 と、世羽子を見つめる温子だったが……『当時の秋谷と今の秋谷を同じに考えるな』と、青山ならば口にしたかも知れない。
 
 
 
                  完
 
 
 さて、畠本澄香にモデルはいません。
 そうか、2周目からはタイトルとは別に日付をしておけば、話数をあわせる必要がなかったのか……今さらですね。(笑)

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